○

Ｋ君――――。

物価暴騰の声に、脅やかされているばかりが能ではない。時には遊びの気分に浸って、現実の生活苦を忘れようではないか。――僕達はこうした主旨から、大正八年七月川開きの夜を、向島の百花園で、怪談会に興じた。

<ruby><rb>泉鏡花</rb><rt>いずみきょうか</rt></ruby>氏、<ruby><rb>喜多村緑郎</rb><rt>きたむらろくろう</rt></ruby>氏の他、発起人として尽力したのは、<ruby><rb>平山蘆江</rb><rt>ひらやまろこう</rt></ruby>氏や<ruby><rb>三宅孤軒</rb><rt>みやけこけん</rt></ruby>氏などであった。七夕祭の夜、<ruby><rb>喜多</rb><rt>きた</rt></ruby>の<ruby><rb>家</rb><rt>や</rt></ruby>の<ruby><rb>茶荘</rb><rt>さそう</rt></ruby>に招かれた時、平山君や僕から言い出した催しとて、趣向の事や人の寄りなどに就いては、人知れず苦労していた。しかし世間には、同趣味の人達が多いと見えて、三十人か五十人、多くて七十人位であろうとの予想は外れて、当夜になると百五十人からの参集者があった。

従って、シンミリと寂しかるべき怪談会は、意外にも<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎ</rt></ruby>かな陽気な集会となって、<ruby><rb>芸妓</rb><rt>げいしゃ</rt></ruby>達の白い顔や、芸人達や料理屋の主人と云ったような、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いなせ</span>な連中が気勢を添えてくれた。

「こんなに集っては、仕様がありませんね。会費をウンと高くして、十円位にすれば<ruby><rb>宜</rb><rt>よ</rt></ruby>かった…………」

「え、五円と云うところでしたね。しかし<ruby><rb>数</rb><rt>すう</rt></ruby>に於ては成功なんです。怪談祭の気味にはなったが、まず結構としておく事ですね」

僕達はこんな事を云って、ボツボツ来始めた人達を案内しているところへ、自動車で駈け付けたのは、泉鏡花、喜多村緑郎、<ruby><rb>久保田万太郎</rb><rt>くぼたまんたろう</rt></ruby>などの諸氏であった。続いて<ruby><rb>錦城斎典山</rb><rt>きんじょうさいてんざん</rt></ruby>の顔が見えたり、<ruby><rb>伊井蓉峰</rb><rt>いいようほう</rt></ruby>、<ruby><rb>福島清</rb><rt>ふくしまきよし</rt></ruby>、<ruby><rb>花柳章太郎</rb><rt>はなやぎしょうたろう</rt></ruby>などの姿が、幹事室の前に現れたりした。

<ruby><rb>川村菊江</rb><rt>かわむらきくえ</rt></ruby>、<ruby><rb>桜井八重子</rb><rt>さくらいやえこ</rt></ruby>など、女優の顔も見えたようであった。赤坂、新橋、柳橋、浅草の芸妓達も、四五人ずつ連れ立って出席した。

Ｋ君――僕はこの時、久し振りに、泉鏡花氏と逢って、怪談以上の或る悲しい事実を聴いた。

僕は今それを、君に宛て書き送ろうと思う。

○

鏡花氏と僕とが、初対面したのは、「<ruby><rb>風流線</rb><rt>ふうりゅうせん</rt></ruby>」を藤沢、喜多村が本郷座に上演した時か、それとも芝の<ruby><rb>紅葉館</rb><rt>こうようかん</rt></ruby>で、第何回目かの紅葉祭を催した時か。今たしかには覚えていないが、<ruby><rb>兎</rb><rt>と</rt></ruby>に<ruby><rb>角</rb><rt>かく</rt></ruby>、途中で逢っても、「<ruby><rb>今日</rb><rt>こんにち</rt></ruby>は」「や<ruby><rb>何処</rb><rt>どちら</rt></ruby>へ」と云う位の知合にはなっていた。

その鏡花氏に逢って、僕が<ruby><rb>先</rb><rt>ま</rt></ruby>ず聞いたのは、今井君夫妻の忘れ形見の身の上なのであった。

「去年でしたか、上京してお宅に居ると云う<ruby><rb>端書</rb><rt>はがき</rt></ruby>をくれた<ruby><rb>限</rb><rt>き</rt></ruby>りで、無沙汰しているのですが、今は<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>うしていますでしょう。一度お宅へ伺って、今井の娘にも逢おう逢おうと思っていながら、つい御無沙汰していましたが…………」

「おう、その今井の娘に就いては、実に気の毒な話があるのですよ。私の宅へ来てから……………」

と、鏡花氏と僕が話かけているところへ、いろんな人が挨拶に来たので、僕は心にかかりながら、喜多村氏と他の話をしたり、来会者へ挨拶したりして、<ruby><rb>忙</rb><rt>せわ</rt></ruby>しい一時間を過ごした――。

Ｋ君――この今井と云うのは、僕と同じ作州落合の生れで、幼年の頃から竹馬の友であると共に、また村役場へ雇われて、共に<ruby><rb>筆生</rb><rt>ひっせい</rt></ruby>を勤めた苦労の友達であった。東京へ来てからは、性来の<ruby><rb>吏才</rb><rt>りさい</rt></ruby>が役に<ruby><rb>立</rb><rt>たっ</rt></ruby>て、大蔵省の判任官を奉じ、長い間<ruby><rb>煙草</rb><rt>たばこ</rt></ruby>専売局に勤めていた。妻と男の子一人、女の子三人の六人暮しで、住宅は麹町下六番町十番地の<ruby><rb>長屋建</rb><rt>ながやだて</rt></ruby>であった。その筋向うの二階家が、<ruby><rb>恰</rb><rt>あたか</rt></ruby>も鏡花氏の住宅なので、今井夫妻は深くも交際しなかったが、幼い娘の子達は、色白の可愛い盛りを、子の無い鏡花氏夫妻に<ruby><rb>愛</rb><rt>いと</rt></ruby>しがられて、殆ど毎日のやうに<ruby><rb>出入</rb><rt>しゅつにゅう</rt></ruby>していた。

当代有数の知名な小説家と、名も無い専売局の一<ruby><rb>属吏</rb><rt>ぞくり</rt></ruby>と、二人は交るべく余りに世界が隔り過ぎていたが、その隔りの垣根を越して、鏡花氏夫妻の愛に甘えていたのは、下の女の子二人であった。今年十三と七つのＳ子とＭ子は、鏡花夫人を第二の母のように懐しんで、その慈愛に弄ばれていた。殊に幼いＭ子は、色白の美しい上に、明敏な質であったので、生れ落てから直ぐ鏡花夫人の愛の<ruby><rb>掌</rb><rt>たなごころ</rt></ruby>に抱れて、三つとなり五つとなった。

そうして過ぎ行く月日の<ruby><rb>間</rb><rt>うち</rt></ruby>に、Ｍ子の母は午後になると倦怠と発熱を覚え、夜は冷たい寝汗に苦しむような病人となった。

悲劇はこれから醸されたのである。

○

何も<ruby><rb>彼</rb><rt>か</rt></ruby>も話さねば判らぬが、僕が今の妻と知合になって、正式に結婚を<ruby><rb>申込</rb><rt>もうしこん</rt></ruby>だ時、仲に<ruby><rb>立</rb><rt>たっ</rt></ruby>て世話してくれたのは、この今井であった。大正四年五月上旬から下旬までかかって、<ruby><rb>愈々</rb><rt>いよいよ</rt></ruby>型ばかりの結婚式を挙げた時、席に列してくれたのは、この今井君と<ruby><rb>角田浩々</rb><rt>かくだこうこう</rt></ruby><ruby><rb>歌客</rb><rt>かかく</rt></ruby>の二人だけであった。細君は余程悪くなって、声も<ruby><rb>嗄</rb><rt>かす</rt></ruby>れていたし、咳も出るし、午後の熱にも苦んでいる様子に見えた。

「細君が病中のところを、<ruby><rb>種々</rb><rt>いろいろ</rt></ruby><ruby><rb>御尽力</rb><rt>ごじんりょく</rt></ruby>になった。僕の方はこれで片が附いたが、細君の病気は何うだね。僕は不遠慮に云うが、肺に異状があるのではないか、ね」

「いや、<ruby><rb>高田耕安</rb><rt>たかだこうあん</rt></ruby>氏にも診て貰ったし、他の医師にも診て貰ったが、肋膜の方は悪いけれど、肺には異状が無いのだそうな」

「それなら<ruby><rb>宜</rb><rt>い</rt></ruby>いけれど、一度、友人の武田君か金田君かに見て貰っては何うだね」

「武田にも診て貰ったが、肺ではないらしい」

僕達はこんな会話をして、別れた<ruby><rb>限</rb><rt>き</rt></ruby>りであった。その年の夏には、細君の病状が<ruby><rb>俄</rb><rt>にわか</rt></ruby>に進んだので、今井は一家を挙げて伊豆の伊東に転地し、秋風が吹く頃まで、そこで暮していた。長い間の事ではあるし、役所の方は休んでいたし、随分金にも困った様子であったが、当時の僕は浪人していたので、今井のために何の助けにもなる事が出来なかった。僕はそれを想う<ruby><rb>毎</rb><rt>ごと</rt></ruby>に、友情を表明し得なかった腑甲斐なさを、<ruby><rb>口惜</rb><rt>くちお</rt></ruby>しく思い、残念に思い、不本意に思って、浅からぬ罪を<ruby><rb>荷</rb><rt>にな</rt></ruby>っている様な心持がして堪らなかった。

「一度、見舞に行くべきであったに、相済まぬ事をした。今井君も定めて、薄情な奴だと思っているに違いない……」

僕等夫妻は、<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>もこんな話をしては、今井一家の多幸を、心の中で祈っていた。

そこへ久し振りに、今井から<ruby><rb>端書</rb><rt>はがき</rt></ruby>が来て、僕は初めて細君の死去を知った。「伊東で火葬にして、遺骨は故郷へ<ruby><rb>持</rb><rt>もっ</rt></ruby>て帰って埋葬する」との知らせもあった。「妻の骨を持て帰省した。昨日教会で葬儀を営んだ」と云う端書も来た。

腸チブスで妻を失い、悲しい経験を辿っている僕は、その通知を得て、名状し難い気持がした。

「今井も遂に、僕の仲間になった…………」

その頃の僕は、恥しい話であるが、五円の香典を送るのも、<ruby><rb>不如意勝</rb><rt>ふにょいがち</rt></ruby>であった。

「東京へ帰ったら、一度訪ねて行こう」

そう思っている<ruby><rb>間</rb><rt>うち</rt></ruby>に、今井は再び上京して、玉川電車沿線の三軒家に借家して、相変らず専売局に勤めていた。大正五年となり、六年となったが、僕は旧友を訪ねて、昔話をするような気持になれず、今井には依然として、無沙汰勝の月日を送っていた。

○

Ｋ君――誰が何と云っても、世に怖るべきは結核性の病気である。僕の結婚当時から、腹が痛むと云って食べ物に注意していた今井は、何時の間にか腸結核に<ruby><rb>罹</rb><rt>かか</rt></ruby>って、不治の病床に<ruby><rb>呻吟</rb><rt>しんぎん</rt></ruby>していた。しかもそれを僕が初めて知ったのは、今朝死亡したと云う日の<ruby><rb>正午</rb><rt>ひる</rt></ruby>頃であった。

僕は<ruby><rb>愕然</rb><rt>がくぜん</rt></ruby>として、泣くに泣かれぬような心持がした。自分が長い間無沙汰していた事などは忘れて、病気している事位は、<ruby><rb>予</rb><rt>あらか</rt></ruby>じめ知らせてくれても<ruby><rb>宜</rb><rt>よ</rt></ruby>さ<ruby><rb>相</rb><rt>そう</rt></ruby>なものにと、驚きもし悲しみもした。――結婚の世話になって以来、碌にしみじみ話をする機会も無い<ruby><rb>間</rb><rt>うち</rt></ruby>に、今井は<ruby><rb>杳然</rb><rt>ようぜん</rt></ruby>として<ruby><rb>死</rb><rt>しん</rt></ruby>だ。――こう思うと、僕はこの胸を絞め付けられるような心地がして、出そうになった涙も、容易には流れて出なかった。

三軒家の宅へ行って、友人三五人と共に、納棺の手伝いをした時、僕は初めて落涙した。今井が病気で死んだ事に対しては、<ruby><rb>寸毫</rb><rt>すんごう</rt></ruby>の責任も無いけれど、彼が在世中に、親友の一人として、僕は何程の力を致したであろう。細君の病中や死去に際しても、今井の病中に対しても、僕は慰めの言葉すら、怠っていたではないか。<ruby><rb>凡</rb><rt>およ</rt></ruby>そ今井の友人として、僕ほど不信な、僕ほど非人情な、僕ほど<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のほうず</span>な男は、<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>にあろうとも思われない。死だ後の今となっては、この苦しみも、悲しみも、思い遣りも、何の力ない空な事になってしまうではないか。

十八になる長男は、蒼白い顔をして、<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>にも父か母かの病菌を受けているような様子に見えた。

「君まで病人になっては<ruby><rb>不可</rb><rt>いけな</rt></ruby>いぞ。心を丈夫にもって、早く健康になって働くのだ、ね……」

僕はこう云っている間に、我ながら涙ぐましい心持になった。十五歳の秋、母を失った当時の僕を想い起して、悲しい気持がした。妻の無い母の家で、病み疲れていた今井の心持を想った時、僕はハラハラと落涙した。頼りと思う病床の父に<ruby><rb>侍</rb><rt>じ</rt></ruby>して、不如意勝な幾月日を送って来た子供達の心持を想像した時、僕は両手で顔を<ruby><rb>掩</rb><rt>おお</rt></ruby>うて泣いた。

「何と云う不幸な一家であろう」

雨の翌日、子供達と共に、今井の死骸を火葬場に送って、<ruby><rb>永久</rb><rt>とわ</rt></ruby>の別れを告げた。僕の竹馬の友で、親友で、妻の媒介人で、何かにつけて<ruby><rb>兄侍</rb><rt>けいじ</rt></ruby>していた今井は、こうしてただ一片の骨と<ruby><rb>化</rb><rt>な</rt></ruby>ってしまった…………。

Ｋ君――しかし悲劇は、以上で終ったのではない。この手紙を、今暫く書き続ける事を、<ruby><rb>恕</rb><rt>ゆる</rt></ruby>してくれるなら、君は人生の生々しい哀話に、必らずや心を動かされずにはいられないと思う。

○

今井君の骨を抱いて、その忘れ形見達と共に、僕が<ruby><rb>美作</rb><rt>みまさか</rt></ruby>山中の故郷へ帰ったのは、<ruby><rb>桜花</rb><rt>さくら</rt></ruby>に早い大正六年四月上旬の事であった。

母の死や父の死で、病気が重くなっていた長男のＴは、「死ぬるのなら故郷で死にたい」と云って、僕達の一行よりも先に、東京を立って帰省した。僕と三人の娘達は、岡山駅で友人の石田に迎えられ、それから更に中国鉄道に乗換えて、<ruby><rb>福渡駅</rb><rt>ふくわたりえき</rt></ruby>まで急いだ。

福渡からは旭川の流れに沿って、山の<ruby><rb>麓路</rb><rt>ふもとじ</rt></ruby>を七里<ruby><rb>余</rb><rt>あまり</rt></ruby>、人力車に曳かれて進んだ。大正二年の夏、十五年振りで帰郷してから、足掛け五年の月日は過ぎていたが、故国の春の風物は、僕のために懐しい旧山河であった。村の入口では、多数の<ruby><rb>旧知己</rb><rt>きゅうちき</rt></ruby>に迎えられて、僕達は故郷の人々の中に包まれた。

翌日は教会堂で、今井の葬儀が営まれた。薬屋の司会で、小学校長の説教、<ruby><rb>理髪床</rb><rt>りはつどこ</rt></ruby>の主人の聖書朗読に次いで、祈祷もあったし、感話もあった。石田は泣いて故人との友情を語り、僕もまた東京から<ruby><rb>従</rb><rt>つ</rt></ruby>いて来た仔細を言葉少く述べた。――東京で淋しく死だ今井も、故郷の人達の友情に依って、こんなに手厚く葬られる。自分も最後の<ruby><rb>呼吸</rb><rt>いき</rt></ruby>を引取る時には、故郷の人々の<ruby><rb>腕</rb><rt>かいな</rt></ruby>に縋りたい――。僕はこんな事を述べて、涙ぐましい心持になった。

桜堂の山の半腹にある墓場には、細君の墓標が淋しく立っていた。今井君の墓穴はその墓標の隣に、小さく掘り下げてあった。讃美歌を歌い、祈祷をささげた後、白木の骨箱を埋めて、土塊を投げ込んだ時、コロコロと侘しい音がした。その音は、今井と僕との<ruby><rb>永久</rb><rt>とわ</rt></ruby>の別れを告げる悲しい響きであった。年上の娘は、顔を両手で隠して<ruby><rb>慟哭</rb><rt>どうこく</rt></ruby>した。人々は<ruby><rb>愁然</rb><rt>しゅうぜん</rt></ruby>として、墓場の<ruby><rb>黄昏</rb><rt>たそがれ</rt></ruby>を<ruby><rb>背後</rb><rt>あと</rt></ruby>にしながら、桜堂の山を下った――。

父の骨よりも早く東京を立った長男のＴは、その夜、病み疲れた身体を、母の実家に<ruby><rb>横</rb><rt>よこた</rt></ruby>えることが出来た。「これでもう大丈夫、病気も楽になったような心持がします」と云って、十九になるＴは、心から嬉し気に微笑んだ。「今井の死」は、これで<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く片付いたが、次には長男のＴが……僕は何となくそう思って、暗い気持がした。不幸にして両親を亡くしたけれど、四人の子供達には幸福あれと祈って、僕はその夜を、川添の家で寝た。

東京から故郷の山中まで、僕の心にコビリ付いていた「今井の死」から、一刻も早く完全に<ruby><rb>脱</rb><rt>のが</rt></ruby>れたい……。僕はそう思って、四五人の旧友達と共に、鰆のおつくりを肴に、村の酒を<ruby><rb>飲</rb><rt>のん</rt></ruby>だりした。

滞郷<ruby><rb>僅</rb><rt>わずか</rt></ruby>に二日の後、東京へ帰って見たら、桜花は今を盛に咲き匂うていた。

○

Ｋ君――今井の長男Ｔが、故郷で血を吐いて死だのは、それから二ヶ月ほど後の事であった。恐しい結核菌は、今井夫妻の生命を奪ったのみでなく、その長男の望み多い半生をも、無残に<ruby><rb>亡</rb><rt>ほろ</rt></ruby>ぼしてしまったのである。

<ruby><rb>平尾不孤</rb><rt>ひらおふこ</rt></ruby>、<ruby><rb>畠山古瓶</rb><rt>はたけやまこへい</rt></ruby>、<ruby><rb>山下雨花</rb><rt>やましたうか</rt></ruby>、<ruby><rb>加藤唖蝉</rb><rt>かとうあぜん</rt></ruby>、<ruby><rb>田中稲月</rb><rt>たなかとうげつ</rt></ruby>、<ruby><rb>玉井一二郎</rb><rt>たまいいちじろう</rt></ruby>、<ruby><rb>国木田独歩</rb><rt>くにきだどっぽ</rt></ruby>、<ruby><rb>永井定太郎</rb><rt>ながいさだたろう</rt></ruby>、<ruby><rb>山田桂華</rb><rt>やまだけいか</rt></ruby>、<ruby><rb>桃中軒雲右衛門</rb><rt>とうちゅうけんくもえもん</rt></ruby>、<ruby><rb>渡辺亮輔</rb><rt>わたなべりょうすけ</rt></ruby>など、多くの知人や友人を、結核菌のために失っている僕も、今井一家に<ruby><rb>巣</rb><rt>すく</rt></ruby>うた毒菌の根強い恐しさには、今更のように戦慄した。

<ruby><rb>嘉悦孝子</rb><rt>かえつたかこ</rt></ruby>さんの女子商業学校を卒業した姉娘だけは、小柄ではあるが<ruby><rb>壮健</rb><rt>たっしゃ</rt></ruby>なように見えたが、下のＳ子とＭ子とは、何となく弱々しく見えていた。現にＭ子は国へ帰る時、頸部に湿布をしていたし、Ｓ子は頬を紅潮して、気のせいか熱もあるように見えていた。

「姉と妹二人きりになったのです。故郷の人達の<ruby><rb>同情</rb><rt>なさけ</rt></ruby>に依って、何とか生活して行く道はあるでしょうが、身体だけは<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>うか<ruby><rb>大切</rb><rt>だいじ</rt></ruby>にして下さい。この上、あなたかお妹さんでも病気になると、それこそ取返しが付きませんからね…………」

僕はこんな手紙を姉娘に送って、気勢を添えもし慰めもした。しかし東京の女学校を卒業した気丈な娘と、郷人の気心とが、果して巧く合致するか何うか。故郷の落合町よりも、未だ三四里山奥の遠縁の者と、話が持上っていた縁談は、その後、何うなったであろう。姉娘は東京へ出て、一人で働いて暮したいような希望があるらしかったが、その後、何うした事であろう。僕は気にかかりながらも、その日その日の生計に追われて、久しい間、故郷とは消息を絶っていた。

そこへ姉娘から突然「数日前上京いたしました、何のお変りも御座いませんか、一度お尋ねせねば済まないのですが…………」という端書が来たのは、今年の春浅い頃であった。端書の表面には「趨町下六番町泉様方にて」とあって、何うして上京したのか、妹二人は何うしたのか、これから何うする<ruby><rb>積</rb><rt>つもり</rt></ruby>か、そんな事は何も書いてなかった。

「おい、今井の姉娘が上京したそうだよ。鏡花さんの宅からとしてあるが、<ruby><rb>彼</rb><rt>あ</rt></ruby>の<ruby><rb>娘</rb><rt>こ</rt></ruby>もいろいろと苦労をしているのだ、ね」

「そうですか、一度訪ねてあげては何う。構わないから宅へ来れば宜いのに、ね」

僕達はこんな会話をしたが、それから今日まで、娘も訪ねて来なかったし、僕も気にはかかりながら、その日の仕事や忙しさに紛れて、鏡花氏の宅を訪ねようとはしなかった――。

それが偶然にも、怪談の会の一夜、向島の喜多の家茶荘で、鏡花氏と僕とは、久し振りに逢ったのであった。僕が何よりも<ruby><rb>先</rb><rt>ま</rt></ruby>ず泉氏に向って「今井の娘」の事を尋ねた心持も、実にこうした過去の事実や関係があるからであった。

○

Ｋ君――怪談会は夜中の十二時頃から、茶荘の二階で賑かに開かれた。<ruby><rb>喜多村</rb><rt>きたむら</rt></ruby>君の開会の挨拶に<ruby><rb>次</rb><rt>つい</rt></ruby>で、<ruby><rb>典山</rb><rt>てんざん</rt></ruby>の<ruby><rb>小夜衣草紙</rb><rt>さよぎぬぞうし</rt></ruby>や、福島清君、<ruby><rb>伊勢虎</rb><rt>いせとら</rt></ruby>君、<ruby><rb>伊藤晴雨</rb><rt>いとうせいう</rt></ruby>君、<ruby><rb>鹿塩秋菊</rb><rt>かしおしゅうぎく</rt></ruby>君など、数々の怪談が、次から次へと人々を喜ばせた。

鏡花氏は熱い<ruby><rb>磐若湯</rb><rt>はんにゃとう</rt></ruby>を飲んで、少し昂奮しておられたが、<ruby><rb>矢張</rb><rt>やは</rt></ruby>り熱心な怪談の聴者の一人であった。新俳優の某が、物凄い色懺悔をして、一座が少し緊張した時、僕は鏡花氏の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>へ寄って、低い声で言葉をかけた。

「……でその今井の娘ですが、その後何うしましたでしょう」

「いや、何うも気の毒なこってしてね、ＳとＭと二人の<ruby><rb>妹</rb><rt>いもと</rt></ruby>を連れて上京したんですが、Ｓの方は左右の肺とも、<ruby><rb>空洞</rb><rt>うつろ</rt></ruby>になっていたそうで、コロリと死でしまいましたよ……」

「えっ、あの縮れッ毛の可愛い女の子が…………」

「そうです。妹のＭ子は、四月に私の宅から、番町学校へ上げましたが、この子がまた悪くてね、四五日経つとＳ子の後を追って亡くなったんです」

「ま、何と云う事なんでしょう。私は端書を貰ったきりで、訪ねても来ませんし、訪ねても行きませんでしたが、そうですか、とうとう結核菌のために、一家全滅してしまったのですね…………」

「姉娘が一人だけ、漸く生き残っているのです。妹二人の小さい骨箱を抱いて、愁然として国へ帰りましたよ。妹二人に先立れるために、わざわざ作州の山中から出て来はしなかったと云ってね、可愛相に、<ruby><rb>怜悧</rb><rt>れいり</rt></ruby>な姉娘も取乱して泣いていましたっけ…………」

Ｋ君――泣くに泣かれぬ話とは、こうした事を云うのではあるまいか。怪談会を背景として、泉鏡花氏の口から、こうした新事実を聴いた僕は、余りに身近な、余りに生々しい現実の哀話に、何とも形容し難い重々しい心持に落ちた。――

<ruby><rb>入代</rb><rt>いりかわ</rt></ruby>り<ruby><rb>立代</rb><rt>たちかわ</rt></ruby>り、いろんな人が、いろんな怪談を聴かしてくれたけれど、僕にとっては、これ以上の怪談、これ以上の物凄い話、これ以上の悲しい、痛ましい、哀れな話はなかった。すべての者、皆<ruby><rb>逝</rb><rt>ゆ</rt></ruby>く――残れる者も<ruby><rb>亦</rb><rt>また</rt></ruby>逝く――。これが人生であろうけれど、それにしても、今井一家のみを<ruby><rb>虐</rb><rt>しいた</rt></ruby>げるというのは、何という陰惨な事実であろう…………。

この八月十四五日頃には、故郷から石田が上京すると云って来た。僕は石田に逢った上で、更に「今井一家の死滅」に就き、その後の詳しい径路を<ruby><rb>尽</rb><rt>つく</rt></ruby>そうと思っている。

Ｋ君――今はただ以上の事実を、君に<ruby><rb>宛</rb><rt>あて</rt></ruby>て報告するに<ruby><rb>止</rb><rt>とど</rt></ruby>めておこう。

（松崎天民『四十男の悩み』一九二八［昭和三］年、有宏社、所収）