Soranoha

みつ柏

みつがしわ

泉 鏡花、泉 鏡太郎

曠野あらの

「はゝあ、此この堂だうがある所爲せゐで==陰陽界いんやうかい==などと石碑せきひにほりつけたんだな。人ひとを驚おどろかしやがつて、惡わるい洒落しやれだ。」

と野中のなかの古廟こべうに入はひつて、一休ひとやすみしながら、苦笑にがわらひをして、寂さびしさうに獨言ひとりごとを云いつたのは、昔むかし、四川酆都縣しせんほうとけんの御城代家老ごじやうだいがらうの手紙てがみを持もつて、遙々はる〲燕州えんしうの殿樣とのさまへ使つかひをする、一刀いつぽんさした威勢ゐせいの可いいお飛脚ひきやくで。

途次みちすがら、彼かの世よに聞きこえた鬼門關きもんくわんを過すぎようとして、不案内ふあんないの道みちに踏迷ふみまよつて、漸やつと辿着たどりついたのが此この古廟こべうで、べろんと額ひたひの禿はげた大王だいわうが、正面しやうめんに口くちを赫くわつと開あけてござる、うら枯がれ野のに唯たゞ一ひとつ、閻魔堂えんまだうの心細こゝろぼそさ。

「第一だいいち場所ばしよが惡わるいや、鬼門關きもんくわんでおいでなさる、串戲じようだんぢやねえ。怪けしからず霧きりが掛かゝつて方角はうがくが分わからねえ。石碑せきひを力ちからだ==右みぎに行ゆけば燕州えんしうの道みち==とでもしてあるだらうと思おもつて見みりや、陰陽界いんやうかい==は氣障きざだ。思出おもひだしても悚然ぞつとすら。」

飛脚ひきやくは大波おほなみに漾たゞよふ如ごとく、鬼門關きもんくわんで泳およがされて、辛からくも燈明臺とうみやうだいを認みとめた一基いつき、路端みちばたの古ふるい石碑せきひ。其それさへ苔こけに埋うもれたのを、燈心とうしんを掻立かきたてる意氣組いきぐみで、引毮ひきむしるやうに拂落はらひおとして、南みなみか北きたか方角はうがくを讀よむつもりが、ぶる〱と十本じつぽんの指ゆびを震ふるはして、威おどかし附つけるやうな字じで、曰いはく==陰陽界いんやうかい==とあつたので、一竦ひとすくみに縮ちゞんで、娑婆しやばへ逃出にげだすばかりに夢中むちうで此處こゝまで駈かけたのであつた。が、此處こゝで成程なるほどと思おもつた。石碑せきひの面おもての意いを解かいするには、堂だうに閻魔えんまのござるが、女體によたいよりも頼母たのもしい。

「可厭いやに大袈裟おほげさに顯あらはしたぢやねえか==陰陽界いんやうかい==なんのつて。これぢや遊廓くるわの大門おほもんに==色慾界しきよくかい==とかゝざあなるめえ。」

と、大分だいぶ娑婆しやばに成なる。

「だが、恁かう拜をがんだ處ところはよ、閻魔樣えんまさまの顏かほと云いふものは、盆ぼんの十六日じふろくにちに小遣錢こづかひぜにを持もつてお目めに掛かゝつた時ときの外ほかは、餘あまり喝采やんやとは行ゆかねえもんだ。……どれ、急いそがうか。」

で、兩ふたつ提さげへ煙管きせるを突込つツこみ、

「へい、殿樣とのさまへ、御免ごめんなせいまし。」と尻しりからげの緊しまつた脚絆きやはん。もろに揃そろへて腰こしを屈かゞめて揉手もみでをしながら、ふと見みると、大王だいわうの左右さいうの御傍立おわきだち。一ひとつは朽くちたか、壞こはれたか、大破たいはの古廟こべうに形かたちも留とめず。右みぎに一體いつたい、牛頭ごづ、馬頭めづの、あの、誰方どなたも御存ごぞんじの――誰たれが御存ごぞんじなものですか――牛頭ごづの鬼おにの像ざうがあつたが、砂埃すなほこりに塗まみれた上うへへ、顏かほを半分はんぶん、べたりとしやぼんを流ながしたやうに、したゝかな蜘蛛くもの巣すであつた。

「坊主ばうずは居ゐねえか、無住むぢうだな。甚ひどく荒果あれはてたもんぢやねえか。蜘蛛くもの奴やつめも、殿樣とのさまの方はうには遠慮ゑんりよしたと見みえて、御家來ごけらいの顏かほへ辵しんにふを掛かけやがつた。なあ、これ、御家來ごけらいと云いへば此方人等こちとらだ。其その又また家來けらい又また家來けらいと云いふんだけれど、お互たがひに詰つまりませんや。これぢや、なんぼお木像もくざうでも鬱陶うつたうしからう、お氣きの毒どくだ。」

と、兩袖りやうそでを擧あげて、はた〱と拂はらつて、颯さつと埃ほこりを拭ふいて取とると、芥ごみに咽むせて、クシヤと圖拔づぬけな嚏くしやみをした。

「ほい。」と云いふ時とき、もう枯草かれくさの段だんを下おりて居ゐる、嚏くしやみに飛とんだ身輕みがるな足取あしどり。

まだ方角はうがくも確たしかでない。旅馴たびなれた身みは野宿のじゆくの覺悟かくごで、幽かすかに黒雲くろくもの如ごとき低ひくい山やまが四方しはうを包つゝんだ、灰はひのやうな渺茫べうばうたる荒野あらのを足あしにまかせて辿たどること二里にりばかり。

前途ゆくてに、さら〱と鳴なるは水みづの聲こゑ。

扨さては流ながれがある。里さともやがて近ちかからう。

雖然けれども、野路のみちに行暮ゆきくれて、前まへに流ながれの音おとを聞きくほど、うら寂さびしいものは無ない。一ひとつは村里むらざとに近ちかづいたと思おもふまゝに、里心さとごころがついて、急きふに人懷ひとなつかしさに堪たへないのと、一ひとつは、水みづのために前途ゆくてを絶たたれて、渡わたるに橋はしのない憂慮きづかはしさとである。

但たゞし仔細しさいのない小川をがはであつた。燒杭やけぐひを倒たふしたやうな、黒焦くろこげの丸木橋まるきばしも渡わたしてある。

唯ト、其その橋はしの向むかう際ぎはに、淺あさい岸きしの流ながれに臨のぞんで、束たばね髮がみの襟許えりもと白しろく、褄端折つまはしよりした蹴出けだしの薄うすら蒼あをいのが、朦朧もうろうとして其處そこに俯向うつむいて菜なを洗あらふ、と見みた。其その菜なが大根だいこんの葉はとは違ちがふ。

葡萄色ぶだういろに藍あゐがかつて、づる〱と蔓つるに成なつて、葉はは蓮はすの葉はに肖如そつくりで、古沼ふるぬまに化ばけもしさうな大おほきな蓴菜じゆんさいの形かたちである。

はて、何なんの菜なだ、と思おもひながら、聲こゑを掛かけようとして、一ひとつ咳しはぶきをすると、此これは始はじめて心着こゝろづいたらしく、菜なを洗あらふ其その婦をんなが顏かほを上あげた。夕間暮ゆふまぐれなる眉まゆの影かげ、鬢びんの毛けも縺もつれたが、目鼻立めはなだちも判明はつきりした、容色きりやうのいゝのを一目ひとめ見みると、呀あつ、と其處そこへ飛脚ひきやくが尻餅しりもちを搗ついたも道理だうりこそ。一昨年をとゝし亡なくなつた女房にようばうであつた。

「あら、丁ていさん。」

と婦をんなも吃驚びつくり。――亭主ていしゆの亭ていと云いふのではない。飛脚ひきやくの名なは丁隷ていれいである。

「まあ、お前まへさん、何どうして此處こゝへ、飛とんだ事ことぢやありませんかねえ。」

人間界にんげんかいではないものを……と、唯たつた今いま、亭主ていしゆに死しなれたやうな聲こゑをして、優やさしい女房にようばうは涙なみだぐむ。思おもひがけない、可懷なつかしさに胸むねも迫せまつたらう。

丁告之以故ていこれにつぐるにゆゑをもつてす。――却説さて、一體いつたい此處こゝは何處どこだ、と聞きくと、冥土めいど、と答こたへて、私わたしは亡なき後あと、閻魔王えんまわうの足輕あしがる、牛頭鬼ごづおにのために娶めとられて、今いまは其その妻つまと成なつた、と告つげた。

飛脚ひきやくは向むかう見みずに、少々せう〱妬やけて、

「畜生ちくしやうめ、そして變へんなものを洗あらふと思おもつた。汝てめえ、そりや間男まをとこの鬼おにの腹卷はらまきぢやねえかい。」

婦をんなは、ぽツと瞼まぶたを染そめながら、

「馬鹿ばかなことをお言いひでない。丁ていさん、こんなお前まへさん、ぺら〱した……」

「乾かわくと虎とらの皮かはに代かはる奴やつよ。」

「可いい加減かげんなことをお言いひなさいな。此これはね、嬰兒あかごの胞胎えなですよ。」と云いつた。

十度とたび、これを洗あらひたるものは、生うまれし兒こ 清秀せいしうにして貴たつとし。洗あらふこと二三度にさんどなるものは、尋常じんじやう中位ちうゐの人ひと、まるきり洗濯せんたくをしないのは、昏愚こんぐ、穢濁あいだくにして、然しかも淫亂いんらんだ、と教をしへたのである。

「内職ないしよくに洗あらふんですわ。」

「所帶しよたいの苦勞くらうまで饒舌しやべりやがる、畜生ちくしやうめ。」

とづか〱と橋はしを渡わたり掛かける。

「あゝ、不可いけない、其處そこを。」と手てを擧あげて留とめる間まもなく、足許あしもとに、パツと火ひが燃もえて、わツと飛とび移うつつた途端とたんに、丸木橋まるきばしはぢゆうと水みづに落おちて、黄色きいろな煙けむりが――濛もうと湧立わきたつ。

「何なにが、不可いけねえ。何なんだ内職ないしよくの葉はツ葉ぱぐれえ。」

女房にようばうは、飛脚ひきやくを留とめつゝ驚おどろく發奮はずみに、白しろい腕うでに掛かけた胞胎えなを一條ひとすぢ流ながしたのであつた。

「否いゝえ、まあ、流ながした方はうは、お氣きの毒どくな娑婆しやばで一人ひとり流産りうざんをしませうけれど、そんな事ことよりお前まへさん、橋はしを渡わたらない前まへだと、まだ何どうにか、仕樣しやうも分別ふんべつもありましたらうけれど、氣短きみじかに飛越とびこして了しまつてさ。」

「べらぼうめ、飛越とびこしたぐらゐの、ちよろ川がはだ、また飛返とびかへるに仔細しさいはあるめえ。」と、いきつて見返みかへすと、こはいかに、忽たちまち渺々べう〱たる大河たいがと成なつて、幾千里いくせんりなるや果はてを見みず。

飛脚ひきやくは、ハツと目めが眩くらんで、女房にようばうに縋着すがりついた。

強しひても拒こばまず、極きまり惡わるげに、

「放はなして下ください、見みられると惡わるいから。」

「助たすけてくれ。」

「まあ、私わたし何どうしたら可いいでせう。……」

と色いろつぽく氣きを揉もんで、

「とに角かく、家うちへおいでなさいまし。」

「助たすけてくれ。」

川かはの可恐おそろしさに氣落きおちがして、殆ほとんど腰こしの立たたない男をとこを、女房にようばうが手てを曳ひいて、遠とほくもない、槐ゑんじゆに似にた樹きの森々しん〱と立たつた、青煉瓦あをれんぐわで、藁葺屋根わらぶきやねの、妙めうな住居すまひへ伴ともなつた。

飛脚ひきやくが草鞋わらぢを脱ぬぐうちに、女房にようばうは褄つまをおろした。

まだ夕飯ゆふはんの前まへである。

部屋へやへ灯あかしを點つける途端とたんに、入口いりぐちの扉とびらをコト〱と輕かるく叩たゝくものがある。

白しろい頬ほゝへ口くちを寄よせつゝ、極ごく低聲こごゑで、

「誰だれだい、誰だれだい。」

「内うちの人ひとよ。」

「呀やあ、鬼おにか。」

と怨うらめしさうに、女房にようばうの顏かほをじろり。で、慌あわてて寢臺ねだいの下したへ潛込もぐりこむ。

布ぬので隱かくして、

「はい、唯今たゞいま。」

扉とびらを開あける、とスーと入はひつた。とゞろ〱と踏鳴ふみならしもしない、輕かるい靴くつの音おとも、其その筈はずで、ぽかりと帽子ばうしを脱ぬぐやうに角つのの生はえた面めんを取とつて、一寸ちよつと壁かべの釘くぎへ掛かけた、顏かほを見みると、何なんと! 色白いろじろな細面ほそおもてで、髮かみを分わけたハイカラな好男子かうだんし。

「いや、何どうも、今日けふは閻王たいしやうの役所やくしよに檢しらべものが立込たてこんで、甚ひどく弱よわつたよ。」

と腹はらも空すいたか、げつそりとした風采ふうつき。ひよろりとして飛脚ひきやくの頭あたまの前まへにある椅子いすにぐたりと腰こしを掛かけた、が、細ほそい身體からだをぶる〱と振ふつた。

「人臭ひとくさいぞ、變へんだ。甚ひどく匂にほふ、フン、ハン。」

と嗅𢌞かぎまはして、

「これは生々なま〱とした匂にほひだ。眞個まつたく人臭まひとくさい。」

前刻さつきから、手てを擧あげたり、下さげたり、胸むねに波なみを打うたして居ゐた女房にようばう。爰こゝに於おいて其その隱かくし終おほすべきにあらざるを知しつて、衝つと膝ひざを支ついて、前夫ぜんぷの飛脚ひきやくの手てを取とつて曳出ひきだすとともに、夫をつとの足許あしもとに跪ひざまづいて、哀求あいきうす。曰いはく、

「後生ごしやうでござんす。」――と仔細しさいを語かたる。

曳出ひきだされた飛脚ひきやくは、人間にんげんが恁かうして、こんな場合ばあひに擡もたげると些すこしも異かはらぬ面つらを擡もたげて、ト牛頭ごづと顏かほを見合みあはせた。

(家内かないが。)(家内かないが。)と雙方さうはう同音どうおんに云いつたが==毎々まい〱お世話せわに==と云いふべき處ところを、同時どうじに兩方りやうはうでのみ込こみの一寸ちよつと默然だんまり。

「其その時ときのよ、己おれの顏かほも見みたからうが、牛頭ごづの顏かほも、そりや見みせたかつた。」

と、蘇生よみがへつて年としを經へてから、丁てい飛脚ひきやくが、内證ないしようで、兄弟分きやうだいぶんに話はなしたと傳つたへられる。

時ときに其時そのとき、牛頭ごづは慇懃いんぎんに更あらためて挨拶あいさつした。

「貴方あなた、お手てをお擧あげ下ください。家内かないとは一方ひとかたならぬ。」と云いひかけて厭いやな顏かほもしないが、婦をんなと兩方りやうはうを見較みくらべながら、

「御懇意ごこんいの間あひだと云いひ、それにです。貴方あなたは私わたしのためには恩人おんじんでおいでなさる。――お前まへもお聞ききよ、私わたしが毎日まいにち出勤しゆつきんするあの破堂やぶれだうの中なかで、顏かほは汗あせだらけ、砂埃すなぼこり、其その上うへ蜘蛛くもの巣すで、目口めくちも開あかない、可恐ひどく弱よわつた處ところを、此このお方かただ、袖そでで綺麗きれいにして下くだすつた。……お救すくひ申まをさないでおかるゝものか。」

買かはれた女をんな

「故郷ふるさとを離はなれまして、皆樣みなさんにお別わかれ申まをしてから、ちやうど三年さんねんでございます。私わたしは其その間あひだに、それは〱……」

と俯目ふしめに成なつて、家うちの活計くらしのために身みを賣うつて、人買ひとかひに連つれられて國くにを出でたまゝ、行方ゆくへの知しれなかつた娘むすめが、ふと夢ゆめのやうに歸かへつて來きて、死ししたるものの蘇よみがへつた如ごとく、彼かの女をんなを取卷とりまいた人々ひと〲に、窶やつれた姿すがたで弱々よわ〱と語かたつた。支那しなに人身賣買じんしんばいばいの公おほやけに行おこなはれた時ときの事ことである。

「……申まをしやうもござんせん、淺あさましい、恥はづかしい、苦くるしい、そして不思議ふしぎな目めに逢あひましたのでございます。

國境くにざかひを出でましてからは、私わたしには東西とうざいも分わかりません。長ながい道中だうちうを、あの人買ひとかひに連つれて行いかれましたのでございます。そして其その人買ひとかひの手てから離はなれましたのは、此この邊へんからは、遠とほいか、形かたちも見みえません、高たかい山やまの裾すそにある、田舍ゐなかのお醫師いしやの家いへでございました。

一晩ひとばん、其そのお醫師いしやの離座敷はなれざしきのやうな處ところに泊とめられますと、翌朝あけのあさ、咽喉のどへも通とほりません朝御飯あさごはんが濟すみました。間まもなくでございましたの。

田舍ゐなかの事ことで、別べつに此これと云いふ垣根かきねもありません。裏うらの田圃たんぼを、山やまの裾すそから、藜あかざの杖つゑを支ついて、畝路あぜみちづたひに、私わたしが心細こゝろぼそい空そらの雲くもを見みて居をります、離座敷はなれざしきへ、のそ〱と入はひつて來きました、髯ひげの白しろい、赤あから顏がほの、脊せの高たかい、茶色ちやいろの被布ひふを着きて、頭巾づきんを被かぶつた、お爺ぢいさんがあつたのでございます。私わたしは檀那寺だんなでらの和尚をしやうの、それも隱居いんきよしたのかと思おもひました。

其その和尚をしやうが、私わたしの目めの前まへへ腰こしを屈かゞめて、支ついた藜あかざを頤杖あごづゑにして、白しろい髯ひげを泳およがせ泳およがせ、口くちも利きかないで、身體中からだぢうをじろ〱と覗込のぞきこむではござんせんか。

可厭いやあなねえ。

私わたしは一層いつそ、藥研やげんで生肝いきぎもをおろされようとも、お醫師いしやの居ゐる母屋おもやの方はうに逃にげ込こまうかと思おもひました。其その和尚をしやうの可厭いやらしさに。

處ところが不可いけないのでございます。お察さつし下くださいまし。……

私わたしが逃にげようと起たちます裾すそを、ドンと杖つゑの尖さきで壓おさへました。熊手くまでで搦からみましたやうな甚ひどい力ちからで、はつと倒たふれる處ところを、ぐい、と手てを取とつて引ひくのです。

あれ、摺拔すりぬけようと身みを踠もがきます時とき、扉とびらを開あけて、醫師いしやが顏かほを出だしました。何なにをじたばたする、其そのお仙人せんにんと汝きさまは行ゆくのだ、と睨付にらみつけて申まをすのです。そして、殿樣とのさまの前まへのやうに、お醫師いしやは、べた〱と唯たゞ叩頭おじぎをしました。

すぐに連つれられて參まゐつたんです。生肝いきぎもを藥研やげんでおろされる方はうがまだしもと思おもひました、其その仙人せんにんに連つれられて――何處どこへ行いくのかと存ぞんじますと、田圃道たんぼみちを、私わたしを前まへに立たたせて、仙人せんにんが後あとから。……情なさけなさに歩行あるき惱なやみますと、時々とき〲、背後うしろから藜あかざの杖つゑで、腰こしを突つくのでございますもの。

麓ふもとへ出でますと、段々だん〱山やまの中なかへ追込おひこみました。何どうされるのでございませう。――意甚疑懼こゝろはなはだぎくす。然業已賣與無如何しかれどもすでに〱うるまたいかんともすべきなし――」

と本章ほんしやうに書かいてある、字じは硬かたいが、もの柔やはらかにあはれである。

「……目めを確しつかり瞑つぶれや。杖つゑに掴つかまれ。言ことばを背そむくと生命いのちがないぞ。

やがて、人里ひとざとを離はなれました山懷やまふところで、仙人せんにんが立直たちなほつて申まをしました。

然さうした身みにも、生命いのちの惜をしさに、言いはれた通とほりに目めを瞑ふさぎました後あとは、裾すそが渦うづのやうに足あしに煽あふつて搦からみつきますのと、兩方りやうはうの耳みゝが風かぜに當あたつて、飄々へう〱と鳴なりましたのばかりを覺おぼえて居をります。

可よし、と言いはれて、目めを開あけますと、地ちの底そこの穴あなの裡うちではなかつたのです。すつくり手てを立たてたやうな高たかい峰みねの、其その上うへにもう一ひとつ塔たふを築つきました臺だいの上うへに居をりました。部屋へやも欄干らんかんも玉たまかと思おもふ晃々きら〱と輝かゞやきまして、怪あやしいお星樣ほしさまの中なかへ投込なげこまれたのかと思おもひましたの。仙人せんにんは見みえません。其處そこへ二十人にじふにん餘あまり、年紀としこそ十五六から三十ぐらゐまで、いろ〱に違ちがひましたが、皆みな揃そろつて美うつくしい、ですが、悄乎しを〱とした女をんなたちが出でて來きましてね、いづれ、同おなじやうなお身みの上うへでおいでなさいませう。お可哀相かはいさうでございますわね、と皆みなさんで優やさしく云いつて下くださるのです。

私わたしは、私わたしは殺ころされるんでございませうか、と泣なきながら申まをしますとね、年上としうへの方かたが、否いゝえ、お仙人せんにんのお伽とぎをしますばかりです、それは仕方しかたがござんせん。でも、こゝには、金銀如山きんぎんやまのごとく、綾羅りようら、錦繍きんしう、嘉肴かかう、珍菓ちんくわ、あり餘あまつて、尚なほ、足たりないものは、お使者ししやの鬼おにが手てを敲たゝくと整とゝのへるんです、それに不足ふそくはありません。毎日まいにちの事ことは勿體もつたいない、殿樣とのさまに擬まがふほどなのです。其その代かはり――

其その代かはり、と聞きいただけで身みがふるへたではありませんか。――えゝ、其その代かはり。……何なに、其それだつて、と其その年紀上としうへの方かたが又また、たゞ毎月まいげつ一度いちどづゝ、些ちつと痛いたい苦くるしい思おもひをするだけなんですツて――

さあ、あの、其その、思おもひをしますのを、殺ころされるやうに思おもつて、待まちました。……欄干らんかんに胸むねを壓おさへて、故郷ふるさとの空そらとも分わかぬ、遙はるかな山やまの頂いたゞきが細ほそい煙けむりを噴はくのを見みれば、あれが身みを焚やく炎ほのほかと思おもひ、石いしの柱はしらに背せを凭もたれて、利鎌とがまの月つきを見みる時ときは、それも身みを斬きる刃やいばかと思おもつたんです。

お前まへさん、召めしますよ。

えゝ! さあ、其その時ときが參まゐりました。一月ひとつきの中うちに身體からだがきれいに成なりました、其その翌日あくるひの事ことだつたんです、お仙人せんにんは杖つゑを支ついて、幾壇いくだんも壇だんを下おりて、館やかたを少すこし離はなれました、攀上よぢのぼるほどな巖いはの上うへへ連つれて行いきました。眞晝間まつぴるまの事ことなんです。

天狗てんぐの俎まないたといひますやうな 大木たいぼくの切きつたのが据置すゑおいてあるんです。其その上うへへ、私わたしは内外うちとの衣きぬを褫とられて、そして寢ねかされました。仙人せんにんが、あの廣ひろい袖そでの中なかから、眞紅まつかな、粘々ねば〱した、艷つやのある、蛇へびの鱗うろこのやうな編方あみかたした、一條ひとすぢの紐ひもを出だして絲いとほどにも、身みの動うごきませんほど、手足てあしを其その大木たいぼくに確乎しつかり結いはへて、綿わたの丸まるけた球たまを、口くちの中なかへ捻込ねぢこみましたので、聲こゑも出でなくなりました。

其處そこへ、キラ〱する金きんの針はりを持もつて、一睨ひとにらみ睨にらまれました時ときに、もう氣きを失うしなつたのでございます。

自分じぶんに返かへりました時とき、兩臂りやうひぢと、乳ちゝの下したと、手首てくびの脈みやくと 方々はう〲に血ちが浸にじんで、其處そこへ眞白まつしろな藥くすりの粉こなが振掛ふりかけてあるのが分わかりました。

翌月あくるつき、二度目にどめの時ときに、それでも氣絶きぜつはしませんでございました。そして、仙人せんにんの持もちましたのは針はりではありません、金きんの管くだで、脈みやくへ刺さして、其その管くだから生血いきちを吸すはれるつて事ことを覺おぼえたのです。一時ひとときばかり、其その間あひだの苦痛くつうと云いつてはありません。

が、藥くすりをつけられますと、疵きずあとは、すぐに次つぎの日ひに痂かせて落おちて、蟲むしに刺さされたほどのあとも殘のこりません。

えゝ、そんな思おもひをして、雲くもも雨あめも、みんな、目めの下したに遠とほく見みえます、蒼空あをぞらの高たかい峰みねの館やかたの中なかに、晝ひるは伽とぎをして暮くらしました。

つい此この頃ごろでございます。思おもひもかけず、屋根やねも柱はしらも搖ゆれるやうな白しろい風かぜが矢やを射いるやうに吹ふきつけますと、光ひかり輝かゞやく蒼空あをぞらに、眞黒まつくろな雲くもが一掴ひとつかみ、鷲わしが落おとしますやうな、峰一杯みねいつぱいの翼つばさを開ひらいて、山やまを包つゝんで、館やかたの屋根やねに渦うづまいてかゝりますと、晝間ひるまの寢床ねどこ――仙人せんにんは夜よるはいつでも一睡いつすゐもしないのです、夜分やぶんは塔たふの上うへに上あがつて、月つきに跪ひざまづき、星ほしを拜をがんで、人ひとの知しらない行ぎやうをします――其その晝ひるの寢床ねどこから當番たうばんの女をんなを一人ひとり、小脇こわきに抱かゝへたまゝ、廣室ひろまに駈込かけこんで來きたのですが、皆みんな來こい! と呼立よびたてます。聲こゑも震ふるへ、身みも慄をのゝいて、私わたしたち二十人にじふにん餘あまりを慌あわたゞしく呼寄よびよせて、あの、二重にぢう三重さんぢうに、白しろい膚はだに取圍とりかこませて、衣類きもの衣服きものの花はなの中なかに、肉身にくしんの屏風びやうぶさせて、一ひとすくみに成なりました。

此これが禁厭まじなひに成なるのと見みえます。窓まどを透とほして手てのやうに擴ひろがります、其その黒雲くろくもが、じり〱と來きては、引返ひきかへし、じり〱と來きては、引返ひきかへし、仙人せんにんの背せは波打なみうつやうに、進退かけひきするのが見みえました。が、やがて、凄すさまじい音おとがしますと、雲くもの中なかに、龍りうの形かたちが顯あらはれたんです。柱はしらのやうに立たつたと思おもふと、ちやうど箕みの大おほきさに見みえました、爪つめが電いなづまのやうな掌てのひらを開ひらいて、女をんなたちの髮かみの上うへへ仙人せんにんの足あしを釣上つりあげた、と見みますと、天井てんじやうが、ぱつと飛散とびちつて、あとはたゞ黒雲くろくもの中なかに、風かぜの荒狂あれくるふのばかりを覺おぼえて、まるで現うつゝに成なつたんです。

村むらの人ひとに介抱かいはうされると、知しらない國くにの、路傍みちばたに倒たふれて居ゐました。

其處そこで訊たづねまして、はじめて、故郷ふるさとは然さまで遠とほくない、四五十里しごじふりだと云いふのが分わかつて、それから、釵かんざしを賣うり、帶おびを賣うつて、草樹くさきをしるべに、漸やつと日ひをかさねて歸かへつたのでございます。」

あはれ、此この婦をんなは、そして久ひさしからずして果敢はかなく成なつたと傳つたへられる。

狐きつね

傳つたへ聞きく、近頃ちかごろ、天津てんしんの色男いろをとこに何生なにがしと云いふもの、二日ふつかばかり邸やしきを明あけた新情人しんいろの許もとから、午後二時半頃こごにじはんごろ茫ばうとして歸かへつて來きた。

「しかし奧おくも美人びじんだよ。あの烈はげしく妬やくと云いふものが、恐おそらく己おれを深ふかく思おもへばこそだからな。賣色ばいしよくの輩はいと違ちがふ、慾得よくとくづくや洒落しやれに其その胸倉むなぐらを取とれるわけのものではないのだ。うふゝ。貴方あなたはな、とそれ、赫かつと成なる。あの瞼まぶたの紅くれなゐと云いふものが、恰あたかも是これ、醉よへる芙蓉ふようの如ごとしさ。自慢じまんぢやないが、外國ぐわいこくにも類たぐひあるまい。新婚當時しんこんたうじの含羞はにかんだ色合いろあひを新あたらしく拜見はいけんなどもお安やすくない奴やつ。たゞし嬌瞋けうしん火ひに似にたりと云いふのを思おもつたばかりでも、此方こつちも耳みゝが熱ほてるわけさ。」

と六月ろくぐわつの日ひの照てらす中なかに、寢不足ねぶそくの蒼白あをじろい顏かほを、蒸返むしかへしにうだらして、筋すぢもとろけさうに、ふら〱と邸やしきに近ちかづく。

唯ト、夫人ふじんの居室ゐまに當あたる、甘あまくして艷つやつぽく、色いろの濃こい、唐からの桐きりの花はなの咲さいた窓まどの下したに、一人ひとり影かげ暖あたゝかく彳たゝずんだ、少年せうねんの書生しよせいの姿すがたがある。其その人ひと、形容けいよう、都とにして麗れいなり、と書かいてある。若旦那わかだんなには氣きの毒どくながら、書かいてあるので仕方しかたがない。

これが植込うゑこみを遙はるかに透すかし、門もんの外そとからあからさまに見みえた、と見みる間まもなく、件くだんの美少年びせうねんの姿すがたは、大おほきな蝶てふの影かげを日南ひなたに殘のこして、飜然ひらりと――二階にかいではないが――窓まどの高たかい室しつへ入はひつた。再ふたゝび説とく。其處そこが婦人ふじんの居室ゐまなのである。

若旦那わかだんなは、くわつと逆上のぼせた頭あたまを、我われを忘わすれて、うつかり帽子ばうしの上うへから掻毮かきむしりながら、拔足ぬきあしに成なつて、庭傳にはづたひに、密そつと其その窓まどの下したに忍しのび寄よる。内うちでは、媚なまめいた聲こゑがする。

「よく來きてねえ、丁ちやうど待まつて居ゐた處ところなんですよ、心こゝろが通つうじたんだわね。」

と、舌したつたるさも沙汰さたの限かぎりな、それが婦人ふじんの聲こゑである。

若旦那わかだんな勃然ぼつぜんとして怒おこるまいか。あと退じさりに跳返はねかへつた、中戸口なかどぐちから、眞暗まつくらに成なつて躍込をどりこんだが、部屋へやの扉との外そとに震ふるへる釘くぎの如ごとくに突立つツたつて、拳こぶしを握にぎりながら、

「りんよ、りんよ、權平ごんぺい、權平ごんぺいよ、りんよ、權平ごんぺい。刀かたなを寄越よこせ、刀かたなを寄越よこせ、刀かたなを。」と喚よびかけたが、權平ごんぺいも、りんも、寂然ひつそりして音おとも立たてない。誰たれが敢あへて此處こゝへ切きれものを持出もちだすものか。

若旦那わかだんな、地ぢたゝらを踏ふみながら、

「汝これ、汝これ、部屋へやの中なかに居ゐるのは誰たれだ、誰たれが居ゐるんだ、汝これ。」

と怒鳴どなつた。裡うちに敵てきありと見みて、直すぐに猪いのしゝの如ごとく飛込とびこまないのが、しかし色男いろをとこの身上しんしやうであると思おもへ。

婦人ふじんの驚駭きやうがいは蓋けだし察さつするに餘あまりある。卓たくを隔へだてて差向さしむかひにでも逢あふ事ことか、椅子いすを並ならべて、肩かたを合あはせて居ゐるのであるから、股栗不能聲こりつしてこゑするあたはず。唯たゞ腕うでで推おし、手てで拂はらつて、美少年びせうねんを、藏かくすよりも先まづ、離はなさうとあせり悶もだえて、殆ほとんど虚空こくうを掴つかむ形かたち。

美少年びせうねんが、何なんと飛退とびのきもしよう事ことか。片手かたてで、尚なほつよく、しかと婦人ふじんの手てを取とつたまゝ、その上うへ、腰こしで椅子いすを摺寄すりよせて、正面しやうめんをしやんと切きつて、曰いはく此時このとき、神色しんしよく自若じじやくたりき、としてあるのは、英雄えいゆうが事變じへんに處しよして、然しかるよりも、尚更なほさら驚歎きやうたんに價値あたひする。

逃にげようと思おもへば、いま飛込とびこんだ、窓まどもあるのに――

「然さうだ。一思ひとおもひに短銃ピストルだ。」

と扉ドアの外そとでひき呼吸いきに呟つぶやく聲こゑ、彈丸だんぐわんの如ごとく飛とんで行ゆく音おと。忽たちまち手負猪ておひじしの襲おそふやうな、殺氣さつき立だつた跫音あしおとが犇々ひし〱と扉ドアに寄よる。剩あまつさへ其その扉ドアには、觀世綟くわんぜよりの鎖ぢやうもさゝず、一壓ひとおしに押おせば開あくものを、其その時ときまで美少年びせうねんは件くだんの自若じじやくたる態度たいどを續つゞけた。

然しかも、若旦那わかだんなが短銃ピストルを持もつて引返ひつかへしたのを知しると、莞爾くわんじとして微笑ほゝゑんで、一層いつそうまた、婦人ふじんの肩かたを片手かたてに抱いだいた。

其その間あひだの婦人ふじんの心痛しんつうと恐怖きようふはそも、身みをしぼる汗あせは血ちと成なつて、紅くれなゐの雫しづくが垂々たら〱と落おちたと云いふ。窘くるしみも又また極きはまつて、殆ほとんど狂亂きやうらんして悲鳴ひめいを上あげた。

「あれ、強盜がうたうが、私わたしを、私わたしを。」

「何なにが盜人ぬすびとです、私わたしは情人いろぢやありませんかね。」

と高たからかに美少年びせうねんが言いつた。

「何なんだ。強盜がうたうだ、情人いろだ。」と云いひさま、ドンと開あけて、衝つと入はひつて、屹きと其その短銃ピストルを差向さしむけて、一目ひとめ見みるや、あ、と叫さけんで、若旦那わかだんなは思おもはず退すさつた。

怪事あやし、婦人ふじんの肩かたに手てを掛かけて連理れんりの椅子いすを並ならべたのは、美少年びせうねんのそれにあらず。

此これがために昨夜ゆうべも家いへを開あけて、今いましがた喃々なん〱として別わかれて來きた、若旦那わかだんな自身じしんの新情婦しんいろの美女びぢよで、婦人ふじんと其處そこに兩々りやう〱紅白こうはくを咲分さきわけて居ゐたのである。

此この美女びぢよ、姓せいは胡こで、名なはお好かうちやんと云いふ。

一體いつたい、此この若旦那わかだんなは、邸やしきの河下三里かはしもさんりばかりの處ところに、流ながれに臨のぞんだ別業べつげふがあるのを、元來ぐわんらい色いろ好このめる男子をとこ、婦人ふじんの張氏ちやうし美而びにして妬となりと云いふので、浮氣うはきをする隱場處かくればしよにして、其その別業べつげふへ、さま〲の女をんなを引込ひつこむのを術てとしたが、當春たうしゆん、天氣てんき麗うらゝかに、桃もゝの花はなのとろりと咲亂さきみだれた、暖あたゝかい柳やなぎの中なかを、川上かはかみへ細ほそい杖ステツキで散策さんさくした時とき、上流じやうりうの方かたより柳やなぎの如ごとく、流ながれに靡なびいて、楚々そゝとして且かつもの思おもはしげに、唯たゞ一人ひとり渚なぎさを辿たどり來きた此この美女びぢよに逢あつて、遠慮ゑんりよなく色目いろめづかひをして、目迎めむかへ且かつ見送みおくつて、何どうだと云いふ例れいの本領ほんりやうを發揮はつきしたのがはじまりである。

流水りうすゐ豈あに心こゝろなからんや。言ことばを交かはすと、祕かくさず名なを言いつた。お好かうちやんの語かたる處ところによれば、若後家わかごけだ、と云いふ。若旦那わかだんな思おもふ壺つぼ。で、親族しんぞくの男をとこどもが、挑いどむ、嬲なぶる、威丈高ゐたけだかに成なつて袖褄そでつまを引ひく、其その遣瀬やるせなさに、くよ〱浮世うきよを柳隱やなぎがくれに、水みづの流ながれを見みるのだ、と云いふ。あはれも、そゞろ身みにしみて、春はるの夕ゆふべの言ことばの契ちぎりは、朧月夜おぼろづきよの色いろと成なつて、然しかも桃色もゝいろの流ながれに銀しろがねの棹さをさして、お好かうちやんが、自分じぶんで小船こぶねを操あやつつて、月つきのみどりの葉はがくれに、若旦那わかだんなの別業べつげふへ通かよつて來くる、蓋けだしハイカラなものである。

以來いらい、百家ひやくかの書しよを讀よんで、哲學てつがくを修しうする、と稱となへて、別業べつげふに居續ゐつゞけして、窓まどを閉とぢて、垣かきを開ひらいた。

其そのお好かうちやんであつたのである。……

細君さいくんの張氏ちやうしより、然しかも、五いつつばかり年少としわかき一少女いちせうぢよ、淡裝たんさう素服そふくして婀娜あだたるものであつた。

時ときに、若旦那わかだんなを見みて、露つゆに漆うるししたる如ごとき、ぱつちりとした瞳ひとみを返かへして、額髮ひたひがみはら〱と色いろを籠こめつゝ、流眄ながしめに莞爾につこりした。

が、椅子いすを並ならべた張婦人ちやうふじんの肩かたに掛かけた手ては、なよ〱としつゝも敢あへて離はなさうとはしなかつた。

言いふまでもなく婦人ふじんの目めにも、齊ひとしく女をんなに成なつたので、驚駭きやうがくを變かへて又また蒼あをく成なつた。

若旦那わかだんなも、呆あきれて立たつこと半時はんときばかり。聲こゑも一言ひとこともまだ出でない内うちに、霞かすみの色いろづく如ごとくにして、少女せうぢよは忽たちまち美少年びせうねんに變かはつたのである。

變かはれば現在げんざい、夫をつとの見みる前まへ。婦人ふじんは身震みぶるひして飛退とびのかうとするのであつたが、輕かるく撓柔しなやかに背せにかかつた手てが、千曳ちびきの岩いはの如ごとく、千筋ちすぢの絲いとに似にて、袖そでも襟えりも動うごかばこそ。おめ〱として、恥はづかしい、罪つみある人形にんぎやうとされて居ゐる。

知是妖怪所爲しるこれえうくわいのしよゐ。

「退どけ、射殺いころすぞ。」

詰寄つめよる。若旦那わかだんなの手てを、美少年びせうねんの方はうから迎むかへるやうに、じつと握にぎる、と其その手ての尖さきから雪ゆきと成なつて、再ふたゝび白衣びやくいの美女びぢよと變かはつた。

「忘わすれたの、一寸ちよつと……」

で、辷すべらした白しろい手てを、若旦那わかだんなの胸むねにあてて、腕うでで壓おすやうにして、涼すゞしい目めで熟じつと見みる。其その媚こびと云いつたらない。妖艷無比えうえんむひで、猶なほ且かつ婦人ふじんの背せを抱だいて居ゐる。

と知しりつゝ、魂たましひから前さきへ溶とろけて、ふら〱と成なつた若旦那わかだんなの身體からだは、他愛たわいなく、ぐたりと椅子いすに落おちたのであつた。于二女之間恍惚夢如にぢよのあひだにくわうこつとしてゆめのごとし。

「ほゝゝ、色男いろをとこや、貴女あなたに馴染なじんでから丁ちやうど半年はんとしに成なりますわね。御新造ごしんぞに馴染なじんでからも半年はんとしよ。貴方あなたが私わたしの許もとへ來きて居ゐるうちは、何時いつでも此方こちらへ來きて居ゐたの。あら、あんな顏かほをしてさ。一寸ちよいと色男いろをとこ。私わたしと逢あつて居ゐるうちは、其その時間じかんだけも御新造ごしんぞは要いらないものでせう。要いらないものなら、其間そのあひだは何どうされたつて差支さしつかへないぢやありませんか。

ねえ、若旦那わかだんな、私わたしは貴方あなたは嫌きらひなの。でも嫌きらひだと云いつたつて、嫌きらはれた事ことは分わからないお方かたでせう。貴方あなたは自分じぶんの思おもつた女をんなは、皆みんな云いふ事ことを肯きくんだと思おもつて居ゐるもの。思おもはれるものの恥辱ちじよくです。

だから、思おもはれた通とほりに成なつて――其そのかはり貴方あなたに差上さしあげたものを、御新造ごしんぞから頂戴ちやうだいしました。可よかありませんか。

最もう此これだけで澤山たくさんなんです。」

言いふと、齊ひとしく、俄然がぜんとして又また美少年びせうねんと成なつて、婦人ふじんの打背うちそむく頬ほゝに手てを當あてた。が、すらりと身みを拔ぬいて、椅子いすに立たつた。

若旦那わかだんな、氣疲きつかれ、魂倦こんつかれ、茫ばうとして手てもつけられず。美少年びせうねんの拔ぬけたあとを、夫婦ふうふ相對あひたいして目めを見合みあはせて、いづれも羞恥しうちに堪たへず差俯向さしうつむく。

頭あたまの上うへに、はた〱と掌てを叩たゝいて、呵々から〱と高笑たかわらひするのを、驚おどろいて見みれば、少年子せうねんし、擧手きよしゆ高揖かういふして曰いはく、吾去矣われさらん。

「御機嫌ごきげんよう、失禮しつれい。」

と、變へんじて狐きつねと成なつて、白晝はくちうを窓まどから蝙蝠かうもりの如ごとくに消きえぬ。

此これは教訓けうくんではない、事實じじつであると、本文ほんぶんに添書そへがきがあるのである。

大正三年三月

底本 / Source edition

底本:「鏡花全集 巻二十七」岩波書店
1942(昭和17)年10月20日第1刷発行
1988(昭和63)年11月2日第3刷発行
※題名の下にあった年代の注を、最後に移しました。
※表題は底本では、「みつ柏《がしは》」とルビがついています。
入力:門田裕志
校正:川山隆
2011年8月14日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

この表示について / About this rendering

記録は下にリンクした署名済みの TEI ファイルです。このページはそれを読むための一つの形です。読みが複数ある箇所は一つだけを本文に示し、もう一方は語の title に残しています。 / The record is the signed TEI file linked below. This page is one way of reading it. Where the text has more than one reading, the page shows one of them and keeps the other on the word itself, in its title text.

リリース / Release
913b24012e1626b47bebf5a14fd31773728229efdb088f1ceb934717c1ac800c
TEI
/works/050785_000050/tei
プレーンテキスト / Plain text
/works/050785_000050/plaintext
書誌 / Bibliography
/works/050785_000050/

泉 鏡花、泉 鏡太郎「みつ柏」(旧字旧仮名)、底本『鏡花全集 巻二十七』岩波書店、1942年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 050785_000050, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

引用のしかた / How to cite