Soranoha

牧羊神

ぼくようしん

上田 敏

牧羊神

阜をかの上の森陰に直立すぐだちて

牧羊の神パアン笙しやうを吹く。

晝さがりの日暖かに、風も吹きやみぬ。

天そら青し、雲白し、野山のやま影短き

音おと無なしの世に、たゞ笙の聲、

ちよう、りよう、ふりよう、

ひうやりやに、ひやるろ、

あら、よい、ふりよう、るり、

ひよう、ふりよう、

蘆笛あしぶえの管くだの簧した、

震ふるひ響きていづる音ねに、

神も昔をおもふらむ。

髯ひげそゝげたる相好さうがうは、

翁おきなさびたる咲ゑまひがほ、

角つのさへみゆる額髮ひたひがみ、

髮はらゝぎて、さばらかに、

風雅の心浮べたる

――耳も山羊やぎ、脚あしも山羊――

半獸はんじうの姿ぞなつかしき。

音ねの程ほどらひの搖曳ゆりびきに、

憧あこがれごゝち、夢に入るを

きけば昔の戀がたり、

「細谷川ほそだにかはの丸木橋まるきばし、

ふみかへしては、かへしては、

あの山みるにおもひだす、

わかき心のはやりぎに

森の女神めがみのシュリンクス

追ひしその日の雄誥をたけびを。

岩の峽間はざまの白樫しらがしの

枝かきわけてラウラ木ぎや

ミュルトスの森すぎゆけば、

木蔦きづたの蔓つるに絡からまるゝ

山葡萄やまぶだうこそうるさけれ。

去年こぞの落栗おちぐり毬栗いがぐりは

蹄ひづめの割われに挾はさまれど、

君を思へば正體しやうたい無しや、

岩角いはかど、木株こかぶ、細流せゝらぎを

踏みしめ、飛びこえ、徒かちわたり、

雲の御髮みぐしや、白妙しろたへの

肌理きめこまやかの肉置しゝおきの

肩を抱しめむと喘あへぎゆく。

やがてぞ谷は極きはまりて。

鳶尾草いちはつぐさの濃紫こむらさき

にほひすみれのしぼ鹿子がのこ、

春山祇はるやまづみの來て遊ぶ

泉のもとにつきぬれば

胸もとゞろに、かの君を

今こそ終つひに得てしかと

思ふ心のそらだのめ。

淺澤水あさざはみづの中島なかじまに

仆たふれてつかむ蘆あしの根ねよ。

あまりに物のはかなさに、

空手むなてをしめて、よゝと泣く

吐息といきためいきとめあへず、

愁うれひ嘯うそぶくをりしもあれ、

ふしぎや、音のしみじみと、

うつろ蘆莖あしぐき鳴りいでぬ、

蘆莩あしつゝ響き鳴りいでぬ。

さては抱けるこの草は

君が心のやどり草ぐさ、

戀は草、草は戀。

せめてはこれぞわが物と

笙しやうにしつらひ、年來としごろの

つもる思おもひを口うつし

移して吹けば片岡に

夫つま呼よぶ雉子きじの雌鳥めんどりも、

胡桃くるみに耽ふける友鳥ともどりも、

原ににれがむ黄牛あめうしも、

牧まきに嘶いなゝく黒駒くろごまも、

埒らちにむれゐる小羊こひつじも、

聞惚きゝほれ、見惚みほれ、あこがれて、

蝉の連節つれぶしのどやかに、

蜥蜴とかげも石いしに眠るなる

世は寂寥さびしらの眞晝時まひるどき、

蘆に變りしわが戀と

おのれも、いつか、ひとつなる

うつら心や、のんやほ、のんやほ、

常春藤いつまでぐさのいつまでも

うれし愁うれへにまぎれむと、

けふも日影ひかげの長閑のどけさに、

心をこめて吹き吹けば、

つもる思も口うつし、

ああ蘆の笛、蘆の笙しやうの笛」。

日はやゝに傾きて、遠里とほざとに

靄もやはたち、中空なかぞらの温ぬくもりに、

草の香かいや高き片岡、

夢薫かをり、現うつゝは匂にほふ今、

眠眼ねむりめの牧羊神、笙を吹きやみぬ。

森陰に音もなし。

村雨むらさめははらゝほろ、

山梨やまなしの枝にかゝれば、

けんけんほろゝうつ

雉子の鳴く音ねに覺さまされて、

磐床いはどこいづる牧羊の神パアン、

胸毛むなげの露をはらひつゝ

延欠のびあくびして仰ぎ見れば、

有無雲ありなしぐもの中天なかぞらを

ひとり寂しく鸛こふの鳥、

遠をちの柴山しばやまかけて飛ぶ。

かへりみすれば、川添かはぞひの

根白柳ねじろやなぎを濡燕ぬれつばめ、

掠かすめ飛び交かふ雨あがり、

今、夕影ゆふかげのしるけきに、

生いきのこの世の忙せはしさよ、

地つちには蟻のいとなみを、

空には蜂の分封こわかれを

つくづく見れば、宿命しゆくめいの

かたき掟おきてぞいちじるき。

水の面おもてに映うつりたる

おのが姿に戀じにの

玉玲瓏ぎよくれいろうの水仙花すゐせんくわ、

花は散りてし葉の上を、

蟻は斜なゝめに、まじくらに

――なに營いとなみのすさびなる――

生いきの力に驅かられたり、

またある時は糧かて運ぶ

いそしき業わざのもなかにも、

蟻􄥉ありづか近き砂の上、

二疋にひきの蟻の足とめて、

なに語りあふ、たゆたへる、

遇あふさ離きるさのみち惑まどひ、

蟲の世界のまつりごと、

健氣けなげにも、はた傷いたましや。

空は今何の反橋そりはしぞ、

天あま馳使はせつかひわたらすか、

東の山に虹かゝり、

更に黄金こがねの一帶いつたいの

霓あふさわたせるけしきにて、

鹿とり靡なびく弓雄等ゆみをらが

鳴鏑かぶら射放いはなつ音たてゝ、

蜂の巣立すだちの子別こわかれに

父蜂おやはちさそふ細工蜂さいくばち、

七歩しちほばかりの後うしろより、

やゝ高く飛ぶ女王蜂によわうばち、

たとへば修羅しゆらの巷ちまたにて、

亂飛らんぴ、亂廻らんくわい、虎走とらばしり、

勇猛ゆうまうたぐひ無き兵も、

パアンふと脅おびやかしぬれば

人崩ひとなだれつきて、人馬じんば落ちかさなり、

惑まどひ、ふためき走るごと、

大騷亂だいさうらんのわたましや、

生せいの力ちからの仕業しわざなる。

遙はるかに山のあなたには、

人の築きし城のうち、

國富み榮え、民繁しげき

都はあれど、ものみなは

かたみにつらき犧牲いけにへの

鬮くじのさだめを免のがれあへず、

青人草あをひとぐさの細工蜂さいくばち、

黄泉よみの坂路さかぢのさかしきに、

とはに磐石ばんじやく押し上ぐる

シシュフォス王わうの姿かな。

種たねとり蜂ばちのふところ手、

夢の浮世のぬめり男をの

しやらり、しやらりとしたる身も、

子別こわかれ過すぎし初秋はつあきの

朝あさの命いのちを知らざるや、

イクシオオンのたえまなく

車輪しやりんに廻めぐるあはれさよ、

それにひきかへ王蜂わうばちの

滿ち足らひたる幸さいはひは

こよなき物と見えながら

ウラノスはクロノスに、クロノスは

其子ジウスに滅ほろぼされ、

ジウスの代よさへ危あやふきを

プロメエチウスは知るといふ

流轉るてんの世こそ悲しけれ。

噫あゝ勢力せいりきの強くとも

命めいの掟おきてになに克かたむ。

理りを知る心深ければ

悲かなしみさらに深まさる。

慰なぐさめはたゞこの笙の笛、

牧羊神の笛の音ねに、

世の秘事ひめごとぞかくれたる。

名なに負おふパアン吹く笛の音ねに、

この天地あめつちのものみなは、

擧こぞりて群むれゐふくまれて、

身も世も忘れ、處とこ、時ときの

辨別わいだめも無き醉心地ゑひこゝち、

夢見る心地誘さそふなる

不思議の笙の笛の聲、

悠のびやかに、朗ほがらかに、あんら、緩ゆるやかに、

森の泉に來て歎く

谺姫こだまひめさへほゝゑませ、

谷たにの八十隈やそくま吹き靡なびけ、

人里ひとざと遠く傳はれば、

牧人ぼくじん笻つゑを擲なげうちて、

羊踊ひつじをどりりをひとをどり、

生いきの悦よろこびみちわたる

面おもてにしばし夕ゆふづく日、

耀かゞよふみれば宿命しゆくめいの

覊絆きづなはいつか解とかれたり。

をちこち山の影長く、

夕ゆふべの空の艶えんなるに

なほも笛吹く牧羊神。

雲の湊みなとの漁火いさりびか、

ちろり、ちろりと、長庚ゆふづゝは

朝あさが散らせるよき物を、

羊を、山羊やぎを集むるか、

母の乳房ちぶさに髫髮兒うなゐごを

呼びかへすなるひとつ星

ああ二つ星、三つ星と

數かず添そふ空の縹色はなだいろ、

深ふかまさり行く夕まぐれ、

羊の鈴の音ねも絶えて、

いづこの野邊の花垣はながきか、

燕の妹いもと、雉子の叔母、

舌を絶たたれし弟姫おとひめの

あの容鳥かほどりの歌の聲、

間ま無なく繁しば鳴なく恨うらみさへ、

和やはらぎたりや、この夕ゆふべ。

こゝにパアンも今はとて、

さらばの音取ねとり、末長すゑながく、

「さらば明日あす參まゐらう。

うえうちり、たちえろ」

白樺木立こだちわけ入れば

東の阜をかに月はのぼりぬ。

滊車に乘りて

赤松の林をあとに、

麻畠あさばたけひだりにみつゝ、

滊車はいま堤つゝみにかゝる。

ほのかなる水のにほひに、

河淀かはよどの近きは著しるし。

三稜草みくりぐさ生おふる河原かはらに

葦切あしきりはけゝしと噪さわぎ、

鵠くゞひこそ夏は來きたらね、

たまたまに百舌もずの速贄はやにへ、

篦鷺へらさぎの何をか思ふ

しよんぼりと立てる畷なはてに、

紡績ばうせきの宿にやあらむ、

きり、はたり、はたり、ちやう、ちやう、

筬をさの音おとやゝにへだゝり、

道祖神だうそじん祭まつるあたりの

鐵道の踏切近く、

繩帶なはおびの襤褸つゞれの衣ころも、

勝色かちいろは飾磨しかまの染そめの

乳呑子ちのみごを負おへる少女をとめは、

淺茅生あさぢふの末黒すぐろに立ちて

萬歳ばんざいと囃はやし送りぬ。

萬歳はなれにこそあれ、

幾年いくとせを生きよ、里さとの子。

人の世に尊きものは

土の香かぞ、國くにの御魂みたまぞ。

僞いつはりの市まちに住すまへば

産土うぶすなの神に離さかりて

養やしなひをかきたる人も、

埴安はにやすの郷さとの土より

生はえぬきのなれに呼ばれて

本然ほんねんの命にかへる。

道芝みちしばの上うへ吹ふく風よ、

農人のうにんの寢覺ねざめに通ふ

微かすかなる土のおとづれ、

なつかしき母の聲音こわねか。

晝さがり草の香か高く

松脂まつやにのにほひもまじる

地の胸の乳房ちぶさのかをり

蘇門答剌そもたらの香かうも及ばじ。

忽ちに鐵のにほひす。

鳴神なるかみの落ちかゝるごと、

滊車は今、橋に轟とゞろく。

桁搆けたがまへ眼路めぢをかぎりて、

ひとり見る蛇籠じやかごの礫こいし。

ちやるめら

薄日うすびのかげも衰おとろへて、

風冷ひややかに雲低き

鈍色空にびいろぞらのゆふまぐれ、

はづれの辻つじのかたすみに、

ちやるめらの聲吹きおこる。

はじめの節ふしのゆるやかに

心を誘ふ管くだの聲、

音ねは華はなやげるしらべかと

おもへば、あらず、せきあぐる

悲哀の曲の搖曳ゆりびきに、

みそらかけりて、あの山越えて、

越えてゆかまし夢の里。

よしや、わざくれ、身はうつし世の

榮はえにまぎるゝとがめびと、

有爲うゐの奧山おくやま、路みち嶮けはし。

響ひゞきはるかに鳴りわたる

おほまが時のうすあかり、

飴屋あめやの笛にそゞろげる

子供心もおのづから

家路いへぢをおもふ二にの聲に

夢の浮橋うきはし、あら、なつかしや

戀ひし、なつかし、虹の橋、

いつし、いづれの日に架かけそめて、

涙の谷の中空なかぞらを

雲につらぬるそり橋か。

細き金具かなぐの歌口うたぐちに

かなしみあふれ、氣も萎なえて、

折りまはしたる聲のはて、

忽ちくづれ調てうかはる

あゝ、ちやるめらの末の曲。

「やぶれ菅笠すげがさ、しめ緒をが切れて

さらにきもせず、すてもせず。」

人に思のなまなかあれば、

夢に現うつゝを代かへ難き

――えい、なんとせう――あだ心。

踏繪

眞鍮しんちゆうの角かくなる版いたに

ビルゼンの像あり、

諸もろ〱の御弟子みでし之を環めぐる。

母にてをとめ、

わが兒このむすめ、

歸命頂禮きみやうちやうらい、サンタ・マリヤ。

これもまた眞鍮の版いた、

萬民ばんみんにかはりて、

髑髏されかうべの阜をかにクルスを

負おふ猶太ゆだの君きみ

那撒禮なざれのイエスス

キリストス、神の御子みこ。

不思議なる御名みなにこそあれ、

イエスス・キリストス、

かみのみこ、よの人のすくひ、

げにいきがみよ。

始はじめなり、終をはりなり。

繪踏ゑぶみせよ、轉ころべ、轉ころべと

糺問きうもんぞ切せつなる。

いでや、この今日けふの試こゝろみに

克かちおほせなば、

パライソに行き、

挫くじけたらむには、インヘルノ。

伴天連ばてれんの師の宣のたまはく

マルチルの功いさをは

大惡だいあくの七なゝつのモルタル

科とがを贖あがなふ。

ブルガトリオを

まつしぐら、ゆけ、パライソへ。

大日本、朝日の國の

信者たち、努つとめよ、

名にし負おふアンチクリストの

力を挫く

義軍ぎぐんの先驅さきがけ、

上かゝれ、主の如く磔刑はたものに。

この標しるし、世に克かつ標、

あらかたの標ぞ。

ありし、ある、あらむ世をかけて、

絶えず消えせぬ

命の光、

高くに仰げ、サンタ・クルスを。

見よ、かゝる殉教の士を。

天草あまくさは農人のうにん、

五島ごたうには鯨いさなとる子も

ガリレヤ海かいの

海人あまの習ならひと

悲かなしみ節せつを守りつぐ。

代代よよに聞く名こそ異ことなれ。

神はなほこの世を

知ろす、たゞひとり、おぼつかな、

今の求道者ぐだうしや、

「識しらざる神」の

證あかしにと死する勇ありや。

啄木

婆羅門ばらもんの作れる小田をだを食はむ鴉からす

なく音ねの耳に慣なれたるか、

おほをそ鳥の名にし負ふ

いつはり聲のだみ聲を

又無き歌とほめたつる

木兎づく、梟ふくろふや椋鳥むくどりの

ともばやしこそ笑止せうしなれ。

聞かずや春の山ぶみに、

林の奧ゆ、伐木ばつぼくの

丁々たう〱として山やま更さらに

なほも幽いうなる山彦を。

こはそも仙家せんかの斧の音ねか、

よし足引あしびきの山姥やまうばが

めぐりめぐれる山めぐり、

輪廻りんゑの業ごふの音づれか。

いなとよ、たゞの鳥なれど、

赤染色のはねばうし、

黒斑くろふ白斑しらふの綾模樣

紅梅、朽葉くちばの色ゆりて、

なに思ふらむ啄木きつつきの

つくづくわたる歌の枝。

げに虚うつろなる朽木きうぼくの

幹にひそめるけら蟲は

風雅ふうがの森のそこなひぞ、

鉤かけて食くらひね、てらつゝき、

また人の世の道なかば

闇路やみぢの林ゆきまよふ

惱なやみの人を導きて

歡樂山くわんらくざんにしるべせよ。

あゝ、あこがれのその歌よ、

そゞろぎわたり、胸に沁み

さもこそ似たれ、陸奧みちのくの

卒都そとの濱邊の呼子鳥よぶこどり、

なくなる聲のうとう、やすかた。

トリスタン・コルビエェル

蟾蜍

風の無い晩に歌がきこえる……

――月は黒ずんだ青葉の

曲折ぎざぎざに銀を被きせてる。

……歌がきこえる、生埋いきうめになつた

木精こだまかしら、そらあの石垣の下さ……

――已やんだ。行つて見よう、そこだ、その陰だ。

――蟾蜍ひきがへるよっ。――なにも恐こはい事は無い。

こつちへお寄り、僕が附いてる。

よつく御覽、これは頭あたまを圓まるめた、翼はねの無い詩人さ、

溝どぶの中の迦陵嚬伽かりようびんが……あら厭だ。

……歌つてる――おゝ厭だ。――なぜ厭なの。

そら、あの眼の光つてること……

おや冷すまして、石の下したへ潛もぐつてく。

さよなら――あの蟾蜍ひきがへるは僕だ。

ジュル・ラフォルグ

お月樣のなげきぶし

星の聲

膝の上、

天道樣てんたうさまの膝の上、

踊るは、をどるは、

膝の上、

天道樣てんたうさまの膝の上、

星の踊のひとをどり。

――もうし、もうし、お月さま、

そんなに、つんとあそばすな。

をどりの組へおいでなら、

金きんの頸環くびわをまゐらせう。

おや、まあ、いつそ難有ありがたい

思召おぼしめしだが、わたしには

お姉樣あねえさまのくだすつた

これ、このメダルで澤山よ。

――ふふん、地球なんざあ、いけ好すかない、

ありやあ、思想の臺だいですよ。

それよか、もつと歴れきとした

立派な星がたんとある。

――もう、もう、これで澤山よ、

おや、どこやらで聲がする。

――なに、そりや何なにかのききちがひ、

宇宙の舍密せいみが鳴るのでせう。

――口のわるい人たちだ、

わたしや、よつぴて起きてゝよ。

お引摺ひきずりのお轉婆てんばさん、

夜遊よあそびにでもいつといで。

――こまつちやくれた尼あまつちよめ、

へへへのへ、のんだくれの御本尊ごほんぞん、

掏摸すりや狗いぬのお守番もりばん、

猫の戀のなかうど、

あばよ、さばよ。

衆星退場。靜寂と月光。遙に聲。

はてしらぬ

空そらの天井てんじよのその下したで、

踊るは、をどるは、

はてしらぬ

空そらの天井てんじよのその下したで、

星の踊をひとをどり。

月光

とてもあの星には住まへないと思ふと、

まるで鳩尾みづおちでも、どやされたやうだ。

ああ月は美しいな、あのしんとした中空なかぞらを

夏なつ八月はちぐわつの良夜あたらよに乘つきつて。

帆柱ほばしらなんぞはうつちやつて、ふらりふらりと

轉こけてゆく、雲のまつ黒くろけの崖下がけしたを。

ああ往いつてみたいな、無暗むやみに往いつてみたいな、

尊たふといあすこの水盤すゐばんへ乘のつてみたなら嘸さぞよからう。

お月つきさまは盲めくらだ、險難けんのん至極しごくな燈臺だ。

哀れなる哉、イカルスが幾人いくたりも來きておつこちる。

自殺者の眼のやうに、死あがつてござるお月樣、

吾等疲勞者大會の議長の席につきたまへ。

冷つめたい頭腦で遠慮無く散々さんざん貶けなして貰もらひませう、

とても癒なほらぬ官僚主義で、つるつる禿はげた凡骨ぼんこつを。

これが最後の睡眠劑か、どれひとつその丸藥ぐわんやくを

どうか世間の石頭いしあたまへも頒わけて呑ませてやりたいものだ。

どりや袍うはぎを甲斐甲斐かひがひしくも、きりりと羽織はおつたお月さま、

愛の冷ひえきつた世でござる、何卒どうぞ箙えびらの矢をとつて、

よつぴき引いて、ひようと放うち、この世に住まふ翅無はねなしの

人間どもの心中しんちゆうに情なさけの種たねを植ゑたまへ。

大洪水だいこうずゐに洗はれて、さつぱりとしたお月さま、

解熱げねつの効かうあるその光、今夜こんやここへもさして來て、

寢臺ねだいに一杯いつぱい漲みなぎれよ、さるほどに小生も

この浮世から手を洗ふべく候さふらふ。

ピエロオの詞

また本ほんか。戀しいな、

氣障きざな奴等やつらの居ないとこ、

錢ぜにやお辭儀じぎの無いとこや、

無駄むだの議論の無いとこが。

また一人ひとりピエロオが

慢性孤獨病で死んだ。

見てくれは滑稽をかしかつたが、

垢拔あかぬけのした奴やつだつた。

神樣は退去おひけになる、猪頭おかしらばかり殘つてる。

ああ天下の事日日ひびに非なりだ。

用もひととほり濟んだから、

どれ、ひとつ「空扶持むだぶち」にでもありつかう。

月の出前の對話

――そりやあ眞しんの生活もしてはみたいさ、

だがね、理想といふものは、あまり漠ばくとしてゐる。

――そこが理想なんだ、理想の理想たるところだ。

譯わけが解わかるくらゐなら、別の名がつく。

――しかし、何事も不確ふたしかな世の中だ。哲學また哲學、

生れたり、刺違さしちがへたり、まるで筋すぢが立つてゐない。

――さうさ、眞しんとは生いきるのだといふんだもの、

絶對なんざあ、たつ瀬せがあるまい。

――ひとつ旗を下おろして了しまはうか、えい、

お荷物はすつかり虚無きよむへ渡して了しまはう。

――空そらから吹きおろす無邊むへんの風の聲がいふ、

「おい、おい、ばかもいゝ加減にしなさい。」

――もつとも、さうさな「可能かのう」の工場こうぢやうの汽笛は、

「不可思議」のかたへ向つて唸うなつてはゐる。

――其間そのかん唯たゞ一歩いつぽだ。なるほど黎明しのゝめと

曙のあはひのちがひほどである。

――それでは、かうかな、現實とは、少すくなくとも

「或物」に對して益があるといふことか。

――そこでかうなる、ねえ、さうぢやないか、

薔薇ばらの花は必要である――其必要に對してと。

――話が少すこし妙めうになつて來たね、

すべては循環論法に入はひつてくる。

――循環はしてゐるが、これが凡すべてだ。

――何だ、さうか、

なら、いつそ月の方はうへいつちまはう。

冬が來る

感情の封鎖ふうさ。近東行きんとうゆきの郵船いうせん……

ああ雨が降ふる、日が暮れる、

ああ木枯の聲……

萬聖節ばんせいせつ、降誕祭かうたんさい、やがて新年、

ああ霧雨きりさめの中なかに、煙突えんとつの林……

しかも工場の……

どのベンチも皆みんな濡れてゐて腰を下おろせない。

とても來年にならなければ徒目だめだ。

どのベンチも濡れてゐる、森もすつかり霜枯れて、

トントン、トンテンと、もう角笛つのぶえも鳴つて了つた。

ああ、海峽かいけふの濱邊はまべから驅かけつけた雲のおかげで、

前の日曜もまる潰つぶれだつた。

霧雨きりさめが降ふつてる、

づぶ濡の木立こだちにかけた蜘蛛の網すは、

水玉みづたまの重おもみに弛たるんで毀こはれて了しまつた。

豐年祭ほうねんまつりのころに、

砂金しやきんの波の光を漂はせて、豪勢がうせいな景氣けいきだつた日光は

今どこに隱れてゐる。

けふの夕方は、泣きだしさうな日が、丘の上うへの

金雀花えにしだの中なかで外套まはしを羽織はおつたまま、横向よこむきに臥ねてゐる。

薄れた白しろつぽい日の目めは酒場さかばの床ゆかに吐散はきちらした痰たんのやうで、

黄きいろい金雀花えにしだの敷藁しきわらと、

黄きいろい秋の金雀花えにしだを照してゐる。

角笛つのぶえが頻に呼んでゐる、

歸れ……

歸れと呼んでゐる。

タイオオ、タイオオ、アラリ。

ああ悲しい、もう已やめてくれ……

堪たまらなく悲しい……

日は丘の上うへに臥ねてゐて、頸筋くびすぢから挘むしり取つた腺せんのやうだ、

日は慄ふるへてゐる、孤ひとりぼつちで……

さ、さ、アラリ!

熟知おなじみの冬が來たぞ、來たぞ。

ああ、街道かいだうの紆曲まがりくねりに、

「赤外套あかまんとの兒こ」も見えない。

ああ此間こなひだ通つた車の跡が、

ドン・キホオテ流りうに、途方とはうも無い勇氣を出して、

總崩そうくづれになつた雲くもの斥候隊せきこうたいの方はうへ上のぼつてゆくと、

風はその雲を大西洋上たいせいやうじやうの埒らちへと追ひたてる。

急げ急げ、こんどこそ本當ほんとだ。

昨夜ゆうべは、よくも吹いたものだ。

やあ、滅茶苦茶めちやくちやだ、そら、鳥の巣も花壇くわだんも。

ああわが心、わが眠ねむり、それ、斧の音ねが響く。

きのふまでは、まだ青葉の枝、

けふは、下生したばえに枯葉かれはの山、

大風おほかぜに芽も葉も揉もまれて、

一團ひとかたまりに池へ行く。

或あるひは獵かりの番舍ばんやの火に燒くばり、

或あるひは遠征隊の兵士が寢ねる

野戰病院用の蒲團に入はひるだらう。

冬だ、冬だ、霜枯時しもがれどきだ。

霜枯しもがれは幾基米突いくきろめえとるに亘る鬱憂を逞しうして

人ひとつ子こひとり通らない街道かいだうの電線を腐蝕してゐる。

角笛つのぶえが、角笛つのぶえが――悲しい……

角笛つのぶえが悲しい……

消えて行く音色ねいろの變化、

調てうと音色ねいろの變化、

トントン、トンテン、トントン……

角笛つのぶえが、角笛つのぶえが

北風きたかぜに消えてゆく。

耳につく角笛つのぶえの音ね、なんとまあ餘韻よゐんの深い音おとだらう……

冬ふゆだ、冬ふゆだ。葡萄祭ぶだうまつりも、さらば、さらば……

天人てんにんのやうに辛抱づよく、長雨ながあめが降ふりだした。

おさらば、さらば葡萄祭ぶだうまつり、さらばよ花籠、

橡とちの葉陰の舞踏ぶたふの庭のワットオぶりの花籠よ。

今、中學の寄宿舍に咳嗽せきの音おと繁しげく、

暖爐に火は消えて煎藥が匂ひ、

肺炎が各區かくくに流行して

大都會のあらゆる不幸一時に襲來する。

さりながら、毛織物、護謨ごむ、藥種店やくしゆてん、物思ものおもひ、

場末の町の屋根瓦やねがはらの海に臨んで、

その岸とも謂いつつべき張出はりだしの欄干近らんかんぢかい窓掛まどかけ、

洋燈ランプ、版繪はんゑ、茶ちや、茶菓子ちやぐわし、

樂たのしみは、これきりか知しら。

(ああ、まだある、それから洋琴ピアノのほかに、

毎週一囘、新聞に出る、

あの地味ぢみな、薄暗い、不思議な

衞生統計表さ。)

いや、何しろ冬がやつて來た。地球が痴呆ばかなのさ。

ああ南風なんぷうよ、南風なんぷうよ、

「時とき」が編みあげたこの古靴ふるぐつを、ぎざぎざにしておくれ、

冬だ、ああ厭な冬が來た。

毎年まいねん、毎年まいねん、

一々いち〱その報告を書いてみようとおもふ。

日曜

ハムレツト――そちに娘があるか。

ポロウニヤス――はい、御座りまする。

ハムレツト――あまり外へ出すなよ。腹のあるのは結構だが、そちの娘の腹に何か出來ると大變だからな。

しとしとと、無意味に雨が降る、雨が降る、

雨が降るぞや、川面かはづらに、羊の番の小娘こむすめよ……

どんたくの休日やすみのけしき川に浮び、

上かみにも下しもにも、どこみても、艀はしけも小船こぶねも出て居ない。

夕がたのつとめの鐘が市まちで鳴る。

人氣ひとけの絶えたかしっぷち、薄ら寂しい河岸かしっぷち。

いづこの塾の女生徒か(おお、いたはしや)

大抵はもう、冬支度ふゆじたく、マフを抱かゝへて有もつてるに、

唯ひとり、毛の襟卷もマフも無く

鼠の服でしよんぼりと足を引摺ひきずるいぢらしさ。

おやおや、列を離れたぞ、變だな。

それ驅出かけだした、これ、これ、ど、ど、どうしたんだ。

身を投げた、身を投げた。大變、大變、

ああ船が無い、しまつた、救助犬きうじよいぬも居ないのか。

日が暮れる、向の揚場あげばに火がついた。

悲しい悲しい火がついた。(尤もよくある書割かきわりさ!)

じめじめと川もびっしより濡れるほど

しとしとと、譯もなく、無意味の雨が降る、雨が降る。

日曜日

日曜日には、ゆかりある

阿嬭兒ちきやうだいの名誦なよみあげて

珠數じゆず爪繰つまぐるを常つねとする。

オルフェエよ、若きオルフェエ、

アルフェエ川の夕波に

轟きわたる踏歌たふかの聲……

パルシファル、パルシファル、

おほ禍まがつびの城壁じやうへきに

白妙しろたへ清き旗じるし……

プロメテエ、プロメテエ、

不信心者ふしんじんしやの百代ひやくだいが

口傳くちづてにする合言葉あひことば……

ナビュコドノソル皇帝は

金きんの時代の荒御魂あらみたま、

今なほこれらを領りやうするか……

さて、つぎに厄娃えわの女むすめたち、

われらと同じ運命の

乳に育つた姉妹あねいもと……

サロメ、サロメ、

戀のおほくが眠つてる

蘭麝らんじやに馨かをる石の唐櫃からうど……

オフェリイ姫はなつかしや、

この夏の夜よに來たまはば

人雜ひとまぜもせず語かたらはう……

サラムボオ、サラムボオ、

墓場の石にさしかゝる

清い暈かさきた月あかり……

おほがらの后きさきメッサリイヌよ、

紗しやの薄衣うすぎぬを掻かきなでて、

足音あしおとぬすむ豹の媚こび……

おお、いたいけなサンドリヨン、

蟋蟀こほろぎも來こぬ爐のそばで、

裂きれた靴下くつした縫つてゐる……

またポオル、ヸルジニイ、

殖民領しよくみんりやうの空のもと

さても似合にあひの女夫雛めをとびな……

プシケエよ、ふはり、ふはりと

罪つみの燐火おにびに燃えあがり、

消えはしまいか、氣にかかる……

モリス・マアテルリンク

温室

森の奧なる温室をんしつ、

永久えいきうに鎖とざせるその戸、

その圓屋根まるやねの下したにあるもの、

これに準なぞへて、わが心の下したにあるもの。

飢うゑに惱む王女わうぢよの思、

荒野あれのに迷ふ船乘ふなのりの愁、

不治ふちの患者の窓下まどしたに起る樂隊の音おと。

さていとも温ぬくき隅すみに行きてみよ。

收穫時とりいれどきのある日に氣絶きぜつしたる女をんなともいふべし。

病院の中庭なかにはに驛傳えきでんの馭者ぎよしや來り、

麋おほしかの狩人かりうどの成なれの果はてなる看護人かんごにん、かなたを通り過ぐ。

月影にすかし見よ。

(物皆こゝに處を得ず。)

法官ほふくわんの前に狂人きやうじん立てりともいふべし、

軍いくさぶね、帆を張りて運河に浮び、

白百合しろゆりに夜よの鳥啼き、

眞晝まひるがた、葬禮さうれいの鐘は鳴る、

(かの鐘形かねがたの玻璃器ぐらすきの下したに。)

平原へいげんに病人びやうにんの舍營しやえいあり、

晴れし日に依的兒ええてる匂ふ。

あな、あはれ、あな、あはれ、いつか雨ふらむ、

雪ふらむ、風ふかむ、温室に。

祈祷

あはれみたまへ、もくろみの

戸にたたずめるうつけさを、

わがたましひは、しろたへの

無能むのうに無爲むゐにあをざめり。

業わざをやめたるたましひは

吐息といきに蒼あをきたましひは、

たゞ眺むらむ、疲れはて、

莟つぼみの花に震ふ手を。

かかりしほどにわが心、

紫紺しこんの夢の玉を吹き、

蝋らふの纖手せんしゆのたましひは

月の光をふりそゝぐ。

月の光に明日あすといふ

黄花きばなのさゆり透すきみえて、

月の光に手の影は

ひとり悲しくあらはれぬ。

愁のむろ

胸にある青き愁よ、

さいはひを求めてやまず、

よよと泣く月の光に

夢青く力無けれど。

この青き愁の室むろに

さしよりて透見すきみをすれば、

ぐらす戸どの緑のあなた、

月を浴び、玻璃はりに覆おほはれ、

生ひ繁る葉はもの、花はなもの、

夢の如く、不動に立ちて

宵よひよひは、忘我ばうがの影を

愛執あいしふの薔薇さうびにおとす。

水は、はた、ゆるく噴ふきいで、

薄曇うすぐもる不斷ふだんの息いきに、

月影と空とをまぜて、

夢の如く節ふしもかはらず。

こころ

わが心

ああ、げに蔽おほはれたるわが心かな。

わが願ねがひの羊群やうぐんは温室をんしつの内に在りて、

牧まきに暴風あらしの來きたるを待つ。

まづ最も病やめるものを訪とはむ。

そはあやしき臭にほひを放てり。

その中なかに入いれば、われ母と共に戰場を過ぐる如し。

眞晝まひるがた人人ひとびと、一戰友いちせんいうを葬り、

歩哨ほせうは時の食しよくを喫きつす。

また最も弱きものを訪はむ。

そはあやしき汗を流したり。

こゝに新婦しんぷは病やみ、

日曜に謀叛むほん起り、

小兒せうに、牢らうに引かる。

(その先さき、はるかに霧を隔てて、)

厨くりやの口に横はるは垂死すゐしの女をんなか、

あるは不治ふぢの患者の床とこの下したに野菜やさいを切る看護の尼か。

終つひに最も悲しきものを訪はむ。

(毒あるが故に、これを最後さいごにしたり。)

ああ、わが唇は手負ておひの接吻せつぷんを受く。

この夏、城の妃きさきは皆わが心の塔の内うちに餓死がししたり。

今ここに曙の光、祭を照し、

河岸かしづたひ羊の歩むを見る、

また病院の窓に帆あらはる。

胸より心へ行く道の遠さよ。

歩哨は悉く受持の地に死したり。

ひと日わが心の郊外に小さゝやかなる祭ありき。

日曜の朝あさ、人、失鳩答しきうたを苅入かりいれたり。

天そら晴はれたる斷食だんじきの日、尼寺あまでらの童貞どうていは擧こぞりて運河に船の行くを眺めたり。

其時、白鳥はくてうは毒水どくすゐの橋の下したに惱みぬ。

囹圄ひとやの周めぐりなる樹樹きぎの枝は伐きりとられ、

六月ろくぐわつの午後、人、藥水やくすゐを齎し、

患者の食しよくは眼路めぢのかぎりに擴げられたり。

わが心よ。

萬物の悲しさ、ああ、わが心よ、ああ、萬物の悲しさ。

病院

病院。運河の岸の病院。

夏七月の病院。

廣間ひろまには爐を焚たきたり。

時しもあれや、運河の上うへ、大西洋定期船たいせいやうていきせんの汽笛きてきの聲。

(ああ窓に近づく勿れ。)

移民宮殿を通拔とほりぬけす。

暴風雨あらしの中なかに遊船よつと一艘いつさう、

また他の船は悉く羊群やうぐんを載のせたり。

(窓はかたく閉ぢたるこそよけれ。

人々外そとより殆んど全く覆おほはれたり。)

雪の上うへなる温室をんしつの心地す。

暴風雨あらしの日、産後さんごの初詣はつまうである如し。

夜具やぐの上に草木くさきの散りぼふが見えて、

日うららかなるに出火あり。

われ、負傷者ふしやうしやに充ちたる森を通過す。

ああ今終つひに月はのぼりぬ。

廣間ひろまの中央まんなかよりは噴水ふんすゐ迸ほとばしり、

一群ひとむれの少女せうぢよら、戸を細目ほそめに開く。

牧まきの島には羊の群むれ、

氷河の上に美々びびしき木立こだち、

大理石造の玄關に百合の花。

人の通かよはぬ森の奧に祭あり。

氷の淵に東邦の本草ほんざうは茂りたり。

聞け、今水門は開かる。

大西洋定期船たいせいやうていきせんは運河の水を搖ゆり亂る。

ああ、されど看護の尼は爐を掻かいたり。

河添かはぞひの道のかたへの蘆あしの葉は、緑凉しく燃えさかる。

月の光に漂ふは手負ておひ載のせたる船一艘いつさう、

王女わうぢよは皆暴風雨あらしの下したの船に乘り、

あまたの姫は失鳩答しきうたの原に死したり。

ああ、この窓はゆめな開きそ。

開け、水天すゐてんの際さい、大西洋定期船たいせいやうていきせんの汽笛の聲。

花苑はなぞのに何者か毒害どくがいせらる。

敵がたに盛さかんなる祭のけはひす。

包圍せられたる市街しがいに鹿が放たれ、

花百合のなかに獸けものの檻をりは見ゆ。

炭鑛の底深く熱帶の植物茂り、

牝羊めひつじの一群ひとむれ、鐵橋てつけうを過ぎ、

牡をすの羊は悲しげに廣間ひろまをさして入り來りぬ。

看護の尼、いま燈ともしびを點てんじて

患者の食を運びつつ、

運河にのぞむ窓の戸を、

すべての門の戸を閉ぢて、月の光を隱したり。

燧玉

悔くいといふ燧玉ひとるたま、手にとりて

過ぎし日を其下そのしたに照らしてみれば、

内證ないしようのかくれたる色青き

底の上うへに、うるはしき花は浮ぶ。

その玉の照らしたるわが願ねがひ、

その願、つらぬけるわが心、

その心、思出おもひでに近づけば、

忽ちに枯草かれくさはもえあがる。

このたびは思おもひをと、かの玉に

窺うかがへば、晶玉しやうぎよくのつとひかり、

忘れたる悲かなしみの花びらは、

ほのぼのとおもむろに咲きにほふ。

記憶にはあともなく消えはてし

ありし夜よのことわざも歸り來て、

なよげなる毳けばをもて撫なでらるる

新しき望あるわが心。

めつき

憐あはれなる疲れたるこのめつき、

汝等なんぢらのめつき、わがめつき、

今は亡きめつき、今に來きたるべきめつき、

終つひに來ずして已やむとも、實は世に在る目付めつき。

日曜の日、貧者ひんじやを訪ふ如きもあり、

家無き病人の如きもあり、

白布はくふに被はれたる牧に羊の迷ふが如きもあり。

また類罕たぐひまれなる目付もあり、

圓天井まるてんじやうの下した、閉ぢたる廣間ひろまの内、童貞どうていの刑に就くを眺むる如きもあり。

何なんともわかぬ悲かなしみを思はしむる目付あり。

即ち工場こうぢやうの窓に居る農民を、

機織はたおりとなりし園丁を、

蝋人形らふにんぎやうの見世物みせものの夏の晝過ひるすぎを、

庭に居ゐる病人を見る女王によわうの心を、

森の中なかなる樟腦の香かを、

祭の日、塔に王女わうぢよを押籠むるを、

水みづ温ぬるき運河の上うへ、七日なのか七夜なゝよを舟にて行くを思はしむ。

憐あはれみ給へ、收穫時とりいれどきの病人びやうにんのやうに、小股こまたにて出て來る目付を。

憐あはれみ給へ、食事の時に迷兒まひごとなりしやうなる目付めつきを。

憐あはれみ給へ、外科醫げくわいを仰ぎ見る怪我人けがにんの目付めつきを、

そのさま、暴風雨あらしの下したの天幕てんとに似たり。

憐あはれみ給へ、誘惑せらるる處女しよぢよの目付めつきを、

(噫、乳の流は闇に逃げ入る、

白鳥はくてうは蛇へびの群むれのなかに死したり。)

また憐あはれみ給へ、終つひに屈したる處女しよぢよの目付めつきを。

路無き沼に棄てられし王女わうぢよの姿かな。

また暴風雨あらしの中なかを照り輝ける諸船もろふねの眞帆あげて遠ざかり行くが如き目付めつきもあり。

また何處いづこにか他ほかに居ゐる事能はずして苦む目付めつきあり、げに憐あはれむに堪へたるかな。

殆ど區別無く而も實は相異あひことなれる苦悶の目付。

何人なんぴとも終つひにそれと曉さとり得えぬ目付めつき。

殆ど無言むごんなる目付。

また憐あはれなる囁さゝやきの目付、

押殺おしころされたる憐あはれの目付。

あるものの中に在れば、病院となりし古城こじやうに居ゐる心地す。

また他たのものは尼寺あまでらの小ちひさき芝生しばふの上うへに百合の紋章打つたる天幕てんとを張りたる如し。

更に他のものは温室をんしつに收容したる負傷者の風ふうありて、

また更に他のものは病人無き大西洋定期船たいせいやうていきせんに乘組みたる看護の尼の姿あり。

噫すべてかかる目付めつきを眺め知り、

かかる目付めつきを受け入れて、

かかる目付めつきの應接におのが目付めつきを費つかひはて、

それより後のちは、わが眼めをもまた閉ぢえざるとは。

エミイル・ヹルハアレン

都會

路はみな都會にむかふ。

煤煙のおくのかた、

かなた、階かいは階かいを重かさね、

幅廣き大石段だいせきだんのかずかず、

絶頂ぜつちやうの階かいまでも、天てんまでも上のぼる往來ゆききの道となりて、

夢の如く都會は髣髴たり。

ふりさけみれば、

鐵材てつざいを網あみに組みたる橋梁けうりやうの、

虚空こくうに躍りて架かゝるあり、

石あり、柱あり、

ゴルゴンの鬼面きめんこれを飾る。

郊外に聳ゆるは何なんの塔ぞ、

屋根あり、破風はふありて、家屋かをくの上うへに峙そばだつは、

下摶うつ鳥の皷翼はばたきに似たり。

即ちこれ觸手ある大都會、

屹然きつぜんとして、

平野田園の盡くるところに立つ。

紅あかき光の

きらめくは

標柱へうちゆうの上うへ、大圓柱だいゑんちゆうの上うへ、

晝なほ燃えて、

巨大なる黄金わうごんの卵子たまごの如し。

天日てんじつこゝに見えず、

光明の口にはあれど、

煤煙の奧に閉さる。

揮發きはつの油あぶら、瀝青れきせいの波は、

石造せきざうの波止場、木製の假橋かりばしを洗ひ、

ゆききの船の鋭き汽笛、

霧きりの奧に恐怖おそれを叫ぶ、

緑色りよくしよくの船の燈ひはその眼まなこ、

大洋と虚空こくうとを眺むらむ。

川岸かしは荷車にぐるまの轣轆れきろくに震ふるひ、

芥車あくたぐるま、蝶番てふつがひの如く軋きしり、

鐵の權衡はかりは角かくなる影を落して、

忽ちこれを地下室の底に投ず。

鐵橋ありて、中央に割れて開けば、

帆檣ほばしらの森に立つすさまじき絞臺かうだいの姿。

また中天ちゆうてんに銅あかがねの文字もじ、

長大にして屋根を越え、

壁を越え、軒蛇腹のきじやばらを越え、

對立して宛あだかも戰場の觀あり。

かなたには馬車動き、荷車過ぎ、

汽車は走り、努力は飛ぶ、

皆停車場に向ふ。見よ、金色こんじきの欄干てすり、

處々しよ〱に連りて泊はてたる船の如し。

鐵路てつろまた枝線しせんを廣げて軌道地下ちかに入り、

隧道トンネルを洞穴ほらあなを潛行すれば、

忽ち歴々たる光明の網變じて、

沙塵と騷擾との中なかに現あらはる。

即ちこれ觸手ある大都會。

見よ、この市街を。――人波は大綱おほづなの如く、

大厦高樓のめぐりに絡まつはるなか、

道は遠長く紆うねりて、見えつ隱れつ、

解ほぐし難くうち雜まじりたる群集ぐんしふの、

手振てぶり狂ほしく足並あしなみ亂れ、

眼には憎にくみの色を湛たゝへて、

駈拔かけぬく「時」をやらじとばかり、齒にて引留ひきとゞむ。

さる程に朝あしたより夕ゆふべをかけて、夕暮が夜よるになりても、

騷擾と喧囂と憂愁の中なかに立ち、

「偶發ぐうはつ」の方かたにむかひて人が播く勞作の辛苦の種たねも、

「時」すぐに奪ひて去るをいかにせむ。

ここに暗憺あんたんとして薄暗き帳場ちやうば、

瞟眼ひがめにして疑の念ねん深き事務室、

また銀行も狂亂大衆たいしゆうの風の音おとに、

はたと戸を閉づ。

戸外こぐわいには天鵞絨びろうどのぬめりの光、

赤く曇りて襤褸布ぼろぎれの燃ゆるが如く、

點燈てんとうの柱柱はしらばしらに退すさりゆく。

生活は酒精しゆせいの波に醗酵せり。

人道にむかひて開く酒場さかばこそは、

爭鬪爛醉の影を映うつす

鏡明るき殿堂ならずや。

壁に背そびらをもたせつつ、

燐寸箱マチばこを賣る盲人めしひもあり。

一ひとつの穴に落ち合へる酒色と饑餓との民もあり。

肉の惱みの相尅さうこくが、

小路こうぢに跳りかつ消ゆる其聲黒し。

かくて怒號の叫さけびつぎつぎに高まさりて、

憤怒ふんぬの聲、暴風あらしとなれば、

金色こんじきと憐光の快樂けらくを追ふに、

眼も眩みてか、人皆は互かたみに蹂ふみあふ。

近づくは女人によにんか、はた蒼顏さうがんの傀儡くわいらいか、

異性の徴しるしは髮の毛にのみめだちぬ。

かかるとき、偶偶たまたまに煤すゝけたる赤黒あかぐろき空氣の幕が、

日をさかり卷まくれあがれば、

光を仰ぐ大衆たいしゆうの

大叫喚だいけうくわんの海潮音、

廣場に、旅館ホテルに、市場いちばに、住居すまひに、

とよもし呻うなる聲強つよく、

垂死すゐしの人も安んじて、

今際いまはの時を送り得ず。

晝既に斯かくの如きを――、夕暮が

黒檀の槌つちをもて天空てんくうを彫ゑりきざむ時、

をちかたの都會の光、平原を領する顏がほに、

巨大なる夜よるの間まの望の如し。

そそりたつ此大都會、如法によほふ、樂欲げうよくと光華くわうくわと游狎いうかふとなり。

光明は闌干らんかんとして天雲あまぐものあなたに流れ、

千萬の瓦斯ガスの燈ひは金光きんくわうの林の如く、

鐵路てつろ、軌道を投げて憚ることなく、

佯いつはりの幸福を追へば、

富貴と勢力とこれに伴ふ。

城壁のしるく見ゆるは大軍たいぐんの屯たむろするに似て、

またもたちのぼる煤煙は、

田野を招く劉喨たる角かくの聲。

これ即ち觸手ある大都會、

貪婪どんらんの蛸たこに比すべし、骨堂こつだうなり。

威力ある屍かばねなり。

かくて諸もろ〱の路ここよりして遙に

かの都會にむかふ。

思想

驕慢の都、その宿命に驅らるる上うへを、

眼にはみえねども儼然げんぜんとして、

悲よりも高く、悦よりも高く、

生生せいせいとして思想は領す。

沈靜なる勢力と熱意との世のはじめ、

精神の炬火もえいでしよりこのかた、

人間の頭腦に入りまじりて、

黄金わうごんの迷宮に

これを包みしは思想、

光芒くわうばうこれが爲に更にまさりぬ。

かくて思想の力ますます強く、

人間の恐怖と熱望と批判とを統治し、

心情と生氣とを動かし、

有情うじやうと非情ひじやうとを眺めて、

宛あたかもその常に閉さざる眶まぶたの下もと、

無限の眼まなこは開きたるに似たり。

かくて思想は廣大の物界に震動して、

大方たいはうの世界に火焔の環わをめぐらせり、

いづれかはじめの光なるを知らず。

されど天空てんくうに常つね見みゆるその金光きんくわうを仰ぎみれば、

人は自己の光よりこれらを生うみし事を忘れ、

さすがにこれらの光華くわうくわに醉ゑひて、一日ひとひ、神を造りぬ。

けふもなほこの光、久遠くをんに亘わたる如し、

されど之を養ふに力と美とを缺きたり、

常に靜まらず、とこしへに新あらたなる

現實の血なくんば久しくは保たじ、

われら今常に之を濺そゝぐ。

一世の思想家は其心ますます明にして精せいなる可し。

生命せいめいの高貴なる工人こうじんとして、

額ひたひは輝き心は跳り、

新しき光もて忽ち頭腦を照せる、

光明くわうみやうをこそ驅使すべく、

征服の途みちにその歩調ほてうますます勇ましく、

悠久たる覆載ふうさいの下もと、人こそは至上なれと

自みづからの高貴なるに感ずるならむ。

廣遠にして豐富なる哉、めもはるに、

華はなさきわたる大思想よ。

世界

世界は星と人とより成る。

空高く、

とこしへに無聲むせいなるいつの時より、

空高く、

奧深くして風荒るる天上てんじやうのいづこの庭に、

空高く、

いづれの太陽を央なかにして、

ものに譬ふれば

火焔の蜂の巣をさながらに、

勢力彌漫びまんしたる虚空こくうの大壯觀中だいさうくわんちゆう、

幾千萬いくちよろづの不可思議にして壯烈なる

星の巣立は飛散す。

星ありき、何いつの世とは知らねど、蜜蜂の如く、

これら衆星しゆうせいをまき散しぬ。

これ、今、金色こんじきの精氣の中なか、

花に、籬まがきに、園生そのふの上うへに飛びかひて、

夜よるは輝き、晝は隱るる

久遠くをんの天の運行に、

往きつ、離さかりつ、はた戻りつ、とこしへに囘轉す、

母なる星のめぐりを。

嗚呼熾烈しれつなる光明くわうみやうの、狂へる如き大旋轉だいせんてんよ。

白色はくしよくの大靜寂だいせいじやく、これを領す。

うまれの火爐くわろを中心に、狂ひつ、とどろきつ、

𢌞轉する金色こんじきの天體は、宇宙の則のりに從ふなり。

嗚呼大法だいほふに從ひて、而も無邊なる大群飛だいぐんぴよ。

焔の落葉おちばか、燃え上る草むらか、

更に更に遠く進み、更に更に高く跳り、

發生し、死滅し、はた増殖して、

輝くもの、燃ゆるもの、

さながら似たり、

寶冠はうくわんのおもてを飾る珠たまの光に。

かくて地球も其昔、いつとは知らず在天ざいてんの

大寶冠より滴したたりたる夜光やくわうの玉のひとひかり。

緩慢にして遲鈍なる寒氣、鉛の色の濕りたる空氣は

この炎々として猛烈なる火氣くわきを靜めて、

大洋の水、まづ其面そのおもを曇らせ、

山岳、つぎに其氷りたる脊椎せきつゐを擡もたげ、

森林は、底土ていどの下したより動ゆるぎ出で、

朱しゆに染そみて骨々こち〲しき猛獸の怒號、爭鬪に戰をののき、

天災、東より西へ流れて、

大陸は作られ、また滅びぬ。

かしこ、旋風せんぷうの怒をなして渦卷くところ、

狂瀾怒濤の上、岬はつきいでぬ。

突進し、震蕩しんたうし、顛覆する天地てんちの苦鬪、

漸くにして其狂亂を收むるや、

影と爭との幾千年後、

徐ろに人は宇宙の鏡に顯あらはる。

彼はじめより主しゆたり、

忽然として

其上半身を直立し、其額を上げ、

萬物の主しゆたりと名乘る、かくて其祖より離れぬ。

晝あり夜よるあるこの地球は、

はるばると限なく

東西にひろがり、

はじめの思想、はじめの飛躍は、

人間の

至上なる腦の奧より

日の下もとにあらはれぬ。

嗚呼、思想よ、

恐ろしき飛躍なる哉、火焔くわえんの散らふに似たり。

其爭ふや赤く、其和するや緑に、

天上の星光せいくわう、雲を破る如く、

はてしらぬ原にかがやき、

火の如くなりて虚空こくうに轉じ、

山を攀よぢ、川を照らし、

新光明しんくわうみやうを隈くまなく放ちぬ、

海より海へと、靜寂せいじやくの邦の上に。

されどこの金色こんじきの喧囂けんがうの中うち、

いつも空にある如く、今も空にある如き

大諧音だいかいおんの終に起らむを望みて、

さながら

日輪の如く、

あらはれ、のぼるものは、

此世の民の中より出いづる

天才なり。

火焔くわえんの心を有し、蜜の唇を有して、

天才は事も無げに、「道」を語りぬ。

苦悶の闇に迷ふ凡百ぼんぴやくのともがら、

皆この大思想の巣にかへり來て、

切なる求道ぐだう、狂ほしき疑惑の

滿干まんかんの波はひたせども、

此突如たる光明くわうみやうに影も停とゞまりつ、

萬よろづの物質に新しき震動は傳り、

水も、森も、山岳も、山風に、濱風に、

身の輕きをおぼえて、

波自おのづから跳り、枝自おのづから飛びて、

白き泉の接吻せつぷんに岩も動きぬ。

萬物其基もとゐよりして革あらたまりぬ。

眞しんと善ぜんと、愛あいと美びと醜しうと、

水火すゐくわが作る微妙なる結合は、

宇宙の精神の經緯けいゐとなりて、

愛する物が織りなせる世のすべては、

終つひに天上の則のりに從つて生く。

世界は星と人とより成る。

俊傑

「智慧」は山嶽の中腹に坐して、

山川の白波しらなみ

左に折れ、

右に外それ、

谷間の岩を縫ひつ、絡まとひつ、

流るるを見て、

分別らしき眼差まなざしに、不安の色を浮べたれど、

井然せいぜんたる山下さんかの村落に、

軛くびきに繋つながれたる牛うし馬うまの

列も亂さず、靜かに勞作に向ふを見ては、

「智慧」の腦中に築かれたる宮殿に、

炬火たいまつの焔、沈として、平安は復もどり來りぬ。

平靜なる山川の景に、何の變化も無し。

人もし仰いで高きを望まば、

「智慧」は徐ろに手を擧げて、

著いちじるき山路ぢを指さすを知らむ。

唯ひとりかの炎々たる熱望を抱きて、

一ひとたび昇るとも、又更に高く昇らむとする人、

かの金色こんじきの眩暈げんうんを避け難き人は、

其精神の聲のみを聞きて、毫も他を聞かず。

其大飛躍に足代あししろとなるものは喜悦なり、

危きを冒し、難きに就く沈痛の喜悦なり。

飄逸にして且活躍を好む其心は、

大風たいふうの黒き喇叭のいと微かなる音をだに逸せず。

斯る人は人生の戰鬪を一の祝祭とす、

そこには人、群ぐんを成して行かず、ひとり行くを悦ぶ。

眼もくらむ深雪みゆきの光、

白妙の劍けんが峰を被ふ葬衣はふりぎぬ、

かじかむ指を噛み、張りつむる胸を毟むしる。

大風たいふうの擦子おろし、極寒の萬力まんりき、

岩より岩へ轉ずる雪なだれ、

是等のものも終つひに止めえじ、

かの肅々しゆく〱として頑強に巓いただきを極めむとする歩あゆみを。

しかすがに樂しきは谷底の命かな。

人の姿、人の聲、

藺ゐを席むしろとし、日光を敷石としたる室へや、

砂石しやせきの甕かめ、木づくりの古椅子。

週の日はすべて

勞作と辛苦との淺黒き藪やぶに暮しつ。

日曜のたび毎に

紅白の花をかざして、

朝には御堂みだうの鐘の聲を聽きく。

夕されば、少女をとめの姿、つねよりも艶あだめきて、

口ふるれば、耻らひて身は竦すくめども、

かたくなに否むとに非らず、忽ちに諾うべなふもよし。

されど、かの絶壁の細道をたどりて

徐ろにのぼりゆく人々は、

喜悦に醉ひ、未來に醉ひ、

人里を思ひ出づる歌聲に耳をも假かさず、

孤獨なるその振舞を世の人の顧みずとも何かあらむ、

天に向ひ、無限に向ひ、今開く此戸よりして、

後の世は擧こぞりて必らず續かむと、

わが夢の終はてをも問はず、

巓いたゞきの金きんの照しと白雪しらゆきと蹈み轟かし、

いや高き光を、空に仰ぎつつ、

築き上げたる熱望と意志との巖いはほ。

フェルナン・グレエグ

われは生きたり

われは命いのちの渦卷の中なかにあり……

弱し、顫へたり、蒼ざめたり、不安なり、苛苛いらいらし。

悔に、願に、祈に、

思出に、望に、欲に滿ちたり……

われとわが求むる所を知らず、

われとわが誰なるをも知らず、

散亂し、變化し、樣樣に分裂したるを感ず。

幸なるか、知らず、唯、

われは生きたり。

われは愛す、何とは無しに愛す。

われは戰慄す、魅みいられたる人の如くに恐る。

わが愛するは眤なづさはる温柔をんにうの黒き眼にして、

嬉しげに、優しげに、かはるがはる麗はしく、

閉づれば長く曳く睫まつげの影、

見開いたる時の愛らしさ。

わが愛するは清き唇、香にほひよき唇、

煙の如く纖ほそやかに吹きまよふ丈長たけながの髮、

珠たまひとつ、にこやかに笑ゑむ細き指なり。

しかもわれ何故に愛するかを、

また何故に愛せられたるかを究きはめず、唯、

われは愛す。

われは榮譽を欲す、而も知らず、

果して之を欲するか否かを。

われは思考す、而して其思想を

定かならぬ恐懼の語ことばに述ぶ。

ここのわが額ひたひの中なかに詩ありと感ずれど、

後々に生き殘るべき詩なるか、否か、知る由なし、

唯之を敍のぶれば、心昂あがり、思おもひ樂し。

この聲抑ふ可からず。

われは詩人なるか、知らず、唯、

われは歌ふ。

われは生きて萬物の中を行く。

善か、惡か、知らず、

そは屡々萬物に眤なづさはれ、

また屡々傷つけらるればなり。

われは愛す、冬も、夏も、絲杉いとすぎも、薔薇ばらも、

色青き大山たいざん、鈍色にびいろの名無ななしの阜をか、

大海たいかいの轟、巴里の轟も……

善か、惡か、知らず、唯、

われは生き、われは行き、われは萬物を愛す。

われまた男女の間を行く。

額の下したに、眼の中なかに、その魂たましひを見てあれば、

巣立に散り行くおもしろさ。

世は影の鳥、火の鳥の飛び去る如く、

われ高山かうざんに昇りて、その過ぐるを眺む……

男はわれを害し、女はただ泣けども、

われはその男女を愛す。

われは生きたり。

――かくて、われは死なむ。後のちにか、遙はるか後のちにか、はた今直すぐにか、

知らず、

けだし、わが行く處は、

あなたの、あなたの知らぬ國、

勇んで窓を飛び出づる鳥の如く、

あなたの、あなたの知らぬ國へ行きて

神の光に甦よみがへらむ。否、

知らず。

或あるひはわが行きて長久とこしへの眠に朽ち果つる所は、

地下の數尺、

草木も、天も、懷かしきかの眼もあらぬ

忌いまはしき闇の世界か。

しかはあれど、われは命いのちの熱あつき味を知る。

このわが小ちひさき瞳ひとみにも

ただ稻妻いなづまの束つかの間まに

久遠くをんにわたる光明くわうみやうは映うつりたらずや、

われも亦聖せいなる宴うたげに列つらなりて、わが歡樂は飮みほしぬ、

また何の望かあらむ。

われは生きたり。

――かくてわれは死なむ。

ポオル・フォオル

兩替橋

ポン・トオ・シァンジュ、花市はないちの晩。風のまにまに、ふはふはと、夏水仙のにほひ、土の匂にほひ、あすはマリヤのお祭の宵宮よみやにあたる賑にいやかさ。西の雲間に、河岸並かしなみに、金きんの入日がぱつとして、群集ぐんじゆの上うへに、淡紅うすあかの光の波のてりかへし。今シァアトレエの廣場ひろばには、人の出さかり、馬車が跳をどれば電車が滑る。辻の庭から打水うちみづの繁吹しぶきの霧きりがたちのぼり、風情ふぜいくははるサン・ジァック、塔の姿が見榮みばえする……風のまにまに、ふはふはと、夏水仙の匂、土のにほひ。……その風薫かをる橋の上うへ、ゆきつ、もどりつ、人波ひとなみのなかに交つて見てゐると、撫子なでしこの花、薔薇ばらの花はな、欄干らんかんに溢れ、人道じんだうのそとまで、瀧と溢れ出る。花はゆかしや、行く人の裾に卷きつく、足へも絡からむ、道ゆく車の輪に絡からむ。

角かどのパレエの大時鐘おほどけい、七時を打つた――都みやこの上に、金無垢きんむくの湖水こすゐと見える西の空そら、雲重かさなつてどことなく、雷らいのけしきの東の空。風の飜あふりが蒸暑むしあつく、呼吸いきの出入でいりも苦しいと……ひとしほマノンの戀しさに、ほつと溜息ためいき二度どついた……風の飜あふりが蒸暑むしあつく、踏まれた花の香かが高い……見渡せば、入日いりひ華はなやぐポン・ヌウフ、橋の眼鏡めがねの下したを行く濃こい紫むらさきの水の色、みるに心が結ぼれて――えい、かうまでも思ふのに、さても情つれないマノンよと、恨む途端とたんに、ごろ、ごろ、ごろ、遠くで雷らいが鳴りだして、風かぜの飜あふりが蒸暑むしあつい。

植木鉢うゑきばち、草花くさばな、花束はなたば、植木棚うゑきだな、その間まを靜しづかに流れるは、艶消つやけしの金きんの光を映うつしつつ、入日いりひの運うんを悲んで、西へ伴ともなふセエヌ川かは、紫色の波長く恨をひいてこの流、手摺てすりから散る花びらをいづこの岸へ寄せるやら。夕日ゆふひは低く惱ましく、わかれの光悲しげに、河岸かしを左右さいうのセエヌ川がは、川かは一杯いつぱいを抱だきしめて、咽むせんで搖そゝる漣さゞなみに熱い動悸どうきを見せてゐる。……われもあまりの悲しさに河岸かしの手摺てすりに身をもたせたが……花のかをりの夜よるの風、かへつてふさぎの種たねとなり、つれないマノンを思ひだす。

あれ、ルウヴルの屋根の上、望のぞみの色の天そらのおく、ちろりちろりとひとつ星ぼし。おお、それ、マノンの歌にも聞いた。「あれこそなさけのひとつ星ぼし、空には、めうとも、こひびとも、心變こゝろがはりのないものか。」涙ながらに、金星きんせいを仰いで見れば、寶石はうせきの光のやうにきらめくが、憎らしいぞや、雲めが隱す、折角せつかく樂しい昨日きのふは夢、せつない今日けふが現うつつかと、つい煩惱ぼんなうも生しやうじるが、世の戀人の身の上を何なんで雲めが思ふであらう。……もう、もう、そんな愚痴ぐちはやめ……星も出よ、あらしも吹けよ、唯ひとすぢに、あの人を思ふわが身には、どうでもよい。ある日マノンの歌ふには「移うつろひやすい人心ひとごゝろ」。そこでこちらも早速さつそくに「君が色香いろかもかんばせも」と鸚鵡返あうむがへしをしておいた。したが、あらしに打たれる花は、さぞ色褪せることだらう。……ぴかりと稻妻いなづまはたたがみ、はつとばかりに氣がついた。

雨あめこそは、さても眞面目まじめに、しつとりと人の氣分きぶんを落ちつかせ、石の心も浮きあげて冷つめたい光を投げかける。雨よ、この燃える思を冷ひややかに、亂れた胸を平たひらかに、このさし伸べた熱ねつの手を凉すずしいやうにひやせかし。おゝ、ぽつりぽつりやつて來た。……あゝ、さつとひと雨あめ……おや、もう月の出か。さては村雨むらさめの通つたのか。何となく明あかるいぞ。風かぜのまにまにふはふはと、撫子なでしこが匂ふ、夏水仙が匂ふ、薔薇ばらが匂ふ、土が匂ふ。ルウヴル宮きゆうの屋根の上、なさけの星も傾いた。どれこの花束を買ひませう。おやおや氣でもちがつたか。そして心で笑ひつつ、薔薇ばらの花束ひと抱かかへ、さきの口説くぜつもどこへやら、マノンのとこへ飛んで行く。

このをとめ

このをとめ、みまかりぬ、みまかりぬ、戀やみに。

ひとこれを葬りぬ、葬りぬ、あけがたに。

寂しくも唯ひとり、唯ひとり、きのままに、

棺のうち、唯ひとり、唯ひとり、のこしきて、

朝まだき、はなやかに、はなやかに、うちつれて、

歌ふやう「時くれば、時くれば、ゆくみちぞ、

このをとめ、みまかりぬ、みまかりぬ、戀やみに。」

かくてみな、けふもまた、けふもまた、野に出でぬ。

別離

せめてなごりのくちづけを濱へ出てみて送りませう。

いや、いや、濱風、むかひ風、くちづけなんぞは吹きはらふ。

せめてわかれのしるしにと、この手拭ハンケチをふりませう。

いや、いや、濱風、むかひ風、手拭ハンケチなんぞは飛んでしまふ。

せめて船出ふなでのその日には、涙ながして、おくりませう。

いや、いや、濱風、むかひ風、涙なんぞは干ひてしまふ。

えい、そんなら、いつも、いつまでも、思ひつづけて忘れまい。

おゝ、それでこそお前だ、それでこそお前だ。

小歌

木立生ひ繁る阜をかは、岸まで下おりて、靜かな水の中へつづく。薄暗うすぐらい水の半なかばは緑葉りよくえふを、まつ青さをなまたの半なかばは中空なかぞらの雲をゆすぶる。

ここを通るは白雲しらくもの眞珠船しんじゆぶね、ついそのさきを滑りゆく水枝みづえの筏いかだ……それ、眼の下したに堰せきの波、渦卷く靄もやのその中なかに、船も筏いかだもあらばこそ。

われらが夢の姿かな。船は碎け、筏は崩れ、帆はあれど、めあてなく、波のまにまに、影の夢、青い夢、堰せきに裂さけ、波に散り、あともない。

木立こだち生おひ繁る阜は岸までつづく。向むかひの岸の野原には今一面の花ざかり、中空なかぞらの雲一ぱいに白い光が掠かすめゆく……ああ、また別べつの影が來て、うつるかと見て消えるのか。

夏の夜

蟋蟀こほろぎが鳴く夏の夜よの青空あをぞらのもと、神、佛蘭西フランスの上うへに星の盃さかづきをそそぐ。風は脣に夏の夜よの味あぢはひを傳ふ。銀砂子ぎんすなごひかり凉しき空の爲、われは盃をあげむとす。

夜よるの風は盃の冷ひやき縁ふちに似たり。半眼はんがんになりて、口なめずりて飮み干さむかな、石榴ざくろの果みの汁を吸ふやうに滿天まんてんの星の凉しさを。

晝間ひるまの暑き日の熱のほてり、未いまだに消えやらぬ牧まきの草間くさまに横はり、あゝこの夕ゆふべのみほさむ、空が漂ふ青色あをいろのこの大盃おほさかづきを。

ギイ・シャルル・クロオ

窓にもたれて

夜よの紫の肩巾エシヤルプが

ふはりと地の肩の上に滑すべり落おちる

黄昏たそがれの窓にもたれて

今夜もまた空の悲劇を見みはじめると、

雲はけふどこへいつたか、

いつもの逢引あひびきにかげもみせない。

西方さいはう一面に和なぎわたり、

光いつとなく白しらんで薄れて、

さながら、あまりに脆もろく美しい花束が

ちよいとのことにこぼれ散るやうだ。

夕影ゆふかげはいま山あひの虚うろの窪くぼまで及んだが、

むかうの阜をかは入日のはての光を浴びて、

あのカナアンの國よりもなほ遠い

神の誓の郷さとのやうに照りわたる。

温柔をんにうの氣、水の如く中天ちゆうてんに流れ跳をどつて、

一分ぷん一分ぷんの嬌なまめいて滑りゆくには、

つい、ぼんやりと、恍惚うつとりして了しまふところを、

これではならぬと、やつとこさ、

胸の思をなだめて眠ねかす、

心いきの小歌こうたもくひとめた。

おや、うしろの方はうでらんぷがつく。

見よ、大空の奧深く、

千萬年せんまんねんも倦んぜずに、また、こよひ、

ちろり、ちろりと見える、聞える、

色いろの數々かずかず顫ふるはせた、星の光の節ふしまはし。

譫語

新しき美をわれは求める。

墓の上うへに遠慮無く舞踏するわれらだ。

爾等なんぢらはモツァルト、ラファエルを守れ、

ベエトホヹン、シェイクスピア、マルク・オオレルを守れ、

われらは敢て異端の道を擇ぶ。

爾等なんぢらの旌はたに敬禮しようや。

もし古いにしへの俊傑が復活するとならば、

このわが身中みうちに、このわが血液に甦よみがへるべし。

爾等なんぢらの見窄みすぼらしい繪馬ゑまの前に、

なんでこの身が、額ぬかづき祈らう。

むしろ、われは大風たいふうの中を濶歩して、

轟き騷ぐ胸を勵まし、

鶫つぐみ鳴く葡萄園に導きたい。

沖の汐風に胸ひらくとも、

葡萄の酒に醉ゑはうとも、何なんのその。

古書こしよに傍註ばうちゆうして之を汚す者よ、

額ぬかづき拜はいせ、われは神だ。

われ敢て墓の上に舞踏して憚らぬ所以のものは、

全世界の美、われにとりては、

朝毎、朝毎に、新しいからだ。

世間のある人人には……

世間のある人々には、その日々の消光くらしが

ひとりで牌ふだを打つパシアンスの遊あそびの如く、

またはすつかり覺えこんだ日課を

夢うつゝで譫語うはごとに言ふ如く、

またはカフェエに相變らずの顏觸と

薄ぎたない歌留多札を弄ぶやうだ。

ある人々には、一體、生いのちはごく手輕な

造作も無い尋常一樣の事で、

手紙を書いたり、一寸は「あそび」もしたり、

とにかく「用事」は濟せてゆく。

してその翌日あくるひも同じ事を繰返して、

昨日きのふに異かはらぬ慣例しきたりに從へばよい。

即ち荒あらつぽい大きな歡樂よろこびを避よけてさへゐれば、

自然また大きな悲哀かなしみもやつて來こないのだ。

ゆくてを塞ぐ邪魔な石を

蟾蜍ひきがへるは𢌞つて通る。

しかし、君、もし本當に生きてゐたいなら、

其日其日に新しい力を出して、

荒れ狂ふ生いのち、鼻息強く跳ね躍る生いのち、

御ぎよせられまいとする生いのちにうち克たねばならぬ。

一刻も息やすむ間まの無い奇蹟を行つてこそ

亂れそそげたこの鬣たてがみ、

汗ばみ跳はずむこの脇腹、

湯氣を立たてたるこの鼻頭はなづらは自由に出來る。

君よ、君の生いのちは愛の一念であれ、

心殘の銹さびも無く、

後悔の銹も無く、

鋼鐵の清い光に耀け。

君が心はいつまでも望と同じく雄大に、

神の授さづけの松明たいまつを吝をしむな。

塞ふさぎがちなる肉身にくしんから雄々しい聲を噴上ふきあげよ、

苦痛にすべてうち任まかせたその肉身にくしんから、

從容しようようとして死の許嫁いひなづけたる肉身にくしんから叫べ。

寶玉は鑛石を破つて光る。

レミ・ドゥ・グルモン

髮

シモオヌよ、そなたの髮の毛の森には

よほどの不思議が籠こもつてゐる。

そなたは乾草かれくさの匂がする。牛なぞの

ながく眠ねてゐた石の匂がする。

鞣皮なめしがはの匂がするかと思へば、

麥を箕みに煽あふりわける時の匂もする。

また森の匂もするやうだ。

朝配くばつて來る麺包パンの匂もする。

廢園の石垣にそつて亂れ咲く

草花の匂もする。

懸鉤子きいちごの匂もするやうだし、

雨に洗はれた蔦つたの匂もする。

日が暮れてから苅りとつた

羊齒しだの匂、藺ゐの匂がする。

柊ひひらぎの匂、苔の匂、

垣根の下に實みが割れた朽葉色くちばいろの

萎れた雜草の匂がする。

蕁麻いらぐさの匂、金雀花えにしだの匂がして、

和蘭陀おらんだげんげの匂もして、乳の匂がする。

黒穗草くろんぼさうの匂、茴香うゐきやうの匂、

胡桃くるみの匂がする、またよく熟うれて

摘みとつた果物くだものの匂がする。

柳や菩提樹ぼだいじゆが瓣べんの多い

花を咲かせるときの匂がする。

蜂蜜の匂もする。牧まきの草原くさはらに

さまよふ生物いきものの匂がする。

土つちの匂、川の匂、

愛の匂、火ひの匂がする。

シモオヌよ、そなたの髮の毛の森には

よほどの不思議が籠つてゐる。

雪

シモオヌよ、雪はそなたの頸えりのやうに白い、

シモオヌよ、雪はそなたの膝のやうに白い。

シモオヌよ、そなたの手は雪のやうに冷たい、

シモオヌよ、そなたの心は雪のやうに冷たい。

雪は火のくちづけにふれて溶とける、

そなたの心はわかれのくちづけに溶とける。

雪は松が枝えの上うへにつもつて悲しい、

そなたの額ひたひは栗色くりいろの髮かみの下したに悲しい。

シモオヌよ、雪はそなたの妹いもうと、中庭なかにはに眠ねてゐる。

シモオヌよ、われはそなたを雪よ、戀よと思つてゐる。

柊冬青

シモオヌよ、柊冬青ひひらぎそよごに日が照つて、

四月は遊にやつて來た。

肩の籠かごからあふれる花を、

茨いばらに柳に橡とちの樹きに、

小川をがはや溝や淺沼の

汀みぎはの草にもわけてやる。

水の上には黄水仙きずゐせん、

森のはづれへ日々花にちにちくわ、

素足すあしもかまはず踏み込んで、

棘いばらのひかげへすみれぐさ、

原はら一面いちめんに雛菊ひなぎくや

鈴を頸環くびわの櫻草さくらさう、

森の木この間まにきみかげ草ぐさ、

その細路ほそみちへおきなぐさ、

人家じんかの軒へあやめぐさ、

さてシモオヌよ、わが庭の

春の花には苧環をだまき、遊蝶花いうてふくわ、

唐水仙たうすゐせん、匂の高い阿羅世伊止宇あらせいとう。

薔薇連祷

僞善ぎぜんの花よ、

無言むごんの花よ。

銅色あかがねいろの薔薇ばらの花、人間の歡よろこびよりもなほ頼み難い銅色あかがねいろの薔薇ばらの花、おまへの僞いつはり多い匂を移しておくれ、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

うかれ女めのやうに化粧した薔薇ばらの花、遊女あそびめの心を有もつた薔薇ばらの花、綺麗きれいに顏を塗ぬつた薔薇ばらの花、情なさけ深さうな容子ようすをしておみせ、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

あどけ無い頬ほゝの薔薇ばらの花、末は變心こゝろがはりをしさうな少女をとめ、あどけ無い頬に無邪氣むじやきな紅あかい色をみせた薔薇ばらの花、ぱつちりした眼の罠わなをお張り、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

眼の黒い薔薇ばらの花、おまへの死の鏡のやうな眼の黒い薔薇ばらの花、不思議といふ事を思はせておくれ、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

純金色じゆんきんしよくの薔薇ばらの花、理想りさうの寶函たからばこともいふべき純金色じゆんきんしよくの薔薇ばらの花、おまへのお腹なかの鑰かぎをおくれ、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

銀色ぎんいろの薔薇ばらの花、人間の夢の香爐にも譬ふべき薔薇ばらの花、吾等われらの心臟を取つて煙にしてお了ひ、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

女同志をんなどうしの愛を思はせる眼付めつきの薔薇ばらの花よ、百合ゆりの花よりも白くて、女同志をんなどうしの愛を思はせる眼付めつきの薔薇ばらの花、處女をとめに見せかけてゐるおまへの匂をおくれ、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

茜あかねさす額ひたひの薔薇ばらの花、蔑さげすまれた女をんなの憤怒いきどほり、茜あかねさす額ひたひの薔薇ばらの花、おまへの驕慢けうまんの祕密ひみつをお話し、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

黄きばんだ象牙ざうげの額ひたひの薔薇ばらの花、自分で自分を愛してゐる黄ばんだ象牙ざうげの額ひたひの薔薇ばらの花、處女をとめの夜よるの祕密ひみつをお話し、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

血汐ちしほの色の唇の薔薇ばらの花、肉を食くらふ血汐ちしほの色の唇の薔薇ばらの花、おまへに血を所望しよまうされたら、はて何なんとしよう、さあ、お飮み、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

硫黄ゆわうの色の薔薇ばらの花、煩惱の地獄ともいふべき硫黄ゆわうの色の薔薇ばらの花、魂たましひとなり焔となり、おまへが上に舞つてゐるその薪に火をおつけ、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

桃の實みの色の薔薇ばらの花、紅粉こうふんの粧よそほひでつるつるした果物くだもののやうな、桃の實みの色の薔薇ばらの花、いかにも狡ずるさうな薔薇ばらの花、吾等の齒に毒をお塗り、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

肉色の薔薇ばらの花、慈悲の女神めがみのやうに肉色の薔薇ばらの花、若々わかわかしてゐて味の無いおまへの肌の悲みに、この口を觸さはらせておくれ、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

葡萄のやうな薔薇ばらの花、窖あなぐらと酒室さかむろの花である葡萄のやうな薔薇ばらの花はな、狂氣きちがひの亞爾箇保兒アルコオルがおまへの息いきに跳はねてゐる、愛の狂亂を吹ふつかけておくれ、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

菫色の薔薇ばらの花、曲こじけた小娘こむすめの淑しとやかさが見える黄色きいろの薔薇ばらの花、おまへの眼は他ひとよりも大きい、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

淡紅色ときいろの薔薇ばらの花、亂心地みだれごゝちの少女をとめにみたてる淡紅色ときいろの薔薇ばらの花、綿紗モスリンの袍うはぎとも、天あめの使ともみえる拵こしらへもののその翼はねを廣げてごらん、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

紙細工かみざいくの薔薇ばらの花、この世にあるまじき美を巧たくみにも作り上げた紙細工かみざいくの薔薇ばらの花、もしや本當ほんたうの花でないかえ、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

曙色あけぼのいろの薔薇ばらの花、「時」の色「無む」の色を浮べて、獅身女面獸スフインクスの微笑ほゝゑみを思はせる暗色あんしよくの薔薇ばらの花、虚無きよむに向つて開いた笑顏ゑがほ、その嘘つきの所が今に好きになりさうだ、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

紫陽花色あぢさゐいろの薔薇ばらの花、品ひんの良よい、心の平凡な樂たのしみともいふべく、新基督教風しんキリストけうふうの薔薇ばらの花、紫陽花色あぢさゐいろの薔薇ばらの花、おまへを見るとイエスさまも厭になる、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

佛桑花色ぶつさうげいろの薔薇ばらの花、優しくも色の褪さめたところが返咲かへりざきの女をんなの不思議な愛のやうな佛桑花色ぶつさうげいろの薔薇ばらの花、おまへの刺とげには斑ふがあつて、おまへの爪は隱れてゐる、その天鵞絨びろうどの足先あしさきよ、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

亞麻色あまいろの薔薇ばらの花、華車きやしやな撫肩なでがたにひつかけた格魯謨色クロオムいろの輕い塵除ちりよけのやうな亞麻色あまいろの牡をよりも強い牝めと見える、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

香橙色くねんぼいろの薔薇ばらの花、物語に傳はつた威尼知亞女ヹネチヤをんな、姫御前ひめごぜよ、妃きさきよ、香橙色くねんぼいろの薔薇ばらの花、おまへの葉陰の綾絹あやぎぬに、虎の顎あぎとが眠ねてゐるやうだ、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

杏色あんずいろの薔薇ばらの花、おまへの愛はのろい火で温まる杏色の薔薇ばらの花よ、菓子をとろとろ煮てゐる火皿ひざらがおまへの心だ、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

盃形さかづきがたの薔薇ばらの花、口をつけて飮みにかかると、齒の根が浮出す盃形さかづきがたの薔薇ばらの花、噛かまれて莞爾につこり、吸はれて泣きだす、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

眞白まつしろな薔薇ばらの花、乳色ちゝいろで、無邪氣むじやきで眞白まつしろな薔薇ばらの花、あまりの潔白けつぱくには人ひとも驚おどろく、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

藁色わらいろの薔薇ばらの花、稜鏡プリズムの生硬なまな色にたち雜まざつた黄ばんだ金剛石のやうに藁色わらいろの薔薇ばらの花、扇のかげで心と心とをひしと合せて、芒のぎの匂にほひをかいでゐる僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

麥色の薔薇ばらの花、括くくりの弛んだ重い小束こたばの麥色の薔薇ばらの花、柔やはらかくなりさうでもあり、硬かたくもなりたさうである、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

藤色ふぢいろの薔薇ばらの花、決着けつちやくの惡い藤色ふぢいろの薔薇ばらの花、波にあたつて枯れ凋んだが、その酸化さんくわした肌はだをばなるたけ高く賣らうとしてゐる、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

深紅しんくの色の薔薇ばらの花、秋の夕日の豪奢はでやかさを思はせる深紅しんくの色の薔薇ばらの花、まだ世心よごころのつかないのに欲を貪る者の爲添伏そひぶしをして身を任す貴たふとい供物くもつ、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

大理石色なめいしいろの薔薇ばらの花、紅あかく、また淡紅うすあかに熟じゆくして今にも溶とけさうな大理石色なめいしいろの薔薇ばらの花、おまへは極ごく内證ないしよで花瓣はなびらの裏をみせてくれる、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

唐金色からかねいろの薔薇ばらの花、天日てんぴに乾いた捏粉ねりこ、唐金色からかねいろの薔薇ばらの花、どんなに利きれる投槍なげやりも、おまへの肌に當つては齒も鈍にぶる、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

焔の色の薔薇ばらの花、強情がうじやうな肉を溶とかす特製の坩堝るつぼ、焔ほのほの色の薔薇ばらの花、老耄らうまうした黨員の用心、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

肉色の薔薇ばらの花、さも丈夫らしい、間まの拔ぬけた薔薇ばらの花、肉色の薔薇ばらの花、おまへは、わたしたちに紅あかい弱い葡萄酒ぶだうしゆを注かけて誘惑する、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

玉蟲染たまむしぞめの天鵞絨びろうどのやうな薔薇ばらの花、紅あかと黄きの品格があつて、人の長をさたる雅致がちがある玉蟲染たまむしぞめの天鵞絨びろうどのやうな薔薇ばらの花、成上なりあがりの姫たちが着る胴着どうぎ、似而非えせ道徳家もはおりさうな衣服きもの、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

櫻綾子さくらどんすのやうな薔薇ばらの花、勝ち誇つた唇の結構な氣の廣さ、櫻綾子さくらどんすのやうな薔薇ばらの花、光り輝くおまへの口は、わたしどもの肌の上、その迷景ミラアジユの赤い封印ふういんを押おしてくれる、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

乙女心をとめごゝろの薔薇ばらの花、ああ、まだ口もきかれぬぼんやりした薄紅うすあかい生娘きむすめ、乙女心をとめごゝろの薔薇ばらの花、まだおまへには話がなからう、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

苺いちごの色いろの薔薇ばらの花、可笑をかしな罪の恥と赤面せきめん、苺いちごの色の薔薇ばらの花、おまへの上衣うはぎを、ひとが揉もみくちやにした、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

夕暮色ゆふぐれいろの薔薇ばらの花、愁うれひに半なかば死しんでゐる、噫あゝたそがれ刻どきの霧きり、夕暮色ゆふぐれいろの薔薇ばらの花、ぐつたりした手に接吻せつぷんしながら、おまへは戀死こひじにでもしさうだ、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

水色みづいろの薔薇ばらの花、虹色にじいろの薔薇ばらの花、怪獸シメエルの眼に浮ぶあやしい色、水色の薔薇ばらの花、おまへの瞼まぶたを少しおあげ、怪獸シメエルよ、おまへは面めんと向つて、ぢつと眼と眼と合せるのが恐こはいのか、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

草色くさいろの薔薇ばらの花、海の色の薔薇ばらの花、ああ海うみのあやしい妖女シレエヌの臍ほぞ、草色くさいろの薔薇ばらの花、波に漂ふ不思議な珠玉しゆぎよく、指が一寸ちつと觸さはると、おまへは唯の水になつてしまふ、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

紅玉あかだまのやうな薔薇ばらの花、顏の黒ずんだ額ひたひに咲く薔薇ばらの花、紅玉あかだまのやうな薔薇ばらの花、おまへは帶の締緒しめをの玉にすぎない、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

朱しゆの色の薔薇ばらの花、羊ひつじ守もる娘こが、戀に惱んで畠はたけに眠ねてゐる姿、羊牧ひつじかひはゆきずりに匂を吸ふ、山羊やぎはおまへに觸さはつてゆく、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

墓場の薔薇ばらの花、屍體したいから出た若い命いのち、墓場の薔薇ばらの花、おまへはいかにも可愛かはいらしい、薄紅うすあかい、さうして美しい爛壞らんゑの薫かをり神神かうがうしく、まるで生きてゐるやうだ、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

褐色とびいろの薔薇ばらの花、陰鬱いんうつな桃花心木たうくわしんぼくの色、褐色とびいろの薔薇ばらの花、免許の快樂、世智、用心、先見、おまへは、ひとの惡わるさうな眼つきをしてゐる、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

雛罌粟色ひなげしいろの薔薇ばらの花、雛形娘ひながたむすめの飾紐かざりひも、雛罌粟色ひなげしいろの薔薇ばらの花、小ちひさい人形にんぎやうのやうに立派なので兄弟きやうだいの玩弄おもちやになつてゐる、おまへは全體ぜんたい愚おろかなのか、狡こすいのか、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

赤くてまた黒い薔薇ばらの花、いやに矜たかぶつて物隱しする薔薇ばらの花、赤くてまた黒い薔薇ばらの花、おまへの矜たかぶりも、赤味あかみも、道徳が拵こしらへる妥協の爲に白しらつちやけて了しまつた、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

鈴蘭のやうな薔薇ばらの花、アカデエモスの庭に咲く夾竹桃けふちくたうに絡からんだ旋花ひるがほ、極樂の園にも亂れ咲くだらう、噫、鈴蘭のやうな薔薇ばらの花、おまへは香にほひも色いろもなく、洒落しやれた心意氣こゝろいきも無い、年端としはもゆかぬ花だ、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

罌粟色けしいろの薔薇ばらの花、藥局やくきよくの花、あやしい媚藥びやくを呑んだ時の夢心地、贋にせの方士はうしが被かぶる頭巾づきんのやうな薄紅うすあかい花、罌粟色けしいろの薔薇ばらの花、馬鹿者どもの手がおまへの下衣したぎの襞ひだに觸さはつて顫ふるへることもある、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

瓦色かはらいろの薔薇ばらの花、煙のやうな道徳の鼠繪具、瓦色かはらいろの薔薇ばらの花、おまへは寂しさうな古びた床机しやうぎに這はひあがつて、咲き亂れてゐる、夕方の薔薇ばらの花、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

牡丹色の薔薇ばらの花、仰山ぎやうさんに植木のある花園はなぞのの愼つゝましやかな誇、牡丹色の薔薇ばらの花、風がおまへの瓣はなびらを飜あふるのは、ほんの偶然であるのだが、それでもおまへは不滿でないらしい、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

雪のやうな薔薇ばらの花、雪の色、白鳥はくてうの羽はねの色、雪のやうな薔薇ばらの花、おまへは雪の脆いことを知つてゐるから、よほど立派な者のほかには、その白鳥はくてうの羽はねを開いてみせない、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

玻璃色びいどろいろの薔薇ばらの花、草間くさまに迸ほとばしる岩清水いはしみづの色、玻璃色びいどろいろの薔薇ばらの花、おまへの眼を愛したばかりで、ヒュラスは死んだ、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

黄玉色トパアズいろの薔薇ばらの花、忘れられてゆく傳説の姫君、黄玉色トパアズいろの薔薇ばらの花、おまへの城塞じやうさいは旅館となり、おまへの本丸ほんまるは滅んでゆく、おまへの白い手は曖昧な手振をする、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

紅玉色リユビイいろの薔薇ばらの花、轎のりもので練ねつてゆく印度いんどの姫君、紅玉色リユビイいろの薔薇ばらの花、けだしアケディセリルの妹君であらう、噫衰殘すゐざんの妹君よ、その血僅に皮に流れてゐる、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

莧ひゆのやうに紫ばんだ薔薇ばらの花、賢明はフロンド黨の姫君の如く、優雅いうがはプレシウズ連れんの女王とも謂いひつべき莧ひゆのやうに紫ばんだ薔薇ばらの花、美うつくしい歌を好む姫君、姫が寢室ねべやの帷とばりの上に、即興そくきようの戀歌こひかを、ひとが置いてゆく、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

蛋白石色オパアルいろの薔薇ばらの花、後宮こうきゆうの香烟かうえんにつつまれて眠やすむ土耳古トルコの皇后、蛋白石色オパアルいろの薔薇ばらの花、絶間無たえまない撫なでさすりの疲つかれ、おまへの心はしたたかに滿足した惡徳の深い安心を知つてゐる、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

紫水晶色アメチストいろの薔薇ばらの花、曉方あけがたの星、司教しけうのやうな優しさ、紫水晶色アメチストいろの薔薇ばらの花、信心深い柔かな胸の上におまへは寢てゐる、おまへは瑪利亞樣マリヤさまに捧げた寶石だ、噫寶藏はうざうの珠玉しゆぎよく、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

君牧師カルヂナルの衣ころもの色、濃紅色のうこうしよくの薔薇ばらの花、羅馬公教會ろおまこうけうくわいの血の色の薔薇ばらの花、濃紅色のうこうしよくの薔薇ばらの花、おまへは愛人の大きな眼を思ひださせる、おまへを襪紐たびどめの結目むすびめに差すものは一人ひとりばかりではあるまい、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

羅馬法皇ろおまほふわうのやうな薔薇ばらの花、世界を祝福する御手みてから播まき散らし給ふ薔薇ばらの花、羅馬法皇ろおまほふわうのやうな薔薇ばらの花、その金色こんじきの心しんは銅あかがねづくり、その空あだなる輪りんの上に、露と結むすぶ涙は基督クリストの御歎おんなげき、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。

僞善ぎぜんの花よ。

無言むごんの花よ。

むかしの花

どんなに立派な心よりも、おまへたちの方がわたしは好すきだ、滅ほろんだ心よ、むかしの心よ。

長壽花きずゐせん、金髮きんぱつのをとめ、幾人いくたりもの清い睫まつげはこれで出來る。

東洋の水仙花すゐせんくわ、實みのならぬ花、道で無い花。

黄金色わうごんいろの金盞花きんせんくわ、男の夢に通かよつてこれと契ちぎる魑魅すだまのもの凄すごい艶あでやかさ、これはまた惑星わくせいにもみえる、或は悲しい「夢」の愁の髮に燃える火。

長壽花きずゐせん、水仙花すゐせんくわ、金盞花きんせんくわ、どんなに明るい色の髮の毛よりも、おまへたちの方が、わたしは好すきだ、滅ほろんだ花よ、むかしの花よ。

白百合しらゆり、處女むすめで死んだ者の、さまよふ魂たましひ。

紅百合べにゆり、身の潔白を失なくして赤面せきめんした花、世心よごゝろづいた花。

鳶尾草いちはつの花、清淨しやうじやう無垢むくの腕かひなの上に透すいて見える脈管みやくくわんの薄い水色、肌身はだみの微笑ほゝゑみ、新しい大空おほぞらの清らかさ、朝空あさぞらのふと映うつつた細流いさゝがは。

白百合しらゆり、紅百合べにゆり、鳶尾草いちはつの花、信頼心しんらいしんの足りない若いものたちよりも、おまへたちの方はうがわたしは好すきだ、滅ほろんだ花よ、むかしの花よ。

花薄荷はなはくか、燃えたつ草叢くさむら、火焔ほのほの臠しゝむら、火蛇ひへびのやうなこの花の魂は黒い涙となつて鈍染にじんでゐる。

双鸞菊とりかぶと、毒の兜かぶとを戴いたゞき、鳥の羽根はねの飾を揷さした女軍ぢよぐんの勇者つはもの。

風鈴草ふうりんさう、色いろつぽい音ねの鈴、春ここにちりりんと鳴る、榛はしばみの樹が作る筋違骨すぢかひぼねの下したに蹲うづくまる色よい少女をとめ。

花薄荷はなはくか、双鸞菊とりかぶと、風鈴草ふうりんさう、毒どくの薄い、浮れやうの足りないほかの花よりも、おまへたちの方はうが、わたしは好すきだ。滅ほろんだ花よ、むかしの花よ。

牡丹ぼたん、愛嬌たつぷりの花娘はなむすめ、尤も品ひんは無い、味もない。

匂阿羅世伊止宇にほひあらせいとう、眼に萎なえた愁のあるむすめ。

苧環をだまき、成人おとなびてゐないのが身上しんじやうの女學生、短い袴、纖ほそい脚あし、燕の羽根はねのやうに動く腕うで。

牡丹ぼたん、匂阿羅世伊止宇にほひあらせいとう、苧環をだまきの花、女むすめざかりの姿よりも、おまへたちの方はうがわたしは好すきだ。滅ほろんだ花よ、むかしの花よ。

水剪紅羅すゐせんのう、すこし不格好ぶかくこうだが、白鳥はくてうの頸くびのやうにむくむくした毧毛わたげがある。

龍膽りんだう、太陽の忠まめやかな戀人。

赤熊百合しやぐまゆり、王の御座所ござしよの天幕てんとの屋根飾やねかざり、夢を鏤ちりばめた笏しやく、埃及王ばろの窮屈きゆうくつな禮服を無理に被きせられた古風こふうな女王ぢよわう。

水剪紅羅すゐせんのう、龍膽りんだう、赤熊百合しやぐまゆり、本物ほんものの女性美によしやうびよりも、おまへたちの方はうが、わたしは好すきだ。滅ほろんだ花よ、むかしの花よ。

櫻草さくらさう、はつ春の姉娘あねむすめ。

毛莨うまのあしがた、貧しいうかれ女めの金貨。

鈴蘭、おめかしの好な女をんな、白い喉のどを見せて歩く蓮葉者はすはものの故意わざとらしいあどけなさ、丸裸まるはだかの罔象女みづはのめ。

櫻草さくらさう、毛莨うまのあしがた、鈴蘭すゞらん、愼つゝしみの足りない接吻せつぷんよりも、おまへたちの方はうが、わたしは好すきだ。滅ほろんだ花よ、むかしの花よ。

茴香うゐきやう、愛の女神めがみの青雲あをぐもの髮。

野罌粟のげし、戀人に噛まれて血を鈍染にじました唇。

黄蜀葵とろろあふひ、土耳古皇帝とるこくわうてい鍾愛しようあいの花、麻色あさいろに曇つた眼、肌理きめこまかな婀娜あだもの――おまへの胸から好い香にほひがする、潔白の氣は露ほどもない香にほひがする。

茴香うゐきやう、野罌粟のげし、黄蜀葵とろろあふひ、色々いろいろと物言ひかけるよその小花こばなよりも、おまへたちの方はうがわたしは好すきだ。滅ほろんだ花よ、むかしの花よ。

山百合のマルタゴン、何なん百となく頭を上あげて、強い薫かをりを放つ怪物くわいぶつ、淺藍色うすあゐいろの多頭たとうの大蛇おろち。

山百合やまゆりのマルタゴン、葡萄色えびいろの頭巾づきんを被かぶつてゐる。

山百合やまゆりのマルタゴン、黄きいろい眼をしたマルタゴン、東羅馬ひがしろおまの百合の花、澆季皇帝げうきくわうていの愛玩あいぐわん、聖像せいざうの香かう。

マルタゴン、鈴なり花のマルタゴン、名指なざしてもいいが、ほかの怪物くわいぶつよりもおまへたちの方はうがわたしは好すきだ。滅ほろんだ花よ、むかしの花よ。

猿猴草ゑんこうさう、さも毒がありさうな白い花。

翁草おきなぐさ、吟味して雅みやびた物言ばかりなさるマダアム・プレシウズ。

オンファロオド、人を蕩とろかす明色めいしよくの眼をした臍形ほぞがたの花、影を無言むごんに映して見せる奧深い鏡。

猿猴草ゑんこうさう、翁草おきなぐさ、オンファロオド、粉粧つくりが足りない尋常の化生けしやうのものよりも、おまへたちの方はうがわたしは好だ。滅ほろんだ花よ、むかしの花よ。

瑠璃草るりさう、アンゴラの生れか、手ざはりの快いい、柔かい女猫めねこ。

紫羅欄花あらせいとう、帽子の帶の縁へりにさした人柄ひとがらな前立まへだて。

罌粟けしの花はな、愛あいの疲の眠ねむり、片田舍の廢園。蓬生よもぎふの中なかに、ぐつすり眠ねむるまろ寢姿ねすがた――靴の音おとにも眼が醒めぬ。

瑠璃草るりさう、紫羅欄花あらせいとう、罌粟けしの花、どんなに嫖緻きりやうの好いい子こよりも、おまへたちの方はうが、わたしは好すきだ。滅ほろんだ花よ、むかしの花よ。

矢車草やぐるまさう、まるで火の車。

思草おもひぐさ、わたしはおまへを思ひだす――めんとおまへを見るときに。

白粉花おしろいばな、夜中よなかに表を叩たゝくから、雨戸あまどを明けてふと見れば、墓場の上の狐火きつねびか、暗闇くらがりのなかにおまへの眼が光る。噫、おしろい、おしろい、汚よごれた夜よるの白粉花おしろいばな。

矢車草やぐるまさう、思草おもひぐさ、白粉花おしろいばな、生しやうの眞まことの美人よりもおまへの方はうがわたしは好すきだ。滅ほろんだ花よ、むかしの花よ。

雛菊ひなぎく、指で隱したおまへのその眼のしをらしさ。

釣舟草つりぶねさう、不謹愼ふきんしんの女である、秋波ながしめをする、科しなをする。

莧ひゆの花、男なんぞは物ともしない女の帽子の羽根はね、口元も腰元も溶とけるやうだ、おまへの蜜の湖に若い男が溺れ死ぬ。

雛菊ひなぎく、釣舟草つりぶねさう、莧ひゆの花、もつと眞劍の迷まよはしよりも、おまへたちの方がわたしは好だ。滅ほろんだ花よ、むかしの花よ。

忍冬すひかづら、うかれて歩く女。

素馨そけい、ゆきずりに袖ふれる女。

濱萵苣はまさじ、すました女、おまへには道義の匂にほひがする、秤はかりにかけた接吻せつぷんの智慧もある、樫かしの箪笥に下着したぎが十二枚、乙をつな容子ようすの濱萵苣はまさじ、しかも優しい濱萵苣はまさじ。

忍冬すひかづら、素馨そけい、濱萵苣はまさじ、迷まよはしの足りないほかの花よりも、おまへたちの方はうが、わたしは好すきだ。滅ほろんだ花よ、むかしの花よ。

蛇苺へびいちご、蘭引らんびきで拵こしらへあげた女。

芍藥しやくやく、腕套うでぶくろに包んだ手で、頻しきりに皮肉を播まいてゐる。

雪ゆきの下した、堅い心も突きとほす執念しふねん深い愛、石に立つ矢、どんなに暗い鐵柵てつさくの網あみの中なかへも入はひる微笑ほゝゑみ。

蛇苺へびいちご、芍藥しやくやく、雪ゆきの下した、もつと穩おとなしい隱立かくしだてよりも、おまへたちの方はうがわたしは好すきだ。滅ほろんだ花よ、むかしの花よ。

ブラテエルといふ花は、所帶染しよたいじみた世話女房。

モレエヌはラブレエのやうに笑ひのめす花。

水蓼みづたでは無情の美人、燒木やけぎだ、蘆あしの篝かゞりだ、眼にばかり心が出てゐて、胸は空から。

ブラテエル、モレエヌ、水蓼みづたで、もつと媚なまめかしい姿よりも、おまへたちの方が、わたしは好すきだ。滅ほろんだ花よ、むかしの花よ。

亞米利加あめりかの薄荷はくかの花、愛の衰にふりかける胡椒こせう。

鐵線蓮かざぐるま、人の魂たましひに絡からむ蛇へび。

留紅草るこうさう、樽形たるがたの花、その底にダナウスの娘たちが落ちてゐさうな花、人間の弱い心臟の血を皆關かまはずに吸いこむため、おまへの唇には痍きずがある。

亞米利加あめりかの薄荷はくか、鐵線蓮かざぐるま、留紅草るこうさう、もつと優しい鳩のやうな肉よりも、おまへたちの方がわたしは好すきだ。滅ほろんだ花よ、むかしの花よ。

「十一時じの女をんな」といふ花は白い日傘ですらりと立つてゐる。

芥菜からしの花、おまへの優しい心はみんな歌になつて、なくなつて了しまふ。

木犀もくせい、可愛かはいい從姉妹いとこの匂、子供の戀、眞味を飾る微笑ほゝゑみ。

「十一時じの女をんな」、芥菜からし、木犀もくせいの花、僞のもつと少ない手足よりも、おまへたちの方はうがわたしは好すきだ。滅ほろんだ花よ、むかしの花よ。

「聖母せいぼの手套てぶくろ」即ち實芰答利斯ジキタリスの花、信心しんじんの諸人しよにんみなこれに接吻せつぷんする。

刺罌粟とげけし、すきな手の甲かふの靨ゑくぼ。

母子草はゝこぐさ、すいた人の指にはめた脆い蛋白花オパアル、寢室ねべやでもつて、月を映してみるつもりか。

「聖母せいぼの手套てぶくろ」、刺罌粟とげけし、母子草はゝこぐさ、どんなに眞白ましろな手よりも、おまへたちの方はうが、わたしは好すきだ。滅ほろんだ花よ、むかしの花よ。

杜若かきつばた、悲しい松明たいまつの強い焔ほのほ。

菖蒲あやめ、女丈夫ぢよぢやうふの血に染そまつた凄い短刀。

伊吹虎尾いぶきとらのを、振りかざす手の怒いかり、空からになつた心臟にしがみつく蝮まむし、自害じがいした人。

杜若かきつばた、菖蒲あやめ、伊吹虎尾いぶきとらのを、どんなに恐しい娘よりも、おまへたちの方はうがわたしは好すきだ。滅ほろんだ花よ、むかしの花よ。

犬芥いぬがらし、苦痛くつうにほほゑむ尼僧にそう、隱れたる殉教者じゆんけうしやの光。

「約百ヨブの涙なみだ」といふ川穀ずずだま、蒼ざめた瞼まぶたの下の涙、暗い頬の上の悲しい眞珠。

紫苑しをん、基督キリストの御最後ごさいごのおん眼めを象かたどるせつない花。

犬芥いぬがらし、「約百ヨブの涙なみだ」、紫苑しをん、どんなに血の滴たれる心よりも、おまへたちの方はうがわたしは好すきだ。滅ほろんだ花よ、むかしの花よ。

立木の物語

いろいろの立木たちきよ、押籠おしこめになつた心よ。

まづその樹皮じゆひを窘さいなんで、そろそろ、おまへたちの祕密を汚してみよう、傷いたましいいろいろの心よ、

わたしの悲しい心の悦よろこび。

樫かしの木きよ、滅ほろんだ神々かみがみに向つて輝きわたる榮光えいくわうの波、おそろしく大きな足の夷えみし、光と血の岩。

おまへの緑の髮の毛の波は、貝の音ねが斧の刻ときを告しらせると、眞紅しんくに染そまる。すぎ來こしかたを憶ひだして。

樫かしの木きよ、憎にくみの階きざはし、尊たふとい神木しんぼく、わたしの悲しい心の悦よろこび。

色白の腕を伸のした椈ぶなの木よ、聖母瑪利亞おんはゝまりや、子持を歎き給ふ禮拜堂らいはいだう、二形ふたなりの利未僧りびそうが重い足で踏み碎いた、あらずもがなの足臺あしだい、僧官濫賣の金かねを容いれて、燒焦やけこげをこしらへた財嚢ざいなう、「愛」の神が、嘗てここに人間を愛してみたいと思つた虚うろの胎内たいない。

おまへの臍ほぞの上に、銀ぎんの蛇へびの帶をきりりとお締しめ、

とはいふものの、また可愛かはゆくもある椈ぶなの木、不思議の木、わたしの悲しい心の悦よろこび。

人間の罪をひとりに引受けた孤獨の老僧と見立てる楡にれの木きよ、祈念きねんを勤つとめる楡にれの木、潮風はゴモラ人びとの涙より鹹からい。

罪障深ざいしやうぶかいおまへの肌の毛孔けあなを海の風に吹かせて、わたしどもの爲に苦んでおくれ。

鞭索べんさくの苦行くぎやうに身を鍛きたへた楡にれの木よ、わたしの悲しい心の悦よろこび。

腰こしもあらはの梣とねりこよ、草叢くさむらから生はへた汚れた夢のやうだ。生いのちの無い影の中なかに咲きたいといふ狂氣きちがひの百合ゆりのやうでもある。

惡龍あくりようの眼もおまへの清い冷たい肌は通されぬ。

梣とねりこよ、色蒼いろあをざめた天竺てんぢくの赤脚仙ジムノソフイスト、えたいの知れぬ木、わたしの悲しい心の悦よろこび。

冷つめたい肌黒はだぐろの胡桃くるみの木よ、海草かいさうの髮を垂れ、くすんだ緑玉りよくぎよくの飾をした女をんな、空そらの草原くさはらの池に浸ひたつて青くなつた念珠ロザリオ、ぼんやりとした愛の咽首のどくびを締しめてやらうとするばかりの望、よく實みを結び損そこなふ繖形花さんけいくわ。

いやに冷ひやつく繖形花さんけいくわ、わたしはおまへの陰かげに寢て、自殺者じさつしやの聲で眼が醒めた。

冷たい肌黒はだぐろの胡桃くるみの木よ、わたしの悲しい心の悦よろこび。

林檎の木よ、發情期はつじやうきの壓迫で、身の内が熱ほてつて重くなつた爛醉らんすゐ、情なさけの實みの房ふさ、粒つぶの熟じゆくした葡萄の實み、寛ゆるんだ帶の金具かなぐ、花を飾つた酒樽、葡萄色の蜂の飮水場みづのみば。

さも樂しさうな林檎の木よ、昔はおまへの香にほひをかいで悦よろこんだこともある、その時おまへの幹へ、牛が鼻先はなづらを擦こすつてゐた。

花を飾つた酒樽、林檎の木よ、さも樂しさうな木、わたしの悲しい心の悦よろこび。

やつと灌木くわんぼくの高さしか無い柊ひひらぎよ、僞善ぎぜんの尻を刺す鑿のみ、愛着あいぢやくの背せを刻きざむ鏨たがね、鞭の柄え、手燭てしよくの取手とつて。

眼を赤くした柊ひひらぎよ、おまへの爪の下したに迸ほとばしる血でもつて兄弟の契ちぎりを結ばせる藥が出來さうだ。

やつと灌木くわんぼくの高さしか無い柊ひひらぎよ、小ちいさい劊手くびきり、わたしの悲しい心の悦よろこび。

篠懸すゞかけの木よ、總大將が乘る親船おやぶねの帆檣ほばしら、遠い國の戀に向ふ孕はらんだ帆――男の篠懸すゞかけは種子たねを風に播まく石弩いしゆみの如く、甲よろひを通し腹を刺す――女の篠懸すゞかけは始終しじゆう東をばかり氣にしてゐて定業ぢやうごふを瞑想めいさうする、さうして胚種はいしゆの通りすがりに、おまへは之を髮に受けとめる、おまへは風と花とを遮さへぎらうとして張りつめた網あみだ。

獨ぼつちの男の木、唯、氣で感應する女の木、不可知ふかちの中なかで一緒になれ。

篠懸すゞかけの一本木いつぽんぎよ、片意地の戀人たちよ、わたしの悲しい心の悦よろこび。

白樺しらかんばよ、蓬生よもぎふの大海原おほうなばらに浴ゆあみする女の身震みぶるひ、風がその薄色の髮に戲れると、おまへたちはなにか祕密を守らうとして象牙の戸のやうに脚あしを合せる。その時この白い女人柱カリヤチイドの張切つた背せの上に、神々かみ〲の涙が墮おちて、突き刺された怪獸シメエルの痍口きずぐちから、血の滴たれるのがみえる。

それでも、背中せなかや胸を拭ふいてやるまい、噫木魂精こだまよ、おまへは腕を伸のして勝ち誇る夢を捧げてゐる。

名も知られずに悲しげな白樺しらかんば、處女をとめで通す健氣けなげの木、わたしの悲しい心の悦よろこび。

殯宮ひんきゆうに通夜つやをしてゐるやうな赤楊はんのきよ、おまへの王樣は崩御になつた、赤楊はんのきの民よ、靜かな水底みなぞこに冠かんむりの光を探しても、夜よの宴うたげの歌舞かぶの響を求めても、詮ない事になつて了しまつた、赤楊はんのきの王樣、今、禍まがの方士はうしの鬚ひげである藻草もぐさの下した、深淵の底に眠つてゐられる、忘却ばうきやくの花は、その眼の窩くぼを貫つらぬいて咲いてゐる。

だれかまだ手に力のある者がゐるならば、はやくその花を摘とるがよからう。

諒闇りやうあんの民、赤楊はんのきよ、涙に暮れる木、わたしの悲しい心の悦よろこび。

垂飾たれかざりをつけた日傘ひがさ、花楸樹はなかまどよ、ジタナ少女をとめの頸くびにある珊瑚玉さんごだま、その頸飾くびかざりと柔肌やははだを巫山戲ふざけた雀が來て啄つゝく。

その頸飾くびかざりは二つある。雀は少女をとめの肩に眠ねた。

ねんごろに客きやくをもてなす花楸樹はなかまど、小鳥が毎年まいとし當あてにする降誕祭ノエルまつりの飾木かざりぎよ、わたしの悲しい心の悦よろこび。

戀人のやうに顏を赧あかめる秋の櫻の木、その紅あかいのはおまへの枝にぶら下る心臟の血であらう、この間、通りすがりの人たちに實みのおいしいのは食たべられて、今は唯情なさけに脆い風かぜの出來心できごゝろを、紅あからんだ葉に待つばかり。

ただ泣いておいで、おまへの琥珀色こはくいろの涙へ、わたしは指環ゆびわの印しるしを押してあげる、後あとの思出の種たねとして。

秋の櫻の木、紅あかい木よ、親切な木、わたしの悲しい心の悦よろこび。

常世とこよの生いのちの常世とこよのざざんざ、傷いたましい松の木よ、おまへの歎は甲斐が無い、いくらおまへが死しにたくても、宇宙の律おきてが許すまい、獨ぼつちで生きてゆくのさ、おまへを厭いやがる森の中なか、おまへのふとい溜息ためいきを嘲つてゐる森の中なかで。

死んでゆく身は今ここに敬禮する。

傷ましい木よ、常世とこよの生いのちの常世とこよのざざんざ。わたしの悲しい心の悦よろこび。

刺槐はりゑんじゆよ、好いい匂がして、ちくちく刺さしてくれるのが愛の戲たはむれなら、後生ごしやうだ、わたしの兩眼りやうがんを刳くりぬいておくれ、さうしたら、おまへの爪の皮肉も見えなくなるだらう。

してまた漠ばくたる撫なでさすりで、わたしを存分ぞんぶんに裂さいておくれ。

女の匂のする木よ、肉を食ふ木よ、わたしの悲しい心の悦よろこび。

髮に微笑ほゝゑみを含んで清い小川をがはの岸に寄りかかる少女子をとめご、金雀花えにしだ、金髮の金雀花えにしだ、色白いろじろの金雀花えにしだ、清淨しやうじやうな金雀花えにしだ。

金髮を風の脣に、白い肌はだへを野山の精せいの眼めにみえぬ手に、無垢むくの身を狂風に乘る男に、おまへは任まかせる。

金髮きんぱつの金雀花えにしだよ、夢ばかりみてゐる纖弱かよわい木、わたしの悲しい心の悦よろこび。

愁に沈む女よ、落葉松からまつよ、石垣いしがきの崩くづれに寄りかかる抛物線はうぶつせん。

銀ぎんの蜘蛛の巣がおまへの耳に絲を張つた、おまへの胴中どうなかに這つてゐる甲蟲よろひむしは涙の雨に打たれて血を吐いた。

愁に沈む女よ、落葉松からまつよ、わたしの悲しい心の悦よろこび。

涙に暮れる枝垂柳しだれやなぎよ、棄てられた女の亂髮みだれがみ、心と世とを隔てる幕、おまへの愁うれひのやうに輕い花を織り合せた縮緬ちりめん。

涙に暮れる枝垂柳しだれやなぎよ、おまへの髮を掻かきあげて、そら御覽よ、あすこを通る人を、曙あかつきの阜をかに立つ人を、

すこしは駈引かけひきもありさうな戀人、しやれた心配もする柳の木よ、わたしの悲しい心の悦よろこび。

鼠色の白楊はこやなぎよ、罪ありさうに顫ふるへてゐる、全體ぜんたいどんな打明話うちあけばなしが、その蒼白あをじろい葉の上に書いてあつたのだらう、どういふ思出を恐れてゐるのだ、秋の小逕こみちに棄てられた熱に惱んだ少女子をとめごよ。

おまへの妹は黄昏色たそがれいろの髮を垂れて、水のほとりに愁へてゐる、亂倫らんりんの交まじはりを敢てするおまへたち、何なんぞ願があるのかい、媒なかうどをして上げようか。

始終、心の安まらないおまへたちよ、わたしの悲しい心の悦よろこび。

張箍はりわの女袴をんなばかまを穿はいた官女くわんぢよよ、橡とちの木きよ、三葉形みつばがたの縫ぬひを置いて、鳥の羽根はねの飾をした上衣うはぎを曳ひきずる官女くわんぢよよ、大柄おほがらで權高けんだかで、無益むやくの美形びけい。

おまへの指先から落ちる輕蔑には、大概の田舍者は殺されて了ふ、わたしならその手を挫いてやる、こちらさへ其氣になれば愛させてもみせる。

張箍はりわの女袴をんなばかまを穿はいた女、高慢かうまんの上衣うはぎを着た女、わたしの悲しい心の悦よろこび。

死より生れて、死の僧となつた水松いちゐの木よ、おまへの枝は骨だ。

つるつるした墓石はかいしの枕元にある免罪符パルドンをおもひだす永久の鎭魂歌レキエム。

わたしの爲に祈つてくれ、翁おきなびた水松いちゐの木よ、憐愍あはれみ深き木、わたしの悲しい心の悦よろこび。

御主おんあるじの冠かんむりとなつた荊棘いばらの木よ、血塗ちまみれの王の額ひたひに嵌はめた見窄みすぼらしい冠。

憐愍あはれみの房ふさの血に赤く染そまつた尊い荊棘いばら。

愛の荊棘いばらよ、末期まつごの苦の時、この罪ある心の中なかにその針を突き通し給へ。

敬愛すべき荊棘いばらの木、わたしの悲しい心の悦よろこび。

底本 / Source edition

底本:「明治文學全集 31 上田敏集」筑摩書房
1966(昭和41)年4月10日初版第1刷発行
1983(昭和58)年10月1日初版第4刷発行
底本の親本:「牧羊神」金尾文淵堂
1920(大正9)年10月5日発行
初出:「牧羊神」金尾文淵堂
1920(大正9)年10月5日発行
入力:阿部哲也
校正:川山隆
2011年1月9日作成
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TEI
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プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
/works/051173_000235/

上田 敏「牧羊神」(旧字旧仮名)、底本『明治文學全集 31 上田敏集』筑摩書房、1966年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 051173_000235, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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