## Ⅰ

憲一は裏庭づたいに林の方へ歩いて往った。そこは栃木県の某温泉場で、下には<ruby><rb>澄</rb><rt>す</rt></ruby>みきったＫ川の流れがあって、対岸にそそりたった山やまの緑をひたしていた。<ruby><rb>松</rb><rt>まつ</rt></ruby><ruby><rb>杉</rb><rt>すぎ</rt></ruby><ruby><rb>楢</rb><rt>なら</rt></ruby>などの<ruby><rb>疎</rb><rt>まばら</rt></ruby>に生えた林の中には、落ちかかった<ruby><rb>斜陽</rb><rt>ゆうひ</rt></ruby>が<ruby><rb>微</rb><rt>かすか</rt></ruby>な光を投げていた。そこには<ruby><rb>躑躅</rb><rt>つつじ</rt></ruby>が咲き残り、<ruby><rb>皐月</rb><rt>さつき</rt></ruby>が咲き、胸毛の白い小鳥は<ruby><rb>嫩葉</rb><rt>わかば</rt></ruby>の陰で<ruby><rb>囀</rb><rt>さえず</rt></ruby>っていた。そして、松や楢にからまりついた藤は枝から枝へ<ruby><rb>蔓</rb><rt>つる</rt></ruby>を張って、それからは<ruby><rb>天神</rb><rt>てんじん</rt></ruby>の<ruby><rb>瓔珞</rb><rt>やぐら</rt></ruby>のような<ruby><rb>花房</rb><rt>はなぶさ</rt></ruby>を垂れていた。

（いいなあ）

憲一は足をとめた。

（こんな処にいると、帰るのがいやになるぞ）

憲一の眼には汚い四畳半の下宿が浮んで来た。<ruby><rb>拓殖</rb><rt>たくしょく</rt></ruby>大学に通っている憲一は、小石川の汚い<ruby><rb>炭屋</rb><rt>すみや</rt></ruby>の二階に下宿しているのであった。

（汚いって、お話にならないや）

何年か<ruby><rb>表</rb><rt>おもて</rt></ruby>がえをしたことのない、真黒くなって処どころに穴のあいた畳のことを考えてみた。

（いくら汚いたって、あれじゃやりきれないや）

どこからか一羽の<ruby><rb>蝶</rb><rt>ちょう</rt></ruby>が来て、ひらひらと<ruby><rb>皐月</rb><rt>さつき</rt></ruby>の花の上を飛んで往った。

（とにかく、いい処だ）

憲一はもう汚い下宿のことも忘れていた。林は奥へ往くにしたがって、<ruby><rb>躑躅</rb><rt>つつじ</rt></ruby>と皐月が多くなった。<ruby><rb>朱</rb><rt>しゅ</rt></ruby>、<ruby><rb>紅</rb><rt>べに</rt></ruby>、<ruby><rb>白</rb><rt>しろ</rt></ruby>といちめんに咲き乱れた花は美しかった。憲一はその花の間を<ruby><rb>縫</rb><rt>ぬ</rt></ruby>うて往った。

林の<ruby><rb>端</rb><rt>はず</rt></ruby>れは広い<ruby><rb>草原</rb><rt>くさはら</rt></ruby>になっていた。そこに十坪位の小さい池があってきれいな水を<ruby><rb>湛</rb><rt>たた</rt></ruby>えていたが、その池の<ruby><rb>縁</rb><rt>へり</rt></ruby>にも<ruby><rb>紅紫</rb><rt>こうし</rt></ruby>とりどりの躑躅や皐月の花があった。憲一はその池の<ruby><rb>縁</rb><rt>へり</rt></ruby>へ往って腰をかけた。

「あら、きれいだこと」

ふいに<ruby><rb>人声</rb><rt>ひとごえ</rt></ruby>がしたので、憲一はおやと思ってその方へ眼をやった。今出て来た林の中に<ruby><rb>碧</rb><rt>あお</rt></ruby>い<ruby><rb>瓦</rb><rt>かわら</rt></ruby>を<ruby><rb>葺</rb><rt>ふ</rt></ruby>いた文化住宅のような家があって、明けはなした二階の窓から白い二つの顔が<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いていた。

（おや）

憲一は首をかしげた。

（あんな処に家があったのか）

来るときにはどこにもそれらしいものが見えなかったので、憲一は不思議でならなかった。

（どうした家だろう）

その時また女の声が聞えて来た。

「もう、しめましょうよ」

すると二つの顔が引こんで窓の戸が音もなく締った。憲一の好奇心が動いた。憲一はその方へ往った。建物のまわりには<ruby><rb>円竹</rb><rt>まるたけ</rt></ruby>の垣根があって、<ruby><rb>玉椿</rb><rt>たまつばき</rt></ruby>のような木の花がいちめんに咲いていたが、それは憲一がこれまで見たことのない花であった。

（何の花だろう）

憲一はその垣根に<ruby><rb>跟</rb><rt>つ</rt></ruby>いて往った。垣根が右に曲った処に青い石の門があった。憲一はちょっと立ちどまった。

門の中には右のほうに水のきれいな<ruby><rb>泉水</rb><rt>せんすい</rt></ruby>があって、その<ruby><rb>縁</rb><rt>へり</rt></ruby>に<ruby><rb>仮山</rb><rt>つきやま</rt></ruby>があった。仮山の上には二三本の形のおもしろい小松が植わっていた。その時泉水に面した<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>の<ruby><rb>障子</rb><rt>しょうじ</rt></ruby>が<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>いて、そこから三十位に見える<ruby><rb>洋髪</rb><rt>ようはつ</rt></ruby>の<ruby><rb>姝</rb><rt>きれい</rt></ruby>な女の顔が見えた。憲一は今窓から顔を出した人だろうかとおもって、それに注意したところで、女の姝な顔がこっちをむいて<ruby><rb>莞</rb><rt>にっ</rt></ruby>とした。

憲一はどぎまぎした。憲一はあわてて眼をそらした。その時女の何か云う声がした。と、一方の室の障子が開いておさげにした少女が顔を出した。少女は青い簡単服を着ていた。

少女は女の方へ眼をやったが、やがてその眼をこっちへ持って来た。憲一は女が少女に<ruby><rb>己</rb><rt>じぶん</rt></ruby>のいることを云っていると思った。

（己を怪しいものとでも思ってるだろう、そうだとすれば長くいないがいい）

憲一は急いで門から離れようとした。と、少女は庭へおりてそこにあった<ruby><rb>草履</rb><rt>ぞうり</rt></ruby>を<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>くなり、<ruby><rb>胡蝶</rb><rt>こちょう</rt></ruby>の飛ぶようにひらひらと駆けだして来た。

「あなた」

憲一はしかたなしに<ruby><rb>揮</rb><rt>ふ</rt></ruby>りかえった。少女は憲一の<ruby><rb>後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>へ来ていた。

「どうかお入りくださいまし」

憲一は眼を見はった。憲一は人違いをして呼びに来たものだろうと思った。

「私は、このむこうの旅館へ来てる者ですが、人ちがいでしょう」

すると少女が<ruby><rb>莞</rb><rt>にっ</rt></ruby>とした。

「いいえ、<ruby><rb>貴郎</rb><rt>あなた</rt></ruby>よ」

貴郎よと云われてもそうして呼ばれる心あたりがないのであった。

「でも、私じゃないでしょう」

少女はまた莞とした。

「貴郎よ、奥さまが、お待ち申しておりますわ」

「お、く、さま、奥さまって、どうした方です」

「いらしてくだされば、すぐお判りになります」

少女は憲一の手を<ruby><rb>執</rb><rt>と</rt></ruby>ってぐんぐんと引っぱった。憲一はしかたなしについて往った。

## Ⅱ

憲一は少女に導かれて<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>の中へ入って往った。そこは十畳位もある広い室で、室のなかはいちめんに装飾をほどこしてあった。真中には<ruby><rb>印度綆紗</rb><rt>インドさらさ</rt></ruby>をかけた長方形の<ruby><rb>紫檀</rb><rt>したん</rt></ruby>の<ruby><rb>卓</rb><rt>テーブル</rt></ruby>があって、その左右にはそれぞれ三脚の<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>が置いてあった。<ruby><rb>卓</rb><rt>テーブル</rt></ruby>のむこうには<ruby><rb>燦然</rb><rt>さんぜん</rt></ruby>とした六枚折の<ruby><rb>金屏</rb><rt>きんびょう</rt></ruby>。壁には<ruby><rb>宝玉</rb><rt>ほうぎょく</rt></ruby>が塗り込んであった。憲一は眼を見はった。

「さあ、どうぞ」

少女はぽかんとしている憲一に椅子をすすめた。少女は憲一が腰をかけるのを待っていた。

「ちょっとお待ちくださいまし、すぐ、奥さまがまいります」

少女は<ruby><rb>莞</rb><rt>にっ</rt></ruby>として出て往った。憲一はまた考えた。

（どうした家だろう）

家の<ruby><rb>構</rb><rt>かま</rt></ruby>えから見て、これはどうしても富豪の別荘であるが、人違いでないとすれば、何のために貧乏学生の<ruby><rb>己</rb><rt>じぶん</rt></ruby>を呼び入れたのであろう。

（どうもおかしいぞ）

それに奥さまと云うのはどうした方だろう。憲一はどう考えても判らなかった。

「お待たせいたしました」

憲一ははっとして眼をやった。<ruby><rb>彼</rb><rt>か</rt></ruby>の三十位の背のすらりとした<ruby><rb>姝</rb><rt>きれい</rt></ruby>な女が入って来たところであった。女は<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>に花模様のある黒の<ruby><rb>錦紗御召</rb><rt>きんしゃおめし</rt></ruby>を着ていた。憲一はその気品のある姿に圧せられるように思った。憲一は<ruby><rb>起</rb><rt>た</rt></ruby>ちあがった。

「どうか、そのままで」

女は微笑を見せながら憲一の傍へ来た。

「は」

憲一は棒のようになっていた。

「そのようにかたくるしくなさらないで、どうか」

「は」

憲一は<ruby><rb>眩</rb><rt>まぶ</rt></ruby>しそうに女を見た。

「おかけくださいまし」

女は堅くなっている憲一を促した。女はそれから憲一のむこう側に腰をかけた。そこへ<ruby><rb>彼</rb><rt>か</rt></ruby>の少女がはいって来た。少女の手には<ruby><rb>酒肴</rb><rt>しゅこう</rt></ruby>を乗せた盆があった。少女はそれを<ruby><rb>卓</rb><rt>テーブル</rt></ruby>の上に置いてから、小さな<ruby><rb>盃</rb><rt>さかずき</rt></ruby>をそれぞれ二人の前へ持って来た。

「お<ruby><rb>酌</rb><rt>しゃく</rt></ruby>しましょう」

少女は四角な<ruby><rb>瓶</rb><rt>びん</rt></ruby>を持って憲一の傍へ来た。憲一はきまりがわるいので<ruby><rb>俯向</rb><rt>うつむ</rt></ruby>いていた。女がそれに眼をつけた。

「さあ、どうぞ」

憲一はしかたなしに盃を出した。少女がそれに酌をした。それは<ruby><rb>蒼</rb><rt>あお</rt></ruby>みをおびたどろどろしたものであった。

「あちらからまいりました、お酒でございます」

女はそう云いながら<ruby><rb>己</rb><rt>じぶん</rt></ruby>の<ruby><rb>盃</rb><rt>さかずき</rt></ruby>を<ruby><rb>執</rb><rt>と</rt></ruby>った。少女がまたそれに<ruby><rb>酌</rb><rt>しゃく</rt></ruby>をした。

「めしあがってくださいまし」

「は」

「男のくせに、遠慮なんかなさるものじゃありませんわ」

憲一は思いきって盃を口の<ruby><rb>縁</rb><rt>ふち</rt></ruby>へやった。それは<ruby><rb>香気</rb><rt>こうき</rt></ruby>の高い酒であった。

「二三杯つづけてめしあがれ」

女は憲一の気もちを<ruby><rb>硬</rb><rt>こわ</rt></ruby>ばらさないようにと勤めている<ruby><rb>容</rb><rt>ふう</rt></ruby>であった。憲一もいくらか気もちがほぐれて来た。憲一は思いきってそれを飲んだ。すると少女がすぐ<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>を<ruby><rb>満</rb><rt>みた</rt></ruby>した。

「わたくしは、永い間、<ruby><rb>貴郎</rb><rt>あなた</rt></ruby>のような方のいらっしゃるのをお待ちしておりました」

憲一には女の<ruby><rb>詞</rb><rt>ことば</rt></ruby>の<ruby><rb>意</rb><rt>いみ</rt></ruby>が判らなかった。

「は」

「今日は、やっとその望みがかないましたから、これから家にいらしてくださいまし」

憲一は胸がわくわくした。憲一は思いがけない幸福に<ruby><rb>打</rb><rt>ぶ</rt></ruby>っつかって己ながら驚いた。

そのうちに憲一は酔うて来た。その時どこからか<ruby><rb>壮</rb><rt>わか</rt></ruby>い女の歌う声が聞えて来たが、それは人間の魂を揺りうごかすような声であった。憲一の心はその方へ往った。その時女の何か云う声がした。

「おまえも、あちらへ往ってらっしゃい」

すると<ruby><rb>彼</rb><rt>か</rt></ruby>の少女がひらひらと<ruby><rb>起</rb><rt>た</rt></ruby>って往った。

「二人っきりでゆっくりいたしましょう」

憲一はその声に気が<ruby><rb>注</rb><rt>つ</rt></ruby>いて女を見た。酒にほてった女の顔はいっそう美しかった。

「もすこしめしあがれ」

憲一はもう遠慮がなかった。憲一はすすめられるままに酒を飲み、<ruby><rb>肴</rb><rt>さかな</rt></ruby>を<ruby><rb>喫</rb><rt>く</rt></ruby>った。そのうちに女は憲一の傍へ来て腰をかけた。

「めしあがれ」

女は<ruby><rb>己</rb><rt>じぶん</rt></ruby>の<ruby><rb>盃</rb><rt>さかずき</rt></ruby>を<ruby><rb>執</rb><rt>と</rt></ruby>って憲一の口へ持って往った。憲一は微笑しながら一口飲んで女を見た。女のうるおいのある眼がじっとこちらを見ていた。女はその時憲一の口へやっていた盃を己の口へ持って往った。

女の左手はいつのまにか憲一の肩に来ていた。憲一はうっとりとなっていた。

## Ⅲ

夢のような幸福がつづいた。三日目の朝になって、憲一はふと旅館のことを思いだした。

「ちょっと往って、荷物を持って来ます」

女は淋しそうな顔をしていた。

「そんなことを云って、もういらっしゃらないつもりでしょう」

「そ、そんなことは」

「私は<ruby><rb>貴郎</rb><rt>あなた</rt></ruby>とお別れしては」

女はもう眼に涙を<ruby><rb>溜</rb><rt>た</rt></ruby>めていた。

「すぐ来ますよ」

まもなく女は<ruby><rb>彼</rb><rt>か</rt></ruby>の少女とともに、泣く泣く憲一を見送った。

「ほう、これは」

旅館の<ruby><rb>主翁</rb><rt>ていしゅ</rt></ruby>は憲一の顔を見るなりとびだして来た。旅館では憲一がいなくなったので心配していたところであった。

「どこへ往ってらしたのです」

憲一はそれよりも女の<ruby><rb>素性</rb><rt>すじょう</rt></ruby>を聞こうと思った。

「このむこうにあるのは、どうした家です」

すると主翁が首をかたむけた。

「このむこう」

「そうですよ、林のなかに、立派な家があるじゃありませんか」

「林の中に、そんな家はありませんよ」

「ないことがあるものか、<ruby><rb>姝</rb><rt>きれい</rt></ruby>な奥さんが、いるじゃないか」

「姝な奥さん、お客さんはどうかしてるのですよ、このあたりには、第一そんな家なんかありませんや」

憲一は<ruby><rb>主翁</rb><rt>ていしゅ</rt></ruby>がどうかしているだろうと思った。

「たしかにあるよ、往って見れば、すぐ判る」

そこで憲一は主翁を<ruby><rb>伴</rb><rt>つ</rt></ruby>れてその家へ往った。

「すぐそこだ」

二人は林の中を<ruby><rb>縫</rb><rt>ぬ</rt></ruby>うて往った。やがて見覚えのある<ruby><rb>草原</rb><rt>くさはら</rt></ruby>の中の池が見えて来たが、<ruby><rb>彼</rb><rt>か</rt></ruby>の家らしいものは見えなかった。憲一は首をかしげた。

「たしかにこのあたりだ」

ふと見ると、そこに山小屋か何かの<ruby><rb>腐朽</rb><rt>ふきゅう</rt></ruby>したような<ruby><rb>茅</rb><rt>かや</rt></ruby>や小枝の<ruby><rb>朽</rb><rt>く</rt></ruby>ちたのが一かたまりになっていた。