パンを焼く匂いで<ruby><rb>室子</rb><rt>むろこ</rt></ruby>は眼が醒めた。室子はそれほど一晩のうちに空腹になっていた。

腹部の頼りなさが<ruby><rb>擽</rb><rt>くすぐ</rt></ruby>られるようである。くく、くく、という笑いが、<ruby><rb>鳩尾</rb><rt>みずおち</rt></ruby>から頸を上って鼻へ来る。それが逆に空腹に響くとまたおかしい。くく、くく、という笑いが止め度もなく起る。室子は、自分ながら、どうしたことかと下唇を痛いほど噛んで笑いを止め、五尺三寸の娘の身体を、寝床から軽く滑り下ろした。

日本橋、通四丁目の<ruby><rb>鼈甲</rb><rt>べっこう</rt></ruby>屋鼈長の一人娘で、スカールの選手室子は、この頃また、隅田川岸の橋場の寮に来ていた。

窓のカーテンを開ける。

水と花が、一度に眼に映る。隅田川は、いま上げ<ruby><rb>汐</rb><rt>しお</rt></ruby>である。それがほぼ八分の満潮であることは「スカールの漕ぎ手」室子には一眼で判る。

対岸の隅田公園の桜は、若木ながら咲き誇っている。室子が、毎年見る墨水の春ではあるが、今年はまた、鮮かだと思う。

今戸橋、東詰の空の<ruby><rb>霞</rb><rt>かすみ</rt></ruby>の中へ、玉子の黄身をこめたような朝日が、これから燃えようとして、まだ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くぐも</span>っている。その光線が流れを染めた加減か、岸近い水にちろちろ影を<ruby><rb>浸</rb><rt>ひた</rt></ruby>す桜のいろが、河底の奥深いところに在るように見える。

黄<ruby><rb>薔薇</rb><rt>ばら</rt></ruby>色に一<ruby><rb>幅</rb><rt>ぷく</rt></ruby><ruby><rb>曳</rb><rt>ひ</rt></ruby>いている中流の<ruby><rb>水靄</rb><rt>みずもや</rt></ruby>の中を、鐘ヶ淵へ石炭を運ぶ汽艇附の曳舟が鼓動の音を立てて行く。<ruby><rb>鴎</rb><rt>かもめ</rt></ruby>の群が、むやみに上流へ押しあげられては、飛び<ruby><rb>揚</rb><rt>あが</rt></ruby>って汐上げの下流へ移る。それを何度も繰返している。

室子は頬を<ruby><rb>撫</rb><rt>な</rt></ruby>でても、胸の皮膚を撫でても、小麦いろの肌の上へ、うすい<ruby><rb>脂</rb><rt>あぶら</rt></ruby>が、グリスリンのように滲み出ているのを、掌で知り、たった一夜の中にも、こんなに肉体の新陳代謝の激しい自分を、まるで<ruby><rb>海驢</rb><rt>あしか</rt></ruby>のようだと思った。（事実海驢はそういう生理の動物かどうか知らなかったけれど）室子は、シュミーズを脱いで、それで身体を拭い捨て、頭を振って、髪の<ruby><rb>纏</rb><rt>もつ</rt></ruby>れを振り放ち<ruby><rb>乍</rb><rt>なが</rt></ruby>ら、今朝の空腹の原因を突き止めた。

いくら上品にするといっても、昨夜の結婚披露会のあの食事は、少し滑稽だ。皿には、デコレーションの<ruby><rb>嵩</rb><rt>かさ</rt></ruby>ばかりで、実になるものは<ruby><rb>極</rb><rt>ご</rt></ruby>くすくない。室子は、それに遺憾の気持ちが多かったため、かなり<ruby><rb>沢山</rb><rt>たくさん</rt></ruby>招かれた花嫁の友人の皆が既婚者であり、自分一人が独身であったということさえ、あまり気にならなかった。<ruby><rb>却</rb><rt>かえ</rt></ruby>って傍の者達が、室子一人の独身であることを意識してかかっている様子を見せたり、おしゃまな級友は、口に出して遠廻しに、あまり相手を選み過ぎるからだなどと非難した。だが室子は、そういう人事の<ruby><rb>刺戟</rb><rt>しげき</rt></ruby>は、自分の張り切った肉体の表面だけで滑って仕舞って、心に跡を残さないのを知っている。

玄関の方に自動車の止る音がして、やがて階段の下で、義弟に当る七つの<ruby><rb>蓑吉</rb><rt>みのきち</rt></ruby>の声がする。

「姉ちゃん、お見舞いに来たよ。おもちゃ持って来てやったぞ」

「いま、階下へ降りて行きます、上って来ないでよ――」

室子は、急いで降りて、蓑吉が階段へ一足かけているのを追い戻して、一緒に階下の座敷へ<ruby><rb>伴</rb><rt>つ</rt></ruby>れて行った。

湯殿で身体と顔を洗って来て見ると、蓑吉は座敷のまん中へ、女中にほぐして<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>った包みから、沢山のおもちゃを取出して並べている。

郊外にいる室子の父の<ruby><rb>妾</rb><rt>めかけ</rt></ruby>の子であり乍ら、しじゅう、通油町の本宅の家の子として引取られている蓑吉は、折を見つけては姉のいるこの橋場の寮へ遊びに来<ruby><rb>度</rb><rt>た</rt></ruby>がっている。室子が此間じゅう、<ruby><rb>一寸</rb><rt>ちょっと</rt></ruby>風邪をひいたと昨日<ruby><rb>言伝</rb><rt>ことづ</rt></ruby>けたのを口実に、蓑吉は早速母親にせがんで、見舞いに来さして貰ったのだった。

室子は縁側の籐椅子で、女中を相手に、朝飯を喰べながら

「蓑ちゃんは<ruby><rb>可笑</rb><rt>おか</rt></ruby>しい。姉ちゃんはもう、とっくに風邪なおって起きちまってるのに見舞いに来るなんて」

「でも、来てやったんだい」

蓑吉は、こまごましたおもちゃを並べるのに余念が無い。

「それ、姉ちゃんのお見舞いに呉れたのね、自分で買って来たの」

「ああ」

「それを買うおあし、お母さんにいくら貰ったの」

「二円だい」

女中がきゅうきゅう笑った。

「済まないわね、そんなに沢山蓑ちゃんから頂いちゃ」

室子は、とぼけた声で、云って見せた。

すると蓑吉は、欲望を割引しなければならない切ない苦痛で顔が真赤になり、物事を決断し兼ねるときのこの子の癖のしきりにもどかしそうに両手で脇腹を掻く仕草をしたあと、意気地の無い声を出した。

「姉ちゃんにみんな<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>んの嫌だあ」

それから蓑吉は人を<ruby><rb>賺</rb><rt>すか</rt></ruby>すときの声を作って

「姉ちゃん、これ、いっち好いの、ひとつあげる」

セルロイドのちっぽけなお<ruby><rb>酌</rb><rt>しゃく</rt></ruby>人形だった。

「あら、驚いた。あと、みんな、あんたのに取っちゃうの」

室子はわざと驚いた風をすると、女中がまたきゅうきゅうと笑う。蓑吉はもう大胆に取り澄して、分取ったおもちゃを並べるのに余念ない風をしている。

室子の父の妾の子である蓑吉は、乳離れするころ、郊外の妾の家から通油町の本宅へ引取られた。蓑吉は、実母である妾のお咲が時折実家へ来て「坊ちゃん」と云って自分に<ruby><rb>侍</rb><rt>かしず</rt></ruby>いても、実母とはうすうす知っていながら別に何とも無い顔をしている。用をして貰うときには、室子の父母が呼ぶように、実母を「お咲、お咲」と平気で呼びつけにする。それで実母も何ともない性質の女で、はいはいと気さくに用事を足している。

室子は、案外その人情離れのしている母子風景が好きだった。

<ruby><rb>霙</rb><rt>みぞれ</rt></ruby>で、電燈の灯もうるむかと思われるような暗鬱な冬の夕暮であった。蓑吉は本宅の茶の間の<ruby><rb>炬燵</rb><rt>こたつ</rt></ruby>へちょこなんと<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>って、しきりに戦争の絵本かなにかに見<ruby><rb>耽</rb><rt>ふけ</rt></ruby>っている。お咲が下町へ買物に来た<ruby><rb>序</rb><rt>ついで</rt></ruby>だと云って見廻って来た。みやげの菓子袋を前に置いていつもの通り蓑吉の小さい耳のほとりで挨拶した。本に気を取られている蓑吉はお咲に見向きもしないでそのまま本に気をとられている様子だった。だが、室子の母親が出て来て、も一度、菓子袋をお咲がその方へ「粗末なおみやげ」と云ってさし出した。紙袋がごそごそといって、蓑吉の傍へ余計近よると、蓑吉は手だけ延ばした。体はもとの炬燵の中のまま顔も本の方へ矢張り向いているのである。ただ手だけが小さい腕をぐうっと延して菓子袋に届き、蓑吉は上手に袋の口からなかの菓子を一つ握み出そうとした。

お咲に妙な気持ちが込み上げた。

「こら、何です、この子は」

お咲は、思わず地声で叫んだ。<ruby><rb>吃驚</rb><rt>びっくり</rt></ruby>して実母を見た蓑吉の手は<ruby><rb>怯</rb><rt>おび</rt></ruby>えにかじかんで、直ぐには蓑吉の体の方へさえ帰って行かなかった。お咲はすぐ傍に室子の母親のいるのに気付き、普段に戻って、からからと笑った。涙も<ruby><rb>襦袢</rb><rt>じゅばん</rt></ruby>の袖口で一寸抑えて仕舞ったが、蓑吉と同じ炬燵にいた室子は、この光景を見て、何とも仕様のない、人間の不如意の思いが胸に浸み入った。

だが暫くすると蓑吉は、また今度は、ちょっとお咲の顔を見ては、やっぱり、菓子袋へ手を出していた。

そうかと云って室子の見る蓑吉は、手の中の珠のように可愛がる室子の両親に特になつくという訳でもなかった。何か一人で工夫して、一人で<ruby><rb>梯子</rb><rt>はしご</rt></ruby>段の下で、遊んでいるような子供だった。

寮では、今朝、子供の食べるような菓子は切らしていた。だが蓑吉は一わたり玩具をいじり廻して仕舞うと鼻声になり

「何か呉れない。お菓子」

と立上って来た。

室子は仕方なく蓑吉を膝に<ruby><rb>凭</rb><rt>もた</rt></ruby>せながら、午前九時頃の明るさを見せて来た隅田川の河づらを覗いた。

「蓑ちゃん、長命寺のさくら<ruby><rb>餅</rb><rt>もち</rt></ruby>屋知ってる」

「ああ知ってるよ。向う<ruby><rb>河岸</rb><rt>がし</rt></ruby>の公園出てすぐだろ」

「じゃ、一人で<ruby><rb>白鬚</rb><rt>しらひげ</rt></ruby>の渡し渡って買ってらっしゃい。行ける？」

蓑吉は、この冒険旅行に異常な情熱を沸かしたらしい。いきなり室子の膝から離れると

「行けなくってえ――あんなとこ」

<ruby><rb>捌</rb><rt>さば</rt></ruby>けた下町っ子らしい気魄を見せた。

実母にさえ、あんな傲慢なこの子に案外弱気なところがある。室子はそこを一寸突いても見たかった。何か、<ruby><rb>悄然</rb><rt>しょうぜん</rt></ruby>とした<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あわれ</span>さをこの子から感じたかった。

だが、女中に銀貨と小銭を貰って出て行く蓑吉の後姿を見送り乍ら、室子は急に不憫になった。だが口では冗談らしく

「蓑ちゃん。船から落っこっても、大丈夫ね、犬掻き位は出来るわね」

蓑吉はもう、行手に心を<ruby><rb>蒐</rb><rt>あつ</rt></ruby>めていた。で

「なんだい、河じゅうみんな泳げら」

爺やの直す<ruby><rb>下駄</rb><rt>げた</rt></ruby>を<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>いて出かけて行く蓑吉のあとから、爺やはあははと笑った。

室子は手早く漕艇用のスポーツ・シャツに着換えた。

逞ましい四肢が、直接に外気に触れると、彼女の世界が変った。それは新しい世界のようでもあり、<ruby><rb>懐</rb><rt>なつか</rt></ruby>しい故郷のようでもあった。肉体と自然の間には、人間の何物も介在しなかった。

室子は、寮の脇の藤棚を天井にした細い引き堀へと苔の石段を下った。室子はスカールの<ruby><rb>覆</rb><rt>おお</rt></ruby>い布を<ruby><rb>除</rb><rt>と</rt></ruby>って、レールの端を頭で柔かく受けとめた。両手でリガーを支えてバランスに気を配りながら、<ruby><rb>巧</rb><rt>たくみ</rt></ruby>に艇身を廻転させつつ渚へ卸した。そのまま川に通ずる石垣の角まで、引っぱって行く。オールを入れて左右のハンドルを片手で握り乍ら素早くシートへ彼女は腰を滑り込ます。ローロックのピンを<ruby><rb>捻</rb><rt>ね</rt></ruby>じると、石垣へ手をやり、あと先を見計らって艇を水のなかへ押し出した。

もの馴れた<ruby><rb>敏捷</rb><rt>びんしょう</rt></ruby>な所作だった。長さ二十五フィート、重量五貫目のスカールは、縦横に捌かれ、いま一葉の<ruby><rb>蘆</rb><rt>あし</rt></ruby>の葉となって、娘の雄偉な身体を乗せている。室子はオールでバランスを保ちながら、靴の<ruby><rb>紐</rb><rt>ひも</rt></ruby>を手早く結ぶ。朝風が吹く。

室子の家の商売の鼈甲細工が、いちばん繁昌した旧幕の頃、江戸<ruby><rb>大通</rb><rt>だいつう</rt></ruby>の中に数えられていた室子の家の先代は、この引き堀に自前持ちの<ruby><rb>猪牙</rb><rt>ちょき</rt></ruby>船を繋いで深川や山谷へ通った。

室子の家の商品の鼈甲は始め、<ruby><rb>玳瑁</rb><rt>たいまい</rt></ruby>と呼ばれていた。徳川、天保の改革に幕府から厳しい<ruby><rb>奢侈</rb><rt>しゃし</rt></ruby>禁止令が出て女の髪飾りにもいわゆる金銀玳瑁はご<ruby><rb>法度</rb><rt>はっと</rt></ruby>であった。

すると、市民達は同じ玳瑁に鼈甲という名をつけて用いた。室子の家の店はその前からあったが、鼈長という名で呼ばれ始めたのはこの頃からであった。明治初期に、<ruby><rb>鹿鳴館</rb><rt>ろくめいかん</rt></ruby>時代という洋化時代があった。上流の夫人令嬢は、洋髪洋装で舞蹈会に出た。庶民もこれに<ruby><rb>做</rb><rt>なら</rt></ruby>った。日本髪用の鼈甲を扱って来た室子の店は、このとき多大の影響を受けた。明治中期の末から洋髪が一般化されるにつけ、鼈甲類はいよいよ思わしくない。室子の父はこれに代る道を海外貿易に求めた。近頃になっては、昭和五年に世界各国は金禁止に伴って関税障壁を競い出した。鼈長の<ruby><rb>拓</rb><rt>ひら</rt></ruby>きかけた鼈甲製品の販路もほとんど閉された。支那事変の影響は、一方、日本趣味の復活に結婚式の<ruby><rb>櫛</rb><rt>くし</rt></ruby><ruby><rb>笄</rb><rt>こうがい</rt></ruby>等に鼈甲の需要をまた呼び起したと共に、一方大陸への<ruby><rb>捌</rb><rt>は</rt></ruby>け口はとまった。商売は、痛し<ruby><rb>痒</rb><rt>かゆ</rt></ruby>しの状態であった。

一ばん大敵なのは七八年前から特に盛になった模造品の進出であった。だんだん巧妙な質のものが出て来た。室子の父も、商売には抜からないつもりで、模造品も扱っているが、根に模造品に対する軽蔑があるのが商法のどこかに現れ、時代的新店の努力には<ruby><rb>敵</rb><rt>かな</rt></ruby>わない。結局店を小規模にして、自分に執着のある本鼈甲の最高級品だけを扱う道を<ruby><rb>執</rb><rt>と</rt></ruby>ろうと決めている。娘の室子のことについては、今更<ruby><rb>婿養子</rb><rt>むこようし</rt></ruby>をとっても、家業が家業なり、室子の性質なりで、うまくは行くまいとの<ruby><rb>明</rb><rt>めい</rt></ruby>だけは両親に在った。蓑吉を仕込んで小規模に家業を継がせ、望み手もあらば室子は嫁に出す考えである。見合いの口が二つ三つあった。

母親がわが事のように意気込んで、見合いの日室子を美容術師へ連れて行き、特別<ruby><rb>誂</rb><rt>あつら</rt></ruby>えの着物を着せた。普通の行き丈けや身幅ものでも、この雄大な娘には紙細工の着物のように見えた。出来上った娘の姿を見て「この娘には、まるで女の<ruby><rb>嬌態</rb><rt>しな</rt></ruby>が逆についている」と母親が、がっかりした。けれども、美容師の蔦谷女史は、心から感嘆の声を放った。そして、是非、写真を撮らして欲しいと望んだ。だが、室子がそれを断った。

見合いは順当に運んだ。附添って行った母親の眼にも落度は無いように思われた。

ところが翌日仲介者が断りに来た。

「何分にも、お立派過ぎると、あちらは申すんで――」

「立派すぎるなんて、そんな断りようがあるか」

父親は巻煙草を灰皿にねじ込んで怒った。

室子はもう一度見合いをさせられた。それは口実なしに先方が返事を<ruby><rb>遷延</rb><rt>せんえん</rt></ruby>してしまった。

室子はそういう場合、<ruby><rb>得体</rb><rt>えたい</rt></ruby>の知れぬ屈辱感で憂鬱になる。そして、自分に何か余計なものかもしくは足りないもののありそうな遺憾が<ruby><rb>間歇泉</rb><rt>かんけつせん</rt></ruby>のように胸に吹き上がる。けれども、それは直接男性というものに対する抗議にはならなかった。彼女は男性というものには、コーチの松浦を通して対している。

この洋行帰りの青年紳士は、室子の家の遠縁に当り、<ruby><rb>嘗</rb><rt>かつ</rt></ruby>て彼女をスカールへ導き、彼女に水上選手権を得させ、スポーツの<ruby><rb>醍醐味</rb><rt>だいごみ</rt></ruby>も水の上の法悦も、共に味わせて呉れた男だった。

親切で厳しく、大事な勝負には一しょに嘆いたり悦んだりして呉れる。艇を並べて漕ぎ進む。すると松浦は微笑の唇に皮肉な<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くびれ</span>を入れ乍ら漕ぎ越す。擬敵に対する軽い憎しみはやがて力強い情熱を<ruby><rb>唆</rb><rt>そそ</rt></ruby>って漕ぎ勝とうと彼女を一心にさせる。また松浦が漕ぎ越す。一進一退のピッチは<ruby><rb>軈</rb><rt>やが</rt></ruby>て矢を射るよりも速くなっても、自分には同じ水の上に松浦の艇と自分の艇とが一二メートルずつ競り合っているに過ぎない感じだ。精神の集注は、彼女を迫った意識の世界へ追い込む。両岸、橋、よその船等、舞台の空幕のように注意の外に持ち去られる。ひょっとして競漕の昂揚点に達すると、颱風の中心の無風帯とも見らるべきところの意識へ這入る。ひとの漕ぐ艇、わが漕艇と意識の区別は全く消え失せ、ただ一つのものが漕いでいる。無限の空間にたった一つの青春がすいすいと漕いでいる。いつの頃から漕ぎ出したか、いつの頃には漕ぎ終るか、それも知らない。ただ漕いでいる。石油色に光る水上に、漕いでいる。

ふと<ruby><rb>投網</rb><rt>とあみ</rt></ruby>の音に気が<ruby><rb>逸</rb><rt>そ</rt></ruby>れて、意識は普通の世界に戻る。彼女はほっとして松浦を見る。松浦も健康な陶酔から醒めて、力の抜けた微笑を彼女に振向けている。

艇の惰力で、青柳の影の濃い千住大橋の<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>へ近づく。彼女は松浦とそこから岸へ上って、<ruby><rb>鮒</rb><rt>ふな</rt></ruby>の雀焼を焼く店でお茶を貰って、雀焼を食べたことを覚えている。

松浦はなつかしい。だが、それは水の上でだけである。陸の上で会う松浦は、単にＳ会社の平凡で勤勉な妻子持ちの社員だけである。水の上であの男に感じる匂いや、神秘は<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>へ消えるか、彼は二つ三つ水上の話を概念的に話したあとは、額に苦労波を寄せて、忙しい日常生活の無味を語る。彼女に何か、男というものの気の毒さを感じさせる。その同情感は、一般勤労者である男性にも通じるものであろう。

室子は、隅田川を横切って河流の速い向島側に近く艇を運んで、桜餅を買って戻る蓑吉を待っていた。

<ruby><rb>水飴</rb><rt>みずあめ</rt></ruby>色のうららかな春の日の中に両岸の桜は、貝殻細工のように、公園の両側に掻き付いて、漂白の白さで咲いている。今戸橋の橋梁の下を通して「隅田川十大橋」中の二つ三つが下流に<ruby><rb>臙脂</rb><rt>えんじ</rt></ruby>色に霞んで見える。鐘が鳴ったが、その浅草寺の五重塔は、今戸側北岸の桜や家並に隠れて彼女の水上の位置からは見えない。小旗を立て連ねた松屋百貨店の屋上運動場の一角だけが望まれる。<ruby><rb>崖普請</rb><rt>がけぶしん</rt></ruby>をしている待乳山聖天から、土運び機械の断続定まらない鎖の音が水を渡って来る。

室子は茶の芽生えに<ruby><rb>萌黄</rb><rt>もえぎ</rt></ruby>色になりかけの堤を見乍ら「いまにあの小さい蓑吉が、桜餅の籠を提げて帰って来る――」と水の上で考えている。小さい足はよろめいて、二三度可愛ゆい下駄の音を立てるだろう。あまり往来の多くないこの渡船に乗客は、ひょっとしたら蓑吉一人かも知れない。蓑吉は一人使いの手柄を早く姉に誇ろうと気負い込み、一心に顔を緊張させ、眼は寮の方ばかり見詰めるだろう。そして船頭に渡賃を云われて小銭を船頭の掌に渡すあの子は、もう一度船頭の掌の中の小銭を覗き込むだろう。あの子は多少ケチな性分だから――丁度その頃を見計らって、自分が知らん顔をして、艇を渡船と平行に、すいすい持って行く。それを発見したときの蓑吉の<ruby><rb>愕</rb><rt>おどろ</rt></ruby>きと悦びはどんなだろう。あの「小さき者」は何というだろう。

こんな子供っぽいことに、最大の情熱を持つ今の自分は、普通の女の情緒を、スポーツや勝負の激しさで擦り切ってしまったのかしらん。

だが、何にしても子供は可愛ゆい。男は<ruby><rb>兎</rb><rt>と</rt></ruby>に<ruby><rb>角</rb><rt>かく</rt></ruby>、子供だけは持ち度いものだ――室子は、流れの鴎の翼と同じ律に<ruby><rb>櫂</rb><rt>かい</rt></ruby>をフェーザーしては蓑吉を待っていた。

堤を見詰めている室子の狭めた視野にも、一<ruby><rb>艘</rb><rt>そう</rt></ruby>のスカールが不自然な角度で自分の艇に近付いて来たことを感じた。彼女は「また源五郎かしらん」と思った。金魚や鮒の腹に食いつく源五郎虫のように、彼女達は水上で不良の男達の艇にねばられることがあった。彼女たち娘仲間の三四人は、これに「源五郎」と<ruby><rb>符牒</rb><rt>ふちょう</rt></ruby>をつけていた。

彼女がいま近づいて来た相手をくわしく観察する暇もない程素早く近寄って来たスカールの上の青年の気配が、彼女に異常に伝わった。その大きな瞳といわず、胸、肩といわず、それは電気性のものとなって、びりびり彼女を取り込め、<ruby><rb>射竦</rb><rt>いすく</rt></ruby>ますような雰囲気を放った。あの競漕の最中に、しばしば襲って来るあの辛いとも楽しいともいいようのない極限感が、たちまち彼女の心身を占めて、彼女を<ruby><rb>痺</rb><rt>しび</rt></ruby>らす。彼女に生れて始めてこんな部分もあったかと思われる別な心臓の<ruby><rb>蓋</rb><rt>ふた</rt></ruby>が開けられて、恥かしいとも生々しいともいいようのない不安な感じと一緒に<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>を相手から覗き込まれた。

彼女はうろたえた。<ruby><rb>咽喉</rb><rt>のど</rt></ruby>だけで「あっ」といった。オールもまちまちに河下の方へ艇頭を向けると、下げ潮に乗って、逃げ出した。するとその艇も逃さず追って来た。ふだんから室子は結局のところは男に敵わないと思っていたが、この青年は抜群の腕と見えて、彼女の左舷の方に漕ぎ出ると、オールへ水の引掛け方も<ruby><rb>従容</rb><rt>しょうよう</rt></ruby>と、室子の艇の、左舷の四分の一の辺へ、艇頭を定めると、ほとんど半メートルの差もなく漕ぎ連れて来る。その漕ぎ連れ方には愛の力が潜んでいて、それを少しずついたわりに変え、女を脅かさぬように気をつけながら大ように力を消費して行くかのようである。

青年の人柄も人柄なら、その<ruby><rb>技倆</rb><rt>ぎりょう</rt></ruby>にも女の魂を底から揺り動かす魅力があった。室子がいくら<ruby><rb>焦</rb><rt>あせ</rt></ruby>って漕いでも、相手の艇頭はぴたと同じところにある。恥かしさと嬉しさに、肉体は溶けて行くようだった。

それだけ彼女には異常な圧迫感が加わる。今まで、自由で、独自で自然であった自分が手もなく<ruby><rb>擒</rb><rt>とりこ</rt></ruby>にされるのだ。添えものにされ、食われ、没入されてしまうのだ。

何と、うしろからバックされて行く自分の姿のみじめなことよ。今まで誇っていた技倆の<ruby><rb>覚束</rb><rt>おぼつか</rt></ruby>ないことよ。自分の漕いで行く姿が、だんだん碕形になる事が、はっきり自分に意識される。

二つの橋が、頭の上を夢の虹のように過ぎる。室子は疲れにへとへとになり、気が遠くなりながら、身も心も少女のようになって、後からの強い力に追われて行く――この追い方は<ruby><rb>只事</rb><rt>ただごと</rt></ruby>では無い。愛の手の差し延べ、結婚の申込みでは無かろうか。カンとカンで動く水の上の作法として、このようなことも有り得るように思う。

眼が<ruby><rb>眩</rb><rt>くら</rt></ruby>んで来て星のようなものが左右へ散る。心臓は破れそうだ。泣いて<ruby><rb>取縋</rb><rt>とりすが</rt></ruby>って哀訴したい気持ちが一ぱいだ。だが、青年の艇は大ような微笑そのものの静けさで、ぴたりぴたりついて来て離れない。

せめて<ruby><rb>吾妻</rb><rt>あずま</rt></ruby>橋まで――今くず折れるのはまだ恥かしく、口惜しい――だが室子はその時すでに気を失いつつあった。

姉ちゃん、姉ちゃんと蓑吉の呼ぶ声がしたかと思った。室子が気がついてみると、蓑吉はいなくて、自分を抱き起しているのは後の艇にいた青年であった。