左は京都大学講師農学博士新渡戸氏が梅花女学校卒業式に於て演説せられしものの大要なり、文責は記者にあり。

百姓にとっては花より<ruby><rb>果</rb><rt>み</rt></ruby>が大切である。何事も実用的でなければならぬ。教育に於ても実用を主とせねばならぬというは一般に人の主張するところである。私も二十年前はしか思うておった。<ruby><rb>殊</rb><rt>こと</rt></ruby>に女子教育はしかあるべきものと論じた事もあった。<ruby><rb>然</rb><rt>しか</rt></ruby>れど今に及んで考うれば、それは間違っておった。すべて中等の教育は実用などということは<ruby><rb>寧</rb><rt>むし</rt></ruby>ろ棄てておいて、それよりは理想を高くするということが必要である。

元来日本の教育は<ruby><rb>独逸</rb><rt>ドイツ</rt></ruby>に<ruby><rb>倣</rb><rt>なら</rt></ruby>ったために、すべてが規則的で、学科を多くして、<ruby><rb>能</rb><rt>あた</rt></ruby>う限り多くの芸術を教えようとしたのである。これは教育の方針を誤ったものである。教育はつとめて自由で、芸術を教ゆるよりは、その趣味理想の脳力を養うべきである。多くの人の経験によれば、<ruby><rb>最</rb><rt>もっとも</rt></ruby>楽しい時は、学校である。ちょっと考えると学校を<ruby><rb>出</rb><rt>いで</rt></ruby>て働く時の方が楽しかるべきはずのようなれど、実際はそうでない。<ruby><rb>今日</rb><rt>こんにち</rt></ruby>の社会では悲しい事だが、家庭よりも学校の方が寧ろ楽しいのである。これは<ruby><rb>何故</rb><rt>なにゆえ</rt></ruby>であろうか。私思うに学校時代は<ruby><rb>最</rb><rt>もっとも</rt></ruby>理想の高い時であるからであろう。理想さえ高ければ、<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>なる困難に<ruby><rb>遇</rb><rt>あ</rt></ruby>っても楽しむ事が出来る。社会に<ruby><rb>出</rb><rt>い</rt></ruby>でると実際の事実が理想のようにないために失望して失敗するものが多い。然れど常に理想を固く<ruby><rb>以</rb><rt>もっ</rt></ruby>ているものは、その中に於てよく耐忍してこれに勝つことができる。

この理想を養う所は学校である。私の友人に大学を卒業して立派な官吏となっておる者がある。ある時この人が私に<ruby><rb>曰</rb><rt>い</rt></ruby>うに、僕は学校に於て<ruby><rb>教</rb><rt>おそわ</rt></ruby>ったことは何も役に立たなかった、しかし少しばかり学んだ哲学が僕に非常な利益を与えたと。然らば学校にいる時に最注意することは、技術芸能でなくて人生の理想を養うことである。飯をたいたり漬物をつける位は<ruby><rb>何処</rb><rt>ほか</rt></ruby>でも習える。然れど理想は学校でなくば容易に得られぬ。それ故に学校にある間に<ruby><rb>善</rb><rt>よ</rt></ruby>い詩や文やまたは聖書などによって<ruby><rb>大</rb><rt>おおい</rt></ruby>に理想を養わねばならぬ。なお卒業して社会に出る人にすすめたきことは、事に当ってその養われた理想を思い出して、考えることである。兼ねて聞いた事、思うておった事は「ここだ」と思いかえして誤らないようにすることである。真剣の勝負をする時は、先ず一歩<ruby><rb>退</rb><rt>しりぞ</rt></ruby>いて「ここだ」と心を静めてなすべきだというが、学校を出て実際の社会に立とうとするものはこの事が最必要である。

〔一九〇四年四月七日『基督教世界』一〇七五号〕