Soranoha

奇病患者

きびょうかんじゃ

葛西 善蔵

薪の紅く燃えてゐる大きな爐の主座よこざに胡坐を掻いて、彼は手酌でちび〱盃を甞めてゐた。その傍で細君は、薄暗い吊洋燈と焚火の明りで、何かしら子供等のボロ布片きれのやうな物をひろげて、針の手を動かしてゐた。そして夫の、今夜はほとんど五合近い酒を飮んでも醉を發しない、暗い、不機嫌な、屈托顏をぬすみ視た。そして時々薪を足して、爐の火を掻き熾おこした。

外では雪が、音も立てずに降りしきつてゐた。晝頃から降り續けたので、往來は宵のうちに埋つて了つてゐた。

勝手元の水溜桶に、珍しくもないばり〱と氷の張る音が聞えてゐた。茅葺屋根の軒下に宿つてゐる雀が、時々寒氣に堪へ兼ねたやうにチヽと啼いた。彼は小用を足すに、表戸を開けて見た。國道を隔てた前の杉山すら、見ることが出來なかつた。そして悉くが雪に封じ込められた、渾沌とした靜寂の中に、杉山から引いた桶の水ばかりが、鼕々とう〱と云つた音を立てゝは落ちてゐた。

隣りの低地のアカシヤの林の中に、堀立小屋を組んで棲んで居る木挽の家のボロ壁の隙間からは、焚火の明りがちら〱洩れてゐた。彼等もまた早寢をしても寒さの爲めに眠れないので、焚火に背腹を炙つては、夜を更かしてゐるのであつた。

「まだ終列車の音がしないやうだね」

彼は爐邊にかへつて來て、肩を慄はしながら獨語のやうに云つた。

「さうですね。どうせもう今夜なんか遲れるでせう。それとも弘前あたりで止まりになるか知れませんね」

「そんなことだらう。……まだある?」

「はい…………」

細君は素直に起たつた。そして灰の中にぢかに置いた沸つてる鐵瓶の中へ銚子を入れた。

が彼ももう酒は不味くなつてゐた。が眼口に苦い皺を寄せながら、默つて盃を甞め續けた。そして彼は、内からだん〱と促迫して來てるらしい氣管部の呼吸いき苦しい壓迫を、酒の醉で胡麻化して了ひたいものだと、思つたのであつた。ある場合には、それも成功した。併し今夜は彼自身にも、それが心細く、頼りなく、感じられてゐた。彼は飮んでも〱、暗い冷めたい穴のやうな處へと、引込まれて行く氣がしてゐた。

「俺はどうも今夜は危ぶないらしい。苦しくなりさうだ……」

「だからお酒はお止めなさいよ。そして早くお休みになつたら」

「馬鹿! 貴樣はまた酒のせゐだと思つてるんだね。……あゝ、どうかして十日も二十日も降り續いて、郵便も電報も一切止まつて呉れないかな。さうなると當分は誰からの怖い手紙も見ずに濟むつて譯だからね」

彼は悄氣しよげ切つた調子になつて、云つた。そして呼吸苦しさから、輕い痙攣を感じ出したらしい手附きして、機械的に盃を唇に運んでゐた。そしてまた發作前の常習慣の、何も彼も腹立たしい、苛ら〱した、神經的の衝動を鎭制しようと云ふ風に、凝ぢつと燃える火に見入つてゐた。

「併し、今となつては、お金を返せない以上は、それは何と云はれたつて仕方のないことですからね。……それをまた一々氣にして見た處でどう仕樣もないぢやありませんか」

「そりやさうさ、何と云はれたつて仕方の無いことだがね、併し友人間の道徳問題にまでされて居るとなつてはね、非常に厭な氣がするよ。そりや勿論、さう云つた性質のものではあるのだらうがね。……兎に角お前も讀んで見い、俺は繰返して讀むのは厭だ。……少し苦しいやうだな……」

細君は起つて、次ぎの子供等を寢かしてある、晝は彼の書齋としてる室の机の上から、Kの手紙を持つて來た。そしてボロ布片の行李を片寄せて、郵券二枚貼つた十枚近い原稿紙の長い手紙を默讀し始めた。Kの手紙は次のやうな意味のものであつた。――

S君

どうか早く金を送つて呉れ給へ。全くお願ひする。どうか僕を助けて呉れ給へ。後でどんなお禮でもする。後でその金を返してあげてもいゝ。どうか早く金を送つて呉れ給へ。病氣になりさうだ。夜も、心配で、一時間おき位に眼がさめる。苛ら〱して仕樣が無い。

下宿へは、(そのことを思ふと氣の毒でならない、彼等は實にみじめなのだ。中にも困つたことは、税金の拂ひが出來ないので、この二十八日――明日までにそれが納められないと差押へを向けられるのだと云つて、主婦さんが涙を流して嘆き悲しんでゐるのです)で、君からのを當あてにして、屹度どうかしてあげるから、ときつぱり云つてあるんだ。さうして置いて、若し出來なかつたら、どうするんだ、僕は? どうして僕はこんなに苦勞性なのだらう。恐ろしい氣がする。何と思つても仕方が無い。今となつては、もう何處へ話を持込まうと云ふことも出來やしない。非常に困つてゐる。じれて、待つて、苛ら〱してゐる。

部屋に坐つてゐることが出來ない。行く處もない。當もなく往來をぶら〱歩いてゐる。(實はもう電車賃も無いんだ!)早く金を送つて呉れ給へ。一刻も早く、送つてくれ給へ。一刻も早く、送つてくれ給へ。

今の場合、どうか何も考へたり思つたりしないで呉れ給へ。そんなことは後にしてくれ給へ。そして兎に角動いて呉れ給へ。(僕も動いてゐる)電報を打ちに出かけて呉れ給へ。――今直ぐ。僕は嘆願する。(僕は、自分の状態を甚だ醜いと思つてゐる。だけれども僕は病氣になりさうなんだ。僕は生來心臟が弱い、それだから、急せいたりする時になると、無闇矢鱈と急くんだ。そんなことも僕にはちやんと解つてゐるんだ)僕を憐んでくれ給へ。

あゝ、兎に角金が今直ぐに來て呉れゝばそれでいゝんだ。さうでないと、どんなに好いことがあつても駄目だ。どうか、金を早く送つて呉れ給へ。(手紙でなく、電報でだよ)

S君

僕は、とう〱昨日郷田と平松のゐる前で愚痴をこぼした。……後で福井君も來合せて。君から金を送つて來ないことを云つて散々愚痴をこぼした。郷田は澁いやうな苦しいやうな顏をして頻りと心配してゐた。そして、直ぐ、君に手紙を書くと云つてゐた。(自己の責任といふことで徹底的な手紙を書くと云つてゐた。その爲めには君と絶交しても構はないといふ口吻であつた)――後で僕は、ほんとに馬鹿なことをしたと思つた。

僕は、昨日も家にはゐられなかつたので出かけた。途中で、ふと日曜であることを思うて郷田を訪ねたのだ。それから二人で更に平松の處へ行つたのだ。そして、そんな話をして十一時過ぎまでゐた。僕は郷田と歩いて山王下へ出て電車に乘つた。――僕は郷田と二人つきりになつた時、郷田は僕を叱るやうに罵つた。僕は全く別のことを考へてゐたので、彼の言葉は好く解らなかつたが、何でも、「君は馬鹿だ――僕のことだよ――ほんに淺墓な人間だ、無分別だ、意氣地無し意氣地無し」こんなやうな意味の言葉だつたと思ふ。そして、君が歸る時、(いや、彼は、君を歸す時、と云つた)なぜ一應友人に相談しなかつたのだ、と云つた。

たいへん我儘な、勝手な手紙を書いて失禮。併し君は無禮を許して呉れると信じてゐる。……

併しS君、――何事も序でだ、もう少し僕にお喋舌りを許して呉れ給へ。(實際僕はお喋舌りだ)が僕もまた、この手紙が、一方ならず君に憤懣と侮辱を與へることになるだらうと云ふことも、僕は考へて居る。また奧さんや子供さん達のことを思うては、實際罪惡感にすら責められる。けれども、僕の方のことも、察して貰ひたいものだ。僕もまた君と同じ程度に貧乏なんですぞ! そして僕ははにかみ屋だ、そして誰一人慰めて呉れ手のない、一人ぼつちの人間なんだ。

僕は昨日も、(いや今でも――)餘程平松に借款を申込まうかと思つた。(多分彼は應じて呉れるだらう)けれどもそれは、僕には出來ないことなんだ。このことは、君もいろ〱な意味から考へて、僕を諒として貰ひたいものだ。

彼等は、君のことを奇病患者見たいなものだと、言つた。つまり、君が如何に七轉八倒して苦しんでゐても、手を下して救ふと云ふことは出來ない、また手を下すべき性質のものでも無いと云ふのだ。さう云ふ患者は、ある特志な醫師などに取つては興味もあり、また救ふことも出來るかも知れないが、吾々としては嚴正な傍觀の態度を執るか、またその奇怪な苦悶の觀物みせもの(彼等は觀物と云ふ)を囘避するか、それとも吾々社會生活の圈内から除き去るか、この三つの方法しか無いと云ふのが、彼等の一致した意見なんだ。(おゝ、何と云ふ怖い小父さん達だ! そしてまた彼等は、君等のこの春の都落ち――をも斯う云ふ風に觀て居るのですぞ!)

斯の如く怖い小父さん達へ對して、この意氣地なしの、はにかみ屋の僕がどうして借款なぞ申込むことが出來ませう! 萬一にもきちんと返濟することが出來なかつたら? (そんな間違ひが、どうして生じないだらうとは自信出來ますか?)

また僕の如き貧乏なそして流行しない作家が、彼等貴族的道徳的藝術家の間に介在するのを許されて居る、――そのことに就ても君は考へて見て呉れ給へ。君と僕とが本質的にどれ程の差別ある人間であらうか? 君を奇病患者視して居る彼等は、果して僕を本質的に健全な人間と許して居るだらうか? いや〱、決してさうではありません。つまり、簡單に云つて見れば、斯うした場合に借款なぞ申込み得ない僕の臆病な自制――卑怯な我慢ひとつに原因した問題なのです。それが彼等に安心を與へて居るのです。そして僕の介在が許されて居るのです。この我慢が一寸でも――今の限度からはづれて見給へ、僕もまた忽ち君と同じやうな奇病患者扱ひを受けるに極きまつて居るのだ。(僕はその状態に堪へることは出來ません)僕は寧ろ斯うした場合特に我慢の無い君の性格を羨ましく思つてゐる程です。けれども僕はまだ、君程に、山へ入つて一生を送らうと云ふ程の諦めも悟りも出來てゐない。否、僕はやはり都會で生きたいのです、生き拔きたいのです! その爲めには全然彼等と沒交渉になると云ふことは、堪へられません。僕は今でも餘りに孤獨です。そしてまた、それにはいろ〱な意味から云つて利益不利益の問題も含まれてゐると云ふことも、認めて呉れなくてはならない。(自分の如き貧乏な、そして流行しない作家として生きる爲めには!)

それにしても、君が歸つてからこの半月程の間に、僕はどれ程いろ〱な厭な思ひや、厭なことを考へさせられたか! たつた五十圓餘りの金の爲めに!

併しS君、――君がもう少し附け加へることを許すであらうならばだ――(どうしてまた君が遙々と奧州下くんだりから擔ぎ出して來たあれだけの懸物の中に、一本も眞物ほんものと云ふものが含まれてなかつたのでせう? どうして悉くが贋物だつたのでせう? 運命でせうか? そして何故また君がそれを祖先傳來の家寶だなどと白々しく――さうとしか思はれません――言ひ張つたか?――平松はこのことだけでも許すべからざる悖徳行爲だと云つた)

S君

僕の無禮な、言ひ過ぎのお喋舌りを許して呉れ給へ。そして僕を誤解せずに呉れ給へ。僕とてもまた、彼等見せかけの、無氣力な人道家道徳家に對して、反感と侮蔑とを感じて居ると云ふ點では、君に讓りたいとは思ひません。おゝ奇病患者とは何と云ふ慘忍な言葉だ! 彼等の何處を押せばそんな音が出るのだらう? 併しSよ、焦慮する勿れだ。いや、彼等の何處を押したからつて、もともと、本質的に、自分等貧乏人の爲めに出すべき何等の音も持ち合せてはないのだと云ふことを、――善いにも惡いにも如何なる意味に於ても何等の共鳴する處のない他人同志であるといふことを、――奇病患者なぞと御大層な罵詈を並べようと、それも畢竟單なる思ひ附きの言葉であつて、善いにも惡いにも何等必然性のない空な遊戯的な意味のものであるといふことを、――如何なる叱責の手紙を書かうともそれは單なる隙つぶしの爲めであると云ふことを、――考慮して、君は意を安んじていゝのである。

おゝパリサイの徒たる、亞流の徒たる、彼等もまた、畢竟これ奇病患者たるに過ぎないではないか! 妄言多謝

十二月二十七日朝K生

S兄

――

手紙を讀み終つた細君の、その赤黒い、肉附いた、盆のやうな大きな顏が、火のやうに赤くなつてゐた。そして幅の廣い肩に波を打たして、凝と手紙の上へ眼を落してゐた。その顏がまた、彼の惘乎ぼうとなつた眼の前に、室いつぱいに擴大されて行くやうな變異な相貌となつて、おつ被かぶさつて來るやうに見えた。彼はすつかり、窒息的な呼吸遣ひに陥いつてゐた。呼氣が延び、鼻孔が擴がつて、そして輕い咳と共に流れ出るやうに出て來るどろ〱した痰汁を、爐の隅に置いてある眞鍮の痰吐きに吐いてゐた。そして油汗の浸染にじんだ、土色を帶びた青い顏は、苦悶と、すつかり頼り無げの表情から、酷く引歪められてゐた。

「……奇病患者とは實に恐れ入つた言葉だね。……あゝ苦しい! ……寢よう……」

やがて彼はふら〱と起ちあがつて、次ぎの室の、厚い藁蒲團の中に埋まるやうになつて眠つてゐる七つになる長男の傍へ這入つて行つたが、

「あゝ苦しい。……あれを拵へて持つて來て呉れ――重吉の持つて來て呉れた葉つぱを。……飮んで見よう……」

彼は絶望的に、呻くやうに、嗄がれた聲して呼んだ。

村の老人の持つて來て呉れた喘息の妙藥だといふ蓬の葉の乾したのを、細君は茶袋から出して土瓶で煎じた。そして其の煎じた汁を、湯呑みへ一杯、悶絶せんばかりに苦しんでゐる彼の枕元へ持つて行つた。

彼は腹這ひになりながら、眼をつぶつて一口二口味ふやうに啜つて、顏をしかめた。そして自分を憫れむやうな頼りなげな苦笑を洩らした。

「……變な味……」

「もう一杯持つて來て見ませうか?」

「いやもう澤山だよ……」

彼は斯う云つて、夜具の襟に頤を埋めて、眼をつぶつた。そして何といふことなし、瞼の裏に涙の浸染にじんで來るのを覺えて、ちよつとの間ながら病苦の薄らいで行くやうなうと〱した氣持になりかけた。

底本 / Source edition

底本:「子をつれて 他八篇」岩波文庫、岩波書店
1952(昭和27)年10月5日第1刷発行
1987(昭和62)年4月8日第7刷発行
底本の親本:「葛西善藏全集」改造社
1928(昭和3)年
入力:蒋龍
校正:川山隆
2010年9月11日作成
2011年1月11日修正
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プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
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葛西 善蔵「奇病患者」(旧字旧仮名)、底本『子をつれて 他八篇』岩波文庫、岩波書店、1952年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 050724_000984, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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