## 一

<ruby><rb>黄昏時</rb><rt>たそがれどき</rt></ruby>がもう近くなった。マリイはろは台に腰を掛てから<ruby><rb>彼此</rb><rt>かれこれ</rt></ruby><ruby><rb>半時</rb><rt>はんとき</rt></ruby>ばかりになる。最初の内は本を読んでいたが、しまいにはフェリックスの来るはずの方角に向いて、並木の外れを見ていたのである。それが今立ち上がった。こんなに長く待たせられた事はない、陽気が少し冷たくなった。そのくせ空気にはまだなんとなく五月の末の和かみがある。

アウガルテンの公園には、もうたんと人がいない。散歩をしている<ruby><rb>群</rb><rt>むれ</rt></ruby>は、今少しで締められるはずの門の方へ足を向けている。マリイが出口の近所まで来た時、やっとフェリックスが見えた。約束の時間より後れたくせに男はゆっくり歩いている。女と目と目を見合せてから、少しばかり足を早めたばかりである。女は立ち留まって、男の来るのを待っていた。女の不性気に差し伸べた手を男は<ruby><rb>微笑</rb><rt>ほほえ</rt></ruby>みながら握った。

「まあ、あなたこんなに遅くなるまでお<ruby><rb>為事</rb><rt>しごと</rt></ruby>をなさらなくてはならないの。」こう<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>った女の声は穏かな不平の調子であった。男は女の手先を右の<ruby><rb>肘</rb><rt>ひじ</rt></ruby>に掛けさせて歩き出したが別に返事はしなかった。

女が「どうなすったの」と問い返した時、男はやっと返事をした。「そうだよ。それに<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>は忘れて時計を見ないでいた。」

女は横から男の顔を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>き込んだ。どうもいつもより顔の色が<ruby><rb>蒼</rb><rt>あお</rt></ruby>いようである。そう思ったので、女は優しい声をして云った。

「どうでしょう。あなたも少しわたくしに構って下さるようになすった方が<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>くはないでしょうか。お為事なんぞは、少しの間<ruby><rb>廃</rb><rt>よ</rt></ruby>しておしまいになってね。御一しょに散歩でもしようじゃございませんか。ねえ。内から御一しょに出る事にして。」

「そうさなあ。」

「わたくしこれからあなたを手放さないようにしようかと思いますの。」

男はびっくりした様子で、急に女の顔を見た。

「どうなすったの」と女は問うた。

「なんでもないよ。」

二人は公園の出口に来た。<ruby><rb>日</rb><rt>ひ</rt></ruby>の<ruby><rb>暮方</rb><rt>くれがた</rt></ruby>の町の<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎわ</rt></ruby>いが、晴れやかに二人の<ruby><rb>周囲</rb><rt>まわり</rt></ruby>を取り巻いた。市中一般に、春の<ruby><rb>齎</rb><rt>もたら</rt></ruby>した喜びが<ruby><rb>拡</rb><rt>ひろが</rt></ruby>っていて、それが無意識に人々に感ぜられると見える。

「今から一しょに行くと丁度<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>い<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>があるが、知っているか。」

「どこでしょう。」

「プラアテルへ行くのだよ。」

「わたくし<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>。こないだもあんなに寒かったじゃありませんか。」

「でもこうして町を歩いていると、蒸暑いといっても<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い位だ。行って<ruby><rb>直</rb><rt>す</rt></ruby>ぐ帰ったって好い。一しょに行こうじゃないか。」男は何か外の事を考えている様子で、切れ切れにこう云った。

「変な物の言いようをなさるのね。」

「変なって、どう変なのだい。」

「何を考えているの。あなたと並んで歩いているのはわたくしよ。」

男は気抜けのしたような<ruby><rb>目附</rb><rt>めつ</rt></ruby>きで女をじっと見た。

「どうしたの」と、女は心配そうに云って男の肘をしっかり握った。

「うんうん。蒸暑いなあ。本当だ。己は外の事なんぞを考えてはいないよ。もし少し位外の事を考えたって、おこるのじゃないよ。」男は気の散るのを強いて直そうとする様子でこう云った。

二人は横町を抜けてプラアテルの方へ歩いている。どうもフェリックスはいつもより<ruby><rb>詞</rb><rt>ことば</rt></ruby>少なである。もう方々に明りが<ruby><rb>点</rb><rt>つ</rt></ruby>き始めた。

## 二

女は突然問うた。「あなたきょうアルフレットさんのとこへいらっしゃったの。」

「なぜ。」

「だって行くといっていたじゃありませんか。」

「そうだっけな。」

「ゆうべなんだか力抜けがしたようだから行って見て<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>おうか知らと<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>ったでしょう。」

「それはそう云ったよ。」

「それなのにおいでなさらなかったの。」

「いいや。行かなかった。」

「あの、きのうは工合が悪いと云っていたのでしょう。それなのにきょうプラアテルのような湿っぽい<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>へ行くのはあんまり不養生じゃなくて。」

「なに構うもんか。」

「そんな事を言っちゃあ<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>。それではまるで体を悪くしておしまいなさるわ。」

男は泣き出しそうな声で返事をした。「そんな事を言わないで、一しょに行くのだよ。どうも<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>はプラアテルが見たいのだから。こないだ一しょに行って愉快に思った処へ、もう一遍行って見たいのだ。それあの<ruby><rb>四阿屋</rb><rt>あずまや</rt></ruby>だな。あそこなら冷たくはないよ。」

「ええええ。」

「なに冷たいものか。きょうは一体に暖かいのだ。内へ帰るにはまだ早過ぎる。それだといって、町で晩飯を食うのは厭だ。己はきょうは町の料理屋の窮屈な部屋に<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>りたくないのだ。煙の中にいるのは己には毒だ。それに人の大勢いる処も厭だ。やかましい人の声を聞くのがつらい。」最初は口早に、いつもより<ruby><rb>声高</rb><rt>こわだか</rt></ruby>に言っていたのが、段々末の方になると声が<ruby><rb>幽</rb><rt>かすか</rt></ruby>になってしまった。

マリイは前より堅く男の肘を握った。なんだか心細くなったのである。それに今物を言ったら、涙声になりそうなので黙っている。

プラアテルの静かな四阿屋で、緑の木立の中の春の<ruby><rb>夜</rb><rt>よ</rt></ruby>を味いたいという男の<ruby><rb>憧憬</rb><rt>あこがれ</rt></ruby>が女にも伝わった。そして<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>く一しょに黙って歩いている内に、男の唇の上に、<ruby><rb>寛</rb><rt>ゆるや</rt></ruby>かな、鈍い<ruby><rb>微笑</rb><rt>ほほえ</rt></ruby>みの浮かんだのを、女が<ruby><rb>見附</rb><rt>みつ</rt></ruby>けた。男は女の方へ顔を向けて、そのとたんに偶然出た微笑を、楽しさの微笑みにして見せようとした。しかし男の性質を底まで知り抜いている女には、その微笑みのわざとらしいのが、<ruby><rb>容易</rb><rt>たやす</rt></ruby>く悟られた。

二人はプラアテルに着いた。本通りから曲って初めての並木道は、向うを見ればほとんど真っ暗である。それを通り抜けた処にちょいとした料理屋がある。その<ruby><rb>周囲</rb><rt>まわり</rt></ruby>の広い庭には、ほとんど<ruby><rb>明</rb><rt>あかり</rt></ruby>も<ruby><rb>点</rb><rt>つ</rt></ruby>けて無い。<ruby><rb>巾</rb><rt>きれ</rt></ruby>を覆わない<ruby><rb>卓</rb><rt>つくえ</rt></ruby>が並べてある。<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>がそれに寄せ掛けてある。その<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>に、緑色に塗った、ひょろ長い柱の上に、円い<ruby><rb>硝子</rb><rt>がらす</rt></ruby>の明りが<ruby><rb>点</rb><rt>とも</rt></ruby>してある。濁った<ruby><rb>紅</rb><rt>くれない</rt></ruby>の<ruby><rb>焔</rb><rt>ほのお</rt></ruby>がちらちらとして動いている。客が二三人坐っている。その中にこの料理屋の亭主も<ruby><rb>交</rb><rt>まじ</rt></ruby>っている。

マリイとフェリックスがその前を通る時、亭主は立って、鳥打帽を脱いで礼をした。二人は四阿屋の戸を開けた。中には<ruby><rb>活栓</rb><rt>コック</rt></ruby>で細めた<ruby><rb>瓦斯</rb><rt>がす</rt></ruby>の火が明るくなったり暗くなったりしている。片隅の方に給仕の少年が坐って居眠りをしていたが、慌ただしく立って、火を明るくして、客の<ruby><rb>外套</rb><rt>がいとう</rt></ruby>を脱ぐ手伝いをした。

二人は部屋の隅の薄暗い、静かな処に場所を取って、二つの椅子を近く寄せて腰を掛けた。それから余り<ruby><rb>選</rb><rt>え</rt></ruby>り嫌いをせずに、飲物と<ruby><rb>食物</rb><rt>くいもの</rt></ruby>とを<ruby><rb>註文</rb><rt>ちゅうもん</rt></ruby>した。

給仕の行ってしまった跡は、二人きりになった。ただ入口の方から濁った赤色の火が見えているばかりである。部屋の隅は薄暗くなっている。

## 三

二人はまだ強情に黙っていた。とうとうマリイが<ruby><rb>堪</rb><rt>こら</rt></ruby>え兼て、<ruby><rb>顫声</rb><rt>ふるいごえ</rt></ruby>をして言い出した。「あなたどうしたのだか、そう<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>って下さいよ。」

男の唇の上にはまたさっきの<ruby><rb>微笑</rb><rt>ほほえ</rt></ruby>みが現われた。「なんでもないよ。そんな事を聞くものじゃない。<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>の<ruby><rb>機嫌買</rb><rt>きげんかい</rt></ruby>な事は、お前知っているはずじゃないか。それともまだ知らないのかい。」

「それは知っていますわ。でも、今のあなたの様子は、いつも機嫌を悪くした時とは違うわ。何か別に<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>な事があるのだわ。何かわけが無くてはならないと思うの。それをなんだか云って下さいよ。お願いだから。」

男はじれったそうな顔をした。丁度そこへ給仕が<ruby><rb>註文</rb><rt>ちゅうもん</rt></ruby>したものを持って来た。男はそれを<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い事にして、女が「<ruby><rb>仰</rb><rt>おっ</rt></ruby>しゃいよ、仰しゃいよ」と云っても、給仕の方を目で見て、じれったそうな身振をするばかりである。給仕は出て行った。

「さあ二人きりになりました」と、マリイは云って、<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>をぴったり<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>へ寄せて男の両手を取った。「何かあるのでしょう。わたくしどうしても聞かずに置くわけには行きませんわ。まさかもうわたくしが厭になったのじゃないでしょうね。」

男は黙っている。女は男の手に<ruby><rb>接吻</rb><rt>せっぷん</rt></ruby>した。男はその手を<ruby><rb>徐</rb><rt>しず</rt></ruby>かに引いた。「どうなすったの。」

男は助けを求めるようにあたりを<ruby><rb>見廻</rb><rt>みまわ</rt></ruby>した。「<ruby><rb>廃</rb><rt>よ</rt></ruby>してくれ。そんな事を聞かないでくれ。そんなに人をいじめるものじゃない。」

女は男の手を放して、顔をじっと見た。「わたくしどうしても聞かないで置くわけには行きませんわ。」

男は立ち上がって、深い息をした。それから両手で<ruby><rb>頭</rb><rt>あたま</rt></ruby>を押えて云った。「ほんとにお前は己を気違いにしてしまう。もう問わずに置いてくれ。」こう云って、そのまま立っていて、何かじっと見詰めている。女は心配そうに男の見ている方角を見たが、男は<ruby><rb>空</rb><rt>くう</rt></ruby>を見ているのである。

男は腰を掛けた。息使いが前より静かになって、顔には疲れたような優しみが<ruby><rb>拡</rb><rt>ひろ</rt></ruby>がった。それから数秒時間立つと、今まで自分を襲っていた恐怖が全く消えてしまった様子で、小声に優しく、「飲まないか、食べる物も来ているぜ」と、女に言った。

女は男の云うなりに、ナイフとフォオクとを手に持ったが、心配気に「あなたは」と云った。

「己も<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>るよ」とは云ったが、男はやはり動かずにいて、飲物にも、<ruby><rb>食物</rb><rt>くいもの</rt></ruby>にも手を触れない。

「それではわたくしも食べられないわ」と、女が云った。

## 四

男はようようの事で飲み食いをし始めた。しかし一口食ったかと思うと、黙ってナイフもフォオクも置いてしまって、手で額を支えて、女の方を見ないでいる。女は<ruby><rb>上唇</rb><rt>うわくちびる</rt></ruby>と<ruby><rb>下唇</rb><rt>したくちびる</rt></ruby>とを堅く結んで、<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>く男の様子を見ていたが、その額を押さえている手を引き<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>けて、隠していた顔を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>き込んだ。

男の目には涙が一ぱいになっている。女がそれを見て、「あら、フェリックスさん」と声を立てるや否や、男は泣き出した。さも思い迫ったような<ruby><rb>歔欷</rb><rt>すすりなき</rt></ruby>をするのである。女は男の頭を自分の胸のところへ引き寄せて、髪の上を<ruby><rb>撫</rb><rt>な</rt></ruby>でて、額に<ruby><rb>接吻</rb><rt>せっぷん</rt></ruby>して<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>った。それから涙を口で吸い取って遣ろうとした。続いて「フェリックスさん」と呼んで見た。男は次第に泣き<ruby><rb>止</rb><rt>や</rt></ruby>んだ。「どうしたのか<ruby><rb>仰</rb><rt>おっし</rt></ruby>ゃいよ。」

男は女の胸に顔を<ruby><rb>埋</rb><rt>うず</rt></ruby>めている。そして鈍い、重くろしい声で、切れ切れに<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>った。「<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>はどうしても言わずに置こうと思ったのだ。マリイ。聞いてくれ。もう跡たった一年だそうだ。それでおしまいだというのだ。」言い<ruby><rb>畢</rb><rt>おわ</rt></ruby>って男はまた声を立てて<ruby><rb>劇</rb><rt>はげ</rt></ruby>しく泣き出した。

女は<ruby><rb>死人</rb><rt>しにん</rt></ruby>のような<ruby><rb>顔色</rb><rt>かおいろ</rt></ruby>になって、口を<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>いたままで聞いている。男の言う事が分らない。分らせたくない。冷やかな、恐しいある物が<ruby><rb>吭</rb><rt>のど</rt></ruby>を締め<ruby><rb>付</rb><rt>つけ</rt></ruby>ているようである。

それから突然女が「フェリックスさん」と叫んで、男の前に身を倒して、その時力無く<ruby><rb>俯向</rb><rt>うつむ</rt></ruby>いた男の泣顔を見た。男は女が自分の前に<ruby><rb>跪</rb><rt>ひざまず</rt></ruby>いたのを見て、「お立ちよ」と<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>いた。女は器械的に、言うなりに立ち上がって、向いに腰を掛けた。もうなんにも問う事も言う事も出来ない。

およそ二三秒時間二人とも黙っていたが男が突然<ruby><rb>空</rb><rt>くう</rt></ruby>を<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>んで、何か不思議な重い物が自分を押付けるように感じたと見えて、<ruby><rb>声</rb><rt>こえ</rt></ruby><ruby><rb>高</rb><rt>たか</rt></ruby>く「ああ、<ruby><rb>溜</rb><rt>たま</rt></ruby>らん、溜らん」と云った。

女はやっと声が出て、「行きましょうね」と云ったが、それより上の事は言われなかった。

「うん行こう」と、男は何か体から振落すような身振をして云った。それから給仕を呼んで勘定をして、二人は足早に<ruby><rb>四阿屋</rb><rt>あずまや</rt></ruby>を出た。

外では春の<ruby><rb>夜</rb><rt>よ</rt></ruby>の沈黙が二人を包んだ。暗い並木を通る時マリイは立ち留まって、男の手を握って云った。「わけを話して下さいな。」

男はすっかり落ち着いた。そして今女に言うことは簡単で、さっぱりしていて、ほとんど何も変った事ではないらしく聞えた。男は女に取られていた手を引き放して、女の<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>をさすった。そこは真っ暗で互に顔が<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>く見えない位である。

「ミッチェルや。びっくりしてはいけないよ。なにしろ一年というものは随分長いものだからね。実は己はもう一年しか生きていないのだ。」

「あなたそれは気が変になってそんな事を仰しゃるのでしょう。」女の声は叫ぶようであった。

「一体己がこんな事をお前にいうのは<ruby><rb>吝</rb><rt>けち</rt></ruby>なのだ。<ruby><rb>馬鹿</rb><rt>ばか</rt></ruby>だと云っても<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いかも知れない。しかし考えて見てくれ。そういう事を自分一人だけが知っていて、絶えずその事を思いながら、心寂しく歩き<ruby><rb>廻</rb><rt>まわ</rt></ruby>っているという事は、事に<ruby><rb>依</rb><rt>よ</rt></ruby>ったら己にはどうせ久しくは出来なかったのかも知れない。事に依ったらまたお前の方でも己というものが一年先にはいないのだという考えに段々慣れてくれる事が出来るかも知れない。<ruby><rb>兎</rb><rt>と</rt></ruby>に<ruby><rb>角</rb><rt>かく</rt></ruby>こうしてぼんやり立っていたって<ruby><rb>為方</rb><rt>しかた</rt></ruby>がない。一しょに行こうじゃないか。己の方ではもうその考えに<ruby><rb>馴染</rb><rt>なじ</rt></ruby>んでしまっている。アルフレットのいう事なんぞはもう<ruby><rb>疾</rb><rt>と</rt></ruby>うから己は<ruby><rb>当</rb><rt>あて</rt></ruby>にしていないのだ。」

「それではあなた、アルフレットさんの<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>へはおいでなさらなかったのですね。あの方でなくてはほんとの事は分かりゃしませんわ。」

「実はこの二三週間というものは、どうも己の病気の事が<ruby><rb>不確</rb><rt>ふたしか</rt></ruby>なので、己は気になって溜まらなかったのだ。それが今は大ぶ好くなった。兎に角実際の事が分かったのだからなあ。己は大学のベルナルドさんの処へ行ったのだ。<ruby><rb>為合</rb><rt>しあわ</rt></ruby>せにあの人は本当の事を言ってくれた。」

「なんだか知れるものですか。その方の言ったのが<ruby><rb>譃</rb><rt>うそ</rt></ruby>かも知れないわ。あなたが御用心をなさるようにおどかしたのかも知れないわ。」

## 五

「いや、いや。お前は知らないが、<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>は<ruby><rb>極</rb><rt>ご</rt></ruby>く<ruby><rb>真面目</rb><rt>まじめ</rt></ruby>な話をしたのだ。己はどうしても本当の事を言って<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>わなくてはならないといって、ベルナルドさんに迫ったのだ。お前の身の上も、この病気次第でどうにかして置かなくてはならないのだからな。」

「フェリックスさん」と叫んで、女は両手で男に抱き付いた。

「そんな事は余計な事だわ。あなたが死んでしまえば、わたくし一日も生きてはいませんわ。一時間も生きてはいませんわ。」

「さあ行こう。余計な心配をしないでな」と、男が小声で<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>った。

二人はプラアテルの出口の所に来た。歩いている<ruby><rb>周囲</rb><rt>まわり</rt></ruby>が<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎや</rt></ruby>かになった。明りも<ruby><rb>点</rb><rt>つ</rt></ruby>いていて物音もする。町を走る車輪の音、電車の<ruby><rb>鈴</rb><rt>ベル</rt></ruby>や笛の音、頭の上を走る重い汽車のはためく音などがする。女はぎっくりした。この身の<ruby><rb>周囲</rb><rt>まわり</rt></ruby>の生活が、突然自分を<ruby><rb>嘲笑</rb><rt>あざわら</rt></ruby>って、敵意を<ruby><rb>表</rb><rt>ひょう</rt></ruby>しているように感ぜられて、切なかったのである。女は男の手を引っ張って、<ruby><rb>大通</rb><rt>おおどおり</rt></ruby>を<ruby><rb>除</rb><rt>よ</rt></ruby>けて静かな横町から内へ帰り掛けた。

女は馬車を雇う事を男に勧めようかと<ruby><rb>一寸</rb><rt>ちょっと</rt></ruby>考えたが、それを口に出す事を<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>した。ゆっくり歩けば<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いと思ったからである。

女は男の肩に頭をぴったり寄せ掛けて、<ruby><rb>中音</rb><rt>ちゅうおん</rt></ruby>で云った。「<ruby><rb>譃</rb><rt>うそ</rt></ruby>だわ。あなたが死んでしまうもんですか。もしあなたが生きていなけりゃあ、わたくしも生きてはいないわ。」

「まあ、そう云わないものだ。も少しすると、お前の考えだって変って来る。己はもう何もかも<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>く考えて置いたのだ。実に妙なものだよ。もうこれまでで、これから先は駄目だとはっきりと限界を立てて見せられたのだからなあ。」

「そんな<ruby><rb>界</rb><rt>さかい</rt></ruby>なんぞがあるものですか。」

「それがあるから妙なのだよ。ほとんど想像の出来ないような事ではないか。己だって今こう云っている一<ruby><rb>刹那</rb><rt>せつな</rt></ruby>にはどうも譃のように思われてならない。実に不思議なわけじゃないか。こうしてお前の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>を歩いていて、大きな声をしてお前に何か<ruby><rb>饒舌</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>っているくせに、一年先になると冷たくなって、事に<ruby><rb>依</rb><rt>よ</rt></ruby>ったら腐ってしまっているというのだからな。」

「お<ruby><rb>廃</rb><rt>よ</rt></ruby>しなさいよ。お廃しなさいよ。」

「その時お前はやはりこのままでいるのだ。このままそっくりしているか、それとも己が死んだ跡で少しは泣くだろうから顔が今よりは少し<ruby><rb>蒼</rb><rt>あお</rt></ruby>くなっている位なものだろう。それからまた<ruby><rb>夜</rb><rt>よる</rt></ruby>が来る昼が来る夏になる秋になる冬になる。それから春が来る。そうすれば己の一週忌だ。おや。どうしたのだい。」

女はしくしく泣いている。涙が<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>から<ruby><rb>領筋</rb><rt>えりすじ</rt></ruby>へ伝わっている。

男の顔には絶望の<ruby><rb>微笑</rb><rt>ほほえ</rt></ruby>みが現れた。そして息を歯の間から出すような<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>き声で、「堪忍しろ」と云った。声は<ruby><rb>咳枯</rb><rt>しわが</rt></ruby>れて惨酷に聞えた。

女は歩きながら、<ruby><rb>歔欷</rb><rt>すすりなき</rt></ruby>をしている。男は黙っている。丁度<ruby><rb>市</rb><rt>し</rt></ruby>の公園の前を通っている。暗い、静かな、広い町の上へ、公園の木立の中から、<ruby><rb>接骨木</rb><rt>にわとこ</rt></ruby>の花の<ruby><rb>香</rb><rt>か</rt></ruby>が、軽く悲しげに吹いて来る。二人は<ruby><rb>徐</rb><rt>しず</rt></ruby>かに歩いている。公園の反対の側には単調な灰色や黄色に見える高い家が並んでいる。夜の青空に<ruby><rb>聳</rb><rt>そび</rt></ruby>えている、カルルスキルエの<ruby><rb>大屋根</rb><rt>おおやね</rt></ruby>が、次第に近くなって来る。二人はまた横町へ曲って、間もなく自分<ruby><rb>達</rb><rt>たち</rt></ruby>の住んでいる家に着いた。

薄暗い明りの点いている<ruby><rb>梯子段</rb><rt>はしごだん</rt></ruby>を、二人は徐かに登って行く。<ruby><rb>誰</rb><rt>たれ</rt></ruby>かの家の窓や戸の奥で、女中達の話して笑っている声がする。

二三分立つと、二人は<ruby><rb>我</rb><rt>わ</rt></ruby>が<ruby><rb>家</rb><rt>や</rt></ruby>に<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>って戸口の戸を締めた。窓の戸は開けてある。<ruby><rb>寝台</rb><rt>ねだい</rt></ruby>の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>に据えてある<ruby><rb>小卓</rb><rt>こづくえ</rt></ruby>の上には、常の<ruby><rb>花瓶</rb><rt>かびん</rt></ruby>に赤い<ruby><rb>薔薇</rb><rt>ばら</rt></ruby>の花が<ruby><rb>活</rb><rt>い</rt></ruby>けてある。その<ruby><rb>匂</rb><rt>におい</rt></ruby>が部屋に満ちている。窓の外には<ruby><rb>幽</rb><rt>かすか</rt></ruby>に物音がしている。二人は窓から外を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いて見た。向いの家は明りも点いていない。<ruby><rb>総</rb><rt>すべ</rt></ruby>てひっそりしている。男は<ruby><rb>長椅子</rb><rt>ながいす</rt></ruby>に腰を掛けた。女は窓の<ruby><rb>鎧戸</rb><rt>よろいど</rt></ruby>を締めて窓掛を引いた。それから<ruby><rb>蝋燭</rb><rt>ろうそく</rt></ruby>に明りを点けて<ruby><rb>卓</rb><rt>つくえ</rt></ruby>の上に置いた。男は女のしている事を見ずに考え込んで<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>っている。女は<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>に寄って、「フェリックスさん」と呼んだ。男は仰向いて微笑みながら、「なんだい」と云った。

## 六

その男の声が優しく静かに響いた時、女は言うに言われない、切ない感じに襲われた。どうしてもこの男を死なせるわけには行かない。そんな事があってなるものか。それは<ruby><rb>譃</rb><rt>うそ</rt></ruby>に違いない。そんな事のありようがない。そう思う心を男に話して聞かせようと思って、男の前に<ruby><rb>蹲</rb><rt>しゃが</rt></ruby>んで、下から見上げたが、声が出なかった。そこで頭を男の<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>に載せて泣いた。男は両手で女の髪を<ruby><rb>摩</rb><rt>さす</rt></ruby>って、「泣くのじゃないよ」と優しく<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>いた。それでも泣くので、「もう<ruby><rb>廃</rb><rt>よ</rt></ruby>せよ」と言い足した。

女は頭を上げた。そしてなぜと<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>うわけもなく不思議な希望が<ruby><rb>萌</rb><rt>きざ</rt></ruby>して来た。「<ruby><rb>嘘</rb><rt>うそ</rt></ruby>でしょう。ねえあなた。」男は女に長い熱した<ruby><rb>接吻</rb><rt>せっぷん</rt></ruby>をした。そしてほとんどすげないように、「本当だよ」と言い放って立ち上がった。

男は窓の<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>に行って、そこの<ruby><rb>蔭</rb><rt>かげ</rt></ruby>になっている処に立っている。<ruby><rb>蝋燭</rb><rt>ろうそく</rt></ruby>の光は男の足の所にちら付いているだけである。<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>くして男が言い出した。「どうも<ruby><rb>為方</rb><rt>しかた</rt></ruby>がないからお前がそういう考えに慣れてくれるより外はないよ。死ぬるといえば変なようだが、一年立てば別れるのだと思えば、それまでの事ではないか。<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>が<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>にいなくなったと思うだけで、この世にいなくなったのだという事を知らずにいても<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いのだ。」女はその<ruby><rb>詞</rb><rt>ことば</rt></ruby>を聞かない様子で、顔をぴったり<ruby><rb>長椅子</rb><rt>ながいす</rt></ruby>に押し付けている。男は詞を続けた。「なに哲学上に考えて見れば、そんなに恐ろしい事ではない。まだこれから楽しむ時が大ぶあるのだ。そうじゃないか。」

女は涙のない、大きい目をして突然男を見た。そして<ruby><rb>駈</rb><rt>か</rt></ruby>けて来て両手で抱き付いて、胸と胸とを押し付けた。そして囁いた。「わたくし一<ruby><rb>所</rb><rt>しょ</rt></ruby>に死にますわ。」

男は<ruby><rb>微笑</rb><rt>ほほえ</rt></ruby>んだ。「なんだ。そんな子供らしい事を言わないものだ。己はお前が思うほど<ruby><rb>吝</rb><rt>けち</rt></ruby>な性根の男ではない。それにお前に己の運命を分たせる権利は、己は持ってはいないのだ。」

「でもあなたが居なくなっては、わたくし生きていられないのですもの。」

「考えて見ろ。己というものの世の中にいる事を知らずに、お前は長く生きていたのだ。それからお前とこんな中になってからもう一年になるが、そのお前と知り合になった時、己はもう今の病気を持っていたのだそうだ。ただ己がそれを知らずにいただけの事だ。知らずにはいたがなんだかそんな事があるのではないかと己にはぼんやり知れていた。」

「いいえ。あなた今だってそんな事が本当に分かっているのではないわ。」

「いや。ところが己にはそれが分かった。分かったからきょうお前に打明けるのだ。お前の考え次第できょうから己と別れてくれても好いのだ。」

女はいよいよ<ruby><rb>緊</rb><rt>きび</rt></ruby>しく抱き付いた。男が、「どうだ、己のいう通りにしないか」と云っても、女は返事をせずに、顔を見上げている。相手のいう事が分からない様子である。

「お前は<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>だなあ。そして底の底まで健康なようだ。お前のような人間は人生に対して十分の権利を持っているのだ。どうぞ己に構わないで、別れてしまってくれい。」

「いいえ。わたくしはあなたと一しょに生きたのですから、あなたと一しょに死ななくては」と、叫ぶように女は云った。

男は女の額に接吻した。「そんな事をさせるものか。己が決して承知しない。どうぞそんな考えを綺麗に<ruby><rb>頭</rb><rt>あたま</rt></ruby>から<ruby><rb>除</rb><rt>の</rt></ruby>けてくれい。」

「どうぞそう<ruby><rb>仰</rb><rt>おっし</rt></ruby>ゃらないで。わたくしは誓います。」

「待った。そんな事をするものじゃない。そんな事をすると<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>になってから、あの時の誓いを取消してくれと、己に頼むようになるからな。」

「わたくしをそんな女だと思っていらっしゃるの。」

「なに。お前を疑っているのではない。お前の己を愛していてくれる事は、己も<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>く知っている、お前はあたりまえで己を<ruby><rb>見棄</rb><rt>みす</rt></ruby>てるような事はない。しかし。」

「いいえ。どんな事があってもわたくし別れるのは<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>。」

男は首を振っている。女は身を寄せ掛て、男の両手を取って、それに接吻した。

「ほんとにお前は<ruby><rb>可哀</rb><rt>かわゆ</rt></ruby>い<ruby><rb>奴</rb><rt>やつ</rt></ruby>だなあ。それを思うと、己は悲しくてならない。」

## 七

「いいえ。悲しくなんぞお思いなすっては<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>。たとえ二人の身の上にはどんな事があっても、二人は別れずに、お互の運命を分つのだと<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>って下さい。」

男は<ruby><rb>真面目</rb><rt>まじめ</rt></ruby>にきっぱりと云った。「いや。そんな事は<ruby><rb>廃</rb><rt>よ</rt></ruby>せ。<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>はこれでも並の人間とは違う積りだ。並の人間にするような事はしたくない。己には何もかも分かっている。今お前が始めて受けた苦痛に促されてそう云ってくれるのを、己が<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い事にして同意して、その<ruby><rb>詞</rb><rt>ことば</rt></ruby>に酔わされてしまっては、己は<ruby><rb>吝</rb><rt>けち</rt></ruby>な野郎になってしまう。どうしても己は行ってしまわなくてはならない人間だ。そしてお前は跡に残るのだ。」

女はまた泣き出した。男は女の髪を<ruby><rb>撫</rb><rt>な</rt></ruby>でて女に<ruby><rb>接吻</rb><rt>せっぷん</rt></ruby>して<ruby><rb>宥</rb><rt>なだ</rt></ruby>めようとしている。二人とも窓の<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>に立ったままで、<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>くはなんにも言わない。こうして何分か立った。<ruby><rb>蝋燭</rb><rt>ろうそく</rt></ruby>は段々燃え下がって行く。

暫くして男は女の体を放して、<ruby><rb>長椅子</rb><rt>ながいす</rt></ruby>の処へ行って腰を掛けた。なんとも言いようのない疲労に襲われたのである。女は跡から付いて行って<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>へ腰を掛けた。そして男の<ruby><rb>頭</rb><rt>あたま</rt></ruby>を引き寄せて、自分の肩へ寄り掛からせた。男は優しく女と顔を見合って、目を閉じたが、<ruby><rb>直</rb><rt>す</rt></ruby>ぐに<ruby><rb>寐入</rb><rt>ねい</rt></ruby>った。

淡く<ruby><rb>冷</rb><rt>ひややか</rt></ruby>に<ruby><rb>暁</rb><rt>あかつき</rt></ruby>が<ruby><rb>這</rb><rt>は</rt></ruby>い寄って来た。フェリックスが目を覚して見ると、自分の頭は女の胸に寄せ掛けてあった。そして女はぐっすり寐ていた。男はそっと起きて窓の処へ出て町を見下ろした。明方の灰色な空気が<ruby><rb>漲</rb><rt>みなぎ</rt></ruby>ってまだ人影はない。体がぞくぞくした。数分間すると、男はそのまま<ruby><rb>寝台</rb><rt>ねだい</rt></ruby>の処へ行って、その上に倒れて天井を見詰めていた。

男が二度目に目の覚めた時には、もう室内がすっかり明るくなっていた。マリイは寝台の<ruby><rb>縁</rb><rt>ふち</rt></ruby>に腰を掛けている。接吻して自分を覚してくれたのである。二人は<ruby><rb>微笑</rb><rt>ほほえ</rt></ruby>み交した。ゆうべの事は<ruby><rb>皆</rb><rt>みな</rt></ruby>悪い夢ではなかっただろうか。男も自分の体がすっかり健康で何事もないように思われる。外には日が照っている。町からは<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎや</rt></ruby>かな物音がする、何もかも活動している。向いの家には窓の戸が<ruby><rb>処々</rb><rt>しょしょ</rt></ruby>開けてある。部屋の<ruby><rb>卓</rb><rt>つくえ</rt></ruby>の上には、いつもの朝と同じように<ruby><rb>朝食</rb><rt>あさしょく</rt></ruby>の支度がしてある。部屋は明るい。隅々まで日がさしている。細かい<ruby><rb>塵</rb><rt>ちり</rt></ruby>が日光の中で踊っている。<ruby><rb>総</rb><rt>すべ</rt></ruby>て希望の影が満ちている。

医学士が<ruby><rb>昼食後</rb><rt>ひるしょくご</rt></ruby>の葉巻を<ruby><rb>喫</rb><rt>の</rt></ruby>んでいるところへ、女の客が来た。まだ患者を見るはずの時間にはなっていないので、学士は少し不愉快に思った。そこへ客は<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>って来た。

「マリイさんじゃないか」と、学士は驚いて呼び掛けた。

「こんなに早く参ったのですけれど、おおこりなすっては厭よ。<ruby><rb>御烟草</rb><rt>おたばこ</rt></ruby>はどうぞそのまま上がっていて下さいまし。」

「それじゃあ御免<ruby><rb>蒙</rb><rt>こうむ</rt></ruby>って喫むよ。しかしなんの用ですか。どうかしたのですか。」

女は片手に日傘を持ったままで、片手を<ruby><rb>卓</rb><rt>つくえ</rt></ruby>の上に突いて、学士の前に立っている。「本当でしょうか。フェリックスさんがひどく悪いというのは。おや。あなたお顔の色が変りましたわ。そんなら今までわたくしに隠していらっしゃったのね。なぜ言って下さらなかったの。」語気<ruby><rb>頗</rb><rt>すこぶ</rt></ruby>る急である。

「あなたは何をいうのです。」こう言い掛けて学士は立ち上がって、部屋の中をあちこち歩き出した。「あなたはどうかしているのだ。まあ、そこへお掛けなさい。」

「あなたわたくしの申した事に御返事をして下さいまし。」

「それはあの男は病身ですとも。それはあなたにだって<ruby><rb>疾</rb><rt>と</rt></ruby>うから分っているでしょう。」

「いいえ。その事ではありません。助からないそうじゃありませんか。」女の声は叫ぶようである。

「なんですと。そんな事を。」

「いいえ。わたくしは知っています。フェリックスさんも知っています。きのう大学のベルナルドさんの所へ参ってすっかり聞いて来ましたのだそうです。」

「大学の教授だって随分見損う事があるものですよ。」

「だってあなたフェリックスさんを何遍も診察なさったのでしょう。どうぞわたくしに本当のところを言って下さいまし。」

「一体そういう問題にはたしかに本当だという判断は下せないものなのですよ。」

「それはあなたが御自分のお<ruby><rb>友達</rb><rt>ともだち</rt></ruby>の事だからと<ruby><rb>仰</rb><rt>おっし</rt></ruby>ゃるのでしょう。ね、だから言われないと仰ゃるのでしょう。仰ゃらなくったって、あなたのお顔に出ているわ。あ、本当だ、本当だ。まあ、わたくしどうしよう。」

「困りますな。まあ、気を落ち着けて下さい。」

## 八

女は鋭く学士の顔を見た。「本当ですね。」

「さあ。あの男は病気ですよ。それはあなただって知っていましょう。」

「それが直らない病気なのでしょう。」

「一体なんだってそんな事をあの男に言ったのか知らん。それに。」

「ねえ、あなたどうぞ望みがないのなら、わたくしをいたわって無駄な望みを起させないようにして下さいまし。」

「しかしそんな事は<ruby><rb>確</rb><rt>しか</rt></ruby>と予言の出来るはずのものではないのです。随分長く生命が保てる事もあるのですから。」

「ええ、ええ、それが一年なのでしょう。」

学士は唇を<ruby><rb>噛</rb><rt>か</rt></ruby>んだ。「なんだって外の医者の所なんぞへ行ったのでしょう。」

「それは知れていますわ。あなたが本当の事を言ってお聞かせなさらないからです。」

「下らない。実に下らない。<ruby><rb>馬鹿</rb><rt>ばか</rt></ruby>な事を言ったものだ。言って聞かせてなんになるというのだろう。」医学士アルフレットは不平に堪えない様子である。

この時戸が<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>いてフェリックスが<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>って来た。そしてマリイを見て<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>った。

「大方こんな事だろうと思った。」

「おい。君は馬鹿な事を<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>ったね。実に馬鹿げている。」学士はこう呼び掛けた。

「君、いろんな<ruby><rb>言草</rb><rt>いいぐさ</rt></ruby>は<ruby><rb>廃</rb><rt>よ</rt></ruby>してくれ<ruby><rb>給</rb><rt>たま</rt></ruby>え。君が友人として僕をいたわってくれた段は実に感謝する。それが好意というものだろう。」

女が<ruby><rb>詞</rb><rt>ことば</rt></ruby>を挟んだ。「あの大学の先生の<ruby><rb>仰</rb><rt>おっし</rt></ruby>ゃったのは。」

「廃せよ。これまではアルフレット君だって、お前だって、<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>を<ruby><rb>騙</rb><rt>だま</rt></ruby>して安心させて置いても<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>かったのかも知れない。しかし今から先そんな事をすれば、それは下手な喜劇というものだ。」

学士は云った。「君は無経験なのだ。僕が言って聞せるがね、このウィインの町を歩き<ruby><rb>廻</rb><rt>まわ</rt></ruby>っている人間の中には、もう二十年も前に死の宣告を受けた事のあるものが何人あるか知れないのだ。」

「しかしその宣告を受けて、宣告通りに死んだものの方が無論多いのだろう。」

学士は室内をあちこち歩いている。「第一こういう事を考えてくれ給え。きのうときょうと、君の体になんの変った事もないのだぜ。そこできょうから君が前より養生をして、今までより僕の言う事を好く聞いてくれれば、それだけはたしかに得だ。丁度<ruby><rb>八日</rb><rt>ようか</rt></ruby>前の事だが、僕のところへ五十になる男が遣って来た。」

「待ち給え。分かっているよ。その五十になった男が二十の時に不治の病だといわれて、今でも元気が好くて、子供が八人とも達者でいるというような事を君は話すのだろう。」

「まあ、そんな事だがそれが事実なのだ。実際そういう人がある。」

「しかしね、世間に<ruby><rb>奇蹟</rb><rt>きせき</rt></ruby>というものがあるとしても、それが僕の体にあろうとは僕は思わないのだ。」

「奇蹟だと。大違いだ。僕の話すのは自然の事実だ。」

女がまた詞を挟んだ。「あの、ちょいとフェリックスさんの顔を御覧なすって下さい。どうもわたくしには昨年の冬よりは御様子が<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いように見えるのですが。」

学士はフェリックスの前に立ち留まった。「まあ。養生をしなくてはいけないのだ。これから二人でどこか山奥の方へ行ってすっかり<ruby><rb>懶</rb><rt>なま</rt></ruby>けるのだね。」

女は学士の詞を歓迎するように答えた。「いつから行ったら<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>いのでしょう。」

フェリックスは遮った。「下らない。」

「それから秋になると南の方へ旅行するが<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い」と学士が云った。

「それから春になるとどうしろというのだ」と、フェリックスは<ruby><rb>嘲</rb><rt>あざ</rt></ruby>けるように云った。

「春になるとあなた直っていらっしゃるかも知れないわ」と、女が声に力を入れて云った。

フェリックスは笑った。「直る。そうさな。<ruby><rb>兎</rb><rt>と</rt></ruby>に<ruby><rb>角</rb><rt>かく</rt></ruby>苦痛が無くなっているのだろう。」

学士は憤慨した調子で云った。「僕はいつでも考えているのだが、内科の大先生なんというものは、どれもどれも心理学というものを知らないのだ。」

「そうさ。人間という者は真理には耐えないと云う事を先生方は知らないのさ。」

## 九

「ところがそんな真理だのなんのというものはないのだ。僕の考えでは、先生君をおどかして、君に摂生をさせようと思ったのだろう。どうもその位な事に違いない。そこで君がしっかり摂生をして、直ってしまったところで、何も向うの<ruby><rb>耻</rb><rt>はじ</rt></ruby>にはならない。ただ君に警戒を加えたと<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>えば済むのだ。」

「もうそんな幼稚な<ruby><rb>言草</rb><rt>いいぐさ</rt></ruby>は<ruby><rb>廃</rb><rt>や</rt></ruby>め<ruby><rb>給</rb><rt>たま</rt></ruby>え。僕は教授と<ruby><rb>極</rb><rt>ご</rt></ruby>く<ruby><rb>真面目</rb><rt>まじめ</rt></ruby>に話した。どうしても正確なところを聞かなくてはならない理由があるのだという事を、向うに<ruby><rb>呑</rb><rt>の</rt></ruby>み込ませたのだ。詰まり<ruby><rb>親戚</rb><rt>しんせき</rt></ruby>の処分だねえ。そういう理由は大抵向うが有力だと感じてくれるからね。一体もう<ruby><rb>疾</rb><rt>と</rt></ruby>うから僕は<ruby><rb>不確</rb><rt>ふたしか</rt></ruby>な診断に悩まされて、我慢がし切れなくなっていたからね。」

学士は憤然とした。「それが違うのだ。今だって君がなんのたしかな事を知っているものかい。」

「いや。今はたしかなところを知っているよ。幾ら君がごまかそうとしたって駄目だ。僕は考えているが、こうなっては僕の最後の一年をなるべく有利に過す方法を講ずるより外はない。今に君に見せて<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>る。僕はこう見えても、笑いを含んでこの世に<ruby><rb>暇乞</rb><rt>いとまごい</rt></ruby>をして見せるよ。おい、ミイツ。泣くな。<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>がいなくなった跡で、まだこの世界がどの位面白いか、お前はそれを夢にも知らないのだ。アルフレット君、君はどう思う。」

「<ruby><rb>廃</rb><rt>よ</rt></ruby>し給え。そんな事を云ってマリイさんを切ながらせて、それがなんになるのだ。」

「なるほど。それはそうかも知れない。結末を付ける事は、早く結末を付けるに限る。おい、ミイツ。お前は<ruby><rb>直</rb><rt>す</rt></ruby>ぐ己と別れて、己を一人で死なしてくれ。」

女は突然学士に向って叫んだ。「あの、どうぞわたくしに毒を調合して下さいまし。」

学士は声を励まして云った。「いやはや、それでは二人共気が違っているというものだ。」

「いいえ。毒を下さいまし。わたくしはフェリックスさんが死んだ跡で、一秒時間だって生きていようとは思いません。わたくしのこの心持をフェリックスさんに見せて遣りたいのです。なんだってこれが分からないのでしょう。ええ、<ruby><rb>口惜</rb><rt>くや</rt></ruby>しい。」

「おい。ミイツ。そんなら今お前に言って聞かせる事がある。今云ったようなむちゃな事をもう一遍云って見るが<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い。己はお前の目に掛からない<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>へ隠れてしまって、生涯お前に<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>わない事にする。お前の運命を己の体に結び付けてしまうという権利は己には無いからな。また己はそんな責任を負いたくもなんともないからな。」

学士がこう言い出した。「フェリックス君。どうもそういう<ruby><rb>工合</rb><rt>ぐあい</rt></ruby>では僕は君に直ぐに旅行をして<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>わなくてはならない。あすよりはきょう立つが好い。そんな風になっては、君方は何をし出すか分からないから、どうも<ruby><rb>傍</rb><rt>はた</rt></ruby>で構わずに見ているわけには行かない。僕が今晩にも君方を<ruby><rb>停車場</rb><rt>ステエション</rt></ruby>まで送って行こう。先ずこの土地を離れて、清い空気を呼吸して、気を落ち着けたら、君方も普通な考えに戻って来るだろう。」

「それは僕はどうでも好いよ。どこでこうしていたって、全く同じ事だからねえ。詰まり。」フェリックスはこう言い掛けた。

学士はそれを遮るようにして云った。「待ち給え。差当り何も君が絶望するような状況はちっともありはしない。だから余計な、悲しげな話は<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>く度外に置いて貰いたいものだね。」

マリイは涙を<ruby><rb>拭</rb><rt>ふ</rt></ruby>いて、<ruby><rb>難有</rb><rt>ありがた</rt></ruby>そうに学士の顔を見た。

フェリックスは<ruby><rb>微笑</rb><rt>ほほえ</rt></ruby>みながら云った。「君は<ruby><rb>豪</rb><rt>えら</rt></ruby>いよ。大した心理学者だ。なんでも医者は患者を荒っぽく扱うと、その患者が丈夫なような気になるものと見える。」

「<ruby><rb>兎</rb><rt>と</rt></ruby>に<ruby><rb>角</rb><rt>かく</rt></ruby>僕は君の医者というよりも、君の友人だという訳だからね。」

「好いよ。そんなら旅行する。あすどこか山の方へ立とう。」

「無論そうしなくてはいけない。」

「兎に角君には感謝するよ。そこでもうこっちとらは行こうじゃないか。あの戸の外で<ruby><rb>咳払</rb><rt>せきばら</rt></ruby>いをするのは患者だろう。ミイツ。行こう行こう。」こう云ってフェリックスは学士と握手した。

マリイは暇乞いをして、学士に言った。「どうも難有うございました。」

「なに。僕にお礼なんぞを言うに及ぶものですか。あなたも気をしっかり持って、フェリックス君に気を付けて遣らなくてはいけないのです。そんならいずれまた。」

## 十

二人は<ruby><rb>梯子段</rb><rt>はしごだん</rt></ruby>を降り掛かった。途中でフェリックスが突然<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>った。「実に親切な男だなあ。どうだい。」

「ええ、ええ。」

「それにあんなに体が<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>くて若いのだから、これからまだ四十年位生きられるのだろう。それとも百までも生きるかしら。」

二人は往来へ出た。その<ruby><rb>周囲</rb><rt>まわり</rt></ruby>には歩いたり、<ruby><rb>饒舌</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>ったり、笑ったりして生きていて、死ぬる事なんぞは考えない人がうようよしていた。

二人は湖水にぴったり食っ付いている<ruby><rb>小家</rb><rt>こいえ</rt></ruby>を借りた。本当の村とは離れて、一列の家が水に沿うて立てられていて、それがしまいには離れ離れになっている、その一番<ruby><rb>端</rb><rt>はし</rt></ruby>の一軒である。家の<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>は傾斜地になっていて、そこから牧場が高い<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>まで続いている。そのまた上には<ruby><rb>畑</rb><rt>はた</rt></ruby>に夏の作物の花が咲いている。そのまた奥の方には、めったに好くは見えないが、<ruby><rb>微</rb><rt>かすか</rt></ruby>に<ruby><rb>遠山</rb><rt>とおやま</rt></ruby>のぼんやりした<ruby><rb>輪廓</rb><rt>りんかく</rt></ruby>が現われている。家の前には階段がある。その階段を支えている四五本の褐色をしている、<ruby><rb>濡</rb><rt>しめ</rt></ruby>った木の柱は、澄んだ<ruby><rb>水底</rb><rt>みずそこ</rt></ruby>に立ててある。そこへ出て見ると向いの岸にごつごつした岩が鎖のように長く続いているのが見える。その上の方には沈黙した<ruby><rb>大空</rb><rt>おおそら</rt></ruby>の冷やかな輝きがある。

ここへ来てから数日間二人は意外な落ち着きを感じた。自分でもどうしてこんなに気が鎮まったかと不思議に思う位であった。なんだか運命の威力というものも常に<ruby><rb>住</rb><rt>すま</rt></ruby>っている処でなくては、人の心の上に抑圧を<ruby><rb>逞</rb><rt>たくまし</rt></ruby>ゅうする事が出来ないのではないかとさえ思われた。いつもの住いで自分<ruby><rb>達</rb><rt>たち</rt></ruby>を強く<ruby><rb>圧</rb><rt>お</rt></ruby>し付けていたような運命が、ここへ移り住んでからは、どうした事か、少しも力を逞ゅうしなくなった。そればかりではない。二人は知り合になってから<ruby><rb>此方</rb><rt>このかた</rt></ruby>、今のような心を新たにするような寂しさを味わった事はなかった。折々二人は顔を見合せて、妙な心持をしている。なんだかちょっとした<ruby><rb>喧嘩</rb><rt>けんか</rt></ruby>か思違えかをした跡で、その事を避けて口に出さずにいるような心持なのである。天気の<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い<ruby><rb>夏日和</rb><rt>なつびより</rt></ruby>に、男は余り気分が好いので、またそろそろ<ruby><rb>為事</rb><rt>しごと</rt></ruby>を始めようかとさえ云った。女はそれに同意しなかった。

「だってあなた、本当に<ruby><rb>心</rb><rt>しん</rt></ruby>から健康におなりなすったのではないのですからね」と、<ruby><rb>微笑</rb><rt>ほほえ</rt></ruby>みながら云った。男が持って来た本や<ruby><rb>書物</rb><rt>かきもの</rt></ruby>の積み上げてある<ruby><rb>小卓</rb><rt>こづくえ</rt></ruby>の上に日影が躍っている。窓からは湖水を渡って、柔かい、人に<ruby><rb>媚</rb><rt>こび</rt></ruby>るような空気が吹き入れる。その空気は世界のあらゆる不幸をまるで知らないような空気である。

ある晩の事二人はいつものように、年の寄った土地のものに舟を<ruby><rb>漕</rb><rt>こ</rt></ruby>がせて湖水へ出た。その舟は好く出来ていて、幅も広く、それに柔かい、弾力のある腰掛が取り<ruby><rb>附</rb><rt>つ</rt></ruby>けてある。いつもそれへ女が腰を掛けると、その<ruby><rb>足下</rb><rt>あしもと</rt></ruby>に男は横になっている。一枚の暖かい、<ruby><rb>鼠色</rb><rt>ねずみいろ</rt></ruby>の毛布を持って来て、それを敷物にも<ruby><rb>上掛</rb><rt>うわが</rt></ruby>けにもするのである。そこに横になって頭を女の<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>の上に載せている。広い、静かな水の上に軽い霧が立ち<ruby><rb>籠</rb><rt>こ</rt></ruby>めている。なんだか<ruby><rb>夕闇</rb><rt>ゆうやみ</rt></ruby>がゆるやかに湖水の底から登って来て、次第に岸の方へ<ruby><rb>拡</rb><rt>ひろ</rt></ruby>がって行くように感ぜられる。きょうは男が奮発して、久し振に葉巻を<ruby><rb>喫</rb><rt>の</rt></ruby>んで見た。<ruby><rb>徐</rb><rt>しず</rt></ruby>かに煙を吹きながら湖水の波や、その向うの岩の頭に薄黄いろい夕日の差しているのを眺めている。

男は言い出した。「おい。ミイツ。お前あの上の方を平気で見る事が出来るかい。」

「どこの方でございますの。」

男は天を指さした。「<ruby><rb>真</rb><rt>ま</rt></ruby>っ<ruby><rb>直</rb><rt>す</rt></ruby>ぐにあの上の方を見るのだ。あの<ruby><rb>藍色</rb><rt>あいいろ</rt></ruby>な処を見るのだ。<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>にはそれが、なんだか気味が悪いようで出来ないから、お前に聞くのさ。」

女は上を見た。そして数秒間見詰めていた。「わたくし好い心持ちですわ。」

「そうかなあ。きょうのようにすっかり晴れ切っていると、己にはとても見ていられない。なんという遠い事だろう。身ぶるいがする程遠いのだからな。雲でも上の方にあると少しは気持ちが好いのだ。雲というやつはまだおれ達と<ruby><rb>心易</rb><rt>こころやす</rt></ruby>いものなのだからな。雲を見るのはお<ruby><rb>馴染</rb><rt>なじみ</rt></ruby>のものを見るようなものだ。」

## 十一

その時舟を<ruby><rb>漕</rb><rt>こ</rt></ruby>いでいる男が口を出した。「あしたは雨でございましょうね。ひどく山が近く見えますから。」こう<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>って船頭は<ruby><rb>艣</rb><rt>ろ</rt></ruby>の手を<ruby><rb>停</rb><rt>と</rt></ruby>めると、舟は音もせずに、ゆるやかに波の上を滑って<ruby><rb>行</rb><rt>ゆ</rt></ruby>く。

フェリックスは<ruby><rb>咳払</rb><rt>せきばら</rt></ruby>いをした。「妙だ。どうも葉巻はまだ<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>には<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>くないようだ。」

「そんなら水の中へ<ruby><rb>棄</rb><rt>す</rt></ruby>てておしまいなさいな。」

フェリックスは火の付いたところが赤く見えている葉巻を、指で<ruby><rb>摘</rb><rt>つま</rt></ruby>んで振り<ruby><rb>廻</rb><rt>まわ</rt></ruby>していたが、とうとうそれを水の中へ投げ入れてしまった。そして顔をマリイの方へ向けずにこう云った。

「どうも己はまだ本当に健康にはなっていないなあ。」

「<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い事よ。そんな事を言うのはお<ruby><rb>廃</rb><rt>よ</rt></ruby>しなさいよ。」こう遮るように云って女は<ruby><rb>徐</rb><rt>しず</rt></ruby>かに男の髪を<ruby><rb>撫</rb><rt>な</rt></ruby>でた。

フェリックスは云った。「これから雨でも降り出したら、何をしようかなあ。そうなったら、己が<ruby><rb>為事</rb><rt>しごと</rt></ruby>をしたって、文句を言いはしないだろうな。」

「それはいけませんわ。」

女は身を<ruby><rb>屈</rb><rt>かが</rt></ruby>めて、男と顔を見合せた。その時男の<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>が赤くなっているのに気が付いた。

「そんな<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>な事をお考えなさらないが好いわ。もうそろそろ帰ろうじゃありませんか。寒くなって来るようですから。」

「なに。寒くなって来ると。己は寒くはない。」

「それはあなたそんな厚い<ruby><rb>毛布</rb><rt>ケット</rt></ruby>を着ていらっしゃるのですもの。」

「そうだったなあ。お前が夏服一枚でいるのを己はまるで忘れてしまっていた。随分勝手だったなあ。」

フェリックスはこう云って、船頭の方に向いて、漕ぎ戻せと言い付けた。

艣を二三百遍ばかりも動かしたかと思うと、もう家が近くなった。その時フェリックスが右の手で左の手の脈を抑えているのに、マリイは気が付いた。「あなたどうかなすったの。」

「ミイツ。どうも己はまだ健康でないよ。」

「なぜ。」

「どうも熱が出たようだ。<ruby><rb>下</rb><rt>くだ</rt></ruby>らない。」

マリイは心配げに云った。「きっとあなたの思違えですわ。<ruby><rb>兎</rb><rt>と</rt></ruby>に<ruby><rb>角</rb><rt>かく</rt></ruby><ruby><rb>直</rb><rt>す</rt></ruby>ぐにお医者の<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>へそう云って<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>りましょうね。」

「なんだ。それがさぞ役に立つだろうよ。」

舟が岸に着いて、二人は下り立った。家へ帰って見れば、部屋はほとんど真っ暗になっている。それでもまだ日の内の<ruby><rb>温</rb><rt>あたた</rt></ruby>まりが残っている。女が夕食の支度をする<ruby><rb>間</rb><rt>あいだ</rt></ruby>、男は腕<ruby><rb>附</rb><rt>つ</rt></ruby>きの<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>に腰を掛けてじっとしている。

男は突然云った。「それでももうここへ来てから<ruby><rb>八日</rb><rt>ようか</rt></ruby>立ったなあ。」

<ruby><rb>卓</rb><rt>つくえ</rt></ruby>の上へ、食器を並べていた女は、急いで男の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>へ来て<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>から両手で肩を押さえた。「何かまた詰まらない事を考え出していらっしゃるのね。」

「廃せよ。」男はこう云ってその手を振り落として立ち上がって、卓の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>へ腰を掛けた。女はそこへ付いて行った。男は指先で卓の上をとんとんと<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>いている。そしてこう云った。「実にまるで<ruby><rb>防禦</rb><rt>ぼうぎょ</rt></ruby>のないところへ敵が突然襲撃して来るようなものだからな。」

「あら、そんな事を。」女はこう云って自分の椅子を男の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>へ寄せて腰を掛けた。

男は目を大きく<ruby><rb>睜</rb><rt>みは</rt></ruby>って部屋中をあちこち見廻している。それから何事か<ruby><rb>腑</rb><rt>ふ</rt></ruby>に落ちぬという様子で、腹立たしげに頭を振って、それから歯の間から空気を押し出すようなものの<ruby><rb>言振</rb><rt>いいぶり</rt></ruby>をして、こう云った。「実に防禦がないのだ。<ruby><rb>誰</rb><rt>たれ</rt></ruby>に救いの求めようもない。事柄は何もそんなに恐れるには及ばない事柄なのだ。ただ防ぐという事が、まるで出来ないのが<ruby><rb>溜</rb><rt>たま</rt></ruby>らない。」

「あなた、後生ですから、そんなにいらいらしないで下さいよ。それ程の事ではないと、わたくし思いますの。ただ御安心のためですから、わたくしがお医者の処へそう云いに参っても好いでしょう。」

「どうぞ廃してくれ。全体また己が病気の事を言い出したのが悪かったから堪忍してくれ。」

「あら。そんな事を。」

「もう己は決して言わないよ。さあ、<ruby><rb>注</rb><rt>つ</rt></ruby>いでくれ。<ruby><rb>注</rb><rt>つ</rt></ruby>ぐのだ<ruby><rb>注</rb><rt>つ</rt></ruby>ぐのだ。よし。何か外の話をしないかい。」

「そうでございますね。なんのお話にしましょうか。」

「なんでも好いよ。なんにも話す事がないようなら、何か読んで聞せてくれても好い。直ぐでなくても好いよ。食事が済んでからで好い。食べないか。己も食べるから。食は進む位だ。なかなか<ruby><rb>旨</rb><rt>うま</rt></ruby>い。」こう云って食べ始めた。

「それ御覧なさい。」

女はわざとらしい<ruby><rb>微笑</rb><rt>ほほえみ</rt></ruby>をして云ったのである。二人は飲んだり食ったりし始めた。

## 十二

それから数日間暖かい雨の日が続いた。二人は夕方になるまで、部屋の中にいたり、階段の上に出たりして暮した。二人で本を読んでいる時もある。窓から外を見ている時もある。またある時は女が<ruby><rb>針為事</rb><rt>はりしごと</rt></ruby>をしていると、男は<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>でそれを見ている。<ruby><rb>骨牌</rb><rt>かるた</rt></ruby>なんぞをもして見る。男はある日女に将棋の<ruby><rb>駒</rb><rt>こま</rt></ruby>の行き道を教えたり何かもした。またある時は男が<ruby><rb>長椅子</rb><rt>ながいす</rt></ruby>の上に横になっていると、女はその<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>へ来て腰を掛けて、本を読んで聞かせる。<ruby><rb>兎</rb><rt>と</rt></ruby>に<ruby><rb>角</rb><rt>かく</rt></ruby>昼も夜も<ruby><rb>徐</rb><rt>しず</rt></ruby>かに過ぎて行く。男は気分が悪くはなかった。天気は悪くても体に異状もなく、その<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>熱も出ないのを、男は喜んでいた。ある午後の事であった。久し振に長雨が降り<ruby><rb>止</rb><rt>や</rt></ruby>んで、空が少し明るくなり掛かって来た。二人は出窓に腰を掛けていた。男がこれまでの話の続きでもなんでもなく、出し抜けにこう<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>った。「一体この世界には死の宣告を受けたものばかりがうようよしているのだなあ。」

女は針為事の手を<ruby><rb>停</rb><rt>と</rt></ruby>めて、顔を上げた。

男ばかり語り続けた。「それはこう云うわけだ。<ruby><rb>譬</rb><rt>たと</rt></ruby>えて見れば、<ruby><rb>誰</rb><rt>た</rt></ruby>れかお前の<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>へ来て云うのだな。あなたは千九百七十年五月一<ruby><rb>日</rb><rt>じつ</rt></ruby>にお亡くなりなさいますよというのだな。お前だって何も百年生きているわけではないが、そう云われた日には、それからは千九百七十年五月一<ruby><rb>日</rb><rt>じつ</rt></ruby>が気になって、生涯<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>な思いをし通しにするのだ。」

女は黙って聞いている。

男は<ruby><rb>今</rb><rt>いま</rt></ruby>日の光が<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>れ始めて、湖水の水がきらきらとし出したのを眺めながら語り続けた。「またこんな人間もいるだろう。<ruby><rb>其奴</rb><rt>そいつ</rt></ruby>はきょうあたり大丈夫で、<ruby><rb>息張</rb><rt>いば</rt></ruby>って歩いている。ところが詰まらない、偶然の出来事で、<ruby><rb>此奴</rb><rt>こいつ</rt></ruby>は一二週間の内に死んでしまうのだ。そのくせ死という事なんぞをまるで考えてはいない。そうじゃないか。」

女は云った。「そんな馬鹿な事を考えるのはお<ruby><rb>廃</rb><rt>よ</rt></ruby>しなさいよ。今ではもうあなたすっかり健康になっていらっしゃるのが、御自分にもお分かりになっているのでしょう。」

男は<ruby><rb>微笑</rb><rt>ほほえ</rt></ruby>んで黙っていた。

「だってあなたなんぞこそ健康になる<ruby><rb>質</rb><rt>たち</rt></ruby>の人ですわ。」

男は声を出して笑った。「お前。<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>が運命というものが分らないでいると思うのかい。今ちょっと<ruby><rb>工合</rb><rt>ぐあい</rt></ruby>が<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>くなったからといって、己がそれに<ruby><rb>騙</rb><rt>だま</rt></ruby>されていると思うのかい。己は偶然自分の前途を知る事が出来て、死ぬる日の近いのが分って、外の<ruby><rb>豪</rb><rt>えら</rt></ruby>い<ruby><rb>奴</rb><rt>やつ</rt></ruby>のように、哲学者になってしまったのだ。」

「もう大抵にしてお廃しなさいよ。後生ですから。」

「はいはい。拙者は今に死にますから、さよういたせばあなたに死のお話しなんぞをして、御迷惑を掛ける事も無くなります。」

女は手為事を置いて、男の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>へ寄って来て、確信しているような調子で云った。「あなたが大丈夫無事でおいでなさるという事が、わたくしには本当に分っていますの。この<ruby><rb>頃</rb><rt>ごろ</rt></ruby>のあなたの体の好くなった事ってありませんわ。それが御自分ではお分りにならないのでしょうね。ですから死ぬる事なんぞをまるで考えずにおいでなされば、それであなたとわたくしとの上に落ちて来た暗い影はまるで消えてしまうのですわ。」

## 十三

男はじっと女の顔を見ていた。そしてこう<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>った。「どうもお前には絶対的に物の真相を理解する事が出来ないのだ。どうかして具体的に分からせて<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>らなくてはならない。ちょいとこれを見い。ここになんと書いてある。」男はそこにあった新聞を手に取って、<ruby><rb>日附</rb><rt>ひづけ</rt></ruby>のところを指さした。

「千八百九十年六月十二日とありますわ。」

「そうだ。そこで考えて見ろ。この一八九<ruby><rb>零</rb><rt>れい</rt></ruby>とある零の代りに一が書いてある日が来るのだなあ。その時は<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>はもういないのだ。どうだ分かるかい。」

女は新聞を荒々しく男の手から奪って、<ruby><rb>床</rb><rt>ゆか</rt></ruby>の上に投げた。

「新聞に罪はないよ。」男は<ruby><rb>徐</rb><rt>しず</rt></ruby>かにこう言い放って、突然立ち上がって、あらゆる陰気な考えを一<ruby><rb>時</rb><rt>じ</rt></ruby>に遠く<ruby><rb>擲</rb><rt>なげう</rt></ruby>ったらしい様子をして、こう云った。「どうだい。あれを見ろ。<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>じゃないか。あの水の上に日の差しているところは。それからあそこを見ろ。」こう云いながら男は階段の横の方へ<ruby><rb>捩</rb><rt>ね</rt></ruby>じ向いて反対の方角を見た。平地になっている方角である。「あの畑の作物の揺れているのを見ないか。あそこへ出て見たいなあ。」

「あんまり<ruby><rb>濡</rb><rt>しめ</rt></ruby>っぽくはないでしょうか。」

「行こう行こう。己は外へ出たくてしょうがない。」

女は強いて留めてもどうかと遠慮した。

二人は帽子を手に取って、<ruby><rb>外套</rb><rt>がいとう</rt></ruby>を引っ掛けて、<ruby><rb>畑</rb><rt>はた</rt></ruby>の方へ行く道に掛かった。空はほとんど晴れ切っている。遠い山の<ruby><rb>端</rb><rt>は</rt></ruby>に色々な形をした白い霧が掛かっている。牧場の緑が遠い<ruby><rb>金色</rb><rt>きんしょく</rt></ruby>を帯びた白の中へ消えて行くようである。

<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>くして二人は穀物の作ってある畑の中の道に出た。道が狭いので二人は跡先に歩いている。外套の<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>が作物の茎に<ruby><rb>触</rb><rt>ふれ</rt></ruby>てさらさらと鳴る。少し歩いて横へ曲って木の茂っている森の中へ<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>った。そこには綺麗な道の<ruby><rb>所々</rb><rt>しょしょ</rt></ruby>に腰掛が置いてある。二人は手を取り合って並んで歩き出した。

男がこう云った。「どうだい。綺麗じゃないか。それにこの<ruby><rb>匀</rb><rt>におい</rt></ruby>が<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いなあ。」

「雨上がりですが好いでしょうか。」女はこう言い掛けた。

男はじれったそうに首を振った。「好いよ。そんな事はどうでも好いのだ。余計な事を言い出さないでくれ。」

暫く歩いていると、木立が段々まばらになって来る。そして木の枝の間から湖水が見える。もう湖水まで百歩もない位である。狭く岬のように突き出した<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>があって、森の木立の続きがまばらになりながらその<ruby><rb>辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>まで延びている。そこに<ruby><rb>樅</rb><rt>もみ</rt></ruby>の木で<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えた<ruby><rb>卓</rb><rt>つくえ</rt></ruby>と腰掛とが置いてある。<ruby><rb>水打際</rb><rt>みずうちぎわ</rt></ruby>には木の柵が結ってある。夕方になって少し風が出て来たので、波が岸を打っている。その風の余りが森の木をゆすって、<ruby><rb>濡</rb><rt>ぬ</rt></ruby>れた<ruby><rb>木葉</rb><rt>このは</rt></ruby>から<ruby><rb>雫</rb><rt>しずく</rt></ruby>を垂らし始めた。湖水の上には暮れて<ruby><rb>行</rb><rt>ゆ</rt></ruby>く日の疲れた影が横っている。

フェリックスが云った。「こんな好い景色があるという事は、己はこれまで夢にも知らなかった。」

「ほんとに好いのねえ。」

「お前に分かるものか。景色が本当に好いという事は、<ruby><rb>暇乞</rb><rt>いとまご</rt></ruby>いをする積りで見なくては分からないのだ。」

男はこう云って、ゆるやかに二三歩前へ歩き出して、下の方を水に洗われている柵の、細い木の上に<ruby><rb>両肘</rb><rt>りょうひじ</rt></ruby>を<ruby><rb>衝</rb><rt>つ</rt></ruby>いた。そして長い間きらめく水の<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>を見ていた。暫くして振り返ると、女が<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>へ付いて来ていた。女は目に涙の出そうなのを<ruby><rb>堪</rb><rt>こら</rt></ruby>えているのが知れた。

男は<ruby><rb>笑談</rb><rt>じょうだん</rt></ruby>らしく云った。「これをみんな己はお前に残して<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>って行ってしまうのだ。そう云うと<ruby><rb>可笑</rb><rt>おか</rt></ruby>しく思うだろうが、これはみんな己のものだ。この<ruby><rb>頃</rb><rt>ごろ</rt></ruby>己は人生の秘密の感じが分かって来て、人間というものは無窮の占有権を持っているという事が分かった。この感じは実に偉大な感じだ。このあらゆるものが、己の自由自在になるのだ。あのごつごつした岩の上へ、己は花を咲かせて見る事も出来る。あの<ruby><rb>空</rb><rt>そら</rt></ruby>に漂っている白い雲を己は追い<ruby><rb>除</rb><rt>の</rt></ruby>けてしまう事も出来る。しかしあれはみんなあのままで綺麗だから、己はどうもせずに置いて遣るのだ。お前だって己がいなくなって、一人になって見ろ。そうすると己の心持ちが分かるのだ。その時はお前もあらゆるものが自分のものになったという感じがするに違いない。」

## 十四

男はこう<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>って女の手を取って自分の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>へ並ばせた。それから片手を差し伸べて、景色を指さして、「あれがみんなだ」と云った。それでも女は、さっきの涙の出そうな目をして黙っているので、男は「もうそろそろ帰ろう」と、急に思い出したように云った。

日暮が近くなって来た。二人は岸に沿うて程なく家の前に出た。この時男が云った。「<ruby><rb>兎</rb><rt>と</rt></ruby>に<ruby><rb>角</rb><rt>かく</rt></ruby><ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い散歩だったなあ。」

女は黙って頷いた。

「おい。ミイツ。きょうのような散歩を、これからもまたしようじゃないか。」

「ええ。」

「だがきょうのようにお前をいじめる事は、これからは<ruby><rb>廃</rb><rt>や</rt></ruby>めにするよ。」男はさげすんで<ruby><rb>憫</rb><rt>あわれ</rt></ruby>むような調子でこう言い足した。

それからまだ何日も立たない<ruby><rb>頃</rb><rt>ころ</rt></ruby>の事で、ある日の午後フェリックスはまた<ruby><rb>為事</rb><rt>しごと</rt></ruby>を始めて見ようかと思った。そこで紙を出して、鉛筆を手に取って、何か書きそうにして、マリイの方をちょいと見た。少し意地の悪い心持ちで、女がどうするだろう、<ruby><rb>留</rb><rt>とめ</rt></ruby>るだろうかと思ったのである。しかし女はなんとも云わなかった。<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>くして男は紙と鉛筆とを<ruby><rb>脇</rb><rt>わき</rt></ruby>へ置いて、何か意味のない書物を手に取って読みそうにした。少し読みかけて見たが、この方がよほど気が晴れて好いように思われた。まだ本当の為事は出来ないのである。なんでも少し人生を<ruby><rb>馬鹿</rb><rt>ばか</rt></ruby>にし切って沈黙の前途に向って、平気で未来を迎え見るようにして、哲人が遺言をするように、何か書きたい。それが望みなのである。尋常の人は遺言をしても、<ruby><rb>内々</rb><rt>ないない</rt></ruby>は前途にある死を恐れながら書いている。それではいけない。それに書くものは、目で見たり手で<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>んだりするようなものを材料にしたくない。そんなものは<ruby><rb>皆</rb><rt>みな</rt></ruby>自分が死んだ跡で、いつか亡びて無くなってしまうのである。自分が遺言として残して置くのは、一<ruby><rb>篇</rb><rt>ぺん</rt></ruby>の詩でなくてはならない。自分が<ruby><rb>剋伏</rb><rt>こくふく</rt></ruby>してしまった世界に向って、静かに<ruby><rb>微笑</rb><rt>ほほえ</rt></ruby>んで別れを告げる詩でなくてはならない。そういう心持は、女には話して聞かせなかった。話したところで、とても分かるまいと思うのである。どうしてもこの女なぞに比べて見ると、自分はよほど<ruby><rb>豪</rb><rt>えら</rt></ruby>い人間のように思われる。毎日長い午後の時間に、男は一種高慢な心持ちになって、向うに<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>っている女を見ている。どうかすると女は読み掛けた本の上に<ruby><rb>俯伏</rb><rt>うつぶ</rt></ruby>しになって居眠りをしている。額からほつれて<ruby><rb>飜</rb><rt>こぼ</rt></ruby>れ掛かった髪が、本の上に渦を巻いている。男の心の<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>では、女に打明けずに、自分の考えている事が沢山あるというのが、自慢しても好い事のように思われている。自分が<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>にも寂しく、如何にも偉大に存在しているように思うのである。

きょうの午後には女がまたいつものように<ruby><rb>転寝</rb><rt>うたたね</rt></ruby>をしたので、男はそっと抜け出して、森の中を散歩した。夏の午後の、むっとするような静さが<ruby><rb>周囲</rb><rt>しゅうい</rt></ruby>を取り巻いている。なんだかきょうこそという心持ちがした。なんだか身が軽いようで、何物にも縛せられないような気がして、深い息をした。そして木の下の、重くろしい<ruby><rb>蔭</rb><rt>かげ</rt></ruby>を歩いていた。木の枝で遮られて、<ruby><rb>翳</rb><rt>かす</rt></ruby>められたような日の光が、好い心持ちに自分を照している。日蔭も、静けさも、柔かい空気も、<ruby><rb>総</rb><rt>すべ</rt></ruby>て我が身の幸福であるように感じた。そしてそれを受用した。これだけの色々な柔かい、優しいもののある人生を<ruby><rb>棄</rb><rt>す</rt></ruby>てて行かなくてはならないのが、今は別段苦痛にならない。「棄てて行くと、棄てて行くと」と<ruby><rb>中音</rb><rt>ちゅうおん</rt></ruby>に<ruby><rb>独言</rb><rt>ひとりごと</rt></ruby>を言って見た。それからまた深い息をすると、柔かい空気が、如何にも軽々と、好い心持ちに胸の中へ<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>って行く。その時、一体<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>が病気だというのが、分らないなあと思った。しかし兎に角病気なはずだ。助からないはずだ。そう考える内に、<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち大いに発明したというような気がした。それはその病気だという事、助からないという事を信ぜなくなったのである。そうだ。<ruby><rb>皆</rb><rt>みな</rt></ruby><ruby><rb>嘘</rb><rt>うそ</rt></ruby>だ。それだからこんなに何物にも縛せられないような、好い心持ちがするのだ。さっききょうこそという心持ちのしたのは、それが分ったのであった。そうして見れば人生の快楽を剋伏したのではない。死の恐怖が消え<ruby><rb>失</rb><rt>う</rt></ruby>せたのだ。もう死ななくてはならぬという事を信ぜなくなったのだ。<ruby><rb>縦</rb><rt>たと</rt></ruby>い今は体が少し悪くても、いずれ直る。自分もその直って<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>くなる病人の内なのだ。なんだか<ruby><rb>魂</rb><rt>たましい</rt></ruby>の奥の片隅の方で、あるこれまで潜んでいたものが覚めて来たように思われる。目をこれまでより大きく<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>いて、これまでより<ruby><rb>大股</rb><rt>おおまた</rt></ruby>に歩いて、これまでより深い息をしたいような気がする。日の光が一層明るくなって、人生の活動が一層盛んになったように思う。これだ。これだ。しかしなぜだろう。なぜこんなに突然希望に酔わせられたような心持ちになったのだろう。なに。希望ではない。それ以上の物だ。確信だ。けさまでは自分は恐怖に責められていた。<ruby><rb>咽喉</rb><rt>のど</rt></ruby>を<ruby><rb>扼</rb><rt>やく</rt></ruby>せられていた。しかし今は健康だ。けさも健康であったのだ。こう思って大声に「健康だ」と叫んで見た。

## 十五

この時男は森の出口に立っていた。目の前に湖水が濃い<ruby><rb>藍色</rb><rt>あいいろ</rt></ruby>に<ruby><rb>湛</rb><rt>たた</rt></ruby>えられている。そこにあったベンチに腰を掛けて、<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い心持ちになって、鏡のように平かな水の<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>を見渡した。そして、一体妙だな、人生を快く<ruby><rb>擲</rb><rt>なげう</rt></ruby>ってしまおうと思ったのは、あれは、実は体の直った快さであったかと思っているのである。

ふいと<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>に軽い物音がした。それはマリイであった。見返る<ruby><rb>隙</rb><rt>ひま</rt></ruby>もない内に、女はそこへ出て来て、輝く目をして、顔を少し赤くしている。

「どうしたのだい」と、男は<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>った。

「なぜあなたお出掛けなすったの、わたくしを一人ぼっちにして置いて。わたくしびっくりしましたわ。」

「なんだ。<ruby><rb>馬鹿</rb><rt>ばか</rt></ruby>な。」男はこう云って女を引っ張って、<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>へ腰を掛けさせた。そして<ruby><rb>笑顔</rb><rt>わらいがお</rt></ruby>をして女を見て<ruby><rb>接吻</rb><rt>せっぷん</rt></ruby>した。この女はいつも暖かい、柔かに肥えた唇をしているのである。「こっちへおいで」と男は小声で云って自分の<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>の上に腰を掛けさせた。女はぴったり身を寄せ掛けて、男の<ruby><rb>頸</rb><rt>くび</rt></ruby>に手を<ruby><rb>搦</rb><rt>から</rt></ruby>んだ。女の姿は<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>にも美しい。明るい色の髪の毛から、<ruby><rb>鬱陶</rb><rt>うっとう</rt></ruby>しいような<ruby><rb>薫</rb><rt>かお</rt></ruby>りが立つ。男はこのしなやかな、好い<ruby><rb>匀</rb><rt>におい</rt></ruby>のする人を、限りなく愛する情の、胸に<ruby><rb>沸</rb><rt>わ</rt></ruby>き上がって来るのを覚えた。そして目に涙を浮べて、女の手を取って接吻した。まあ、自分はどんなにかこの女を愛しているのだろうと、心に思った。

湖水の方から<ruby><rb>微</rb><rt>かす</rt></ruby>かな、しゅうというような音がした。二人共頭を上げて見て、それから立ち上がって、岸の方へ歩いて行った。遠い<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>に汽船が見えている。二人はそれを眺めていて、汽船が段々近くなって、甲板の上の人の姿が見分けられるようになった時、始めて船の方に背を向けて、森の中を歩いて内へ帰り掛けた。二人は手を引き合って、ゆっくり歩きながら、折々顔を見て笑い交すのである。口に出る<ruby><rb>詞</rb><rt>ことば</rt></ruby>は昔恋の初めて<ruby><rb>萌</rb><rt>きざ</rt></ruby>した<ruby><rb>頃</rb><rt>ころ</rt></ruby>の詞と同じであった。まだ不確かなような愛情の甘い疑問と、<ruby><rb>媚</rb><rt>こ</rt></ruby>びるような慰めの、親切な詞とが、二人の間に交された。二人とも気が晴れやかで、子供の心のようであった。幸福が再び返って来たのである。

重くろしい、燃えるような夏の日が来た。昼は焦げ付くように暑くて、夜は人を誘惑するように<ruby><rb>生温</rb><rt>なまぬる</rt></ruby>い。きょうの昼もきのうの昼のようで、きょうの夜もきのうの夜のようである。丁度時間が静止しているかと思われる。

二人は<ruby><rb>誰</rb><rt>たれ</rt></ruby>にも<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>わずに<ruby><rb>籠</rb><rt>こも</rt></ruby>っている。そしてお互に気を付け合うだけで、<ruby><rb>余所</rb><rt>よそ</rt></ruby>の人には構わずにいる。森と、湖水と、小さい家と、これだけが二人の世界である。心持ちの好い鬱陶しさが身を包んで物を考える事を忘れさせている。心配のない、笑い交す夜と、疲れた親密な昼とが二人の上を通り過ぎる。

そういう夜の続いた<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>のある晩の事である。<ruby><rb>蝋燭</rb><rt>ろうそく</rt></ruby>を<ruby><rb>点</rb><rt>つ</rt></ruby>けたままで二人は寝ていた。目を明いたままで横になっていた女が床の上でふいと起き直った。女は穏かな眠に沈んでいる男の顔を眺めた。そして息遣いを聞いた。今ではどうも一日一日直る方に向いて行くのがたしかなようである。如何にも<ruby><rb>嬉</rb><rt>うれ</rt></ruby>しいので男の顔に自分の顔を<ruby><rb>摺</rb><rt>す</rt></ruby>り寄せて、男の息が自分の<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>に触れるようにした。まあ、生きていると<ruby><rb>云事</rb><rt>いうこと</rt></ruby>は、どんなに美しい事だろう。それに自分の生活の内容は、全くこの男の事で<ruby><rb>填</rb><rt>うず</rt></ruby>められているのである。無くするかと思ったこの人を取り返した。いつまでも別れないように、取り返してしまった。

そう思っている時、ふいと<ruby><rb>寐</rb><rt>ね</rt></ruby>ている男の息遣いが今までと違って来たのに気が付いた。軽い、抑え付けられたようなうめきをしたのである。そして男の少し開いた唇に苦痛の表情が見えた。それから男の額には汗が玉のように出ているのに気が付いて、女はひどく驚いた。男は頭を少し横へ向けた。そして唇を締めた。表情はまた平和に戻って、二つ三つ不安らしい息をした跡で、平生の息を音を立てずにするようになった。

## 十六

しかし女は急に心配し出して来た。出来る事なら男を呼び<ruby><rb>醒</rb><rt>さま</rt></ruby>してぴったり寄り添って男の体の<ruby><rb>暖</rb><rt>あたたま</rt></ruby>りを、男の生活を直接に身に感じて見たい。それから、なんだか不思議に自分が罪を犯しているような気がして来た。この<ruby><rb>頃</rb><rt>ごろ</rt></ruby>男の命が助かると信じていたのが、ひどい大胆な望みであったかのように思われて来た。そしてこんな事を思った。自分が男の事を、たしかに直ると思ったというのは<ruby><rb>嘘</rb><rt>うそ</rt></ruby>ではなかっただろうか。実はただ直りそうな様子を見て、<ruby><rb>難有</rb><rt>ありがた</rt></ruby>く感じていただけではあるまいか。そうして見れば何も深く自分を罪するには及ばない。これから先き放縦な心持ちになって、丈夫な人を相手にするように、十分の幸福を受けようとはしないようにしよう。今までつい夢のように歓楽を極めていたのは、あれは<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>にも軽はずみな、罪の深い事であった。その罪は<ruby><rb>償</rb><rt>つぐの</rt></ruby>わなくてはならない。そうだそうだ。一体人間の上で罪である事は、二人の間でも罪であるに違いないではないか。それとも愛情が<ruby><rb>奇蹟</rb><rt>きせき</rt></ruby>をする事が出来るのではあるまいか。この頃の夜のように打ち解けていたのが、<ruby><rb>却</rb><rt>かえ</rt></ruby>って男の健康を<ruby><rb>恢復</rb><rt>かいふく</rt></ruby>させ掛けたのではあるまいか。女の考えはこんな風にとつおいつしていた。

突然恐ろしいうめき声が男の口から<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>れた。<ruby><rb>夢現</rb><rt>ゆめうつつ</rt></ruby>の境に、目を大きく<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>いて、体を半分起して、<ruby><rb>空</rb><rt>くう</rt></ruby>を<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>んでいる。女は覚えず大声で叫んだ。男はそれを聞いてやっと本当に目が醒めた。

「なんだ、なんだ」と、男は押し出すように<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>った。女はなんとも返事をする事が出来なかった。「今声を立てたのはお前かい。<ruby><rb>誰</rb><rt>たれ</rt></ruby>か大声を出して叫んだように聞えたが。」こう言い掛けて、男は<ruby><rb>忙</rb><rt>せわ</rt></ruby>しい息を<ruby><rb>衝</rb><rt>つ</rt></ruby>いて、こう言い足した。「<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>は息が詰まるような気がした。なんだか忘れてしまったが、夢も見ていたようだった。」

「わたくし本当にびっくりしてよ」と、女は<ruby><rb>吃</rb><rt>ども</rt></ruby>りながら云った。

「知っているかい。己は今寒けがしているのだ。」

「それはこわい夢を御覧なすったからですわ。」

「そんなわけじゃないよ。」こう云って、男は腹を立ったような目付きをして、上の方を見た。「なに。己はまた熱が出たのだ。知れていらあ。」男は歯をがちがちいわせて、横になって、布団を<ruby><rb>襟元</rb><rt>えりもと</rt></ruby>まで引き寄せた。

「どうしましょう。何か。」女はこう言い掛けて、途方に暮れたようにあたりを<ruby><rb>見廻</rb><rt>みまわ</rt></ruby>した。

「なにをするに及ぶものか。<ruby><rb>寐</rb><rt>ね</rt></ruby>るが<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い。己もひどくがっかりした。これから寐なくちゃあならない。明りは消さずに置くのだよ。」こう云って男は目を<ruby><rb>瞑</rb><rt>ねむ</rt></ruby>って布団を口の隠れるように<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>った。

女は遠慮して何もいう事が出来なかった。男の容体の悪い時、気の毒がるような事をいうと、どんなにか腹を立てるだろうと、これまでの経験から推して考えたのである。それから二三分すると、男は寐入ったが、女はそれきり寐付かれずにいた。

程なく<ruby><rb>彼誰時</rb><rt>かわたれとき</rt></ruby>の薄明りが、忍びやかに部屋の窓から<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>って来た。この<ruby><rb>暁</rb><rt>あかつき</rt></ruby>の近づいて来る<ruby><rb>微</rb><rt>かすか</rt></ruby>なしるしが、女のためにはひどく<ruby><rb>嬉</rb><rt>うれ</rt></ruby>しかった。何か親しいもの、ひとりでに<ruby><rb>微笑</rb><rt>ほほえ</rt></ruby>まれるようなものが近づいて来るように感ぜられた。暁の来るのを出迎えにこっちから行きたいような気がして来た。そこでそっと床から抜け出して、朝の着物に着替えて階段の<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>へ、<ruby><rb>忍足</rb><rt>しのびあし</rt></ruby>をして出て見た。

空も、山も、湖水も、<ruby><rb>総</rb><rt>すべ</rt></ruby>て暗い、不確な灰色の中に漂っている。その<ruby><rb>輪廓</rb><rt>りんかく</rt></ruby>をはっきり見ようと、目に力を入れるのが、愉快である。女は<ruby><rb>榻</rb><rt>こしかけ</rt></ruby>に腰を掛けて薄明りの中を見詰めている。この静かな夏の朝の空気の中にひとりで<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>っているのが、なんとも云われない程好い心持ちである。体の<ruby><rb>周囲</rb><rt>しゅうい</rt></ruby>は如何にも平和で、柔かで、永遠なように思われる。この偉大なる沈黙の内に、<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>く一人でいるのが、如何にも愉快である。あの狭い、息の<ruby><rb>籠</rb><rt>こも</rt></ruby>ったような部屋から出ているのが、如何にも愉快である。こう思うと同時に、電光の<ruby><rb>如</rb><rt>ごと</rt></ruby>くある認識がこの女の<ruby><rb>頭</rb><rt>あたま</rt></ruby>の内にひらめいた。それは自分があの男の<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>を離れて、ここへ来て、一人でいるのが愉快なのだという認識であった。

## 十七

翌日女は朝から晩まで前晩の事を思っていた。暗い所で考えたように気味悪く思わない代りに、一層はっきりと、何かそれに<ruby><rb>本</rb><rt>もと</rt></ruby>づいて決断をしなくてはならないように思われた。そこでなるたけ男の色情が強く起らないように、気を付けようという決心が<ruby><rb>先</rb><rt>ま</rt></ruby>ず出来た。さてそう思って見ると、なぜ今まで久しい間、そこへ気が付かなかったかと、我れながら不思議な位である。しかしこれを実行するには、よほど優しく、よほど巧者にしなくてはならない。拒むように思われてはならない。むしろ今までの愛情より一層高尚な、一種の新しい愛情だと思われるようにしなくてはならないと思うのである。

しかしそれ程の<ruby><rb>工</rb><rt>たく</rt></ruby>みをしなくても済むようになった。なぜというに、その晩から<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>には、男の<ruby><rb>烈</rb><rt>はげ</rt></ruby>しい色情が、<ruby><rb>暴風</rb><rt>あらし</rt></ruby>の<ruby><rb>凪</rb><rt>な</rt></ruby>いだように鎮まったからである。男は女を、疲れを帯びた優しさで待遇した。女は最初それを<ruby><rb>嬉</rb><rt>うれ</rt></ruby>しく思って安心していたが、<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>になっては変だと感じた。男は昼の内は本ばかり見ている。しかし<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>で気を付けて見ると、どうも本当に読んでいるのではないらしい。たびたび目は本から<ruby><rb>余所</rb><rt>よそ</rt></ruby>へ<ruby><rb>逸</rb><rt>そ</rt></ruby>れて、遠い所を見詰めている。毎日の話しは平凡な事ばかりになった。しかし女は別に自分が疎外せられて、男の本当の考えを聞く事が出来なくなったのだとは感ぜずにいた。男の様子は<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>にも自然らしく、その<ruby><rb>中音</rb><rt>ちゅうおん</rt></ruby>で、毒にも薬にもならない事を言っているのが、やはり病気の直り掛かった人の、晴れやかな、落ち着いた心から出るらしく思われた。朝は女が明け切らない内に、一人で外へ出るようになったのに、男は長い間床に寝ていた。女は外へ出ると、階段に腰を掛けていたり、時々は湖水まで下りて舟に乗って、沖へ出ずに、岸辺で舟を波に揺らせていたりするのである。また森へ散歩に行く事もある。そんな風に<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>く外にいてから部屋に帰って男を起す事になっていた。男の長い間<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>く眠るのを、女は体のために<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いように思っていた。女は、男が夜中にたびたび目を覚して、好く眠っている女の顔を悲しげに見るのを、夢にも知らなかったのである。

ある朝の事、女はまた舟に乗っていた。朝日の<ruby><rb>黄金色</rb><rt>こがねいろ</rt></ruby>の火花が水の<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>にちらばっている。その時女はふいときょうだけ沖の方へ出て見たくなった。暫く<ruby><rb>漕</rb><rt>こ</rt></ruby>いでいる内に、手が慣れていないので、次第に骨が折れて来た。しかしそれを<ruby><rb>却</rb><rt>かえ</rt></ruby>って面白く思っていた。まだ<ruby><rb>夜</rb><rt>よ</rt></ruby>の明けたばかりであるのに、もう外にも舟で出ている人がある。中にはわざと女の舟に近く漕ぎ寄せて見て行くのもあった。中にも美しい小舟に乗った二人の男は、女の舟の側を<ruby><rb>摺</rb><rt>す</rt></ruby>れ違い<ruby><rb>様</rb><rt>さま</rt></ruby>に、帽を脱いで、<ruby><rb>微笑</rb><rt>ほほえ</rt></ruby>みながら丁寧に礼をした。

女は<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れて二人の顔を見て、なんとも思わずに、その舟の方を振り返って見た。その時男はまた礼をした。女は二度目に礼をせられた時、これは悪い事をしたと気が付いたので、弱い腕の力一ぱい漕いで、舟を家の方へ戻そうとした。岸に着くまでには、半時間も掛かって、髪は乱れ、顔は赤くなっていた。舟の着く前に、女はフェリックスが階段に出て腰を掛けているのを見付けた。それから舟を着けると、女は男の側へ<ruby><rb>駈</rb><rt>か</rt></ruby>け付けて、<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>から男の目隠しをして、「さあ<ruby><rb>誰</rb><rt>たれ</rt></ruby>だか当てて御覧なさい」と云った。

男は静かにその手を振り放して、女の顔を横から見た。「どうしたのだい。大変浮れているではないか。」

「あなたにお目に掛かったのが嬉しいのですわ。」

「大変赤い顔をしているじゃないか。」

「わたくし好い心持ちなのですもの。」

こう云って女は男の<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>の上に掛けている<ruby><rb>毛布</rb><rt>ケット</rt></ruby>を引き<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>けて、自分が男の膝に腰を掛けた。自分のちょっと<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>の悪いような気のしたのが<ruby><rb>忌々</rb><rt>いまいま</rt></ruby>しい。男の不機嫌なのが忌々しい。女はそんなような心持ちで男に<ruby><rb>接吻</rb><rt>せっぷん</rt></ruby>した。

「でもそんなにむやみに上機嫌なのは<ruby><rb>可笑</rb><rt>おか</rt></ruby>しいじゃないか」と、男が云った。

「それはわけがありますわ。わたくし嬉しいのですもの。」こう云ってちょっと言い<ruby><rb>淀</rb><rt>よど</rt></ruby>んで、跡を継ぎ足した。「あなたがお忘れになったのが。」

「なにを」と男は疑うような調子でいった。こうなると女は跡を言わずにはいられなくなった。「こわがる事をお忘れなすったのですもの。」

## 十八

「死の恐怖を忘れたというのかい。」

「そんな事をはっきり言うのはおよしなさいよ。」

「ふん。<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>が死の恐怖を忘れたというのだな。お前だって忘れたじゃないか。」こう<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>って、男は女の顔をじっと見た。女の心の底を探るような、ほとんど意地の悪い目付きで見たのである。女はなんにも云わずに両手で男の髪をいじりながら、額に<ruby><rb>接吻</rb><rt>せっぷん</rt></ruby>しようとして口を寄せた。その時男は顔を少し<ruby><rb>後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>へ引いて、それを<ruby><rb>避</rb><rt>よ</rt></ruby>けて、冷やかに、不遠慮に云った。「一体お前は己と運命を一つにすると、少くも一度は云った事があるのだから、己に死の恐怖が無くなれば、お前にも無くなるはずだなあ。」

「それはわたくしにも無くなるだろうと思いますの。」女は<ruby><rb>活溌</rb><rt>かっぱつ</rt></ruby>に、晴れやかな調子で云った。

男は<ruby><rb>真面目</rb><rt>まじめ</rt></ruby>にその<ruby><rb>詞</rb><rt>ことば</rt></ruby>を遮った。「ところがそうは行かないのだ。何も知れている事を隠しているには及ばない。死の恐怖は無くなりはしない。死が次第に近づいて来るのが、己には分かっている。」

「まあ。」女は目立たぬように男の<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>を離れて、<ruby><rb>欄</rb><rt>てすり</rt></ruby>にもたれた。

男は立ち上がって、あちこち歩き出した。「実際己には分かっている。それだからお前に一通り言って聞かせて置くのは、己の義務だろうと思うのだ。もし出し抜けに死んでしまうと、お前がびっくりするだろうからなあ。己の死ぬるまでの日数がもう四<ruby><rb>分</rb><rt>ぶ</rt></ruby>一は立っているぞ。なに。こう言って話すのが義務だなんぞというのも、やっぱり<ruby><rb>自</rb><rt>みずか</rt></ruby>ら欺くので、己が<ruby><rb>臆病</rb><rt>おくびょう</rt></ruby>からこんな事をいうのかも知れないよ。」

女は心配気に云った。「あなた、わたくしが黙って出て行ったものですから、おおこりになったのではなくって。」

男は急に答えた。「<ruby><rb>馬鹿</rb><rt>ばか</rt></ruby>言え。実はお前の晴々しているのを見るのは、己だって悪くはない。己もこれから晴々した気分になって、ある事件の熟して来る日を待つ積りだ。しかしお前の今のように浮れているのを見ると、正直を言えば、己は余り<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い心持ちはしないのだ。だからお前に相談をするのだが、いっその事近い内に別れてしまおうじゃないか。」

「あなた。」女は歩いている男の両腕をつかまえた。

男はそれを振り放した。「これから<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>な時が来るのだ。これまで己は面白い病人だった。少し色が<ruby><rb>蒼</rb><rt>あお</rt></ruby>くて、少し<ruby><rb>咳</rb><rt>せき</rt></ruby>をして、少し気がふさいでいる。そういうのは女に嫌われはしない。しかしこれからはな、違うぞ。段々己の病気の悪くなるのを見ていると、己という人間の記念が次第に傷つけられてしまうばかりだ。」

女はなんと返事をして好いか分らぬので、途方に暮れて男の顔を見ている。「己がこう云ったって、<ruby><rb>直</rb><rt>す</rt></ruby>ぐ置いて逃げるわけには行かないと、お前は思っているのだろう。なんだか冷淡なようで、今少し極端に言えば、卑劣なようにさえ見えるのだ。そこで己が言って聞かせるが、そんな遠慮は決していらない。お前が別れて行ってくれれば、己は<ruby><rb>為合</rb><rt>しあわ</rt></ruby>せだ。己の自信が傷つけられずに済むのだ。なぜというに、別れた跡で、お前が己の事を思い出す時に惜しんで泣いてくれる事が出来るようにして置きたいのだ。もしあべこべにお前がこの上己の<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>にいて、昼も夜も介抱して、どうせ死ななくてはならないものなら、早く死んでくれれば好いと思い続けて、とうとう己の死んだ時、ようようの事で助かったと思って別れてくれるのが、己は<ruby><rb>難有</rb><rt>ありがた</rt></ruby>くはないからなあ。」

女はなんと言って<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>かろうと思い悩んでいる。ようようの事で、「わたくしいつまでもあなたの側にいてよ」と云った。

男はそれを聞き流して云った。「もうそんな話しはよそう。これから八<ruby><rb>日</rb><rt>か</rt></ruby>程したらウィインへ帰らなくてはならない。色々整理して置きたい事があるからなあ。そこでいよいよこの家を引き払う日になったら、己はお前にさっきの問をもう一遍繰り返して見る積りだ。さっきの願いと云った方が好いかも知れない。」

「あの、わたくし。」

男は<ruby><rb>烈</rb><rt>はげ</rt></ruby>しく女の詞を遮った。「どうぞもう黙っていて<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>いたい。さっき云った時が来るまでは、何を言うのも無駄だからなあ。」こう云って、階段から立って部屋の方へ行き掛けた。女が跡に付いて<ruby><rb>行</rb><rt>ゆ</rt></ruby>きそうにすると、「どうぞちょいとの間己を一人で置いてくれ」と云った。その声は優しかった。

女は階段の<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>に残っていた。そして涙も何も出ない目で、きらきら光る湖水の<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>を見詰めた。男は<ruby><rb>寝間</rb><rt>ねま</rt></ruby>へ帰って、床の上へ横になって、長い間天井を<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>んでいた。それから唇を<ruby><rb>噛</rb><rt>か</rt></ruby>んで、両手を<ruby><rb>拳</rb><rt>こぶし</rt></ruby>に握った。この時その唇から、<ruby><rb>嘲</rb><rt>あざけ</rt></ruby>るような調子で、「忍耐、忍耐」という声が<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>れた。

## 十九

この<ruby><rb>頃</rb><rt>ころ</rt></ruby>からなんだかある邪魔物が二人の中に<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>ったような<ruby><rb>工合</rb><rt>ぐあい</rt></ruby>になった。それと同時に二人は絶えず、ほとんど神経質に、何事をか話し続けなくてはいられなくなった。二人は日常の事を<ruby><rb>詞数</rb><rt>ことばかず</rt></ruby>多く話し合った。どうも物を言い<ruby><rb>止</rb><rt>や</rt></ruby>めるのがこわいような気がするのである。あの山の上に棚引いている<ruby><rb>鼠色</rb><rt>ねずみいろ</rt></ruby>の雲はどこから出て来たのでしょう、あしたの天気はどんなでしょう、湖水の色が朝昼晩と変るのはなぜでしょうというような対話が、長く長く続くのである。散歩に出る時は、これまでのように、家の<ruby><rb>周囲</rb><rt>まわり</rt></ruby>の寂しい所ばかりを歩いていずに、海岸の人家のある方へ行く事になった。そうすると、色々な人の顔を見て、話しの種が出来るのである。そんな道で、向うから若い男が来ると、女はひどく<ruby><rb>慎</rb><rt>つつし</rt></ruby>み深い風をする。もし男が舟を<ruby><rb>漕</rb><rt>こ</rt></ruby>ぎに来た人や、山に登りに行く人を見て、その着物の批評なんぞをすると、女は実際その人を見たのに、つい見なかったと<ruby><rb>嘘</rb><rt>うそ</rt></ruby>を<ruby><rb>衝</rb><rt>つ</rt></ruby>いて、今度<ruby><rb>出逢</rb><rt>であ</rt></ruby>った時、わざわざ<ruby><rb>叮嚀</rb><rt>ていねい</rt></ruby>に見直す事がある。そんな時に男にちょっと顔を見られると、女はせつないような気がした。ある時は十五分間も並んで黙って歩いている事がある。それから内にいると階段に出て並んで<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>って、やはり黙っている事がある。そんな時は女が「新聞を読みましょうね」と言い出す。それが<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>にもわざとらしいのを、隠す事も出来ないのである。それから読んで聞かせている内に、男がもう聞いていない事がある。その時女は心の内で、それを知っていながら、知らない顔をして読み続けている。自分の声を聞いているのが、心持ちが<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い、二人の間に声のしているだけでも、ひっそりとしているよりは好いと思うのである。こんな風に互に心配をごまかしていようとしているが、それでもやはり男は男、女は女で、自分自分の思案に<ruby><rb>耽</rb><rt>ふけ</rt></ruby>っているのである。

## 二十

男はこないだ女に対して<ruby><rb>馬鹿</rb><rt>ばか</rt></ruby>らしい狂言をして見せたという事を、自分で認めずにはいられなかった。もし女にこれから先の苦労をさせまいという<ruby><rb>情願</rb><rt>じょうがん</rt></ruby>が本当なら、自分がそっと身を引いてしまうのが一番<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いはずである。どこか静かな土地を見付けて、そこで一人死ぬるのは、造作もない事ではないか、こんな事を平気で考えて見られるのが、我れながら不思議だと、男は思った。さてその身を引いて、一人で死のうという事を、どうして実行したら<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>かろうかと、考え出すと、そんな事のなかなか出来ないのが分って来た。それはある<ruby><rb>夜</rb><rt>よ</rt></ruby>眠らずに、その実行の<ruby><rb>為方</rb><rt>しかた</rt></ruby>を細かに考えて見た時の事である。<ruby><rb>先</rb><rt>ま</rt></ruby>ずあすの朝明けない内に、<ruby><rb>暇乞</rb><rt>いとまご</rt></ruby>いをせずに、ここを出て行って、寂しい所へ死ぬる日の来るのを待ちに行くとする。そして女をこの晴れやかな、面白い、我が物で無くなった人生の中に残して置くのである。そう思うと、そんな事は出来ない、いつまで立っても出来ないと、つくづく自分の<ruby><rb>腑甲斐</rb><rt>ふがい</rt></ruby>なさを感ぜずにはいられない。そんならどうしたら好かろう。その日は<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>でも来るに違いない。実際一日一日と迫って来ている。その日には女を残して置いて、自分はこの世を去ってしまわなくてはならない。今の自分の存在というものは、その日を待っているに過ぎない。実は死そのものよりも<ruby><rb>厭</rb><rt>いと</rt></ruby>うべき、<ruby><rb>苦悶</rb><rt>くもん</rt></ruby>の期間に過ぎない。どうも今になって見れば小さい時から、自分で自分を観察する癖を付けたのが悪かった。今の病気の種々な徴候も、この癖がなかったら、見逃すかも知れない。見逃さなくても、さ程に思わないかも知れない。こう思って、男は自分の昔知っていた、二三の人の事を思い出して見る。その人々は、自分が今煩っているのと同じ病気になって、次第に衰えて行ったのである。それでも死ぬる二三週間前まで、晴れやかに未来の事を考えていた。それが今では<ruby><rb>羨</rb><rt>うらや</rt></ruby>ましい。あの医者の所へ尋ねて行って、<ruby><rb>嘘</rb><rt>うそ</rt></ruby>の限りを尽して、とうとう本当の事を言わせてしまった。あの日は実に<ruby><rb>咀</rb><rt>のろ</rt></ruby>うべき日である。あんな事をしたので、自分は今咀われた人間のようになって、こうして寝ている。<ruby><rb>譬</rb><rt>たと</rt></ruby>えば、いつ首切役が来て、刑場へ引き出すかも知れない、宣告を受けた罪人のようになって寝ている。一体自分の存在は恐れても恐れ足りない程のものである。<ruby><rb>然</rb><rt>しか</rt></ruby>るにその恐怖の全体を、はっきり意識している時は少しもない。いつでも心のどこかの隅に、横着な、<ruby><rb>便佞</rb><rt>べんねい</rt></ruby>な希望が<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>に離れ去ってしまった事はない。しかし自分にはそれより強い理性がある。それが寝られない、長い夜や、暮れ<ruby><rb>易</rb><rt>やす</rt></ruby>い、単調な昼の間に、十遍も百遍も千遍も繰り返して、こういう事を自分に言って聞かせる。それは自分の<ruby><rb>逃道</rb><rt>にげみち</rt></ruby>、自分の活路はただ一つしかないという事である。それは一時間も、一秒間も待たずに、自分でこの世の<ruby><rb>暇</rb><rt>いとま</rt></ruby>を取る事である。それなら、病気で死ぬるのを待つより、少しは男らしいだろう。いよいよそうしようとさえ思えば、<ruby><rb>誰</rb><rt>たれ</rt></ruby>も待てといって束縛するもののないのが、ほとんど慰めのようにも思われる。しようとさえ思えば、<ruby><rb>何時</rb><rt>なんどき</rt></ruby>でもこの世の<ruby><rb>暇</rb><rt>いとま</rt></ruby>を取るに、<ruby><rb>差支</rb><rt>さしつかえ</rt></ruby>はないのである。

## 二十一

ところで女だ。昼間、自分と並んで歩いていたり、<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>に<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>って本を読んでいたりする時などに考えて見ると、この女と別れるのが、そうむつかしくもなさそうである。詰まりこの女も我が存在の一部分たるに過ぎない。この<ruby><rb>周囲</rb><rt>しゅうい</rt></ruby>の生活を<ruby><rb>棄</rb><rt>す</rt></ruby>てなくてはならないものとすれば、女もその一部分に過ぎないから、無論棄てなくてはならないと思う。しかし外の時、殊に夜になって若い女の美しい顔をして、目を堅く<ruby><rb>瞑</rb><rt>つぶ</rt></ruby>って、ぐっすり<ruby><rb>寐</rb><rt>ね</rt></ruby>ているのを見ると、女が際限もなく<ruby><rb>可哀</rb><rt>かわゆ</rt></ruby>い。女の眠りが穏かなだけ、現在を遠く離れているらしく見えるだけ、眠らずにいる自分の苦悩に関係がなくなっているだけ、男は女の<ruby><rb>可哀</rb><rt>かわゆ</rt></ruby>さが増すのである。とうとうある<ruby><rb>夜</rb><rt>よ</rt></ruby>の事、それは丁度あすはこの湖水の側を離れてしまおうと思い定めた晩の事であったが、男は<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>く寐ている女の顔を見て、自分の病苦に構わずに寝ているのを、<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>にも不人情なように感じて、一つ揺り起して、耳に口を寄せて、「お前が<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>を愛しているというのが本当なら、己と一しょに死ね、今<ruby><rb>直</rb><rt>す</rt></ruby>ぐ死ね」とどなって<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>りたく思った。しかしその場はそのままに寝かして置いた。そして事に<ruby><rb>依</rb><rt>よ</rt></ruby>ったら、あす言って聞かせようと思った。

男は知らなかったが、女はたびたび自分の寐顔を、男が見ているのを知っていた。男は知らなかったが、女はたびたび目を細目に明けて、<ruby><rb>寝間</rb><rt>ねま</rt></ruby>の薄明りの中に、男が床の上で半分起き上がって自分を見ているのを見ながら、こわさにその目を<ruby><rb>皆</rb><rt>みな</rt></ruby>明けずにいた。いつかの<ruby><rb>真面目</rb><rt>まじめ</rt></ruby>な談判の記念は長く女の心を去らずにいて、女はいつかあの問いを繰りかえされることだろうと、<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>えるようにこわがっていた。一体なぜそんなにこわいのだろう。男が何遍問うたところで、自分の答える<ruby><rb>詞</rb><rt>ことば</rt></ruby>は<ruby><rb>極</rb><rt>き</rt></ruby>まっているではないか。「あなたの<ruby><rb>生</rb><rt>いき</rt></ruby>ていらっしゃる最後の一秒まで、わたくしはお側を離れません。あなたの唇から<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>れる<ruby><rb>溜息</rb><rt>ためいき</rt></ruby>や、あなたの<ruby><rb>睫</rb><rt>まつげ</rt></ruby>から<ruby><rb>飜</rb><rt>こぼ</rt></ruby>れる涙を、わたくしの唇で受けて上げます。」こういうより外はない。一体男は自分を疑っているのであろうか。自分にこれより外の答えが出来ようか。その外の答えはどんな事だろう。例えばこんな答えが出来ようか。「あなたの<ruby><rb>仰</rb><rt>おっし</rt></ruby>ゃるのは<ruby><rb>御尤</rb><rt>ごもっとも</rt></ruby>なようですから、わたくしはお<ruby><rb>暇</rb><rt>いとま</rt></ruby>をいたしましょう。面白い、優しいところのある御病人の側にいたという、わたくしの記念だけをいつまでも持っている事にいたしましょう。その大事な記念を傷けないために、わたくしはあなたを一人置いて、お暇をいたします。」こんな事を言ったら、その跡はどうなるだろう。女はそれから先の事を<ruby><rb>細</rb><rt>こまか</rt></ruby>に想像して見ずにはいられなかった。多分男は冷やかに<ruby><rb>微笑</rb><rt>ほほえ</rt></ruby>んで、自分と握手をして、「<ruby><rb>難有</rb><rt>ありがと</rt></ruby>う」というだろう。そして男が脊中を向けるとき、自分は急いでその場を逃げるだろう。その日は目の<ruby><rb>醒</rb><rt>さ</rt></ruby>めるような喜びに輝いている夏の朝であろう。自分は成るたけ早く男の側から遠ざかろうと思って、<ruby><rb>黄金色</rb><rt>こがねいろ</rt></ruby>に輝いている朝の空気の中を、次第に遠く遠く<ruby><rb>馳</rb><rt>は</rt></ruby>せ去るのであろう。その時あらゆる<ruby><rb>縛</rb><rt>ばく</rt></ruby>が取れてしまって、自分は再び独立して、人を気の毒がる、<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>な心持ちが無くなるだろう。数箇月の長い間ひどく自分を苦めた、あの物を問うような、死に掛かった目が自分を見詰めているという感じが、<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>になくなってしまうだろう。自分の身は歓喜に返り、人生に返って、再び若々しくなるだろう。自分の走って行く跡から、夏の朝風が笑いながら自分の<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>を吹いているだろう。

## 二十二

こういう物狂わしい夢の影が、<ruby><rb>忽然</rb><rt>こつぜん</rt></ruby>消えてしまうと、女は今までより一層はかない身の上になったように思う。そしてそんな夢の影が、仮にも浮んで来たのを、切なく思うのである。

そして女は男が死ななくてはならないという事を自覚しているという事、絶望に陥っているという事を思うたびに、どんなにか同情の胸を痛めて、身ぶるいのするような心持ちになっただろう。男の死ななくてはならない日が、次第に近づいて来るのを覚えると共に、女の男を愛する情は、どんなにか深くなっただろう。そして女は自分の男に答えるはずの<ruby><rb>詞</rb><rt>ことば</rt></ruby>が別にあるように思って見る。病人の<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>にいつまでも付いていて一しょに苦んで<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>るというのは、どうもまだ物足りない。男の死を待っているのを見ていて、何箇月の間も男と一しょに死の恐怖を味わうというのもまだ物足りない。何かそれ以上の最善の事、最高の事をして遣る事は出来まいか。「あなたがお亡くなりになったら、わたくしはお墓の前で死にましょう」と<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>ったらどうだろう。そうしたら、男は自分を半信半疑して、墓の前で本当に死ぬか知らぬと思いながら死ぬるだろう。それよりは男と一しょに、いや、男に先立って死ぬるが<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>かろう。男がいつかの問いを繰り返した時自分は気をしっかり持っていてこう答えよう。「ねえ、あなた。お互にこんな苦みをいつまでもしていずに、早く切上げてしまおうではありませんか。御一しょに<ruby><rb>死</rb><rt>しに</rt></ruby>ましょうね。つい今<ruby><rb>直</rb><rt>す</rt></ruby>ぐに。」この詞を心の内で言って見て女は物に酔ったような心持ちになる。しかしそれと同時にその心の内には、別な夢の影が浮ぶ。それは優しい朝風に身を吹かれて、歓喜と人生とを向うに見て、野の上を走って逃げる影である。まあ、なんという卑劣な、みじめな事だろう。

二人が旅立とうと思った日の<ruby><rb>夜</rb><rt>よ</rt></ruby>が明けた。春が再び返って来たかと思われるほどの、珍らしく暖かい朝であった。マリイがもう階段の所へ出て<ruby><rb>朝食</rb><rt>あさしょく</rt></ruby>の用意をしてしまって待っていると、そこへフェリックスが部屋から出て来た。

「ひどく<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い天気だなあ」と男が深い息をして云った。

「本当ですわね。」

「ちょいとお前に言いたい事があるよ。」

「なんでしょう。」女はこう云って置いて、<ruby><rb>先潜</rb><rt>さきくぐ</rt></ruby>りをするように言い足した。「もっとここにいるのでしょう。」

「そうじゃない。しかしここから直ぐにウィインへは帰らない事にしようと思うのだ。<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>はきょうはよほど<ruby><rb>工合</rb><rt>ぐあい</rt></ruby>が好いから、ここを立って、どこか途中でまた滞留しようかというのだ。」

「ようございますとも。」女は<ruby><rb>近頃</rb><rt>ちかごろ</rt></ruby>にない好い心持ちで、こう答えた。もう一週間この<ruby><rb>方</rb><rt>かた</rt></ruby>、こんな風に心にわだかまりのない話し振をした事はなかった。

「まあ、己の考えでは、ザルツブルヒあたりに足を<ruby><rb>留</rb><rt>と</rt></ruby>めようかと思う。」

「ようございますとも。」

「そうしたって、ウィインへは随分早く帰られるのだ。それに己は汽車旅を一息に長く続けるのは嫌いなのだ。」

「それはお<ruby><rb>草臥</rb><rt>くたびれ</rt></ruby>なさいますわね。それにそんなに急がなくても<ruby><rb>宜</rb><rt>よろ</rt></ruby>しいのですから。」女は<ruby><rb>活溌</rb><rt>かっぱつ</rt></ruby>にこう云った。

「もう荷物は<ruby><rb>皆</rb><rt>みな</rt></ruby>しまっただろうね。」

「もうとっくに出来ていますわ。直ぐにでも立たれるようになっていますの。」

「そんなら馬車を雇って立つとしよう。ここから四時間か五時間で着くだろう。汽車に乗るよりか、その方がよっぽど好い。汽車の中にはきのうの暑さが残っているからなあ。」

「ではそうしましょうね。」

女は男に勧めていつもの牛乳を一杯飲ませた。それから湖水の波の波頭に、美しい、銀色の光の見えているのを、男に指さして示した。二人はひどく愉快らしく、色々の事を話した。女が何か言うと、男は無邪気に、優しく返事をした。

## 二十三

とうとう女がこれから馬車を<ruby><rb>誂</rb><rt>あつら</rt></ruby>えに、自分で行って来ようと言い出した。それに乗って正午に立ってザルツブルヒへ行こうというのである。男は笑いながら、そうして<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>おうと<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>った。女は大きな<ruby><rb>麦藁帽子</rb><rt>むぎわらぼうし</rt></ruby>を急いで<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>って、男に二三度キスをして置いて、往来へ<ruby><rb>駈</rb><rt>か</rt></ruby>け出した。

兼て女に問おうと思った事を、男はとうとう問わずにしまった。多分もう問わずに置くだろう。それは男の晴やかな額を見ても<ruby><rb>直</rb><rt>すぐ</rt></ruby>分る。いつもは優しい<ruby><rb>詞</rb><rt>ことば</rt></ruby>を掛けていても、その底に<ruby><rb>隙</rb><rt>すき</rt></ruby>を<ruby><rb>覗</rb><rt>うかが</rt></ruby>っているような、意地の悪い心持ちがあった。そして何か罪のない話しをしている<ruby><rb>間</rb><rt>あいだ</rt></ruby>に、突然わざと憎らしい事を一<ruby><rb>言</rb><rt>こと</rt></ruby>いうのであった。そういう時は、女はその一<ruby><rb>言</rb><rt>こと</rt></ruby>を聞かない内に、先へ悟っていた。きょうはその意地の悪い詞が出ないので、女は感謝しなくてはならないように思った。きょうの男の優しさには、<ruby><rb>和睦</rb><rt>わぼく</rt></ruby>するような、恩恵を施すような<ruby><rb>趣</rb><rt>おもむき</rt></ruby>があった。

女が階段の所へ帰って来て見ると、男は留守の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>に来た新聞を読んでいた。

「おい。不思議な事があるよ。」男はこう云って<ruby><rb>目食</rb><rt>めく</rt></ruby>ばせをして女を<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>へ呼んだ。

「なにが書いてありますの。」

「まあ、読んで見ろ。あの男が死んだのだ。あの大学教授のベルナルドだなあ。」

「どういう方でございますの。」

「それ、あの男さ。<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>に病気の事をひどくむずかしく言って聞せたあの男さ。」

「まあ、あのベルナルドという人が亡くなりましたの。」女は男の持って居る新聞を取って<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いて見た。「まあ、<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い気味だ事」と口まで出そうなのを、女は<ruby><rb>堪</rb><rt>こら</rt></ruby>えていた。

この出来事は、二人がためには、大層意味があるように思われた。ベルナルド教授は自分が飽くまで健康でいて、さも<ruby><rb>豪</rb><rt>えら</rt></ruby>そうに専門の知識を<ruby><rb>吹聴</rb><rt>ふいちょう</rt></ruby>して、見て貰いに行った男の希望を打ち破ってしまったのに、自分が<ruby><rb>却</rb><rt>かえっ</rt></ruby>て数日間に死ななくてはならなかったのである。今あの人が死んだという事を聞くと同時に、男はこれまで心の底でひどくあの教授を憎んでいた事を自覚した。そして自然にその<ruby><rb>復讐</rb><rt>ふくしゅう</rt></ruby>が出来たのを、自分の運命のために大層好い前兆ででもあるように感じた。言って見れば自分の身の<ruby><rb>周囲</rb><rt>まわり</rt></ruby>から、気味の悪い幽霊を<ruby><rb>逐</rb><rt>お</rt></ruby>い<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>けてしまったような心持ちである。

女は新聞をそこへほうり出して云った。「一体人間というものは、どんなに豪くったって、未来は分からないはずでございますわね。」

「そうだ。あすどうなるという事が分かるものじゃあないなあ。まるで分からないのだ。」男は<ruby><rb>心</rb><rt>しん</rt></ruby>から女に同意してこう云った。それから少し<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>を置いて、突然外の問題に移った。「車は云い付けたのかい。」

「ええ、十一時に来るようにそう云って置きましたの。」

「そんならまだちょっと舟でそこらを<ruby><rb>廻</rb><rt>まわ</rt></ruby>って見る<ruby><rb>隙</rb><rt>ひま</rt></ruby>位あるなあ。」

二人は手を引き合って、舟の<ruby><rb>繋</rb><rt>つな</rt></ruby>いである小屋の方へ歩いて行った。二人ともなんだか当然<ruby><rb>享</rb><rt>う</rt></ruby>けるはずの幸福を享けるような心持ちがしているのである。

ザルツブルヒに着いたのは午後遅くなってからであった。どの家を見ても旗が立ててあるので、二人は驚いた。町で出合う人が<ruby><rb>皆</rb><rt>みな</rt></ruby>晴着を着て、中には印の付いた帽子を<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>っている人もあった。宿屋へ着いて、ミョンヒスベルヒという岡の方の見える部屋を借りた。そこで聞けば、きょうこの町では大きい唱歌会の大会があるのであった。宿屋の主人は一枚の切符をくれた。これを持って今晩八時にクウルパルク公園に行くと、大層なイルミネエションがあって、そこで合奏をするのだという事であった。借りた部屋は二階で、窓の下をザルツァハの流れが通っている。二人ともここまで来る馬車の中で大ぶ眠ったので、好い心持ちになっている。そこで内には余り長くいずに日が暮れ掛かると、町へ出掛けた。

## 二十四

<ruby><rb>町中</rb><rt>まちじゅう</rt></ruby>なんとなく人の気が立っている。<ruby><rb>誰彼</rb><rt>たれかれ</rt></ruby>となく家の中に落ち着いてはいられないので往来へ出ているらしく思われる。その<ruby><rb>雑沓</rb><rt>ざっとう</rt></ruby>の間を、印の付いた服を着た唱歌会員が通っている。大ぶ<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>から来ているらしい人も見える。近所の村から来た田舎びた晴着を着た人も、町の人の間に<ruby><rb>交</rb><rt>まじ</rt></ruby>って押し合っている。家々の<ruby><rb>搏風</rb><rt>はぶ</rt></ruby>からは、市の<ruby><rb>定色</rb><rt>ていしょく</rt></ruby>に染めた旗がひらめいている。大通りには、花で飾った<ruby><rb>凱旋門</rb><rt>がいせんもん</rt></ruby>が出来ている。どの町に行って見ても大勢の人が、落ち着かないような様子をして歩いている。その上に<ruby><rb>匀</rb><rt>におい</rt></ruby>のある夏の夕の空気が、心地<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>く柔かに漂っている。

ザルツァハの岸の、心持ちの<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い、<ruby><rb>静</rb><rt>しずか</rt></ruby>な所から、二人は市中の<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎや</rt></ruby>かな所へ出た。これまで例の湖水の<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>で、ひっそりした生活をして来たので、この慣れない賑いに<ruby><rb>出逢</rb><rt>であ</rt></ruby>って、ほとんど<ruby><rb>茫然</rb><rt>ぼうぜん</rt></ruby>とするようであった。しかし<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>くすると、大都会に育った人の、世慣れた心持ちが出て来て、平気で<ruby><rb>周囲</rb><rt>しゅうい</rt></ruby>の<ruby><rb>刺戟</rb><rt>しげき</rt></ruby>を身に受けて見るようになった。一体男は大勢の騒いでいる事は好かないので、きょうも少し不快に思った。女はその反対で、<ruby><rb>直</rb><rt>す</rt></ruby>ぐに興に乗って来た。そして子供か何かのように、土地の異様な衣服を着た女を、立ち止まって見たり、<ruby><rb>襷</rb><rt>たすき</rt></ruby>を掛けた唱歌会員の、体格の好い男を、振り返って見たりしている。折々は<ruby><rb>項</rb><rt>うなじ</rt></ruby>を反せて、どの家かの美しい装飾を見ている。そして格別面白がらずに、並んで歩いている男に、「あれ、御覧なさいよ、<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>ではありませんか」などと<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>う。しかし男は黙って<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>くばかりである。

「丁度好い所へ来ましたわねえ。あなたそう思わなくって。」

こう云われたので、男は妙な目付きをして女の顔を見た。その目付きはどういう意味だか、ちょっと女に読めなかった。男は「大方お前は今夜<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>を公園へ合奏を聴きに引っ張って行きたいのだろう」と云った。

女は<ruby><rb>微笑</rb><rt>ほほえ</rt></ruby>んで答えた。「ここへ来て最初からそんなに<ruby><rb>吝</rb><rt>けち</rt></ruby>にしなくったって好うございましょう。」

「それではほんとにそんなところへ己を連れ出す積りかい。」男は女の<ruby><rb>微笑</rb><rt>ほほえみ</rt></ruby>が<ruby><rb>癪</rb><rt>しゃく</rt></ruby>に障ってこう云った。

「まあ、お<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>なら参ろうとは申しませんわ」と女は驚いて云ったが、その目は直ぐに横の方を通り掛った男女の連れを見ている。様子の好い、美しい、若い二人連れで、結婚旅行に出たのででもあるらしく笑い交して通り過ぎたのである。

フェリックスとマリイとは並んで歩いてはいるが、女は男の<ruby><rb>肘</rb><rt>ひじ</rt></ruby>に手を掛けてはいなかった。人込みになると、ちょっと押し隔てられて、また出逢うような事がある。<ruby><rb>兎角</rb><rt>とかく</rt></ruby>男は不愉快らしく、人家の壁に沿うて歩いていて、面白げに<ruby><rb>往来</rb><rt>ゆきき</rt></ruby>する<ruby><rb>人達</rb><rt>ひとたち</rt></ruby>に触れないようにしているので、<ruby><rb>猶更</rb><rt>なおさら</rt></ruby>押し隔てられ<ruby><rb>易</rb><rt>やす</rt></ruby>いのである。

その内段々暗くなった。街燈に火が<ruby><rb>点</rb><rt>つ</rt></ruby>いた。町の<ruby><rb>所々</rb><rt>ところどころ</rt></ruby>、殊に凱旋門のあるあたりには<ruby><rb>酸漿提灯</rb><rt>ほおずきぢょうちん</rt></ruby>が点けてある。歩いている人の多数は公園の方へ向いて<ruby><rb>行</rb><rt>ゆ</rt></ruby>く。合奏の時間が近づいて来るのである。暫くの間は二人とも大勢と同じ方向に、押されて歩いていたが、男は突然女の肘をつかまえて、狭い横町へ曲った。暫くそこを歩いていると、明りなんぞも多く点いていない、寂しい所へ出た。また数分間黙って歩いている内に、とうとうザルツァハ河の岸に出た。単調な水の音が下から聞えて来る。

「こんなところへ来て、どうなさるの」と女が問うた。

## 二十五

「まあ、黙っていないか」と、<ruby><rb>叱</rb><rt>しか</rt></ruby>るように男は<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>った。それから女の黙ってしまったのを見て、男は神経質な、いらいらする声をして云った。「<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>なんぞにはあんな所は向かないのだ。明りが沢山<ruby><rb>点</rb><rt>つ</rt></ruby>いていたり、面白そうに歌を歌っていたり、若い人間が笑っていたりするところは、己達の行く場所ではない。己達はこういう所にいなくてはならない。ここへなら人の喜んでどなる声なんぞは聞えない。ここなら寂しくしていられるのだ。己達はこんな所にいなくてはならないのだ。」これまでの<ruby><rb>詞</rb><rt>ことば</rt></ruby>を腹の立つのを我慢しているような調子で言って、それから冷かすような調子になって、「少くも己はそうだ」と言い足した。女はこの詞を聞いた時、自分が今までほど同情しなくなっているのに気が付いた。しかし女はこう思った。これは多分余りたびたび聞かせられているからだろう。それにあんまり誇張して言われるので、感動しないのだろうと思った。そして仲直りをしようとするような、優しい声で答えた。

「わたくしそんな事を言われるはずはありませんわ。」

「御免よ。」やはり<ruby><rb>嘲</rb><rt>あざけ</rt></ruby>るような調子である。

女は男の手に<ruby><rb>搦</rb><rt>から</rt></ruby>み付いて、ぴったり身を寄せて云った。「あなたもわたくしも、二人ともこんな所にいるのは<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>くありませんわ。」

「いやこんな所が<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いのだ。」叫ぶように云うのである。

「いいえ。わたくしだってあの人込みへ帰って行こうとは思いませんわ。あなたが<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>にお思いなさるように、わたくしも厭でございますの。ですけれど、何も人交わりの出来ないもののように、こんなにして逃げ<ruby><rb>廻</rb><rt>まわ</rt></ruby>らなくったって好うございますでしょう。」女の声は優しい。

こう云ったとたんに、風のない、澄んだ空気の内に合奏のオルケストラの響が伝わって来た。一音<ruby><rb>毎</rb><rt>ごと</rt></ruby>にはっきり聞き取られる位であった。多分<ruby><rb>今宵</rb><rt>こよい</rt></ruby>の祭りの<ruby><rb>序開</rb><rt>じょびら</rt></ruby>きの曲であろう。花やかな、晴がましい、<ruby><rb>金笛</rb><rt>きんてき</rt></ruby>の響のようであった。

<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>く立ち止まって聞いていた男が突然云った。「行こう行こう。音楽というものは遠くから聞いていると、悲しげになっていけない。」

「本当にメランコリイの<ruby><rb>音色</rb><rt>ねいろ</rt></ruby>がしますわ。」

二人は足を早めて<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎや</rt></ruby>かな方へ歩き出した。家の間へ<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>って見ると、河の岸で聞くよりは音楽の声が<ruby><rb>幽</rb><rt>かすか</rt></ruby>になっている。段々明りの沢山点いている、人通りの多い町へ出て来ると、女はまた昔のように男を<ruby><rb>可哀</rb><rt>かわゆ</rt></ruby>そうに思う同情を起して来た。男の心持ちが分って、さっき云った詞の毒々しさが忘れられたのである。

「内へ行きましょうか」と女が問うた。

「なぜだい。眠むたいのか。」

「なに。眠むたいものですか。」

「もっと外にいようじゃないか。」

「あなたが<ruby><rb>宜</rb><rt>よろ</rt></ruby>しければ、わたくしまだ外にいたくってよ。でもあんまり寒くなりはしないでしょうか。」

「なに。蒸々するようだ。暑いと云っても好い位だ。晩飯を外で<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>ろうじゃないか。」男は少し神経質な調子でこう云った。

「ではそうしましょうね。」

## 二十六

二人は公園近くに来た。楽人団が<ruby><rb>序開</rb><rt>じょびら</rt></ruby>きの音楽を奏してしまった所である。昼のように明るく、火の<ruby><rb>点</rb><rt>とも</rt></ruby>してある公園から、面白げに話しをしている大勢の声が聞える。後れて合奏を聞きに急いで行く人がちらほら通り過ぎる。その中に唱歌会員が二人、後れたものと見えて、あわただしくフェリックス、マリイの二人連と<ruby><rb>摺</rb><rt>す</rt></ruby>れ違って行った。マリイはこれを見送ったが、悪い事でもしたと思うらしく、<ruby><rb>直</rb><rt>すぐ</rt></ruby>にその目をフェリックスに移した。フェリックスは唇を<ruby><rb>噛</rb><rt>か</rt></ruby>んでいる。やっと我慢している怒りが額の<ruby><rb>皺</rb><rt>しわ</rt></ruby>に現われている。何か言うだろうと思って、女が待っていたが、何も言わない。そして今公園の入口に<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>って行く唱歌会員の二人を、さも憎げに見送っている。その心の内には自分の不愉快な感じを分析して見て、自分で理解しているのである。

摺れ違って行った二人は、フェリックスの最も憎んでいるものである。自分がこの世から消えて無くなった跡に、残っている物の一部分である。自分がもう笑いも泣きも出来なくなってしまった跡でまだ若々しく生きていて、笑う人間である。それから今、うっかり悪い事をしたと思って、後悔して、自分の<ruby><rb>肘</rb><rt>ひじ</rt></ruby>に力を入れて<ruby><rb>搦</rb><rt>から</rt></ruby>み付いている女も、やはり跡に残る物の一部分である。女も笑って生き残っている若々しさの仲間なので、その同類相求める心持ちが、知らず<ruby><rb>識</rb><rt>し</rt></ruby>らず発動して、さっきのように唱歌会員の二人を見送ったのである。男はそれが分かっているので、物狂わしくなるほど腹が立っている。

二人は長い間黙って歩いていた。それから男が大きい<ruby><rb>溜息</rb><rt>ためいき</rt></ruby>を<ruby><rb>衝</rb><rt>つ</rt></ruby>いた。それを聞いて、女が男の顔を見ようとすると、男は顔を<ruby><rb>反</rb><rt>そむ</rt></ruby>けた。そして突然云った。「ここが<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いじゃないか。」

女はなんの事だかちょっと分からなかった。

「ええ。」

二人は庭に<ruby><rb>卓</rb><rt>つくえ</rt></ruby>や<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>を並べた料理屋の前に立っていた。公園の直ぐ<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>で、高い木立が白い<ruby><rb>布</rb><rt>きれ</rt></ruby>を掛けた卓の上に枝を<ruby><rb>拡</rb><rt>ひろ</rt></ruby>げている。<ruby><rb>所々</rb><rt>ところどころ</rt></ruby>に明りが<ruby><rb>点</rb><rt>つ</rt></ruby>いているが、その数が少いので、あたりは薄暗い。客は余り無い。そこでどこへでも勝手な所へ席を取る事が出来るので、男は好いじゃないかと云ったのである。

二人はこの庭の片隅に席を取った。庭中に二十人ばかりも客がいるだろう。直ぐ側の卓には、さっき一度<ruby><rb>出逢</rb><rt>であ</rt></ruby>った、気の利いた風をしている、若い男女の二人連れが掛けていた。マリイは直ぐにさっきの人だなと思った。

丁度公園で唱歌会員の合唱が始まった。少し<ruby><rb>微</rb><rt>かす</rt></ruby>かではあるが、善く調子の合った歌が聞える。面白げに歌っている声が<ruby><rb>掠</rb><rt>かす</rt></ruby>めて通るので、木立の葉がゆらぐような心持ちがする。

フェリックスは上等のライン産の<ruby><rb>葡萄酒</rb><rt>ぶどうしゅ</rt></ruby>を<ruby><rb>註文</rb><rt>ちゅうもん</rt></ruby>した。そして一口含んでは、目を半分<ruby><rb>瞑</rb><rt>ねむ</rt></ruby>って、音楽に耳を傾けている。しかしどこで奏している音楽だという事さえ考えずに、ただ聴いているのである。

マリイは男の側へぴったり寄った。女の<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>の障っているところだけ、肌の<ruby><rb>温</rb><rt>あたた</rt></ruby>まりが男に感ぜられる。男はさっきひどく腹を立てたので、その反動が来て、何事にも冷淡になって、大体好い心持ちがしている。そして<ruby><rb>誰</rb><rt>たれ</rt></ruby>の力も借らずに、自分の心持ちを、こんなに冷淡になるように落ち着かせたと思って、それを喜んでいる。実際男はここへ腰を掛ける時、どうしてもこの苦痛を押え付けてしまわなくてはならないと、堅く決心したのであった。そしてそういう結果になったのが、どれだけ自分の意志の作用であるかという事を、細かに研究して見る程の精力はもうなかった。さて落ち着いて見るといろんな事が思われて来た。さっき女が<ruby><rb>余所</rb><rt>よそ</rt></ruby>の男を見た目付を、ひどく憎らしく思ったのは、どうも少し無理であったかも知れない。外の人が通ったって、やはりあんな風にして見たのではあるまいか。現に今隣に<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>っている二人を見る、マリイの目付も、さっきの唱歌会員を見た<ruby><rb>目附</rb><rt>めつき</rt></ruby>と、余り違ってはいないようだと思うのである。

## 二十七

<ruby><rb>葡萄酒</rb><rt>ぶどうしゅ</rt></ruby>は<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>かった。音楽は人に<ruby><rb>媚</rb><rt>こ</rt></ruby>びるように聞えて来る。夏の<ruby><rb>夜</rb><rt>よ</rt></ruby>の人を酔わせるような<ruby><rb>微温</rb><rt>ぬる</rt></ruby>みがある。男はちょいと女の目を見た。その目の中には無限の愛情と好意とが輝いていた。そこで男は精一ぱい心を今の一<ruby><rb>刹那</rb><rt>せつな</rt></ruby>に集中しようと思った。過去をも未来をも、少しも思うまいと男は意志に最後の<ruby><rb>鞭撻</rb><rt>べんたつ</rt></ruby>を加えた。<ruby><rb>兎</rb><rt>と</rt></ruby>に<ruby><rb>角</rb><rt>かく</rt></ruby>今だけでも幸福を感じていたい。少くも苦痛をぼかしていたい。

その時<ruby><rb>忽然</rb><rt>こつぜん</rt></ruby>と、少しも予期しないのに、解脱したような、一種の新しい感じが出て来た。それは今自殺してしまえば、わけはないという感じであった。<ruby><rb>直</rb><rt>す</rt></ruby>ぐに<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>ればなんでもない。今遣らないところで、いつでもこの感じを起して自殺すれば、わけはないと思ったのである。音楽は聞える。ほろ<ruby><rb>酔</rb><rt>え</rt></ruby>い機嫌になっている。<ruby><rb>可哀</rb><rt>かわゆ</rt></ruby>らしい娘が<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>にいる。こういう時に遣るのだなあ。女はマリイだっけ。しかしマリイでなくったって外の女でも<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いわけだと考えた。

女も<ruby><rb>旨</rb><rt>うま</rt></ruby>げに酒を<ruby><rb>啜</rb><rt>すす</rt></ruby>っている。男は今一本と<ruby><rb>註文</rb><rt>ちゅうもん</rt></ruby>した。<ruby><rb>近頃</rb><rt>ちかごろ</rt></ruby>にない好い心持である。自分でもよくよく思って見れば、こんな感じのするのは、常より少し余計に酒を飲んでいるからかも知れない。しかしそうだって構わないのだ。兎に角そんな心持ちになられるのが<ruby><rb>難有</rb><rt>ありがた</rt></ruby>い。この感じのしている<ruby><rb>間</rb><rt>あいだ</rt></ruby>は、「死」なんというものはこわくもなんともない。どうでも好いのだ。「なあ、マリイ」と男はふと<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>った。

女は体をぴったり寄せた。「なんですって。」

「何がどうなっても構わないじゃないか。」

「ええ。構いませんとも。ただわたくしがあなたの事をいつまでも大事に思っているという事だけは、変りっこなしでございますの。」

女が<ruby><rb>真面目</rb><rt>まじめ</rt></ruby>で、この<ruby><rb>誓言</rb><rt>せいごん</rt></ruby>めいた事を言うのが、男には異様に感ぜられた。今の刹那の心持ちでは、男のためには、女は<ruby><rb>誰</rb><rt>たれ</rt></ruby>でも好いのである。このマリイという女も、自分を取り巻いている万有と、解けて流れて、一しょになってしまうのである。これは面白い。なんでも世の中をこんな風に観察しなくてはいけない。待てよ。これは酒のために浮かぶ幻影だけではないぞ。ただ酒がある物を<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>の心から奪い去ったのだ。そのある物が平生己を<ruby><rb>臆病</rb><rt>おくびょう</rt></ruby>に、おっくうにしているのだ。人間や事物をひどく<ruby><rb>勿体</rb><rt>もったい</rt></ruby>らしく見せているのだ。こういう時に白い粉薬を、少し<ruby><rb>許</rb><rt>ばか</rt></ruby>りコップの中へ<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>き込んでしまえば好い。まあなんという造作もない事だろう。こう思うと同時に、なぜだか目の中に涙が<ruby><rb>涌</rb><rt>わ</rt></ruby>いて来た。自分で自分を気の毒に感じたのである。

今唱歌が済んだ。手を叩く音、褒める声が聞える。それからがやがやと、話声がする。その内楽人団がまた奏楽を始めた。今度は晴々とした心持ちのポロネエズの曲である。男は指先で<ruby><rb>卓</rb><rt>つくえ</rt></ruby>を叩いて拍子を取った。この時一つの考えが頭をかすめて過ぎた。それは「もう少しばかりの命だ、面白く暮されるだけ暮して見よう」という考えであった。しかしこの考えには少しも気味の悪いような分子は含んでいない。むしろ人に<ruby><rb>傲</rb><rt>おご</rt></ruby>るような、君主的なような分子を含んでいる。なんだ。息を引き取るという事は、人間と生れた以上は誰も免れない事ではないか。何もそれをびくびくして待っているには及ばないじゃないか。一体自分はまだ体が衰えていないで、どんな快楽をも受ける事が出来る。音楽を聴いて面白がる事も出来る。酒を飲めば<ruby><rb>旨</rb><rt>うま</rt></ruby>い。<ruby><rb>可哀</rb><rt>かわゆ</rt></ruby>らしい娘を見れば<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>の上に<ruby><rb>抱</rb><rt>だい</rt></ruby>てキスをして遣りたくなる。これ程の力を体の内に持っていながら、何も夜昼下らない事を考えて気持ちを悪くしている事はないじゃないか。なんだ。今から機嫌を悪くしているのは<ruby><rb>太早計</rb><rt>たいそうけい</rt></ruby>だ。そんな面白味や<ruby><rb>情慾</rb><rt>じょうよく</rt></ruby>が、いつかは無くなってしまうだろう。その時自由意志で、決然として実行すれば好いのだ。そうすれば君主的な行いだ。<ruby><rb>意張</rb><rt>いば</rt></ruby>って出来る行いだ。こんな事を思いながら、男は女の手を取って、それを長い間握っていた。そしてその手の上に、ゆるやかに息を<ruby><rb>嘘</rb><rt>ふ</rt></ruby>き掛けていた。

「あら」と女は満足したらしい様子で<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>いた。

## 二十八

男は女の顔をじっと見た。そして大層美しいと思った。そして「行こう」と<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>った。

「も一つ歌が済むまでいようじゃありませんか」と女は無邪気に促した。

「<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いとも」と男は云った。「だが内へ帰って窓を明けて置けば、<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>の歌は風が持って来て聞かせてくれるぜ。」

「あなたもうお<ruby><rb>草臥</rb><rt>くたびれ</rt></ruby>なすって」という女の声は、心配しているらしかった。

「そうさ。ひどく草臥ている。」男は笑いながらこう云って、<ruby><rb>笑談</rb><rt>じょうだん</rt></ruby>らしく女の髪を<ruby><rb>撫</rb><rt>な</rt></ruby>でた。

「そんなら参りましょうね。」

二人は立ち上がって、料理屋の庭を出た。女は男の<ruby><rb>肘</rb><rt>ひじ</rt></ruby>に手を掛けて、手に力を入れて、<ruby><rb>片頬</rb><rt>かたほ</rt></ruby>を男の肩に押し付けた。歌い始めた次の歌が、次第に遠くなりながら、帰って行く二人に付いて来る。ワルツの拍子で、晴やかに、最後に繰り返して一しょに歌う文句が元気<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>く聞えるので、二人は覚えず<ruby><rb>活溌</rb><rt>かっぱつ</rt></ruby>な歩調になった。宿屋までは、数分間しか掛からない。<ruby><rb>梯子段</rb><rt>はしごだん</rt></ruby>を昇る時は、歌が聞えなかった。しかし部屋に<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>ると、さっきのワルツの節がまた元気好く聞えて来る。

部屋の窓は<ruby><rb>皆</rb><rt>みな</rt></ruby>明け放ってあった。月の光が青い色の、柔かい波を打たせて這入っている。丁度向いの所にミョンヒスベルヒ<ruby><rb>山</rb><rt>やま</rt></ruby>と、その<ruby><rb>巓</rb><rt>いただき</rt></ruby>にある城とが、はっきりした<ruby><rb>輪廓</rb><rt>りんかく</rt></ruby>をなして、<ruby><rb>空</rb><rt>そら</rt></ruby>にえがかれている。明りなぞを<ruby><rb>点</rb><rt>つ</rt></ruby>けるには及ばない。部屋の<ruby><rb>床</rb><rt>ゆか</rt></ruby>の上には、銀色の月の光が、幅の広い帯のようにさし込んでいる。ただ部屋の隅々だけが暗いのである。一つの窓の<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>に<ruby><rb>腕附</rb><rt>うでつき</rt></ruby>の<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>が置いてある。男はそれに身を投げ掛けて、女を力強く引き寄せた。そしてキスをすると、女もキスをし返した。丁度公園では歌が<ruby><rb>停</rb><rt>や</rt></ruby>んだところであったが、聴衆がひどく<ruby><rb>喝采</rb><rt>かっさい</rt></ruby>して<ruby><rb>止</rb><rt>や</rt></ruby>まないので、同じ歌がまた始めから繰り返された。

突然女が立ち上がって、窓の方へ走って行った。男は跡から追い掛けた。

「どうしたのだ。」

「よしましょうね。」

「なぜ。」男は足踏みをした。

「だってあなた。」女はあやまるように手を組み合せた。

「よすのだって。そんなら<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>におとなしくしていて、死ぬる日を待てというのか。」歯を<ruby><rb>喰</rb><rt>く</rt></ruby>いしばって、その間から押し出すような物の言い振である。

「だってあなた。」女は男の前に<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>を突いて、男の膝を両手で<ruby><rb>抱</rb><rt>だ</rt></ruby>いた。

男は女を引き上げた。「お前は分からないのだ」と云って置いて、耳に口を寄せて<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>いた。「己はお前が<ruby><rb>可哀</rb><rt>かわゆ</rt></ruby>いのだぞ。もう長くは生きていられないのだから、何も余計な遠慮をしなくっても好いじゃないか。己はもう心配をしながら一年も生きていようとは思わない。それよりは二三週間でも、二三日でも、一<ruby><rb>夜</rb><rt>よ</rt></ruby>でも二<ruby><rb>夜</rb><rt>よ</rt></ruby>でも好い。己は生活が味いたい。したいと思う事がしたい。そしてその挙句で、お前が不承知でないなら、一しょにあそこへ」男は片手で女を抱えて、片手で窓から下を指さした。そこには河が流れている。唱歌会の歌はもう止んで、河の水音が二階まで静かに聞えている。

女は返事をしなかった。しかし両手で男の<ruby><rb>頸</rb><rt>くび</rt></ruby>に<ruby><rb>搦</rb><rt>から</rt></ruby>み付いた。男は女の髪の<ruby><rb>香</rb><rt>か</rt></ruby>を吸い込んだ。どんなにか男は女を愛しているだろう。もう二三日でも好いから幸福を<ruby><rb>享</rb><rt>う</rt></ruby>けたい。そしてその上でどうともなりたい。

<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>が静かになった。女は側で寝ている。合奏はとっくに済んでいる。公園から後れて帰る<ruby><rb>人達</rb><rt>ひとたち</rt></ruby>が、声高に話しながら窓の下を通っている。今卑しい<ruby><rb>高声</rb><rt>たかごえ</rt></ruby>をして歩いている人達が、さっき好い声で歌って、人を感動させたのと、同じ人達かと思うと、不思議だと男は考えた。話声は次第に遠くなって、跡には訴えるような水音ばかりが聞えている。

## 二十九

もう二三日で、もう一晩か二晩で<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い。それでおしまいにするのだ。しかし女はまだ生きていたいのだ。思い切ってくれるだろうか。なに、何も思い切ってくれなくても好い。何も知らずにいても好い。ただその時は、<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>に<ruby><rb>抱</rb><rt>だ</rt></ruby>かれて、今のように<ruby><rb>寐入</rb><rt>ねい</rt></ruby>って、それからもう<ruby><rb>醒</rb><rt>さ</rt></ruby>めないばかりだ。そしてそれをたしかめた上で、自分が<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>るのだ。あんなに生きていたがるものに、何も<ruby><rb>前以</rb><rt>まえもっ</rt></ruby>て知らせるには及ばない。もし余計な事を知らせたら、己をこわがり出すだろう。そうなると己一人で死ななくてはならない。それは<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>にもつらいのだ。事に<ruby><rb>依</rb><rt>よ</rt></ruby>ったら今<ruby><rb>直</rb><rt>すぐ</rt></ruby>に実行しようか知ら。あんなに<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>く寐ているのだ。この手に力を入れて、あの<ruby><rb>頸</rb><rt>くび</rt></ruby>をうんと抑えれば済むのだ。しかしそれは<ruby><rb>馬鹿</rb><rt>ばか</rt></ruby>げている。まだ愉快に暮せる時間が幾らか残っているじゃないか。いつ最後の時が打つという事が、己には分かるに違いない。こう思って男は女の顔を眺めていた。そしてその心持ちは生殺の自由になる女の奴隷を<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>き<ruby><rb>抱</rb><rt>いだ</rt></ruby>いているようであった。

フェリックスは決心が付いたので、安心した。当分の<ruby><rb>間</rb><rt>あいだ</rt></ruby>は、マリイと町を散歩していて、<ruby><rb>余所</rb><rt>よそ</rt></ruby>の男の目が、マリイに注がれているのに気が付くと、<ruby><rb>嘲</rb><rt>あざけ</rt></ruby>るような<ruby><rb>微笑</rb><rt>ほほえみ</rt></ruby>がフェリックスの唇の上に漂った。馬車に乗って一しょに散歩している時や、夜一しょに横になっている時、男はこれまでになく、この女を我が物にしているという、自慢したいような心持ちになった。ただ一つ気に掛かるのは、一しょに死ぬるにしても、女は自由意志で死ぬるのでないという事であった。しかしそれもいつかはこっちの思い通りになるらしい徴候が見えているように思った。男の愛情が<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>に猛烈に発現しても、女は拒む事を<ruby><rb>敢</rb><rt>あえ</rt></ruby>てしない。この<ruby><rb>頃</rb><rt>ごろ</rt></ruby>の夜のように、女が控え目でなく自由になっていた事は、これまでない。この様子では、「さあ、きょう一しょに死ぬるのだぞ」という事が、近い内に出来そうである。しかしそれを言い出す事を、男は一日一日と延ばしている。どうかすると夢のように、こんな光景が目に浮ぶ。自分が短刀を手に持って、女の胸を刺していると、女は最後の呼吸をしながら、自分の手にキスをしてくれるのである。折々もう言い出しても好い頃だろうと思っては、また疑念を起すのである。

ある朝女が目を覚して見ると、男が<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>にいないので、ひどく驚いた。起き上がって見ると、男は窓の側の<ruby><rb>腕附</rb><rt>うでつき</rt></ruby>の<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>に腰を掛けている。顔は<ruby><rb>真</rb><rt>ま</rt></ruby>っ<ruby><rb>蒼</rb><rt>さお</rt></ruby>で、頭をうなだれて胸のところのシャツを明けている。女は<ruby><rb>堪</rb><rt>こら</rt></ruby>えられない程心配になって、飛び起きて、男の側へ行った。「あなたどうなすったの。」

「なんだ。」男は目を<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>いた。そして手で胸を抑えて、うめいた。

「なぜわたくしをお起しなさらなかったの。」

女はこう<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>って手を組み合せた。

「なに、もう好くなったのだ」と男は云った。女は急いで<ruby><rb>寝台</rb><rt>ねだい</rt></ruby>の所へ行って、掛布団を卸して、それを男の<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>の上に掛けて<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>った。「どうしてあなたここへいらっしゃったの。」

「なんだか己にも分らない。大方夢を見たのだろうよ。なんだか頸を締め付けられたようで、息が出来なくなっていたのだ。お前の事なんぞはまるで考えなかった。それからこの窓の所へ来ていたら、好くなったのだ。」

## 三十

女は急いで着物を着て、窓を締めた。外には<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>な風が吹き出していて、見ているうちに空が灰色になって、細かい雨が降って来て、厭にしめっぽい空気を吹き込んで来たからである。夏の<ruby><rb>夜</rb><rt>よ</rt></ruby>の快さが、<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち消え<ruby><rb>失</rb><rt>う</rt></ruby>せて、灰色の、物悲しい景色になった。夜の明方になって、急に秋が来て、美しい幻の影を破ってしまったのである。

男は落ち着いている。「なぜお前そんな心配げな<ruby><rb>目附</rb><rt>めつき</rt></ruby>をしているのだい。なんでもないじゃないか。丈夫な時だって、夢に<ruby><rb>魘</rb><rt>おそ</rt></ruby>われて飛び起きる事はあるからなあ。」

女は中々安心しない。「ねえ、あなた、御一しょにウィインへ帰ろうではありませんか。」

「だがなあ。」

「どうせもう夏はおしまいになったのですもの。あの外の様子を御覧なさい。<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>にも寂れて、悲しげになっているではありませんか。それに寒くなると、お体のためにも悪いでしょう。」

男は黙って聞いている。そして丁度<ruby><rb>草臥</rb><rt>くたびれ</rt></ruby>た回復期の患者のように、一種の<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い心持ちのしているのを、自分ながら不思議に思っている。呼吸は楽である。自分を包囲している、一種の疲れた空気が、眠りを催すような甘味を感ぜさせる。しかしこの土地を立つのが<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>かろうという事だけは、自分にも分っている。居所の変るのは、なんとなく愉快なようにも思われる。冷たい雨の降っている日に、汽車の中に寝転んで、<ruby><rb>頭</rb><rt>あたま</rt></ruby>を女の胸に寄せ掛けているのは、好い心持ちだろうと想像して見る。「好いや。立つ事にしよう。」

「きょうでも好いでしょうか。」

「好いとも。お前の都合が好いなら、正午の急行で立っても好い。」

「お疲れが出はしますまいか。」

「なんの詰まらない。草臥る程の旅ではないじゃないか。それにお前が万事<ruby><rb>旨</rb><rt>うま</rt></ruby>く世話をしてくれるだろうから。」

思いの外<ruby><rb>容易</rb><rt>たやす</rt></ruby>く、男が立とうというので、女は喜んだ。<ruby><rb>直</rb><rt>す</rt></ruby>ぐに荷物を片付ける。宿屋の勘定をする。馬車を呼びに<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>る。電話で<ruby><rb>停車場</rb><rt>ていしゃば</rt></ruby>へ言って遣って、借切りの<ruby><rb>室</rb><rt>しつ</rt></ruby>を取る。その内男も着物を着替えたが、部屋より<ruby><rb>外</rb><rt>そと</rt></ruby>へは出ないで、<ruby><rb>午</rb><rt>ひる</rt></ruby>になるまで<ruby><rb>長椅子</rb><rt>ながいす</rt></ruby>の上に寝転んで、折々<ruby><rb>微笑</rb><rt>ほほえ</rt></ruby>んだ。その<ruby><rb>間々</rb><rt>あいだあいだ</rt></ruby>にはうとうとしていた。そんな風に半分眠ったようになって、折々女の方を見ては、心の内に<ruby><rb>嬉</rb><rt>うれ</rt></ruby>しく思った。この女はいつまでも<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>に付いているのだ。それから死ぬる時も一しょに死ぬるのだと思って見るのである。「もう近い内だ。」声に出さずにこうつぶやいたが、心の底にはそんなに早く死ぬるようには思わなかった。

その日の午後には、午前に想像したように、男は汽車の中で、楽に横になって頭を女の胸にもたせて、足の上にはショオルを<ruby><rb>拡</rb><rt>ひろ</rt></ruby>げて掛けていた。<ruby><rb>鎖</rb><rt>とざ</rt></ruby>してある汽車の窓から外を見れば、空は<ruby><rb>鼠色</rb><rt>ねずみいろ</rt></ruby>で、細かい雨が降っている。立ち<ruby><rb>籠</rb><rt>こ</rt></ruby>めている霧の中を見込むと、時々<ruby><rb>岡</rb><rt>おか</rt></ruby>や村が近い所に見える。電信柱が<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>へ走って<ruby><rb>行</rb><rt>ゆ</rt></ruby>く。電線が高くなったり低くなったり、<ruby><rb>跳</rb><rt>おど</rt></ruby>るようにして跡へ消えて<ruby><rb>行</rb><rt>ゆ</rt></ruby>く。折々停車場で列車が留まるが、寝ているのでプラットフォオムに立っている人は見えない。人の足音や話声や、<ruby><rb>鐸</rb><rt>すず</rt></ruby>の<ruby><rb>音</rb><rt>おと</rt></ruby>や、相図の笛が聞えるだけである。最初は女に新聞を読ませて聞いたが、声が<ruby><rb>嗄</rb><rt>か</rt></ruby>れて来たので<ruby><rb>止</rb><rt>や</rt></ruby>めさせた。二人とも都の住いへ帰るのが嬉しかった。

## 三十一

晩になった。雨は相変らず降っている。男は考えを<ruby><rb>極</rb><rt>き</rt></ruby>めようと思って見たが、どうも<ruby><rb>輪廓</rb><rt>りんかく</rt></ruby>がぼやけて来て、思想が<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>まらない。<ruby><rb>兎</rb><rt>と</rt></ruby>に<ruby><rb>角</rb><rt>かく</rt></ruby>こんな事を考えた。ここに大病になった人間が寝ている。そいつは夏の間山地にいるのが<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いというので、そこへ行っていたのだ。その<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>に女がいる。女は長い間誠実に看病をしてくれた。しかし今はもう<ruby><rb>倦</rb><rt>う</rt></ruby>んでいる。大層女の顔が<ruby><rb>蒼</rb><rt>あお</rt></ruby>く見える。しかしこれは明りのせいかも知れない。そうだ。もう明りが<ruby><rb>点</rb><rt>つ</rt></ruby>いている。外は真っ暗だ。もう秋だな。秋というものは静かに物悲しいものだ。今夜はいつもの住いの部屋へ帰るのだ。あの部屋に<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>って見たら、元のようで、一<ruby><rb>旦</rb><rt>たん</rt></ruby>そこを出て山になんぞ<ruby><rb>行</rb><rt>いっ</rt></ruby>ていなかったのも同じであろう。女は眠っているな。こんな時は眠っていて、物を言ってくれない方が好い。あの唱歌会の<ruby><rb>連中</rb><rt>れんじゅう</rt></ruby>がこの汽車に乗っているだろうか。<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>は<ruby><rb>草臥</rb><rt>くたび</rt></ruby>れてはいるが、病気なようではない。この列車には己よりひどい病気になっているものが幾らもいるだろう。ああ。ひっそりして好いなあ。一体きょう一日はどうして暮しただろうか。あのザルツブルヒの宿屋の<ruby><rb>長椅子</rb><rt>ながいす</rt></ruby>に寝ていたのはきょうだっけな。あれからはもう大分時が立っているようだ。時間と空間が。一体分らないものだ。世界の<ruby><rb>謎</rb><rt>なぞ</rt></ruby>か。そんなものも、死んで見たら解釈が付くかも知れない。なんだか耳に旋律が聞えて来た。あれは進行している列車の音だ。そのくせそれが旋律のようでならない。どこかの民謡だな。ロシアのだろうか。単調で、しかも好い感じだな。

「もしあなた。」

「なんだい。」男は自分の前に来て、立っていて、<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>を<ruby><rb>撫</rb><rt>な</rt></ruby>でてくれる女を見た。

「<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>くお休みになって。」

「なにを言いに来たのだい。」

「もう十五分で着きますよ。」

「<ruby><rb>嘘</rb><rt>うそ</rt></ruby>のようだなあ。」

「まあ大層好くお休みになったようね。きっとお体のために好いのだわ。」

女は荷物を纏めている。列車は相変らず<ruby><rb>闇</rb><rt>やみ</rt></ruby>を<ruby><rb>穿</rb><rt>うが</rt></ruby>って走っている。二三分<ruby><rb>毎</rb><rt>ごと</rt></ruby>に汽笛の<ruby><rb>音</rb><rt>おと</rt></ruby>が聞える。窓<ruby><rb>硝子</rb><rt>がらす</rt></ruby>を通して、ぱっと明るくなって、<ruby><rb>直</rb><rt>すぐ</rt></ruby>また消える火の光が見える。列車が都近くの<ruby><rb>停車場</rb><rt>ていしゃじょう</rt></ruby>を通過するのである。

男は起き直って、「あんまり長く横になっていたものだから、<ruby><rb>却</rb><rt>かえっ</rt></ruby>て<ruby><rb>草臥</rb><rt>くたびれ</rt></ruby>た」と<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>って、腰掛の隅に<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>って、窓の外を見ている。もう遥か向うに明りの点いたウィインの町が見える。列車は速度をゆるめている。女は窓を開けて、体を<ruby><rb>前屈</rb><rt>まえかが</rt></ruby>みにして外を見ている。車がホオルに這入った。女は手招きをした。そして男の方へ向いて、「来ていらっしゃいますわ」と云った。

「<ruby><rb>誰</rb><rt>たれ</rt></ruby>が。」

「アルフレットさんですわ。」

「そうか。」

女はまた手招きをした。男は立ち上がって、女の肩越しに、プラットフォオムを見た。なるほど<ruby><rb>友達</rb><rt>ともだち</rt></ruby>の医学士が窓に近づいて来た。マリイと握手した。それからフェリックスにこう云った。「帰って来たね。」

「どうして来てくれたのだい。」

女は急に<ruby><rb>詞</rb><rt>ことば</rt></ruby>を挟んだ。「わたくしが電報でお知らせ申しましたの。」

学士が云った。「君はひどいよ。手紙なんというものは書かない流義と見えるね。まあ、<ruby><rb>為方</rb><rt>しかた</rt></ruby>がない。さあ、出て来<ruby><rb>給</rb><rt>たま</rt></ruby>えよ。」

「僕はあんまり長く眠ったもんだから、まだ頭がぼんやりしている。」フェリックスは、車室から降りながらよろめいたので、こう云って<ruby><rb>微笑</rb><rt>ほほえ</rt></ruby>んだ。

学士は病人の<ruby><rb>肘</rb><rt>ひじ</rt></ruby>をつかまえた。そうすると女が、いつものように肘に<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>ると見せて、<ruby><rb>片々</rb><rt>かたかた</rt></ruby>の肘をつかまえた。

学士が云った。「二人とも随分草臥ているだろうね。」

「わたくし本当にがっかりしていますの。」女はこう云って、それからフェリックスの方に向いて。「ねえ、あなた、汽車旅は随分疲れるものでございますわね。」

一同ゆるゆる停車場の石段を降りた。その<ruby><rb>間</rb><rt>あいだ</rt></ruby>女は学士と目を見合せようとするのを、学士は<ruby><rb>除</rb><rt>よ</rt></ruby>けるようにしていた。

石段を降りて、学士は馬車を呼んだ。そしてフェリックスにこう云った。「まあ、君が無事で帰ったのを見て安心したよ。またあすの朝君の所へ行くからね。」

「僕はぼんやりしている」とフェリックスは繰り返した。それから馬車に乗ろうとするのを、学士が手を出して助けそうにしたので、「そんなに意気地がなくなってはいないよ」と云って、一人で車に乗った。続いて女が乗るのを、手を貸して乗せた。

## 三十二

女は車の窓から手を出して、学士と握手をして、「そんならあしたどうぞ」と<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>った。

その女の<ruby><rb>目附</rb><rt>めつき</rt></ruby>が<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>にも心配げなので、学士はわざと<ruby><rb>微笑</rb><rt>ほほえ</rt></ruby>んだ。「あした早く行って、<ruby><rb>君方</rb><rt>きみがた</rt></ruby>と一しょに<ruby><rb>朝食</rb><rt>あさしょく</rt></ruby>を食べよう。」

馬車は<ruby><rb>停車場</rb><rt>ていしゃじょう</rt></ruby>を離れた。学士は<ruby><rb>真面目</rb><rt>まじめ</rt></ruby>な顔をして、<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>く見送っていて、「気の毒だなあ」と<ruby><rb>独言</rb><rt>ひとりごと</rt></ruby>を云った。

翌朝医学士が急いでフェリックスの住いへ来て見ると、マリイが戸口に待ち受けていた。「ちょっとお話しがございますの。」

「まあ、先きへわたしに診察をさせて下さい。その上でお話しをした方が、都合が<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>さそうに思うのですから。」

「いいえ。ただ一つ申して置きたい事があるのです。あの方の体がどんなになっていても、どうぞそれを言って聞かせないで下さいまし。」

「なに。そんなに心配しなくっても<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いのですよ。それ程悪くなってはいまいから。まだ<ruby><rb>寐</rb><rt>ね</rt></ruby>ていますか。」

「いいえ。もう目を覚しているのです。」

「昨晩どうでした。」

「さようでございますね。午前四時<ruby><rb>頃</rb><rt>ごろ</rt></ruby>まで、ぐっすり寐て、それからは好く寐られなかったのです。」

「まあ、わたしが診察をする<ruby><rb>間</rb><rt>あいだ</rt></ruby>は、あなたははずしていて下さい。あなたが機嫌を好くして、あの男の気分を引き立たせて<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>らなくてはいけないのです。ですからちょいとの間避けていて、わたくしに任せて置いて下さい。」こう云って微笑みながら握手して、一人<ruby><rb>寝間</rb><rt>ねま</rt></ruby>へ<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>って行った。

フェリックスは着布団を<ruby><rb>腮</rb><rt>あご</rt></ruby>のところまで掛けて寝ていて、<ruby><rb>友達</rb><rt>ともだち</rt></ruby>の這入って来たのを見て、<ruby><rb>合点合点</rb><rt>がてんがてん</rt></ruby>をした。

学士は<ruby><rb>寝台</rb><rt>ねだい</rt></ruby>の<ruby><rb>縁</rb><rt>ふち</rt></ruby>に腰を掛けて云った。「内へ帰って安心しただろうね。大ぶ様子が好いようだから、持病のメランコリイなんぞは山に置いて来たのだろうね。」

「まあ、そんなものさ。」フェリックスは真面目で云った。

「君、ちょいと<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>って見ないか。こんなに僕が早く来たのは、医者として職務を尽しに来たのだからね。」

「さあ、見てくれ<ruby><rb>給</rb><rt>たま</rt></ruby>え。」フェリックスは平気な様子で診察を受けた。

診察が済んでから、学士は二つ三つ何か問うて、返事を聞いて、こう云った。「まあ、この位なら満足しなくてはならないね。」

「おい。もう狂言はよしてくれ給え。」こういうフェリックスの顔は不機嫌であった。

「君こそそんな<ruby><rb>馬鹿</rb><rt>ばか</rt></ruby>げた様子をするのをよし給え。<ruby><rb>兎</rb><rt>と</rt></ruby>に<ruby><rb>角</rb><rt>かく</rt></ruby>真面目に病気と闘わなくてはならないのだ。君の方では健康になろうという意志を堅固にしていなくてはいけない。成行き次第だなんぞという<ruby><rb>料簡</rb><rt>りょうけん</rt></ruby>になられては困るよ。そんな態度は、第一君の柄にない。」

「そんならどうすれば好いというのだい。」

「<ruby><rb>先</rb><rt>ま</rt></ruby>ず二三日はそうしていて、起きないのだね。」

「そんな事か。君が言わなくても僕は起きたくないのだ。」

「それは丁度好いというものだね。」

フェリックスは少し調子付いて来て、こう云った。「ただ一つ僕には分らない事があるよ。それはきのうの始末だ。君、分かるなら説明してくれ給え。どうも僕には何もかも夢のようだがね。汽車で帰って来たのも、停車場に着いたのも、この寝床に這入ったのも。」

「それになんの不思議があるものか。君だって人間以上の力は持っていない。<ruby><rb>誰</rb><rt>たれ</rt></ruby>でも<ruby><rb>草臥</rb><rt>くたびれ</rt></ruby>切った時はそんな事があるものだ。」

「いや。そうでないよ。きのうのような疲れようはこれまで無かった。きょうだって僕は疲れているが、頭ははっきりしている。実はきのうの方が<ruby><rb>却</rb><rt>かえ</rt></ruby>って愉快であったのだ。しかしそれを今から思って見ると、気味が悪くなるね。またあんな風になるだろうかと思うと。」

## 三十三

こう<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>っているところへ女が<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>って来たので、フェリックスが女に言った。「おい。アルフレット君に礼を言ってくれ。お前は看護婦を<ruby><rb>仰付</rb><rt>おおせつ</rt></ruby>けられたのだ。なんでも<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>はきょうからはこう<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>って寝ていなくてはならないのだそうだ。まあ、これが己の死ぬる寝床なのだから、その積りでいて<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>おうか。」

女がひどくつらそうな顔をして聞いているので学士が云った。

「<ruby><rb>馬鹿</rb><rt>ばか</rt></ruby>を言うのを<ruby><rb>真面目</rb><rt>まじめ</rt></ruby>で聞いてはいけませんよ。ただ二三日こうして寝ているが<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いと、わたしが云ったのです。乱暴に起きないように、あなたは気を付けて下されば好いのです。」

「ふん。君は知るまいが、僕に付いていてくれるこの女は、大した天使だぜ。」フェリックスは皮肉な調子で女を褒めた。

学士は色々養生の<ruby><rb>為方</rb><rt>しかた</rt></ruby>を話して、女に監督を頼んだ。それからフェリックスに言った。「そこで君にきょう約束をして置くよ。僕は隔日に医者として見舞いに来る。それで沢山なのだ。その外の日に来た時、病気の事を言いっこなしだよ。僕はいつもの通り、<ruby><rb>友達</rb><rt>ともだち</rt></ruby>として話しに来るのだからね。」

「いやはや。君は<ruby><rb>豪</rb><rt>えら</rt></ruby>い心理学者だよ。しかしそんなけれんは外の病人に遣って見せ<ruby><rb>給</rb><rt>たま</rt></ruby>え。そんなあさはかな手には、僕は乗らないからね。」

「困るね。僕は男子が男子に話しをする積りで言っているのだ。<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>く聞き給えよ。なるほど、君は病気だ。しかし<ruby><rb>旨</rb><rt>うま</rt></ruby>く<ruby><rb>摂生</rb><rt>せっせい</rt></ruby>をすれば直す事の出来るのも事実だ。僕は何も加減をして物を言うのではない。」こう云って置いて、学士は立ち上がった。

フェリックスは疑い深い<ruby><rb>目附</rb><rt>めつき</rt></ruby>をして、学士を見送った。「まるで本当の事を言っているように見えるから<ruby><rb>可笑</rb><rt>おか</rt></ruby>しい。」

「信ぜないのは君の勝手だよ。」学士は手短にこう云った。

「今のは<ruby><rb>拙</rb><rt>まず</rt></ruby>かったね。大病人に荒い<ruby><rb>詞</rb><rt>ことば</rt></ruby>を使って気を引き立てるなんというのは、古い手だ。」

「そんならあした来るよ。」学士は戸の方へ歩いて行った。そして女が付いて出そうにしたので、「いなくてはいけません」と、命令するように<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>いた。

女は学士の出て行った跡の戸を締めた。それから顔に<ruby><rb>微笑</rb><rt>びしょう</rt></ruby>を見せて、縫物を取り出して、<ruby><rb>卓</rb><rt>つくえ</rt></ruby>の<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>へ寄った。

フェリックスは女の様子を見ていて、こう云った。「おい。ここへ来ないか。そうだ。お前は大した親切な女だね。」この優しげな詞を、苦々しい、鋭い調子で云ったのである。

帰ってから<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>くの間はマリイはフェリックスの床の側を離れずにいて、親切に看病した。その<ruby><rb>間</rb><rt>あいだ</rt></ruby>女の様子は、落ち着いて、わざとらしくなく晴やかに見えていた。<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>病人の気を落ち着けるようにと心掛けているのである。また実際時々は病人もそれを見て心持ちを好くしていた。しかしその反対に、女の落ち着いた様子に反感を起す事もある。何か今新聞で見た事を話したり、病人の様子が好く見えると云ったり、病気が直ったらどんな生活をして見ようと云ったりする時、フェリックスは不機嫌になって、「どうぞもう己に構わないでいてくれ」という事もある。

医学士は毎日来た。一日に二度来る事もあった。しかし友達の体の事なぞは少しも話さない。両方で知っている人の<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>をしたり、病院で見て来た話しをしたりする。<ruby><rb>稀</rb><rt>まれ</rt></ruby>には美術文学の話しもする。そしてなるたけ病人に多く物を言わせないように<ruby><rb>力</rb><rt>つと</rt></ruby>めている。そんな風に恋人と友達とで、病人を気楽にならせようとしているので、病人も体の好くなる時が来るだろうかと思わずにはいられないようになる事がある。重い病人に対して、側にいるものがこんな狂言をするものだという事は、無論病人の心に分っている。狂言だ狂言だと思いながら一しょになって話している。しかしその内にいつとなく引き入れられて、自分がまだ何年も生きているはずと思うらしい詞が、自分の口から出る事がある。

## 三十四

そういう時は病人は反省して、死に掛かった病人というものは、<ruby><rb>却</rb><rt>かえ</rt></ruby>って気分が<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>くなって、健康になる夢を見るものだという話しを思い出す。それからその道理から推して、自分の気が<ruby><rb>鬱</rb><rt>うっ</rt></ruby>したり、心配が起って来たりするのを、却って気分の<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いよりは有望な徴候だと思うようになる。さてそんな論理は余り間違っていると思うので、とうとう病気の未来なぞというものは知れないものだ、たしかめられないものだという結論に到着する。

フェリックスはまた本を読み出した。もう小説は面白くなく、読む内に<ruby><rb>厭</rb><rt>あ</rt></ruby>きて来て、<ruby><rb>就中</rb><rt>なかんずく</rt></ruby>作中の人物が栄華をしたり、色々に活動するのを見ると、<ruby><rb>癪</rb><rt>しゃく</rt></ruby>に障って来るのである。そこで哲学書を読む事にして、マリイに言い付けて、本箱からショペンハウエルとニイチェとを出させた。<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>く読んでいる内は、その説いている道理から平和を<ruby><rb>見出</rb><rt>みだ</rt></ruby>す事も出来た。しかしそれが長くは続かなかった。

ある晩医学士が来た時、病人は丁度ショペンハウエルの一巻を布団の上に伏せて、<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>な顔をして<ruby><rb>空</rb><rt>くう</rt></ruby>を見ていた。<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>には女が<ruby><rb>手為事</rb><rt>てしごと</rt></ruby>をしていた。

「君、僕はまた小説の方を読もうと思う。」病人は学士の顔を見て、激したような調子でこう<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>った。

「どうしたのだ。」

「小説なら、<ruby><rb>兎</rb><rt>と</rt></ruby>に<ruby><rb>角</rb><rt>かく</rt></ruby><ruby><rb>嘘</rb><rt>うそ</rt></ruby>だという事を白状して書いているのだ。立派な詩人が上手に書いたのでも、下手な<ruby><rb>素人</rb><rt>しろうと</rt></ruby>が<ruby><rb>拙</rb><rt>まず</rt></ruby>く書いたのでも、それだけは同じ事だ。それと違って、この先生なんぞは気取っているのだ。」こう云って伏せてある本の方を見た。

「いやはや。」

病人は床の上で起き上がった。「哲学者なんという<ruby><rb>奴</rb><rt>やつ</rt></ruby>は、自分が神のように丈夫でいて、人生を<ruby><rb>厭</rb><rt>いと</rt></ruby>うだの、平気で死を待っているだのというのだ。そういいながらイタリアで散歩をしていて、<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎや</rt></ruby>かな生活に身の<ruby><rb>周囲</rb><rt>まわり</rt></ruby>を取り巻かれているのだ。僕はそういうのを気取っているというのだ。そんな先生を部屋の中へ閉じ込めて熱を出させて、息苦しくして<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>って、お前は来年の一月一<ruby><rb>日</rb><rt>じつ</rt></ruby>から二月一<ruby><rb>日</rb><rt>じつ</rt></ruby>までの間に土の下に<ruby><rb>埋</rb><rt>うめ</rt></ruby>られるのだといって聞かせて、<ruby><rb>其上</rb><rt>そのうえ</rt></ruby>でどんな哲学を説き出すか、聞いて<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>りたい。」

「よし<ruby><rb>給</rb><rt>たま</rt></ruby>え。そんなパラドックスな<ruby><rb>洒落</rb><rt>しゃれ</rt></ruby>は。」

「君には分らないよ。分るはずがない。僕は読んでいると胸が悪くなる。みんな気取りやだ。」

「そんならソクラテスなんぞはどうだ。」

「あいつも狂言をしていた奴だ。あたりまえの人間なら、未知の事物に対しては、恐怖を感じなくてはならない。<ruby><rb>旨</rb><rt>うま</rt></ruby>く行ったところで、その恐怖を隠しているに過ぎない。僕は正直な話をするがね、一体これまで歴史に書いてある臨終の心理というものは<ruby><rb>皆</rb><rt>みな</rt></ruby><ruby><rb>偽物</rb><rt>ぎぶつ</rt></ruby>だ。それは人に名を知られている、歴史上の人物は、後世の人のために、狂言をしなくてはならない義務があるように思っていたからだ。僕なんぞでさえそうだ。僕が何をしていると思う。こうして、もう僕に対してなんの利害得失をも有せない事柄を、君なんぞと話しているのも、<ruby><rb>可笑</rb><rt>おか</rt></ruby>しいじゃないか。これはなんというものだろう。」

「もうよせよせ。殊にそんな無意味な事をいうものじゃないよ。」

## 三十五

「僕だってやはり狂言をする義務を有しているように思って、こんな事を<ruby><rb>饒舌</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>るので、実際を言って見れば普通の人間の夢にも知らない、非常な恐怖に僕は襲われているのだ。それと同じ事で、英雄だって、哲学者だって、恐怖していたには相違ない。ただあいつらは狂言が上手だったのだ。」

「もうおよしなさいよ」と女が頼むように<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>った。

「大方お前なんぞも、アルフレット君と同じように、平気で死を向うに見る事が出来ると思っているのだろう。それは死というものを知らないからだ。犯罪者になって死刑の宣告を受けて見るが<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い。それか、<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>のような体になって見るが好い。その上でなくては話しは出来ないのだ。<ruby><rb>盗坊</rb><rt>どろぼう</rt></ruby>は平気な顔で絞首台へ連れて行かれる。大哲学者は毒薬を<ruby><rb>呑</rb><rt>の</rt></ruby>んでから、<ruby><rb>旨</rb><rt>うま</rt></ruby>い文句を考える。革命を起して、失敗した英雄は、銃の先を胸に突き付けられて笑う。そういうのはみんなごまかしだ。己には<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>く分かっている。平気を装ったり、笑ったりするのは気取るのだ。なぜというに死に対しては非常な恐怖を<ruby><rb>抱</rb><rt>いだ</rt></ruby>いているに相違ないからだ。死の恐怖は死そのものと同じように、自然の現象だ。」

学士は静かに<ruby><rb>寝台</rb><rt>ねだい</rt></ruby>の<ruby><rb>縁</rb><rt>ふち</rt></ruby>に腰を掛けて聞いていた。そして病人が饒舌り<ruby><rb>止</rb><rt>や</rt></ruby>んだ時こう云った。「第一君そんなに長く饒舌ってはいけない。殊にそんな大きい声を出してはいけない。それから君のいう事は飽くまで<ruby><rb>馬鹿</rb><rt>ばか</rt></ruby>げている。それはひどいヒポコンドリイというものだ。」

「それにあなたきょうなんぞはそんなに御様子が好いじゃありませんか」と女が口を出した。

「君、ほんとにあんな事を思っているのだろうか」と、病人は学士に向いて云った。「どうだろう。こいつに君が本当の事を言って聞かせてくれたら。」

「ところがほんとの事を言って聞かせなくてはならないのは、マリイさんじゃなくって、君なのだ。しかし君は何を言ったって、きょうは聞きそうでないから、僕は止めにして置く。まあ、二三日立って、その<ruby><rb>間</rb><rt>あいだ</rt></ruby>今のような<ruby><rb>長演説</rb><rt>ながえんぜつ</rt></ruby>を慎んでいる事が出来たら、君も起きられるようになるだろう。その上で君にしっかり言って聞かせる事があるよ。」

「ふん。どうも君の腹の中がこんなに見え透かないといいのだがなあ。」

学士は「もう好いよ」と云って置いて、女の方に向いた。「あなたもそんな困ったような顔をしていないが好いのです。この先生だって今に物の分かる時も来るでしょう。それはそうと、なぜ窓が一つも明けてないのですね。外はひどく好い秋日和ではありませんか。」

女は立って窓を明けた。丁度日の暮れ掛かる時である。外から吹き入れて来る風が<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>にも好い心持ちなので、女は<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>くその風に吹かれていたいように思った。そこで窓の<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>に立ち留まって、頭を外へ出して見た。その時女の心持ちは、病室を出てしまって外に一人でいるようであった。もう何日もこんな好い心持ちのした事はない。それから頭を引っ込めると、病室の、鈍い空気が顔を<ruby><rb>撲</rb><rt>う</rt></ruby>って胸が詰まるような気がした。見れば病人と学士とで何か言っているが、<ruby><rb>詞</rb><rt>ことば</rt></ruby>は聞えない。しかしそれを聞きたくも思わなかった。そこでまた頭を窓から外へ出した。往来は人けが絶えてひっそりしている。近い大通りから馬車の通る音が<ruby><rb>微</rb><rt>かすか</rt></ruby>に聞えるばかりである。その内窓の下の人道を散歩する人がちらほら通る。向いの家の<ruby><rb>門口</rb><rt>かどぐち</rt></ruby>には、女中が二三人出て、何か話して笑っている。向いの家の窓が明いて、若い上さんが、自分と同じように顔を出して外を見る。マリイはそれを見て、なぜあのお上さんは散歩に出ないのだろうと思った。そしてどの人もどの人も自分よりは幸福なように思って<ruby><rb>羨</rb><rt>うらや</rt></ruby>ましがった。

## 三十六

<ruby><rb>爽</rb><rt>さわや</rt></ruby>かな九月の天気が来た。日は早く暮れるが、風もなく、寒くもない。

マリイは<ruby><rb>隙</rb><rt>ひま</rt></ruby>があると、病人の<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>を離れて、開けた窓の前に<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>を据えているのが癖になる。殊に病人の眠っている間は、何時間もそうしている。なんだかがっかりしたようで自分の境遇がどんなものだという事を、はっきり考えるのが<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>である。そればかりではない。何事をも考えるのが厭である。過去の事も思わず、未来の事も思わずに、何時間もぼんやりしている事がある。目を大きく明いて<ruby><rb>空</rb><rt>くう</rt></ruby>を見詰めて<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>っている。ただ外から気持ちの<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い風が<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>って、自分の額を吹いてくれれば、それで満足に思っている。その内病人がうめくので驚いて見に行くのである。しかし自分の病人に対する同情が次第に薄らいで来る。<ruby><rb>憐憫</rb><rt>れんみん</rt></ruby>が変じて神経過敏になって、苦痛が変じて恐怖と冷淡との混合物になって来る。しかし自分が悪い人になったとは思われない。いつか学士が、あなたは天使のようだと<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>ったが、そういう<ruby><rb>褒詞</rb><rt>ほめことば</rt></ruby>を受けて恥じなくてはならないような気はしない。今のように冷淡に傾いて来たのは、それは疲れたのである。極端に疲れたのである。もう外へ出なくなってから十日以上になる。なぜ出ずにいるのだろうと考えて見る。そうすると病人をおこらせまいと思って出ないのだという事が、新しい発明のように心に浮ぶ。無論側にいるのがつらいとは思わない。あの人を愛している事も決して昔に劣らない。ただ自分は疲れたのだ。それも無理ではない。こう思っている内に、外へ出たいという要求が次第に切になって来る。これを無理に我慢しているのは、子供らしい事ではないか。病人だって少し考えて見たら分かりそうなものである。一体もし病人がおこりはすまいかと思って、こんなに久しく出ずにいたのは、随分病人のために尽していたというものではあるまいか。自分が病人を深く愛している証拠ではあるまいか。

女はこんな事を考えている内に、手に持っていた縫物を<ruby><rb>床</rb><rt>ゆか</rt></ruby>の上に取り落してちょいと<ruby><rb>寝台</rb><rt>ねだい</rt></ruby>の方を見た。もう<ruby><rb>寝台</rb><rt>ねだい</rt></ruby>のあたりは薄暗くなっている。きょうは病人も落ち着いている。今眠ったところである。こんな時にそっと出て行ったら、病人は知らずにいるだろう。ちょいとあの<ruby><rb>梯子</rb><rt>はしご</rt></ruby>を下りて、あの町の角を回れば、<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎや</rt></ruby>かな公園に出られる。それからあの都の中心を輪なりに<ruby><rb>繞</rb><rt>めぐ</rt></ruby>っている大通りに出て、電燈の沢山<ruby><rb>点</rb><rt>つ</rt></ruby>いている、オペラ座の前を通る。あの<ruby><rb>辺</rb><rt>へん</rt></ruby>はいつも賑かである。その賑かさが<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>にも恋しい。しかしそんな事が出来るのはいつだろう。無論病人が直ってしまえば出来るだろう。あの人が病気でいては、往来や、公園や、大勢の人を見たって詰まらない。

女はとうとう出ずにいた。そうして<ruby><rb>寝台</rb><rt>ねだい</rt></ruby>の側へ椅子を持って行って病人の手をつかまえて涙を<ruby><rb>飜</rb><rt>こぼ</rt></ruby>した。その涙は、もう側にいる男の事を考えなくなっても止まらなかった。

その日の午後であった。学士が来て見ると、病人がこの<ruby><rb>頃</rb><rt>ごろ</rt></ruby>になく好い<ruby><rb>血色</rb><rt>けっしょく</rt></ruby>をしていた。それを見て学士が云った。「この<ruby><rb>塩梅</rb><rt>あんばい</rt></ruby>だと、もう二三日立ってから起きられそうだね。」

「そうかね」と病人は云ったが、何事に<ruby><rb>依</rb><rt>よ</rt></ruby>らず<ruby><rb>友達</rb><rt>ともだち</rt></ruby>の言う事を<ruby><rb>猜疑</rb><rt>さいぎ</rt></ruby>の耳を持って聞く癖が付いているので、<ruby><rb>嬉</rb><rt>うれ</rt></ruby>しくも思わなかった。

学士は、<ruby><rb>卓</rb><rt>たく</rt></ruby>の側にいるマリイに向いて云った。「あなたもも少し<ruby><rb>血色</rb><rt>けっしょく</rt></ruby>が<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>くっても好いね。」

その詞を聞いて、病人も女の顔を見たが、なるほど目立って色が悪い。一体この頃病人は、女の親切を感謝したいような心持ちになると、わざとその心持ちを排斥する癖が付いている。女の犠牲的精神が幾分か<ruby><rb>偽物</rb><rt>ぎぶつ</rt></ruby>らしく思われて、その忍耐の表情が白々しく思われたのである。そこで女がいっその事じれったがって来れば好いと思う。いつか詞か<ruby><rb>科</rb><rt>こなし</rt></ruby>で、女が薄情な根性を<ruby><rb>曝露</rb><rt>ばくろ</rt></ruby>したら、その時面と向ってそう云って<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>りたい。もう<ruby><rb>疾</rb><rt>と</rt></ruby>うからお前が面を<ruby><rb>被</rb><rt>かむ</rt></ruby>っているという事は知っていた。<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>は胸が悪かった。どうぞ己の側を<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>いて己に落ち着いて死なせてくれと云って遣りたい。

女は学士の詞を聞いて、少し顔を赤くして<ruby><rb>微笑</rb><rt>ほほえ</rt></ruby>んだ。「わたくしちっとも弱りなんかしていませんわ。」

## 三十七

「いや。そうでありませんよ。フェリックス君だって、自分が直って、あなたが病気になっては困るでしょう。」こう<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>いながら、学士は女の<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>へ歩いて行った。

「だってわたくし本当になんともないのでございますもの。」

「一体あなたはちっとも外へ出ないのですか。」

「出たくなんざありませんもの。」

「おい。フェリックス君。マリイさんはまるで君の側を離れっこなしだと云うぜ。」

「そうだろう。御承知の通り天使だからね。」病人は平気でこう云った。

「しかしね、マリイさん、それはあまり<ruby><rb>馬鹿</rb><rt>ばか</rt></ruby>げていますよ。そんなにして無駄な骨を折るのは、子供らしくて、なんの用にも立ちません。是非折々は外へお<ruby><rb>出</rb><rt>で</rt></ruby>なさい。わたしがその必要を言明しますね。」

女はかすかに<ruby><rb>微笑</rb><rt>ほほえ</rt></ruby>んだ。「なぜそんなに<ruby><rb>仰</rb><rt>おっし</rt></ruby>ゃいますの。出たくなけりゃあ<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いじゃありませんか。」

「それは出たくても出たくなくても同じ事です。一体その出たくないというのが、もう悪徴候です。是非きょうは出なくてはいけません。そして一時間許り公園のベンチに腰を掛けておいでなさい。それとも<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>なら、馬車を雇ってプラアテルあたりへでも行っておいでなさい。あの<ruby><rb>辺</rb><rt>へん</rt></ruby>はこの<ruby><rb>頃</rb><rt>ごろ</rt></ruby>面白い時節ですから。」

「でも。」

「でもなんぞと云ったって駄目です。そんな風に続いて<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>っていて、余り天使になり澄すと、体が台なしになりますよ。まあ、ちょっとそこの鏡で顔を御覧なさい。実際大変な事になるのです。」

学士がこう云った時、病人はちょいと胸を<ruby><rb>衝</rb><rt>つ</rt></ruby>かれたような心持ちがした。抑えた怒が腹の中を<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>き交ぜている。なんだかこの会話をしている時、マリイの顔に、人の<ruby><rb>憐</rb><rt>あわれ</rt></ruby>みを<ruby><rb>乞</rb><rt>こ</rt></ruby>うような、自覚したる忍耐の表情が見えたように、病人は感じた。そして動かすべからざる真理ででもあるように、この女は<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>と一しょに苦労すべきはず、己と一しょに死ぬべきはずの女だという思想が、頭の中をひらめき過ぎた。女が体を台なしにする。無論それで好いじゃないか。己が死に向って進んで行くのに、あいつが薄赤い顔をして目を<ruby><rb>赫</rb><rt>かがや</rt></ruby>かしていなくてはならないというのだろうか。一体アルフレットだって女がそうすべきだと思うのだろうか。それとも女までが自分にそんな考えを。

学士がさっき云った事を繰り返して、女に勧めている間、病人は女の顔の表情を一しょう懸命<ruby><rb>覗</rb><rt>うかが</rt></ruby>っていた。とうとう学士は女に承諾させた。それはきょうの内に外へ出るというのであった。学士に言わせると外へ出るのも、看病すると同じように、女の病人に対して尽すべき義務の一つなのである。

「あんな事を言っているのは、己というものを度外視しているのだ。どうせ直らない病人だというので、構わずに死なせる気なのだ。」病人はこう思った。そして学士が帰って行く時、ひどく冷淡に握手をした。心のうちに学士を憎んでいるのである。

女は学士を部屋の入口まで送ったきりで、<ruby><rb>直</rb><rt>すぐ</rt></ruby>に病人の所へ帰って来た。病人は唇を堅く閉じて、額に深い怒りの<ruby><rb>皺</rb><rt>しわ</rt></ruby>を寄せていた。その心持ちがマリイには分った、底から<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>く分った。そして男の上へ身を<ruby><rb>屈</rb><rt>かが</rt></ruby>めて微笑んだ。男は<ruby><rb>溜息</rb><rt>ためいき</rt></ruby>を衝いた。それから何か言おうとした。何か非常な侮辱を<ruby><rb>覿面</rb><rt>てきめん</rt></ruby>に与えて遣りたいのである。そうするのが当然だと考えられるのである。女は優しく男の髪を<ruby><rb>撫</rb><rt>な</rt></ruby>でて遣って、顔には忍耐に慣れた、疲れた<ruby><rb>微笑</rb><rt>ほほえみ</rt></ruby>を続けて、口を側に寄せて、親切に<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>いた。「わたくし行かなくってよ。」

男は黙っていた。その晩は<ruby><rb>夜</rb><rt>よ</rt></ruby>の更けるまで、病人の側に<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>っていて、女はとうとう<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>に掛けたまま眠ってしまった。

翌日学士が来た時、女は話しをしないように<ruby><rb>避</rb><rt>よ</rt></ruby>けていた。しかし学士はきょうは女の顔なんぞに構わない様子で病人とばかり話しをしていた。

学士はもう程なく起きて好いという事を、きょうに限って言わずにいる。病人もそれを問う事を<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>っている。一体病人は、きょうは物が言いたくない。いつもになく<ruby><rb>口不性</rb><rt>くちぶしょう</rt></ruby>である。そして学士が<ruby><rb>暇乞</rb><rt>いとまご</rt></ruby>いをして帰るのを、<ruby><rb>嬉</rb><rt>うれ</rt></ruby>しく思った。

## 三十八

病人は女にも不機嫌な、短い返事ばかりしている。午後になって何時間も黙っていた跡で女が問うた。「きょうは御気分はどんなですの。」

「どうだって<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いじゃないか。」病人は両手を頭の上で組合せて、目を<ruby><rb>瞑</rb><rt>ねむ</rt></ruby>って<ruby><rb>寐入</rb><rt>ねい</rt></ruby>ってしまった。

女は<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>く<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>で病人の様子を見ていた。その内頭がぼんやりして、夢見心地になって来た。

暫くして女がふと心付くと、<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>く寐た跡のように爽快な感じが<ruby><rb>体中</rb><rt>からだじゅう</rt></ruby>に<ruby><rb>漲</rb><rt>みなぎ</rt></ruby>っていた。女は立ち上がって、卸してあった窓掛を巻き上げた。なんだか近い公園から、遅れ咲きの花の<ruby><rb>香</rb><rt>か</rt></ruby>が、この狭い町へ迷い込んで来たようで、部屋に<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>って来る空気に、いつにない美しい<ruby><rb>匀</rb><rt>におい</rt></ruby>がある。女は病人の方を振り返った。病人はさっきと同じように寐ていて、呼吸も静かである。これまではこんな時に、女はきっと一種の感動を起して、この部屋を離れる気にならずに、鈍い沈んだ心持に体を任せていたのである。それがきょうはなんにも感ぜない。そして病人の眠っているのを喜んで、心の内に何の争闘をも起さずに、いつも平気でする事ででもあるように、一時間外へ出て来ようという決心をした。

女は足を<ruby><rb>爪立</rb><rt>つまだ</rt></ruby>てて台所へ出て、女中に病室へ行っているように差図した。それから帽子と<ruby><rb>蝙蝠傘</rb><rt>こうもりがさ</rt></ruby>とを持って、飛ぶように<ruby><rb>梯子段</rb><rt>はしごだん</rt></ruby>を降りた。

女は往来へ出た。足早に狭い町を二つ三つ通り過ぎると、公園である。両側に大きい木や小さい木が植わっていて、頭の上には薄青い空がひろがっている。何もかも久しく恋しく思っていた景物ばかりである。

女はベンチに腰を掛けた。同じベンチにも、近所にある外のベンチにも乳母や子守が掛けている。並木の下では子供が遊んでいる。その内次第に暗くなって来るので、もう遊びも末になったと見えて、<ruby><rb>女達</rb><rt>おんなたち</rt></ruby>はそれぞれ子供を呼んで、手を引いて公園を出て行った。とうとうマリイは一人になった。ちらほら人が通り過ぎる。男の中には、ちょっと振り返ってマリイを見て行くものもある。

とうとう外へ来たのである。一体どうしたというのだろう。丁度こういう時、人に邪魔をせられずに、自分の現在の地位を見渡して、好く考えて見なくてはならないと、女は思った。自分の思想を、はっきりした<ruby><rb>詞</rb><rt>ことば</rt></ruby>に直して、口の内で言って見たいのである。

わたしがあの人の側にいるのは、あの人を愛しているからである。側にいなくては気が済まないから側にいるのだ。そうして見れば犠牲になっているというものではない。さてこれからどうなるのだろう。いつまでこれが続くだろうか。どうせあの人は助からない。しかし末はどうなるのだろう。いつかあの人と一しょに死のうと思った事もある。それになぜ今はこんなに<ruby><rb>余所余所</rb><rt>よそよそ</rt></ruby>しくなっているのだろう。

どうもあの人は自分の事ばかり思っているようだ。今でもわたしと一しょに死にたいのだろうか。こう思うや否や、きっと一しょに死ぬる積りでいるのだという断案が、はっきりと下された。しかしその時の男の姿は、永遠に愛人を側に寝かしていたいという優しい青年の姿ではなかった。意地悪く、<ruby><rb>嫉</rb><rt>ねた</rt></ruby>み深く、一<ruby><rb>旦</rb><rt>たん</rt></ruby>我物にした女だからというので、無理に引き<ruby><rb>摺</rb><rt>ず</rt></ruby>って連れて行く人の姿が見えたのである。

その時若い男が一人来て、マリイの側に腰を掛けて何か言った。女はうっかりして、「なんです」と問い返した。しかし<ruby><rb>直</rb><rt>す</rt></ruby>ぐに気が付いて、立ち上がって、足早にそこを逃げた。

公園を歩いている間、<ruby><rb>出逢</rb><rt>であ</rt></ruby>う人の自分を見るのが不快であった。例の<ruby><rb>輪形</rb><rt>わなり</rt></ruby>になった大通りへ出て、馬車を呼んで、そこらを散歩するように歩けと云い付けた。

日が暮れた。女は馬車の隅に、楽に身を寄せて、車の心地好く滑って行くのを喜び、夜の薄明りと、ひらめく<ruby><rb>瓦斯燈</rb><rt>ガスとう</rt></ruby>の明りとの間を出没する、種々の事物の移り変るのを眺めて楽しんだ。九月の、天気の好い晩なので、大勢の人が散歩に出ているのである。

## 三十九

市民公園の前を通る時、中から爽かな軍楽の声が聞えた。マリイはザルツブルヒで合奏を聞いた晩の事を思い出した。そしてこの<ruby><rb>周囲</rb><rt>しゅうい</rt></ruby>の事物が<ruby><rb>皆</rb><rt>みな</rt></ruby>無常な無価値なもので、それを<ruby><rb>擲</rb><rt>なげう</rt></ruby>って死ぬるのは、なんでもないと思って見ようとしたが、どうもそれは出来なかった。自分の心に<ruby><rb>沁</rb><rt>し</rt></ruby>み込んで来る心地<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>さを忘れようとしても、忘れられなかった。なんだか愉快で<ruby><rb>溜</rb><rt>た</rt></ruby>まらない。あそこには電気燈の白く照っている劇場がある。あそこには議事堂前の広場の並木の間から、人が<ruby><rb>暢気</rb><rt>のんき</rt></ruby>らしく往来を歩いて来る。あそこには<ruby><rb>珈琲店</rb><rt>コオフィイてん</rt></ruby>の前に大勢の人が腰を掛けている。この色々な人は心配なんぞはなさそうに見える。事に<ruby><rb>依</rb><rt>よ</rt></ruby>ったら全く心配はないのかも知れない。柔かい、暖かい空気が顔に当る。こんな心持の好い晩を、生きていて何遍でも味う事が出来る。その外天気の好い夜昼を何千<ruby><rb>度</rb><rt>たび</rt></ruby>でも楽んで過ごす事が出来る。健康の喜びの感じが<ruby><rb>体中</rb><rt>からだじゅう</rt></ruby>の脈々を流れて通る。この色々のものが<ruby><rb>総</rb><rt>すべ</rt></ruby>て愉快に感ぜられる。

一体永い間死ぬるほどの疲れに体を<ruby><rb>委</rb><rt>ゆだ</rt></ruby>ねていたものが、たった何分間かこんな<ruby><rb>楽</rb><rt>らく</rt></ruby>をしているのが、不都合だというべきだろうか。自己の存在という事を自覚するのが、当然の権利ではないだろうか。自分は健康である。年も若い。千百の泉から一<ruby><rb>時</rb><rt>じ</rt></ruby>に人生の<ruby><rb>喜</rb><rt>よろこび</rt></ruby>が流れ出て、自分の上に注ぎ掛かって来るのである。これは自分は呼吸をしているという事や天が自分の上に<ruby><rb>覆</rb><rt>かぶさ</rt></ruby>っているという事と同じように自然である。それを恥じなくてはならないだろうか。

マリイはふと病人の事を考えた。もし<ruby><rb>奇蹟</rb><rt>きせき</rt></ruby>があって、あの人が直ったら、自分は無論あの人と一しょに暮すだろう。あの人の事を思えば、優しい、<ruby><rb>寛恕</rb><rt>かんじょ</rt></ruby>して<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>りたい悲哀が<ruby><rb>萌</rb><rt>きざ</rt></ruby>して来る。そしてもうそろそろあの人の<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>へ帰って遣らなくてはならない時だろうかと思う。

しかしあの人はわたしの側にいて遣るのに満足しているだろうか。わたしの優しくして遣るのを、<ruby><rb>難有</rb><rt>ありがた</rt></ruby>く思っているだろうか。なんという毒々しい<ruby><rb>詞使</rb><rt>ことばづか</rt></ruby>いをこの<ruby><rb>頃</rb><rt>ごろ</rt></ruby>はするだろう。なんという憎々しい<ruby><rb>目附</rb><rt>めつ</rt></ruby>きでこの頃は見るだろう。それから<ruby><rb>接吻</rb><rt>せっぷん</rt></ruby>なんぞはどうしたのだろう。もう接吻という事をしなくなってから大ぶ久しくなっている。こう思うと同時に病人の唇の<ruby><rb>蒼</rb><rt>あお</rt></ruby>ざめて、いつも乾いているのが思い出される。それから額にキスをして遣ろうかと考える。ああ額は冷たくて、いつも汗ばんでいたっけ。まあ、病気というものは<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>なものだこと。

マリイは車に背を寄せ掛けた。そして故意に病人の事を思うまいとした。病人の事を思わないようにするには、往来の方を熱心に見なくてはならない。こう思っていつまでも記憶して置かなくてはならないものを見るように、往来の事物の一つ一つに目を付けていた。

フェリックスは目を<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>いた。<ruby><rb>寝台</rb><rt>ねだい</rt></ruby>の側には<ruby><rb>蝋燭</rb><rt>ろうそく</rt></ruby>が一本弱い光を放っている。そこの<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>の上に、婆あさんが手を<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>に置いて、冷淡な様子をして<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>っている。

「あいつはどこへ行ったのだ。」病人がこういうと、婆あさんはぎくりとした。そして「さっきお出掛けになりましたが、<ruby><rb>直</rb><rt>す</rt></ruby>ぐお帰りになるはずです」と答えた。

「もうあっちへおいで」と病人が<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>った。それでも婆あさんはもじもじしているので、「行っても<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>いというじゃないか、用はないのだ」とすげなく云った。

病人は一人になった。これまでについぞ覚えない不安が襲って来た。

女はどこへ行ったのだろう。そう思うと<ruby><rb>寝台</rb><rt>ねだい</rt></ruby>に寝てはいられないような気がして来た。しかし起きて見ようとするだけの決心も出来なかった。

<ruby><rb>忽然</rb><rt>こつぜん</rt></ruby>こんな事が頭に浮んだ。「事に依ったらあいつは逃げたのではあるまいか。長く<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>を<ruby><rb>見棄</rb><rt>みす</rt></ruby>てて行ってしまったのではあるまいか。もう己の側で暮しているのが我慢しにくくなったのだ。己がこわくなったのだ。あいつは己の腹を見破ったのだ。それとも己は寝言でも云ったのではあるまいか。もう大ぶ久しい間、はっきりとは考えなかったが、始終己の心の底には、思っていた事なのだから、いつかそれを声に出して言ったかも知れない。それを聞いて、女は一しょに死にたくないと思ったのではあるまいか。

## 四十

思想は織るが<ruby><rb>如</rb><rt>ごと</rt></ruby>くに頭の内を往来する。毎晩発する熱が出て来た。「一体<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>はあいつに優しい<ruby><rb>詞</rb><rt>ことば</rt></ruby>を掛けないようになってから、もう大ぶ久しくなる。ただそれだけの事で逃げたのかも知れない。己は<ruby><rb>癇癪</rb><rt>かんしゃく</rt></ruby>を起したり、<ruby><rb>猜疑</rb><rt>さいぎ</rt></ruby>の<ruby><rb>目附</rb><rt>めつ</rt></ruby>きで見たり、苦々しい事を<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>ったりした。礼を言わなくてはならないのに、そんな事をしたのだ。よしや感謝して<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>らないまでも、少くも公平にだけは考えて遣るべきであったのだ。ああ。ここにいてくれれば<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いなあ。どうもあいつがいなくては困る。あいつがいなくなるだろうと思うと、胸が燃えるように苦しい。<ruby><rb>已</rb><rt>や</rt></ruby>む事を得ないなら、どんなにもあやまって遣りたい。これからはどんなに自分が苦しくても、一人でこらえて、言わずにいても好い。胸が押し付けられるように切ないのに、<ruby><rb>微笑</rb><rt>ほほえ</rt></ruby>んでいても好い。息が詰まって<ruby><rb>溜</rb><rt>たま</rt></ruby>らないのに、手にキスをして遣っても好い。己はむちゃな夢を見るのだ、よしや夢に何か言った事があっても、それは熱に浮されたのだと、よく言って聞かせよう。それから己はお前を崇拝しているのだ。お前になるたけ<ruby><rb>長生</rb><rt>ながいき</rt></ruby>をさせたい、末長く楽に暮させたいと思っているのだと誓って遣ろう。どうぞ己の<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>にだけいてくれ、己の寝床の側を離れてくれるな、一人で死なせてくれるなと頼もう。お前が側にいるとさえ思えば、平和な気分で、明るい理性で死を待つ事が出来るのだと云おう。どうせ程なく死ぬるのだ、きょうあすかも知れないのだ、それだから側にいてくれなくてはならない、いてくれんでは心細いと云おう。あいつは一体どこにいるのだろう。どこにいるのだろう。頭の中で血が渦巻いている。目が<ruby><rb>昏</rb><rt>くら</rt></ruby>んで来る。息が<ruby><rb>忙</rb><rt>せわ</rt></ruby>しくなって来る。それに<ruby><rb>誰</rb><rt>だれ</rt></ruby>も側にはいない。なぜ己は婆あさんを追い出してしまっただろう。あれだって人間だ。これでは己は手も足も利かないのに一人でいるのだ。」

病人は起き上がった。そして思ったより力強く感じた。しかし呼吸が<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>にも苦しい。なんとも言われないように切ない心持ちがする。とうとう我慢し切れなくなって床から出た。そして着物を半分着て窓の所へ出て見た。新鮮な空気が顔に触れる。病人は深い息を二三度した。それは好い心持ちであった。<ruby><rb>寝台</rb><rt>ねだい</rt></ruby>の<ruby><rb>縁</rb><rt>ふち</rt></ruby>に掛けてあるショオルを取って体に巻いて、椅子に腰を掛けた。それから数秒間は思想が乱れて、ぼんやりしていたが、またしては電光のように「どこにいるのだろう、どこにいるのだろう」という考えが<ruby><rb>閃</rb><rt>ひらめ</rt></ruby>き過ぎる。「今まで己が眠っている<ruby><rb>間</rb><rt>あいだ</rt></ruby>に、出て行った事があるのだろうか。そうかも知れない。どこへ行くのだろう。つい一二時間病室の陰気な空気を<ruby><rb>除</rb><rt>よ</rt></ruby>けている積りだろうか。それとも己の病気を嫌って除けるのだろうか。己の側にいるのが<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>になったのだろうか。この部屋に漂っている死の影がこわいのだろうか。生が恋しいのだろうか。生を求めるのだろうか。何を求めるのだろうか。何を思っているのだろうか。どこにいるのだろう、どこにいるのだろう。」

飛び<ruby><rb>翔</rb><rt>かけ</rt></ruby>るような思想が<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>きになり、うめき出すような詞になる。そして「どこへ行ったのだろう」と叫ぶのである。女がこの部屋を逃げ出して、自由を得た喜びの<ruby><rb>微笑</rb><rt>びしょう</rt></ruby>を唇の上に<ruby><rb>湛</rb><rt>たた</rt></ruby>えて、<ruby><rb>梯子段</rb><rt>はしごだん</rt></ruby>を<ruby><rb>駈</rb><rt>か</rt></ruby>け降りて、どこか病気や、胸の悪い事や、ゆるゆると死んで行く有様の見えていないところへ、どこか、ある不明なもの、ある花咲き<ruby><rb>匀</rb><rt>にお</rt></ruby>うもののある所へ、逃げ込んで行こうとするのが、目の前に見えて来る。女の姿は、<ruby><rb>赫</rb><rt>かがや</rt></ruby>く霧の中へ隠れてしまって、その霧の中から、女の<ruby><rb>笑声</rb><rt>わらいごえ</rt></ruby>が聞える。幸福の笑声、歓喜の笑声である。そしてその霧が散ってしまうと、女の踊っているのが見える。女はくるくる<ruby><rb>廻</rb><rt>まわ</rt></ruby>って踊りながら見えなくなってしまう。

その時ごろごろいう音が次第に近づいて来て突然<ruby><rb>止</rb><rt>や</rt></ruby>んだ。男は「どこへ行ったのだろう」とまた思って、ふと気が付いて窓の所へ走って行った。ごろごろいったのは馬車で、それが門口に<ruby><rb>留</rb><rt>と</rt></ruby>まっている。馬車ははっきり見える。そしてその中から人が出て来る。それはマリイであった。

## 四十一

相違なくマリイである。出迎えようと思って、次の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>へ飛び出した。そこは真っ暗である。どこに戸の<ruby><rb>撮</rb><rt>つま</rt></ruby>みがあるか見えない。まごまごしている内に、外から<ruby><rb>鍵</rb><rt>かぎ</rt></ruby>を<ruby><rb>挿</rb><rt>さし</rt></ruby>て<ruby><rb>錠</rb><rt>じょう</rt></ruby>を開けた。戸が<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>いた。マリイが<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>って来た。廊下から<ruby><rb>微</rb><rt>かすか</rt></ruby>な<ruby><rb>瓦斯燈</rb><rt>ガスとう</rt></ruby>の光が差し込んで、女の身の<ruby><rb>周囲</rb><rt>まわり</rt></ruby>を照している。男がくら<ruby><rb>闇</rb><rt>やみ</rt></ruby>にいたので、女が知らずに<ruby><rb>打</rb><rt>ぶ</rt></ruby>っ付かって、きゃっと<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>った。男はいきなりその肩を<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>んで、部屋の中へ引き<ruby><rb>摺</rb><rt>ず</rt></ruby>り入れた。そして口を<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>いて何か言おうとしたが、声が出なかった。

「あなたどうなすったの。気が変になっていらっしゃるじゃありませんか。」

女は恐怖の余りにこう云って、男の手を振りほどこうとした。

男は棒立ちに立っている。その様子が見る見る丈が伸びて大きくなるように見える。男はようよう物が言われるようになった。「どこから帰って来たのだ。どこから。」

「まあ、あなたしっかりして下さいよ。どうしてそんな。まあ、そこへお掛けなさいよ。」

「どこから帰って来たのだ。どこから。どこから。」男の声は前よりは小さくなって、<ruby><rb>茫然</rb><rt>ぼうぜん</rt></ruby>として言っているように聞える。どこからを繰り返した声は、ほとんど<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>くようである。

女は男の手を握った。その手は焼けるように熱かった。

女に手を引かれて、男は<ruby><rb>長椅子</rb><rt>ながいす</rt></ruby>の所へ連れて行かれた。そして女は椅子の隅へ男を押し付けると、男は素直にそこへ<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>って、なんだか正気になろうと努力するような様子で、<ruby><rb>周囲</rb><rt>しゅうい</rt></ruby>を見廻した。そして今度は、はっきりした声で、前と同じように、「どこから帰ったのだ」を繰り返した。

女はようよう落ち着いて、帽を脱いで、<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>の椅子の上に投げて、男の<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>へ腰を掛けた。そして<ruby><rb>媚</rb><rt>こ</rt></ruby>びるように云った。「わたくし、たった一時間外に出て、風に当って来ましたの。なんだか、自分でも病気になりはしないかと思ったものですから。病気にでもなろうもんなら、あなたのお役にも立たないでしょう。帰りには、早くお目に掛かろうと思って、馬車に乗って帰りましたの。」

男は長椅子の隅に坐って、がっかりしたような様子でいる。そして女の顔を横から<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>き込んで、なんにも言わない。

女は熱い男の<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>をさすりながら、語り続けた。「ねえ、おおこりなすったのではないでしょう。それにあの女中に、わたくしの帰って来るまで、お側にいるように云って置きましたわ。いませんでしたか。どこへ参りましたの。」

「<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>があっちへ行けと云ったのだ。」

「なぜそんな事をなすったの。あれはわたくしの帰るまで、お側にいるように、そう云って置いたのではありませんか。わたくし早くお側へ帰って来たくてなりませんでしたの。幾ら空気が<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>くったって、あなたがいらっしゃらなくっては、詰まりませんわ。」

男は病気な子供のように、頭を女の胸に寄せ掛けた。女は昔したように、男の髪に軽く<ruby><rb>接吻</rb><rt>せっぷん</rt></ruby>した。男は訴えるような目付で、女を見上げた。「おい。己の側にいつまでもいてくれなくってはいけないぜ。」

「ええ。」女はまた男の<ruby><rb>濡</rb><rt>しめ</rt></ruby>った<ruby><rb>乱髪</rb><rt>みだれがみ</rt></ruby>に接吻した。女はなんとも云えないほど悲しかった。泣きたいようであった。しかしその感動には一種の枯れた、<ruby><rb>乾燥</rb><rt>ひから</rt></ruby>びたような心持ちが交っていた。どこからも<ruby><rb>慰藉</rb><rt>いしゃ</rt></ruby>は来ない。自分の悲痛の内にも、それを<ruby><rb>見出</rb><rt>みだ</rt></ruby>す事が出来ない。そして男の涙の頬を伝わって流れるのを見て、その涙を<ruby><rb>羨</rb><rt>うらや</rt></ruby>ましく思った。

それからは夜も昼も女が男の病床を離れずにいる。食事を運んで来る。薬を飲ませる。男が気分が好くて、何か聞きたいと云うと、新聞やら、小説の一節やらを読んで聞かせる。

女の散歩に出た<ruby><rb>翌朝</rb><rt>よくあさ</rt></ruby>から雨が降り出して、いつもより早く秋が来た。窓の外を見ていると、毎日朝から晩まで、ほとんど<ruby><rb>小止</rb><rt>おや</rt></ruby>みなしに降る、細い、<ruby><rb>鼠色</rb><rt>ねずみいろ</rt></ruby>の雨の糸が見えている。

## 四十二

この<ruby><rb>頃</rb><rt>ごろ</rt></ruby>になって、病人は夜折々、何やら連続のない事を言う事がある。そんな時には、女が機械的に、男の額や髪をさすって<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>って、「お<ruby><rb>寐</rb><rt>ね</rt></ruby>なさいよ、お寐なさいよ」と<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>く。子供が夜中に不安になった時、母が<ruby><rb>宥</rb><rt>なだ</rt></ruby>めるような<ruby><rb>工合</rb><rt>ぐあい</rt></ruby>である。見る見る男は弱って行く。しかし苦痛はひどくない。病気の元を思い出させるような、短い間の呼吸困難が折々あるが、それが過ぎ去ると、一種の<ruby><rb>弛緩</rb><rt>しかん</rt></ruby>状態になる。そしてもう自分で、なぜそんな状態になるかを考えて見るほどの力もない。ただ折々ふと気が付いて、「なぜ<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>はこの頃、何事にもこんなに冷淡になったのだろう」と<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>う事がある。外で雨の降っているのを見ると、「ああ、秋だな」というが、それ以上の事は考えない。自分の病気がどうなるだろうという事も考えない。死をも思わない。健康をも思わない。<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>にいるマリイも、この頃は病人の様子がどう変るだろうなどとは思わないようになった。たびたび見舞いに来る医学士もただ習慣的に見舞いに来るという風になった。<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>学士は外にいて、生々した世間の状態を見て暮すのだから、この病室へ<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>って来る度ごとに、病人の様子が日々に変るのが見える。学士はもう全然希望を<ruby><rb>擲</rb><rt>なげう</rt></ruby>ってしまった。そして病人の身の上にも、側に付いている女の身の上にも、ある新時期の来たのを認めた。それは人間が深い感動を<ruby><rb>閲</rb><rt>けみ</rt></ruby>した跡で到達する時期である。その時期には希望もなければ恐怖もない。その現在の感じも、過去を省みるという事もなく、未来を見渡すという事もないので、鈍く、ぼんやりしている。学士はいつも這入って来る時、一種の不愉快を感じて這入って来て、病人と女とが変った事もなくているのを見て、始めて安心して息を<ruby><rb>衝</rb><rt>つ</rt></ruby>くのである。いずれもう遠からず、この二人は最後の決心を促される時期に<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>うのである。

ある日学士は、やはりこんな事を考えて、<ruby><rb>梯子</rb><rt>はしご</rt></ruby>を<ruby><rb>升</rb><rt>のぼ</rt></ruby>って来た。戸口から這入って見ると、女が次の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>に、青い顔をして、手を組み合せて立っている。「どうぞいらっしゃって下さいまし」と云って、女は学士を病室に案内する。学士は急いで這入って見た。

病人は<ruby><rb>床</rb><rt>とこ</rt></ruby>の上に<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>っている。そうして憎々しい<ruby><rb>目附</rb><rt>めつき</rt></ruby>で二人を見て云った。「一体己をどうしてくれるのだい。」

学士は足早に側へ寄った。「君こそどうしたのだ。」

「いや。君が僕をどうしてくれるのか聞きたいのだ。」

「まあ、それはなんという<ruby><rb>馬鹿</rb><rt>ばか</rt></ruby>げた物の言いようだね。」

「君もあいつも、僕を行き着かしてしまうのだ。」病人の声は叫ぶようである。

学士は病人の手を握ろうとしたが、病人は荒々しく自分の手を引いた。「<ruby><rb>廃</rb><rt>よ</rt></ruby>してくれ<ruby><rb>給</rb><rt>たま</rt></ruby>え。マリイもそんな手附きなんぞをしているには及ばない。僕はただ君やあいつが、僕をどうしてくれるのだか、それが聞きたい。これからどうなるのだかそれが聞きたい。」

学士は落ち着いた声で云った。「君さえそんなにむちゃくちゃに興奮しないでいれば、もっと早く<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>くなるのだ。」

「己はもう随分長い間こうして寝てばっかしいるのだ。それを二人共平気で見物している。」こう云い掛けて病人は突然学士の方に向いた。「一体君は僕をどうしてくれるのだ。」

「まあ、そんなわけの分らない事を云うのは廃し給え。」

「だって君は僕をどうもしてくれないじゃないか。もう時期は切迫している。それに<ruby><rb>誰</rb><rt>たれ</rt></ruby>も手を出して防いではくれない。」

「まあ、気を落ち着けなくてはね」と云って、学士は<ruby><rb>寝台</rb><rt>ねだい</rt></ruby>の<ruby><rb>縁</rb><rt>ふち</rt></ruby>へ腰を掛けて、また病人の手を取ろうとした。

「君はもう僕を見放しているのだね。それだからこうして寝かして置いて、モルヒネばかり飲ませているのだ。」

「どうも今二三日の<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>は忍耐して<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>わなくてはならないよ。」

## 四十三

「しかしね、こうしているのがなんの役にも立たないのだ。僕がこれからどうなるという事は、はっきり分かっている。なぜ君は僕をこんなにじりじり衰えて行かせるのだ。君にだって、マリイにだって、僕がこのまままいってしまうのだという事は、分かっているに違いない。僕の身になって見<ruby><rb>給</rb><rt>たま</rt></ruby>え。どうも我慢が仕切れない。どうにかして見ようがあろうじゃないか。君は医者じゃないか。考えて見てくれ給え。どうにかしてくれるのが、君の義務だ。」

「それは手段はあるとも。」

「手段なんか、ないね。<ruby><rb>奇蹟</rb><rt>きせき</rt></ruby>でも現われるなら、知らぬ事だ。ところが奇蹟なんぞは現われまい。そこで僕は<ruby><rb>兎</rb><rt>と</rt></ruby>に<ruby><rb>角</rb><rt>かく</rt></ruby>どこへか行こうと思う。」

「それは君がも少し力付いて来れば、起きる事が出来るのだ。」

「いや。君に言うがね、そんなことを言っていると、機会は過ぎ去ってしまうのだ。なぜ僕がこの<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>な部屋にいつまでもいなくてはならないのか。僕はどこかへ行きたい。この町が離れたい。僕の体に何が必要だという事が、僕には分かっている。僕は春に<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>いたい。僕は南の国へ行きたい。僕の頭の上に暖かい日が照ってくれれば、僕は丈夫になるのだ。」

「それは分かっているよ。南の方へ行くのは無論<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い。しかしも少し辛抱しなくてはいけないね。きょうなんぞ立とうと思ったって立たれない。あすも駄目だ。その時期が来れば、僕がそういうよ。」

「ところが僕はきょうでも立たれる<ruby><rb>積</rb><rt>つもり</rt></ruby>だ。この厭な部屋の外へ出てさえしまえば、僕はたしかに生れ変ったような人間になる。このままにしてここに置かれては、僕は一日一日危険を冒しているというものだ。」

「しかし兎に角僕は医者だよ。」

「それは君は医者に相違ない。しかし君は特別の場合を考えないで、どの病人をも同じように扱おうとするのだ。病人には自分がどうすれば好いという事が<ruby><rb>却</rb><rt>かえ</rt></ruby>って<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>く分かる。僕をこう<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>って寝かして置いて、衰えさせてしまうのは、どうも好い加減な<ruby><rb>為方</rb><rt>しかた</rt></ruby>で、不親切極まるのだ。南の方へ転地して、体が不思議に好くなったものは幾らもある。たとえ<ruby><rb>一縷</rb><rt>いちる</rt></ruby>の望みでもある以上は、何も手を<ruby><rb>束</rb><rt>つか</rt></ruby>ねているには及ばない。僕にだってまだ望みはある。君のするように僕を運命の<ruby><rb>弄</rb><rt>もてあそ</rt></ruby>ぶがままにして置くのは、実に冷酷極まるのだ。僕は是非南の方へ行って見たい。春のある方へ行って見たい。」

「好いよ。それは僕だって承認しているのだ。」

女は急に口を挟んだ。「ねえ、あなた、フェリックスさんとわたくしとで、明日立ちましても好うございましょう。」

「そうですね。フェリックス君が僕に約束して、三日間動かずにいてくれたら、立たせる事にしましょう。兎に角きょうなんぞ立たせては、僕が犯罪をするようなものです。どうしてもそんな事は出来ません。それにあの天気を御覧なさい。雨風です。どんな丈夫なものだって、きょうなんぞは旅に立たない方が好いのです。」

「そんならあしただ」と病人が叫んだ。

「まあ、天気が少し好くなったら、二三日の内に立つという事にするのだね。」

病人は学士の顔を、ねらうように見た。

「きっとかね。」

「きっとだ。」

女が「それ御覧なさい」と云った。

病人が学士に言った。「一体君はもう僕の命は救われないものだと思っているのだろう。そこでここで死なせようと思うのだろう。それは間違った人道だよ。人間が死ぬる段になると、故郷も何もあったものではない。生きていられる所が故郷だ。兎に角僕は手を束ねては死にたくないのだ。」

「まあ、好く聞き給え。冬は南の方で送らせようと、僕が思っていたという事は、君も知っていなくてはならないはずだ。しかしこんな天気に旅行するものはないからね。」

## 四十四

病人は女に言った。「<ruby><rb>兎</rb><rt>と</rt></ruby>に<ruby><rb>角</rb><rt>かく</rt></ruby><ruby><rb>直</rb><rt>す</rt></ruby>ぐに支度をしてくれ。」

女は心配げに学士の顔を見た。

「それは支度はするが<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いよ。いずれいつか用に立つのだ。」学士がこう<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>った。

「すっかり支度をしてくれ。<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>はもう一時間すると起きて、日の差して来るのを待っている。日が差して来たら、直ぐ立つ。」

午後になってフェリックスは起きた。転地をするという考えが、精神上によほど好影響を与えたらしく見える。気分がはっきりして、<ruby><rb>長椅子</rb><rt>ながいす</rt></ruby>に寝転んでいる。<ruby><rb>近頃</rb><rt>ちかごろ</rt></ruby>の物事に冷淡な様子もなく、絶望の発作もない。マリイの支度をするのを見て、色々な<ruby><rb>註文</rb><rt>ちゅうもん</rt></ruby>を言う。蔵書の中で、何々を持って行きたいと指図する。一度なんぞは、自分で立って行って書類を一山<ruby><rb>卓</rb><rt>つくえ</rt></ruby>の<ruby><rb>抽斗</rb><rt>ひきだし</rt></ruby>から出して、それを<ruby><rb>行李</rb><rt>こうり</rt></ruby>へ入れさせた。

「元から書き掛けているものに、目を通して見る積りだ」と、女に言った。それから女がその書類を行李の中へ入れようとしている時、こう云った。「己は長らくなんにもせずにいたが、<ruby><rb>却</rb><rt>かえ</rt></ruby>ってそれがためになったようだ。どうも思想が成熟したかとさえ思われる。今まで考えて置いた事が、今になって不思議に<ruby><rb>明瞭</rb><rt>めいりょう</rt></ruby>に想像せられるようだ。」

雨風の日の翌日天気が直って、その翌日は意外に暖かになって窓が開けていられる位になったのである。そこで午後になって病人が起きた時には、愉快な、暖かい日影が<ruby><rb>床</rb><rt>ゆか</rt></ruby>の上に落ちて、片付け物をするために<ruby><rb>跪</rb><rt>ひざまず</rt></ruby>いた女の髪の波を打っている上には、きらきらする反射が見えているのである。

丁度女が書類を丁寧に行李にしまっているところへ、医学士が来た。病人は長椅子の上に横になっていて、例の書き物の事を話した。

学士は<ruby><rb>微笑</rb><rt>ほほえ</rt></ruby>んだ。「それも悪いとは云わないよ。君だって体は大切にしているのだから、むやみに早く著述に掛かるような事もあるまい。」

「なに著述といっても、労力ではない。これまで<ruby><rb>闇</rb><rt>やみ</rt></ruby>の内に隠れていた、僕の思想の上に、新しい光線の反射が一ぱいに見えて来たような気がするのだよ。」

「それは好いね。」学士はこの<ruby><rb>詞</rb><rt>ことば</rt></ruby>をゆっくり言って、病人の様子を見ている。

病人は虚空を凝視している。「君、僕を誤解してはいけないよ。思想といっても、はっきりした<ruby><rb>輪廓</rb><rt>りんかく</rt></ruby>のあるものを持っているのではない。ただ何かが出来そうな感じがあるばかりだからね。」

「そうか。」

「これまでも僕は、オルケストラが調子を合わせるのを聞くと、強い感じを受けた事がある。今に一斉に清い<ruby><rb>諧律</rb><rt>かいりつ</rt></ruby>が聞えて来るのだ。今にあらゆる楽器が正しく奏し始められるのだという感じだね。」こういい掛けて突然、「汽車の<ruby><rb>室</rb><rt>しつ</rt></ruby>は<ruby><rb>誂</rb><rt>あつら</rt></ruby>えてくれたのだね」と問うた。

「取って置かせたよ。」

「そんならあすの朝は立たれますね」と、女が機嫌<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>く云った。女は忙しそうに<ruby><rb>箪笥</rb><rt>たんす</rt></ruby>から行李へ、行李から書棚へ、書棚からまた行李へと走って、物を<ruby><rb>整頓</rb><rt>せいとん</rt></ruby>しては詰め込んでいる。

学士は妙な心持ちがした。なんだか面白い<ruby><rb>遊山</rb><rt>ゆさん</rt></ruby>の旅に立って行く、若い男女を見ているように思われるのである。きょうはこの部屋中に、<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>にも希望に富んでいる、濁りのない情調が<ruby><rb>漲</rb><rt>みなぎ</rt></ruby>っているのである。

学士が<ruby><rb>暇乞</rb><rt>いとまご</rt></ruby>いをして出る時、女が次の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>まで付いて出た。「ほんとに立たれる事になって好うございますわ。わたくし<ruby><rb>嬉</rb><rt>うれ</rt></ruby>しくて<ruby><rb>溜</rb><rt>たま</rt></ruby>りませんの。いよいよ立つという事になってからは、フェリックスさんが、まるで別な人のようになったのですもの。」

学士はなんとも答える事が出来なくって、ただ女と握手して帰りそうにしたが、振り返って云った。「あなたに言って置かなくってはならないのですが。」

「なんでございますの。」

「わたしは医者ではあるが、同時にあなた方の<ruby><rb>友達</rb><rt>ともだち</rt></ruby>ですからね、何か僕に用が出来て来たら、僕はいつでも出掛けて行きますよ。どうぞ忘れないで電報を打って下さい。」

## 四十五

「そんな事になりますでしょうか。」女は驚いたような顔をしている。

「<ruby><rb>万</rb><rt>ばん</rt></ruby>一という事がありますからね。」学士はこう<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>って置いて帰った。

女は<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>く立ち留まって考えていたが、余り長くここにいたら病人がなんとか思いはすまいかと心配して、急いで病室へ帰った。しかし病人はなんの気も付かずに、女の<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>って来るのを待ち受けて、前の話しの続きを<ruby><rb>饒舌</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>った。「お前は知るまいが、これまでも太陽が<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>の体に好影響を与えた事はたびたびある。時候が段々寒くなったら、次第に南へ行こう。リヴィエラへ行くのだな。それからもっと先きになったら、アフリカへ行っても<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い。どうだ。赤道直下にいたら、己はきっと傑作を<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>める事が出来る。」

いつまでも饒舌り<ruby><rb>息</rb><rt>や</rt></ruby>めないので、とうとう女が<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>へ行って、男の<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>をさすりながら、<ruby><rb>微笑</rb><rt>ほほえ</rt></ruby>んで云った。「もうお<ruby><rb>廃</rb><rt>よ</rt></ruby>しなさいよ。あんまり軽はずみですわ。あしたは早く起きなくてはならないのですから、もうお寝なさいよ。」女は男の頬の赤くなって、目の<ruby><rb>赫</rb><rt>かがや</rt></ruby>いているのに気が付いた。そして男の手を取って<ruby><rb>長椅子</rb><rt>ながいす</rt></ruby>から起き上がらせようとした時、男の手の燃えるように熱いのに驚いた。

<ruby><rb>夜</rb><rt>よ</rt></ruby>が明け掛かると<ruby><rb>直</rb><rt>す</rt></ruby>ぐにフェリックスは目を覚した。丁度休日に内へ帰る子供のような喜びを感じている。<ruby><rb>停車場</rb><rt>ていしゃじょう</rt></ruby>へ馬車に乗って出掛けるはずの時刻より二時間も早く支度をしてしまって、長椅子に掛けて待っている。マリイも用が<ruby><rb>疾</rb><rt>と</rt></ruby>っくに済んでいる。<ruby><rb>鼠色</rb><rt>ねずみいろ</rt></ruby>の<ruby><rb>外套</rb><rt>がいとう</rt></ruby>を着て、帽子を<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>って、その上に青色の<ruby><rb>面紗</rb><rt>ヴェエル</rt></ruby>を掛けて、女は窓に立っている。<ruby><rb>註文</rb><rt>ちゅうもん</rt></ruby>した馬車の来るのを早く見付けるためである。大抵五分置き位に、男はもう馬車が来はしないかと問う。もう男はじれったがって外の馬車を雇いに<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>ろうかという時、「あそこに来ました」と女が叫んだ。それから「アルフレットさんも来てよ」と女が言い足した。

丁度馬車と一しょに町の角を曲って来た医学士は、愛想<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>く二階の窓に向いて<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>をした。それから程なく部屋に<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>って来た。「おや。もう二人共そっくり支度が出来ているね。<ruby><rb>朝食</rb><rt>あさしょく</rt></ruby>も済んだ様子だのに、そんなに早く停車場へ行って、どうする積りだね。」

「だってフェリックスさんが、じれったがるのですもの」と女が云った。

学士は病人の側へ歩み寄った。

病人は機嫌好く微笑んで、「旅には持って来いの天気だ」と云った。

「そうさ。きっと非常に愉快な旅行になるよ。」学士はこういいながら、<ruby><rb>卓</rb><rt>つくえ</rt></ruby>の上の堅パンを一切れ取った。「<ruby><rb>頂戴</rb><rt>ちょうだい</rt></ruby>しても好いのだろうね。」

女は驚いた様子で云った。「あなたまだなんにも上がらずに出ていらっしゃったのでしょうか。」

「なんにも遣らないとはいわれませんよ。実はコニャックを一杯飲んで出ました。」

「そんならまだこの中に<ruby><rb>珈琲</rb><rt>コオフィイ</rt></ruby>がありましたようですから、どうぞ。」女は無理に勧めて、珈琲の残ったのを<ruby><rb>茶碗</rb><rt>ちゃわん</rt></ruby>に<ruby><rb>注</rb><rt>つ</rt></ruby>いで、学士に出した。そして何か女中に言い付けに次の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>へ出た。学士はゆっくり一杯の珈琲を飲んで、茶碗を口から離さずにいた。それは病人と二人ぎりになったので、話しをするのが<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>だからである。

間もなくマリイは這入って来て、もう何もかも<ruby><rb>揃</rb><rt>そろ</rt></ruby>っているから、いつでも出掛けられるのだと云った。

病人は立ち上がって真っ先きに戸口を出た。鼠色の外套を羽織り、柔かい黒の帽子を被って、手にはステッキを持っている。<ruby><rb>梯子段</rb><rt>はしごだん</rt></ruby>も真っ先きに降りようとして、欄干に手を掛けたが、直ぐよろけ出した。<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>にいた学士と女とが手を貸した。病人は「少し<ruby><rb>目舞</rb><rt>めま</rt></ruby>いがするのだよ」と云った。

「それはあたり前さ。何週間も<ruby><rb>寝台</rb><rt>ねだい</rt></ruby>の上に寝ていたものが、久し振りに起きたのだから。」こう云って学士が片手を<ruby><rb>掴</rb><rt>つかま</rt></ruby>えると、女が反対の側の手を掴えた。そして両方から支えて、梯子段を連れて降りた。

病人の降りて来るのを見て、御者が帽を脱いで礼をした。向いの家の窓から女が二三人顔を出して、気の毒そうに見ている。学士と女とで、死人のように青い顔の病人を車へ連れ込むのを見て、<ruby><rb>家番</rb><rt>やばん</rt></ruby>の<ruby><rb>親爺</rb><rt>おやじ</rt></ruby>も手を貸そうとして進み出た。

車が出て行った跡で、家番と向いの家の<ruby><rb>女達</rb><rt>おんなたち</rt></ruby>と意味ありげな、同情のある目付きをして顔を見合せた。

## 四十六

最後の<ruby><rb>鐸</rb><rt>すず</rt></ruby>が鳴るまで、医学士が汽車の踏板に足を掛けて、マリイと雑談をしていた。

フェリックスは車室の隅に腰を掛けて、何事にも興味を有せないような様子をしている。その内汽笛が鳴り出したので、病人もようよう気が付いたらしく、学士の方へ向いて<ruby><rb>合点合点</rb><rt>がってんがってん</rt></ruby>をした。

汽車が動き出した。学士は<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>くの間、プラットフォオムに立ち止まって、見送っていたが、ゆるやかに<ruby><rb>踵</rb><rt>くびす</rt></ruby>を<ruby><rb>旋</rb><rt>めぐ</rt></ruby>らして帰った。

汽車が<ruby><rb>停車場</rb><rt>ていしゃじょう</rt></ruby>の屋根の下を離れるや否や、女は男の<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>へ腰を掛けて男の希望を尋ねた。コニャックの<ruby><rb>瓶</rb><rt>びん</rt></ruby>の栓を抜こうか、本を取って渡そうか、新聞を読んで聞かせようかというのである。男はその親切に感じたらしく、女の手を握った。そして「メランに着くのはいつだい」と問うた。女は<ruby><rb>確</rb><rt>しか</rt></ruby>とした時刻を覚えていなかった。そこで男は女に旅行案内を調べさせた。<ruby><rb>昼食</rb><rt>ひるしょく</rt></ruby>はどこで食べられるか、夜泊るのはどこであるか、などという事を調べたのである。その外いつも気にしない、色々な細かい事を調べさせた。それからこの列車に乗っている人の数は何人位だろうと<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>って、勘定をして見たり、その中に若夫婦がいるだろうかと云ったりした。それから暫くしてコニャックが飲みたいと云った。しかし一口飲むとひどく<ruby><rb>咳</rb><rt>せき</rt></ruby>が出たので、これからは自分が飲みたいと云っても、飲ませてくれては困ると、女に言い付けた。

その跡で男は新聞の中で気象の事の書いてあるところを女に読ませて、天気が<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>さそうだという予報を聞いて、満足らしく<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>いた。その時汽車は丁度ゼンメリングを通っていた。男は注意して窓の外の景色の変るのを見ていて、折々「<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い景色だな」などという。しかしその声の調子は、喜んで言うらしくは見えなかった。昼時分になると、女が用意して来た<ruby><rb>冷肉</rb><rt>ひやにく</rt></ruby>を出して食べさせた。その時男はコニャックを飲もうと云った。女がそれは悪かろうというと、男はひどくおこった。女は<ruby><rb>為方</rb><rt>しかた</rt></ruby>なしに少し飲ませた。今度は飲んでも障らずに、<ruby><rb>却</rb><rt>かえっ</rt></ruby>てひどく機嫌が好くなって、何事に付けても興味を有するようになった。窓の外に見える景色や、通過する停車場で見た事を批評するのである。その末にこう云った。「<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>がいつか読んだ物の中にソムナンビュウルの事が書いてあった。そいつは自分の病気に利く薬を夢に見て知ったのだ。どの医者も気の付かなかった薬だそうだ。その薬を飲むと病気が直ったと云ってあったよ。なんでも病人は自分のしたいと思う事をするに限ると、己は思う。」

「きっとそうなのよ」と、女が答えた。

「なんでも南の国に限る。南の国の空気が好いのだ。世間の人は南の国の空気の違うのは、<ruby><rb>暖</rb><rt>あたたか</rt></ruby>で年中花を咲かせるのと、オゾンが少し多いのと、<ruby><rb>嵐</rb><rt>あらし</rt></ruby>が吹いたり、雪が降ったりしないのと、ただそれだけだと思っている。実はその外にどんなものがあっちの空気の中に漂っているか、<ruby><rb>誰</rb><rt>たれ</rt></ruby>も知らないのだ。何か我々の夢にも知らない、秘密な物質を含んでいるかも知れないじゃないか。」

「<ruby><rb>兎</rb><rt>と</rt></ruby>に<ruby><rb>角</rb><rt>かく</rt></ruby>あっちへいらっしゃると、あなたきっと御丈夫にお成りなさいますわ。」女は病人の手を取って<ruby><rb>接吻</rb><rt>せっぷん</rt></ruby>した。

男は色々な事を話し続けた。イタリアでは大勢の画工に<ruby><rb>出逢</rb><rt>であ</rt></ruby>うだろうという事、古来王侯や芸術家が望んでロオマへ行ったという事、自分がマリイと知り合いになるよりよほど前に、一度ヴェネチアへ行った事があるという事などを話したのである。とうとう話し<ruby><rb>草臥</rb><rt>くたびれ</rt></ruby>て、腰掛の上に横になった。それからは夕方になるまでうとうとしていた。

## 四十七

女は向側に<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>って、男の様子を見ている。心持ちは割合に落ち着いている。ただ気の毒だという、軽い同情がある。男の顔は<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>にも青い。それに<ruby><rb>此頃</rb><rt>このごろ</rt></ruby>めっきり更けて見えるようになった。初め美しかったこの男の顔が、春頃からこの<ruby><rb>方</rb><rt>かた</rt></ruby>、どんなにか変っただろう。女の思うには、自分の<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>だって、折々青く見える事はあるが、この男の顔の色は、それとはまるで変っている。自分の顔は、青い時は<ruby><rb>却</rb><rt>かえっ</rt></ruby>て若く、娘らしく見える。男のは反対である。同じ青さでも、自分は青くなるのが、男と違って得なのである。こういう考えは、この時初めてはっきり心に浮んだ。こんな事を考え付いて、なぜそれが切なく思われないだろう。これはきっと男に対する同情が無くなったのではあるまい。多分近頃自分が極端に疲労していて、よしや折々気分が<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>くなったように思っても疲労が真に直る事がないからであろう。こんなに疲労しているのは、却て自分の<ruby><rb>為合</rb><rt>しあわ</rt></ruby>せである。もしこの疲労が無くなったら、男の身の上をどんなにか切なく感ずるだろう。そしていつかその感じをしなくてはならないかと思うと、それが今から如何にも恐ろしい。

こんな事を考えながら女は<ruby><rb>寐入</rb><rt>ねい</rt></ruby>ってしまったが、ある一<ruby><rb>刹那</rb><rt>せつな</rt></ruby>にその眠りが突然<ruby><rb>醒</rb><rt>さ</rt></ruby>めた。あたりを<ruby><rb>見廻</rb><rt>みまわ</rt></ruby>せば、ほとんど真っ暗になっている。車室の天井に下がっている明りには<ruby><rb>布</rb><rt>きれ</rt></ruby>が掛けてあるので、室内は鈍い緑色に照されている。窓の外は<ruby><rb>闇夜</rb><rt>やみよ</rt></ruby>である。丁度長い、長いトンネルを通って行くような気がする。

なぜ驚いて目を醒ましたのだろう。進行する汽車の車輪の音が、単調に聞えている外には、あたりに物音はしないのである。

<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>くして目が薄明りに慣れたので、男の顔が見えて来た。よく眠っているらしい。少しも体を動かさずにいる。暫く見ているうちに、<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち男は深い<ruby><rb>溜息</rb><rt>ためいき</rt></ruby>を<ruby><rb>衝</rb><rt>つ</rt></ruby>いた。気味の悪い、訴えるような声が出た。それを聞いて、女は<ruby><rb>動悸</rb><rt>どうき</rt></ruby>がし出した。さっき驚いて目を醒ましたのは、多分今のような溜息を聞いたからであろう。

こう思った<ruby><rb>直</rb><rt>す</rt></ruby>ぐ跡で、女はまたびっくりした。それはよくよく男を見ると、眠ってはいないのである。男は目を大きく、大きく見開いている。それがはっきり見える。この<ruby><rb>空</rb><rt>くう</rt></ruby>に向い、遠方に向い、暗黒に向って開いている目が、女のためには気味が悪くってならない。その内男はまたうめいた。その声は前よりも気味悪く訴えるようである。それから男は身を動かして、また溜息を衝いた。しかし今度のは苦しげではなくて、むしろ荒々しいのである。

突然男は両手を腰掛の布団の上に突いて身を起して、両足で、掛けてあった<ruby><rb>鼠色</rb><rt>ねずみいろ</rt></ruby>の<ruby><rb>外套</rb><rt>がいとう</rt></ruby>を下へ<ruby><rb>蹴落</rb><rt>けおと</rt></ruby>して、立ち上がろうとした。しかし汽車の動揺に妨げられて、また腰掛の隅へ倒れ掛かった。

女は驚いて飛び起きた。そして明りに掛けてある緑色の<ruby><rb>紗</rb><rt>しゃ</rt></ruby>を<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>けようとした。そのとたんに女は男に抱き付かれた。

がたがた<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>えている女を、男は自分の<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>の所へ引き据えて、<ruby><rb>咳嗄</rb><rt>しわがれ</rt></ruby>た声で、「マリイ、マリイ」と呼んだ。

女は振りほどこうとしたが、それが出来なかった。健康であった時と同じ程な力を<ruby><rb>恢復</rb><rt>かいふく</rt></ruby>したらしい様子で、男はしっかり女を抱き締めた。そして唇を女の<ruby><rb>領</rb><rt>えり</rt></ruby>の側へ寄せて<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>くのである。

「マリイ。覚悟をしているか。」

女にはその意味がちょっと分からなかった。ただ際限もなく恐しいと感ずるだけである。しかし抵抗する力はない。叫ぼうと思っても声が出ない。

「覚悟をしているか」と、男は繰り返した。しかし男の手が少し緩んだので、男の唇、その息、その声が前より遠くに離れて感ぜられた。そして女は前より楽に息が出来るようになった。その時女はようようの事で、恐る恐る<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>った。「どうしようと<ruby><rb>仰</rb><rt>おっし</rt></ruby>ゃるの。」

「<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>のいう事が分らないのか。」

「放して下さい、放して下さい。」女は叫ぶように云ったが、その声は進行している汽車の響に消されてしまった。

男は少しも女の言う事に構わない。しかし手だけは放した。女は男の膝元から起き上がって、向いの腰掛の隅に<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>った。

## 四十八

「<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>の言う事が分からないのか」と、男は繰り返した。

「どうしようと<ruby><rb>仰</rb><rt>おっし</rt></ruby>ゃるの。」と、女が向いの腰掛の隅で<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>いた。

「己は返事が聞きたい。」

女は黙って<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>えている。そして早く夜が明ければ<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いと思うのである。

男は<ruby><rb>前屈</rb><rt>まえかが</rt></ruby>みになって小声で<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>った。「もう時間が切迫して来るから、お前の覚悟は好いかと問うのだ。」前屈みになって云うので、今度ははっきり聞えた。

「時間と仰ゃるのは。」

「お前と己との時間だ。」

男の心持ちが分かったので、女は<ruby><rb>咽</rb><rt>のど</rt></ruby>を締め付けられるような気がして、何も言う事が出来ずにいる。

「お前、覚えているだろうな。この事をお前に相談する権利を、お前は己にくれた事がある。覚えているだろうな。」男の声は少し優しくなって、ほとんど嘆願するように聞える。男は女の両手を取った。

男の<ruby><rb>詞</rb><rt>ことば</rt></ruby>は気味の悪い詞であるが、その目が前のように<ruby><rb>空</rb><rt>くう</rt></ruby>を<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>んでいないのと、その声が前ほど人を<ruby><rb>嚇</rb><rt>おど</rt></ruby>すようでないのとのために、女は少し落ち着いた。今見れば男は自分に頼んでいるようである。

男はまた「お前、覚えているだろうね」と繰返したが、今度はその声が泣き出しそうに聞えた。

女はこの時ようよう物の言われるまでに、力を<ruby><rb>恢復</rb><rt>かいふく</rt></ruby>した。そしてまだ唇を顫わせながら云った。「あなた、それは子供らしい事ですわ。」

男は女の詞が耳に<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>らないらしい様子をして、半分忘れた事を、再びはっきり思い浮べるように穏かな調子で云った。「もうお<ruby><rb>暇乞</rb><rt>いとまご</rt></ruby>いが近くなった。お前と一しょに行ってしまわなくってはならない。己<ruby><rb>達</rb><rt>たち</rt></ruby>二人の時間がおしまいになるのだよ。」

女のためには、この詞が自分を縛って、自分の運命を<ruby><rb>極</rb><rt>き</rt></ruby>めてしまって、逃れようのないようにするらしく聞えた。低い声で囁いたのであるが、<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>にも力強く聞えた。もし同じ詞でも、荒々しく嚇すように言われたなら、抗抵しようもあったのだろう。しかし今のように静かに言われると、なんとも答える事が出来ない。<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>くして男が少し前へ寄って来たので、女の恐怖は極端に達した。今少しで男に飛び付かれて、咽を締められるのではあるまいかと思ったのである。そこで車室の反対の隅に飛び<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>いて<ruby><rb>硝子窓</rb><rt>ガラスまど</rt></ruby>を打ち破ってでも、人に救いを求めようかと思った。

しかしその瞬間に、男は女の手を放して、体を<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>へ寄せ掛けて、もうこの上何も言う事はないというような様子をした。

「あなたはほんとに分からない事を仰ゃるわ。これから南の方へいらっしゃって、すっかり丈夫にお成りなさるのではありませんか。」女はこう云って見た。

男は<ruby><rb>向側</rb><rt>むこうがわ</rt></ruby>で体を<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>に寄せ掛けて、物を案じている。

女は立ち上がって、明りに<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>せてある緑色の<ruby><rb>紗</rb><rt>しゃ</rt></ruby>を<ruby><rb>除</rb><rt>の</rt></ruby>けた。まあ、明るくなっただけでも、どんなにか力強く感ぜられるだろう。明るくなってからは、胸の<ruby><rb>動悸</rb><rt>どうき</rt></ruby>が鎮まって恐怖が薄らいだ。女は元の所へ<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>った。

男は<ruby><rb>床</rb><rt>ゆか</rt></ruby>を<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>んでいたが、この時顔を上げて女と目を見合せた。そしてゆっくり云った。「マリイ。己は<ruby><rb>夜</rb><rt>よ</rt></ruby>が明けたって、もう<ruby><rb>馬鹿</rb><rt>ばか</rt></ruby>な望みは起さない。南の方へ行ったって駄目だ。きょうそれが己にはっきり分かったのだ。」

なぜあんなに落ち着いて来たのだろうと、女は思った。安心させて<ruby><rb>騙</rb><rt>だま</rt></ruby>すのではあるまいか。逃げ出されては困ると心配して、あんな<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>をするのではあるまいか。こう思って、女は用心する気になった。そして男が何を言っても、その詞には耳を貸さないで、熱心に男の様子を観察している。その<ruby><rb>目附</rb><rt>めつ</rt></ruby>き、その体の運動に一々注意している。

男が云った。「お前には意志の自由がある。<ruby><rb>仮令</rb><rt>たとえ</rt></ruby>これまでに己に誓った事があっても、己はお前に約束を履行しろというのではない。お前に脅迫しようとは思わない。まあ、その手を握らせてくれ。」

## 四十九

女は握手した。しかし自分の手を上にするだけの注意をした。

「早くその時になれば<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い」と、男は<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>いた。

「わたしあなたに忠告しますわ。少しお眠りなさるが好いのよ。もう今に<ruby><rb>夜</rb><rt>よ</rt></ruby>が明けます。そしてメランに一二時間で着くのです。」

「<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>はもう<ruby><rb>寐</rb><rt>ね</rt></ruby>られない」と、男は<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>って顔を上げた。そして女と目を見合せて女の表情に、自分を疑って自分を<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>っているところがあるのに気が付いた。そして女の腹がすっかり分ったと思った。どうも女は己を寐かし付けて、次の<ruby><rb>停車場</rb><rt>ていしゃじょう</rt></ruby>でそっと降りて逃げようとしているらしい。こう思うと、なんともかとも云われない心持ちになったので、男は叫んだ。「お前なにかたくらんでいるね。」

女はぎっくりとした。「いいえ。」

男は立ち上がろうとした。

その様子を見るや否や、女は車室の反対の隅へ<ruby><rb>駈</rb><rt>か</rt></ruby>けて行ったので、男との距離が大ぶ大きくなった。

しかし男はただ「息が、息が」と苦しそうに云って、慌ただしく窓を明けて、首を外へ出した。急に立ち上がろうとしたのは、呼吸が苦しくなったからであった。

女は安心して、また男の<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>へ戻って、窓から首を出している男を<ruby><rb>徐</rb><rt>しず</rt></ruby>かに腰掛の上へ引き据えた。

「あなたそれはお<ruby><rb>為</rb><rt>た</rt></ruby>めに悪いわ。」

男は苦しげに息をしながら、腰掛の隅に<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>っている。

女は片手を窓の<ruby><rb>縁</rb><rt>ふち</rt></ruby>に掛けて、<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>く男の側に立っていたが、また自分の元の席に帰った。暫くして男は楽な息をするようになって、その唇には軽い<ruby><rb>微笑</rb><rt>ほほえ</rt></ruby>みが見えた。女は気の毒げに、心配らしく男の顔を見た。「窓を締めましょうね。」

男は<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>いた。そして「朝だ、朝だ」と叫んだ。この時地平線に赤み掛かった灰色の横雲が見えて来た。

二人は暫く黙って向き合っていた。それから男が、さっきの微笑みを口の<ruby><rb>周囲</rb><rt>まわり</rt></ruby>に見せて云った。「お前は覚悟が悪いね。」

女は何か不断の調子で言って<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>りたかった。男の言う事が子供らしいとか、なんとか云いたかったのである。しかし男の微笑みに打ち破られて、その<ruby><rb>詞</rb><rt>ことば</rt></ruby>は出されなかった。

汽車が速度をゆるめた。数分間にして、<ruby><rb>朝食</rb><rt>あさしょく</rt></ruby>をするはずの停車場に着いた。

プラットフォオムには給仕がパンや<ruby><rb>珈琲</rb><rt>コオフィイ</rt></ruby>を持って駈け<ruby><rb>廻</rb><rt>まわ</rt></ruby>っている。旅客の中には、ここで下車するものもある。人の呼び交す声が<ruby><rb>喧</rb><rt>かまびす</rt></ruby>しい。

女は恐ろしい夢の<ruby><rb>醒</rb><rt>さ</rt></ruby>めたような心持ちがした。この世の常の停車場生活が、<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>にも快いのである。自分の体になんの危険もないと思うので、すっかり安心して、座を立って、プラットフォオムを眺めていたが、とうとう一人の給仕に手招きをして呼び寄せて、一杯の珈琲を買った。

男は女の珈琲を飲むのを眺めていたが、女が勧めても、首を振って聴かなかった。

## 五十

間もなく汽車がまた動き出した。<ruby><rb>停車場</rb><rt>ていしゃじょう</rt></ruby>の屋根の下を出離れると、本当の昼の明りになった。なんという<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い天気だろう。それに向うには朝日に赤く染められた山々が<ruby><rb>聳</rb><rt>そび</rt></ruby>えている。女はもう夜になっても、こわがらずにいられそうだと思った。男は折々窓の外を眺めて、なるたけ女と目を見合せないようにしている。ゆうべの事を少しは恥かしく思っているのだなと、女は思った。

汽車は少しずつ行って一二度<ruby><rb>停</rb><rt>と</rt></ruby>まった。それからメラン停車場に<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>ったのは、夏のように暖かく日の差している午前であった。

「さあ、着きました。やっとの事で。」女が<ruby><rb>嬉</rb><rt>うれ</rt></ruby>しそうにこう<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>った。

二人は馬車を雇って、<ruby><rb>似合</rb><rt>にあ</rt></ruby>わしい家を捜して歩いた。「別に倹約をしなくても好い、まだ<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>の財産が無くなりはしないから」とフェリックスが云った。<ruby><rb>貸家</rb><rt>かしや</rt></ruby>があるたびに、<ruby><rb>馭者</rb><rt>ぎょしゃ</rt></ruby>に車を留めさせて、マリイが間取りの様子や庭などを見て来る間、男は車の中に待っていた。

程なく気に入った家を見付けた。小さい家で、中二階のように出来ている。それに小さい庭が付いている。マリイは<ruby><rb>家主</rb><rt>いえぬし</rt></ruby>を連れて出て来て、車の中に<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>っている男に、この貸別荘の好い所を話させた。男は別に異議がなかったので、数分時間の<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>に、二人はその家を借り受けた。

女は<ruby><rb>忙</rb><rt>いそが</rt></ruby>しそうに片付け物をしているのに、男は構わずに寝部屋へ這入った。寝部屋の中だけは男もざっと様子を<ruby><rb>見廻</rb><rt>みまわ</rt></ruby>した。随分広くて気持ちが好い。明るい緑色の形紙で壁が張ってある。大きい窓が開けてあるので、庭から這入った草木の<ruby><rb>匀</rb><rt>におい</rt></ruby>が部屋一ぱいに満ちている。窓に向き合って、<ruby><rb>寝台</rb><rt>ねだい</rt></ruby>が二つ据えてある。男は<ruby><rb>草臥</rb><rt>くたびれ</rt></ruby>切っていたので、<ruby><rb>直</rb><rt>すぐ</rt></ruby>にその一つに寝転んだ。

その<ruby><rb>隙</rb><rt>ひま</rt></ruby>にマリイは家主の女にそこらを見せて<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>って、庭に出て見てひどく喜んだ。庭は高い格子のような<ruby><rb>柵</rb><rt>さく</rt></ruby>で囲んである。裏門が付いていて、家の中を抜けずに這入って来られるようにしてある。その裏門の外は広い道で、そこから停車場へは真っ直で、街道を<ruby><rb>過</rb><rt>よ</rt></ruby>ぎるよりは早く<ruby><rb>往来</rb><rt>ゆきき</rt></ruby>する事が出来るのである。

部屋へ帰って見ると、男は元のままに<ruby><rb>寝台</rb><rt>ねだい</rt></ruby>の上に寝ていた。声を掛けて見たが返事をしない。ずっと近く寄って見ると、顔の色がいつもより一層青く見えた。もう一遍呼んで見たが、やはり返事をしない。また身動きもしない。

女はひどく驚いて家主の女を呼んで、医者を<ruby><rb>請待</rb><rt>しょうだい</rt></ruby>する事を頼んだ。家主の女が出て行った、<ruby><rb>直</rb><rt>す</rt></ruby>ぐ跡で、男は目を<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>いた。しかし何か言おうとして起き上がったが、直ぐ苦しげな顔をして倒れて、うめき声を出している。口の<ruby><rb>角</rb><rt>すみ</rt></ruby>から血が少し流れている。女は途方に暮れて<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>に寄って見詰めていた。それからもう医者が来そうなものだと、戸口へ走って行ったり、また病人の側へ戻って来て、名を呼んで見たりした。そして心の内で、アルフレットさんがいてくれたらと思った。

ようようの事で医者が来た。<ruby><rb>頬髯</rb><rt>ほおひげ</rt></ruby>の白い老人である。女は出迎えて、「どうぞどうにかして上げて下さいまし」と云った。それから逆上している気分を出来るだけ落ち着けて、これまでの様子を話した。

医者は病人の様子を見て、脈を取って今血を<ruby><rb>吐</rb><rt>は</rt></ruby>いたばかりのところだから、<ruby><rb>精</rb><rt>くわ</rt></ruby>しい診察は出来ないと云って、色々養生の事を話した。

医者が帰り掛けるので、女は門口まで送って行って、「どうでございましょう」と問うた。

「まだなんとも云われませんね。<ruby><rb>先</rb><rt>ま</rt></ruby>ず<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>く忍耐して御様子を見ておいでなさい。決して失望するには及びません。」医者はこう答えた。そして今晩また見に来るという約束をして、馬車に乗って、優しく平気な様子で会釈をして、帰って行った。その様子がまるで形式的な訪問をした人のようであった。

女はちょっと途方に暮れて立っていたが、<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち思い<ruby><rb>附</rb><rt>つ</rt></ruby>いた事があるらしく、一人<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>いて郵便局へ<ruby><rb>駈</rb><rt>か</rt></ruby>けて行った。医学士に<ruby><rb>宛</rb><rt>あ</rt></ruby>てた電報を打ったのである。

電報を打ってしまうと、気分がよほど落ち着いた。そこで内へ帰って、留守中病人の世話をしてくれた家主の女に礼を云って、着いた早々色々世話になって済まないが、いずれお礼をすると誓った。

男は旅行服のままで、<ruby><rb>生気</rb><rt>しょうき</rt></ruby>を失って<ruby><rb>床</rb><rt>とこ</rt></ruby>の上に寝ている。しかし息はよほど楽になった。

マリイが病人の<ruby><rb>枕元</rb><rt>まくらもと</rt></ruby>に腰を掛けていると、家主の女が慰めて、これまで大病人がこのメランに来て直った話をした。それから自分も若い時病身であったが、今はこの通り丈夫になっていると云った。それから身上話しをし出した。この女は随分不幸な目に<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>ったというのである。亭主は結婚してから二年立つと死んでしまった。息子は遠方に行っている。望みを言えば限りはないが、今この家を預って人に貸しているのは、自分の身の上に取っては不足ではない。本当の家主はポオゼンに住んで居て、月に二度位見廻りに来るだけである。こんな風に色々細かい事まで話し出して、大層親切そうにする。それから荷物をほどく手伝いをしようというので、マリイは喜んで手伝って貰った。

## 五十一

程なく<ruby><rb>昼食</rb><rt>ひるしょく</rt></ruby>を運んで来た。病人のと<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>って、牛乳が添えてある。

その内病人が少し体を動かした。なんだか気が付きそうな様子である。<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>くして実際気が付いたと見えて、頭をあちこち動かして、とうとう自分の上にかぶさるようにして看病しているマリイの顔に目を付けた。そしてにっこりして、静かに手を握った。「一体<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>はどうしたのだろう。」

午後になって医者が来た。大分様子が<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いからというので、着物を着換て、<ruby><rb>寝台</rb><rt>ねだい</rt></ruby>に寝るように差図した。病人はおとなしく医者の言うがままにしていた。

マリイは病人の<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>を離れずにいる。まあ、なんという長い半日だろう。医者の言付けで開けて置いた窓から、庭の草木の<ruby><rb>匀</rb><rt>におい</rt></ruby>がほのかに<ruby><rb>通</rb><rt>かよ</rt></ruby>って来る。あたりはひっそりしている。マリイは日の光が<ruby><rb>床</rb><rt>ゆか</rt></ruby>の上に落ちてきらきらしているのを、無心で眺めている。その手を病人は握って放さずにいる。男の手は冷たくて湿っている。それが女には心持ちが悪い。女は折々何か言おうと思って、<ruby><rb>力</rb><rt>つと</rt></ruby>めて口を<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>く。「もう大分好いでしょう。それ御覧なさいな。あなた何も言うのではありませんよ。物を<ruby><rb>仰</rb><rt>おっし</rt></ruby>ゃっては悪いのですから。あさってあたりはきっと庭に出て御覧なさる事が出来ますわ。」

男は<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>いて<ruby><rb>微笑</rb><rt>ほほえ</rt></ruby>むのである。

女は心の内に、いつアルフレットさんが着くだろうかと、時間の勘定をしている。あすの夕方には来られるはずである。そうして見ればまだ一晩と一日だけは待たなくてはならない。ほんにあの方が早く来て下されば好い。

半日が<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>にも長い。日は<ruby><rb>入</rb><rt>い</rt></ruby>った。部屋が次第に薄暗くなって来る。しかし庭の方を見れば、白い砂の敷いてある道の上や、格子になっている<ruby><rb>柵</rb><rt>さく</rt></ruby>に、黄いろい日の光がまだあたっている。

突然男が「マリイ」と呼ぶのが聞えた。庭の方を見ていた女が、急に病人の方へ振り向いた。

「もう大ぶ好いよ」と、男が意外に大きい声で云った。

「そんなに大きな声をしてはいけませんよ」と、女が優しく<ruby><rb>留</rb><rt>と</rt></ruby>めた。

「大ぶ好い。今度のは<ruby><rb>旨</rb><rt>うま</rt></ruby>く経過したようだ。これが病気の転機になるのかも知れない。」今度は<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>くように云った。

「きっとそうですわ。」裏書をするように女が云った。

「己は空気が好いから<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>くなりそうに思うのだ。しかし今のような<ruby><rb>奴</rb><rt>やつ</rt></ruby>がまた来てはかなわない。今度は駄目だ。」

「だって、もう御気分が好いじゃありませんか。」

「いや。<ruby><rb>兎</rb><rt>と</rt></ruby>に<ruby><rb>角</rb><rt>かく</rt></ruby>お前は親切だよ。好く気を付けていてくれ。」

「そんなことは仰ゃるまでもありませんわ。」女は少し不平らしく云った。

「己がいよいよ行く時には。お前も一しょに連れて行くのだよ。」男はこう囁いた。

その<ruby><rb>詞</rb><rt>ことば</rt></ruby>を聞くと同時に、女は非常に恐怖に襲われた。なぜこんなにこわいのだろう。何もこの男がこっちに危険を加えようとは思われない。暴行を加えようと云っても、もうこんなに弱くなっていてはそれは出来ない。体力から言って見れば、今ではこっちの方が病人の十倍も強い。一体男はどうしようと思っているのだろう。今も<ruby><rb>空</rb><rt>くう</rt></ruby>を見たり壁の方を見たりしているが、なんと思ってあんなに<ruby><rb>見廻</rb><rt>みまわ</rt></ruby>しているのだろう。もう一人で起き上がる事も出来そうにはない。それに刃物なんぞは持っていない。それとも毒でも持っているのだろうか。事に<ruby><rb>依</rb><rt>よ</rt></ruby>ったら、どうにかして毒を手に入れて、現に持っていて、それをこっちの飲むものに入れようとするかも知れない。それにしてもその毒はどこにしまってあるだろう。さっきも着物はこっちが着せ替えて<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>った。<ruby><rb>粉薬</rb><rt>こぐすり</rt></ruby>か何かを紙入に入れて持っていはしないか。紙入はあの上着にあるはずである。いやいや。さっきのような事を言ったのは、あれは熱が言わせたのだ。それにあんな事を言って、こっちを苦しめようと思うだけの事かも知れない。

## 五十二

しかし熱があんな事を言わせるとして見れば、同じ熱がどんな事を実行させないにも限らない。事に<ruby><rb>依</rb><rt>よ</rt></ruby>ったらこっちが眠っている内に、<ruby><rb>咽</rb><rt>のど</rt></ruby>を締めようとするかも知れない。それは格別力がなくても出来る事である。その時気を失ったら、跡はどうせられるか分からない。なんでも今夜は<ruby><rb>寐</rb><rt>ね</rt></ruby>ずにいなくてはならない。あしたはアルフレットさんが来るのだから。

日が段々暮れて来た。もう夜になった。病人はその<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>一<ruby><rb>言</rb><rt>こと</rt></ruby>もものを言わない。もう口の<ruby><rb>周囲</rb><rt>まわり</rt></ruby>に見えていた<ruby><rb>微笑</rb><rt>ほほえ</rt></ruby>みの影も消えた。今は<ruby><rb>真面目</rb><rt>まじめ</rt></ruby>な、陰気な顔をして<ruby><rb>空</rb><rt>くう</rt></ruby>を見詰めている。

暗くなり切った時、<ruby><rb>家主</rb><rt>いえぬし</rt></ruby>の女が<ruby><rb>蝋燭</rb><rt>ろうそく</rt></ruby>を<ruby><rb>点</rb><rt>とも</rt></ruby>して来て、病人の寝ている<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>の、今一つの<ruby><rb>寝台</rb><rt>ねだい</rt></ruby>を<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えに掛かった。それを見てマリイはそれには及ばぬと、<ruby><rb>手真似</rb><rt>てまね</rt></ruby>で知らせた。

それが病人に分ったと見えて、「なぜ拵えさせないのだ」と<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>った。それから<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>を置かずに、「そんなにしなくても<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い、お前も寝なくてはいけない、<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>はもうこんなに好いのだから」と言い足した。

この病人の<ruby><rb>詞</rb><rt>ことば</rt></ruby>が、マリイの耳には<ruby><rb>嘲</rb><rt>あざけ</rt></ruby>りのように聞えた。

女はとうとう寝台へ行かずにいた。病人の寝台の側で目を<ruby><rb>瞑</rb><rt>ねむ</rt></ruby>らずに、長い沈黙の<ruby><rb>夜</rb><rt>よ</rt></ruby>を過している。病人は大抵静かにしている。女は折々病人が寐た振りをして、こっちに安心をさせようと思うのではないかと疑った。病人の顔を<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>く見ようと思っても、蝋燭がちら付いて、病人の目の<ruby><rb>周囲</rb><rt>まわり</rt></ruby>や、口の<ruby><rb>脇</rb><rt>わき</rt></ruby>に、<ruby><rb>痙攣</rb><rt>けいれん</rt></ruby>するような運動があるように見えたり、またそれが明りのせいのように思われたりして、どうもしかと見定められない。

女は立って窓まで出て庭の方を眺めた。外は鈍い青色を帯びた<ruby><rb>闇</rb><rt>やみ</rt></ruby>である。少し乗り出して仰いで見ると、庭の木立の真上の所に月が出ている。風はちっとも吹かない。あたりが<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>にも静かで、何一つ動くものがないので、<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>くじっと見ていると、向うにはっきり見えている<ruby><rb>外囲</rb><rt>そとがこい</rt></ruby>の<ruby><rb>柵</rb><rt>さく</rt></ruby>がじりじりと手前の方へ寄って来て、暫くしてまた留まるように見える。

夜中過ぎに病人が目を<ruby><rb>醒</rb><rt>さ</rt></ruby>ました。女は<ruby><rb>枕</rb><rt>まくら</rt></ruby>の<ruby><rb>歪</rb><rt>ゆが</rt></ruby>んだのを直して<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>った。その時ふと思い付いて指で枕の下を捜して見た。何か隠してありはしないかと思ったのである。しかしなんにも無かった。

女の耳には「お前を連れて行く、お前を連れて行く」という詞が絶えず響いている。しかし好く思って見れば、男が真面目にそう思っていたら、そんな事を言うはずがないようでもある。男が実際何かたくらむ程の気力を持っているだろうか。もし持っているとしたら、飽くまで目的を隠して、けどられないようにすべきではあるまいか。事に依ったらこっちは病人の<ruby><rb>譫語</rb><rt>うわこと</rt></ruby>を気にして、子供らしく恐れているのかも知れない。

女は段々眠たくなって来た。そこで万一の用心に、自分の<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>をずっと遠くへいざらせた。しかしどうしても寐入らない積りでいる。

その<ruby><rb>内</rb><rt>うち</rt></ruby>思想が段々<ruby><rb>不明瞭</rb><rt>ふめいりょう</rt></ruby>になって来た。昼間の明るい意識から次第に灰色の夢の薄明りに<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>って行く。昔の記念が浮ぶ。楽しかった時代の昼の事、夜の事が思い出される。男が自分の体を抱いていてくれて、部屋の内に、新春の息が<ruby><rb>通</rb><rt>かよ</rt></ruby>っていた時の事を思い出す。

女は庭の物の<ruby><rb>香</rb><rt>か</rt></ruby>が自分の<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>っている所まで這入って来なくなったように思った。窓の所まで行って、その<ruby><rb>香</rb><rt>か</rt></ruby>を吸い込みたいのである。なんだか病人の髪の毛から、<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>な甘ったるい<ruby><rb>匀</rb><rt>におい</rt></ruby>が立ち昇って部屋中に満ちているように思うのである。

いよいよおしまいになったらどうだろう。この「おしまいになったら」という事を思て見ても、もう別段驚きもしない。心の底の恐ろしい願いを、「当人も楽になるのだから」という偽善の同情で覆い隠す、この<ruby><rb>如何</rb><rt>いかが</rt></ruby>わしい詞が口の内に浮んで来ても、もう驚かなくなっている。そうなったらどうだろう。女は自分の体が外の庭に出て腰を掛けていて、その顔が青ざめ、目が泣き<ruby><rb>腫</rb><rt>は</rt></ruby>れているのを見るように思う。しかしこの悲哀の<ruby><rb>徴</rb><rt>しるし</rt></ruby>はただ上辺ばかりである。心の内には、これまで久しく味わずにいた、<ruby><rb>嬉</rb><rt>うれ</rt></ruby>しい平和が来ている。見ている内にその姿が立ち上がって柵の外へ出て、道をゆっくり歩いて行く。もうどこへでも自由に行かれるのである。

## 五十三

こんなにぼんやりした想像をしていながら、女は男の<ruby><rb>寐息</rb><rt>ねいき</rt></ruby>を聞く事を怠らない。寐息は折々うめき声になる。

<ruby><rb>夜</rb><rt>よ</rt></ruby>は次第に明けて来た。やっと明るくなったと思うと、<ruby><rb>家主</rb><rt>いえぬし</rt></ruby>の女が来て交代してくれようと<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>った。マリイは<ruby><rb>嬉</rb><rt>うれ</rt></ruby>しそうに同意して、病人を一目見て、次の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>へ出た。そこには家主の女が<ruby><rb>長椅子</rb><rt>ながいす</rt></ruby>を寝床に<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えて置いてくれたのである。まあ、なんという<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い心持ちだろう。女は着物を着たまま横になって、<ruby><rb>直</rb><rt>す</rt></ruby>ぐに目を閉じた。

よほど時間が立ってからマリイは目を<ruby><rb>醒</rb><rt>さ</rt></ruby>ました。部屋は気持ちの<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い薄明りになっている。<ruby><rb>鎧戸</rb><rt>よろいど</rt></ruby>を締めた窓から日の光が狭い筋になって差し込んでいる。女は急いで起き上がって、直ぐに自分の現在の位置をはっきり考える事が出来た。きょうは医学士のアルフレットさんが着くはずである。これから<ruby><rb>出逢</rb><rt>であ</rt></ruby>わなくてはならない、<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>くの間の陰気な<ruby><rb>境界</rb><rt>きょうがい</rt></ruby>に対して、この人の来るという事がよほど力になるのである。

女は<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>せずに病人の部屋に<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>った。戸を開けた当座一秒時間程は病人の寝床に掛けてある白い<ruby><rb>布</rb><rt>きれ</rt></ruby>に目を射られて、物が見えなかった。暫くしてから見ると<ruby><rb>家主</rb><rt>いえぬし</rt></ruby>の女がいる。それが指先を口に当てて、物を言うなという合図をして<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>から立ち上がって、爪先で歩きながら、マリイを出迎えた。そして「<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>くお休みです」と<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>いて、それから今までの様子を話した。一時間程前までは、熱がひどい様子で目を<ruby><rb>醒</rb><rt>さ</rt></ruby>ましていて、二三度奥さんの事を聞かれた。朝早くお医者が来て見たが、容体は前と変った事もないという事であった。その時奥さんを起そうかと思ったが、医者がそれには及ばないと<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>った。医者は午後の内に、また一度来て見るはずだというのである。

マリイはこの話しを注意して聞いて、自分に代って看病してくれた礼を言って、病床の側の椅子に腰を掛けた。

きょうは暖かい日である。ほとんど蒸し蒸しすると云っても好い位である。もう正午に<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>もあるまい。庭の方を見れば、静かな重くろしい日の光が差している。

<ruby><rb>寝台</rb><rt>ねだい</rt></ruby>の上を見て、最初に目に付いたのは、病人の両手である。両手は着布団の上に出ていて、折々ぴくぴくと動いている。それから顔を見れば<ruby><rb>下顎</rb><rt>したあご</rt></ruby>が締りなくたるんで、唇が<ruby><rb>軽</rb><rt>かろ</rt></ruby>く明いている。色は死人のように青い。数秒時間呼吸の<ruby><rb>息</rb><rt>や</rt></ruby>んでいる時がある。それから<ruby><rb>上面</rb><rt>うわつら</rt></ruby>でするような、<ruby><rb>啜</rb><rt>すす</rt></ruby>るような息をする。

「事に<ruby><rb>依</rb><rt>よ</rt></ruby>ったらアルフレットさんの来ない内に、死んでしまうのではあるまいか」と、女はちょっと思った。今<ruby><rb>寐</rb><rt>ね</rt></ruby>ている病人の様子を見れば、顔付きに悩んでいる青年の表情が見える。ひどい苦痛の跡の<ruby><rb>弛緩</rb><rt>ちかん</rt></ruby>、勝算の無い闘いの跡の<ruby><rb>諦</rb><rt>あきら</rt></ruby>めが見える。こういう容態が昨今暫らくの<ruby><rb>間</rb><rt>あいだ</rt></ruby>見えずにいたという事に、女は急に気が付いた。それは病人が女を見るたびに、その顔に不平が現われていたからである。多分今は夢の中でも女を憎んではいまい。あんなに美しい顔付きになっているから。

女は今目を醒ましてくれれば好いと思った。そしてじっと病人を見ていると、なんとも言われない悲しみと<ruby><rb>悔</rb><rt>くや</rt></ruby>みとが起って来る。今ここで死に掛かっているのは恋人に違いない。女は急に<ruby><rb>避</rb><rt>さ</rt></ruby>くべからざる、恐ろしい運命に自分が襲われるのだという事を感じて、一<ruby><rb>時</rb><rt>じ</rt></ruby>に何もかも分かったように思った。やはりこの男が我が幸福、我が生命であったのだ。自分はこの男と一しょに死んでも好いとまで、思った事もあった。それにその男の帰らぬ旅に赴く一<ruby><rb>刹那</rb><rt>せつな</rt></ruby>が、今迫って来ているのである。こう思って見れば、これまで一<ruby><rb>時</rb><rt>じ</rt></ruby>自分の胸の上にかぶさっていた冷やかさ、何日も続いていた無情が<ruby><rb>解</rb><rt>かい</rt></ruby>せられないもののようになって来る。それでも今はまだ男が生きている。息もしている。夢でも見ているかも知れない。しかしもう程なく死んでしまうだろう。そして葬られてしまうだろう。どこかの静かな墓地の土の下に<ruby><rb>埋</rb><rt>うめ</rt></ruby>られて、次第に朽ちて行くのに、その土の上では何事もない日が立って行く事だろう。そして自分は生き残って、<ruby><rb>人交</rb><rt>ひとまじわ</rt></ruby>りもするだろう。自分の愛していた男は沈黙した墓の中にいるという事を知っていながら、人交りもするだろう。

女の顔を伝わって、涙が<ruby><rb>止所</rb><rt>とめど</rt></ruby>もなく流れる。とうとう女は声を立てた。その時病人が動いた。女は急いでハンカチイフで<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>を<ruby><rb>拭</rb><rt>ふ</rt></ruby>いた。その時病人は目を<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>いて、何か問いたそうな<ruby><rb>目附</rb><rt>めつ</rt></ruby>きで、暫く女をじっと見ていた。しかし何も言わなかった。それから二三分立ってから、男が「おいで」と<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>いた。

女は椅子から立ち上がって、男の上に身を<ruby><rb>屈</rb><rt>かが</rt></ruby>めた。

## 五十四

男は腕を伸ばして女の<ruby><rb>頸</rb><rt>くび</rt></ruby>を<ruby><rb>抱</rb><rt>だ</rt></ruby>きそうにしたが、それを<ruby><rb>止</rb><rt>や</rt></ruby>めて、また腕を卸した。

「お前泣いたのか。」

「いいえ」と女は急に答えて、額に<ruby><rb>飜</rb><rt>こぼ</rt></ruby>れ掛かっている髪を<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>き上げた。

男はまたじっと<ruby><rb>真面目</rb><rt>まじめ</rt></ruby>に女の顔を見て、それから顔を<ruby><rb>反</rb><rt>そむ</rt></ruby>けた。何か物を案じている様子である。

女は考えた。それは医学士に電報を打った事を、病人に打ち明けて話したものだろうか、どうだろうかと<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>う問題である。<ruby><rb>友達</rb><rt>ともだち</rt></ruby>が来るのだから、知らせた方が<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>くはあるまいか。いやいや。そんな必要はあるまい。なに、学士が来た時に、自分も不意であったという風をすれば済むのである。

その日の暮れるまで、女は鈍い緊張を感じて、来るはずの人を待っていた。目前の事は<ruby><rb>総</rb><rt>すべ</rt></ruby>て霧の中で見るもののように、ぼやけて過ぎ去ってしまう。医者の見舞いなんぞは、なんでもなく済んでしまった。病人は始終何事にも感ぜずにいる。<ruby><rb>呻吟</rb><rt>しんぎん</rt></ruby>して半眠りになっている状態から、折々<ruby><rb>醒</rb><rt>さ</rt></ruby>めて、なんでもない事を問うたり、何か欲しがったりする。時間を問う事もある。水を飲みたがる事もある。<ruby><rb>家主</rb><rt>いえぬし</rt></ruby>の女が出たり<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>ったりする。マリイは始終外へ出ずに、病人の<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>の<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>に掛けている。時々は<ruby><rb>寝台</rb><rt>ねだい</rt></ruby>の<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>の横木に手を掛けて立っている事もある。また窓の所へ行って庭を見ている事もある。庭では木の影が段々長くなって、とうとう草原や道の上を<ruby><rb>闇</rb><rt>やみ</rt></ruby>が這い寄って来た。

少し蒸し蒸しするような晩である。病人の<ruby><rb>枕元</rb><rt>まくらもと</rt></ruby>の<ruby><rb>卓</rb><rt>たく</rt></ruby>の上に<ruby><rb>点</rb><rt>つ</rt></ruby>けてある<ruby><rb>蝋燭</rb><rt>ろうそく</rt></ruby>の火がほとんど少しも動かない。すっかり暮てしまって、向うの奥に見える青み掛かった<ruby><rb>鼠色</rb><rt>ねずみいろ</rt></ruby>の山の上に月が出た<ruby><rb>頃</rb><rt>ころ</rt></ruby>、風が少し吹いて来た。それが額に当るのを、女は<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い心持ちだと思った。

病人も同じ感じでいるらしく、頭を動かして、大きく開けた目を窓の方へ向けた。それから深い深い息をして、「ああ」と云った。

女は布団の<ruby><rb>脇</rb><rt>わき</rt></ruby>へ垂れている病人の手を取って、「何か上げましょうか」と云った。

病人はそっと手を引いて、「マリイ、こちらへおいで」と云った。

女は側へ寄って、頭を病人の枕近く寄せた。

病人は女の髪の上に、祝福をするように、手を<ruby><rb>拡</rb><rt>ひろ</rt></ruby>げて載せて、小声で、「お前のこれまでの親切は<ruby><rb>難有</rb><rt>ありがた</rt></ruby>かったよ」と云った。

女は頭を病人の枕に寄せ掛けていたが、目に涙が<ruby><rb>湧</rb><rt>わ</rt></ruby>いて来た。

部屋の中はひっそりしている。遠くから汽車の汽笛の声が消え消えに聞えて来た。その跡はまたしんとして、夏の夕べの重くろしい、甘いような、不思議な感じが満ちている。

病人が突然寝床から起上がった。その動作が<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>にも急で<ruby><rb>劇</rb><rt>はげ</rt></ruby>しかったので、女はびっくりした。そして頭を上げて、病人の顔をじっと見た。

病人は両手で女の顔を挟んだ。昔<ruby><rb>可哀</rb><rt>かわゆ</rt></ruby>がった時にしたようなし方である。「マリイ。約束の事はどうしてくれるのだ。」

「約束とはなんでしょう。」こう云って、女は病人の手を放そうと思った。

病人は平生の力を<ruby><rb>悉</rb><rt>ことごと</rt></ruby>く<ruby><rb>恢復</rb><rt>かいふく</rt></ruby>し得たように、しっかり女の頭を抑えて放さない。「<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>と一しょに死んでくれる約束じゃないか」と、<ruby><rb>忙</rb><rt>せわ</rt></ruby>しい語調で云って、女の顔の側へぴったり顔を寄せた。病人の息が女の口に障る。

女は顔を引こうとしても引かれない。

病人は自分の<ruby><rb>詞</rb><rt>ことば</rt></ruby>を一句一句女の口に<ruby><rb>注</rb><rt>つ</rt></ruby>ぎ込むように言うのである。「己は一人で行くのは<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>だから、お前を連れて行くよ。己はこんなにお前を愛しているのだから、お前を手放して置く事は出来ない。」

女は恐ろしさに<ruby><rb>麻痺</rb><rt>まひ</rt></ruby>したようになっている。その<ruby><rb>咽</rb><rt>のど</rt></ruby>からは自分にもほとんど聞えない位な、<ruby><rb>咳嗄</rb><rt>しわが</rt></ruby>れた叫び声が出た。<ruby><rb>顳顬</rb><rt>こめかみ</rt></ruby>と<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>とをしっかり抑えられていて、頭を動かす事が出来ない。

病人は<ruby><rb>頻</rb><rt>しき</rt></ruby>りに口説き立てる。湿っぽい、熱い息が女の顔に触れる。「一しょだ。一しょだ。お前の意志でそう<ruby><rb>極</rb><rt>き</rt></ruby>めたのじゃないか。一人ではこわくて死なれない。一しょに死んでくれるかい。」

女は足で自分の椅子を押し<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>けた。そして鉄の<ruby><rb>箍</rb><rt>たが</rt></ruby>を<ruby><rb>脱</rb><rt>はず</rt></ruby>すように、自分の頭を病人の手から引き放した。

## 五十五

病人は女の顔を挟んでいた手を、そのままにしている。丁度まだ女の頭が間に挟まっているように、<ruby><rb>空</rb><rt>くう</rt></ruby>を<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>んでいるのである。そして女の頭が抜け出したのが、まだ分からないかと思われるような顔をして目を据えている。

「<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>です。厭です。わたくしはそんな事は出来ません。」女はこう叫んで戸口の方へ<ruby><rb>駈</rb><rt>か</rt></ruby>け出した。

病人は<ruby><rb>寝台</rb><rt>ねだい</rt></ruby>から飛び降りたい様子で、起き上がった。しかしもう力を使い尽したと見えて、死物のようにばたりと寝台の上に倒れた。

女はそれを見返らずに、戸を引き開けて、次の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>に走り抜けて、廊下へ出た。ほとんど夢中である。男が自分を締め殺そうとした。<ruby><rb>顳顬</rb><rt>こめかみ</rt></ruby>や<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>から、<ruby><rb>頸</rb><rt>くび</rt></ruby>へ滑り落ちようとした、男の指をまだ肌が感じている。女は門口へ出た。そこには<ruby><rb>誰</rb><rt>たれ</rt></ruby>もいない。<ruby><rb>家主</rb><rt>いえぬし</rt></ruby>の女は夕食の品物を買いに出たはずだという事を思い出した。

どうしよう。女は引き返して廊下を抜けて、庭へ出た。人に追い掛けられるように、<ruby><rb>草原</rb><rt>くさはら</rt></ruby>や道を横切って、庭の向うの<ruby><rb>端</rb><rt>はし</rt></ruby>まで行った。そこから振り返って見れば、病人の部屋の窓が見える。窓には<ruby><rb>蝋燭</rb><rt>ろうそく</rt></ruby>の火がちらちらしているが、その外にはなんにも見えない。

「どうしたのだろう」と<ruby><rb>独語</rb><rt>ひとりごと</rt></ruby>を<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>った。そして自分もどうして<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いか、分らなかった。ただ意味もなく<ruby><rb>柵</rb><rt>さく</rt></ruby>の内をあちこち走り<ruby><rb>廻</rb><rt>まわ</rt></ruby>っている。

その時ふと思い出した事がある。アルフレットさんが来るはずだった。丁度<ruby><rb>今頃</rb><rt>いまごろ</rt></ruby>来るはずだった。こう思って柵の格子の間から、月の差している道を眺めた。<ruby><rb>停車場</rb><rt>ていしゃじょう</rt></ruby>の<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>まで見えているのである。

女は庭の戸のある所へ駈け寄って、戸を開けた。目の前には人のない、白い道が見えている。もし外の道からおいでなさりはすまいか。いや。あそこに人影が見える。次第に近くなって来る。急いで来る男の姿である。あの方だろうか。

女は二三歩走り出した。「アルフレットさんですか。」

「マリイさんですね。」

待っていた医学士が来たのである。女は<ruby><rb>嬉</rb><rt>うれ</rt></ruby>しさに泣きたくなった。学士が側へ歩み寄った時、女はその手に<ruby><rb>接吻</rb><rt>せっぷん</rt></ruby>をしようとした。

「どうなすったのです。」

女は黙って学士の手を取って、引き<ruby><rb>摩</rb><rt>ず</rt></ruby>るようにして跡へ引き返した。

部屋の中では、フェリックスが<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>く<ruby><rb>茫然</rb><rt>ぼうぜん</rt></ruby>としていたが、また起き上がって、あたりを見廻した。女はもう逃げて、自分一人になっているのである。<ruby><rb>咽</rb><rt>のど</rt></ruby>を締め付けられるような恐怖が襲って来た。どうしてもあの女を側に引き付けて置かなくてはならないと思うより外、なんにも考えて見る事が出来ない。

<ruby><rb>一跳</rb><rt>ひとはね</rt></ruby>に寝台から飛び出した。しかし立っている程の力がないので、また仰向けに寝台の上に倒れた。頭の中ががんがん鳴っている。また起き上がって<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>の背を<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>んで、椅子を前へずらせながら歩き出した。「マリイや。マリイや。<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>は一人では死なれない。」

女はどこへ行ったのだろう。行く所はないはずだが。こう思いながら椅子を<ruby><rb>杖</rb><rt>つえ</rt></ruby>にして、いざりながら窓の側まで来た。庭が見える。蒸暑い晩の、青み掛かった月の光が差している。それが目の前にちらちらして、草や木が踊っているようである。ああ。これが己の体を直してくれるはずの、南の国の春であった。この空気だ。この空気だ。こんな空気がいつも己を吹いていれば、健康にならなくてはならないはずだと思ったのである。

ああ。あれはなんだ。病人は地の底にあるように見える<ruby><rb>柵</rb><rt>さく</rt></ruby>の格子のあたりから、青い月の光に照らされて、真っ白に光る小石の道を歩いて来る女の姿を見付けた。女は飛ぶように<ruby><rb>駈</rb><rt>か</rt></ruby>けて来る。次第に近くなる。マリイだ。マリイだ。しかしその<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>から男が来る。マリイと一しょに男が来る。恐ろしい大男のように見える。これまで見ている内に、柵の格子が踊って来る。何もかも踊って来る。遠方から歌のような物音が聞える。好い音だ。好い音だ。病人の目は<ruby><rb>昏</rb><rt>くら</rt></ruby>んでしまった。

マリイと学士とが駈け付けた。窓の所へ来て、女は立ち留まって、恐る恐る部屋の中を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いた。そして「ああ、いらっしゃいませんわ、寝台はからっぽです」と叫んだ。

その跡で突然女はきゃっと云って倒れそうになったので、学士が抱き留めた。学士はそっと女の体を<ruby><rb>脇</rb><rt>わき</rt></ruby>へ寄せて、自分が窓の中を覗いて見た。

部屋の中には、窓の<ruby><rb>直</rb><rt>す</rt></ruby>ぐ下に、白い<ruby><rb>襦袢</rb><rt>じゅばん</rt></ruby>一つを着て、フェリックスがばったり倒れて、両足を大きく<ruby><rb>拡</rb><rt>ひろ</rt></ruby>げている。片手はひっくり返った椅子の背を握っている。口の<ruby><rb>角</rb><rt>すみ</rt></ruby>から一筋の血が<ruby><rb>腮</rb><rt>あご</rt></ruby>の方へ流れている。唇と<ruby><rb>瞼</rb><rt>まぶた</rt></ruby>とが、まだぴくぴく動いているらしい。しかし<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>く見れば、それは月の光が青ざめた顔を照して人の目を惑わしていたのであった。

（明治四十五年一月―三月）