人物

田代三夫

同ぬい子

劉鯤

瑩芳

  


舞台は、横浜郊外にある田代三夫の家の応接間。

外人の設計になる瀟洒なヴィラを、特別の事情で安く借り受け、愛妻ぬい子と二人きりで、結婚後三年の今日、まだ蜜月の生活を楽しんでゐる田代は、永く海外で暮した結果、何処か日本人離れのした神経の鈍さと、それを補ふ感情の濃やかさがある。

細君のぬい子は、生粋の横浜ツ子で、両親は、外人相手の土産物商をしてゐたのだが、彼女の結婚後は、店を人に譲り、鶴見辺に隠居所を建てゝ、豊かな余生を送つてゐる。

田代は現在、南洋貿易を専業とする某商会の庶務課長で、三十六にして既に頭髪の半ばを失ひ、十二違ひのぬい子は、それがために、思ひ切つた若作りのできないことが唯一の憾みである。

正月のある日の午後。

田代は、ヴェランダで新聞を読んでゐるが、やがて、応接間へはひつて来る。

田代　　僕はやつぱり<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>にゐよう。なんだか、急に用事ができさうだ。ほんたうなら一寸店へ顔を出すところなんだが、家にもゐないとなると、まさかの時困るよ。

ぬい子　　（隣りの部屋から下着だけの半身を出し）あら、そいぢや、あたしは……？　折角、もう用意をしてるんぢやないの。

田代　　だから、お前さんだけ行つて来ればいゝぢやないか。さうおしよ。ね。お父さんやお母さんは、結局、お前さんの顔が見たいだけなんだ。御年始はもうすんでるんだから、またゆつくりした時遊びに行くつて、さう云つてくれ。

ぬい子　　つまんないわ。あんたと一緒だからと思つて、こんなにおめかしをしたんぢやないの。

田代　　そんな駄々をこねるもんぢやない。女がおめかしをして損になつた<ruby><rb>例</rb><rt>ため</rt></ruby>しなんかない。

ぬい子　　それより、電話でお店の様子を訊いてみたらどう？

田代　　用事は<ruby><rb>何</rb><rt>な</rt></ruby>ん時起るかわからないんだ。休みの<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>つていふものは、臨時の用件が多いんでね。

ぬい子　　そんなら、ちやんと朝から、お店へ出てれば文句はないんだわ。今日鶴見へ行かうなんて云ひだしたのは、あんたなのよ。

田代　　それやわかつてるさ。あゝいふ案内も来てるし、お前さんも楽しみにしてたんだから、出来ればさうしようと思つたんだ。しかし、考へてみると、近頃、少し、怠け過ぎてるからね。

ぬい子　　ぢや、あたしも、今日はよすから、これからお店へ行つてらつしやい。

田代　　そんなことしなくつてもいゝさ。お前さんは行つておいでよ。僕は僕でいゝやうにするから……。

ぬい子　　それより、あんたこそ、先へお出掛けなさいよ。あたしはあたしで勝手にするから……。

田代　　怒つたんだね。よし、そんなら、よし……。

ぬい子　　なにが、よしなの？　（外套をひつかけて出て来る）あんた、少し、変よ。あたしを追ひ出しといて、一体、<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>でどうしようていふの？

田代　　後でどうする？　どうもしないさ。そんなにぢろぢろ人の顔を見るもんぢやない。第一、この顔になんにも書いてありやしないよ。

ぬい子　　書いてある。書いてある。ちやんとわかるわ。

田代　　どう書いてある？

長い沈黙。

ぬい子　　あたしが出た後で、お店でなく、どつかへ行くつもりなんでせう。どつかで、誰かと会ふ約束をしたんでせう。

田代　　そんなら、店へ行つて、その足で会ひに行くさ。

ぬい子　　あたしを家に置いとくとあぶないから、鶴見かどつか、遠くへやつとかうと思ふんでせう。それには、自分も行くやうな顔してないと、人がいやだつて云ふと思つて……。

田代　　そんなら鶴見まで送つて行つといて、一人で引返して来るよ。

ぬい子　　それだけの<ruby><rb>手数</rb><rt>てすう</rt></ruby>をはぶくつもりなのよ。

田代　　そんなに心配なら、僕の帽子と靴を、戸棚へしまつて、鍵をかけて行き給へ。

ぬい子　　スリツパを穿いてだつて行けるわ。

田代　　帽子のことは云はないね。

ぬい子　　いゝぢやありませんか。あんたは禿がお得意なんだから……。

田代　　別に得意でもない。たゞ、お前ほど気にしないだけだ。

ぬい子　　そいぢや、折角髪まで<ruby><rb>結</rb><rt>ゆ</rt></ruby>はせたんだから、一人で行つて来るわよ。

田代　　あゝ、行つといで……。

ぬい子は、諦めて部屋にはいる。

田代　　僕が家にゐるかどうか、向うから電話をかけて御覧。僕の声は覚えてるだらう。

（彼は、さう云つてるうちに、だんだん<ruby><rb>焦</rb><rt>い</rt></ruby>ら<ruby><rb>焦</rb><rt>い</rt></ruby>らしはじめる。部屋中を歩きまはる、時々額に手をあてゝ考へ込む。）

ぬい子が、いきなり、飛び出して来る。今度は外套も付けず、露はな両腕を胸にあてゝ、威嚇するやうな身構へをする。

ぬい子　　あんた、誰かを待つてるんでせう。

田代　　誰を……？

長い沈黙。

ぬい子は、夫のとぼけた顔を尻目にかけて、部屋へひつ込む。やがて、また、不意に顔を出す。

田代　　なんだい。

ぬい子　　なんでもない。（首をひつこめる）

今度は、田代が部屋の戸を開けに行く。

ぬい子　　あら、失礼ぢやないの。

田代　　早くしろよ。日が短いんだぜ。

ぬい子　　（洋服の襞を直しながら現はれる）

田代　　自動車を呼んで来てやらうか。

ぬい子　　（長椅子に腰をおろし）隠すならいゝわ、隠したつて……。その代り……その代り……。

田代　　泣くやつがあるかい。なにを隠してるつていふんだ。

ぬい子　　隠してるから隠してるつていふんだわ。そんなことぐらゐわからなくつてどうするの。

田代　　お前さんは恐ろしい女だなあ。それとも、おれは<ruby><rb>硝子</rb><rt>がらす</rt></ruby>みたいな男かな。

ぬい子　　そつちよ。

田代　　なんにも隠しやしないよ。これだけは、お前さんが知らずにゐた方がいゝと思つたまでだ。

ぬい子　　それ御覧なさい。

田代　　だから、そんなに云ふなら、話してやるよ。たゞ、驚いちやいけないよ。

ぬい子　　待つて……。あたしがそんなに驚くことなの？

田代　　驚くだらうと思ふね。驚いた方が自然だね。

ぬい子　　あんたは平気なことなの？

田代　　それが、さうは行かないんだ。

ぬい子　　さうでせう。<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆふべ</rt></ruby>から、あんたはどうも変だわ。

田代　　度を失つてる形だね。

ぬい子　　そわそわしてるわ。

田代　　<ruby><rb>床</rb><rt>とこ</rt></ruby>へはひる前に、わざわざ靴の紐を結び直すなんか、生れてから、昨夜が初めてだ。お前さんの云ふことは、半分しか耳へはひらない。

ぬい子　　耳はどうだか知らないけれど、眼附も丸で違ふわ。

田代　　それやさうだらう。僕にしてみれば、生きるか死ぬかの問題だ。

ぬい子　　そんな大事件なの？

田代　　うん、大事件だ。

ぬい子　　それを、あんた一人で心配してるの？　あたしには相談してくれないの？

田代　　さう云つてくれるのは有りがたい。だが、これだけは、さつきも云つた通り、お前さんの耳に入れずに済まさうと思つたんだ。

ぬい子　　お店のことで、何か間違ひでも起したの。

田代　　そんなことならなんでもない。店をやめちまふまでのことだ。

ぬい子　　だから、お金のことなんかで……。

田代　　違ふ。そんなら、<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>の中をうろうろしてる<ruby><rb>暇</rb><rt>ひま</rt></ruby>に、外をあつちこつち駈け廻るさ。

ぬい子　　誰か、人が来ることは来るんでせう。

田代　　かうなればしかたがない。云ふだけは云つとくよ。あとは僕に<ruby><rb>委</rb><rt>まか</rt></ruby>しときなさい。お前さんは、兎に角、<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>にゐない方がいゝ。早く鶴見へ行きなさい。

ぬい子　　（極度の不安に襲はれ）わかつた。

田代　　わかつたか。

ぬい子　　あの人が来たのね。

田代　　さうだ。<ruby><rb>劉</rb><rt>りう</rt></ruby>が日本へやつて来たんだ。

ぬい子　　（愕然として起ち上り）あゝ！

田代　　それ御覧。そんなに驚くぢやないか。

ぬい子　　（急に田代の腕に取り縋り）あんた、どうしませう……。ほんとにどうしませう。

田代　　しかたがないさ。ぶつかつてみるだけだ。

ぬい子　　どうして、それがわかつたの。

田代　　昨日、店へ電話がかゝつたんだ。僕は出なかつたが、取次のものに、明日夕方行くから家で待つてろと云つたさうだ。

ぬい子　　人違ひぢやないの？

田代　　<ruby><rb>南京</rb><rt>なんきん</rt></ruby>から来た<ruby><rb>劉鯤</rb><rt>りうこん</rt></ruby>と云へば、ほかに誰がゐる。

ぬい子　　なにしに来たんでせう。

田代　　日本へ来たのは別に不思議はないさ。あの当時の様子では、また出て来られるとは思はなかつたが、その後、事情がどう変つたか、音信不通の間柄で、わかる筈がない。

ぬい子　　こゝへ来るとすれば、やつぱり、あの問題でせうね。

田代　　それをどう問題にするかが寧ろ問題だ。先生は、日本にも長くゐたんだから、まさかわれわれの気持がわからない筈はないと思ふんだが、支那人つていふ奴は、何処か執念深いところがあつて、ことによると、思ひ切つた解決を<ruby><rb>目論</rb><rt>もくろ</rt></ruby>んでゐやしないかとも考へられるんだ。

ぬい子　　さうよ、普断はおとなしさうに見えて、なんかつていふ時には、いつでも、薄気味の悪い調子が出るのよ。はじめ、あたしを呉れつて云ひ出した時なんか、<ruby><rb>断</rb><rt>ことわ</rt></ruby>ればどんなことをされるかわからないつて気がしたわ。

田代　　そん時、断つといたら、こんなことにはならなかつたんだ。

ぬい子　　でも、母さんが、とても乗気だつたの。なにしろ、お金は唸るほどもつてるし、家柄はあつちでもいゝつて云ふんだし、日本の大学は出てるし、それに父さんも、あたしに直接話を持ち出さなかつたつていふところが、すつかり気に入つたんだわ。

田代　　で、結局、お前さんも承知したんだから、今更、何を言つたつてはじまらないさ。

ぬい子　　だから、はじめは、すぐにうんとは云はなかつたのよ。

田代　　僕は、南京で先生と親しくなつた当座、そんな話は、丸で知らなかつたんだ。ところが、僕が日本へ帰るつていふ前の晩だ。先生は、僕を<ruby><rb>晩飯</rb><rt>ばんめし</rt></ruby>に呼んで、是非頼みたいことがあると云ふんだ。

ぬい子　　（眼を伏せる）

田代　　なんだと云ふと、実はこれこれで、日本に<ruby><rb>許嫁</rb><rt>いひなづけ</rt></ruby>がある。三ヶ月といふ約束で、遺産の整理かたがたちよつと帰つて来たんだが、なにしろ、土地の管理人を呼び集めるだけで一月はかゝるといふ始末で、その上訴訟事件に引つかゝつて、三ヶ月といふ約束は、もう過ぎてしまつた。手紙だけでは、相手も不安心だらうから、君が帰つたら、一つ、本人を始め両親にも会つて、よく事情を話してくれ。決して約束を履行しないつもりぢやない。それどころか、一日も早く式を挙げに帰りたいと思つてゐる。もうあと三ヶ月待つてくれ。

ぬい子　　その三ヶ月が、また駄目だつたんだわ。

田代　　いや、しかし、僕が、はじめてお前さんの家へ行つた時、劉君の<ruby><rb>言</rb><rt>こと</rt></ruby>づけだけを伝へて、それで満足すれば、なんのことはなかつたんだ。つまらない用事にかこつけて、その後、しげしげと足を運んだのがわるかつた。帰りが、もうあと三ヶ月延びるといふ知らせがあつた時、僕たちは、内心、ほつとしたもんだ。

ぬい子　　やつぱり、あたしは、あの人を愛してなかつたんだわ。

田代　　それにしても、男として、友人の信頼を裏切るやうな真似はできない。僕は、決心して横浜を去らうとした。いや、お前さんのそばを遠ざからうとした。

ぬい子　　あたしが許さなかつたのね。

田代　　僕は、だから、<ruby><rb>虜</rb><rt>とりこ</rt></ruby>も同然だ。しかし、罪はお前さんばかりにあつたんぢやない。

ぬい子　　もちろんよ。だけど、あたしが、劉さんに出した手紙、あんたも読んだわね。

田代　　その返事はたうとう来なかつた。黙つてゐるのは承諾のしるしとばかり、どしどし事を運んだのは、今から考へてみると、少し乱暴だつた。

ぬい子　　あたしたちを、それや恨んでるつていふ話、誰から聞いたんだつけ……？

田代　　南京領事館の<ruby><rb>落合</rb><rt>おちあひ</rt></ruby>さ。君の手紙をもつて、先生のところへ呶鳴り込んだつていふんだ。日本人は見下げ果てた人種だつて云つたさうだ。

ぬい子　　あたし、今だから云ふけど、あの人があたしを殺しに来た夢を、何度見たか知れないわ。

田代　　僕も今だから云ふけれど、かうしてゐて、一日も暢気な日つていふのはなかつたんだ。あの男は、話によると<ruby><rb>香港</rb><rt>ホンコン</rt></ruby>で<ruby><rb>伊太利</rb><rt>イタリー</rt></ruby>の士官と決闘をしてるんだよ、日本に来る前だ。中学の学生の頃だよ。

ぬい子　　へえ、ちつとも知らなかつたわ。

田代　　相手の奴はピストルで、先生は短刀さ。それで、相手が喉をやられたんだよ。グサッとね……。

この時、玄関の呼鈴が鳴る。両人、ギクリとして顔を見合はす。田代はぬい子に、奥にはいれといふ合図をする。ぬい子、不安げに隣室のドアを開け、姿を消す。

また呼鈴が鳴る。田代、意を決してその方に行く。

やがて、劉鯤、支那服にて現はれる。

顔は純粋の東洋型であるが、色は白く、眼は鋭く、癖のある唇に意味ありげな微笑を泛べたところ、凄味は十分である。田代が、その後からはひつて来る。何か云はうとするが、舌が硬ばつてゐるに違ひない。たゞ、空ろな眼が、頻りに動いてゐる。

劉　　この<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>は、なんだか見覚えがあるよ。永く住んでるのかい。

田代　　いや、うん、丁度三年目だ。

劉　　結婚と同時だね。細君はゐるかい？

田代　　うん、いや……いま一寸……。

劉　　ゐないのかい？

田代　　ゐるにはゐるが……いま、その……。

劉　　先へ、細君に会はしてくれ。

田代　　さうか。（渋々隣室にはいる。やがて、ぬい子をかばふやうにして現はれる。ぬい子は顔を伏せてゐる）

劉　　やあ、ぬい子さん、しばらく……。

ぬい子　　……。

劉　　僕が、かうしてやつて来たことを、意外にお思ひですか？

ぬい子　　（殆んど聞き取り難き声で）いゝえ……。

劉　　しかし、びつくりなすつたでせう。

ぬい子　　いゝえ……。

劉　　びつくりしたといふよりも、怖ろしくお思ひになつたでせう。

ぬい子　　……。

劉　　（田代に）君は、しばらく座を<ruby><rb>外</rb><rt>はづ</rt></ruby>してゐてくれ給へ。

田代　　僕かい？

劉　　しばらく、君のゐないところで、奥さんに話したいことがあるんだ。

田代　　（躊躇した後隣室へはひらうとする）

劉　　そこぢや話声が聞えるだらう。すまないが、外へ出てゐてくれ。

田代が、しぶしぶ、裏の方へ歩いて行くのを、劉とぬい子とが見送つてゐる。

劉　　僕が、何時かあなた方の面前に現はれるといふことは、あなたも覚悟しておいででしたらうね。

ぬい子　　えゝ……。

劉　　そこで、かうして、僕が今、あなたの前にゐます。なんのためにゐるんでせう？

ぬい子　　……。

劉　　あなたは、僕になにかおつしやることはありませんか？

ぬい子　　なんにも申上げることはありません。みんなおわかりになつてゐる筈です。

劉　　それは別問題です。あなたとお別れして以来、僕はまだ、あなたの心変りについて、なに一つ意見を述べたことはありません。

ぬい子　　しかし、それは……。

劉　　あなたが、若し、僕との約束を忘れておいでにならなければ、僕があなたに、何を求めてゐるか、それがおわかりの筈です。

ぬい子　　でも……。

劉　　今迄のことは、今迄のことでよろしい。過ぎ去つたことは、なんと云つても取り返しがつきません。しかしです。こゝで、あなたに、十分冷静になつていたゞきたい。僕が、これから、何を云ひ出しても、うろたへちやいけませんよ。

ぬい子　　（また顔をあげる）

劉　　さうです。僕の眼を御覧なさい。僕は、男の名誉と、自分の熱情にかけて、あなたに要求します。――僕との約束を実行して下さい。

ぬい子　　……。

劉　　わかりませんか。僕と結婚して下さい。そして、<ruby><rb>明日</rb><rt>あす</rt></ruby>、一緒に、支那へ発ちませう。

ぬい子　　そんなこと……。

劉　　できないとおつしやるんですか。なぜです？（間）

ぬい子　　なぜつて……。

劉　　田代君といふ夫があるから……。さうですね。

ぬい子　　（黙つて眼を伏せる）

劉　　それはなんでもないでせう。日本の法律は、幸ひ、かういふ場合を予想してゐます。

ぬい子　　（また眼をあげる）

劉　　離婚なさい。

ぬい子　　（驚いて）え？

劉　　田代君とお別れなさい。

ぬい子　　いゝえ、それはできません。

劉　　出来ない筈はないでせう。日本の女性は、たしか、さういふ分別を<ruby><rb>弁</rb><rt>わきま</rt></ruby>へてゐる筈です。

ぬい子　　いゝえ、それはできません。それだけは、なんとおつしやつても……あたくしにはできません。

劉　　よろしい。そんなら、僕は、田代君の手から、あなたを奪つてみせます。

ぬい子　　（キツとなり）どういふ風にしてですの？　あの人が、それをさせると思つてらつしやるんですか。

この声を聞きつけて、田代が駈け込んで来る。

田代　　なにをするんだ。（が、劉の燃えるやうな眼に射すくめられて、二三歩、後にさがる）

劉　　（急に調子を和げ）僕は、今、奥さんにある提議をしたんだ。奥さんは承知してくれない。この上は、止むを得ない。君に要求する。――ぬい子さんを、僕に返してくれ。ぬい子さんを、君の手から自由にしてくれ。

田代　　僕は、君から、どんな刑罰を与へられても、それは甘んじて受けるつもりでゐる。しかし、その要求だけは、勘弁してくれ。

劉　　しかし、僕がかうして遥々日本へ来たのは、それ以外に目的があるだらうか。君は、今日、僕が来るのを待つてゐた筈だね。僕が何か、ほかの要求をするとでも思つてゐたのか？

田代　　僕は、自分だけで、君の出方を想像してゐたことはゐた。それは、二つのうちの一つだと思つてゐた。

劉　　云つてみ給へ。

田代　　先づ、第一に、君の人物から推して、――同時に、これは僕の唯一の願ひだつたのだが――君が笑つて僕に手を差し出してくれることだ。

劉　　あの永い苦しみの後でか？　断じて、そんな気持はないよ、僕には。それから、もう一つといふのは？

田代　　もう一つは、これは、悲しむべきことだが、君が僕に命を要求することだ。

劉　　君の命……？　そんなものは欲しくない。第一、君の命を貰つてどうするんだ。しかしだよ。君が若し、ぬい子さんをどうしても手放さないといふなら、これやしかたがない。

田代　　（身構へる）

劉　　待ち給へ。三年前、あの夏の蒸し暑い晩、君の手を握りながら、くれぐれも頼んだ僕のあの心中を、もう一度、こゝで見せられゝば見せたいのだ。ぬい子さんの手紙は、僕を気狂ひのやうにした。いや、実際、君たちを殺してしまはうとさへ思つたのだ。待ち給へ。僕も、しかし、少しは教育を受けた男だ。君たちにも、君たちの道徳がある筈だ。僕は、今日まで自分を制し、君たちの態度を観察してゐたんだ。しかし、もうこれ以上、黙つてゐるわけに行かない。僕は、僕がまだ生きてゐるといふことを、君たちに見せなけれやならない。今、かうして、君たちの眼の前にゐる僕は、決して、三年前の僕と変りはないんだ。今ぬい子さんが、誰を愛し、誰を愛してゐなからうと、そんなことは訊く必要がない、僕は<ruby><rb>明日</rb><rt>あした</rt></ruby>、ぬい子さんを連れて、もう一度、あの海を渡るのだ。

田代　　僕は、命にかけて、ぬい子を護つてみせる。

劉　　命にかけて……？　面白い。君がさう出るなら、僕にも考へがある。決闘をする気だね。

田代　　え？

劉　　決闘をする気だらう？

田代　　まあ、さうだ。

劉　　僕に決闘を<ruby><rb>挑</rb><rt>いど</rt></ruby>むんだね。

田代　　挑みはせん。

劉　　挑んだのも同様だ。よし、承知した。

ぬい子　　（田代の袖に縋る）あなた……。

田代　　しかたがない。ほかに解決の方法はない。

ぬい子　　いけません。そんなこと、あたしが承知しません。

劉　　あなたは、もう、なんにも口を出す権利はない。男同志の解決に総てをお委せなさい。では、何処でやるね？

田代　　何処でもいゝ。

劉　　外へ出ようか？

田代　　今すぐかい？

劉　　立会人もいるまい。

田代　　明日にしてくれ。明日の朝にしてくれ。

劉　　その必要はなからう。さ、用意をし給へ。（時計を見て）今が、三時五分前……。もう五分間待たう。僕は、短刀を持つてる。君の武器は、なんでも御勝手だ。

田代　　（決然と）おい、ぬい子、僕の部屋から、帽子とピストルを持つて来い。

劉　　帽子はいらんだらう。

田代　　帽子はいゝから、ピストルを持つて来い。よし、自分で取りに行く。

ぬい子　　（田代の洋服をつかみ）いけません。ねえ、劉さん。この人の命を取るかはりに、あたしを殺して下さい。あたしはどうなつてもいゝんです。ねえ、後生ですから、あたしを殺して……（泣きながら、今度は、劉の足下に跪く）

この時、玄関の呼鈴が、けたゝましく鳴り響く。

田代とぬい子が、顔を見合はせてゐる問に、劉は、悠々と玄関に出て行く。

やがて、一人の支那婦人を連れて入つて来る。

劉　　先づ、紹介をしておかう。これは<ruby><rb>瑩芳</rb><rt>けいはう</rt></ruby>と云つて、僕の<ruby><rb>家内</rb><rt>かない</rt></ruby>です。

田代　　えツ？　君に……細君が……。

劉　　だからさ、君たちが離婚をして、ぬい子さんが僕のところへ来るにしても、僕の方では、この先生に暇を出さなけれやならないわけだ。ところが、これが頗る難問題だ。

瑩芳　　シヤーオー　ピンハオメイユーフーリヨー

田代　　なんてね？

劉　　実際、それは難問題だと云ふんだ。なるほど、さうだらう。話をしなければわからんが、ぬい子さんが君と結婚するといふ話を聞いて、それこそ日夜煩悶をしてゐた僕を、心から<ruby><rb>慰</rb><rt>なぐさ</rt></ruby>め<ruby><rb>労</rb><rt>いたは</rt></ruby>つてくれたのは、当時僕の秘書として働いてゐたこの瑩芳なんだ。（そつちを顧みて）ウワンニヨイプー

瑩芳　　リヤンヤーオ

劉　　これで日本語は一言もわからないんだ。今、僕たちは、久々で会つて、非常に<ruby><rb>睦</rb><rt>むつま</rt></ruby>しい話をしてると思つてるんだ。そこで、この先生の<ruby><rb>真心</rb><rt>まごゝろ</rt></ruby>が、次第に僕の<ruby><rb>傷</rb><rt>きずつ</rt></ruby>いた心を捉へ、僕はまた再び生きる悦びを感じはじめた。二人は、目出度く結婚をした。それが二年前だ。

田代　　ふん。

劉　　相思相愛の結果が、不幸を<ruby><rb>齎</rb><rt>もたら</rt></ruby>す道理はない。

田代　　おほきに。

劉　　二年の月日は夢のやうに過ぎた。劉夫人は、現在<ruby><rb>身重</rb><rt>みおも</rt></ruby>らしいんだ。

田代　　それはそれは……。

劉　　<ruby><rb>南京</rb><rt>ナンキン</rt></ruby>は、知つての通り気候も悪いし、この際、保養かたがた観光を兼ねて、日本の温泉巡りを思ひ立つたわけだ。そこで思ひ出したのは、君達のことだ。自分の幸福な結婚生活を、しみじみ<ruby><rb>味</rb><rt>あぢは</rt></ruby>ふにつけて、君達は、今、どんな気持ちで暮してゐるだらう。さぞ僕のことを考へて、何時までも晴々しないことだらう。出来れば、不愉快な記憶をお互に忘れ、その上、昔の友情を取戻すことができたらと、少しセンチメンタルだが、まあ、あからさまに云へばそんな動機で、かうしてこゝへやつて来たんだ。

瑩芳　　シンフオーライチユータオミヤンナー・トーレンナンキン。

劉　　君たち二人で、是非、<ruby><rb>南京</rb><rt>ナンキン</rt></ruby>へ来てくれと云つてる。

田代　　やあ、ありがたう。

劉　　しかし、考へてみると、僕が突然、君たちの前に現はれて、過去を一切水に流さうと云つたところで、君たちに取つては、それほど有難くもないだらうと思つてね。それに、これは僕流の潔癖さといふか、迷信といふか、現在の気持に到達した径路を、ひと通り君たちに見せておきたかつたのだ。然し、その結果は、二重に僕を安心させたんだ。予想以上にといふと失礼だが、実際、申分なく君達が愛し合つてゐるといふことを知つたからだ。これなら大丈夫だ。

田代　　すると僕たちを試したわけだね。

劉　　結果に於てはね。だが、<ruby><rb>怒</rb><rt>おこ</rt></ruby>りはすまいね。友達にもいろいろ種類がある。かういふ友達も、一人ぐらゐ持つてゐ給へ。

田代　　いや、いづれ、落ちついてよく考へることにしよう。お礼を云つても間違ひはないと思ふんだが、かう物事が急激にやつて来ると、喜怒哀楽のけじめがつかなくなる。

ぬい子　　（突然、長椅子に打ち伏して、声をあげて泣く）

瑩芳　　（そのそばに近づき、のぞき込むやうに）チヨンマイホー、チヨンマイホー。

劉　　そんなにうれしいのかつて<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いてますよ。

――幕――