## 一　根本的用意とは何か

一概に文章といっても、その目的を異にするところから、幾多の種類を数えることが出来る。実用のための文書、書簡、報道記事等も文章であれば、自己の満足を主とする紀行文、抒情叙景文、論文等も文章である。

こゝには主として後者即ち文学的味いを生命とする文章を目標とし、特にその作法の根本的用意を述べたいと思う。

われ〱が、何か思うところ、感ずるところを書きたいと望むことがある。そこで、先ずわれ〱は、最初に自分の感じを<ruby><rb>抽</rb><rt>ひ</rt></ruby>き出す文字を、あれこれと選択しつゝ紙に書いてみる。それが自分の感じとぴったり合しつゝ書き進むるようならば、もう文章のある域まで達したのであるが、これと反対に思うところ感ずるところが、一字一行にも骨が折れてどうにも書き進められない場合がある。徒らに苦んだ果は、自分には<ruby><rb>所謂</rb><rt>いわゆる</rt></ruby>文章が書けないのではないかと絶望したような心持にさえなる。

もし諸君の内に、こういう場合にぶつかった人があれば、余はこう注意したい。

まず筆をおいて、単に文章を書こうとしたのか、それとも本当に書きたい思いや心持があって書こうとしたのか、そのいずれかを静かに考え返してみるがいい。そしてもし心の内に、美しい文字や流行の文句を使ってみたいから書こうとしたのだと心づいたら、それは一行の文章を成さなかったのが<ruby><rb>至当</rb><rt>あたりまえ</rt></ruby>なのである。その人はそういう文章を作ろうとしたことに対して、まず<ruby><rb>愧</rb><rt>は</rt></ruby>じることを悟らねばならない。

もしまた<ruby><rb>已</rb><rt>や</rt></ruby>むに已まれない思いや心持があって、しかもそれが書けないのだとわかったら、それはむしろ一行の文章すら出来なかったのが不思議なのである。その人はその場合文字に拘泥した為めに書けなかったのか、それともまだ〱自分の思うところや感ずるところをはっきりと掴んでいなかったのか、そのいずれかの結果であると思わねばならない。

そこで、われ〱はこういうことが云えると思う。即ち文章とは、己が思想感情をそのまゝに披瀝することによって、初めて成立するものであると。

そこから、更にこういうことも云える。古来日本の文章には、何々して何々<ruby><rb>侍</rb><rt>はべ</rt></ruby>るというような雅文体や、何々し何々すべけんやというような漢文体なぞが行われてはいるが、それはある時代のある人々の心から、必然に生れ出た文章であって、決してわれ〱新時代の人の新しい心の表現の範とすべきものでない、われ〱は<ruby><rb>鉋迄</rb><rt>あくまで</rt></ruby>もわれ〱の新しい思想や感情に即することによって、新しい文章を作らねばならぬと。

これだけのことは、諸君はよく自覚して欲しい。

以上は、文章上の極めて初期に属する場合であるが、更に<ruby><rb>稍々</rb><rt>やや</rt></ruby>進んで、ある程度まで自分の思想感情を文章となすことが出来る域に達した人は、往々一つの危険に出合うのである。それは自分の思想感情を、多少自由に表白することが出来るようになったところから、思想感情のありのまゝを伝える素直な純真な文章ではもの足らなくなって、強いて文字の面を修飾し誇張しようとする弊である。

修飾や誇張は、その人の思想感情が真に潤沢になり豊富になり、熱情を帯びるに至った際に初めて借りるべき一手法である。何等内部的の努力なしに、文章上の彫琢をことゝするのは悪戯であるといってよい。

そこで、余はそういう人々に向って、次のように問おうと思う。

「何のために書くか」

「何故に書くか」と。

何のために書くかの問いに対しては、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">自己</span>のために、もしくは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">人々</span>の為めにと答えることが出来る。何故に書くかの問いに対しては、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">享楽の為めに</span>、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">已むに已まれぬ</span>内心の<ruby><rb>呼</rb><rt>さけ</rt></ruby>び<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">の為めに</span>、もしくは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">人々を教え</span>、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">人々に告げたい為めに</span>と答えることも出来る。

これらの答の当否は、今こゝでは別問題として、「何のために書くか」「何故に書くか」を自分自らに問うことは、文章を書く上に必らず判然しなければならない根本問題であることを注意したい。

漠然と文章を作るのは、無意味である。文章を書く際には、少くとも常に<ruby><rb>如上</rb><rt>にょじょう</rt></ruby>の自覚に立つことを<ruby><rb>忽</rb><rt>ゆるがせ</rt></ruby>にしてはならない。

文章上の根本用意として、以上のことを述べて置く。

## 二　読書と観察と思索

文章を作る上の用意として、われ〱の<ruby><rb>日常</rb><rt>ひび</rt></ruby>心がくべき三つの方法がある。それは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">読書</span>と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">観察</span>と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">思索</span>とである。

この三つの方法は、<ruby><rb>何</rb><rt>いず</rt></ruby>れを前にし、何れを後にするという順序はない。最も理想的なことは、この三つの方法が相交錯して<ruby><rb>纒</rb><rt>まとま</rt></ruby>った効果をあげることである。

こゝに数えなかった方法に、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">経験</span>がある。これは最も重大であって、実際の人生から得るその力は、文章の上に甚大な影響を与えるのである。然し実際の人生から得る<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">経験</span>は、好んで為す場合よりも遙かに多く別種の力（境遇といってもいい）によって、われ〱の所期以外の経験を味わしめる場合がある。と同時に限られたわれ〱の力では、何もかも味いつくすというわけにいかないのである。そればかりか、若い人々にとっては、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">経験</span>はあまりに<ruby><rb>生々</rb><rt>うい〱</rt></ruby>しく不秩序的に見えることさえ多い。これを冷静に批評し得るほどの観察力観照力は、長い月日の間に、遅々として獲得するよりほかに方法はない。

こゝに初めて<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">読書</span>するということが有効になって来る。それは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">経験</span>に直接即するよりも、遙かに秩序的であり組織的であるからである。更に詳しく述べれば、われ〱は読書の間に、自分の無し得ない多くの而して未知の経験と、発見し得ない真理と、さまざまなる知識、力、推移とを、知り且つ味ふことが出来るからである。

それならば、われ〱はどういう書物を、どういう風に読んだらいゝか、という問いが起る。

人間の知識的生長は、いうまでもなく最も個人的である。従って一定の規矩を以て、その生長を制限することは、極めて愚しい事である。殊に才能の点に於て特殊的なる文学方面は、それが一層甚だしいといわねばならない。

たゞ然し、最も妥当なる<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">順序</span>は、われ〱の現在生息しつゝある現代の文学書（論集、小説、詩歌のいずれを問わず）に親しみ、次第に過去時代の産物に遡ることを以て、効果多い方法と信ずる。たとえばルソーの『懺悔録』あたりから、近代精神の何ものであるかを知って、更にわれ〱の時代に近いものを知るもいゝであろう。

如何に読むかという問いに対しては、余は広く浅く読むよりも、狭く深く読む方をすゝめたい。勿論広く読むことも必要である。然し、深く心によって読むことの方が遙かに必要である。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">観察</span>は読書に比して稍々困難である。それはその対象が常に流転し変化するからである。たとえば自然の風物に対しても、そこには日毎に、というよりも時毎に微妙な変化、推移が行われるし、周囲の出来事を眺めても、ともすればその真意を掴み得ないうちにそれがぐん〱経過するからである。しかし観察は、広い意味の経験の範囲内で、比較的冷静を保ち得る経験の一つである。

われ〱は日常触目する事を物々に対して、精細に見ることを努めはじめるがいい。議論よりも実際に就くべき問題である。

思索は、書物からも獲られるし、実際の人生からも獲られる。

書物からの場合は、何れかといえば冥想的であるが、実際からの場合は暗示的である。殊に後者の場合は、前に述べた観察と錯綜し<ruby><rb>纒綿</rb><rt>てんめん</rt></ruby>する。

思索の分野は、実に無限である。人生自然の零細な断片的な投影に過ぎないものでも、それはわれ〱の注意力如何によって極めて微妙な思想へまで導いてゆくものである。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">読む</span>ことから、そして<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">見る</span>ことから、われ〱の随時に<ruby><rb>獲</rb><rt>え</rt></ruby>たあるものに対して、統一を与え組織を与えるものは、実に思索の賜物である。

## 三　先ず試みよ

文章を作るまでの用意については、大体を尽したと思う。そこで、今諸君に望むところは、大胆に試みよということだ。

一日の生活のある一片を捉えるのもいゝし、ある感情の波動を<ruby><rb>抒</rb><rt>の</rt></ruby>べるのもいゝし、ある思想に形を与えるのもいゝし、人と人との会話のある部分を写すのもいゝと思う。

一つよりも十の習練である。十の習練よりも二十の習練である。初めから文章の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うまみ</span>とか華やかさとを希ってはならない。明瞭に考え、正しく見てわれ〱は進んでゆくべきである。更にどこまでも誠実な態度をとること、ものゝあるがまゝの姿に即すことを怠ってはならない。

附け加えていえば、文章の上に多くいわれる推敲ということは、単に表面的な文学上の修飾であってはならない。それはどこまでも内容を本位とするものでなければならない。