Soranoha

戦場ヶ原の渓谷

せんじょうがはらのけいこく

佐藤 垢石

山の緑は次第に濃くなる。そして、鱒が円々と肥って来る。奥日光、湯川と湯ノ湖の鱒釣がほんとうの季節となるのだ。

六千尺近い山腹に在る湖と、五千尺の戦場ヶ原を流れる溪流へ、宮内省帝室林野局では無数の姫鱒と虹鱒、川鱒を放流して、それが年々繁殖を続けている。湖の姫鱒は六月と十月がよく釣れる。殊に今年の六月はよく釣れた。今後益々面白かろうと思う。

私は二、三日前、湯川へ釣に行って見たが、相変らずこの川には鱒が多かった。湯滝の下から中禅寺の菖蒲ヶ浜に近い竜頭ノ滝までの間は峡澗きょうかんとなり、平らの流れとなり幾曲りして変化に富み、ただのハイキングコースとしても賞遊するに足りるが、さらに携えた一竿に鱒の一跳ねが上るのであるから、甚だ愉快である。

朽ちた倒木の下、白く小さく咲いた川藻の濃紺のかげに、川鱒と紅鱒が眼を光らせている。竿は一丈か一丈二尺、丈夫な道綸を六尺位の長さにして毛鈎をポイントに打ち込んで、水面をチョンチョン叩きながら手前の方へ引きよせる間に、鱒は躍然として毛鈎に飛びつく。間髪を容れず、鈎合せを行うと掛るのだ。

鱒の跳躍と、釣者の呼吸が合致して、ガッチリと鱒の口に鈎先が刺し込まるところに、毛鈎釣の興趣があって、一度その味を知ったら終生忘れられまい。

毛鈎は、湯川に棲む瀬虫が殻を脱けて羽虫になったものに似せて作った形が一番よろしい。これをゴロッチョと言っている。その外どんな形をしている毛鈎にでも食いつくのである。

道綸は秋田の渋糸百本撚位の太いものを必要とする。鈎素は五、六厘柄の丈夫なものがよく、これは魚が大きいので合せ切れがするのを防ぐのと、時に密生している雑木の小枝に鈎が引っ掛るから、力任せに引いても切れる虞れがないようにするためだ。

餌針も面白い。いまは既にカマエビの虫はいないし、また叢間に群る赤蜻蛉も発生しないから、主として瀬虫の大きなものを捕って使っている。蛆でもよろしい。また既に、ゴロッチョが川岸に飛んでいるから、これを鈎先につけ、水面下一寸位の所を流していると鱒が猛然として飛びついて来る。

鱒は、このゴロッチョが大好物である。

一日やったら、一貫五百匁から二貫目は釣れよう。そして大きなものは二、三百匁はある。しかし、四、五十匁から、六、七十匁までのものが普通である。

東武雷門駅を午前五時の一番で出発すれば、十時には湯滝の入口までバスが着く。それから直ぐ川へ入って釣すれば、夕方の一番鱒の活躍する時を狙えるのである。そして一夜湯元の温泉か菖蒲浜に過し、翌朝一番のバスで立てば東京へ正午には着く。おひるの御馳走に、山で釣った鱒が塩焼になって現われるという事になろう。

また、正午に雷門を出発すれば午後五時に湯元温泉へ着く。その夜ゆっくり温泉に浸って、翌朝未明に草鞋に足を固めて宿を出れば朝まづめの機会が狙えよう。午後三時まで釣り暮らして三時五十分湯元発のバスに乗れば、八時には雷門へ帰り着ける。夕餉の膳には充分間に合う。

一日を釣り暮らして川から上る時は、鱒の腹を割いて臓物をきれいに洗い去ってしまうのがよろしい。それは、鱒が好んで川虫や羽虫を食っているのと、臓物が腹にあると腐敗が早いからである。臓物を去った腹へは、薄く塩を塗って置くと味が一層上品になる。

湯川も湯ノ湖も、一日三円の入漁料を林野局出張所へ納めねばならない。湖の方は半日二円という札も出す。

底本 / Source edition

底本:「垢石釣游記」二見書房
1977(昭和52)年7月20日初版発行
入力:門田裕志
校正:きゅうり
2019年6月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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書誌 / Bibliography
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佐藤 垢石「戦場ヶ原の渓谷」(新字新仮名)、底本『垢石釣游記』二見書房、1977年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 050595_001248, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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