Soranoha

愛に就ての問題

あいについてのもんだい

小川 未明

私は母の愛というものに就いて考える。カーライルの、母の愛ほど尊いものはないと云っているが、私も母の愛ほど尊いものはないと思う。子供の為めには自分の凡てを犠牲にして尽すという愛の一面に、自分の子供を真直に、正直に、善良に育てゝ行くという厳しい、鋭い眼がある。この二つの感情から結ばれた母の愛より大きなものはないと思う。しかし世の中には子供に対して責任感の薄い母も多い。が、そういう者は例外として、真に子供の為めに尽した母に対してはその子供は永久にその愛を忘れる事が出来ない。そして、子供は生長して社会に立つようになっても、母から云い含められた教訓を思えば、如何なる場合にも悪事を為し得ないのは事実である。何時も母の涙の光った眼が自分の上に注がれて居るからである。これは架空的の宗教よりも強く、また何等根拠のない道徳よりももっと強くその子供の上に感化を与えている。神を信ずるよりも母を信ずる方が子供に取っては深く、且つ強いのである。実に母と子の関係は奇蹟と云っても可よい程に尊い感じのするものであり、また強い熱意のある信仰である。そして、母と子の愛は、男と女の愛よりも更に尊く、自然であり、別の意味に於て光輝のあるもののように感ずる。

私は多くの不良少年の事実に就いては知らないが、自分の家に来た下女、又は知っている人間の例に就いて考えて見れば、母親の所謂いわゆるしっかりした家の子供は恐れというものを感ずる、悪いという事を知る。しかし、母親が放縦であり、無自覚である家の子供は、叱っても恐れというものを感じない。そして悪いという事に就いて根本的に無自覚である。唯世の中は胡魔化して行けば可いというような事しか考えていない。この一事を見ても、子供心に信仰を有もたしめるものは、全く母の感化である。

最近の新聞紙は、三山博士の子供が三人共家出をして苦しんでいるという事実を伝えている。その記事に依ると、本当の母親は小さいうちに死んでしまって、継母の手に育ったという。博士は三人の子供が三人共学問が嫌いで、性質が悪くて家出をしたように云っているけれども、これを全く子供の罪に帰する事は出来ぬ。「妻は小学校しか卒業していない女だから、子供を虐める事は出来ない。自分が子供を叱る時には妻は一切口を出さぬ事にしている。」とか云って、博士はそれを継母の罪でないように云っている。しかし、子供の教育は必ずしも母親自身の学問の程度に関るものではない。それに学問がないから虐めることが出来ないなどというのは、如何にも可怪おかしな言葉である。私は何も博士の家庭に立入って批評しようとするものではないけれども、若しこれが本当の母であったならば、又本当の母でなくとも愛というものがあったならば、如何に博士が厳重に子供を叱ろうとも、それが為めに失敗する事はなかったであろう。

私はこの社会に於て弱者に対して、若しくは貧窮者に対して、これを救うという場合に、単にそれを気の毒だから助けてやるとか、若しくは慈善は善なる行為であるから救うとかいうのでは、反ってその人間を堕落させるのみで、決して社会の為めになるものではないと思う。若しこの社会の有力なる識者が、真に母が子供に対する如き無窮の愛と、厳粛さとを有って行うのであれば宜しいけれども、そうでないならば寧ろ自然の儘に放任して置くに如しかぬ、彼等の多くは愛を誤解している。

茲ここに苦しんでいる人間があるとする。それを傍の人間が救う、その行為が果して愛であるか否かは余程疑問である。苦しんでいる人間をして飽くまで苦しませるという事は、その人間が軈やがて何物かに突当る事を得せしむるものだ。半途でそれを救うとしたならば、その人間は終に行く所まで行かずして仕舞う。凡ての窮局によって人間は初めてある信仰に入る。自ら眼覚める。今の世の中の博愛とか、慈善とかいうものは、他人が生活に苦しみ、また境遇に苦しんでいる好い加減の処でそれを救い、好い加減の処でそれを棄てる。そして、終にこの人間に窮局まで達せしめぬ。私はこんな行為を愛ということは出来ぬ。本当の愛があれば、その場合それを凝視すべきである。真の傍観者に愛がないということは云えない。一つの事実をじっと凝視するという事は、即ち凝視そのものが私はある意味で愛そのものだと云い得ると思う。この意味から自分の敵に対しても凝視を怠ってはならぬ。

私一個の考から云えば、人を愛するという事も、憎むという事も同じである。憎み切ってしまう事が出来れば、そこに何等かこの人生に対して強い執着のある事を意味する。残忍という事もどれ程人間というものが残忍であり得るか、残忍の限りを盟した時、眼を掩ってそれ以上の残忍は為し得ないという時そこに本当の人間性はあり得る。

私は如何なる場合にも中途半端の虚偽を憎む。現代の多くの人々はこの中途半端に居る。しかも、人が苦しみを経験し、若しくは苦痛を経験し、若しくは生活上の奮闘を余儀なくされている場合、社会の同情、博愛、慈善事業、宗教家等に依って救うということは何時まで経ってもその人間に本当の霊を見せずにしまうものである。極端なる苦痛は最後に確信と光明を与えると信ずる。

今度の戦争の事に対しても、徹底的に最後まで戦うということは、独逸ドイツが勝っても、或は敗けても、世界の人心の上にはっきりした覚醒を齎もたらすけれども、それがこの儘済んだら、世界の人心に対して何物をも附与しないであろう。

底本 / Source edition

底本:「芸術は生動す」国文社
1982(昭和57)年3月30日初版第1刷発行
底本の親本:「生活の火」精華書院
1922(大正11)年7月10日初版
入力:Nana ohbe
校正:仙酔ゑびす
2011年11月30日作成
青空文庫作成ファイル:
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書誌 / Bibliography
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小川 未明「愛に就ての問題」(新字新仮名)、底本『芸術は生動す』国文社、1982年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 051772_001475, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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