## Ⅰ

小さくなった雨が庭の<ruby><rb>無花果</rb><rt>いちじく</rt></ruby>の葉にぼそぼそと云う音をさしていた。静かな光のじっと沈んだ絵のような電燈の下で、<ruby><rb>油井</rb><rt>あぶらい</rt></ruby>伯爵の遺稿を整理していた山田<ruby><rb>三造</rb><rt>さんぞう</rt></ruby>は、机の上に積み重ねた新聞雑誌の<ruby><rb>切抜</rb><rt>きりぬき</rt></ruby>や、原稿紙などに書いたものを、あれ、これ、と眼をとおして、それに<ruby><rb>朱筆</rb><rt>しゅふで</rt></ruby>を入れていた。当代の名士で恩師であった油井伯爵が死亡すると、政友や同門からの推薦によって、その遺稿を出版することになり、できるなら百日祭までに、伯爵が晩年の持論であった貴族に関する議論だけでも活字にしたいと思って、<ruby><rb>編纂</rb><rt>へんさん</rt></ruby>に着手してみると、思いのほかに時間がとれて、仕事が進まないのでその当時は徹夜することも珍しくなかった。

一時間も前から眼を通していた二十<ruby><rb>頁</rb><rt>ページ</rt></ruby>に近い菊判の雑誌の切抜がやっと終った。三造は一服するつもりで、<ruby><rb>朱筆</rb><rt>しゅふで</rt></ruby>を置き、体を<ruby><rb>左斜</rb><rt>ひだりななめ</rt></ruby>にして<ruby><rb>火鉢</rb><rt>ひばち</rt></ruby>の傍にある巻煙草の袋を<ruby><rb>執</rb><rt>と</rt></ruby>り、その中から一本抜いてマッチを<ruby><rb>点</rb><rt>つ</rt></ruby>けた。<ruby><rb>夜</rb><rt>よ</rt></ruby>はよほど<ruby><rb>更</rb><rt>ふ</rt></ruby>けていた。さっき便所へ往った時に十二時と思われる時計の音を聞いたが、それから<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>は時間に対する意識は<ruby><rb>朦朧</rb><rt>もうろう</rt></ruby>となっていた。ただ時間と空間に支配せられた、<ruby><rb>頗</rb><rt>すこぶ</rt></ruby>る疲労し切った存在が意識せられるに過ぎなかった。

雨の音はもう聞えなかった。彼は二本目の煙草を点けたところで、その煙が<ruby><rb>円</rb><rt>まる</rt></ruby>い<ruby><rb>竹輪麩</rb><rt>ちくわふ</rt></ruby>を切ったように一つずつ渦を巻いて、それが<ruby><rb>繋</rb><rt>つな</rt></ruby>がりながら飛んで往くのに気が<ruby><rb>注</rb><rt>つ</rt></ruby>いた。彼は不思議な珍らしい物を見つけたと云う軽い驚異の眼でそれを見ながら、ゆっくりゆっくり煙を吐いた。煙はやはり竹輪麩のように渦を巻いて、それが連続しながら天井の方へ昇って往った。そして、その<ruby><rb>靡</rb><rt>なび</rt></ruby>きがぴったり止んで動かなくなったかと思うと、その煙の色がみるみる濃くなり、それが引締るようになると、ものの<ruby><rb>輪廓</rb><rt>りんかく</rt></ruby>がすうと出来た。肩の円みと顔が見えて、<ruby><rb>仙台平</rb><rt>せんだいひら</rt></ruby>の<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>を<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>いた男が眼の前に立った。三造はその<ruby><rb>中古</rb><rt>ちゅうぶる</rt></ruby>になった袴の<ruby><rb>襞</rb><rt>ひだ</rt></ruby>の具合に見覚えがあった。

「どうだ、山田」

と、前に立った人は懐しそうに云って、机の横に<ruby><rb>胡座</rb><rt>あぐら</rt></ruby>をかくように坐り、

「<ruby><rb>伯</rb><rt>はく</rt></ruby>の遺稿は、もうだいぶん進んだかね、あれ程有った伯の政友同志は、皆伯を<ruby><rb>棄</rb><rt>す</rt></ruby>て去った中で、君達数人が、ほんとうに伯のことを思っていてくれたのは、実に感謝の他はない、吾輩も晩年の伯が<ruby><rb>甚</rb><rt>はなは</rt></ruby>だお気の毒であったから、いつも傍にいてあげた、君達はたびたび伯から、<ruby><rb>木内</rb><rt>きうち</rt></ruby>の夢を見たよと云われたことがあるだろう、あれが吾輩の傍にいた証拠だ」

三造は<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>を直してかしこまっていた。彼はその場合、何の矛盾も感ぜずに、非常な<ruby><rb>敬虔</rb><rt>けいけん</rt></ruby>な心を持って先輩に対していた。油井伯爵を首領に<ruby><rb>戴</rb><rt>いただ</rt></ruby>いた野党の中の<ruby><rb>智嚢</rb><rt>ちのう</rt></ruby>と云われた<ruby><rb>木内種盛</rb><rt>きうちたねもり</rt></ruby>は、<ruby><rb>微髭</rb><rt>うすひげ</rt></ruby>の生えた口元まで、三十年<ruby><rb>前</rb><rt>ぜん</rt></ruby>とすこしも変らない<ruby><rb>精悍</rb><rt>せいかん</rt></ruby>な容貌を持っていた。

「しかし、もう、何も往くべき処へ往った、我が党の<ruby><rb>足痕</rb><rt>あしあと</rt></ruby>へは、もう新しい世界の<ruby><rb>隻足</rb><rt>かたあし</rt></ruby>が来ている、吾輩の魂も、これから永遠の安静に<ruby><rb>入</rb><rt>い</rt></ruby>るべき時が来たから、最後の<ruby><rb>言</rb><rt>げん</rt></ruby>として、君にまで<ruby><rb>懺悔</rb><rt>ざんげ</rt></ruby>して置きたいことがあってやって来た」

三造は頭をさげた。

「君は、吾輩が<ruby><rb>至誠</rb><rt>しせい</rt></ruby>病院で<ruby><rb>斃</rb><rt>たお</rt></ruby>れたことを覚えているだろう」

眼に残っている<ruby><rb>金盥</rb><rt>かなだらい</rt></ruby>の血、俄然容態が変って危険に<ruby><rb>陥</rb><rt>おちい</rt></ruby>ったと云う通知を得て、あたふたと<ruby><rb>駈</rb><rt>かけ</rt></ruby>つけて往く先輩の一人に<ruby><rb>跟</rb><rt>つ</rt></ruby>いて、至誠病院の病室へ入った三造は、<ruby><rb>呼吸</rb><rt>いき</rt></ruby>を引きとったばかりの木内の顔に、白いガーゼのかけてあるのを見た。その<ruby><rb>枕頭</rb><rt>まくらもと</rt></ruby>には死人の吐いた血が金盥の中に冷たく光っていた。

（しまった、しまった、しまった）

感情家の先輩は、両手をひしと握りしめて、その<ruby><rb>拳</rb><rt>こぶし</rt></ruby>を胸のあたりで上下に<ruby><rb>揮</rb><rt>ふ</rt></ruby>り動かしながら、床をどしどしと踏んだ。そこには至誠堂病院の院長青木<ruby><rb>寛</rb><rt>かん</rt></ruby>をはじめ、二三人の医師が<ruby><rb>粛然</rb><rt>しゅくぜん</rt></ruby>として立っていた。先輩の眼は院長に往った。

（<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>死んだのです、何故死んだのです、木内君は何故死んだのです）

先輩の眼は憎悪に燃えていた。

（急に容態が変じました、いろいろと手を尽してみましたが、どうも残念でした）

院長はすまして云った。その<ruby><rb>冷</rb><rt>ひやや</rt></ruby>かな調子は三造にまで反感をおこさせた。

（残念と云ってしまえばそれまでだが、この男の体をどう思っているのです）

先輩は<ruby><rb>怒鳴</rb><rt>どな</rt></ruby>りだした。当時<ruby><rb>閥族</rb><rt>ばつぞく</rt></ruby>政府へ肉薄して、政府をして<ruby><rb>窘窮</rb><rt>きんきゅう</rt></ruby>の極に<ruby><rb>陥</rb><rt>おとしい</rt></ruby>れていた野党の中でも、その中堅とせられている某党の<ruby><rb>智嚢</rb><rt>ちのう</rt></ruby>の死亡は、野党にとっての一大打撃であった。三造は先輩の憤激するのも無理はないと思った。

（実にお気の毒です）

院長はまた<ruby><rb>冷</rb><rt>ひやや</rt></ruby>かに云った。先輩の眼は<ruby><rb>金盥</rb><rt>かなだらい</rt></ruby>に往った。先輩の熱した頭はやや<ruby><rb>醒</rb><rt>さ</rt></ruby>めかけていた。

（胃腸の<ruby><rb>病</rb><rt>やまい</rt></ruby>に、こんなに血を吐くことがあるのですか）

（無いにもかぎりません）

（しかしどうもおかしいのですね、これまで木内君は、ちょいちょい胃腸が悪いが、<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>も五六日位、<ruby><rb>口養生</rb><rt>くちようじょう</rt></ruby>さえすれば、すぐ<ruby><rb>癒</rb><rt>なお</rt></ruby>ったし、今度も別に大したこともないが、下宿では政友が押しかけて来て<ruby><rb>煩</rb><rt>うる</rt></ruby>さいから、保養のつもりで入院すると云ってた位だから、こんなことはあらわれないはずだ）

（私もはじめには、たいしたことはないと思っておりましたが、急にこんなになりました、どうもお気の毒です）

そこへ三四人の同志が来たので、その先輩と院長の応対はそれっきりになったが、その<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>でも同志の中では、三造の先輩と同じように木内の死因に疑いを挟んで、院長と交渉した者もあったと云うことを聞いた。また、その野党の総理であった油井伯爵は、関西方面へ旅行中、旅先でそれを聞いて驚いて帰京したが、これまたその死因を疑って、死体を解剖に<ruby><rb>附</rb><rt>ふ</rt></ruby>すると云って<ruby><rb>口惜</rb><rt>くや</rt></ruby>しがったけれども、結局そのままになってしまった。三造はその当時、その周囲から口ぐちに、

（木内君は毒殺せられた）

と云うことを聞いた。そして、その院長が次第に社会的に<ruby><rb>栄達</rb><rt>えいたつ</rt></ruby>して、男爵を<ruby><rb>授</rb><rt>さず</rt></ruby>けられた時にも、

（木内を殺した<ruby><rb>功</rb><rt>こう</rt></ruby>さ）

と、云うようなことを云う者があって、忘れていた過去の記憶を呼び起されたこともあった。……

「あれは、君、僕はあの時、青木のためにガラスの粉末を飲まされたのだ、それを青木に頼んだ者は、<ruby><rb>三田尻</rb><rt>みたじり</rt></ruby>と山口さ、実に<ruby><rb>卑怯千万</rb><rt>ひきょうせんばん</rt></ruby>な奴だが、<ruby><rb>謀</rb><rt>はかりごと</rt></ruby>は見事図に当って、野党の歩調が乱れ、予算の大削減にも<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>わず、内閣も倒壊せずに済んださ、その時から青木は、もう男爵になることになっていた」

三造はまた頭をさげた。

「僕はこの悪漢に対して、すぐ思い知らしてやろうと思ったが、そのままでは復讐の効力が強くないから、時節の来るのを待っていたのだ、が、その時節がとうとうやって来た、君は昨年から本年にかけて、<ruby><rb>彼奴</rb><rt>あいつ</rt></ruby>の家に大きな不幸の来たのを知ってるだろう、それさ、彼奴は思いのままに男爵になり、金にも名誉にも不足が無くなったので、このうえは、二人の男の子を立派な人間にしたいと思いだした、彼奴が時どき<ruby><rb>己</rb><rt>じぶん</rt></ruby>の<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>で、<ruby><rb>細君</rb><rt>さいくん</rt></ruby>や親しい<ruby><rb>朋友</rb><rt>ともだち</rt></ruby>に向って、

（あの二人さえ、一人前の人間になってくれるなら、もう何も<ruby><rb>遺憾</rb><rt>いかん</rt></ruby>なことはない）

などと云っているのを見て、僕は、

（今に見ろ、一人前の人間になりかけたところで、復讐してやるぞ）

と<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いたことがあったさ、それで、二人とも大学を出たので、彼奴は知人の間を運動して、兄の方の小供を<ruby><rb>満伊</rb><rt>みつい</rt></ruby>商会へ入れ、弟は医科だから、己の経営している病院の副院長と云う事にしたのだ、

復讐の舞台が出来たのだよ、

そこで昨年になって、サンフランシスコの支店長となった兄の子の方から手をくだしたのだ、<ruby><rb>爺親</rb><rt>おやじ</rt></ruby>の血を受けて、意志の強い比較的厳格な奴を、<ruby><rb>先</rb><rt>ま</rt></ruby>ずオペラへ引きだして、その座の人気役者で腕の凄い女に関係さして、その手でうんと金を絞らしたら、<ruby><rb>奴</rb><rt>やっこ</rt></ruby>さん苦しくなり、部下となっている<ruby><rb>遊朋友</rb><rt>あそびともだち</rt></ruby>に勧められて、投機に手を出したところが、みるみる六十万円と云う穴を開けてしまったさ、それで、一方女の方では、<ruby><rb>年少</rb><rt>としした</rt></ruby>の情夫があって、奴さんから絞り<ruby><rb>執</rb><rt>と</rt></ruby>った金を、その情夫と<ruby><rb>媾曳</rb><rt>あいびき</rt></ruby>の費用にして遊んでいたのを、奴さんうすうす知って、<ruby><rb>煩悶</rb><rt>はんもん</rt></ruby>しているところへ、投機の一件が本店の方へ知れて、本店から急に呼び返されたのでいよいよ困り、このうえはなんとか身の所置をしなくてはならないと思って、考え考え、ふらふらと<ruby><rb>彼</rb><rt>か</rt></ruby>の女の<ruby><rb>許</rb><rt>もと</rt></ruby>へ、足の向くままに往ってみたさ、ホテルの三階になった<ruby><rb>彼</rb><rt>か</rt></ruby>の女の<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>へは、<ruby><rb>年少</rb><rt>としした</rt></ruby>の情夫が来ていて、<ruby><rb>微暗</rb><rt>うすぐら</rt></ruby>い電燈の下で話していたが、奴さんは入口へ立って<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>を<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>こうとすると、不思議に<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>いているので、そのまま<ruby><rb>静</rb><rt>しずか</rt></ruby>に入って往ったのだ、中の二人は<ruby><rb>睦</rb><rt>むつま</rt></ruby>じそうに話しているところへ、不意の<ruby><rb>闖入者</rb><rt>ちんにゅうしゃ</rt></ruby>があったので、びっくりして離れ離れになって<ruby><rb>起</rb><rt>た</rt></ruby>ちあがったが、入って来た者が奴さんだと知ると、<ruby><rb>平生</rb><rt>へいぜい</rt></ruby>からばかにしきっている女は、

（犬のようにそっと入って来るなんて、<ruby><rb>貴郎</rb><rt>あなた</rt></ruby>はよっぽど<ruby><rb>卑怯者</rb><rt>ひきょうもの</rt></ruby>ですわね）

と云うと、奴さんしかたなく笑いながら、

（そう云ってくれるな、<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>いていたから入ったまでだ、たくらんでそっと入ったものじゃないよ）

と、穏かに云ったものの、うすうす知っている情夫の青年と睦じそうにしているところを見せつけられたので、頭の中は穏かでなかった、

（だから日本人は嫌いと云うのですよ、嘘つき、今私が締めた<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>が、どうして<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>いてるのです、なにか私の秘密でも探ろうと思って、合鍵を持って来て、それで開けたのでしょう、出て往ってください、一刻も置くことはなりません）

と、女は情夫との<ruby><rb>媾曳</rb><rt>あいびき</rt></ruby>の場所を見られた腹立ちまぎれに<ruby><rb>怒鳴</rb><rt>どな</rt></ruby>りだした、すると<ruby><rb>奴</rb><rt>やっこ</rt></ruby>さんむらむらとして来た。

（よし、お前のような恩知らずの<ruby><rb>畜生</rb><rt>ちくしょう</rt></ruby>のところには、おれと云ってもおってやらないさ、帰る）

と云うと、

（帰ってくださいとも、犬のような奴は、一刻も置くことは出来ません、帰ってください、出てください）

と、女は奴さんに向って進んで来て、突き飛ばしそうにする、奴さんも<ruby><rb>肱</rb><rt>ひじ</rt></ruby>を張って女を迎えようとしたが、思い返して<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>の外へ出た、女は追って来て<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>をぴしりと締めたさ、<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>の出口には、<ruby><rb>蒼白</rb><rt>あおじろ</rt></ruby>い<ruby><rb>瓦斯燈</rb><rt>がすとう</rt></ruby>の光があって、その光の中に僕の顔が浮き出ていたが、奴さんは僕の顔を知らないから、

（変な顔が見えたぞ、頭の具合かな）

と、眼をつぶって頭を一つ<ruby><rb>揮</rb><rt>ふ</rt></ruby>ったさ、しかし、僕はまだ顔を出していたから、奴さんまた僕の顔を見たが、もうその時は、頭の具合かなどと、<ruby><rb>己</rb><rt>じぶん</rt></ruby>の頭を疑ってみるような反省力は無くなっている、奴さんは恐れて、<ruby><rb>螺旋形</rb><rt>らせんけい</rt></ruby>の階段を走りおりて<ruby><rb>街路</rb><rt>とおり</rt></ruby>へでたのだ、そして、奴さんの意識は<ruby><rb>朦朧</rb><rt>もうろう</rt></ruby>となってしまったさ、奴さんは<ruby><rb>人道</rb><rt>じんどう</rt></ruby>も<ruby><rb>車道</rb><rt>しゃどう</rt></ruby>も区別なしに歩いていると、<ruby><rb>荷物</rb><rt>かもつ</rt></ruby>自動車がやって来たさ、奴さんは腹部を引かれて大腸が露出したが、それでも二日ばかり生きていたのだ、君は昨年の九月の新聞に、満伊商会の支店長が<ruby><rb>過</rb><rt>あやま</rt></ruby>って自動車に<ruby><rb>轢</rb><rt>ひ</rt></ruby>かれて、死亡したと云う記事の載っていたのを読んだことがあるだろう、あれさ」

三造は<ruby><rb>頷</rb><rt>うな</rt></ruby>ずいてみせた。

## Ⅱ

「今度は医学士の弟の方だが、彼には<ruby><rb>五歳</rb><rt>いつつ</rt></ruby>になる女の子があって、悪漢のお<ruby><rb>祖父</rb><rt>じい</rt></ruby>さんが、非常に可愛がっていたから、それからさきへやったのだ、むせむせする<ruby><rb>晩春</rb><rt>はるさき</rt></ruby>のことだ、その小供が二階の窓の下で遊んでたから、二三本の赤い<ruby><rb>芥子</rb><rt>けし</rt></ruby>の花を見せてやったさ、小供の心はすぐその花へ来た、小供は手を<ruby><rb>延</rb><rt>の</rt></ruby>べて<ruby><rb>執</rb><rt>と</rt></ruby>ろうとしたが執れない、そこで、

（<ruby><rb>春</rb><rt>はる</rt></ruby>や、春や）

と、<ruby><rb>小間使</rb><rt>こまづかい</rt></ruby>を呼んだが、返事がないので、じれて来て、窓へ<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>きあがろうとしたが、あがれない、

（春や、春や、春やってば）

と、今度は怒って呼んだが、それでも小間使はやって来ない、僕はその花を小供の眼から離さないように努力していたものさ、そこで、小供は小さな頭をひねって、その花を<ruby><rb>執</rb><rt>と</rt></ruby>る法を考えたが、やっと<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>のことを思いだして、<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>の中から、よっちょらよっちょらと引張って来て、<ruby><rb>窓際</rb><rt>まどぎわ</rt></ruby>へ<ruby><rb>据</rb><rt>す</rt></ruby>え、その上にあがって執ろうとしたが、花が<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>めないので、窓の敷居の上へ<ruby><rb>這</rb><rt>は</rt></ruby>いあがって、手を一ぱいに延べたので、そのまま下へ落ちてしまったさ、小供には気の毒だが、悪漢の悲しんでいた<ruby><rb>容</rb><rt>さま</rt></ruby>が痛快だったね、

医師はその<ruby><rb>比</rb><rt>ころ</rt></ruby>から神経に故障が出来たのだ、ある<ruby><rb>夜</rb><rt>よ</rt></ruby>、眼を覚してみると、並びの寝台に寝ているはずの<ruby><rb>細君</rb><rt>さいくん</rt></ruby>の姿が見えないのだ、細君の行動に疑問を抱くようになっていた<ruby><rb>奴</rb><rt>やっこ</rt></ruby>さんは、そっと<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>を出て、廊下を通って父親の居間になっている日本間の方へ往くと、廊下のとっつきの<ruby><rb>小座敷</rb><rt>こざしき</rt></ruby>で人の気配がするのだ、奴さん、そっと<ruby><rb>障子際</rb><rt>しょうじぎわ</rt></ruby>へ寄って耳を立てると、むし笑いに笑う女の声がするが、それがどうしても細君だ、奴さん頭がかっとなるとともに、体が<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>ひだしたがすぐ奴さんに自制力が出来た、

（ただ<ruby><rb>亢奮</rb><rt>こうふん</rt></ruby>する時でないぞ）

と、奴さんは歯をくいしばったのだ、そして、耳を澄まして見ると、女の声は無くなって、父親が何か小さい声で話している声が聞える、

（しかし、あの笑い声は、たしかに彼だ）

奴さんは<ruby><rb>近比</rb><rt>ちかごろ</rt></ruby>細君の行動の怪しいことから、傍の寝台にいなかったこと、むし笑いに笑った女の声が、たしかに細君の声であったことを思いだして、世界が暗くなったのだ、しかし、

（待てよ、このことは、<ruby><rb>己</rb><rt>じぶん</rt></ruby>の身にとって、青木一家にとって、極めて重大な事件だ、これは、好く前後を考えたうえの所置にしなければならん）

と、奴さん<ruby><rb>稍</rb><rt>やや</rt></ruby>精神がはっきりしたので、己の寝室へ帰って往ったのだ、そして、室の中へはいってみると、細君は己の寝台の上ですやすや<ruby><rb>睡</rb><rt>ねむ</rt></ruby>っているのだ、奴さんは己の神経の<ruby><rb>狂</rb><rt>くるい</rt></ruby>で奇怪な幻を<ruby><rb>画</rb><rt>えが</rt></ruby>いたことに気が<ruby><rb>注</rb><rt>つ</rt></ruby>かないから、びっくりして眼を<ruby><rb>睜</rb><rt>みは</rt></ruby>ったのだ、そこで奴さんは、その晩のことは己の邪推であったと思うようになったが、それでも細君に対する疑惑は薄らがなかったさ、それから五六日して、夕方<ruby><rb>芝口</rb><rt>しばぐち</rt></ruby>を散歩していると、<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>から一台の自動車が来たが、ふと見ると、それには深ぶかと青い<ruby><rb>窓掛</rb><rt>まどかけ</rt></ruby>を垂れてあった、それが<ruby><rb>奴</rb><rt>やっこ</rt></ruby>さんを追越そうとしたところで、中からちょっと窓掛を<ruby><rb>捲</rb><rt>ま</rt></ruby>いて、白い顔を出した女があった、それが<ruby><rb>細君</rb><rt>さいくん</rt></ruby>さ、細君はその日三時から<ruby><rb>本郷</rb><rt>ほんごう</rt></ruby>の公爵家で催す音楽会へ往っている<ruby><rb>筈</rb><rt>はず</rt></ruby>である、おかしいぞと思って、内を<ruby><rb>透</rb><rt>す</rt></ruby>かすと、男の<ruby><rb>隻頬</rb><rt>かたほお</rt></ruby>が見えた、それは父親の顔であった、奴さんの<ruby><rb>眼前</rb><rt>めさき</rt></ruby>はまた暗んだのさ、

（<ruby><rb>怪</rb><rt>け</rt></ruby>しからん、怪しからん）

奴さん<ruby><rb>自暴自棄</rb><rt>やけくそ</rt></ruby>になって、もと往ったことのある<ruby><rb>烏森</rb><rt>からすもり</rt></ruby>の<ruby><rb>待合</rb><rt>まちあい</rt></ruby>へ往って、女を<ruby><rb>対手</rb><rt>あいて</rt></ruby>にして酒を飲んでいたが、それも面白くないので、十二時<ruby><rb>比</rb><rt>ころ</rt></ruby>になって<ruby><rb>自宅</rb><rt>うち</rt></ruby>へ帰ったさ、

（今日は大変面白うございましたよ）

と、奴さんを待っていた細君が<ruby><rb>悦</rb><rt>うれ</rt></ruby>しそうな顔をして云うのを、何も云わずに<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>みつけたさ、細君はその<ruby><rb>凄</rb><rt>すご</rt></ruby>い眼の光を見て、どうしたことが出来たのかと思って、口をつぐんではらはらとして立ったのだ、僕はその時、細君の横手になった大きな<ruby><rb>姿見</rb><rt>すがたみ</rt></ruby>の中へ顔を出していたが、二人とも見なかったのだ、それから五六日<ruby><rb>経</rb><rt>た</rt></ruby>った、奴さんとろとろ<ruby><rb>睡</rb><rt>ねむ</rt></ruby>っていて、眼を開けてみると、また細君がいない、しかし<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>かの夜のことがあっているので、好く眼を<ruby><rb>据</rb><rt>す</rt></ruby>えて見定めてみたが、たしかにいないと云うことが判った、が、また便所へ往っていないとも限らないと思って、十分ばかり起きあがらずに待っていたが、細君は入って来ない、そこでまた廊下へ出て、廊下を日本間の方へ往ったのだ、往ってみると、怪しい<ruby><rb>囁</rb><rt>ささやき</rt></ruby>のしていた<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>の前の雨戸が五六寸<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>いているから、それを見ると、その<ruby><rb>開口</rb><rt>あきぐち</rt></ruby>を広くして<ruby><rb>裸足</rb><rt>はだし</rt></ruby>で庭へおりたさ、遅い月が出て、庭は明るかった、池の傍を廻って、新緑の<ruby><rb>匂</rb><rt>におい</rt></ruby>のぷんぷんする植込みの下の暗い処を歩いて、<ruby><rb>仮山</rb><rt>つきやま</rt></ruby>の<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>になった<ruby><rb>四阿屋</rb><rt>あずまや</rt></ruby>の方へ往ったのだ、四阿屋の中には、人のひそひそと話す声がしていた、枝葉の間からそっと<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>くと、月の陰になって中にいる人は見えないが、あまえるような女の声はたしかに<ruby><rb>細君</rb><rt>さいくん</rt></ruby>で、他の声はがすがすする父親の声なのだ、

（なんと云う醜体だ）

と、<ruby><rb>奴</rb><rt>やっこ</rt></ruby>さんは<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>ひだしたが、<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち引返して<ruby><rb>己</rb><rt>じぶん</rt></ruby>の寝室へ入り、机の<ruby><rb>抽斗</rb><rt>ひきだし</rt></ruby>にしまってあった<ruby><rb>短銃</rb><rt>ぴすとる</rt></ruby>を持って、はじめの処へ往き、また、枝葉の間から眼を出して、四阿屋のなかを<ruby><rb>透</rb><rt>す</rt></ruby>かして見た、四阿屋の中では話声はしなかったが、もそりもそりと物の気配がしていた、

（<ruby><rb>畜生</rb><rt>ちくしょう</rt></ruby>どもたしかにいるぞ）

と、奴さんは眼を<ruby><rb>睜</rb><rt>みは</rt></ruby>ったさ、白い手や白い顔がはっきりと暗い中に見えた、奴さんの右の手の<ruby><rb>短銃</rb><rt>ぴすとる</rt></ruby>の音が大きな音を立てたのだ、

（<ruby><rb>貴方</rb><rt>あなた</rt></ruby>は何をなさるのです）

奴さんが<ruby><rb>短銃</rb><rt>ぴすとる</rt></ruby>を持ち出して往く姿をちらと見て、<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>をつけて来た細君が抱きついたのだ、四阿屋の中には僕の影がおったさ、そこへ悪漢の青木が来る、書生が来るして、発狂してしまった奴さんを<ruby><rb>執</rb><rt>と</rt></ruby>り押えたのだ、その奴さんは、今至誠病院の一<ruby><rb>室</rb><rt>しつ</rt></ruby>で狂い廻って、悪漢の心をさんざんに<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>き乱しているが、もう長いことはないし、悪漢の寿命も<ruby><rb>今明年</rb><rt>こんみょうねん</rt></ruby>のものさ、僕は思いどおりに復讐することができたが、こうなってみると<ruby><rb>仇</rb><rt>かたき</rt></ruby>ながらも可哀そうだ」

私にこの話を聞かしてくれた<ruby><rb>仮名</rb><rt>かりな</rt></ruby>の山田三造君は、最後にこんなことを云った。

「それが夢であったか、起きていた時であったか、どうもはっきりしないが、その朝、隣室で小供といっしょに寝ていた<ruby><rb>妻</rb><rt>さい</rt></ruby>が、<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>遅くお客さんがありましたね、長いこと何か話してましたね、それからお客さんのかえりに、<ruby><rb>貴方</rb><rt>あなた</rt></ruby>がお客さんに<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>をして、玄関の戸を締めたことを、うつつに覚えておりますよと云ったが、僕にはその覚えがない」