Soranoha

自分を鞭打つ感激より

じぶんをむちうつかんげきより

小川 未明

田舎の小学校の庭であったが、林から独り離れて校庭の中程に、あまり大きくない一本の杉の木が立っていました。生徒等は、この木をば、目印にして鬼事をしたり、そのまわりで、遊んでいました。いつしか木の根許の土は、堅く石のようになり、その木の垂れ下った大枝は折られ、木の幹の皮は剥がれて、悲惨なものになりました。そのうちに冬が来て、雪は、その木の半分を埋めてしまった。

哀れな枝は寒い風に吹かれて、恐らく、その年のうちにも枯死するものと思われました。しかるに雪が解けて、春となって、いろ〱の木が芽ぐんだ時分、その杉の木も新緑を芽ぐんだのでした。二たび子供等は、校庭へ出て遊ぶようになりました。

その時、年とった体操の教師が、この木の下に立って、さも痛ましそうにして、皮の剥がれた幹を撫していましたが――よくこれで水を吸い上げるものだと言わぬばかりの顔をしながら――やがて、何に深く感動してか、溜息を洩らして、

「苛められる者は、強い!」と、言いました。

傍で、彼の独語を聞いていた私は、曾て覚えなかった程の印銘を、その言葉から感じたのです。そして、日の光りに照されて輝く老教師の禿頭をじっと見守りました。

学校の教師の中でも、苛められる教師があり、同じ級の中でも、苛められる生徒がありました。その人達が、何のために苛められるのか、私は、それを解することができなかったのです。

人間には、弱い者を踏み躙にじるという、醜い本能があります。私は子供の時分から、敏感にそのことを感じました。そして、いつも苛められる弱い生徒が、体を固くして、隅のところに縮んで、警戒する身構えを忘れることができません。それと関聯して、校庭にあった、あの一本の苛められた大杉の木が、傷ましい姿で、よく生を保ちつゝあった強い姿を忘れることができません。

また、村で、感冒が流行した時分にも、貧乏人の子供は、足袋も穿はかず、木枯しの吹く中を薄着をして、少しも寒がらずに元気よく遊んでいた姿を見るにつけて、「苛められる者は、強い!」と、いう言葉を思い出しました。

過去に於て、この言葉は、真理であったばかりでなく、老教師の言った、この言葉は、現在に於ても、尚お、私に、真理を感じます。

苛められて、滅びて行くものは無力だからです。真実なるがために、正義なるがために苛められて、争抗をつゞける者によってのみ、この社会は、浄化されるのです。

彼等の強いのは、真理を味方とするからです。苛められる者だけが、鞭の痛さを、人間性を、この社会の真相を、また友人をも、敵をも、真に知り得るのでありましょう。

「長崎あたりに来ているロシア人は、ポケットに、もはや幾何しかの金がなくても、それを憂えずに、人生について論議している……」と、いうような話をきいたことがある。その時も、私は、感激を覚えたのです。

何となく私には、幽暗なロシア――ガルシンを産み、ステプニヤックを産み、ゴルキイの産まれた怖ろしいような、なつかしいような、神秘的な土地――を、この話によって思い出さずにはいられなかったからです。

芸術は人生のために、その存在の意義があり、人生は、即ち民衆の利福を措いて、その完全な姿を考えることができない。所詮、美は、正しいことであり、正義に対する感激より、さらに至高の芸術はないと信じたのは、その頃のことでありました。

文壇というものがあって、そこに於て取扱われる問題は、何なりとも、私は、それに係わらず、自己の思念を抂まげず、広い社会に向って、呼びかける――それを直に芸術ときめて来たのです。

現在芸術に於て取扱われているもの、一つとして人生のためならざるはなしと、言うものがあるでしょう。私は、必ずしも、それを否定はしないが、また、その言を正直に信ずるものでない。なぜなら、人生のための芸術でなくて、事実虚名のためであり、虚栄のためであるからです。しからざれば、自己享楽の所産なりと言うを憚らぬからです。

「人生を語る」という言葉は詩的に、センチメンタルに聞えるかも知れないが、民衆の利福を祈念するために、より正しい生活を人間の正義感に訴えて、地上に実現せしめんとする目的は、一片の空想的事実ではないのであります。

芸術に対しては、いろいろの見解が下されることゝ思っています。中には、私と同じような考えから芸術にたずさわっている人もあることゝ信じています。

その人達は、文壇に於ける芸術というよりか、直に、自己の真情を社会に向って呼びかけるための芸術であります。

情実と利害関係の複雑な文化機関と、その文壇的の声望は、以上の如き芸術に、決して正しい評価を下すものでありません。常にその時代の文壇は、享楽階級の好悪によって左右さるべき性質のものであるからです。

芸術が、他のすべての自然科学の場合と同じく、独立して価値あるものでなくして、人生のために良心たり、感激たる上に於てのみ価値あるからには、芸術家は、すべからく、野に立って、叫ぶの戦士たらなければなりません。常に、自分を鞭打って止まざる至高の感激が、何よりも美であり、この美に対する殉情的精神は虚名と虚偽を忘れしめるからです。

いま、私達と同じように、芸術を見んとする輩が、出でんとしつゝあります。私が、曾て、ロシア人の話を聞いて、感奮した如く、もっとそれよりも、赤裸なる、悲痛な人生に直面して、限りない興奮を感じ、筆を剣にして戦わんとする、斯くの如き真実なる無産派の作家を私は、親愛の眼で眺めずにはいられないのであります。――十月十九日――

底本 / Source edition

底本:「芸術は生動す」国文社
1982(昭和57)年3月30日初版第1刷発行
底本の親本:「未明感想小品集」創生堂
1926(大正15)年4月30日初版
入力:Nana ohbe
校正:仙酔ゑびす
2011年12月31日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

この表示について / About this rendering

記録は下にリンクした署名済みの TEI ファイルです。このページはそれを読むための一つの形です。読みが複数ある箇所は一つだけを本文に示し、もう一方は語の title に残しています。 / The record is the signed TEI file linked below. This page is one way of reading it. Where the text has more than one reading, the page shows one of them and keeps the other on the word itself, in its title text.

リリース / Release
913b24012e1626b47bebf5a14fd31773728229efdb088f1ceb934717c1ac800c
TEI
/works/051804_001475/tei
プレーンテキスト / Plain text
/works/051804_001475/plaintext
書誌 / Bibliography
/works/051804_001475/

小川 未明「自分を鞭打つ感激より」(新字新仮名)、底本『芸術は生動す』国文社、1982年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 051804_001475, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

引用のしかた / How to cite