Soranoha

男の子を見るたびに「戦争」について考えます

おとこのこをみるたびに「せんそう」についてかんがえます

小川 未明

それは、独ひとり、男の子と限った訳ではないが、子供を一人前に養育するということは決して容易なことでないのは、恐らく、すべての子供を持った程の人々なら、想像されることだと思います。

乳飲児の時代から、ようやく独り歩きをする時代、そして、学校時代と考うるさえその過程の長いことは、かの他の動物に於けるとは比較にならない。病気をさせない心配から、病気になった時の心配、また、怪我をさせないように注意することから、友達の選択や、良い習慣をつけなければならぬことに気を労する等、一々算えることができないでありましょう。ある時は、それがために、子供を持たない人々を幸福なりとして、却って、羨むような場合もありました。

それでなくとも、いま自分が子供の親となり、子供に気を労するのを知ってから「怪我をしないことが、孝行の一つである」と、いう言葉の真意を見出されるようになったのです。

これ等の心やりも、注意も、みな子供に対する深い愛からに他ありません。自分が子供を持ってみて、はじめて他の親たる人達の心も理解されるのです。自分の子供が可愛ければ、他の子供にもやさしくなるのは、この道理であります。

このことは、古今、東西、国を異にし、また種族を異にしても相違のある筈はないでありましょう。こゝに思い至るたびに、私は、戦争ということが、頭に浮び、心が暗くなるのを覚えます。

戦争! それは、決して空想でない。しかも、いまの少年達にとっては、これを空想として考えることができない程、現実の問題として、真剣に迫りつゝあることです。

帝国主義の副産物として、戦争を避け得られないことは、説明すべく、あまりにはっきりとした事実であります。そして、いま、世界の事情を観考するのに、第二の世界戦争が太平洋を中心として、次第に色濃く、萌しつゝあるが如くです。

それが、いよ〱現実の問題となって、四海が波立つことは、五年の後か、或は十年の後か知らない。しかし、若し、世界が現状のまゝの行程を辿るかぎり、いかに巧言令辞の軍縮会議が幾たび催されたればとて、急転直下の運命から免れべくもない。こう思って、何も知らずに、無心に遊びつゝある子供等の顔を見る時、覚えず慄然りつぜんたらざるを得ないのであります。

朝に、晩に、寒い風にも当てないようにして、育てゝ来た子供を機関銃の前に、毒瓦斯どくガスの中に、晒さらすこと対して「こと対して」はママ、たゞこれを不可抗力の運命と視して考えずにいられようか? 互に、罪もなく、怨みもなく、しかも殺し合って死なゝければならぬ子供等自身の立場に立ちて、人生問題として考えるばかりにとゞまらない。また、これを階級問題に移して、最も悲惨な犠牲者として、考えるばかりにとゞまらない。こうした悲情な物理力に対して、また狂暴なる野蛮力に対して、互に戦うことに於て、いかなる正義が得られ、いかなる真理の裁断が下され得るかということであります。

正義のために殉じ、真理のために、一身を捧ぐることは、もとより、人類の向上にとって、最も貴ぶべく、また正しいことです。しかし、戦争が果して、それであると言い得られるでありましょうか?

少年を持つ親として、このことに考え至る者は、私一人ではありますまい。いま、第三インターナショナルの運動を別にしては、全世界にその信徒を有すると知られている、基督キリスト教徒の行動に対しても、私は、いまだ全く絶望するものでない……。

これは、私にとって、特殊的な場合でありますが、長男は、来年小学校を出るのですが、図画、唱歌、手工、こうしたものは自からも好み、天分も、その方にはあるのですが、何にしても、数学、地理、歴史というような、与えられたる事実を記憶したりする学課はてんで駄目で、いまから中学へはいられるか気遣きづかっています。たとえはいれたにしても、この後数年間、それ等の学課のために苦しみつゞけるであろうと思うと、果して、こうした学校へいれる方がいゝかどうかと迷わせられているのであります。

個性を尊重しなければならぬのは、たとえ、集団的生活に於て、組織が主とされても、所詮、創造は、個人の天分に待たなければならないからです。これを考うる時に今日の画一教育が、良いとは言われないのであります。けれど、階梯として何うしても児童等は嫌いなものも、好きなものと、同時に強いられる教育状態にある。私は、これ等の学校を卒業して、社会へ子供達が出た時に、学校生活がどれだけ役立ち、また、彼等を幸福ならしむるかと考えさせられるのであるが、これなども、女子に於けるよりは、男の子について、一層、問題となるのであります。

底本 / Source edition

底本:「芸術は生動す」国文社
1982(昭和57)年3月30日初版第1刷発行
底本の親本:「常に自然は語る」日本童話協会出版部
1930(昭和5)年12月20日初版
入力:Nana ohbe
校正:仙酔ゑびす
2011年11月30日作成
青空文庫作成ファイル:
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TEI
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書誌 / Bibliography
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小川 未明「男の子を見るたびに「戦争」について考えます」(新字新仮名)、底本『芸術は生動す』国文社、1982年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 051795_001475, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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