Soranoha

麻を刈る

あさをかる

泉 鏡花、泉 鏡太郎

明治十二三年頃めいぢじふにさんねんごろの出版しゆつぱんだと思おもふ――澤村田之助曙双紙さはむらたのすけあけぼのさうしと云いふ合卷がふくわんものの、淡彩たんさいの口繪くちゑに、黒縮緬くろちりめんの羽織はおりを撫肩なでがたに引ひつ掛かけて、出での衣裝いしやうの褄つまを取とつた、座敷ざしきがへりらしい、微醉ほろよひの婀娜あだなのが、俥くるまの傍わきに彳たゝずんで、春はるたけなはに、夕景色ゆふげしき。瓦斯燈がすとうがほんのり點ともれて、あしらつた一本ひともとの青柳あをやぎが、裾すそを曳ひいて、姿すがたを競きそつて居ゐて、唄うたが題だいしてあつたのを覺おぼえて居ゐる。曰いはく、(金子かねも男をとこも何なんにも入いらぬ微醉機嫌ほろよひきげんの人力車じんりきしや)――少々せう〱間違まちがつて居ゐるかも知しれないが、間違まちがつて居ゐれば、其その藝妓げいしやの心掛こゝろがけで、私わたしの知しつた事ことではない。何なにしろ然さうした意氣いきが唄うたつてあつた。或あるひは俥くるまのはやりはじめの頃ころかも知しれない。微醉ほろよひを春はるの風かぜにそよ〱吹ふかせて、身體からだがスツと柳やなぎの枝えだで宙ちうに靡なびく心持こゝろもちは、餘程よつぽど嬉うれしかつたものと見みえる。

今時いまどきバアで醉拂よつぱらつて、タクシイに蹌踉よろけ込こんで、いや、どツこいと腰こしを入いれると、がた、がたんと搖ゆれるから、脚あしを蟇ひきがへるの如ごとく踏張ふんばつて――上等じやうとうのは知しらない――屋根やねが低ひくいから屈かゞみ腰ごしに眼まなこを据すゑて、首くびを虎とらに振ふるのとは圖づが違ちがふ。第一だいいち色氣いろけがあつて世よを憚はゞからず、親不孝おやふかうを顧かへりみざる輩ともがらは、男女ふたりで相乘あひのりをしたものである。敢あへて註ちうするに及およばないが、俥くるまの上うへで露呈あらはに丸髷まるまげなり島田しまだなりと、散切ざんぎりの……惡わるくすると、揉上もみあげの長ながい奴やつが、肩かたを組くんで、でれりとして行ゆく。些ちと極端きよくたんにたとへれば、天鵞絨びろうどの寢臺しんだいを縱たてにして、男女ふたりが處ところを、廣告びらに持歩行もちあるいたと大差たいさはない。

自動車じどうしやに相乘あひのりして、堂々だう〱と、淺草あさくさ、上野うへの、銀座ぎんざを飛とばす、當今たうこんの貴婦人きふじん紳士しんしと雖いへども、これを見みたら一驚いつきやうを吃きつするであらう。誰たれも口癖くちぐせに言いふ事ことだが、實じつに時代じだいの推移すゐいである。だが其そのいづれの相乘あひのりにも、齊ひとしく私わたしの關くわんせざる事ことは言いふまでもない。とにかく、色氣いろけも聊いさゝか自棄やけで、穩おだやかならぬものであつた。

――(すきなお方かたと相乘人力車あひのりじんりきしや、暗くらいとこ曳ひいてくれ、車夫くるまやさん十錢じつせんはずむ、見みかはす顏かほに、その手てが、おつだね)――恁かう云いふ流行唄はやりうたさへあつた。おつだね節ぶしと名題なだいをあげたほどである。何なんにしろ人力車じんりきしやはすくなからず情事じやうじに交渉かうせふを持もつたに相違さうゐない。

金澤かなざはの人ひと、和田尚軒氏わだしやうけんし著ちよ。郷土史談きやうどしだんに採録さいろくする、石川縣いしかはけんの開化新開かいくわしんかい、明治五年めいぢごねん二月にぐわつ、其その第六號だいろくがうの記事きじに、

先頃さきごろ大阪おほさかより歸かへりし人ひとの話はなしに、彼地かのちにては人力車じんりきしや日ひを追おひ盛さかんに行おこなはれ、西京さいきやうは近頃ちかごろまでこれなき所ところ、追々おひ〱盛さかんにて、四百六輌しひやくろくりやう。伏見ふしみには五十一輌ごじふいちりやうなりと云いふ。尚なほ追々おひ〱増加ぞうかするよし……其處そこで、東京府下とうきやうふかは總數そうすう四萬餘よまんよに及およぶ。

と記しるして、一車いつしやの税銀ぜいぎん、一いつヶ月げつ八匁はちもんめ宛づゝなりと載のせてある。勿論もちろん、金澤かなざは、福井ふくゐなどでは、俵藤太たはらとうだも、頼光らいくわう、瀧夜叉姫たきやしやひめも、まだ見みた事こともなかつたらう。此この東京とうきやうの四萬よまんの數かずは多おほいやうだけれども、其その頃ころにしろ府下ふか一帶いつたいの人口じんこうに較くらべては、辻駕籠つじかごほどにも行渡ゆきわたるまい、然しかも一いつヶ月げつ税銀ぜいぎん八匁はちもんめの人力車じんりきしやである。なか〱以もつて平民へいみんには乘のれさうに思おもはれぬ。時ときの流行りうかうといへば、別べつして婦人ふじんが見得みえと憧憬しようけいの的まとにする……的まととなれば、金銀きんぎん相あひ輝かゞやく。弓ゆみを學まなぶものの、三年さんねん凝視ぎようしの瞳ひとみには的まとの虱しらみも其その大おほきさ車輪しやりんである。從したがつて、其その頃ころの巷談こうだんには、車夫くるまやの色男いろをとこが澤山たくさんあつた。一寸ちよつと岡惚をかぼれをされることは、やがて田舍ゐなかまはりの賣藥行商ばいやくぎやうしやう、後のちに自動車じどうしやの運轉手うんてんしゆに讓ゆづらない。立志りつし美談びだん車夫しやふの何なんとかがざらにあつた。

しばらくの間あひだに、俥くるまのふえた事ことは夥おびたゞしい。

人力車じんりきしや――腕車わんしやが、此この亻にんべんに車くるまと成なつた、字じは紅葉先生こうえふせんせいの創意さういであると思おもふ。見附みつけを入はひつて、牛込うしごめから、飯田町いひだまちへ曲まがるあたりの帳場ちやうばに、(人力じんりき)を附着くツつけて、一寸ちよつと(分ふん)の字じの形かたちにしたのに、車くるまをつくりに添そへて、大おほきく一字いちじにした横看板よこかんばんを、通とほりがかりに見みて、それを先生せんせいに、私わたしが話はなした事ことがある。「そいつは可笑をかしい。一寸ちよつと使つかへるな。」と火鉢ひばちに頬杖ほゝづゑをつかれたのを覺おぼえて居ゐる。

……更あらためて言いふまでもないが、車賃くるまちんなしの兵兒帶へこおびでも、辻つじ、巷ちまたの盛さかり場ばは申まをすまでもない事こと、待俥まちぐるまの、旦那だんな御都合ごつがふで、を切拔きりぬけるのが、てくの身みに取とり大苦勞だいくらうで。どやどやどや、がら〱と……大袈裟おほげさではない、廣小路ひろこうぢなんぞでは一時いつときに十四五臺じふしごだいも取卷とりまいた。三橋みはし、鴈鍋がんなべ、達磨汁粉だるまじるこ、行ゆくさき眞黒まつくろに目めに餘あまる。「こいつを樂らくに切拔きりぬけないぢや東京とうきやうに住すめないよ。」と、よく下宿げしゆくの先輩せんぱいが然さう言いつた。

十四五年前じふしごねんぜん、いまの下六番町しもろくばんちやうへ越こした頃ころも、すぐ有島家ありしまけの黒塀外くろべいそとに、辻車つじぐるま、いまの文藝春秋社ぶんげいしゆんじうしやの前まへの石垣いしがきと、通とほりを隔へだつた上六かみろくの角かどとに向むかひ合あひ、番町學校ばんちやうがくかうの角かどにも、づらりと出でて居ゐて、ものの一二町いちにちやうとはない處ところに、其そのほかに尚なほ宿車やどぐるまが三四軒さんしけん。

――春はるは櫻さくらの賑にぎはひよりかけて、なき玉菊たまぎくが燈籠とうろうの頃ころ、續つゞいて、秋あきの新仁和賀しんにはかには、十分間じつぷんかんに車くるまの飛とぶこと、此この通とほりのみにて七十五輌しちじふごりやう。

と、大音寺前だいおんじまへの姉ねえさん、一葉女史いちえふぢよしが、乃すなはち袖そでを卷まいて拍子ひやうしを取とつた所以ゆゑんである。

――十分間じつぷんかんに七十五輌しちじふごりやう、敢あへて大音寺前だいおんじまへばかりとは云いはない。馬道うまみちは俥くるまで填うまつた。淺草あさくさの方はうの悉くはしい事ことは、久保田くぼたさん(万まんちやん)に聞きくが可いい。……山やまの手て、本郷臺ほんがうだい。……切通きりどほしは堰せきを切きつて俥くるまの瀧たきを流ながした。勿論もちろん、相乘あひのりも渦うづを卷まいて、人ひととともに舞まつて落おちる、江智勝えちかつ、豐國とよくにあたりで、したゝかな勢いきほひに成なつたのが、ありや〱、と俥くるまの上うへで、蛸たこの手てで踊をどつて行ゆく。でつかんしよに、愉快ゆくわいぶし、妓夫臺ぎふだい談判だんぱん破裂はれつして――進すゝめツ――いよう、御壯ごさかん、どうだい隊長たいちやうと、喚わめき合あふ。――どうも隊長たいちやう。……まことに御壯ごさかん。が、はずんで下おりて一淀ひとよどみして𢌞まはる處ところから、少すこし勢いきほひが鈍にぶくなる。知しらずや、仲町なかちやうで車夫わかいしゆが、小當こあたりに當あたるのである。「澄すまねえがね、旦那だんな。」甚はなはだしきは楫かぢを留とめる。彼處あすこを拔ぬけると、廣小路ひろこうぢの角かどの大時計おほどけいと、松源まつげんの屋根飾やねかざりを派手はでに見みせて、又またはじめる。「ほんの蝋燭おてらしだ、旦那だんな。」さて、最もつとも難場なんばとしたのは、山下やましたの踏切ふみきりの處ところが、一坂ひとさか辷すべらうとする勢いきほひを、故わざと線路せんろで沮はゞめて、ゆつくりと強請ねだりかゝる。處ところを、辛からうじて切拔きりぬけると、三島樣みしまさまの曲角まがりかどで、又またはじめて、入谷いのやの大池おほいけを右みぎに、ぐつと暗くらくなるあたりから、次第しだいに凄すごく成なつたものだ――と聞きく。

……實じつは聞きいただけで。私わたしの覺おぼえたのは……そんな、そ、そんな怪けしからん場所ばしよではない。國くにへ往復ゆきかへりの野路のみち山道やまみちと、市中しちうも、山やままはりの神社佛閣じんじやぶつかくばかり。だが一寸ちよつとこゝに自讚じさんしたい事ことがある。酒さけは熱燗あつかんのぐい呷あふり、雲助くもすけの風ふうに似にて、茶ちやは番茶ばんちやのがぶ飮のみ。料理れうりの食たべ方かたを心得こゝろえず。お茶碗ちやわんの三葉みつばは生煮なまにえらしいから、そつと片寄かたよせて、山葵わさびを活いきもののやうに可恐おそろしがるのだから、われながらお座ざがさめる。さゝ身みの煮にくたらしを、ほう〱と吹ふいてうまがつて、燒豆府やきどうふばかりを手元てもとへ取込とりこみ、割前わりまへの時ときは、鍋なべの中なかの領分りやうぶんを、片隅かたすみへ、群雄割據ぐんゆうかつきよの地圖ちづの如ごとく劃しきつて、眞中まんなかへ埋うめた臟ざうもつを、箸はしの尖さきで穴あなをあけて、火ひはよく通とほつたでござらうかと、遠目金とほめがねを覗のぞくやうな形かたちをしたのでは大概たいがい岡惚をかぼれも引退ひきさがる。……友ともだちは、反感はんかんと輕侮けいぶを持もつ。精々せい〲同情どうじやうのあるのが苦笑くせうする。と云いつた次第しだいだが……たゞ俥くるまに掛かけては乘のり方かたがうまい、と――最もつとも御容子ごようすではない――曳ひいてる車夫わかいしゆに讚ほめられた。拾ひろひ乘のりだと、樹きの下した、塀續へいつゞきなぞで、わざ〱振向ふりむいて然さう言いつた事ことさへある。

乘のるのがうまいと言いふ下したから、落おちることもよく落おちた。本郷ほんがうの菊坂きくざかの途中とちうで徐々やは〱と横よこに落おちたが寺てらの生垣いけがきに引掛ひつかゝつた、怪我けがなし。神田かんだ猿樂町さるがくちやうで、幌ほろのまゝ打倒ぶつたふれた、ヌツと這出はひでる事ことは出でたが、氣きつけの賓丹はうたんを買かふつもりで藥屋くすりやと間違まちがへて汁粉屋しるこやへ入はひつた、大分だいぶ茫ばうとしたに違ちがひない、が怪我けがなし。眞夏まなつ、三宅坂みやけざかをぐん〱上あがらうとして、車夫わかいしゆが膝ひざをトンと支つくと蹴込けこみを辷すべつて、ハツと思おもふ拍子ひやうしに、車夫わかいしゆの背中せなかを跨またいで馬乘うまのりに留とまつて「怪我けがをしないかね。」は出來できが可いい。師走しはすの算段さんだんに驅かけ𢌞まはつて五味坂ごみざかで投出なげだされた、此この時ときは、懷中くわいちうげつそりと寒さむうして、心しん、虚きよなるが故ゆゑに、路端みちばたの石いしに打撞ぶつかつて足あしの指ゆびに怪我けがをした。最近さいきんは……尤もつとも震災前しんさいぜんだが……土橋どばしのガード下したを護謨輪ごむわで颯さつと言いふうちに、アツと思おもふと私わたしはポンと俥くるまの外そとへ眞直まつすぐに立たつて、車夫わかいしゆは諸膝もろひざで、のめつて居ゐた。蓋けだし、期きせずして、一ひとつ宙返ちうがへりをして車夫わかいしゆの頭あたまを乘越とびこしたのである。拂はらふほど砂すなもつかない、が、此これは後あとで悚然ぞつとした。……實じつの處ところ今いまでもまだ吃驚びつくりしてゐる。

要えうするに――俥くるまは落おちるものと心得こゝろえて乘のるのである。而しかして、惡道路みちわると、坂さかの上下じやうげは、必かならず下おりて歩行あるく事こと――

これ、當流たうりうの奧儀おくぎである、と何なにも矢場七やばしち、土場六どばろくが、茄子なすびのトントンを密造みつざうする時ときのやうに祕傳ひでんがるには及およばない。――實じつは、故郷こきやうへの往復わうふくに、其その頃ころは交通かうつうの必要上ひつえうじやう止やむを得えず幾度いくども長途ながみちを俥くるまにたよつたため、何時いつとなく乘のるのに馴なれたものであらうと思おもふ。……

汽車きしやは、米原まいばらを接續線せつぞくせんにして、それが敦賀つるがまでしか通つうじては居ゐなかつた。「むき蟹がに。」「殼附からつき。」などと銀座ぎんざのはち卷まきで旨うまがる處どころか、ヤタ一いちでも越前蟹ゑちぜんがに(大蟹おほがに)を誂あつらへる……わづか十年じふねんばかり前まへまでは、曾席くわいせきの膳ぜんに恭うや〱しく袴はかまつきで罷出まかりでたのを、今いまから見みれば、嘘うそのやうだ。けれども、北陸線ほくりくせんの通つうじなかつた時分じぶん、舊道きうだうは平家物語へいけものがたり、太平記たいへいき、太閤記たいかふきに至いたるまで、名なだたる荒地山あらちやま、歸かへる、虎杖坂いたどりざか、中河内なかのかはち、燧ひうちヶ嶽たけ。――新道しんだうは春日野峠かすがのたうげ、大良だいら、大日枝おほひだの絶所ぜつしよで、其その敦賀つるが金かねヶ崎さきまで、これを金澤かなざはから辿たどつて三十八里さんじふはちりである。蟹かにが歩行あるけば三年さんねんかゝる。

最もつとも、加州かしう金石かないはから――蓮如上人れんによしやうにん縁起えんぎのうち、嫁よめおどしの道場だうぢやう、吉崎よしざきの港みなと、小女郎こぢよらうの三國みくにへ寄よつて、金かなヶ崎さきへ通かよふ百噸ひやくとん以下いかの汽船きせんはあつた。が、事こともおろかや如法によほふの荒海あらうみ、剩あまつさへ北國日和ほくこくびよりと、諺ことわざにさへ言いふのだから、浪なみはいつも穩おだやかでない。敦賀つるがは良津りやうしんゆゑ苦勞くらうはないが、金石かないはの方はうは船ふねが沖おきがかりして、波なみの立たつ時ときは、端舟はしけで二三里にさんりも揉もまれなければ成ならぬ。此これだけでも命いのちがけだ。冬分ふゆぶんは往々わう〱敦賀つるがから來きた船ふねが、其處そこに金石かないはを見みながら、端舟はしけの便べんがないために、五日いつか、七日なぬかも漾たゞよひつゝ、果はては佐渡さどヶ島しまへ吹放ふきはなたれたり、思切おもひきつて、もとの敦賀つるがへ逆戻ぎやくもどりする事ことさへあつた。

上京じやうきやうするのに、もう一ひとつの方法しかたは、金澤かなざはから十三里じふさんり、越中ゑつちう伏木港ふしきかうまで陸路りくろ、但たゞし倶利伽羅くりからの嶮けんを越こす――其その伏木港ふしきかうから直江津なほえつまで汽船きせんがあつて、すぐに鐵道てつだうへ續つゞいたが、申まをすまでもない、親不知おやしらず、子不知こしらずの沖おきを渡わたる。……此この航路かうろも、おなじやうに難儀なんぎであつた。もしこれを陸りくにしようか。約六十里やくろくじふりに餘あまつて遠とほい。肝心かんじんな事ことは、路銀ろぎんが高値たかい。

其處そこで、暑中休暇しよちうきうかの學生がくせいたちは、むしろ飛騨越ひだごえで松本まつもとへ嶮けんを冒をかしたり、白山はくさんを裏うらづたひに、夜叉やしやヶ池いけの奧おくを美濃路みのぢへ渡わたつたり、中なかには佐々成政さつさなりまさのさら〱越ごえを尋たづねた偉えらいのさへある。……現げんに、廣島師範ひろしましはんの閣下穗科信良かくかほしなしんりやうは――こゝに校長かうちやうたる其その威嚴ゐげんを傷きずつけず禮れいを失しつしない程度ていどで、祝意しゆくいに少すこし揶揄やゆを含ふくめた一句いつくがある。本來ほんらいなら、別行べつぎやうに認したゝめて、大おほいに俳面はいめんを保たもつべきだが、惡口わるくちの意地いぢの惡わるいのがぢき近所きんじよに居ゐるから、謙遜けんそんして、二十字にじふじづめの中なかへ、十七字じふしちじを割込わりこませる。曰いはく、千兩せんりやうの大禮服たいれいふくや土用干どようぼし。――或あるひは曰いはく――禮服れいふくや一千兩いつせんりやうを土用干どようぼし――此この大禮服たいれいふくは東京とうきやうで出來できた。が、帽ばうを頂いたゞき、劍けんを帶おび、手套てぶくろを絞しぼると、坐すわるのが變へんだ。床几しやうぎ――といふ處ところだが、(――親類しんるゐの家いへで――)其その用意よういがないから、踏臺ふみだいに嵬然くわいぜんとして腰こしを掛かけた……んぢや、と笑わらつて、當人たうにんが私わたしに話はなした。夫人ふじん、及および學生がくせいさん方がたには内證ないしようらしい。――その學生がくせいの頃ころから、閣下かくかは學問がくもんも腹はらも出來できて居ゐて、私わたしのやうに卑怯ひけふでないから、泳およぎに達たつしては居ゐないけれども、北海ほくかいの荒浪あらなみの百噸ひやくとん以下いかを恐おそれない。恐おそれはしないが、不思議ふしぎに船暈ふなよひが人ひとより激はげしい。一度いちどは、餘あまりの苦くるしさに、三國沿岸みくにえんがんで……身みを投なげて……いや、此これだと女性ぢよせいに近ちかい、いきなり飛込とびこんで死しなうと思おもつた、と言いふほどであるから、一夏ひとなつは一人旅ひとりたびで、山神さんじんを驚おどろかし、蛇へびを蹈ふんで、今いまも人ひとの恐おそるゝ、名代なだいの天生峠あまふたうげを越こして、あゝ降ふつたる雪ゆきかな、と山蛭やまひるを袖そでで拂はらつて、美人びじんの孤家ひとつやに宿やどつた事ことがある。首尾しゆびよく岐阜ぎふへ越こしたのであつた。

道みちは違ちがふが――話はなしの次ついでだ。私わたしも下街道しもかいだうを、唯たゞ一度いちどだけ、伏木ふしきから直江津なほえつまで汽船きせんで渡わたつた事ことがある。――後のちにも言いふが――いつもは件くだんの得意とくいの俥くるまで、上街道かみかいだう越前ゑちぜんを敦賀つるがへ出でたのに――爾時そのときは、旅費りよひの都合つがふで。……聞きいて、眞實ほんたうにはなさるまい、伏木ふしきの汽船きせんが、兩會社りやうくわいしやで激はげしく競爭きやうさうして、乘客じようきやく爭奪さうだつの手段しゆだんのあまり、無賃銀むちんぎん、たゞでのせて、甲會社かふくわいしやは手拭てぬぐひを一筋ひとすぢ、乙會社おつくわいしやは繪端書ゑはがき三枚さんまいを景物けいぶつに出だすと言いふ。……船中せんちうにて然さやうな事ことは申まをさぬものだが、龍宮場末りうぐうばすゑの活動寫眞くわつどうしやしんが宣傳プロパガンダをするやうな風説うはさを聞きいて、乘のらざるべけんやと、旅費りよひの苦くるしいのが二人ふたりづれで驅出かけだした。

此この侶伴つれは、後のちの校長閣下かうちやうかくかの事ことではない。おなじく大學だいがくの學生がくせいで暑中休暇しよちうきうかに歸省きせいして、糠鰊こぬかにしん……易やすくて、量こくがあつて、舌したをピリヽと刺戟しげきする、糠ぬかに漬込つけこんだ鰊にしん……に親したしんで居ゐたのと一所いつしよに、金澤かなざはを立たつて、徒歩とほで、森下もりもと、津幡づはた、石動いするぎ。……それよりして、倶利伽羅くりからに掛かゝる、新道しんだう天田越あまたごえの峠たうげで、力餅ちからもちを……食たべたかつたが澁茶しぶちやばかり。はツ〱と漸やつと越こして、漫々まん〱たる大おほきな川かはの――それは庄川しやうかはであらうと思おもふ――橋はしで、がつかりして弱よわつて居ゐた處ところを、船頭せんどうに半なかば好意かういで乘のせられて、流ながれくだりに伏木ふしきへ渡わたつた。樣子やうすを聞きくと、汽船會社きせんぐわいしやの無錢たゞで景物けいぶつは、裏切うらぎられた。何どうも眞個ほんたうではないらしいのに、がつかりしたが、此この時ときの景色けしきは忘わすれない。船ふねが下流かりうに落おちると、暮雲ぼうん岸きしを籠こめて水天一色すゐてんいつしよく、江波かうは渺茫べうばう、遠とほく蘆あしが靡なびけば、戀々れん〱として鷺さぎが佇たゝずみ、近ちかく波なみが動うごけば、アヽ鱸すゞきか? 鵜うが躍をどつた。船頭おやぢが辨當べんたうを使つかふ間あひだ、しばらくは船ふねは漂蕩へうたうと其その流ながるゝに任まかせて、やがて、餉かれひを澄すまして、ざぶりと舷ふなべりに洗あらひ状さまに、割籠わりごに掬くむとて掻かく水みづが、船脚ふなあしよりは長ながく尾をを曳ひいて、動うごくもののない江えの面おもに、其船頭そのせんどうは悠然いうぜんとして、片手かたてで艫ろを繰あやつりはじめながら、片手かたてで其その水みづを飮のむ時とき、白鷺しらさぎの一羽いちはが舞まひながら下おりて、舳みよしに留とまつたのである。

いや、そんな事ことより、力餅ちからもちさへ食くはぬ二人ふたりが、辨當べんたうのうまさうなのに、ごくりと一所いつしよに唾つをのんでお腹なかが空すいて堪たまらない。……船頭おやぢの菜さいも糠鰊こぬかにしんで。……

これには鰯いわしもある――糠鰯こぬかいわし、且かつ恐おそるべきものに河豚ふぐさへある。這個糠漬このぬかづけの大河豚おほでつぱう。

何なんと、此この糠河豚ぬかふぐを、紅葉先生こうえふせんせいに土産みやげに呈ていした男をとこがある。たべものに掛かけては、中華亭ちうくわていの娘むすめが運はこぶ新栗しんぐりのきんとんから、町内ちやうないの車夫しやふが内職ないしよくの駄菓子店だぐわしみせの鐵砲玉てつぱうだままで、趣おもむきを解かいしないでは置おかない方かただから、遲おそい朝御飯あさごはんに茶漬ちやづけで、さら〱。しばらくすると、玄關げんくわんの襖ふすまが、いつになく、妙めうに靜しづかに開あいて、懷手ふところでで少すこし鬱うつした先生せんせいが、

「泉いづみ。」

「は。」

「あの、河豚ふぐは、お前まへも食くつたか。」

「故郷くにでは、惣菜そうざいにしますんです。」

「おいら、少すこし腹はらが疼いたむんだがな。」

「先生せんせい、河豚ふぐに中害あたつて、疼いたむ事ことはないんださうです。」

「あゝ、然さうか。」

すつと、其そのまゝ二階にかいへ、――

いま、我わが瀧太郎たきたらうさんは、目めまじろがず、一段いちだんと目玉めだまを大おほきくして、然しかも糠ぬかにぶく〱と熟うれて甘あまい河豚やつを食くふから驚おどろく。

新婚當時しんこんたうじ、四五年しごねん故郷こきやうを省かへりみなかつた時分じぶん、穗科閣下ほしなかくかは、あゝ糠鰊こぬかにしんが食くひたいな、と暫々しば〱言いつて繰返くりかへした。

「食くはれるものかね。」

「いや、然さうでない、あれは珍味ちんみぢやぞ。」

その後のち歸省きせいして、新保村しんぼむらから歸かへつて、

「食くつたよ。――食くつたがね、……何どうも何なんぢや、思おもつたほどでなかつたよ。」

然さうだらう。日本橋にほんばしの砂糖問屋さたうどんやの令孃れいぢやうが、圓髷まるまげに結ゆつて、あなたや……鰺あぢの新しんぎれと、夜行やかうの鮭さけを教をしへたのである。糠鰊こぬかにしんがうまいものか。

さて、其その晩ばんは伏木ふしきへ泊とまつた。

夜食やしよくの膳ぜんで「あゝあ、何なんだい此これは?」給仕きふじに居ゐてくれた島田髷しまだまげの女中ねえさんが、「鯰なまづですの。」鯰なまづの魚軒さしみ、冷つめたい綿屑わたくづを頬張ほゝばつた。勿論もちろん、宿錢やどせんは廉やすい。いや、羹あつものも食くはず、鯰なまづを吐はいた。洒落しやれではなしに驚おどろいた。港みなとを前まへに鯰なまづの皿さら、うらなつて思おもふに、しけだなあ。――風かぜの模樣もやうは……まあ何どうだらうと、此弱蟲このよわむしが悄々しを〱と、少々せう〱ぐらつく欄干らんかんに凭よりかゝると、島田しまだがすつと立たつて……九月くぐわつ初旬しよじゆんでまだ浴衣ゆかただつた、袖そでを掻かい込こむで、白しろい手てを海うみの上うへへさしのべた。手ての半帕ハンケチが屋根やねを斜なゝめに、山やまの端はへかゝつて颯さつと靡なびいた。「此この模樣もやうでは大丈夫だいぢやうぶです。」私わたしは嬉うれしかつた。

おなじ半帕ハンケチでも、金澤かなざはの貸本屋かしほんやの若妻わかづまと云いふのが、店口みせぐちの暖簾のれんを肩かたで分わけた半身はんしんで、でれりと坐すわつて、いつも半帕ハンケチを口くちに啣くはへて、うつむいて見みせた圖づは、永洗えいせんの口繪くちゑの艷冶えんやの態ていを眞似まねて、大おほいに非ひなるものであつたが、これは期きせずして年方としかたの插繪さしゑの清楚せいそであつた。

處ところで汽船きせんは――うそだの、裏切うらぎつたのと、生意氣なまいきな事ことを言いふな。直江津なほえつまで、一人前いちにんまへ九錢也きうせんなり。……明治二十六七年頃めいぢにじふろくしちねんごろの事こととこそいへ、それで、午餉ひるの辨當べんたうをくれたのである。器うつははたとへ、蓋ふたなしの錻力ブリキで、石炭せきたん臭くさい菜さいが、車麩くるまぶの煮にたの三切みきれにして、「おい來きた。まだ、そつちにもか――そら來きた。」で、帆木綿ほもめんの幕まくの下したに、ごろ〱した連中れんぢうへ配くばつたにせよ。

日ひ一杯いつぱい……無事ぶじに直江津なほえつへ上陸じやうりくしたが、時間じかんによつて汽車きしやは長野ながので留とまつた。扇屋あふぎやだつたか、藤屋ふぢやだつたか、土地とちも星ほしも暗くらかつた。よく覺おぼえては居ゐないが、玄關げんくわんへ掛かゝると、出迎でむかへた……お太鼓たいこに結むすんだ女中ぢよちうが跪ひざまづいて――ヌイと突出つきだした大學生だいがくせいの靴くつを脱ぬがしたが、べこぼこんと弛たるんで、其癖そのくせ、硬こはいのがごそりと脱ぬげると……靴下くつしたならまだ可いい「何なに、體裁ていさいなんぞ、そんな事こと。」邊幅へんぷくを修しうしない男をとこだから、紺足袋こんたびで、おや指ゆびの尖さきに大おほきな穴あなのあいたのが、油蟲あぶらむしを挾はさんだ如ごとく顯あらはれた。……渠かれは金釦きんぼたんの制服せいふくだし、此方こつちは袴はかまなしの鳥打とりうちだから、女中ぢよちうも一向いつかうに構かまはなかつたが、いや、何なにしても、靴くつは羊皮ひつじがはの上等品じやうとうひんでも自分じぶんで脱ぬぐ方はうが可よささうである。少すこし氣障きざだが、色氣いろけがあるのか、人事ひとごとながら、私わたしは恥はぢた。

……思おもひ出だす事ことがある。淺草あさくさ田原町たはらまちの裏長屋うらながやに轉ころがつて居ゐた時とき、春寒はるさむい頃ころ……足袋たびがない。……最もつとも寒中かんちうもなかつたらしいが、何どうも陽氣やうきに向むかつて、何分なにぶんか色氣いろけづいたと見みえる。足袋たびなしでは仲見世なかみせへ出掛でかけ憎にくい。押入おしいれでふと見附みつけた。裏長屋うらながやのあるじと言いふのが醫學生いがくせいで、内證ないしようで怪あやしい脈みやくを取とつたから、白足袋しろたびを用もちゐる、その薄汚うすよごれたのが、片方かたつぽ、然しかも大男おほをとこのだから私わたしの足あしなんぞ二ふたつ入はひる。細君さいくんに内證ないしようで、左ひだりへ穿はいた――で仲見世なかみせへ。……晝間ひるま出掛でかけられますか。夜よを待まつて路次ろじを出でて、觀世音くわんぜおんへ參詣さんけいした。御利益ごりやくで、怪我けがもしないで御堂おどうから裏うらの方はうへうか〱と𢌞まはつて、象ざうと野兎のうさぎが歩行あるきツくら、と云いふ珍ちんな形かたちで行ゆくと、忽たちまち灯ひのちらつく暗くらがりに、眞白まつしろな顏かほと、青あをい半襟はんえりが爾側りやうがはから、

「ちよいと、ちよいと、ちよいと。」

「白足袋しろたびの兄にいさん、ちよいと。」

私わたしは冷汗ひやあせを流ながして、一生いつしやう足袋たびを斷たたうと思おもつた。

後のちに――丸山まるやま福山町ふくやまちやうに、はじめて一葉女史いちえふぢよしを訪たづねた歸かへり際ぎはに、襟えりつき、銀杏返いてふがへし、前垂掛まへだれがけと云いふ姿すがたに、部屋へやを送おくられて出でると、勝手元かつてもとから、島田しまだの十八九、色白いろじろで、脊せのすらりとした、これぞ――つい此この間あひだなく成なつた――妹いもうとのお邦くにさん、はら〱と出でて、

「お麁末樣そまつさま。」

と、手てをつかれた時ときは、足あしが縮すくんだ。其その下駄げたを穿はかうとする、足袋たびの尖さきに大おほきな穴あながあつたのである。

衣類きものより足袋たびは目めに着つく。江戸えどでは女をんなが素足すあしであつた。其そのしなやかさと、柔やはらかさと、形かたちの好よさを、春信はるのぶ、哥麿うたまろ、誰々たれ〱の繪ゑにも見みるが可いい。就中なかんづく、意氣いきな向むきは湯上ゆあがりの足あしを、出でしなに、もう一度いちど熱あつい湯ゆに浸ひたしてぐいと拭ふき上あげて、雪ゆきにうつすりと桃色もゝいろした爪つまさきに下駄げたを引掛ひつかけたと言いふ。モダンの淑女しゆくぢよ……きものは不斷着ふだんぎでも、足袋たびは黄色きいろく汚よごれない、だぶ〱しない皺しわの寄よらないのにしてほしい。練出ねりだす時ときの事ことである。働はたらくと言いへば、説せつが違ちがふ。眞黒まつくろだつて破やぶれて居ゐたつて、煤拂すゝはらひ、大掃除おほさうぢには構かまふものか、これもみぐるしからぬもの、塵塚ちりづかの塵ちりである。

――時ときに、長野泊ながのどまりの其その翌日よくじつ、上野うへのへついて、連つれとは本郷ほんがうで分わかれて、私わたしは牛込うしごめの先生せんせいの玄關げんくわんに歸かへつた。其年そのとし父ちゝをなくした爲ために、多日しばらく、横寺町よこでらまちの玄關げんくわんを離はなれて居ゐたのであつた。駈かけ込こむやうに、門外もんそとの柳やなぎを潛くゞつて、格子戸かうしどの前まへの梅うめを覗のぞくと、二疊にでふに一人ひとり机つくゑを控ひかへてた書生しよせいが居ゐて、はじめて逢あつた、春葉しゆんえふである。十七だから、髯ひげなんか生はやさない、五分刈ごぶがりの長ながい顏かほで、仰向あふむいた。

「先生せんせい。……奧おくさんは。……唯今たゞいま、歸かへりました。」

「あゝ、泉君いづみくんですか。……先生せんせいからうかゞつて存ぞんじて居をります。何どうも然さうらしいと思おもひました。僕ぼくは柳川やながはと云いふものです。此頃このごろから參まゐつて居をります。」

「や、ようこそ、……何どうぞ。」

慇懃いんぎんで、なかが可いい。これから秋冷しうれい相催あひもよほすと、次第しだいに、燒芋やきいもの買かひツこ、煙草たばこの割前わりまへで睨にらみ合あつて喧嘩けんくわをするのだが、――此この一篇いつぺんには預あづかる方はうが至當したうらしい。

處ところで――父ちゝの……危篤きとく……生涯しやうがい一大事いちだいじの電報でんぱうで、其その年とし一月いちぐわつ、節せついまだ大寒たいかんに、故郷こきやうへ駈戻かけもどつた折をりは、汽車きしやで夜よをあかして、敦賀つるがから、俥くるまだつたが、武生たけふまでで日ひが暮くれた。道みち十一里じふいちりだけれども、山坂やまさかばかりだから捗取はかどらない。其その昔むかし、前田利家まへだとしいへ、在城ざいじやうの地ち、武生たけふは柳やなぎと水みづと女をんなの綺麗きれいな府中ふちうである。

佐久間玄蕃さくまげんばが中入なかいりの懈怠けたいのためか、柴田勝家しばたかついへ、賤しづヶ嶽たけの合戰かつせん敗やぶれて、此この城中じやうちうに一息ひといきし湯漬ゆづけを所望しよまうして、悄然せうぜんと北きたの莊さうへと落おちて行ゆく。ほどもあらせず、勝かちに乘のつたる秀吉ひでよしが一騎驅いつきがけに馬うまを寄よせると、腰こしより采さいを拔ぬき出いだし、さらりと振ふつて、此これは筑前守ちくぜんのかみぞや、又左またざ、又左またざ、鐵砲てつぱう打うつなと、大手おほての城門じやうもんを開ひらかせた、大閤たいかふ大得意だいとくいの場所ばしよだが、そんな夢ゆめも見みず、悶もだえ明あかした。翌朝よくてうまだ薄暗うすぐらかつたが、七時しちじに乘のつた俥くるまが、はずむ酒手さかてもなかつたのに、其その日ひの午後ごご九時くじと云いふのに、金澤かなざはの町外まちはづれの茶店ちやみせへ着ついた。屈竟くつきやうな若わかい男をとこと云いふでもなく年配ねんぱいの車夫くるまやである。一寸ちよつと話題わだいには成ならうと思おもふ、武生たけふから其その道程みちのり、實じつに二十七里にじふしちりである。――深川ふかがはの俥くるまは永代えいたいを越こさないのを他たに見得みえにする……と云いつたもので、上澄うはずみのいゝ處ところを吸すつて滓かすを讓ゆづる。客きやくから極きめて取とつた賃銀ちんぎんを頭あたまでつかちに掴つかんで尻しりつこけに仲間なかまに落おとすのである。そんな辣腕らつわんと質たちは違ちがつても、都合上つがふじやう、勝手かつてよろしき處ところで俥くるまを替かへるのが道中だうちうの習慣ならはしで、出發點しゆつぱつてんで、通とほし、と極きめても、そんな約束やくそくは通とほさない。が、親切しんせつな車夫くるまやは、その信しんずるものに會あつて、頼たのまれた客きやくを渡わたすまでは、建場々々たてば〱を、幾度いくたびか物色ぶつしよくするのが好意かういであつた。で、十里じふり十五里じふごりは大抵たいてい曳ひく。廿七里にじふしちりを日ひのうちに突つつ切きつたのには始はじめて出逢であつた。……

不忍しのばずの池いけで懸賞けんしやうづきの不思議ふしぎな競爭きやうさうがあつて、滿都まんとを騷さわがせた事ことがある。彼あの池いけは内端うちわに𢌞まはつて、一周圍ひとまはり一里強いちりきやうだと言いふ。彼あの池いけを、朝あさの間まから日沒につぼつルビの「につぼつ」はママまで、歩調ほてうの遲速ちそくは論ろんぜぬ、大略おほよそ十五時間じふごじかんの間あひだに、幾𢌞いくまはりか、其その囘數くわいすうの多おほいのを以もつて勝利かちとする。……間違まちがつたら、許ゆるしツこ、たしか、當たう、時事新報じじしんぱうの催もよほしであつたと思おもふ。……二人ふたりともまだ玄關げんくわんに居ゐたが、こんな事ことは大好だいすきだから柳川やながはが見物けんぶつ、參觀さんくわんか、參觀さんくわんした。「三人さんにんばかり倒たふれて寢ねたよ、驅出かけだすのなんざ一人ひとりも居ゐない、……皆みんな恁かう腕うでを組くんで、のそり〱と草くさを踏ふんで歩行あるいて居ゐたがね、あの草くさを踏ふむのが祕傳ひでんださうだよ、中なかにはぐつたりと首くびを垂たれて何なんとも分別ふんべつに餘あまつたと云いふ顏かほをして居ゐたのがあります。見物けんぶつは山やまも町まちも一杯いつぱいさ。けれども、何なんの機掛きつかけもなしに、てくり〱だから、見みて居ゐて變へんな氣きがした。――眞晝間まつぴるま、憑つきものがしたか、魅ばかされてでも居ゐるやうで、そのね、鬱ふさぎ込こんだ男をとこなんざ、少々せう〱氣味きみが惡わるかつた。何なにしろ皆みな顏色かほいろが眞まつ蒼さをです」――此時このとき、選手せんしゆ第一だいいちの賞しやうを得えたのは、池いけをめぐること三十幾囘さんじふいくくわい、翌日よくじつ發表はつぺうされて、年としは六十に餘あまる、此この老らう神行太保戴宗しんぎやうたいほたいそうは、加州かしう小松こまつの住人ぢうにん、もとの加賀藩かがはんの飛脚ひきやくであつた。

頃日このごろ聞きく――當時たうじ、唯一ゆいつの交通機關かうつうきくわん、江戸えど三度さんどと稱となへた加賀藩かがはんの飛脚ひきやくの規定さだめは、高岡たかをか、富山とやま、泊とまり、親不知おやしらず、五智ごち、高田たかだ、長野ながの、碓氷峠うすひたうげを越こえて、松井田まつゐだ、高崎たかさき、江戸えどの板橋いたばしまで下街道しもかいだう、百二十里半ひやくにじふりはん――丁數ちやうすう四千三十八を、早飛脚はやびきやくは滿五日まんいつか、冬ふゆの短日たんじつに於おいてさへこれに加くはふること僅わづかに一日いちじつ二時にときであつた。常飛脚じやうひきやくの夏なつ(三月さんぐわつより九月くぐわつまで)の十日とをか――滿八日まんやうか、冬ふゆ(十月じふぐわつより二月にぐわつまで)の十二日じふににち――滿十日まんとをかを別べつとして、其その早はやの方はうは一日いちにち二十五里にじふごりが家業かげふだと言いふ。家業かげふを奮發ふんぱつすれば、あと三里さんり五里ごりは走はしれようが、それにしても、不忍池しのばずいけの三十幾囘さんじふいくくわい――況いはんや二十七里にじふしちりを日ひづけの車夫くるまやは豪傑がうけつであつた。乘のつたものに徳とくはない。が、殆ほとんど奇蹟きせきと言いはねばならない。

が、其その顏かほも覺おぼえず、惜をしむらくは苗なも聞きかなかつたのは、父ちゝのなくなつた爲ために血迷ちまよつたばかりでない。幾度いくたびか越前街道ゑちぜんかいだうの往來ゆききに馴なれて、賃ちんさへあれば、俥くるまはひとりで驅出かけだすものと心得こゝろえて居ゐたからである。しかし、此この上下じやうげには、また隨分ずゐぶん難儀なんぎもした。

炎天えんてんの海うみは鉛なまりを溶とかして、とろ〱と瞳ひとみを射いる。風かぜは、そよとも吹ふかない。斷崖だんがいの巖いはは鹽しほを削けづつて舌したを刺さす。山やまには木きの葉はの影かげもない。草くさいきれは幻まぼろしの煙けむりを噴ふく。八月はちぐわつ上旬じやうじゆん……火ひの敦賀灣つるがわん、眞上まうへの磽确かうかくたる岨道そばみちを、俥くるまで大日枝山おほひだやまを攀よぢたのであつた。……

上京じやうきやうして、はじめの歸省きせいで、それが病氣びやうきのためであつた。其頃そのころ、學生がくせいの肺病はいびやうは娘むすめに持もてた。書生しよせいの脚氣かつけは年増としまにも向むかない。今以いまもつて向むきも持もてもしないだらうから、御婦人方ごふじんがたには内證ないしようだが、實じつは脚氣かつけで。……然しかも大分だいぶ手重ておもかつた。重おもいほど、ぶく〱とむくんだのではない、が、乾性かんせいと稱しようして、その、痩やせる方はうが却かへつて質たちが惡わるい。

午飯おひるに、けんちんを食たべて吐はいた。――夏なつの事ことだし、先生せんせいの令夫人れいふじんが心配しんぱいをなすつて、お實家方さとかたがお醫師いしやだから、玉章ふみを頂いたゞいて出向でむくと、診察しんさつして、打傾うちかたむいて、又また一封いつぷうの返信へんしよを授さづけられた。寸刻すんこくも早はやく轉地てんちを、と言いふのだつたさうである。私わたしは、今いまもつて、決けつしてけんちんを食くはない。江戸時代えどじだいの草紙さうしの裡なかに、松まつもどきと云いふ料理れうりがある。たづぬるに精くはしからず、宿題しゆくだいにした處ところ、近頃ちかごろ神田かんだで育そだつた或婦あるをんなが教をしへた。茄子なすと茗荷めうがと、油揚あぶらあげを清汁つゆにして、薄葛うすくづを掛かける。至極しごく經濟けいざいな惣菜そうざいださうである。聊いさゝかけんちんに似にて居ゐるから、それさへも遠とほく慮おもんぱかる。

重湯おもゆか、薄粥うすがゆ、或あるひは麺麭パンを少量せうりやうと言いはれたけれども、汽車きしやで、そんなものは得えられなかつた。乘通のりとほしは危險きけんだから。……で、米原まいばらで泊とまつたが、羽織はおりも着きない少年せうねんには、粥かゆは煮にてくれぬ。其その夜よから翌日よくじつ。――

――いま、俥くるまで日盛ひざかりを乘出のりだすまで、殆ほとんど口くちにしたものはない。直射ちよくしやする日ひの光ひかりに、俥くるまは坂さかに惱なやんで幌ほろを掛かけぬ。洋傘かうもりを持もたない。身みの楯たては冬ふゆの鳥打帽とりうちばうばかりである。私わたしは肩かたで呼吸いきを喘あへいだ。剩あまつさへ辿たどり向むかふ大良だいらヶ嶽たけの峰裏みねうらは――此方こちらに蛾ひとりむしほどの雲くもなきにかゝはらず、巨濤おほなみの如ごとき雲くもの峰みねが眞黒まつくろに立たつて、怨靈をんりやうの鍬形くはがたの差覗さしのぞいては消きえるやうな電光いなびかりが山やまの端はに空くうを切きつた。――動悸どうきは躍をどつて、心臟しんざうは裂さけむとする。

私わたしは、先生せんせいが夏なつの嘉例かれいとして下くだすつた、水色みづいろの絹きぬべりを取とつた、はい原製ばらせいの涼すゞしい扇子あふぎを、膝ひざを緊しめて、胸むねに確しかと取とつて車上しやじやうに居直ゐなほつた。而しかして題だいを採とつて極暑ごくしよの一文いちぶんを心こゝろに案あんじた。咄とつ! 心頭しんとうを滅却めつきやくすれば何なんとかで、悟さとれば悟さとれるのださうだけれど、暑あついから暑あつい。悟さとることなんぞは今いまもつて大嫌だいきらひだ。……

汝なんぢ炎威えんゐと戰たゝかへ、海うみも山やまも草くさも石いしも白熱はくねつして、汝なんぢが眼まなこ眩くらまんとす。起たて、其その痩躯そうくをかつて、袖そでを翳かざして病魔びやうまに楯たてせよ。隻手せきしゆを拂はらつて火ひの箭やを斬きれ。戰たゝかひは弱よわし。脚あしはふるふとも、心こゝろは空そらを馳はせよ。然しからずんば……

などと、いや何どうも氣恥きはづかしいが、其處そこで倒たふれまいと、一生懸命いつしやうけんめいに推敲すゐかうした。このために、炎天えんてんに一滴いつてきの汗あせも出でなかつたのは、敢あへて歌うたの雨乞あまごひの奇特きどくではない。病やめる青草あをくさの萎なえむとして水みづの涸かわいたのであつた。

けれども、冬ふゆの鳥打帽とりうちばうを被かむつた久留米絣くるめがすりの小僧こぞうの、四顧しこ人影ひとかげなき日盛ひざかりを、一人ひとり雲くもの峰みねに抗かうして行ゆく其その勇氣ゆうきは、今いまも愛あいする。

心こゝろは空そらを馳はせよ。然しからずんば――苦くるしいから、繰返くりかへして、

汝なんぢ炎威えんゐと戰たゝかへ。海うみも山やまも、草くさも石いしも白熱はくねつして汝なんぢが眼まなこ眩くらまんとす。起たて……

うゝ、と意氣込いきごむと、車夫くるまやが流ながるゝ汗あせの額ひたひを振ふるつて、

「あんたも暑あつからうなあ――や、青あをい顏かほをして!……も些ちよツとで茶屋ちややがあるで、水みづなど飮のまつせえ。」

水みづを……水みづをと唯たゞ云いつたのに、山蔭やまかげに怪あやしき伏屋ふせやの茶店ちやみせの、若わかき女房にようばうは、優やさしく砂糖さたうを入いれて硝子盃コツプを與あたへた。藥師やくしの化身けしんの樣やうに思おもふ。人ひとの情なさけは、時ときに、あはれなる旅人たびびとに惠めぐまるゝ。若わかいものは活返いきかへつた。

僥倖さいはひに雷らいは聞きこえなかつた。可恐おそろい夕立雲ゆふだちぐもは、俥くるまの行ゆくにつれて、峠たうげをむかう下さがりに白刃しらはを北きたに返かへした電光でんくわうとともに麓ふもとへ崩くづれて走はしつたが、たそがれの大良だいらの茶屋ちややの蚊柱かばしらは凄すさまじかつた。片山家かたやまがは灯ひの遲おそい縁柱えんばしらの暗中くらがりに、刺さしに刺さして、悶もだえて揮ふるふ腕うでからは、血ちが垂たれた。其その惱なやましさを、崖がけの瀧たきのやうな紫陽花あぢさゐの青あをい叢くさむらの中なかに突つつ込こむで身みを冷ひやしつゝ、且かつもの狂くるはしく其その大輪おほりんの藍あゐを抱いだいて、恰あたかも我われを離脱りだつせむとする魂たましひを引緊ひきしむる思おもひをした。……紫陽花あぢさゐの水みづのやうな香かを知しつた。――一夕立ひとふゆだちして過すぎながら、峠たうげには水みづがなかつたのである。

やがて、星ほしの下したを雨あめとともに流ながれの走はしる、武生たけふの宿やどに着ついたのであつた。

一宿ひとやどり。一宿ひとやどりして、こゝを、又またこゝから立たつて、大雪おほゆきの中なかを敦賀つるがへ越こした事こともある。俥くるまはきかない。俥夫くるまやが朝あさまだき提灯ちやうちんで道案内みちあんないに立たつた。村むらへ掛かゝると、降積ふりつもつた大竹藪おほたけやぶを弓形ゆみなりに壓あつしたので、眞白まつしろな隧道トンネルを潛くゞる時とき、雀すゞめが、ばら〱と千鳥ちどりに兩方りやうはうへ飛交とびかはして小蓑こみのを亂みだす其その翼つばさに、藍あゐと萌黄もえぎと紅くれなゐの、朧おぼろに蝋燭らふそくに亂みだれたのは、鶸ひわ、山雀やまがら、鸞うそ、目白鳥めじろなどの假かりの塒ねぐらを驚おどろいて起たつのであつた。

峠たうげに上のぼつて、案内あんないに分わかれた。前途ぜんとは唯たゞ一條ひとすぢ、峰みねも谷たにも、白しろき宇宙うちうを細ほそく縫ぬふ、それさへまた降ふりしきる雪ゆきに、見みる〱、歩あし一歩ひとあしに埋うづもれ行ゆく。

絡まとつた毛布けつとも白しろく成なつた、人ひとは冷つめたい粉蝶ふんてふと成なつて消きえむとする。

むかし快菴禪師くわいあんぜんじと云いふ大徳だいとこの聖ひじりおはしましけり。總角わかきより教外けうぐわいの旨むねをあきらめ給たまひて、常つねに身みを雲水うんすゐにまかせ給たまふ……

殆ほとんど暗誦あんせうした雨月物語うげつものがたりの青頭巾あをづきんの全章ぜんしやうを、雪ゆきにむせつゝ高たからかに朗讀らうどくした。

禪師ぜんじ見給みたまひて、やがて禪杖ぜんぢやうを拿とりなほし、作麽生そもさん何所爲なんのしよゐぞと一喝いつかつして、他かれが頭かうべを撃うちたまへば、たちまち氷こほりの朝日あさひに逢あふが如ごとく消きえ失うせて、かの青頭巾あをづきんと骨ほねのみぞ草葉くさばにとゞまりける。

あたりは蝙蝠傘かうもりがさを引ひつ擔かついで、や聲ごゑを掛かけて、卍巴まんじともえを、薙立なぎたて薙立なぎたて驅出かけだした。三里さんりの山道やまみち、谷間たにまの唯たゞ破家やぶれやの屋根やねのみ、鷲わしの片翼かたつばさ折伏をれふした状さまなのを見みたばかり、人ひとらしいものの影かげもなかつたのである。二ふたつめの峠たうげ、大良だいらからは、岨道そばみちの一方いつぱうが海うみに吹放ふきはなたれるので雪ゆきが薄うすい。俥くるまは敦賀つるがまで、漸やつと通つうじた。

此この街道かいだうの幾返いくかへり。さもあらばあれ、苦くるしい思おもひばかりはせぬ。

紺青こんじやうの海うみ、千仭せんじんの底そこよりして虹にじを縱たてに織おつて投なげると、玉たまの走はしる音おとを立たてて、俥くるまに、道みちに、さら〱と紅くれなゐを掛かけて敷しく木この葉はの、一ひとつ〱其そのまゝに海うみの影かげを尚なほ映うつして、尾花をばな、枯萩かれはぎも青あをい。月つきならぬ眞晝まひるの緋葉もみぢを潛くゞつて、仰あふげば同おなじ姿すがたに、遠とほく高たかき峰みねの緋葉もみぢは蒼空あをぞらを舞まつて海うみに散ちる……

を鹿じかなく此この山里やまざとと詠えいじけむ嵯峨さがのあたりの秋あきの頃ころ――峰みねの嵐あらしか松風まつかぜか、尋たづぬる人ひとの琴ことの音ねか、覺束おぼつかなく思おもひ、駒こまを早はやめて行ゆくほどに――

カーン、カーンと鉦かねの音おとが細ほそく響ひゞく。塚つかの森もりの榎えのきの根ねに、線香せんかうの煙けむり淡あはく立たち、苔こけの石いしの祠やしろには燈心とうしんが暗くらく灯ともれ、鉦かねは更さらに谺こだまして、老おいたるは踞うづくまり、幼をさなきたちは立たち集つどふ、山やまの峽かひなる境さかひの地藏ぢざうのわきには、女をんなを前まへに抱だいて、あからさまに襟えりを搜さぐる若わかい男をとこ。ト板橋いたばしの欄干らんかんに俯向うつむいて尺八ひとよぎりを吹ふく一人ひとりも見みた。

天上てんじやうか、奈落ならくか、山懷やまふところの大釜おほがまを其そのまゝに、凄すごいほど色白いろじろな婦をんなの行水ぎやうずゐする姿すがたも見みた。

「書生しよせいさん、東京とうきやうへ連つれてつて――」

赤あかい襷たすきの手てを空そらざまに、若苗わかなへを俥くるまに投なげて、高たかく笑わらつた娘むすめもある。……

おもしろいぞえ、京きやうへ參まゐる道みちは、上のぼる衆しうもある下向げこもある。

何なんの巧たくみもないが、松並木まつなみき、間あひの宿々しゆく〲、山坂やまさか掛かけ、道中だうちうの風情ふぜい見みる如ごとし。――これは能登のと、越中ゑつちう、加賀かがよりして、本願寺ほんぐわんじまゐりの夥多あまたの信徒しんとたちが、其その頃ころ殆ほとんど色絲いろいとを織おるが如ごとく、越前ゑちぜん――上街道かみかいだうを往來ゆききした趣おもむきである。

晴はれ、曇くもり、又また月つきとなり、風かぜとなり――雪ゆきには途絶とだえる――此この往來わうらいのなかを、がた〱俥ぐるまも、車上しやじやうにして、悠暢いうちやうと、花はなを見み、鳥とりを聞ききつゝ通とほる。……

恁かゝる趣おもむきを知しつたため、私わたしは一頃ひところは小遣錢こづかひがあると、東京とうきやうの町まちをふら〱と俥くるまで歩行あるく癖くせがあつた。淺草あさくさでも、銀座ぎんざでも、上野うへのでも――人ひとの往來ゆきき、店みせの構かまへ、千状萬態せんじやうばんたい、一卷ひとまきに道中だうちうの繪ゑに織込おりこんで――また内證ないしようだが――大福だいふくか、金鍔きんつばを、豫かねて袂たもとに忍しのばせたのを、ひよいと食やる、其その早業はやわざ、太神樂だいかぐらの鞠まりを凌しのぐ……誰たれも知しるまい。……實じつは、一寸ちよつと下おりて蕎麥そばにしたい處ところだが、かけ一枚いちなんぞは刹那主義せつなしゆぎだ、泡沫夢幻はうまつむげん、つるりと消きえる。俥代くるまだいを差引さしひくと其そのいづれかを選えらばねばならない懷ふところだから、其處そこで餡氣あんけで。金鍔きんつばは二錢にひやくで四個よんこあつた。四海しかい波なみ靜しづかにして俥くるまの上うへの花見はなみのつもり。いや何どうも話はなしにならぬ。が此この意氣いきを以もつてして少々せう〱工面くめんのいゝ連中れんぢう、誰たれか自動車じどうしや……圓ゑんタクでも可いい。蕎麥そばを食くひながら飛とばして見みないか。希こひねがはくは駕籠かごを二挺にちやうならべて、かむろに掻餅かきもちを燒やかせながら、鈴鹿越すゞかごえをしたのであると、納をさまり返かへつたおらんだ西鶴さいかくを向むかうに𢌞まはして、京阪成金かみがたなりきんを壓倒あつたふするに足たらうと思おもふ。……

時ときに蕎麥そばと言いへば――丁ていと――梨なし。――何なんだか三題噺さんだいばなしのやうだが、姑忘聽之しばらくわすれてきけ。丁ていと云いふのは、嘗かつて(今いまも然さうだらう。)梨なしを食たべると醉よふと言いふ。醉よふ奴やつがあるものかと、皆みなが笑わらふと、「醉よひますさ。」とぶつ〱言いふ。對手あひてにしないと「僕ぼくは醉よふと信しんずるさ。」と頬ほゝを凹へこまして腹はらを立たてた。

若わかい時ときの事ことだ。今いまでは構かまふまい、私わたしと其その丁ていと二人ふたりで、宿場しゆくばでふられた。草加さうかで雨あめに逢あつたのではない。四谷よつやの出ではづれで、二人ふたりとも嫌きらはれたのである。

「おい。」

と丁ていが陰氣いんきに怒おこつた。

「こんな堅かたい蕎麥そばが食くはれるかい。場末ばすゑだなあ。」

と、あはれや夕飯ゆふめし兼帶けんたいの臺だいの笊ざるに箸はしを投なげた。地ぢものだと、或あるひはおとなしく默だまつて居ゐたらう。が、對手あひてがばらがきだから堪たまらない。

「……蕎麥そばの堅かたいのは、うちたてさ、フヽンだ。」

然さうだ、うちたての蕎麥そばは、蕎麥そばの下品げひんでは斷だんじてない。胃弱ゐじやくにして、うちたてをこなし得えないが故ゆゑに、ぐちやり、ぐちやりと、唾つばとともに、のびた蕎麥そばを噛かむのは御勝手ごかつてだが、その舌したで、時々とき〲作品さくひんの批評ひへうなどすると聞きく。――嘸さぞうちたての蕎麥そばを罵のゝしつて、梨なしに醉よつてる事ことだらう。まだ其それは勝手かつてだが、斯かくの如ごとき量見りやうけんで、紅葉先生こうえふせんせいの人格じんかくを品評ひんぺうし、意圖いとを忖度そんたくして憚はゞからないのは僭越せんゑつである。

私わたしは怯懦けふだだ。衞生ゑいせいに威おどかされて魚軒さしみを食くはない。が、魚軒さしみは推重すゐちようする。その嫌きらひなのは先生せんせいの所謂いはゆる蜆しゞみが嫌きらひなのではなくて、蜆しゞみに嫌きらはれたものでなければならない。

麻あさを刈かると題だいしたが、紡つむぎ織おり縫ぬひもせぬ、これは浴衣ゆかたがけの縁臺話えんだいばなし。――

少すこし涼すゞしく成なつた。

此この暑あつさは何どうです。……まだみん〱蝉ぜみも鳴なきませんね、と云いふうちに、今年ことしは土用どようあけの前日ぜんじつから遠とほくに聞きこえた。カナ〱は土用どようあけて二日ふつかの――大雨おほあめがあつた――あの前まへの日ひから鳴なき出だした。

蒸暑むしあついのが續つゞくと、蟋蟀こほろぎの聲こゑが待遠まちどほい。……此邊このあたりでは、毎年まいねん、春秋社しゆんじうしやの眞向まむかうの石垣いしがきが一番いちばん早はやい。震災前しんさいぜんまでは、大たいがい土用どようの三日みつか四日よつかめの宵よひから鳴なきはじめたのが、年々ねん〱、やゝおくれる。……此この秋あきも遲おそかつた。

それ、自動車じどうしやが來きたぜ、と婦をんなまじりで、道幅みちはゞが狹せまい、しば〱縁臺えんだいを立たつのだが、俥くるまは珍めづらしいほどである。これから、相乘あひのり――と云いふ處ところを。……おゝ、銀河あまのかはが見みえる――初夜しよやすぎた。

大正十五年九月―十月

底本 / Source edition

底本:「鏡花全集 巻二十七」岩波書店
1942(昭和17)年10月20日第1刷発行
1988(昭和63)年11月2日第3刷発行
初出:「時事新報 第一五五二九号~一五五四四号」時事新報社
1926(大正15)年9月23日~10月8日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「車夫」に対するルビの「くるまや」と「しやふ」と「わかいしゆ」、「船頭」に対するルビの「せんどう」と「おやぢ」の混在は、底本の通りです。
※表題は底本では、「麻《あさ》を刈《か》る」となっています。
※題名の下にあった年代の注を、最後に移しました。
入力:門田裕志
校正:岡村和彦
2018年1月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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リリース / Release
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TEI
/works/050768_000050/tei
プレーンテキスト / Plain text
/works/050768_000050/plaintext
書誌 / Bibliography
/works/050768_000050/

泉 鏡花、泉 鏡太郎「麻を刈る」(旧字旧仮名)、底本『鏡花全集 巻二十七』岩波書店、1942年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 050768_000050, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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