Soranoha

一席話

いっせきばなし

泉 鏡花、泉 鏡太郎

上總國かづさのくに上野郡かうづけぐんに田地でんぢ二十石にじつこくばかりを耕たがやす、源五右衞げんごゑと云いふ百姓ひやくしやうの次男じなんで、小助こすけと云いふのがあつた。兄あにの元太郎もとたらうは至極しごく實體じつていで、農業のうげふに出精しゆつせいし、兩親りやうしんへ孝行かうかうを盡つくし、貧まづしい中なかにもよく齊眉かしづき、人ひとづきあひは義理堅ぎりがたくて、村むらの譽ほめものなのであるが、其その次男じなんの小助こすけは生うまれついたのらくらもの。晝間ひるまは納屋なやの中なか、鎭守ちんじゆの森もり、日蔭ひかげばかりをうろつく奴やつ、夜遊よあそびは申まをすまでもなし。色いろが白しろいのを大事だいじがつて、田圃たんぼを通とほるにも編笠あみがさでしよなりと遣やる。炎天えんてんの田たの草取くさとりなどは思おもひも寄よらない。

兩親りやうしんや兄あにの意見いけんなどは、蘆あしを吹ふく風かぜほども身みに染しみないで、朋輩ほうばい同士どうしには、何事なにごとにも、直ぢきに其その、己おれが己おれががついて𢌞まはつて、あゝ、世よが世よならばな、と口癖くちぐせのやうに云いふ。尤もつとも先祖せんぞは武家出ぶけでであらうが、如何いかにも件くだんの、世よが世よならばが、友ともだちの耳みゝに觸さはつて聞苦きゝぐるしい。自然しぜんにつきあつて遊あそぶものも少すくなくなる。對手あひてもなければ小遣こづかひもなく、まさか小盜賊こどろばうをするほどに、當人たうにん氣位きぐらゐが高たかいから身みを棄すてられず。内うちにのら〱として居をれば、兩親りやうしんは固もとより、如何いかに人ひとが好いいわ、と云いつて兄あにじや人ひとの手前てまへ、据膳すゑぜんを突出つきだして、小楊枝こやうじで奧齒おくばの加穀飯かてめしをせゝつては居をられぬ處ところから、色いろツぽく胸むねを壓おさへて、こゝがなどと痛いたがつて、溜息ためいきつく〲と鬱ふさいだ顏色がんしよく。

これが、丸持まるもちの祕藏子ひぞつこだと、匙庵老さじあんらうが脈みやくを取とつて、氣鬱きうつの症しやうでごわす、些ちとお氣晴きばらしを、と來きて、直すぐに野幇間のだいこと變化ばける奴やつ。父親ちゝおや合點がてんの母親はゝおや承知しようちで、向島むかうじまへ花見はなみの歸かへりが夜櫻見物よざくらけんぶつと成なつて、おいらんが、初會惚しよくわいぼれ、と云いふ寸法すんぱふに成なるのであるが、耕地かうち二十石にじつこくの百姓ひやくしやうの次男じなんでは然さうは行ゆかない。

新田しんでんの太郎兵衞たろべゑがうまい言ことを言いつた。小助こすけが鬱ふさぐなら蚯蚓みゝずを煎せんじて飮のませろと。何なにが、藥くすりだと勸すゝめるものも、やれ赤蛙あかがへるが可いい事ことの、蚯蚓みゝずが利きく事ことの、生姜しやうが入いれずの煎法せんぱふで。小判こばん處どころか、一分いちぶ一ひとツ貸かしてくれる相談さうだんがない處ところから、むツとふくれた頬邊ほゝべたが、くしや〱と潰つぶれると、納戸なんどへ入はひつてドタリと成なる。所謂いはゆるフテ寢ねと云いふのである。

が、親おやの慈悲じひは廣大くわうだいで、ソレ枕まくらに就ついて寢ねたと成なると、日ひが出でりや起おきる、と棄すてては置おかぬ。

傍そばに着ついて居ゐて看病かんびやうするにも、遊あそぶ手てはない百姓ひやくしやうの忙いそがしさ。一人ひとり放はふり出だして置おいた處ところで、留守るすに山やまから猿さるが來きて、沸湯にえゆの行水ぎやうずゐを使つかはせる憂慮きづかひは決けつしてないのに、誰たれかついて居をらねばと云いふ情なさけから、家中うちぢう野良のらへ出でる處ところを、嫁よめを一人ひとりあとへ殘のこして、越中ゑつちうの藥賣くすりうりが袋ふくろに入いれて置おいて行ゆく、藥くすりながら、其その優やさしい手てから飮のませるやうに計はからつたのである。

嫁よめはお艷つやと云いつて、同國どうこく一いちノ宮みやの百姓ひやくしやう喜兵衞きへゑの娘むすめで、兄あに元太郎もとたらうの此これが女房にようばう。束たばね髮がみで、かぶつては居ゐるけれども、色白いろじろで眉容きりやうの美うつくしいだけに身體からだが弱よわい。ともに身體からだを休やすまして些ちと樂らくをさせようと云いふ、其それにも舅しうとたちの情なさけはあつた。しかし箔はくのついた次男じなんどのには、飛とんだ蝶々てふ〱、菜種なたねの花はなを見通みとほしの春心はるごころ、納戸なんどで爪つめを磨とがずに居ゐようか。

尤もつとも其それまでにも、小當こあたりに當あたることは、板屋いたやを走はしる團栗どんぐりに異ことならずで、蜘蛛くもの巣すの如ごとく袖褄そでつまを引ひいて居ゐたのを、柳やなぎに風かぜと受うけつ流ながしつ、擦拔すりぬける身みも痩やせて居ゐた處ところ、義理ぎりある弟おとうと、内氣うちきの女をんな。あけては夫をつとにも告つげられねば、病氣びやうきの介抱かいはうを斷ことわると云いふわけに行ゆかないので、あい〱と、内うちに殘のこる事ことに成なつたのは、俎まないたのない人身御供ひとみごくうも同おなじ事ことで。

疊たゝみのへりも蛇へびか、とばかり、我家わがやの内うちもおど〱しながら二日ふつかは無事ぶじに過すぎた、と云いふ。三日目みつかめの午過ひるすぎ、やれ粥かゆを煮にろの、おかう〱を細こまかくはやせの、と云いふ病人びやうにんが、何故なぜか一倍いちばい氣分きぶんが惡わるいと、午飯おひるも食たべないから、尚なほ打棄うつちやつては置おかれない。

藥くすりを煎せんじて、盆ぼんは兀はげたが、手ては白しろい。お艷つやが、納戸なんどへ持もつて行ゆく、と蒲團ふとんに寢ねて居ゐながら手てを出だした。

「姉ねえさん、何なんの所爲せゐで私わたしが煩わづらつて居ゐると思おもつて下くださる、生命いのちが續つゞかぬ、餘あまりと言いへば情なさけない。人殺ひとごろし。」

と唸うなつて、矢庭やにはに抱込だきこむのを、引離ひきはなす。むつくり起直おきなほる。

「あれえ。」

と逃にげる、裾すそを掴つかんで、ぐいと引ひかれて、身みを庇かばふ氣きでばつたり倒たふれる。

「さあ、斷念あきらめろ、聲こゑを立たてるな、人ひとが來きて見みりや實まことは何どうでも、蟲むしのついた花はなの枝えだだ。」

と云いふ處ところへ、千種ちぐさはぎ〱の股引もゝひきで、ひよいと歸かへつて來きたのは兄あにじや人ひと、元太郎もとたらうで。これを見みると是非ぜひも言いはず、默だまつてフイと消失きえうせるが如ごとく出でて了しまつた。

お艷つやは死しにものぐるひな、小助こすけを突飛つきとばしたなり、茶ちやの間まへ逃にげた。が、壁かべの隅すみへばつたり倒たふれたまゝ突臥つツぷして、何なにを云いつてもたゞさめ〲と泣なくのである。

家中うちぢうなめた男をとこでも、村むらがある。世間せけんがある。兄あにじやに見着みつかつた上うへからは安穩あんのんに村むらには居をられぬ、と思おもふと、寺てらの和尚をしやうまで一所いつしよに成なつて、今いまにも兩親りやうしんをはじめとして、ドヤ〱押寄おしよせて來きさうに思おもはれ、さすがに小助こすけは慌あわたゞしく、二三枚にさんまい着きものを始末しまつして、風呂敷包ふろしきづつみを拵こしらへると、直すぐに我家わがやを駈出かけださうとして、行ゆきがけの駄賃だちんに、何なんと、姿すがたも心こゝろも消々きえ〲と成なつて泣ないて居ゐるお艷つやの帶おびを最もう一度いちどぐい、と引ひいた。

「ひい。」

と泣なく脊筋せすぢのあたりを、土足どそくにかけて、ドンと踏ふむと、ハツと悶もだえて上あげた顏かほへ、

「ペツ、澁太しぶとい阿魔あまだ。」

としたゝかに痰たんをはいて、せゝら笑わらつて、

「身體からだはきれいでも面つらは汚よごれた、樣ざまあ見みろ。おかげで草鞋わらぢを穿はかせやがる。」

と、跣足はだしでふいと出でたのである。

たとひ膚身はだみは汚けがさずとも、夫をつとの目めに觸ふれた、と云いひ、恥はづかしいのと、口惜くやしいのと、淺あさましいので、かツと一途いちづに取逆上とりのぼせて、お艷つやは其その日ひ、兩親りやうしんたち、夫をつとのまだ歸かへらぬ内うちに、扱帶しごきにさがつて、袖そではしぼんだ。あはれ、兄あにの元太郎もとたらうは、何事なにごとも見みぬ振ふりで濟すます氣きで、何時いつもより却かへつて遲おそくまで野良のらへ出でて歸かへらないで居ゐたと言いふのに。

却説さて小助こすけは、家いへを出でた其その足あしで、同おなじ村むらの山手やまてへ行いつた。こゝに九兵衞くへゑと云いふものの娘むすめにお秋あきと云いふ、其その年とし十七になる野上一郡のがみいちぐん評判ひやうばんの容色きりやう佳よし。

男をとこは女蕩をんなたらしの浮氣うはきもの、近頃ちかごろは嫂あによめの年増振としまぶりに目めを着つけて、多日しばらく遠々とほ〲しくなつて居ゐたが、最もう一二年いちにねん、深ふかく馴染なじんで居ゐたのであつた。

此この娘こから、路銀ろぎんの算段さんだんをする料簡れうけん。で、呼出よびだしを掛かける氣きの、勝手かつては知しつた裏口うらぐちへ𢌞まはつて、垣根かきねから覗のぞくと、長閑のどかな日ひの障子しやうじを開あけて、背戸せどにひら〱と蝶々てふ〱の飛とぶのを見みながら、壁かべは黒くろい陰氣いんきな納戸なんどに、恍惚うつとりともの思おもはしげな顏かほをして手てをなよ〱と忘わすれたやうに、靜しづかに、絲車いとぐるまを𢌞まはして居ゐました。眞白まつしろな腕うでについて、綿わたがスーツと伸のびると、可愛かはいい掌てのひらでハツと投なげたやうに絲卷いとまきにする〱と白しろく絡まつはる、娘心むすめごころは縁えにしの色いろを、其その蝶てふの羽はに染そめたさう。咳せきをすると、熟じつと視みるのを、もぢや〱と指ゆびを動うごかして招まねくと、飛立とびたつやうに膝ひざを立たてたが、綿わたを密そつと下したに置おいて、立構たちがまへで四邊あたりを見みたのは、母親はゝおやが内うちだと見みえる。

首尾しゆびは、しかし惡わるくはなかつたか、直すぐにいそ〱と出でて來くるのを、垣根かきねにじり〱と待まちつけると、顏かほを視みて、默だまつて、怨うらめしい目めをしたのは、日頃このごろの遠々とほ〲しさを、言いはぬが言いふに彌いや増まさると云いふ娘氣むすめぎの優やさしい處ところ。

「おい、早速さつそくだがね、此この通とほりだ。」

と、眞中まんなかを結ゆはへた包つゝみを見みせる、と旅たびと知しつて早はや顏色かほいろの變かはる氣きの弱よわいのを、奴やつこは附目つけめで、

「何なにもいざこざはない、話はなしは歸かへつて來きてゆつくりするが、此これから直すぐに筑波山つくばさんへ參詣さんけいだ。友達ともだちの附合つきあひでな、退引のつぴきならないで出掛でかけるんだが、お秋あきさん、お前まへを呼出よびだしたのは他ほかの事ことぢやない、路用ろようの處ところだ。何分なにぶん男をとこづくであつて見みれば、差當さしあたり懷中ふところ都合つがふが惡わるいから、日ひを延のばしてくれろとも言いへなからうではないか。然さうかと云いつて、別べつに都合つがふはつかないんだから、此この通とほり支度したくだけ急いそいでして、お前まへを當あてにからつぽの財布さいふで出でて來きた。何どうにか、お前まへ、是非ぜひ算段さんだんをしてくんねえ。でねえと、身動みうごきはつかないんだよ。」

お秋あきは何なにも彼かも一時いつときの、女氣をんなぎに最もう涙なみだぐんで、

「だつて、私わたしには。」

と皆みなまで言いはせず、苦にがい顏かほして、

「承知しようちだよ、承知しようちだよ。お鳥目てうもくがねえとか、小遣こづかひは持もたねえとか云いふんだらう。働はたらきのねえ奴やつは極きまつて居ゐら、と恁かう云いつては濟すまないのさ。其處そこはお秋あきさんだ。何時いつもたしなみの可いいお前まへだから、心得こゝろえておいでなさらあ、ね、其處そこはお秋あきさんだ。」

「あんな事ことを云いつて、お前まへさん又またおだましだよ。筑波つくばへお詣まゐりぢやありますまい。博奕ばくちの元手もとでか、然さうでなければ、瓜井戸うりゐどの誰だれさんか、意氣いきな女郎衆ぢよらうしうの顏かほを見みにおいでなんだよ。」

「默だまつて聞ききねえ、厭味いやみも可いい加減かげんに云いつて置おけ。此方こつちは其處そこどころぢやねえ、男をとこが立たつか立たたないかと云いふ羽目はめなんだぜ。友達ともだちへ顏かほが潰つぶれては、最もう此この村むらには居ゐられねえから、當分たうぶん此これがお別わかれに成ならうも知しれねえ。隨分ずゐぶん達者たつしやで居ゐてくんねえよ。」

と緊乎しつかりと手てを取とる、と急きふに樣子やうすが變かはつて、目めをしばたゝいたのが、田舍ゐなかの娘むすめには、十分じふぶん愁うれひが利きいたから、惚拔ほれぬいて居ゐる男をとこの事こと、お秋あきは出來できぬ中うちにも考慮しあんして、

「小助こすけさん、濟すみませんが、其それだけれど私わたしお鳥目てうもくは持もちません。何なにか品しなもので間まに合あはせておくんなさいまし。其それだと何どうにかしますから。」

「……可いいとも、代しろもの結構けつこうだ。お前まへ、眞個ほんとにお庇かげさまで男をとこが立たつぜ。」

と、そやし立たてた。成たるたけ人ひとの目めに立たたないやうに、と男をとこを樹きの蔭かげに、しばしとて、お秋あきが又また前後あとさきを見みながら内うちへ入はひつたから、しめたと、北叟笑ほくそゑみをして待まつと、しばらく隙ひまが取とれて、やがて駈出かけだして來きて、手てに渡わたしたのが手織木綿ておりもめんの綿入わたいれ一枚いちまい。よく〱であつたと見みえて、恥はづかしさうに差俯向さしうつむく。

其その横顏よこがほを憎々にく〱しい目めで覗込のぞきこんで、

「何なんだ、これは、品しなものと云いつたのは、お前まへ此この事ことか。お前まへ此この事ことか。品しなものと云いつたのは、間まに合あはせると云いふのは此これかな、えゝお秋あきさん。」

娘むすめはおど〱して、

「母かあさんが内うちだから、最もう其外そのほかには仕しやうがないもの、私わたし。」

「此これぢや何どうにも仕樣しやうがねえ。とても出來できねえものなら仕方しかたはねえが、最もう些ちつと、これんばかしでも都合つがふをしねえ、急場きふばだから、己おれの生死いきしにの境さかひと云いふのだ。」

最もう此この上うへは、とお秋あきは男をとこのせり詰つめた劍幕けんまくと、働はたらきのない女をんなだと愛想あいそを盡つかされようと思おもふ憂慮きづかひから、前後ぜんごの辨別わきまへもなく、着きて居ゐた棒縞ぼうじまの袷あはせを脱ぬいで貸かすつもりで、樹きの蔭かげではあつたが、垣かきの外そとで、帶おびも下〆したじめもする〱と解ほどいたのである。

先刻さつきから、出入ではひりのお秋あきの素振そぶりに、目めを着つけた、爐邊ろべりに煮にものをして居ゐた母親はゝおやが、戸外おもてに手間てまが取とれるのに、フト心着こゝろづいて、

「秋あきは、あの子こや。」

と聲こゑを掛かけて呼よぶと、思おもふと、最もうすた〱と草履ざうりで出でた。

「あれ、其それは、」

と云いふ、帶おびまで引手奪ひつたくつて、袷あはせも一所いつしよに、ぐる〱と引丸ひんまろげる。

「秋あきやあ。」

「あゝい。」

と震聲ふるへごゑで、慌あわてて、むつちりした乳ちゝの下したへ、扱帶しごきを取とつて卷まきつけながら、身體からだごとくる〱と顛倒てんだうして𢌞まはる處ところへ、づかと出でた母親はゝおやは驚おどろいて、白晝まつぴるまの茜木綿あかねもめん、それも膝ひざから上うへばかり。

「此この狐憑きつねつきが。」

と赫かつと成なると、躍上をどりあがつて、黒髮くろかみを引掴ひツつかむと、雪ゆきなす膚はだを泥どろの上うへへ引倒ひきたふして、ずる〱と内うちへ引込ひきこむ。

「きい。」

と泣なくのが、身體からだが縁側えんがはへ橋はしに反そつて、其そのまゝ納戸なんどの絲車いとぐるまの上うへへ、眞綿まわたを挫ひしやいだやうに捻倒ねぢたふされたのを、松原まつばらから伸上のびあがつて、菜畠越なばたけごしに、遠とほくで見みて、舌したを吐はいて、霞かすみがくれの鼻唄はなうたで、志こゝろざす都みやこへ振出ふりだしの、瓜井戸うりゐどの宿しゆくへ急いそいだ。

が、其その間あひだに、同おなじ瓜井戸うりゐどの原はらと云いふのがある。此これなん縱たてに四里八町よりはつちやう、横よこは三里さんりに餘あまる。

村むらから松並木まつなみき一ひとつ越こした、此この原はらの取着とツつきに、式かたばかりの建場たてばがある。こゝに巣すをくふ平吉へいきちと云いふ博奕仲間ぶちなかまに頼たのんで、其その袷あはせと綿入わたいれを一枚いちまいづゝ、帶おびを添そへて質入しちいれにして、小助こすけが手てに握にぎつた金子かねが……一歩いちぶとしてある。尤もつとも使つかひをした、ならずの平へいが下駄げたどころか、足駄あしだを穿はいたに違ちがひない。

此この一歩いちぶに、身みのかはを剥むかれたために、最惜いとしや、お秋あきは繼母まゝはゝには手酷てひどき折檻せつかんを受うける、垣根かきねの外そとの樹きの下したで、晝中ひるなかに帶おびを解といたわ、と村中むらぢうの是沙汰これざたは、若わかい女をんなの堪忍たへしのばれる恥はぢではない。お秋あきは夜よとも分わかず晝ひるとも知しらず朧夜おぼろよに迷出まよひいでて、あはれ十九を一期いちごとして、同國どうこく浦崎うらざきと云いふ所ところの入江いりえの闇やみに身みを沈しづめて、蘆あしの刈根かりねのうたかたに、其その黒髮くろかみを散ちらしたのである。

時ときに、一歩いちぶの路用ろようを整とゝのへて、平吉へいきちがおはむきに、最もう七なゝツさがりだ、掘立小屋ほつたてごやでも一晩ひとばん泊とまんねな兄哥あにい、と云いつてくれたのを、いや、瓜井戸うりゐどの娼妓おいらんが待まつて居ゐらと、例れいの己おれが、でから見得みえを張はつた。内心ないしんには、嫂あによめお艷つやの事こと、又またお秋あきの事こと、さすがに好いい事ことをしたと思おもはないから、村近むらぢかだけに足あしのうらが擽くすぐつたい。ために夕飯ゆふはんは匇々さう〱燒鮒やきぶなで認したゝめて、それから野原のはらへ掛かゝつたのが、彼かれこれ夜よるの十時過じふじすぎになつた。

若草わかくさながら曠野ひろの一面いちめん、渺々べう〱として果はてしなく、霞かすみを分わけてしろ〲と、亥中ゐなかの月つきは、さし上のぼつたが、葉末はずゑを吹ふかるゝ我わればかり、狐きつねの提灯ちやうちんも見みえないで、時々とき〲むら雲くものはら〱と掛かゝるやうに、處々ところ〲草くさの上うへを染そめるのは、野飼のがひの駒こまの影かげがさすのである。

小助こすけは前途ゆくてを見渡みわたして、此これから突張つツぱつて野のを越こして、瓜井戸うりゐどの宿しゆくへ入はひつたが、十二時こゝのつを越こしたと成なつては、旅籠屋はたごやを起おこしても泊とめてはくれない。たしない路銀ろぎん、女郎屋ぢよらうやと云いふわけには行ゆかず、まゝよ、とこんな事ことは、さて馴なれたもので、根笹ねざさを分わけて、草くさを枕まくらにころりと寢ねたが、如何いかにも良いい月つき。

春はるの夜よながら冴さえるまで、影かげは草くさを透すくのである。其その明あかりが目めを射さすので、笠かさを取とつて引被ひきかぶつて、足あしを踏伸ふみのばして、眠ねむりかける、とニヤゴと鳴ないた、直ぢきそれが、耳許みゝもとで、小笹こざさの根ね。

「や、念入ねんいりな處ところまで持もつて來きて棄すてやあがつた。野猫のねこは居ゐた事ことのない原場はらつぱだが。」

ニヤゴと又また鳴なく。耳みゝについてうるさいから、シツ〱などと遣やつて、寢ねながら兩手りやうてでばた〱と追おつたが、矢張やつぱり聞きこえる。ニヤゴ、ニヤゴと續樣つゞけざま。

「いけ可煩うるせえ畜生ちくしやうぢやねえか、畜生ちくしやう!」

と怒鳴どなつて、笠かさを拂はらつて、むつくりと半身はんしん起上おきあがつて、透すかして見みると、何なにも居をらぬ。其その癖くせ、四邊あたりにかくれるほどな、葉はの伸のびた草くさの影かげもない。月つきは皎々かう〱として眞晝まひるかと疑うたがふばかり、原はらは一面いちめん蒼海さうかいが凪なぎたる景色けしき。

ト錨いかりが一具ひとつ据すわつたやうに、間あひだ十間じつけんばかり隔へだてて、薄黒うすぐろい影かげを落おとして、草くさの中なかでくる〱と𢌞まはる車くるまがある。はて、何時いつの間まに、あんな處ところへ水車みづぐるまを掛かけたらう、と熟じつと透すかすと、何どうやら絲いとを繰くる車くるまらしい。

白鷺しらさぎがすうつと首くびを伸のばしたやうに、車くるまのまはるに從したがうて眞白まつしろな絲いとの積つもるのが、まざ〱と見みえる。

何處どこかで、ヒイと泣なき叫さけぶうら若わかい女をんなの聲こゑ。

お秋あきが納戸なんどに居ゐた姿すがたを、猛然まうぜんと思出おもひだすと、矢張やつぱり鳴留なきやまぬ猫ねこの其その聲こゑが、豫かねての馴染なじみでよく知しつた。お秋あきが撫擦なでさすつて、可愛かはいがつた、黒くろ、と云いふ猫ねこの聲こゑに寸分すんぶん違たがはぬ。

「夢ゆめだ。」

と思おもひながら、瓜井戸うりゐどの野のの眞中まんなかに、一人ひとりで頭あたまから悚然ぞつとすると、する〱と霞かすみが伸のびるやうに、形かたちは見みえないが、自分じぶんの居ゐまはりに絡からまつて鳴なく猫ねこの居ゐる方はうへ、招まねいて手繰たぐられるやうに絲卷いとまきから絲いとを曳ひいたが、幅はゞも、丈たけも、颯さつと一條ひとすぢ伸擴のびひろがつて、肩かたを一捲ひとまき、胴どうへ搦からんで、

「わツ。」

と掻拂かつぱらふ手てを、ぐる〱捲まきに、二捲ふたまき卷まいてぎり〱と咽喉のどを絞しめる、其その絞しめらるゝ苦くるしさに、うむ、と呻うめいて、脚あしを空そらざまに仰反のけぞる、と、膏汗あぶらあせは身體みうちを絞しぼつて、颯さつと吹ふく風かぜに目めが覺さめた。

草くさを枕まくらが其そのまゝで、早はやしら〱と夜よが白しらむ。駒こまの鬣たてがみがさら〱と、朝あさかつらに搖ゆらいで見みえる。

恐おそろしいよりも、夢ゆめと知しれて嬉うれしさが前さきに立たつた。暫時しばらく茫然ばうぜんとして居ゐた。が、膚脱はだぬぎに成なつて冷汗ひやあせをしつとり拭ふいた。其その手拭てぬぐひを向むかう顱卷はちまき、うんと緊しめて氣きを確乎しつかりと持直もちなほして、すた〱と歩行出あるきだした。

――こんなのが、此この頃ごろ、のさ〱と都みやこへ入込いりこむ。

明治四十五年一月

底本 / Source edition

底本:「鏡花全集 巻二十七」岩波書店
1942(昭和17)年10月20日第1刷発行
1988(昭和63)年11月2日第3刷発行
※題名の下にあった年代の注を、最後に移しました。
※表題は底本では、「一席話《いつせきばなし》」とルビがついています。
入力:門田裕志
校正:川山隆
2011年8月6日作成
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TEI
/works/050770_000050/tei
プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
/works/050770_000050/

泉 鏡花、泉 鏡太郎「一席話」(旧字旧仮名)、底本『鏡花全集 巻二十七』岩波書店、1942年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 050770_000050, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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