Soranoha

ラスキンの言葉

ラスキンのことば

小川 未明

もう昔となった。その頃、雑司ヶ谷の墓地を散歩した時分に、歩みを行路病者の墓の前にとゞめて、瞑想したのである。名も知れない人の小さな墓標が、夏草の繁った一隅に、朽ちかゝった頭を見せていた。あたりは、終日、しめっぽく、虫が細々とした声で鳴いている。そして、たゞ、こゝにも世上の喧轟を他にして、月日が流れていることを思わせたのであった。

思うに、ある年のある日、旅人は、夕日に彩られた街を喘あえぎながら歩いていたであろう。そして、胸に苦しみを覚えた刹那に、どちらかの空を仰いで、その地平線のはてに、いまも静かに存在しているであろう故郷の風景を眼に描いたにちがいない。そして、自分の母をひとり叫びつゝ死んだのである。

こう思った時にひとしおのさびしさが感じられた。そして、折しも、沈みつゝ、樹間をいろどれる夕日を思い深くながめたのであった。

爾来幾年、雑司ヶ谷の墓地も面目を変えた。文化の風は、こゝにも吹き込んだようである。知己、友人の幾人かは、その間に、こゝへ葬られて眠っている。

いま、墓畔近く、居して、こゝを散歩すると、それ等の人達の墓を巡詣すべく、習慣づけられてしまった。そして、地下にある人の思想と、趣味とを考慮してか、それとも無意識的にか、其処に建設された墓石と、葬られた人とを想い併せて、不自然に考えることもあれば、また、苦笑を禁じ得ざることもあるのである。

ラスキンは言ったのである。死者は、よろしく、愁草や青白い花に委すべきである。若し、その人を忘れずに、記念せんとならばその人が、生前に為しつゝあった思想や、業に対して、惜しみ、愛護し、伝うべきであると。

まことに、詩人たり、思想家たる人の言葉にふさわしい。

誰か、人生行路の輩でなかろうか。まさにその墓は、一寸の木標にて足れりとする。殺風景な俗臭の抜けきらぬ、これ等の墓牌ぼひより、どれ程、行路病者のさゝやかな木標が、自然に近いか知れない。

たゞ、文芸の士に於ては、後世に遺した仕事の吟味である。果して、彼等の幾何、再検討を請求して、敢て恥ざるものがあるか、ということである。孤行高しとすることこそ、芸術家の面目でなければならぬ、衆俗に妥協し、資本力の前に膝を屈した徒の如きは、表面いかに、真摯を装うことありとも、冷徹たる批評眼の前に、真相を曝さらし、虚飾を剥がれずには置かれぬだろう。

一時の世評によって、其等の作家は全集ともなり、文化を飾るに過ぎぬのである。もし其の暇と余裕があるならば、各作家の作品を新に読み返すことは真の文芸史を書く上から無意義であるまい。

底本 / Source edition

底本:「芸術は生動す」国文社
1982(昭和57)年3月30日初版第1刷発行
底本の親本:「常に自然は語る」日本童話協会出版部
1930(昭和5)年12月20日初版
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:Nana ohbe
校正:仙酔ゑびす
2011年11月30日作成
青空文庫作成ファイル:
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書誌 / Bibliography
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小川 未明「ラスキンの言葉」(新字新仮名)、底本『芸術は生動す』国文社、1982年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 051819_001475, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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