Soranoha

月夜車

つきよぐるま

泉 鏡花、泉 鏡太郎

一

宴會えんくわいと云いふが、優やさしい心こゝろざしの人ひとたちが、なき母親はゝおやの追善つゐぜんを營いとなんだ、其その席せきに列つらなつて、式しきも盞さかづきも濟すんだ、夏なつの夜よの十時じ過すぎを、袖崎そでさきと言いふ、………今年ことし東京とうきやうの何某大學なにがしだいがくの國文科こくぶんくわを卒業そつげふして、故郷こきやうへ歸省中きせいちうの青年せいねんが山やまの麓ふもとを川かはに添そつて、下流かりうの方はうへ車くるまを走はしらして歸かへつて來きた。やがて町まちに近ちかい、鈴すゞの緒をと云いふ橋はしが、河原かはらの晃々きら〱と白しろい、水みづの蒼あをい、對岸むかうぎしの暗くらい、川幅かははゞを横よこに切きつて、艷々つや〱と一條ひとすぢ架かゝる。袂たもとに黒くろく、こんもりと濃こい緑みどりを包つゝんで、遙はるかに星ほしのやうな遠灯とほあかりを、ちら〱と葉裏はうらに透すかす、一本ひともとの榎えのきの姿すがたを、前まへに斜なゝめに見みた處ところで、

「車夫わかいしゆ、」

と上うへから聲こゑを懸かけた。

「待まつとくれ。」

「へい、」

「其處そこへ。一寸ちよいと、右みぎへ入はひつて貰もらひたいな。」

ト車くるまは、急きふに石磈路いしころみちに、がた〱と音おとを立たてて山やまの裾すそへ曳込ひきこんだが、ものの半町はんちやうもなしに、直すぐ上あがり口ぐちの、草深くさぶかい嶮けはしい坂さかに成なるのであるから、默だまつて居ゐても其處そこで留とまつた。

「旦那だんな、何どうなさります。」

「下おろせ。」

と云いふ時とき、袖崎そでさきに續つゞいて、背後うしろから並ならんで來きた五六臺だいの車くるまが、がら〱と川縁かはべりを、町まちへ差さして通過とほりすぎる。看板かんばんの薄黄色うすきいろい灯ひが、幕まくを開あけた舞臺ぶたいを走はしる趣おもむきに見みえた。

尤もつとも彼かれの前まへにも車くるまが續つゞいた。爾時そのとき、橋はしの上うへをひら〱肩裾かたすその薄うすく濃こく、月下げつかに入亂いりみだれて對岸たいがんへ渡わたつた四五人にんの影かげも見みえた。其等それらは徒歩かちで、些ちと早はやめに宴會えんくわいを辭じした連中れんぢう。初夜しよや過すぎの今頃いまごろを如何いかに夏なつの川縁かはべりでも人通ひとどほりは絶たえてない。人ひとも車くるまも、いづれ列席れつせきしたものばかりで、……其その前後あとさきの車くるまの中なかから、彼かれは引外ひきはづして、此處こゝに入はひつて來きたのである。

氣きの可いい中親仁ちうおやぢだつた。車夫くるまやは、楫棒かぢぼうを上あげたまゝ捻向ねぢむいて、

「草場くさつぱの夜露よつゆが酷ひどうございますで、旦那だんな、お袴はかまの裾すそが濡ぬれませう。乘のつていらつしやいまし。ええ、何なんでござります、最もう彼是かれこれ然さうして待まちますほどの事こともござりますまい。お連つれの方かたは皆みんな通過とほりすぎて了しまつたやうでござりますで、大概たいがい大丈夫だいぢやうぶでござりませう。徐々そろ〱曳出ひきだして見みませうで。いや、何どうも其その、あれでござりますよ。つい此このお酒さけと言いひますものが、得えて其その素直すなほに内うちへお歸かへりになり憎にくいものでござりまして、二次會にじくわいとか何なんとか申まをしますんで、えへゝ、」

と人ひとの好いい笑わらひ聲ごゑ。

「あゝ、若わかい衆しう何なにかい、連つれのものが、何處どこか二次會にじくわいへ引張出ひつぱりださうとして、私わたしを中なかへ引挾ひつぱさんだ、……其それを外はづしたのだと思おもつたのかい。」

「へい、それ引込ひきこめ、と仰有おつしやりますから、精々せい〲目着めつかりませんやうに、突然いきなり蝋燭らふそくを消けして來きたでござります。山やまの蔭かげに成なりますで、車くるま一臺だいは月夜つきよでも、一寸ちよいと目めには着つきますまいと思おもひまして、へい。」と云いつて、些ちと間拍子まびやうしの拔ぬけた、看板かんばんをぶらり笠かさの下したへ釣つつて見みせた。が、地方ゐなかの事こととて、番號ばんがうもなく茫ばつと白しろい。

「御深切ごしんせつ、御深切ごしんせつ、」

と笑わらつて、

「然さうぢやないのだ。まあ下おりよう。」

「へい、お待まちなさいまし、石磈いしころで齒はが軋きしみますで。」と蹲つくばつて、ぐい、と楫かぢを壓おさへる。

其處そこへ下おりた。

「しかし、然さう思おもつたのは道理もつともだよ、同伴つれが同伴つれだからね。」

「えゝ、大分だいぶ、お綺麗きれいな處ところがお揃そろひでござりました、皆みな新地しんちの御連中ごれんぢう。」

「處ところが、今日けふの會くわいは眞面目まじめなんだよ。婦人をんなたちはお酌しやくに來きたのでもなければ、取卷とりまきでもない、實じつは施主せしゆなんだ。」

「施主せしゆ、へい、施主せしゆと申まをしますと……」と何なにかまぶしさうな目めを細ほそうして、薄うすい眉毛まゆげを俯向うつむけた、窶やつれた親父おやぢが手拭てぬぐひで額ひたひを拭ふく。

「志こゝろざす佛ほとけの追善つゐぜんをしたのさ。藝者げいしやたちが感心かんしんぢやないか。」

「お珍めづらしい、奇特きとくな事ことでござります。いづれ旦那筋だんなすぢのでござりませう。」

「一寸ちよつと聞きくと誰だれでも然さう思おもふだらう、處ところが違ちがふんだ、客筋きやくすぢのぢやない。皆みんなの師匠ししやうの追善つゐぜんなんだ。」

「お師匠ししやうさんと申まをしますと?」

爲ために蝋燭らふそくまで消けした車夫くるまやは、つい通とほりの乘客きやくではない、馴染なじみの氣きらしく、親したしげに問懸とひかける。

「若わかい衆しう、知しつてるだらう、此この川下かはしもの稻荷河原いなりがはらと云いふ、新地しんちの裏うらに成なる。彼處あすこに、――遊廓いうくわくの女をんなが、遊藝いうげいから讀書よみかき、茶ちや、花はななんぞの授業じゆげふを受うける女紅場ぢよこうばと云いふのがあるのを、」

「ござります、へい、成程なるほど。」と早はや半なかば合點がてんした風ふうをした。

「其處そこのお師匠ししやうさんの十三囘忌くわいきを營いとなんだのだよ。」

「十三囘忌くわいき、はあ、大分だいぶ久ひさしいあとの佛樣ほとけさまを、あの徒てあひには猶更なほさら奇特きとくな事ことでござります。」と手拭てぬぐひを掴つかんだ手てを、胸むねに置おいて傾かたむいて、

「旦那だんな、くどい事ことをお尋たづね申まをしますやうでござりますが、あの其その十三囘忌くわいきの今日けふの佛樣ほとけさまは、旦那衆だんなしうでござりますか、それとも御婦人ごふじんで、」

「女をんなだ。何どうしたい、」と言いひながら、袖崎そでさきは尾上をのへの松まつを仰あふいだ。山懷やまふところに絽ろが暗くらく、髮かみ黒くろく、月影つきかげに其その色いろが白しろい。

笠かさの下したから、これを透すかして、車夫くるまやは其笠そのかさを取とりながら、思案顏しあんがほの額ひたひを伏ふせた。

「もし、それぢや、其そのお方かたは、袖崎そでさきさんの御新姐ごしんぞぢやござりませんか。」

「え、知しつてるかい、若わかい衆しう。」と振返ふりかへつて熟じつと視みた。

「面目めんぼくもござりません。」と手拭てぬぐひを笠かさに落おとして、裏返うらがへしに膝ひざへ下さげた、腰こしを屈かゞめて、

「十三囘忌くわいきの其その佛樣ほとけさまは、貴方あなたの御母樣おつかさまでいらつしやいませう。坊ぼつちやん、前ぜんに御厄介ごやくかいになりました友造ともざうでござります、最もう、お覺おぼえはござりますまい。」

と滅入めいつた聲こゑして、目めのしよぼ〱した寂さびしい眉まゆを擡あげて言いつた。

「まあ、何どうした?」

と手てにした扇子あふぎを、その、袴はかまへ。

「僕ぼくは些ちつとも氣きがつかなかつた。」

「此この體ていでござります。へい、御見忘おみわすれは御道理ごもつともで。いや、最もうからつきし、意氣地いくぢもだらしもござりません。貴下あなたは御成人遊ごせいじんあそばしましたな。何どうも御樣子ごやうすが肖にておいでなさいます、と今いま申まをせば申まをしますやうなものの、餘あんまりおほきくお成なりなさいましたで、まるで以もつて、思掛おもひがけずでござりました。失禮しつれいながら、お幾いくつに。」

「友ともさん、後厄あとやくだよ。」

「へゝゝ、誰だれにお聞きき遊あそばしたやら、大分だいぶ高慢かうまんな口くちをお利ききに成なります、お廿六で、」

「あゝ、」

「しみ〲存ぞんじて居をりますのは、まだ七歳なゝつ八歳やつ、御親父樣ごしんぷさまも、御存命ごぞんめいの時分じぶんでござりますから、彼是かれこれ雜ざつと二十年ねん。其それがお亡なくなりなすつて、母樣おつかさまが、女紅場ぢよこうばへいらつしやつて、踊をどりやなにか、遊藝いうげいの師匠ししやうを遊あそばして、手一てひとつで、貴下あなたをお育そだてなさります時分じぶんは、蔭かげながらお顏かほを見みましたくらゐなもの。大いかい御恩ごおんを蒙かうむりましたに、いざお家いへが、と言いふ頃ころには、碌ろくに暑寒見舞しよかんみまひにも御伺おうかゞひいたしません。手前てまへが其その不都合ふつがふな料簡方れうけんがたと、お家いへの罰ばちで、此この體裁ていさいでございます、へい。

こんな薄汚うすぎたない、車夫風情しやふふぜいをつかまへて、かつたい坊ばうともお呼よびなさらず、

(友ともさん。)と今いまおつしやつて下くださいました、其その御聲おこゑが、御新姐樣ごしんぞさまそつくりで、――友造ともざうは胸むねが充滿いつぱいに成なりました。」

袖崎そでさきは再ふたゝび峰みねを仰あふいだ。言いはれて見みれば我われながら、=友ともさん=と呼よんだ自分じぶんの聲こゑが、谷たに深ふかく谺こだまに響ひゞいたやうにも思おもふ。母親はゝおやの其その墳墓おくつきは、此この山やまの唯とある丘をかの、此この月つきの淺茅生あさぢふに、影かげ薄うすく露つゆ濃こまやかに寂じやくとある。

友造ともざうは鼻はなをすゝつて、

「えゝ、人間にんげん恁かうまでに成なりませずば、表向おもてむき貴下あなたのお供ともをいたしまして、今夜こんやなんぞ、たとひ對手あひては藝者げいしやでも、御新姐樣ごしんぞさまには齋檀那ときだんな、施主方せしゆがたの下足番げそくばんでもしませうものを、早はや全まつたく腑甲斐ふがひない、殘念ざんねんな事ことでござります。」と曲まげた腰こしも立たちあへず、石いしを噛かむ齒はの根ねに蹲うづくまつた。草くさも荒あれ、地ちも破われて、樹蔭こかげを洩もる月つき斷々きれ〲に、骨ほねを碎くだいて散ちらしたれば、片輪車かたわぐるまの影かげを倒たふして、輪𢌞りんねを凄すごく描ゑがける其その状さま。

二

此この可哀あはれな車夫しやふに向むかつて、大川おほかはの流ながれの音おとの身みに沁しむやうに、姿すがたを引締ひきしめて彳たゝずんだ袖崎そでさきの帽子ばうしには、殊更ことさらに月つきが宿やどるが如ごとく見みえた。

「何なにも稼業かげふなら可いいではないか、天秤棒てんびんぼうを擔かついだつて楫棒かぢぼうを握にぎつたつて、誰だれに、何なにが極きまりが惡わるいね。

しかし仕事しごとは何どうしたんだね、友ともさんは手てに好いい職しよくがあるのぢやないか。」と訝いぶかしさうに然さう言いつた。友造ともざうが袖崎そでさきの家うちに恩おんがあると言いつたのも他ほかではない、此この縣けんに聞きこえた蒔繪師まきゑしだつた、彼かれの父ちゝに師しとし事つかへて、友造ともざうは一廉ひとかど腕うでの出來できた職人しよくにんであつたので。固もとより以前いぜんから、友造ともざうの家いへは、土地とちでも、場末ばすゑの、町まちはづれの、舊もとの足輕町あしがるまちの破やぶれ長屋ながやに、家族かぞくが大勢おほぜいで、かびた、濕しめつた、じと〱した貧まづしい暮くらしで居ゐたのであるから、自分じぶんに店みせを張はつて註文ちうもんを取とるほどの資力しりよくはないまでも、同業どうげふの許もとに雇やとはれて、給金きふきんを取とらうなら、恁かうした力業ちからわざをするには當あたらぬ。又また其その方はうが收入みいりも多おほい筈はずではないか。

「えゝ、其それが矢張やはり、手前てまへ心こゝろから仕方しかたがないのでござりまして、以前いぜん、お家うちに居をりました時分じぶんから、何どうも此この目めが惡わるいので、」

と掌てのひらで上うへへ擦こすつて、

「此これに就つけては御親父樣ごしんぷさま、御新造樣ごしんぞさまも大概たいがい御心配下ごしんぱいくだすつた事ことではござりません。友造ともざうや、身體からだを謹つゝしめ、友ともさん、酒さけをお飮のみでないよ、と親身しんみに仰有おつしやつて下くださります。……貴下あなたの前まへでござりますが、我われながら愛想あいその盡つきた不身持ふみもちでござりまして、毎々まい〱男をとこの面目玉めんぼくだまが溝漬どぶづけの茄子なすに成ならうとする處ところを、幾度いくたびお救すくひを頂いたゞいたか分わかりません。其それにも懲こりず、一時あるときなんぞは、頓とんと遊蕩のらの金子かねに困こまります處ところから、最もう目めが見みえぬ、へゝゝゝ、」と情なさけない聲こゑを出だして、

「言いはうやうもござりません。もう、最もう目めが見みえぬ、一生いつしやうの大難たいなんでござりますと、御新姐樣ごしんぞさまをお拜をがみ申まをして、此この二十里り先さきの大巖おほいはの不動樣ふどうさまと申まをすのへ、お籠こもりの願掛ぐわんがけに參まゐりたい、と泣ないて見みせて、最もう其それまでにも毎々まい〱の、迚とても御利生ごりしやうのない處ところを、御新姐樣ごしんぞさまのお執成とりなしで、些ちつと纏まとまつた草鞋錢わらぢせんを頂戴ちやうだいする、と其その足あしで新地入しんちばひりでござります。何處どこへ罰ばちが當あたりませう。達者たつしやな目めでも盲目めくらに成ならずには濟すまぬ筈はずを、其その上うへにもお詫わびを叶かなへて下くださいました。御兩親ごりやうしんの御利益ごりやくで、まだ、まあ恁かうやつて大おほまかな處ところは、雲くもと霞かすみと、見分みわけの着つきまするのが、目めつけものでござります。

へい、陰徳いんとくは何なんとやら、と御酒ごしゆの上うへでは、能よく御親父樣ごしんぷさまがお話はなしになりましたが、世よの中なかの事ことと申まをしますものは、書物しよもつの通とほりには參まゐりませんで。……お慈悲深じひぶかいお方かただけに、お貯蓄たくはへと言いつてはござりませんで、……お亡なくなりなさりますと、直すぐに御新姐樣ごしんぞさまが、貴下あなたと、お年寄としよりを抱かゝへて、お一人ひとりで御辛勞ごしんらうをなさりました。

女紅場ぢよこうばで、お師匠ししやうさんをなさります、其そのお心こゝろの中うちを存ぞんじながら、勿體もつたいない、引張ひつぱりの地獄宿ぢごくやどで、鮹たこの脚あしを噛かじりながら、袖崎そでさきの御新姐ごしんぞが直傳ぢきでんだ、と紀伊國きいのくには音無瀬川おとなせがはの狐きつねが憑ついた人畜にんちくが、沙汰さたの限かぎりでござります。

えゝ、坊ぼつちやん、こんな世迷言よまひごとを申まをしまして、今更いまさら貴下あなたに、お詫わびを願ねがつて、又またお目めに懸かゝりたいの何どうのと申まをします、然さうした料簡れうけんではござりませんが、これでも貴下あなたの母樣おつかさまの何囘忌なんくわいきぐらゐは心こゝろに覺おぼえて居をります處ところへ、餘あまり思懸おもひがけないお方かたにお目通めどほりをいたしましたで、つい、其處そこに、御新姐樣ごしんぞさまが目めの前まへへお立たち遊あそばしたやうに見みえましたものでござりますから、豫かねて胸充滿むねいつぱいの申譯まをしわけをうか〱喋舌しやべつたでござります。」

と言ことばが途絶とだえた、咳しはぶきをして、

「ヤ、而そして、お宿やどは何方どちらにおいでなさります。」

「あゝ、明日あすでも話はなしに來こないか、私わたしはね、針屋はりやに居ゐるよ、知しつてるだらう、祖母おばあさんの實家じつかで、再從兄妹またいとこの内うちさ。」

「道理だうりこそ、私てまへを雇やとつてくれました若わかい衆しうが、小蓑小路こみのこうぢまで、と申まをしました。いえ、彼處あすこに供待ともまちをしました、あの徒てあひは皆みんな遊廓くるわのでござりますで、看板かんばんがどれも新地組合しんちくみあひ、印しるしが麗々れい〱と書かいてござります。姊ねえさんたちが心着こゝろづけたでござりませう。貴下あなたをお送おくり申まをしますのに、町中まちぢうを新地組合しんちくみあひの看板かんばんでは、御外聞おぐわいぶんに係かゝはらうと云いふ、……其處そこで此この橋向はしむかうを、あぶれてぶらついて居をります、私てまへが、お見出みだしに預あづかりましたものと見みえます、へい、へい。」と叩頭馴おじぎなれて、生うまれついて車夫くるまやらしいのも、目めの薄うすいのが物寂ものさびしい。

「はあ、御串戲ごじようだんをなさりますな、貴下あなたからお酒錢さかてなんぞ、何どうして最もう餘分よぶんな御祝儀ごしうぎを姐ねえさんたちに頂いたゞいて居をります。格別かくべつ氣きをつけてお供申ともまをせと言いふ事ことで。へい、是これも全まつたくもちまして今日けふの御新姐樣ごしんぞさまがお惠めぐみでござります。なか〱、まだこれでも坊ぼつちやんさへ御承知下ごしようちくだされば、車くるまを此處こゝへ打棄うつちやつて、猿抱負さるおんぶに負おぶひ申まをして、友造ともざうが褌ふんどしの紐ひもへ通とほした天保錢てんぱうせんで、風車かざぐるまを買かつてお持もたせ申まをしたうござります。ヤ、然さう言いへば、今夜こんやは遊廓前くるわまへの毘沙門樣びしやもんさまのお裏祭禮うらまつり。あれ、お聞ききなさりまし、どんどろ〱と、刻きざんだ太鼓たいこが聞きこえます。」

と眩まぶしさうに仰向あをむいた。月つきは時ときに川浪かはなみの上うへに打傾うちかたむき、左右さいうに薄雲うすぐもの手てを伸のべては、思おもふまゝに光ひかりを投なげ、水みづを碎くだいて、十日とをかの影かげが澄渡すみわたる。……空そらを劃くぎつた峰みねの姿すがたは、此この山懷やまふところへ暗くらく成なつて、崕がけの樹立こだちの黒くろい中なかに、折をりから晃々きら〱と星ほしが輝かゞやく。

友造ともざうの影かげは石磈いしころの上うへに搖ゆらいで、

「あゝ、最もう大分だいぶ遲おそうござります。さあ、お召めしなさりまし。御存ごぞんじの、あの目めの赤あかい大蜈蚣おほむかでの紆うねつた、下さがり藤ふぢの揃そろひの軒提灯のきぢやうちんを御覽ごらうじながら、徐々そろ〱お歸かへりなさいませんか。」と話はなしに紛まぎれて、友造ともざうは、こゝに自分じぶんたちが不意ふいにめぐり逢あはうとして、其それがために同伴つれの中なかから車くるまをはづして引込ひきこんだものと思おもつて了しまつたらしい。

此方こなたも、又また墓はかから草鞋穿わらぢばきで出でて來きたやうな古ふるい男をとこに逢あつたので、忘わすれるともなく紛まぎれたが、祭禮まつりの太鼓たいこと云いふにつけて、夢見ゆめみる耳みゝに、一撥ひとばち、どろ〱と入はひつたやうに、目め覺さむるばかり思出おもひだした。

こゝに待合まちあはす婦をんながある。

立直たちなほつて、

「友ともさん、最もう可いい、歸かへつておくれ。何なんだか、此この上うへの山やま見みたやうに話はなしがあるが、立たつて居ゐては、落着おちつかない。何處どこかへ一所いつしよにと思おもふが、其それも遲おそし、明日あすでも又また逢あはうよ、ね。

お前まへさんは稼人かせぎにんだ、忙いそがしからう、此處こゝは最もう可いいよ。否いゝえ、遠慮ゑんりよをするんぢやない。はじめから最もう此この坂さかで車くるまから下おりるつもりで入はひつたんだ。友ともさんと知しれて、其それで乘のるのを止よすんぢやないから。さあ、構かまはず、お出掛でかけ。」

「へい。」と煮切にえきらない返事へんじをして、少すこし退すさつて、猶豫ためらひながら、

「而そして、貴下あなたは、坊ぼつちやん。」

「こんなに、月つきは良よし、」

と悠然いうぜんとして、草くさを踏ふんで左右さいうへ一歩ひとあし。

「追善つゐぜんのあつた今夜こんやだし、墓參はかまゐりする路みちだらう。まあ此この清水しみづで、」

と言いふ袴はかまの裾すそを、サラ〱と石いしを潛くゞつて、草くさの下した行ゆく細流さいりうあり。坂さかはたら〱と雫しづくを絞しぼつて、崕がけから路みちに滴したゝるのである。

「……手てでも灌すゝいで、此處こゝからお參まゐりをして歸かへらうと思おもふんだから、」

「さあ〱御緩ごゆつくり御拜おをがみをなさりまし、お待まち申まをしますとも、私てまへは。……貴下あなた、手てをお灌すゝぎなさるなんのと、可いい加減かげんな水惡戲みづいたづらをなさつて、袂たもとが引摺ひきずると不可いけません。さあ、袖そでを持もちませう。」と眞面目まじめにぬつと兩手りやうてを出だす。

笑わらひながら、片手かたてを袖口そでぐちに、ぐつと入いれて、

「友ともさん、幾いくつだ、と思おもつてる。」

「へゝゝゝ、然さやうでござりましたな。

……えゝ、其それでも貴下あなた、石いしの下したに、多いかい事こと、澤蟹さはがにが、此處こゝの水みづには居をりますで、指ゆびを挾はさまれると不可いけません。……お待まちなさりまし、晝間ひるまの辨當箱べんたうばこが開あいて居をります、洗あらつて一番ひとつ、其それへ汲出くみだして差上さしあげませう。」

「まあ、お待まちよ、友ともさん、眞個ほんとに可いいんだよ。……決けつして邪魔じやまにするんぢやない。一人ひとりの方はうが、何なんだか落着おちついて、寂然しんとして、墓はかの松まつに吹ふく風かぜも聞きこえるだらうと思おもふからだよ。」

「あゝ、如何樣いかさま、」

と又またしんみりして、

「最惜いとしげな。早はやくから御兩親ごりやうしんにお別わかれなすつた貴下あなたでござります。格別かくべつのお心持こゝろもち、お墓はかの松まつの風かぜの音おとが、峰みねからして此處こゝまでなあ……なまいだぶ、なまいだぶ、なまいだぶ、……」

時ときに山彦やまびこが口笛くちぶえ吹ふくかと、梟ふくろふの聲こゑが、月つきの空そらをホツオーホと走はしる。

底本 / Source edition

底本:「鏡花全集 巻十三」岩波書店
1941(昭和16)年6月30日第1刷発行
1987(昭和62)年9月3日第3刷発行
初出:「毎日電報」
1910(明治43)年3月6日
※「御新造」と「御新姐」、「………」と「……」の混在は、底本通りです。
※「私」に対するルビの「わたし」と「てまへ」の混在は、底本通りです。
入力:門田裕志
校正:岡村和彦
2023年7月31日作成
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リリース / Release
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TEI
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プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
/works/050824_000050/

泉 鏡花、泉 鏡太郎「月夜車」(旧字旧仮名)、底本『鏡花全集 巻十三』岩波書店、1941年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 050824_000050, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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