徳川時代の司法権は各藩がもっている。――したがって刑法にも、藩ごとの<ruby><rb>掟</rb><rt>おきて</rt></ruby>がある。だが、死刑だけは、幕府のゆるしがないと執行できなかった。その死刑にも階級があった。<ruby><rb>会津</rb><rt>あいづ</rt></ruby>藩の掟でみると、いちばん軽い死刑は「<ruby><rb>牢内打首</rb><rt>ろうないうちくび</rt></ruby>」とよばれた。牢内の刑場で首を斬る。庶民には見せないのである。エリザベス朝のイギリスでも、ロンドン塔の中庭で首を斬られるのは、死罪にたいする軽い扱いであった。ロンドン塔の死罪で一ばん軽いのは絞殺であったが、徳川時代には、絞刑はない。そのかわり一刀で、ばさりと斬る。ロンドン塔の打首は<ruby><rb>斧</rb><rt>おの</rt></ruby>でするのである。エリザベス女王の寵臣エセックス伯爵が彼女自身の判決で処刑されたとき、<ruby><rb>発止</rb><rt>はっし</rt></ruby>と打ちおろされた首斬人の斧は、三度めにようやく首をきり落すことができたとつたえられる。

「牢内打首」より一段重い死刑は、牢内打首と同じ段取りで打った首だけをさらに<ruby><rb>梟首</rb><rt>きょうしゅ</rt></ruby>するもので、「<ruby><rb>獄門</rb><rt>ごくもん</rt></ruby>」とよばれるのがそれであった。多くの藩では竹三本を三股にむすんで、その股に首をはさんだものだが、会津藩では五寸角ほどの材木を高さ六尺ほどに二本建て、そのうえに三尺ほどの横木に鉄<ruby><rb>釘</rb><rt>くぎ</rt></ruby>をうったのに首をさして<ruby><rb>曝</rb><rt>さら</rt></ruby>した。この獄門よりもひとつ重いのが「成敗」であった。

成敗は牢内仕置場で執行される死刑の最も重いもので、刑場には三角形の「<ruby><rb>土壇</rb><rt>どだん</rt></ruby>」を築く。罪人を裸にして右<ruby><rb>腋</rb><rt>わき</rt></ruby>を土壇に当て、右手は土壇に立てられた竹に繩でしばりつけ、左手は助手がひっぱっている。そして正面から、罪人の左肩から右乳へかけて斜に、「<ruby><rb>袈裟切</rb><rt>けさぎ</rt></ruby>り」をする。これがすむと別の土壇に据えて首を<ruby><rb>刎</rb><rt>は</rt></ruby>ねる。ついでその首を土壇に埋め、額だけ露出させ、二人の刑手が板の両端をもって首の頭上を抑えている。その露出した額を槍で三カ所突いて、首を洗って獄門にかける。成敗か単なる獄門かは、額の槍きずでわかるのである。

成敗はそれだけではおしまいにならない。はじめ袈裟切りにし、ついで首を刎ねたのち、首のない胴が一つに縫い合わされて、こんどは改めて、はじめ袈裟切りにした下方の部分、腋下から斬る。これを「脇毛」とも「一の胴」ともいう。ついで、また縫い合わせたうえでさらにその下方を斬る。一の胴、二の胴、三の胴と縫い合わせてはつづけて、四の胴は「<ruby><rb>細骨</rb><rt>ほそぼね</rt></ruby>」、五度めはその下の腰骨の堅牢なところでこれを「もろぐるま」（両車）ととなえた。この一の胴以下は処刑というよりはためし斬りなのであって、それに用いるための自慢の刀剣が、あらかじめ領主からも藩士からも出されており、どの刀でどの胴をためすかは、くじできめた。斬り手はちゃんと定まっていて「すえものし」（居物師）といい壇術家ともいって、三家の師範がありおのおの門弟があった。もろぐるまが終るとまた縫い合わせて首のないまま直立させ、背骨を切り割る。これを「<ruby><rb>提燈</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>」といって、それで成敗はおわるのである。

この成敗刑にも軽重があった。軽いのは裁判廷たる公事所（くじしょ）からただちに刑場にひかれてゆくが、重いのは馬にのせ罪状をしるした板をもち、城下町の大通りを定めどおりの順路で「ひきさらし」にして刑場に送る。この「ひきさらし」は<ruby><rb>磔刑</rb><rt>たっけい</rt></ruby>のときもかならずする。

はりつけは、会津藩でゆるされていた最高の刑罰で、死罪のうちこれと火あぶりだけが、公衆の面前でおこなわれる。

エリザベス朝時代にもひきさらしはおこなわれた。エセックス事件のエピローグとなったダニエルは終身入牢であったが、その判決文には「右ダニエルの上述の犯罪にたいする懲罰は、これを単に公衆の<ruby><rb>耳目</rb><rt>じもく</rt></ruby>に供うるにとどめず、またもってしかと今後のみせしめとなすを要す。この趣旨により当法廷は、上述犯罪の<ruby><rb>廉</rb><rt>かど</rt></ruby>をもって、右ダニエルを<ruby><rb>首手枷</rb><rt>くびてかせ</rt></ruby>に掛け、その耳を枷に釘付けとし、その額には左の文言を認めたる紙片を貼布すべきことを<ruby><rb>茲</rb><rt>ここ</rt></ruby>に宣告し、命令するものなり。――額に貼布する文言に<ruby><rb>曰</rb><rt>いわ</rt></ruby>く、私書偽造ならびに醜悪なる恐喝、および数々の卑劣なる犯行によりて罰せらるる者也」。

エセックス事件のずっとまえ、まだエリザベス女王の五十代の盛時に、スペインに通謀したという廉でエリザベス女王の侍医だったロオペ博士は、二人の「共犯者」とともに最高級の死刑に処せられているが、同じくロンドン市中をひきさらしのうえで、ロンドン塔でなくチパーンの刑場で、公衆にとりまかれて絞刑になる。ストレチーにしたがえば、一五九四年六月、三人の男は<ruby><rb>橇</rb><rt>そり</rt></ruby>につながれて、ホルボオンの博士邸の前を通ってチパーンの刑場に<ruby><rb>曳</rb><rt>ひ</rt></ruby>かれてゆく。この見世物を楽しもうとして、数万の群集が<ruby><rb>馳</rb><rt>は</rt></ruby>せ<ruby><rb>集</rb><rt>つど</rt></ruby>う。絞首台の上に立ちながら、博士は臨終の演説を試みようとしたが無駄である。老医師は首吊り柱に吊しあげられ、そして当時のならわしで、まだ生きながらに切って落される。それから時好にかなった刑罰がつづく――去勢、内臓<ruby><rb>抉出</rb><rt>けっしゅつ</rt></ruby>、四つ裂き――それが済むと、今度はフェライラが<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>く番となり、つぎがチノコで、かれの耳は同輩の叫喚と呻き声で<ruby><rb>溢</rb><rt>あふ</rt></ruby>れ、かれの目はかれらのもがきや血潮であかくなっている。かれは――吊された綱があまり早く切られたので地上において息をふきかえし、すっくと立ち上るや、やけになって絞首役人におどりかかる。群集は興奮し歓声をあげて警備を突破してチノコと役人の組打ちのぐるりをとりかこむ。そして、そのなかから飛び出した二人の壮漢の加勢でやっとチノコを組み敷いた役人が、こんどはしっかりと縛りつけて、そして――去勢、臓腑の抉出、四つ裂きである。

会津藩の磔刑は十字ではなく干字の柱である。ひきさらしの道中、このはりつけ柱と穂先二尺あまりの大身の槍六本がつきそってゆく。刑場では、十字架の上に柱の出たところがあってそれにもとどりを繩で結びつけ、着衣の袖を断ち切って両手に巻きつけ、胸腹にも着物のはしばしを集めて三カ所に繩でくくって胸腹をあけておく。上の横木には両手を、下の横木には両足を大字に踏ませてくくりつけ、そのうえで柱を土中にたてる。六人の刑手がそろいの大身の槍をもって三人ずつ左右に立ちわかれ、その槍を合わせて御槍参るぞと一声かけると同時に槍で罪人の胸をとんと打ち、左右にひきわかれ、進みながらたがいに三槍ずつ合わせて六槍、いずれも脇腹から肩上に穂先が出るほど突きあげ、さいごに一人の槍でのどぼとけをかきとって、終るのである。むかしはのどぼとけをかくことはなかったが、あるとき六本の槍をつけられてもまだ死ななかった例があって、それ以後のどをかきとることがはじまったといわれる。磔刑される罪人のことを、会津では俗に<ruby><rb>無槍藤兵衛</rb><rt>むそうとうべえ</rt></ruby>といった。

この磔刑にも軽重があった。軽いのはさだめの刑場でおこなわれる。重いのはその罪人の居宅を没収してとりはらい、その屋敷あとで刑に処する。それを「ところけい」と呼んだ。いま筆者が参照している随筆『しぐれ<ruby><rb>草紙</rb><rt>ぞうし</rt></ruby>』の著者、会津藩士小川<ruby><rb>渉</rb><rt>わたる</rt></ruby>は天保十四年生れで、文久から明治<ruby><rb>戊辰</rb><rt>ぼしん</rt></ruby>にかけて同藩現役の中堅であった。「ところ刑は」とかれは書いている。「予が覚えし頃より行はれしことなかりしが、その形にて刑場にて行はれしことあり、これは初めひきさらしの時自宅の前に連れゆき、数分時間馬を立て、その後刑場へつれて行きしなり」。

ついでに火刑のことを書いておこう。「ひあぶり」と「はりつけ」とのあいだには罪の軽重があるのではなく、罪の種別があったので、ひあぶりはもっぱら放火犯人にだけ課せられる慣わしであった。一本の鉄柱に鉄輪が二つつけてある。上の輪に両手、下の輪に両足を、鎖で結びつけ、四方に柴を立てて火をつける。火勢によっては煙で絶命することがあり、いつまでも死なず、さかんな火煙につつまれて、鉄輪を抱きながら苦しむのがあった。はじめの鉄柱にしばりつけるまえに、口に鉄管をふくませて舌を噛むことを<ruby><rb>拒</rb><rt>ふせ</rt></ruby>いだという。火刑の火はその当日、城下若松桂林寺町早山かもんのすけという御用鋳師の家からもってくるのが恒例で、磔柱や獄門は、若松市中の<ruby><rb>下駄</rb><rt>げた</rt></ruby>屋がまわりもちで作った。

はりつけ以上の極刑、たとえば<ruby><rb>鋸刑</rb><rt>のこぎりけい</rt></ruby>などは、会津藩ではそれをおこなう権限がなかった。磔刑そのものも、尾紀水御三家をのぞいては、そのつど幕府の<ruby><rb>允許</rb><rt>いんきょ</rt></ruby>を得たうえで、はじめて行い得たのである。しかるに会津藩だけは、御三家以外で幕府の允許なくして磔刑をおこない、あとから届け出ればよいという特権をもっていた。

――民主主義的ヒューマニズムの見地からみていかにもむごたらしく非人間的な、この種の封建性の側面を筆にすることは、どちらかといえばわたしはきらいなほうである。ことに、<ruby><rb>東条</rb><rt>とうじょう</rt></ruby>裁判がただ判決をまつばかりとなっているこんにち、こんなはなしをもちだすことは趣味としてもほめたものではないであろう。にもかかわらずあえてこの筆をとるというのもじつはつぎのことを知ったがためにほかならない。

そのことは会津藩がどうしてそんな特権を獲得したかという問題と関連している。この特権は<ruby><rb>松平</rb><rt>まつだいら</rt></ruby>家が会津若松城主となって移ってくるまえの、<ruby><rb>出羽最上</rb><rt>でわもがみ</rt></ruby>城主時代の特殊の勲功に基づいていたのであることを、『しぐれ草紙』は下のように書くことで、その第一巻二十七節「刑罰の施行」の筆を<ruby><rb>擱</rb><rt>お</rt></ruby>いていたのである――

「その初めは<ruby><rb>土津</rb><rt>つちづ</rt></ruby>公<ruby><rb>羽州</rb><rt>うしゅう</rt></ruby>最上にあらせられし時幕領白岩の農民<ruby><rb>強訴</rb><rt>ごうそ</rt></ruby>に及びたる時、三十六人の<ruby><rb>巨擘</rb><rt>きょはく</rt></ruby>を捕へて、糾弾もせず一時に磔刑に行はれ、それを鎮静し幕府へ届けられしが、後世恒例家格となりしものとなりとぞ。」

ことは、封建制の本質に、ふかく根ざしていたのである。