## Ⅰ

<ruby><rb>山根謙作</rb><rt>やまねけんさく</rt></ruby>は<ruby><rb>三</rb><rt>さん</rt></ruby>の<ruby><rb>宮</rb><rt>みや</rt></ruby>の停留場を出て海岸のほうへ歩いていた。謙作がこの土地へ足を入れたのは二度目であったが、すこしもかってが判らなかった。それは十四年前、そこの汽船会社にいる先輩を尋ねて、東京から来た時に二週間ばかりいるにはいたが、すぐ<ruby><rb>支那</rb><rt>しな</rt></ruby>の方へ往ってその<ruby><rb>年</rb><rt>ねん</rt></ruby>まで内地に帰って来なかったので、うっすらした<ruby><rb>輪廓</rb><rt>りんかく</rt></ruby>が残っているだけであった。

謙作は台湾で雑貨店をやっていた。汽船会社の先輩の世話で<ruby><rb>上海</rb><rt>シャンハイ</rt></ruby>航路の汽船の事務員になって、上海へ往く途中で病気になり、その汽船会社と関係のある上海の病院に入院中、福岡県出身の男と<ruby><rb>知己</rb><rt>しりあい</rt></ruby>になって、いっしょに<ruby><rb>広東</rb><rt>カントン</rt></ruby>へ往き、それから台湾へわたって、あっちこっちしているうちに、今の店を独力で経営するようになって、<ruby><rb>細君</rb><rt>さいくん</rt></ruby>も出来、小供も出来て、すこしは金の自由も<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>くようになったので、商用をかたがけて<ruby><rb>墓参</rb><rt>ぼさん</rt></ruby>に帰って来たところであった。

空気は冷たかったが<ruby><rb>静</rb><rt>しずか</rt></ruby>な<ruby><rb>煙</rb><rt>けむ</rt></ruby>ったように見える日で、<ruby><rb>輝</rb><rt>かがやき</rt></ruby>のない夕陽がそのまわりをほっかりと照らしていた。彼は気が<ruby><rb>注</rb><rt>つ</rt></ruby>いてその<ruby><rb>陽</rb><rt>ひ</rt></ruby>の光にやった眼をすぐそこの建物にやった。青いペンキの<ruby><rb>剥</rb><rt>は</rt></ruby>げかかった木造の二階建になった長い長い洋館で、下にはたくさんの食糧品を売る店がごたごたと入口を見せていた。<ruby><rb>生</rb><rt>なま</rt></ruby>のままの肉やロースにしたのや、さまざまの<ruby><rb>獣肉</rb><rt>じゅうにく</rt></ruby>を<ruby><rb>店頭</rb><rt>みせさき</rt></ruby>に<ruby><rb>吊</rb><rt>つる</rt></ruby>した処には、二人の<ruby><rb>壮</rb><rt>わか</rt></ruby>い男がいて<ruby><rb>庖丁</rb><rt>ほうちょう</rt></ruby>で何かちょきちょきと刻んでいた。そこには三四人の客がいたが、その一人は<ruby><rb>耳輪</rb><rt>みみわ</rt></ruby>をした<ruby><rb>支那</rb><rt>しな</rt></ruby>人の老婆で、それは孫であろう五つばかりの女の子の手を握っていた。<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>く見ると老婆の右側に並んでいるのも、耳輪をした壮い支那の婦人であった。壮い婦人の右側には<ruby><rb>白痘痕</rb><rt>しろあばた</rt></ruby>のある労働者のような支那人が立っていた。

彼はふとここは支那人<ruby><rb>街</rb><rt>まち</rt></ruby>だなと思った。彼はそう思いながらあたりに眼をやった。そこは狭い黒ずんだ<ruby><rb>街路</rb><rt>とおり</rt></ruby>になっていて、一方にも食糧品を売る店がごたごたと並んで、支那人がおもにそこを往来していた。大きな<ruby><rb>酒瓶</rb><rt>さけびん</rt></ruby>のような物を並べた店も、野菜を並べた店も、<ruby><rb>乾</rb><rt>ほ</rt></ruby>して蛇とも魚とも判らない物や、また<ruby><rb>芋</rb><rt>いも</rt></ruby>とも木の根とも判らない物などを並べた店も眼に<ruby><rb>注</rb><rt>つ</rt></ruby>いた。その店さきのガラス戸や内の<ruby><rb>鴨居</rb><rt>かもい</rt></ruby>などには赤い<ruby><rb>短冊</rb><rt>たんざく</rt></ruby>のような<ruby><rb>紙片</rb><rt>しへん</rt></ruby>を貼ってあるのが見えた。それは謙作が見慣れている支那街の色彩であった。

謙作は酒のことを思いだした。そして内地に帰って来て一箇月ばかりの間に飲み<ruby><rb>馴染</rb><rt>なじ</rt></ruby>んでいた<ruby><rb>灘</rb><rt>なだ</rt></ruby>の酒に、いよいよ別れて往かなくてはならぬと云う軽いのこり惜しさを感じて来た。彼は六時<ruby><rb>出帆</rb><rt>しゅっぱん</rt></ruby>の船を待つ処をまだはっきりと<ruby><rb>定</rb><rt>き</rt></ruby>めていなかったので、すぐどこかで一杯やりながらそれを待とうと思いだした。彼は既に十里手前の町で船室を定め、一切の荷物も積んで、着たままの洋服に<ruby><rb>籐</rb><rt>とう</rt></ruby>のステッキ一本と云う身軽な自由な体になっていたので、身のまわりのことに<ruby><rb>就</rb><rt>つ</rt></ruby>いては気になることはなかった。彼はちょっと左の手をあげて手首に<ruby><rb>着</rb><rt>つ</rt></ruby>けている時計に眼をやった。時計は三時を過ぎたばかりであった。六時までにはまだ三時間ある、二時間はどこにゆっくりしていても<ruby><rb>宜</rb><rt>よ</rt></ruby>いと思った。彼はどこか入るに<ruby><rb>宜</rb><rt>よ</rt></ruby>い簡単な処はないかとむこうの方に眼をやった。すぐ右側に赤いポストの立っている処があって、そこから<ruby><rb>横街</rb><rt>よこちょう</rt></ruby>の入口が見え、そのむこう<ruby><rb>角</rb><rt>かど</rt></ruby>になった処に<ruby><rb>黄</rb><rt>きいろ</rt></ruby>な<ruby><rb>覆</rb><rt>おおい</rt></ruby>を垂らした洋食屋らしい店があった。

洋食ではいけない、なるべくなら日本料理が<ruby><rb>宜</rb><rt>い</rt></ruby>いが、日本料理はないだろうかと思った。しかし、それは絶対に洋食が<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>と云うでもなかった。彼は洋食と云っても魚のフライ位は出来るだろうと思った。彼はもうその洋食屋の前へ往っていた。

もうすこし<ruby><rb>前</rb><rt>さき</rt></ruby>へ往ってみたら何かあるかも判らないと思った。彼はちょと足を止めて、<ruby><rb>前</rb><rt>さき</rt></ruby>へ往こうか入ろうかと考えたが、ぐずぐずしていて時間が<ruby><rb>経</rb><rt>た</rt></ruby>ってはつまらないと思いだした。彼は横街の方から洋食屋へ往った。

<ruby><rb>磨</rb><rt>す</rt></ruby>りガラスの<ruby><rb>障子</rb><rt>しょうじ</rt></ruby>がすこし<ruby><rb>開</rb><rt>ひら</rt></ruby>きかけになっていた。もう夕方のように<ruby><rb>微暗</rb><rt>うすぐら</rt></ruby>い土間には七つか八つの円いテーブルが置いてあって、それに三人ばかりの客が別れ別れに腰をかけていた。謙作の眼はすぐ入口のテーブルに内の方を向いて腰をかけている、茶のぼろぼろになった洋服を着た日本人とも支那人とも判らないような男の横顔へ往った。右のむこうの隅には濃い髪を<ruby><rb>束髪</rb><rt>そくはつ</rt></ruby>にした女が<ruby><rb>錦紗</rb><rt>きんしゃ</rt></ruby>らしい<ruby><rb>羽織</rb><rt>はおり</rt></ruby>の<ruby><rb>背後姿</rb><rt>うしろすがた</rt></ruby>を見せて、前向きに腰をかけていたが、その束髪に<ruby><rb>挿</rb><rt>さ</rt></ruby>した<ruby><rb>櫛</rb><rt>くし</rt></ruby>の玉が蛇の眼のように暗い中にちろちろと光って見えた。

好い女がいるな、と謙作は男の<ruby><rb>何人</rb><rt>たれ</rt></ruby>でも思うようなことをちょと思い浮べながら、右側のテーブルへ往ってぼろぼろの洋服の男の横顔の見えるように、白く塗った板壁を背にして腰をかけた。<ruby><rb>壮</rb><rt>わか</rt></ruby>い<ruby><rb>女給</rb><rt>じょきゅう</rt></ruby>の一人がひらひらと<ruby><rb>蝶</rb><rt>ちょう</rt></ruby>のようにその前へやって来た。

「召しあがり物は」

謙作は<ruby><rb>籐</rb><rt>とう</rt></ruby>のステッキを右側の壁に立てかけていた。

「魚を<ruby><rb>喫</rb><rt>く</rt></ruby>いたいが、何か魚のフライでももらおうか、フライは何ができるかね」

「<ruby><rb>鯛</rb><rt>たい</rt></ruby>でも<ruby><rb>鰆</rb><rt>さわら</rt></ruby>でも、どっちでもできます、お<ruby><rb>魚軒</rb><rt>さしみ</rt></ruby>がお<ruby><rb>入用</rb><rt>いりよう</rt></ruby>なら、お魚軒もとれます」

謙作は嬉しかった。

「あ、あ、魚軒がとれる、これはありがたい、では、ね、<ruby><rb>姐</rb><rt>ねえ</rt></ruby>さん、その魚軒とフライをもらおうか」

「承知いたしました、<ruby><rb>御酒</rb><rt>ごしゅ</rt></ruby>も召しあがりまして」

「そうだ、その<ruby><rb>御酒</rb><rt>おさけ</rt></ruby>が第一の目的と云うところだ、これから<ruby><rb>復</rb><rt>ま</rt></ruby>た<ruby><rb>暫</rb><rt>しば</rt></ruby>らく飲めないことになるからね、船が出るまでには<ruby><rb>心遺</rb><rt>こころのこ</rt></ruby>りのないように、うんと本場の酒を飲んで置こうと云うところだ、好い奴を持っといで」

謙作は台湾の<ruby><rb>陽</rb><rt>ひ</rt></ruby>に焦げた肉の締った<ruby><rb>隻頬</rb><rt>かたほお</rt></ruby>に<ruby><rb>笑</rb><rt>わらい</rt></ruby>をちょと見せた。

「承知いたしました」

女も口元に笑いを見せてから引返して往った。謙作は<ruby><rb>宜</rb><rt>い</rt></ruby>い気もちになって<ruby><rb>衣兜</rb><rt>かくし</rt></ruby>から<ruby><rb>敷島</rb><rt>しきしま</rt></ruby>の袋を出し、その中から一本抜いて火を<ruby><rb>点</rb><rt>つ</rt></ruby>け、それをゆっくりと吸いながら、やるともなしにぼろぼろの洋服の男に眼をやった。

洋服の男は<ruby><rb>盃</rb><rt>さかずき</rt></ruby>を口のふちに持って往ったままで、とろりとした眼をしてなにか考えている<ruby><rb>容</rb><rt>ふう</rt></ruby>であった。その洋服の男の前のテーブルにも<ruby><rb>街路</rb><rt>とおり</rt></ruby>の方を背にして、鳥打帽を<ruby><rb>冠</rb><rt>き</rt></ruby>た<ruby><rb>筒袖</rb><rt>つつそで</rt></ruby>の店員のような<ruby><rb>壮</rb><rt>わか</rt></ruby>い男がナイフとホークを動かしていた。そこには女給の一人が傍の<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>に腰をかけて、その男と何か話していた。

謙作はふと女のことを思いだしたので右の方に眼をやった。女の束髪の<ruby><rb>櫛</rb><rt>くし</rt></ruby>からはやはり蛇の眼のようなちろちろした光が見えていたが、何か物を飲んでいるのかすこし体を<ruby><rb>反</rb><rt>そら</rt></ruby>して、右の手をちょと曲げていた。

「お待ちどおさま」

はじめの女給が<ruby><rb>銚子</rb><rt>ちょうし</rt></ruby>と盃を持って来て、もう盃を出していた。

「や、ありがとう」

謙作は<ruby><rb>煙草</rb><rt>たばこ</rt></ruby>の吸いさしを前の灰皿の中へ入れてから盃を持って女に<ruby><rb>酌</rb><rt>しゃく</rt></ruby>をしてもらった。

「すこしお<ruby><rb>温</rb><rt>ぬる</rt></ruby>いかも知れません、お温ければなおします、<ruby><rb>如何</rb><rt>いかが</rt></ruby>でございます」

<ruby><rb>燗</rb><rt>かん</rt></ruby>は飲みかげんであった。

「けっこう、けっこう」

「では、すぐお料理を持ってまいります」

女は銚子を置いてくるりと<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>向きになった。

「おい、酒だ」

洋服の男が右の<ruby><rb>指端</rb><rt>ゆびさき</rt></ruby>でテーブルの上を軽く<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>いた。謙作のテーブルから離れて往きかけた女が足を止めた。

「まだおあがりになります」

それは<ruby><rb>愛嬌</rb><rt>あいきょう</rt></ruby>のない聞く者をして反感を起させる<ruby><rb>詞</rb><rt>ことば</rt></ruby>であった。と、洋服の男のテーブルがどんと鳴った。

「おい、なにがまだだい、<ruby><rb>姐</rb><rt>ねえ</rt></ruby>さん、ばかにしちゃいかんよ、俺はお前さんのおしきせを飲んでるのじゃないよ、が、まあ、<ruby><rb>宜</rb><rt>い</rt></ruby>い、黙って酒を持って来た」

女は洋服の男の権幕に驚いたのかそのままむこうへ往った。

「あの<ruby><rb>玉</rb><rt>たま</rt></ruby>があってみろ」

洋服の男は独りでこんなことを云ってから、またテーブルの上を叩いて思いを遠くの方へ<ruby><rb>馳</rb><rt>は</rt></ruby>せるようにしたが、その拍子に<ruby><rb>隻方</rb><rt>かたほう</rt></ruby>の<ruby><rb>赤濁</rb><rt>あかにご</rt></ruby>りのした眼がちらと見えた。謙作は玉とはなんのことだろうと思って、考えてみたがさっぱり見当がつかなかった。

「お待ちどうさま」

女が<ruby><rb>魚軒</rb><rt>さしみ</rt></ruby>の皿とフライの皿を<ruby><rb>提</rb><rt>さ</rt></ruby>げて来ていた。

「あ、これは宜い、後をすぐ<ruby><rb>浸</rb><rt>つ</rt></ruby>けておくれ、すこし時間があって、ね、船に乗るところだからね」

「どちらへいらっしゃいます」

「台湾へ帰るところだよ」

「おや、台湾へ、それは大変でございますのね」

「あ、あ、ちょと<ruby><rb>途</rb><rt>みち</rt></ruby>が遠くってね」

謙作は<ruby><rb>魚軒</rb><rt>さしみ</rt></ruby>に添えた<ruby><rb>割箸</rb><rt>わりばし</rt></ruby>を裂いて、ツマの<ruby><rb>山葵</rb><rt>わさび</rt></ruby>を醤油の中へ入れた。

「台湾は<ruby><rb>宜</rb><rt>い</rt></ruby>いな、台湾にいたのですか」

それは洋服の男が<ruby><rb>己</rb><rt>じぶん</rt></ruby>の方へ向って云った<ruby><rb>詞</rb><rt>ことば</rt></ruby>であった。謙作は箸を控えて顔をあげた。洋服の男は<ruby><rb>赧黒</rb><rt>あかぐろ</rt></ruby>い細長い顔をこっちへ向けていた。

「そうです、もう十年あまり、むこうで商売をやってるのです」

「<ruby><rb>基隆</rb><rt>きいるん</rt></ruby>ですか、<ruby><rb>台中</rb><rt>たいちゅう</rt></ruby>ですか」

「台中です」

「そうですか、台湾は<ruby><rb>暢気</rb><rt>のんき</rt></ruby>で宜いのですなあ、私も台湾にすこしいたことがあるのです、私はシンガポールにも、バタビヤにも、広東にも、マニラにも、上海にも、<ruby><rb>南京</rb><rt>ナンキン</rt></ruby>にも、東洋の名高い港と云う港は渡り歩いてるのですがね」

「そうですか、私も上海と広東へは、ちょと往ったことがあります、何か御商売でも」と謙作は云ったものの、その男の<ruby><rb>風体</rb><rt>なり</rt></ruby>から押して<ruby><rb>漂泊癖</rb><rt>ひょうはくへき</rt></ruby>のある下級船員ののんだくれであろうと思った。

「なに風来坊ですがね、すこし探しているものがあるのですが、ね、しかし、もうだめです」

洋服の男はどろんとした手でまたテーブルの上をどんと打った。

「なんです、何か旨い<ruby><rb>儲</rb><rt>もう</rt></ruby>け口ですか」

謙作はそう云って魚軒を口にしながらその後で<ruby><rb>盃</rb><rt>さかずき</rt></ruby>を持った。

「そんなものじゃないのです、石です、へんな石ですがね」

謙作はふと洋服の男がさっきあの玉があってみろと云ったことを思いだして好奇心を動かした。

「そうですか」

そこへ女が<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>の銚子を持って来た。謙作は洋服の男が<ruby><rb>前</rb><rt>さき</rt></ruby>に酒を注文したことを思いだしたので、ちょと指を洋服の男の方へ差した。

「このお客さんが早かった、まあ、<ruby><rb>前</rb><rt>さき</rt></ruby>へあげておくれ、後で好い」

女はちょとへんな顔をしたが、そのまま黙って洋服の男の方へそれを持って往った。

「<ruby><rb>姐</rb><rt>ねえ</rt></ruby>さん、まあ、<ruby><rb>憤</rb><rt>おこ</rt></ruby>るなよ、お客さんの好意じゃ、俺にくれ」

洋服の男は<ruby><rb>嘲</rb><rt>あざけ</rt></ruby>るような笑いかたをして、女の置いた銚子をすぐ<ruby><rb>執</rb><rt>と</rt></ruby>って<ruby><rb>盃</rb><rt>さかずき</rt></ruby>に<ruby><rb>注</rb><rt>つ</rt></ruby>いだ。

「石ってなんです、宝石かなんかですか」

謙作は深入りしてはいけないと云う用心を一方に持ちながら<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いてみた。洋服の男はなんと思ったのか、口のふちにやっていた盃を急いでぐっと飲んで、下に置くなり<ruby><rb>起</rb><rt>た</rt></ruby>って来て、謙作の前の椅子を引寄せた。

「あなたに一つお話しましょう、すこし、へんな話しですが、聞いてくれるのですか」

そう云って洋服の男は腰をおろした。謙作は<ruby><rb>煩</rb><rt>うる</rt></ruby>さい話になっては困るなと思ったが、断るわけにもゆかないのでしかたなしに盃をだした。

「一つあげましょう」

洋服の男は<ruby><rb>隻手</rb><rt>かたて</rt></ruby>でそれを<ruby><rb>遮</rb><rt>さえぎ</rt></ruby>るようにした。

「いや、それは<ruby><rb>戴</rb><rt>いただ</rt></ruby>きません、そう云うことは煩さいことですから、いただきません、あなたはかまわずに飲んでください、私も飲みたくなったら、<ruby><rb>己</rb><rt>じぶん</rt></ruby>で執って来て飲みます」

「そうですか、では、あげますまいか」

「そうしてください、そうしていただくと私も自由で<ruby><rb>宜</rb><rt>い</rt></ruby>いのです」

「では、どうぞ御自由に」

謙作はその<ruby><rb>盃</rb><rt>さかずき</rt></ruby>に己で酒を<ruby><rb>注</rb><rt>つ</rt></ruby>いで飲みながら洋服の男の云いだす話を待っていた。

「それじゃ、これからお話しますがね、すこしへんな話ですよ、アインスタインだの、なんだのと云う今の世の中に、ちょっと変った話ですからね」

「まあ、まあ話してください」

「では話しますが、ね、私の生れた処は申しますまい、私は支那におれば、支那の<ruby><rb>詞</rb><rt>ことば</rt></ruby>を<ruby><rb>遣</rb><rt>つか</rt></ruby>います、ジャワにおれば、ジャワの詞をつかいます、私がどこの者であるかは、あなたの推測にまかせますが、私の家はその土地でも有数な<ruby><rb>富豪</rb><rt>かねもち</rt></ruby>で、父には七人の<ruby><rb>妾</rb><rt>めかけ</rt></ruby>があったのです、私は他の兄弟もない<ruby><rb>独</rb><rt>ひと</rt></ruby>り<ruby><rb>児</rb><rt>ご</rt></ruby>のことでしたから、非常に父からも母からも可愛がられていたのです、教育もフランス人とイタリヤ人の二人の教師を家へ呼んで、それからひととおりのことを教わったのですが、私には、みょうに<ruby><rb>奇</rb><rt>き</rt></ruby>を好む性癖がありまして、今でしたら飛行機にも乗ったでしょう、珍らしい遊戯とか、<ruby><rb>興業物</rb><rt>こうぎょうもの</rt></ruby>とかがあると、金にあかしてそれを教わったものです、その結果、私は<ruby><rb>印度</rb><rt>インド</rt></ruby>から来た女奇術師の一座を<ruby><rb>暫</rb><rt>しば</rt></ruby>らく別荘へ置いて、それからいろいろな奇術を教わったのです、石を投げると、それが<ruby><rb>鳩</rb><rt>はと</rt></ruby>になって飛んだり、ステッキを地べたへ置くと、それが蛇になって<ruby><rb>這</rb><rt>は</rt></ruby>ったり、帽子の中から犬を出したり、皆、ちゃんと仕掛けがあって、教わってみればつまらないものですが、見ている者が感心するので、それがばかに面白くって、時どき裏庭へ隣の人や<ruby><rb>朋友</rb><rt>ともだち</rt></ruby>を入れて、それに見せてやったのです、そうです、ね、そのとき、私は十七でしたよ、お話の<ruby><rb>眼目</rb><rt>がんもく</rt></ruby>はこれからですが、どうか、さあ、私にかまわずに、あなたは飲んでください」

洋服の男はそう云って思いだしたように<ruby><rb>双手</rb><rt>りょうて</rt></ruby>を<ruby><rb>兜衣</rb><rt>かくし</rt></ruby>に入れた。

「ああ」

謙作は<ruby><rb>頷</rb><rt>うな</rt></ruby>ずいてみせた。洋服の男は一本の葉巻とマッチをだして、面倒くさそうに火を<ruby><rb>点</rb><rt>つ</rt></ruby>けた。

「事件はこれからですが、ね、ある日、それは夏でしたね、私の裏庭には、一本の大きな<ruby><rb>棗</rb><rt>なつめ</rt></ruby>の木があって、それに棗の実がいっぱいに<ruby><rb>実</rb><rt>みの</rt></ruby>っていたのです。私はその棗の木の下へ仕掛けのある箱を置いて、二つ三つ得意の奇術をやり、それから石を投げて<ruby><rb>鳩</rb><rt>はと</rt></ruby>にして飛ばしたところで、

（ふうう）

とさもおかしくてたまらないと云うような<ruby><rb>嘲</rb><rt>あざけ</rt></ruby>り笑いをする者もあるのです、私は<ruby><rb>怪</rb><rt>け</rt></ruby>しからん奴だと思って、見ると赤い帽子を<ruby><rb>著</rb><rt>き</rt></ruby>た、<ruby><rb>顎髯</rb><rt>あごひげ</rt></ruby>の白い、それもまばらに<ruby><rb>生</rb><rt>は</rt></ruby>えた老人が笑ってるのです、私は後の<ruby><rb>詞</rb><rt>ことば</rt></ruby>によっては、<ruby><rb>撲</rb><rt>なぐ</rt></ruby>り倒してやろうと思って、その顔を<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>みつめると、

（若旦那、そんな小供のするような奇術は駄目ですよ、私の奇術を見せましょうか）

と云うのじゃないですか、私は腹が立つし、種も仕掛けもない手ぶらの老人が、気の利いたことができるものか、何かやらして、気の利いたことができなかったら、<ruby><rb>大</rb><rt>おおい</rt></ruby>にとっちめてやろうと思ったので、

（そうか、では、やってもらおう、お前さんは、どんなことができるのだ）

と云うと、老人はにやにや笑って、

（若旦那、私にはなんでもできますよ、私は若旦那を<ruby><rb>猿</rb><rt>さる</rt></ruby>にしろとおっしゃれば、ほんとうに猿にしてみせますよ、しかし、まあ、それよりも、一ばん早いところをお眼にかけましょう、若旦那、その大きな<ruby><rb>棗</rb><rt>なつめ</rt></ruby>の木を枯らしてみましょうか）

と云うのです、いくら奇術が<ruby><rb>巧</rb><rt>うま</rt></ruby>いからと云って、<ruby><rb>立木</rb><rt>たちき</rt></ruby>が枯らされるものでない、私は老人がでたらめを云って、私を笑わせて銭でももらおうとしているのだな、と思ったので、ますます腹が立って、

（よけいなことを云わずに、この棗の木が枯らされるなら、枯らしてもらおう）

と云いますと、老人は十字架をかけたように首にかけていたプラチナの鎖をはずして、その鎖に附けてあった小さな袋を出し、それを右の手の<ruby><rb>掌</rb><rt>てのひら</rt></ruby>に握ってから、

（それ、すぐ枯れますよ）

と云って、その手を上にあげて棗の木を<ruby><rb>呪</rb><rt>のろ</rt></ruby>うとでも云うようにすると、どうでしょう、今まで青あおしていた棗の葉が急に<ruby><rb>萎</rb><rt>しお</rt></ruby>れて来て、棗の実がぼろぼろと落ちるのじゃありませんか、私はびっくりして驚くと云うよりも恐ろしくなったのです、すると老人は、

（どうです若旦那、私の云うことに嘘はないでしょう）

とすまして云うのです、

（私が疑ったがわるいのです、どうか許してください）

私はしかたなしに老人にあやまったのです、すると老人は、

（若旦那が判ってくだされるなら、この木を枯らすも可哀そうですから、<ruby><rb>活</rb><rt>い</rt></ruby>かしましょう）

と云って、この手を横に二三度動かすと、今まで落ちていた<ruby><rb>棗</rb><rt>なつめ</rt></ruby>の実が落ちやんで、<ruby><rb>萎</rb><rt>しお</rt></ruby>れていた葉がみるみる青あおとなるのじゃありませんか、私は老人を神様のように思って、奇術の箱などは、もう打っちゃらかしといて、老人を上へあげて、父も母も呼んで来て引き合せたうえで、<ruby><rb>大</rb><rt>おおい</rt></ruby>に<ruby><rb>饗応</rb><rt>ごちそう</rt></ruby>をして、その日から老人にいてもらおうと思って、老人にそのことを云ってみると、老人は、

（若旦那の御親切はありがたいのですが、私は家族を<ruby><rb>伴</rb><rt>つ</rt></ruby>れておりますから、一人こちらで御厄介になることはできません）

と云うから、その家族も伴れて来ていっしょにおれと云っても、

（いや、また御厄介になります、私の法術は若旦那のお気に入ったように思われますから、そのうちにお教えします、しかし、これは手品と違って、不思議な術ですから、<ruby><rb>腹</rb><rt>はら</rt></ruby>が出来ないとお教えしても<ruby><rb>駄目</rb><rt>だめ</rt></ruby>です、そのうちに若旦那に腹が出来たなら、<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>でもお教えします、これからちょいちょい遊びにあがります）

と云って、いくら止めても帰って往くのです、<ruby><rb>居処</rb><rt>いどころ</rt></ruby>を聞いてもそのうちに知れると云って云わないものですから、私は老人をますます<ruby><rb>豪</rb><rt>えら</rt></ruby>い異人だと思うようになったのです、それから老人は、二日<ruby><rb>隔</rb><rt>お</rt></ruby>き、三日隔きに、どこからともなしに<ruby><rb>飄然</rb><rt>ひょうぜん</rt></ruby>とやって来ては、石を<ruby><rb>蛙</rb><rt>かえる</rt></ruby>にしたり、壁へ女の姿を現わしたりして見せて、その<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>で<ruby><rb>饗応</rb><rt>ごちそう</rt></ruby>を<ruby><rb>喫</rb><rt>く</rt></ruby>って帰って往ったのですが、それから一箇月ばかりすると、私の家に大きな不幸が起ったのです、午後の茶を飲んでいた父が、病気でもなんでもないのに、そのまま倒れて亡くなったのです、私の家は他に近い親類もないので、母が<ruby><rb>雇人</rb><rt>やといにん</rt></ruby>を指揮して、やっと<ruby><rb>葬式</rb><rt>とむらい</rt></ruby>をすましたところで、父が亡くなってから十日目の朝になって、その母がまた宵に寝たままで亡くなっているのです、これは後で判ったのですが、そんなことを知らない私は、もう力にする者はその老人一人だと思いまして、母の亡くなった後のあとしまつは、一いち老人に相談したものです、それでも老人は、私の家に<ruby><rb>泊</rb><rt>とま</rt></ruby>るようなことはしなかったのです、すると、ある日のこと、老人が<ruby><rb>壮</rb><rt>わか</rt></ruby>い可愛らしい女を伴れて来たのです、それが老人の<ruby><rb>女</rb><rt>むすめ</rt></ruby>です、その<ruby><rb>女</rb><rt>むすめ</rt></ruby>は三度老人に<ruby><rb>伴</rb><rt>つ</rt></ruby>れられて来て、三度目に私の家に泊ることになったのですが、私と<ruby><rb>女</rb><rt>むすめ</rt></ruby>との間は、その晩からもう他人でなくなったのです、しかし、これは恐ろしいわなだったのです、父も母もその<ruby><rb>妖賊</rb><rt>ようぞく</rt></ruby>の手に死に、私もその手に死のうとしていたのです、私は翌日、その<ruby><rb>女</rb><rt>むすめ</rt></ruby>が帰ると云うので、送って往ったのですが、<ruby><rb>女</rb><rt>むすめ</rt></ruby>の家は入江の<ruby><rb>水際</rb><rt>みずぎわ</rt></ruby>に繋いである怪しい舟です、私はそのまま舟の一室へ<ruby><rb>閉</rb><rt>と</rt></ruby>じ<ruby><rb>籠</rb><rt>こ</rt></ruby>められるように入れられたのです、もし<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>いて帰ろうとしたなら、<ruby><rb>女</rb><rt>むすめ</rt></ruby>の姉の使う<ruby><rb>剣</rb><rt>けん</rt></ruby>と、老人の<ruby><rb>毒手</rb><rt>どくしゅ</rt></ruby>が待っているのです、<ruby><rb>女</rb><rt>むすめ</rt></ruby>の姉は跛の醜い女でしたが、七本の短剣を使うのです、<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>から後から空に投げあげるさまが、魔神の手がそれを手伝うように思われたのです、私が往った時、老人はその<ruby><rb>姉女</rb><rt>あねむすめ</rt></ruby>を呼んで、<ruby><rb>饗応</rb><rt>ごちそう</rt></ruby>だと云って剣を使わせたのですが、それは私に死の命令をしたものです、しかし、<ruby><rb>女</rb><rt>むすめ</rt></ruby>は私をかばってくれたのです、何も知らない私は、老人がどうしても帰さないので、しかたなしに泊って、夜中<ruby><rb>比</rb><rt>ごろ</rt></ruby>に一度目を覚ましてみると、次の<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>で<ruby><rb>女</rb><rt>むすめ</rt></ruby>が姉と激しく云い争っているのです、

（あまり<ruby><rb>可哀</rb><rt>かわい</rt></ruby>そうじゃありませんか、私は<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>です、あの方は、私に免じて助けてやってください）

その声の後から姉の<ruby><rb>詞</rb><rt>ことば</rt></ruby>がするのです、

（あんな男にふざけやがって、<ruby><rb>痴</rb><rt>ばか</rt></ruby>、お前が厭なら、私がやるよ）

私はその<ruby><rb>夜</rb><rt>よ</rt></ruby>殺されようとしていたのです、私は歯の根もあわずに<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>えてると、<ruby><rb>隣</rb><rt>となり</rt></ruby>の声はすぐ聞えなくなって、ひっそりとなったのです、私は私に好意を持っている<ruby><rb>女</rb><rt>むすめ</rt></ruby>がどうかして助けてくれると<ruby><rb>宜</rb><rt>い</rt></ruby>い、もし金で往くことなら、<ruby><rb>自家</rb><rt>うち</rt></ruby>の財産を皆投げ出しても宜いから、それを<ruby><rb>女</rb><rt>むすめ</rt></ruby>に話して、助けてもらおうと思っていると、<ruby><rb>夜</rb><rt>よ</rt></ruby>の明け方になって、そっと<ruby><rb>女</rb><rt>むすめ</rt></ruby>が入って来て、黙って私の手に鎖の附いた小さな袋のような物を握らして、

（これは私の父の持っている<ruby><rb>靺鞨</rb><rt>まっかつ</rt></ruby>の<ruby><rb>玉</rb><rt>たま</rt></ruby>です、もし、危険なことがあれば、これを<ruby><rb>揮</rb><rt>ふ</rt></ruby>ってくだされば宜いのです、これさえあれば、何事でも思うとおりになります、これを持っとれば、もう父も姉も、あなたに害を加えることはできないのです、帰ってください、もう、これっきりお目にかかりません）

と、云ってから、<ruby><rb>女</rb><rt>むすめ</rt></ruby>は泣きだしたのです、私は心に余裕があれば、何か云ってやったのですが、まだ恐ろしさが<ruby><rb>除</rb><rt>の</rt></ruby>かないものですから、そのまま急いで戸を開けて<ruby><rb>舳</rb><rt>みよし</rt></ruby>に出たのです、気が<ruby><rb>注</rb><rt>つ</rt></ruby>くと老人の<ruby><rb>呻</rb><rt>うな</rt></ruby>るような怒る声が聞えていたのです、もう<ruby><rb>黎明</rb><rt>よあけ</rt></ruby>で東のほうが白くなっているのです、私はそれから家に帰ったのですが、<ruby><rb>女</rb><rt>むすめ</rt></ruby>のことが気になるし、老人のこともうすきみがわるいので、五六人の<ruby><rb>壮</rb><rt>わか</rt></ruby>い男に銃を持たして、入江の岸へ往ってみると、逃げたのか舟はもういなくなっていたのです、私はそれでも<ruby><rb>女</rb><rt>むすめ</rt></ruby>のことが気になるので、その<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>も人を頼んで詮議をさせたのですが、とうとう判らなかったのです、その玉は木の葉の形をした<ruby><rb>瑠璃紺</rb><rt>るりこん</rt></ruby>の石です、その玉を手に入れた私は何をしたのでしょう、私には金がたくさんあったので、強盗の<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>をする必要はなかったのです、私はそれを女に用いたのです、私は知事の奥さんとも、公使の奥さんとも、市長の<ruby><rb>姉女</rb><rt>あねむすめ</rt></ruby>とも、<ruby><rb>歌妓</rb><rt>げいしゃ</rt></ruby>とも、女優とも関係したのです、そして、それが世間の問題になりかけた時、マニラ生れの日本人だと云う歌劇の一座が来たのです、私は<ruby><rb>性懲</rb><rt>しょうこ</rt></ruby>りもなくまたその<ruby><rb>座頭</rb><rt>ざがしら</rt></ruby>だと云う女優に眼をつけて、それに関係をつけたのですが、その女優のために、その玉を盗まれてしまったのです、私は世間の攻撃が<ruby><rb>煩</rb><rt>うる</rt></ruby>さいし、その玉が<ruby><rb>惜</rb><rt>おし</rt></ruby>いので、一切の財産を金にして、それから十年あまり……」

洋服の男がそれまで云いかけたところで軽いゴム<ruby><rb>裏</rb><rt>うら</rt></ruby>の音がした。謙作はふと顔をあげた。前の隅のテーブルにいた女が帰りかけているところであった。<ruby><rb>長手</rb><rt>ながて</rt></ruby>な重みのある、そしてどこか<ruby><rb>艶</rb><rt>なまめ</rt></ruby>かしいところのある顔を見せて、洋服の男の<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>の方から出ようとする<ruby><rb>容</rb><rt>ふう</rt></ruby>で、長い青っぽい<ruby><rb>襟巻</rb><rt>えりまき</rt></ruby>の襟を<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>き合せていた。謙作は<ruby><rb>背後姿</rb><rt>うしろすがた</rt></ruby>も<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>かったが、<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い女だなと思ってちょっとその<ruby><rb>容貌</rb><rt>きりょう</rt></ruby>に引きつけられた。と、洋服の男が顔をあげた。洋服の男は女の顔を見ると驚いたような眼をして、じっと眼を<ruby><rb>見据</rb><rt>みす</rt></ruby>えるようにしたが、いきなり飛びあがるように<ruby><rb>起</rb><rt>た</rt></ruby>ちあがった。

「おい、<ruby><rb>天華</rb><rt>てんか</rt></ruby>じゃないか」

謙作は夢から覚めたように洋服の顔と女の顔を見くらべた。女は冷然とした顔をしていた。

「うむ、天華じゃ、天華」

洋服の男は女の肩のあたりに手をやろうとして、体の向きを変えて<ruby><rb>背後向</rb><rt>うしろむ</rt></ruby>きになった。女は<ruby><rb>見向</rb><rt>みむき</rt></ruby>もせずにその前をつかつかと通ろうとした。

「待て」

洋服の男の手は女の左の肩のあたりに往った。

「なにをなさるのです、失礼な」

女の強い声とともにどうしたのか洋服の男は、土間の上に<ruby><rb>仰向</rb><rt>あおむ</rt></ruby>けに倒れてしまった。と、ガラス戸が<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>いて女の姿は外へ出てしまった。

「この<ruby><rb>盗人</rb><rt>ぬすっと</rt></ruby>」

洋服の男は跳ね起きるなり女の締めかけにしてあったガラス戸を開けて走りでた。

「もし、もし」

謙作と洋服の男のテーブルを受持っていた<ruby><rb>女給</rb><rt>じょきゅう</rt></ruby>は、急いで洋服の男の<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>から追って往った。謙作はもしかすると今の女が、あの男の玉を盗んだと云う女優ではあるまいかと思った。しかし、それにしてもあまり現実にかけ離れている<ruby><rb>荒唐無稽</rb><rt>こうとうむけい</rt></ruby>に近い話であるから、その話と今の女をいっしょにすることはできなかった。謙作はふとあれは<ruby><rb>狂人</rb><rt>きちがい</rt></ruby>ではあるまいかと思った。

もう時間はどうだろう、謙作はふと時間のことが気になった。彼は急いで手首の時計に眼をやった。時間は四時十分になっていた。

まだ二時間はあるが、ぐずぐずしていては、またどんな<ruby><rb>係</rb><rt>かか</rt></ruby>りあいが出来るかも判らない、いっそ船へ往って船で飲もうと思いだした。謙作は<ruby><rb>勘定</rb><rt>かんじょう</rt></ruby>をして出ようと思って顔をあげた。<ruby><rb>朋輩</rb><rt>ほうばい</rt></ruby>の出て往ったのを気にしていた、三人の女給が、<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>いたガラス戸の<ruby><rb>側</rb><rt>がわ</rt></ruby>に立って外の方を見ていた。

「おい、<ruby><rb>姐</rb><rt>ねえ</rt></ruby>さん」

謙作が右の<ruby><rb>指節</rb><rt>ゆびふし</rt></ruby>で軽くテーブルの上に音をさすと、一人の女がすぐ来た。

「勘定をしてもらいたい、いくらかね」

女は皿と銚子を眼で読んでいたがすぐ<ruby><rb>価</rb><rt>ね</rt></ruby>を云った。それは二円と少しのものであった。謙作は小銭を三円出した。

「後はさっきの姐さんにやって貰おう」

謙作は女が金を持って往くのを見て煙草を出し、それにマッチの火を<ruby><rb>点</rb><rt>つ</rt></ruby>けて、<ruby><rb>一吸</rb><rt>いっぷく</rt></ruby>してから腰をあげた。

「大変よ、大変よ」

おびえたような声をしながら出て往っていた女が、ガラス戸の処に姿を見せた。

「どうしたの、どうしたの」

「どうしたって、大変よ、今のお客さんが、<ruby><rb>己</rb><rt>じぶん</rt></ruby>で首を突いたのよ、私、もうどうしようかと思ったわ」

謙作は煙草をとり落した。

「あの<ruby><rb>横町</rb><rt>よこちょう</rt></ruby>の<ruby><rb>水菓子屋</rb><rt>みずがしや</rt></ruby>の前まで走ってって、いきなり短刀を出して首を突いたのですよ、おっそろしい」

「どうしたと云うのでしょう、あの女の<ruby><rb>方</rb><rt>かた</rt></ruby>を追っかけて往ったのじゃないこと」

「そうなのよ、でも女の方は見えなかったわ」

「いったいどうしたと云うのでしょう、<ruby><rb>狂人</rb><rt>きちがい</rt></ruby>でしょうか」

「まあ<ruby><rb>狂人</rb><rt>きちがい</rt></ruby>だ、わ、よ、女の方に怨みがあるなら、女の方を殺したら好いじゃないの」

謙作もその<ruby><rb>詞</rb><rt>ことば</rt></ruby>を聞くとあの男はたしかにどうかしていたのだ、だからあんなことを云ったのだと思った。そして、己が今その男の<ruby><rb>対手</rb><rt>あいて</rt></ruby>になっていたことを思いだして、係りあいになって出発が出来ないようなことがあっては大変だと思いだした。

「そいつは<ruby><rb>豪</rb><rt>えら</rt></ruby>いことになったものだ」

謙作はすこしも心にかけていないようなことを云い云い女の傍を通って外へ出たが、<ruby><rb>横街</rb><rt>よこちょう</rt></ruby>のほうは見ずにそのまま初めの<ruby><rb>街路</rb><rt>みち</rt></ruby>を逃げるように歩いて往った。

## Ⅱ

<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>の間にか電燈が<ruby><rb>点</rb><rt>つ</rt></ruby>いていた。謙作は洋食屋を出る時の物に追われているような気もちは改まって、ゆっくりした足どりになって<ruby><rb>微暗</rb><rt>うすぐら</rt></ruby>い<ruby><rb>黄昏</rb><rt>ゆうぐれ</rt></ruby>の<ruby><rb>街路</rb><rt>まち</rt></ruby>を歩いていた。

天気が変ったのか<ruby><rb>重</rb><rt>お</rt></ruby>んもりした空気が酒のある<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>にそそりと触れて暖かった。彼の頭には自殺したと云う怪しい洋服の男の印象が残っていたが、それは何年も昔のことのようなまたちがった世界の出来事のような気がしていた。

ふと煙草のことを思いだした。彼はちょと立ち止まってステッキを<ruby><rb>左脇</rb><rt>ひだりわき</rt></ruby>に<ruby><rb>挟</rb><rt>はさ</rt></ruby>み、<ruby><rb>衣兜</rb><rt>かくし</rt></ruby>に入れた煙草の袋から一本抜いて口に<ruby><rb>喞</rb><rt>くわ</rt></ruby>え、それからマッチをだして火を点けながら燃えさしのマッチの棒を地べたに捨て、ひと吸いしてから歩こうと思って、顔をあげて右側につらつらと眼をやった。

そこには電燈の明るい洋館の二階があって、その窓から<ruby><rb>長手</rb><rt>ながて</rt></ruby>な顔の女が胸から上を見せていた。女の顔はにっと笑った。謙作はその女の顔に見覚えがあるようであったからじっと眼を<ruby><rb>止</rb><rt>と</rt></ruby>めて見た。それは今のさき洋食屋にいた女であった。謙作は怪しい洋服の男が口にした<ruby><rb>天華</rb><rt>てんか</rt></ruby>と云う名をちょと思いだした。女は頭をさげて見せた。

「今、失礼いたしました、ちとお立ち寄りくださいまし、お茶でもさしあげましょう」

謙作は時間のことは心配しなかったが、女の<ruby><rb>素性</rb><rt>すじょう</rt></ruby>が判らないうえに、一度位それも洋食屋などで顔を合せた位の人の内へ慣れなれしく入って往くのも気が<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>めるし、また<ruby><rb>壮</rb><rt>わか</rt></ruby>い女があまり慣れなれしくするのもうす<ruby><rb>鬼魅</rb><rt>きみ</rt></ruby>がわるいので<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>した。

「おあがりくださいまし、よ、他に<ruby><rb>何人</rb><rt>たれ</rt></ruby>も御遠慮なさる者はいませんから」

謙作はふと考えた。この女の物ごし<ruby><rb>風体</rb><rt>ふうてい</rt></ruby>はどうしても<ruby><rb>良家</rb><rt>りょうか</rt></ruby>の子女じゃない、女優のあがりか<ruby><rb>歌妓</rb><rt>げいしゃ</rt></ruby>のあがりである、それに一人でおると云うのは、旅にでも来ているのか、それともと考えて、金のある男を待っているある種の女の群に思った。彼は船にはまだ時間があると思った。

「さあ、どうぞ」

「では、ちょっと失礼しましょうか」

謙作は煙草の<ruby><rb>喫</rb><rt>の</rt></ruby>みさしを捨てて入口の方へ注意した。<ruby><rb>門燈</rb><rt>もんとう</rt></ruby>のぼんやりと<ruby><rb>燭</rb><rt>とも</rt></ruby>っている入口のガラス戸がすぐ見えた。

「そこの入口を入って、右側の階段をおあがりくださいまし、四つ目の<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>でございます」

謙作はちょと女の顔を見てから入口の方へ歩いて往った。そこには<ruby><rb>磨</rb><rt>す</rt></ruby>りガラスのように<ruby><rb>埃</rb><rt>ほこり</rt></ruby>の白く附着したガラス戸が彼の来るのを待っているように、ハンドルがはずれて口を細目に<ruby><rb>透</rb><rt>す</rt></ruby>けていた。彼はそのガラス戸を軽い気もちで<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>けた。

<ruby><rb>見附</rb><rt>みつけ</rt></ruby>に受附のような出っぱった室の窓ガラスが見えて、中に肥った<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>ペタの<ruby><rb>赧</rb><rt>あか</rt></ruby>い老婆が鼻眼鏡のような黒い<ruby><rb>紐</rb><rt>ひも</rt></ruby>の附いた玉の大きな眼鏡をかけて、横向になって表紙の赤茶けた欧文の<ruby><rb>小本</rb><rt>こほん</rt></ruby>を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いていた。その室の右にも左にも<ruby><rb>微暗</rb><rt>うすくら</rt></ruby>い<ruby><rb>板</rb><rt>いた</rt></ruby>の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>があって、その<ruby><rb>前</rb><rt>さき</rt></ruby>に<ruby><rb>梯子</rb><rt>はしご</rt></ruby>の階段が見えていた。謙作は右の板の間の<ruby><rb>端</rb><rt>はし</rt></ruby>についた<ruby><rb>棕櫚</rb><rt>しゅろ</rt></ruby>の毛の<ruby><rb>泥拭</rb><rt>どろぬぐ</rt></ruby>いで靴の泥を念入りに拭ってからゆっくりと階段をあがって往った。

彼はそうして白い<ruby><rb>煉瓦</rb><rt>れんが</rt></ruby>の階段を一段一段あがりながら、うっかり女の誘惑に乗ると帰りの旅費まで無くする恐れがあるので、めんどうと見たなら<ruby><rb>茶代</rb><rt>ちゃだい</rt></ruby>に相当する物を置いてさっさと逃げだそうと思った。彼はそうして<ruby><rb>宜</rb><rt>い</rt></ruby>い考えの浮んで来る<ruby><rb>己</rb><rt>じぶん</rt></ruby>の頭に、<ruby><rb>快</rb><rt>こころよ</rt></ruby>い満足を感じながら二階の廊下に出た。

<ruby><rb>微暗</rb><rt>うすくら</rt></ruby>い<ruby><rb>窟穴</rb><rt>ほらあな</rt></ruby>のような廊下の<ruby><rb>前</rb><rt>さき</rt></ruby>に<ruby><rb>一処</rb><rt>ひとところ</rt></ruby>扉が<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>いていて、内から射した明るい<ruby><rb>燈</rb><rt>ひ</rt></ruby>が扉を背で押すようにして立っている者を照らしているところがあった。謙作はそれがあの女であろうと思ったので、その方へ歩いて往った。それはたしかに<ruby><rb>彼</rb><rt>か</rt></ruby>の女であった。

「ようこそ」

「失礼します」

謙作は曖昧な返事をしながらちょと頭をさげるようにした。

「ひどい処でございますわ、さあどうぞ」

「失礼」

謙作は中へ入った。<ruby><rb>雲母</rb><rt>きらら</rt></ruby>のようにぎらぎら光る<ruby><rb>衝立</rb><rt>ついたて</rt></ruby>が立っているので、それを左によけて通った。そこは<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>の中程に<ruby><rb>角</rb><rt>かく</rt></ruby>なテーブルを<ruby><rb>据</rb><rt>す</rt></ruby>えて、<ruby><rb>薔薇</rb><rt>ばら</rt></ruby>のような花の咲いた<ruby><rb>鉢</rb><rt>はち</rt></ruby>をのっけ、そのまわりに<ruby><rb>真紅</rb><rt>まっか</rt></ruby>な<ruby><rb>天鵞絨</rb><rt>びろうど</rt></ruby>を張った<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>や安楽椅子を置いてあった。窓のほうには緑色のカーテンが垂れていた。その窓の下にも真紅な天鵞絨を張った<ruby><rb>寝椅子</rb><rt>ねいす</rt></ruby>をはじめ<ruby><rb>種種</rb><rt>いろいろ</rt></ruby>の椅子が<ruby><rb>姝</rb><rt>きれい</rt></ruby>に置いてあった。

謙作はそれを見ると<ruby><rb>外套</rb><rt>がいとう</rt></ruby>を脱がなくてはすまないように思った。彼は帽子掛けはあるまいかと思って左の方に注意した。三段になった小さな棚がそこにあった。彼はその傍へ往って下の段にステッキと帽子を置き、それから外套を脱ぎかけた。ふわりとした暖かい手が<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>にあった。

「おとりいたしましょう」

外套はそのままするりと脱がされてしまった。謙作はきまりがわるかった。

「これはどうも」

「では、どうかおかけくださいまし」

女はそう云い云い外套を<ruby><rb>畳</rb><rt>たた</rt></ruby>んで二つに折って棚の上に置いた。謙作はテーブルの方に往きながら手首の時計に眼をやった。時計は四時四十分になっていた。

「私は、すぐお<ruby><rb>暇</rb><rt>いとま</rt></ruby>します、船に乗ることになってますから」

「それでも、まあ、すこしお話しくださいまし」

女はもう傍へ来ていて<ruby><rb>廻転</rb><rt>かいてん</rt></ruby>椅子の口をこっちに向けて勧めた。謙作はそれに腰をかけて鉢の<ruby><rb>微白</rb><rt>ほのじろ</rt></ruby>い花に眼をやった。

「さっきは失礼いたしました、私は<ruby><rb>独</rb><rt>ひと</rt></ruby>りこうやっておりますものですから、淋しくなると、つい独りであんな処へ出かけてまいりますの、でもさっきは、変な男に係り合って、びっくりいたしましたわ、どうしたと云うのでしょう、私に天華とかなんとか云いましたの、ね」

女は右横の椅子に腰をかけていた。

「そうですよ、ありゃ<ruby><rb>狂人</rb><rt>きちがい</rt></ruby>ですよ、あれから<ruby><rb>豪</rb><rt>えら</rt></ruby>いことがありましたよ、あなたは御存じないのでしょう」

「ちっとも存じません、私を追いかけて来るようでしたから、変な<ruby><rb>巷</rb><rt>ろじ</rt></ruby>を抜けて逃げてまいりましたわ、何かありまして」

「あなたの<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>から、追っかけるようにして出て、あの<ruby><rb>前</rb><rt>さき</rt></ruby>で<ruby><rb>咽喉</rb><rt>のど</rt></ruby>を突いて死んだと云うのですよ、私は見なかったが、<ruby><rb>婢</rb><rt>じょちゅう</rt></ruby>が<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>から往って、見て来ての話でしたよ、どうも<ruby><rb>狂人</rb><rt>きちがい</rt></ruby>ですね」

「ま、咽喉を突いて、どうしたと云うのでしょう、可哀そうでございますの、ね」

「可哀そうですよ、私のテーブルへ来て<ruby><rb>靺鞨</rb><rt>まっかつ</rt></ruby>の<ruby><rb>玉</rb><rt>たま</rt></ruby>と云うのを人に盗まれたから、それを探して、東洋の港から港をさまようていると云ったのですよ、へんな夢のようなことを云ってましたから、どうしても<ruby><rb>狂人</rb><rt>きちがい</rt></ruby>ですね」

「そうでしょうか、それにしても、可哀そうじゃございませんか、どこの<ruby><rb>方</rb><rt>かた</rt></ruby>でしょう」

「さあ、どうも支那人らしいです、ね」

「そうでございましょうか」

謙作はこの時、この女は思ったような女でないと思って軽い失望を感じた。彼はすぐ切りあげようと思って<ruby><rb>衣兜</rb><rt>かくし</rt></ruby>から煙草をだした。

「今、何か持ってまいりますから、どうぞ御ゆっくり、<ruby><rb>独</rb><rt>ひと</rt></ruby>りで淋しくって淋しくって困ってるところでございますから」

女は<ruby><rb>隻手</rb><rt>かたて</rt></ruby>をテーブルにかけて<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>るようにしていた体を起して、鉢の陰からマッチを<ruby><rb>擦</rb><rt>す</rt></ruby>って出した。謙作はその火に煙草をだした。

「すみません、お茶を一つ<ruby><rb>戴</rb><rt>いただ</rt></ruby>いて帰りましょう、六時の船に乗ることになってますから」

「でも、すこしはおよろしゅうございましょう」

その<ruby><rb>途端</rb><rt>とたん</rt></ruby>に扉の<ruby><rb>軋</rb><rt>きし</rt></ruby>る音がして入った者があった。それは白い<ruby><rb>前垂</rb><rt>まえだれ</rt></ruby>をした<ruby><rb>壮</rb><rt>わか</rt></ruby>い女が盆の上に<ruby><rb>瓢箪</rb><rt>ひょうたん</rt></ruby>の形をした<ruby><rb>陶品</rb><rt>せともの</rt></ruby>のビンを載せ、それに小さな<ruby><rb>脚</rb><rt>あし</rt></ruby>の長いコップを<ruby><rb>添</rb><rt>そ</rt></ruby>えて持って来たところであった。

「ここへ持ってらっしゃい」

白い前垂の女は<ruby><rb>島田</rb><rt>しまだ</rt></ruby>に<ruby><rb>結</rb><rt>ゆ</rt></ruby>うていた。彼女はその盆をテーブルの隅へ置いてからお<ruby><rb>辞儀</rb><rt>じぎ</rt></ruby>をして出て往った。

「つまらんものがありますから、さしあげましょう、そのうちに何か出来ましょうから」

女はビンを持ってそれをコップに<ruby><rb>注</rb><rt>つ</rt></ruby>いで謙作の前へだした。謙作はここでぐずぐずしていては船に遅れるから、一ぱい飲んだらすぐ帰ろうと思った。

「それでは<ruby><rb>折角</rb><rt>せっかく</rt></ruby>ですから、一ぱい<ruby><rb>戴</rb><rt>いただ</rt></ruby>きましょう」

謙作はちょとお辞儀をして、煙草を前の灰皿に置いて<ruby><rb>微青</rb><rt>うすあお</rt></ruby>く見えるその液体を口にした。それはウイスキーの薄いような味の物であった。と、その液体の匂いであろうかそれとも鉢の花の匂いであろうか、<ruby><rb>快</rb><rt>こころよ</rt></ruby>い<ruby><rb>牛蒡</rb><rt>ごぼう</rt></ruby>の<ruby><rb>匂</rb><rt>におい</rt></ruby>のような匂が脳に<ruby><rb>浸</rb><rt>し</rt></ruby>み<ruby><rb>徹</rb><rt>とお</rt></ruby>るように感じた。

「<ruby><rb>如何</rb><rt>いかが</rt></ruby>でございます、お口にあいまして」

謙作はふた口にそれを飲んでしまってコップを置いた。

「たいへん<ruby><rb>甘</rb><rt>うま</rt></ruby>い物ですね、……では、遅くなりますから、これで失礼いたします」

謙作はそう云って体を起そうとした。<ruby><rb>柔</rb><rt>やわらか</rt></ruby>な女の<ruby><rb>足端</rb><rt>あしさき</rt></ruby>がその右の足首にふわりと<ruby><rb>触</rb><rt>さわ</rt></ruby>っていた。謙作はその足をのけるのが惜しいように思われた。謙作はそうして鉢の花に眼をやった。今まで<ruby><rb>微白</rb><rt>ほのじろ</rt></ruby>いように見えていた花は<ruby><rb>鮮</rb><rt>あざやか</rt></ruby>な<ruby><rb>真紅</rb><rt>しんく</rt></ruby>の色に染まっていた。彼は驚いて女の顔を見た。女の<ruby><rb>濃艶</rb><rt>のうえん</rt></ruby>な<ruby><rb>長目</rb><rt>ながめ</rt></ruby>な顔が浮きあがったようになっていた。

「およろしければ、二三ばいつづけておあがりくださいまし、<ruby><rb>宜</rb><rt>い</rt></ruby>い気もちになりますから」

女はビンを持って二度目の<ruby><rb>酌</rb><rt>しゃく</rt></ruby>をした。それと同時に女の二つの<ruby><rb>足端</rb><rt>あしさき</rt></ruby>が右の足首に<ruby><rb>絡</rb><rt>から</rt></ruby>まるのを感じた。謙作はまぶしそうに眼を伏せた。

「お婆さんのお酌で、お気のどくですけれど」

謙作は<ruby><rb>隻頬</rb><rt>かたほお</rt></ruby>で笑ってコップを持った。

「私も<ruby><rb>戴</rb><rt>いただ</rt></ruby>きますわ」

謙作がその方を見た時には、女はもうコップを赤く<ruby><rb>火照</rb><rt>ほて</rt></ruby>った口元に持って往って<ruby><rb>艶</rb><rt>なまめ</rt></ruby>かしい<ruby><rb>笑</rb><rt>えみ</rt></ruby>を見せていた。謙作のまわりには<ruby><rb>華</rb><rt>はなやか</rt></ruby>なかがやかしい世界が広がっていた。

「あなたの名はなんと云うのです」

「わたし名なんかありませんわ、そうですわ、ね、天華とでもして置きましょうか」

謙作はテーブルの<ruby><rb>端</rb><rt>はし</rt></ruby>にやった<ruby><rb>己</rb><rt>じぶん</rt></ruby>の右の手に暖かな手の<ruby><rb>生</rb><rt>なま</rt></ruby>なましく触れたのを感じた。彼はもどかしそうにその手を握ったのであった。

## Ⅲ

謙作は<ruby><rb>呼苦</rb><rt>いきぐる</rt></ruby>しい眠りから覚めた。それは<ruby><rb>花園</rb><rt>かえん</rt></ruby>の中を<ruby><rb>孔雀</rb><rt>くじゃく</rt></ruby>か何かのようにして遊び狂うていた鳥の<ruby><rb>翅</rb><rt>つばさ</rt></ruby>が急にばらばらと落たような気もちであった。彼は二三度大きく<ruby><rb>呼</rb><rt>いき</rt></ruby>をしてから眼を開けた。白い暖かな裸の体が草色の<ruby><rb>羽蒲団</rb><rt>はねぶとん</rt></ruby>に<ruby><rb>被</rb><rt>おお</rt></ruby>われていた。

謙作はびっくりした。それと同時に奇怪な詩のような印象が頭に<ruby><rb>蘇</rb><rt>よみがえ</rt></ruby>って来た。しらじらと明け離れた朝の光がその印象の<ruby><rb>隙</rb><rt>すき</rt></ruby>から<ruby><rb>射</rb><rt>さ</rt></ruby>して来るように感じた。彼は船に乗り遅れたことを思いだした。

「これは」

謙作は<ruby><rb>腹這</rb><rt>はらばい</rt></ruby>になった。彼はひどく後悔した。<ruby><rb>昨日</rb><rt>きのう</rt></ruby>の船に乗って帰ると云う電報を打ったことを思いだした。彼はこの瞬間、八つになる女の子と五つになる男の子が<ruby><rb>己</rb><rt>じぶん</rt></ruby>を待って母親と噂をしている<ruby><rb>容</rb><rt>さま</rt></ruby>を<ruby><rb>眼前</rb><rt>めさき</rt></ruby>に浮べた。彼はたまらなく苦しかった。彼は寝てはいられなかった。彼はいきなり<ruby><rb>起</rb><rt>お</rt></ruby>きようとして、己も裸になっているのに気が<ruby><rb>注</rb><rt>つ</rt></ruby>いた。

「まだお早いですよ、もすこし休んでいらっしゃい」

女はうす目を開けていた。謙作はじっとしてはいられなかった。

「いや、こうしてはいられない、洋服はどこにあるのでしょう」

<ruby><rb>榻</rb><rt>ねだい</rt></ruby>の<ruby><rb>枕元</rb><rt>まくらもと</rt></ruby>の台の上に乱れ箱に入れて洋服やシャツが入れてあるのが見えた。彼はすらりと羽蒲団を横に<ruby><rb>脱</rb><rt>ぬ</rt></ruby>けだして下におりた。

「今から何をなさるのですよ」

「これから汽船会社へ往って来るのです」

謙作はシャツを着ながら云った。

「だって船はないのでしょ」

女はすまして云った。謙作はそれが<ruby><rb>忌</rb><rt>いま</rt></ruby>いましかった。

「今日はないが、三日目にありますからね、ちょと往って来るのです」

「そう」

女は冷笑を含んだように云った。謙作はこせこせとワイシャツを着、ズボンを<ruby><rb>着</rb><rt>つ</rt></ruby>け、靴もあるので靴も<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>き、それから<ruby><rb>上衣</rb><rt>うわぎ</rt></ruby>に手を<ruby><rb>挿</rb><rt>さ</rt></ruby>しながら見ると、時計も<ruby><rb>紙入</rb><rt>かみいれ</rt></ruby>もちゃんと箱の中に入れてあった。彼はふと金がどうかなっていはしないかと思ったが、そこで<ruby><rb>検</rb><rt>しら</rt></ruby>べることも出来ないので、それを上衣の<ruby><rb>内兜</rb><rt>うちかくし</rt></ruby>に入れ、時計を手首に着けた。

「そんなにせかせかしたって、会社なんかが見つかるものですか」

女はもとの枕で寝ていた。

「なに、海岸通りへ往ったらありますよ、ちょと往って来ます」

「御飯は」

「どこかで<ruby><rb>喫</rb><rt>く</rt></ruby>いましょう」

「そう」

謙作は入口と思われる方へ往ってそこの扉を開けた。そこは宵に見たままの<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>であった。彼はその室を横切って<ruby><rb>衝立</rb><rt>ついたて</rt></ruby>の立っている方へ往った。そこの右側の棚には<ruby><rb>外套</rb><rt>がいとう</rt></ruby>も帽子もステッキも宵に置いたままであった。彼はそれを持って急いで外へ出た。

廊下は明かるかった。謙作は廊下へ出ると<ruby><rb>内兜</rb><rt>うちかくし</rt></ruby>に手をやって紙入を出してみた。金にはすこしも異状がなかった。彼は<ruby><rb>幾等</rb><rt>いくら</rt></ruby>か女に置いて往かなくてはならないと思ったが、なんだかばかばかしくもあった。彼はそのまま階段をおりた。

<ruby><rb>戸外</rb><rt>そと</rt></ruby>へ出ようとして扉に手をかけた時、ふ、ふ、ふと笑うような声がした。<ruby><rb>揮</rb><rt>ふ</rt></ruby>り返って見ると、<ruby><rb>見附</rb><rt>みつけ</rt></ruby>の窓の中に宵のままの老婆が大きな<ruby><rb>眼鏡</rb><rt>めがね</rt></ruby>を見せていた。謙作は気もちがわるいので、<ruby><rb>宜</rb><rt>よ</rt></ruby>くは見もしないで<ruby><rb>戸外</rb><rt>そと</rt></ruby>へ出た。

<ruby><rb>朝陽</rb><rt>あさひ</rt></ruby>がむこう側の屋根瓦を寒く染めていた。労働者が群をして狭い<ruby><rb>街路</rb><rt>まち</rt></ruby>を往来していた。謙作は海岸の方角が判らなくなっていた。彼は人に<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>こうと思った。

「しょうしょう<ruby><rb>伺</rb><rt>うかが</rt></ruby>います、海岸の方へ往くには、どう往ったら<ruby><rb>宜</rb><rt>い</rt></ruby>いでしょう」

三人<ruby><rb>伴</rb><rt>づれ</rt></ruby>の道具箱を肩にした大工の一人を見つけて訊いてみた。

「俺達も海岸へ往くところだが、海岸はどこかね」

「台湾航路の汽船の会社のある処ですがね」

「それじゃすぐだ、俺達に<ruby><rb>跟</rb><rt>つ</rt></ruby>いて来るが宜い」

謙作は三人の<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>から跟いて往った。狭い<ruby><rb>街路</rb><rt>とおり</rt></ruby>から電車通りへ出て、線路を横切ってむこうの広い<ruby><rb>街路</rb><rt>とおり</rt></ruby>へ入ったところで、三人の大工はどっかへ往ってしまった。

「しょうしょう伺います、海岸の、台湾航路の汽船会社のある方へは、どう往ったら宜いのでしょう」

謙作は海員のようなマドロスパイプを<ruby><rb>啣</rb><rt>くわ</rt></ruby>えて来た男に訊いた。

「それは、この<ruby><rb>横町</rb><rt>よこちょう</rt></ruby>を往って、それから三つ目の<ruby><rb>街路</rb><rt>とおり</rt></ruby>を、右へ折れてけば宜い」

マドロスパイプはすぐ左の方に折れている横町に指をさした。謙作はその方へ歩いて往った。そして、三つ目の<ruby><rb>街路</rb><rt>とおり</rt></ruby>を見つけて、それを右へ折れて往ったが、海岸へも来なければ会社らしい建物も見つからなかった。

「海岸はまだでしょうか」

謙作は<ruby><rb>鰌汁</rb><rt>どじょうじる</rt></ruby>の荷をおろしている老人に<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いた。

「ここは<ruby><rb>山</rb><rt>やま</rt></ruby>の<ruby><rb>手</rb><rt>て</rt></ruby>じゃ、<ruby><rb>有馬</rb><rt>ありま</rt></ruby>の温泉ならそう往っても好いが、海岸はあべこべだよ」

老人はもと来た方へ指をさした。謙作はしかたなしにとぼとぼと引返した。そして、歩いているうちに<ruby><rb>路</rb><rt>みち</rt></ruby>が判らなくなった。

「海岸はどう往ったら<ruby><rb>宜</rb><rt>い</rt></ruby>いでしょう」

「これから、右の方へ往ったら宜いが、よっぽどありますよ」

謙作はまたその方へ往った。しかし、依然として海岸は来なかった。

「このあたりに食事をする処はないでしょうか、どこでも宜いのですが」

謙作は空腹のことから<ruby><rb>旅館</rb><rt>やどや</rt></ruby>へ入って、<ruby><rb>旅館</rb><rt>やどや</rt></ruby>から電話をかけるなら宜いと思いだした。彼は<ruby><rb>旅館</rb><rt>やどや</rt></ruby>を尋ねて往った。

「<ruby><rb>旅館</rb><rt>やどや</rt></ruby>ならこの<ruby><rb>前</rb><rt>さき</rt></ruby>にあるよ」

謙作は教えられた方へ往ったが、<ruby><rb>旅館</rb><rt>やどや</rt></ruby>は見つからなかった。

謙作はへとへとになって<ruby><rb>黄昏</rb><rt>ゆうぐれ</rt></ruby>の<ruby><rb>街路</rb><rt>とおり</rt></ruby>を歩いていた。

「まあ、今まで何をしていらしたのです、奥様がどんなにお待ちしているか判りませんわ」

謙作は不思議に思ってその方を見た。そこには洋館の入口の扉を半ば開けて<ruby><rb>島田髷</rb><rt>しまだまげ</rt></ruby>の女が<ruby><rb>半身</rb><rt>はんしん</rt></ruby>を<ruby><rb>露</rb><rt>あら</rt></ruby>わしていた。それは<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>飲み物を<ruby><rb>搬</rb><rt>はこ</rt></ruby>んで来た女であった。謙作は<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>の家の前に帰っていることに気が<ruby><rb>注</rb><rt>つ</rt></ruby>いた。

「あ、君か」

謙作はしかたがないので二階へあがって往った。<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>の中はもう<ruby><rb>燈</rb><rt>ひ</rt></ruby>が<ruby><rb>点</rb><rt>つ</rt></ruby>いていた。<ruby><rb>彼</rb><rt>か</rt></ruby>の女は室の中のテーブルに寄りかかって、彼の入って来るのを笑って見ていた。

「汽船会社へいらしって」

謙作は判らなかったとは云えないので、<ruby><rb>曖昧</rb><rt>あいまい</rt></ruby>な返事をしながらその前へ往った。

「お疲れになったのでしょう、おかけなさいまし、お<ruby><rb>腹</rb><rt>なか</rt></ruby>も空いたのでしょう、すぐ何か持ってまいります」

女は始終笑顔をしていたが、なんだか皮肉に見えるところがあった。謙作は煙草を飲もうと思って<ruby><rb>衣兜</rb><rt>かくし</rt></ruby>に手をやった。煙草は無くなって内には<ruby><rb>敷島</rb><rt>しきしま</rt></ruby>の袋ばかり残っていた。彼はしかたなしにじっとしていた。

「今まで会社にいらしったのですか」

「いや、そうでもないのです、あっちこっち歩いていたのですから」

謙作はその日のことが奇怪でたまらなかった。彼は海岸も<ruby><rb>旅館</rb><rt>やどや</rt></ruby>も見つからないと云うのは、<ruby><rb>己</rb><rt>じぶん</rt></ruby>がどうかしているためかも判らないと思った。彼は恐ろしかった。

島田髷の女が<ruby><rb>広蓋</rb><rt>ひろぶた</rt></ruby>に入れて料理を<ruby><rb>搬</rb><rt>はこ</rt></ruby>んで来てテーブルの前に置いた。

「私はとうに<ruby><rb>戴</rb><rt>いただ</rt></ruby>きましたから、あなたがあがってくださいまし」

謙作は<ruby><rb>空腹</rb><rt>ひもじ</rt></ruby>いのですぐ<ruby><rb>箸</rb><rt>はし</rt></ruby>を持った。それはパンまで添えた洋食であった。

「<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>のお酒をおあがりなさいまし、気がせいせいしますわ」

<ruby><rb>陶品</rb><rt>せともの</rt></ruby>のビンから<ruby><rb>注</rb><rt>つ</rt></ruby>いだ飲み物が女の手から渡された。謙作は<ruby><rb>箸</rb><rt>はし</rt></ruby>を置いてそれを口にした。と、謙作の前には<ruby><rb>華</rb><rt>はなやか</rt></ruby>な世界が来た。

朝になった。謙作は<ruby><rb>昨日</rb><rt>きのう</rt></ruby>と同じ状態の<ruby><rb>下</rb><rt>もと</rt></ruby>に体を置いていた。謙作は今日こそ車に乗って会社に往こうと思った。彼はまた起きて洋服を着た。

「またどこへいらっしゃるのです」

女は寝たままであった。

「ちょっと往って来る」

「そんなつまらないことはおよしなさいましよ」

謙作はそれでも出かけて往った。老婆の、ふ、ふ、ふと云うような笑声が<ruby><rb>嘲</rb><rt>あざけ</rt></ruby>るように聞えた。外へ出たところで<ruby><rb>空車</rb><rt>あきぐるま</rt></ruby>が来た。彼はまずその事で<ruby><rb>旅館</rb><rt>やどや</rt></ruby>へ往って朝の食事をしてから会社へ往こうと思った。

「どこか海岸通りの<ruby><rb>宜</rb><rt>よ</rt></ruby>い<ruby><rb>旅館</rb><rt>やどや</rt></ruby>へ伴れて往け」

車は謙作を<ruby><rb>積</rb><rt>つ</rt></ruby>んで走りだした。<ruby><rb>街路</rb><rt>とおり</rt></ruby>から<ruby><rb>街路</rb><rt>とおり</rt></ruby>を休みなしに往ったが、<ruby><rb>旅館</rb><rt>やどや</rt></ruby>がないのかちっとも止まらなかった。

「おい、<ruby><rb>旅館</rb><rt>やどや</rt></ruby>はまだかい、<ruby><rb>旅館</rb><rt>やどや</rt></ruby>がなければ、台湾航路の会社へでも<ruby><rb>宜</rb><rt>い</rt></ruby>いぞ」

それでも車は止まらなかった。謙作はしかたなしに車を<ruby><rb>代</rb><rt>か</rt></ruby>えて走らしたが、その車もまたどこにも止まらなかった。車の上を一日照らしていた<ruby><rb>陽</rb><rt>ひ</rt></ruby>が<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>の間にか<ruby><rb>掠</rb><rt>かす</rt></ruby>れてしまった。

「もう宜い、おろしてくれ」

謙作は車からおりて<ruby><rb>車賃</rb><rt>くるまちん</rt></ruby>を払って歩こうとした。

「おや、お帰りなさいまし」

二階の窓からあの女が顔を出していた。謙作は内へ入りながら俺はどうかしていると思った。

翌日になって謙作は<ruby><rb>己</rb><rt>じぶん</rt></ruby>の身が恐ろしくなったので、警察の保護を願おうと思って、警察を尋ねて往った。

「警察はこの<ruby><rb>前</rb><rt>さき</rt></ruby>ですよ」

いくら<ruby><rb>前</rb><rt>さき</rt></ruby>へ往っても警察はなかった。警察署がなければ交番でも<ruby><rb>宜</rb><rt>よ</rt></ruby>いと思った。

「交番ならこの<ruby><rb>街路</rb><rt>とおり</rt></ruby>を抜けたところにありますよ」

しかし、交番も見つからなかった。謙作はがっかりして歩いていると、<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>の間にか洋館の前へ来ていた。二階の窓にはあの女の顔。

その翌日、謙作はその町を逃げだすつもりで三ノ宮駅へと往ったが、三ノ宮駅も見つからなかった。気が<ruby><rb>注</rb><rt>つ</rt></ruby>いてみると女の顔が二階の窓から<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いていた。

その夜、<ruby><rb>彼</rb><rt>か</rt></ruby>の女は謙作の頭を己の胸のあたりに持って来さして、その耳に何か<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>いていたがなんと思ったのかその体を起さなかった。

「うちの坊ちゃん、<ruby><rb>宜</rb><rt>い</rt></ruby>いことをして見せてあげようね」

女はそう云ってから右の手を左の<ruby><rb>袖口</rb><rt>そでぐち</rt></ruby>に入れて、何か握ったものを引出した。

「その花が<ruby><rb>生意気</rb><rt>なまいき</rt></ruby>だから枯らしてみましょうよ」

謙作の夢のようになっている頭にぴんと響いたことがあった。謙作はうっとりとなっている眼を<ruby><rb>務</rb><rt>つと</rt></ruby>めて<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>けた。

「こんな花は枯れってしまえ」

女が右の手を鉢の上にさしたが、みるみるその花は<ruby><rb>萎</rb><rt>しお</rt></ruby>れて花弁がぼろぼろと落ちだした。

「うちの坊ちゃん、どう」

謙作はそれをちょと見た<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>に、眼をつむってしまった。

「おや、<ruby><rb>睡</rb><rt>ねむ</rt></ruby>っちゃったのだよ」

謙作は<ruby><rb>彼</rb><rt>か</rt></ruby>の女と島田の女で<ruby><rb>己</rb><rt>じぶん</rt></ruby>を寝室に<ruby><rb>伴</rb><rt>つ</rt></ruby>れて往くのを知りながら睡ったふりをしていた。夜の明け方になって一<ruby><rb>夜中</rb><rt>やじゅう</rt></ruby>睡らずにいた謙作の手は、女の左の腕に往った。

「なにをする」

女は急に起きあがろうとした。と、同時に女の腕に<ruby><rb>鎖</rb><rt>くさり</rt></ruby>で附けてあった袋が謙作の手に移った。

「あ」

女は叫ぶなり<ruby><rb>兎</rb><rt>うさぎ</rt></ruby>のように下へ飛び下りて寝室の外へ逃げた。

謙作はその袋を口に<ruby><rb>啣</rb><rt>くわ</rt></ruby>えて、手早く洋服を着て外へ出たが、<ruby><rb>彼</rb><rt>か</rt></ruby>の女はもう姿も見せなかった。

夜はもう明けていた。謙作の頭ははっきりしていた。彼は一<ruby><rb>丁</rb><rt>ちょう</rt></ruby>ばかり往ったところで、一軒の<ruby><rb>旅宿</rb><rt>やどや</rt></ruby>を見つけたので入って往った。

謙作はその日の夕方<ruby><rb>出帆</rb><rt>しゅっぱん</rt></ruby>した<ruby><rb>高雄丸</rb><rt>たかおまる</rt></ruby>と云う台湾航路の船に姿を見せていた。