## <ruby><rb>黒馬旅館</rb><rt>くろうまりょかん</rt></ruby>の<ruby><rb>客</rb><rt>きゃく</rt></ruby>

## <ruby><rb>影</rb><rt>かげ</rt></ruby>のような男

<ruby><rb>怪物</rb><rt>かいぶつ</rt></ruby>！

そうだ、怪物にちがいない。

<ruby><rb>怪物</rb><rt>かいぶつ</rt></ruby>でなくて、なんだろう？　<ruby><rb>科学</rb><rt>かがく</rt></ruby>が<ruby><rb>発達</rb><rt>はったつ</rt></ruby>した、いまの世の中に、<ruby><rb>東洋</rb><rt>とうよう</rt></ruby>の<ruby><rb>忍術使</rb><rt>にんじゅつつか</rt></ruby>いじゃあるまいし、<ruby><rb>姿</rb><rt>すがた</rt></ruby>がみえない<ruby><rb>人間</rb><rt>にんげん</rt></ruby>がいるなんて、これは、たしかに<ruby><rb>変</rb><rt>へん</rt></ruby>だ。<ruby><rb>奇怪</rb><rt>きかい</rt></ruby>だ！

しかし、それは、ほんとうの話だった。<ruby><rb>怪物</rb><rt>かいぶつ</rt></ruby>ははじめに、ものさびしい<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>にあらわれた。それからまもなく、あちこちの町にも<ruby><rb>出没</rb><rt>しゅつぼつ</rt></ruby>するようになったのである。たいへんな<ruby><rb>騒</rb><rt>さわ</rt></ruby>ぎになったことは、いうまでもない。

その<ruby><rb>怪物</rb><rt>かいぶつ</rt></ruby>の<ruby><rb>姿</rb><rt>すがた</rt></ruby>は、まるっきり<ruby><rb>見</rb><rt>み</rt></ruby>えないのである。すきとおっていて、ガラス、いや<ruby><rb>空気</rb><rt>くうき</rt></ruby>のように<ruby><rb>透明</rb><rt>とうめい</rt></ruby>なのだ。<ruby><rb>諸君</rb><rt>しょくん</rt></ruby>は、そんなことがあるもんか――と、いうだろう。だが、待ちたまえ！

<ruby><rb>怪物</rb><rt>かいぶつ</rt></ruby>が、はじめて<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>のその村にやってきたのは、たしか二月もおわりに近い、ある<ruby><rb>寒</rb><rt>さむ</rt></ruby>い朝のことだった。<ruby><rb>身</rb><rt>み</rt></ruby>をきるような<ruby><rb>風</rb><rt>かぜ</rt></ruby>がふいて、朝から<ruby><rb>粉雪</rb><rt>こなゆき</rt></ruby>がちらちら<ruby><rb>舞</rb><rt>ま</rt></ruby>っていた。こんな寒い日は、土地のものだって外を出あるいたりはしない。

その男は、<ruby><rb>丘</rb><rt>おか</rt></ruby>をこえて、ブランブルハースト<ruby><rb>駅</rb><rt>えき</rt></ruby>から<ruby><rb>歩</rb><rt>ある</rt></ruby>いてきたとみえ、あつい<ruby><rb>手袋</rb><rt>てぶくろ</rt></ruby>をはめた手に、黒いちいさな<ruby><rb>皮</rb><rt>かわ</rt></ruby>かばんをさげていた。からだじゅうを、オーバーとえりまきでしっかり<ruby><rb>包</rb><rt>つつ</rt></ruby>んで、ぼうしの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つば</span>をぐっとまぶかにおろし、<ruby><rb>空気</rb><rt>くうき</rt></ruby>にふれているところといったら、<ruby><rb>寒</rb><rt>さむ</rt></ruby>さで赤くなっている<ruby><rb>鼻</rb><rt>はな</rt></ruby>さきだけであった。なんともいいようのない、ぞっとするようなふんいきを、あたりにただよわせながら、<ruby><rb>黒馬旅館</rb><rt>くろうまりょかん</rt></ruby>のドアをおしひらいてはいってきたのである。

「こう<ruby><rb>寒</rb><rt>さむ</rt></ruby>くちゃあやりきれない。火だ！　さっそくへやに、火をおこしてもらいたいな」

<ruby><rb>酒場</rb><rt>さかば</rt></ruby>へ、ずかずかとはいってくるなり、ぶるるんと、からだをゆさぶって<ruby><rb>雪</rb><rt>ゆき</rt></ruby>をはらいおとし、黒馬旅館の女あるじに向かって、そう言った。

いまどき、めずらしい<ruby><rb>客</rb><rt>きゃく</rt></ruby>である。こんな冬の<ruby><rb>季節</rb><rt>きせつ</rt></ruby>に、しかもこんなへんぴな土地に、<ruby><rb>旅</rb><rt>たび</rt></ruby>の<ruby><rb>商人</rb><rt>しょうにん</rt></ruby>だってめったにきたことはないのだ。おかみさんは、びっくりもし、なげだされた二枚の<ruby><rb>金貨</rb><rt>きんか</rt></ruby>をみると、すっかりよろこんでしまった。

「とうぶん、とめてもらうから」

<ruby><rb>客</rb><rt>きゃく</rt></ruby>をへやに<ruby><rb>案内</rb><rt>あんない</rt></ruby>すると、<ruby><rb>暖炉</rb><rt>だんろ</rt></ruby>に火をもやしてたきぎをくべ、<ruby><rb>台所</rb><rt>だいどころ</rt></ruby>でお手伝いにてつだわせて、おかみさんはせっせと<ruby><rb>食事</rb><rt>しょくじ</rt></ruby>のしたくをした。

スープ<ruby><rb>皿</rb><rt>さら</rt></ruby>、コップなどを<ruby><rb>客室</rb><rt>きゃくしつ</rt></ruby>にはこんで、<ruby><rb>食卓</rb><rt>しょくたく</rt></ruby>のよういをととのえた。<ruby><rb>暖炉</rb><rt>だんろ</rt></ruby>の火はさかんにもえて、ぱちぱちと音をたてている。

ところが、火にあたっている<ruby><rb>客</rb><rt>きゃく</rt></ruby>はこちらに<ruby><rb>背</rb><rt>せ</rt></ruby>をむけたまま、ぼうしもオーバーもぬごうとはしないで、つっ立っている。<ruby><rb>中庭</rb><rt>なかにわ</rt></ruby>にふりつもる雪をみつめながら、なにか考えているようだった。オーバーの雪がとけて、しずくが<ruby><rb>床</rb><rt>ゆか</rt></ruby>のじゅうたんの上にしたたり落ちていた。

「もし、あのう、おぼうしとオーバーを、おぬぎになりましたら？　<ruby><rb>台所</rb><rt>だいどころ</rt></ruby>でかわかしてまいりますわ」

と、おかみさんが声をかけた。

「いいんだ」

ふりむきもしないで、客が、ぶっきらぼうに言った。おかみさんはあわてて、残りの皿をとりに台所へもどった。

<ruby><rb>料理</rb><rt>りょうり</rt></ruby>をはこんで、もういちど<ruby><rb>客室</rb><rt>きゃくしつ</rt></ruby>にきてみると、客はまだ、さっきとおなじ<ruby><rb>姿勢</rb><rt>しせい</rt></ruby>で<ruby><rb>窓</rb><rt>まど</rt></ruby>のほうをむいていた。

「お<ruby><rb>食事</rb><rt>しょくじ</rt></ruby>のよういができました」

「ありがとう」

へんじはしたが、うごこうともしなかった。おかみさんがでていくと、男は、さっと<ruby><rb>食卓</rb><rt>しょくたく</rt></ruby>に近づいた。そして、スープをせっかちにすすり、パンやベーコンをがつがつと食べはじめた。

つぎに、おかみさんがハム・エッグを<ruby><rb>皿</rb><rt>さら</rt></ruby>にのせて、<ruby><rb>軽</rb><rt>かる</rt></ruby>くドアをたたいて<ruby><rb>客室</rb><rt>きゃくしつ</rt></ruby>にはいっていくと、とたんに、男はナプキンを<ruby><rb>食卓</rb><rt>しょくたく</rt></ruby>の下になげ、それをひろうようなかっこうをして、身をかがめて口におしあてた。

（おやっ？）

と、おかみさんは思った。

ぼうしとオーバーはやっとぬいで、<ruby><rb>暖炉</rb><rt>だんろ</rt></ruby>のまえのいすにおいてある。長ぐつは、<ruby><rb>炉</rb><rt>ろ</rt></ruby>のかこいの<ruby><rb>金具</rb><rt>かなぐ</rt></ruby>のうえにおいてあった。

「これはあたしが、かわかしてまいりましょう」

金具がさびちゃあこまる、とおもって、長ぐつを取りあげながら、おかみさんが言った。

「ぼうしは、いじらんでおいてくれ」

<ruby><rb>陰</rb><rt>いん</rt></ruby>にこもったふくみ声で、<ruby><rb>客</rb><rt>きゃく</rt></ruby>はぴしりと言った。おかみさんはおどろいて、客のほうを見た。客はかの女をにらんでいる。

おかみさんは、ぎくっとして、その場にたちすくんでしまった。なんという顔をしているのか……。男の口から下はナプキンにかくれて見えないが、青いめがねをかけたその顔は、頭から顔じゅうをほうたいでぐるぐる<ruby><rb>巻</rb><rt>ま</rt></ruby>き、ほうたいの白い中から<ruby><rb>鼻</rb><rt>はな</rt></ruby>だけが赤くのぞいていて、そのぶきみさは、<ruby><rb>全身</rb><rt>ぜんしん</rt></ruby>の毛がそうけ立つほどだった。

「あっ」

と、あやうく声をたてるところだった。男は茶色のびろうどの服のえりを立てて、顔をうずめている。

「いいかい、そのぼうしにはさわらんでくれ！」

もういちど、男が、こんどははっきりと言った。

「もうしわけありません」

おかみさんはぼうしだけ残して、オーバーなどをかかえこむと、にげるように<ruby><rb>客室</rb><rt>きゃくしつ</rt></ruby>をとびだして<ruby><rb>台所</rb><rt>だいどころ</rt></ruby>にもどった。

ひとりきりになると、男は<ruby><rb>窓</rb><rt>まど</rt></ruby>ぎわにいって、まだ<ruby><rb>昼間</rb><rt>ひるま</rt></ruby>だというのに、カーテンをひいた。へやのなかが、きゅうに、うす暗くなった。

## なに<ruby><rb>者</rb><rt>もの</rt></ruby>だろう？

男は、じつによく食べた。

カーテンをひいて、へやがうす暗くなると、それで<ruby><rb>安心</rb><rt>あんしん</rt></ruby>したのか、<ruby><rb>食卓</rb><rt>しょくたく</rt></ruby>につくと、まるで三日も四日もたべずにいたかのように、<ruby><rb>皿</rb><rt>さら</rt></ruby>のなかの物をかたっぱしからたいらげていった。

<ruby><rb>黒馬旅館</rb><rt>くろうまりょかん</rt></ruby>のおかみさんは、なんとも気もちのわるい<ruby><rb>客</rb><rt>きゃく</rt></ruby>をとめたもんだと、考えこんでいたが、この男がまさか<ruby><rb>怪物</rb><rt>かいぶつ</rt></ruby>であろうとは気がつかない。ぶっきらぼうで、ぶあいそうな客だとはおもうが、なにしろ<ruby><rb>先払</rb><rt>さきばら</rt></ruby>いで<ruby><rb>宿料</rb><rt>やどりょう</rt></ruby>に二枚の<ruby><rb>金貨</rb><rt>きんか</rt></ruby>をわたしている。わるい気もちはしなかった。

（あの人はかわいそうな人なんだよ、きっと！　ひどいけがをしてるらしいよ。どこで、どんなけがをしたか<ruby><rb>知</rb><rt>し</rt></ruby>らないが、かわいそうに……。だけど、ほうたいだらけのまっ<ruby><rb>白</rb><rt>しろ</rt></ruby>なあの<ruby><rb>顔</rb><rt>かお</rt></ruby>には、ぞっとするわ。まるで<ruby><rb>化</rb><rt>ば</rt></ruby>けものみたいだもの）

おかみさんは<ruby><rb>台所</rb><rt>だいどころ</rt></ruby>の<ruby><rb>暖炉</rb><rt>だんろ</rt></ruby>の火で、<ruby><rb>客</rb><rt>きゃく</rt></ruby>のオーバーや長ぐつをかわかしながら、そんなことを考えていた。

（ナプキンで口をかくしているところをみると、口のまわりに、大けがをしたんだよ。ぞっとしたりしては、気のどくだわ）

しばらくして、おかみさんが<ruby><rb>食事</rb><rt>しょくじ</rt></ruby>のあと片づけに<ruby><rb>客室</rb><rt>きゃくしつ</rt></ruby>にはいっていくと、客はパイプでたばこをくゆらしていた。顔の<ruby><rb>下半分</rb><rt>したはんぶん</rt></ruby>にはマフラーをまきつけて、パイプを口にさしこむのに、マフラーをゆるめようとはしないで、口もとをかくすようにしてパイプを<ruby><rb>吸</rb><rt>す</rt></ruby>っていた。

<ruby><rb>暖炉</rb><rt>だんろ</rt></ruby>の火が青めがねにうつって、<ruby><rb>赤々</rb><rt>あかあか</rt></ruby>とゆらいでいるが、どんな目をしてこちらを見ているか、とおもうと、やはり、ぶきみさが先に感じられてくるのだった。

めずらしく、客のほうからしゃべった。

「ブランブルハースト<ruby><rb>駅</rb><rt>えき</rt></ruby>に、<ruby><rb>荷物</rb><rt>にもつ</rt></ruby>をおいてきたんだが、どうやったら取りよせられるね？」

「おや、それはおこまりでしょう。さあ、この<ruby><rb>雪</rb><rt>ゆき</rt></ruby>では……それに、こんな<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>ですからね。たのむといって、すぐに、人手がいいあんばいにございませんわね」

男はほうたいだらけの頭で、うなずいていたが、

「こまるなあ。どうしても、きょうじゃあだめかね？」

と言った。

「きょうじゅうには、むりでございますよ」

「あすになるか？　なんとか早く、とどけさせる方法はないものかな？　<ruby><rb>馬車</rb><rt>ばしゃ</rt></ruby>ならいってこられそうなものだが……」

がっかりしたようすで、なおもつづけた。

おかみさんは、この雪ではとてもだめだろうと、客のようすを<ruby><rb>探</rb><rt>さぐ</rt></ruby>るようにながめながら、<ruby><rb>説明</rb><rt>せつめい</rt></ruby>した。

「それがむりなんですよ。このうら山には、とてもけわしい場所がありますんでね、<ruby><rb>馬車</rb><rt>ばしゃ</rt></ruby>なんか通れやしませんよ。<ruby><rb>去年</rb><rt>きょねん</rt></ruby>でしたか、<ruby><rb>馬車</rb><rt>ばしゃ</rt></ruby>がひっくりかえりましてね、お客さんと<ruby><rb>馬車屋</rb><rt>ばしゃや</rt></ruby>が<ruby><rb>死</rb><rt>し</rt></ruby>にました。とんだ<ruby><rb>災難</rb><rt>さいなん</rt></ruby>で、まあ、こんな日には、おやめになったほうがようござんすね」

「なるほど、災難って、そういったもんかね」

男はそれいじょう、たってたのもうとは言わなかった。

「マッチをとってくれんか」

パイプをマフラーのあいだから口にさしこんで、おかみさんからマッチをうけ取った。そしておかみさんに<ruby><rb>背</rb><rt>せ</rt></ruby>をむけると、<ruby><rb>窓</rb><rt>まど</rt></ruby>ぎわにいって、カーテンのすきまから<ruby><rb>中庭</rb><rt>なかにわ</rt></ruby>の<ruby><rb>雪</rb><rt>ゆき</rt></ruby>をながめたまま、ひとことも口をきこうとはしない。おかみさんは、はっとして、へやをでていった。

ふしぎな男は、夕がたまで、へやにとじこもっていた。

## <ruby><rb>怪物</rb><rt>かいぶつ</rt></ruby>の<ruby><rb>顔</rb><rt>かお</rt></ruby>

ふるびた<ruby><rb>時計</rb><rt>とけい</rt></ruby>が四時をうった。あたりはいつのまにか、うす<ruby><rb>暗</rb><rt>ぐら</rt></ruby>くなっていた。

<ruby><rb>宿</rb><rt>やど</rt></ruby>のおかみさんは、さっきから、もうなん度も<ruby><rb>時計</rb><rt>とけい</rt></ruby>をながめてはためらっていた。

（四時だわ、どうしてもあのお<ruby><rb>客</rb><rt>きゃく</rt></ruby>さまのところにいって、お茶のご用をきいてこなくては………だけど、どうしたのかしら、わたしはどうもあのお<ruby><rb>客</rb><rt>きゃく</rt></ruby>さまの前にゆくのが、気がすすまないんだけど……）

おかみさんは、また一、二分考えていたが、きゅうに<ruby><rb>勇気</rb><rt>ゆうき</rt></ruby>をふるい起こして、さっと立ちあがった。そのとき、いきおいよく戸をあけて、

「おお！　おかみさん、えらく<ruby><rb>降</rb><rt>ふ</rt></ruby>りだしたじゃねえか。いやになるねえ、いつまでも寒くて、この<ruby><rb>大雪</rb><rt>おおゆき</rt></ruby>じゃ、わしのぼろ<ruby><rb>靴</rb><rt>ぐつ</rt></ruby>で歩くのはこたえまさあね」

と、大声でいいながら、<ruby><rb>戸口</rb><rt>とぐち</rt></ruby>でぶるぶるっと雪をはらって、<ruby><rb>時計屋</rb><rt>とけいや</rt></ruby>のテッディ・ヘンフリイが<ruby><rb>寒</rb><rt>さむ</rt></ruby>そうにはいってきた。

外では、まだ<ruby><rb>雪</rb><rt>ゆき</rt></ruby>がやすみなく<ruby><rb>降</rb><rt>ふり</rt></ruby>りつづいている。

「ああ、テッディさん！　まったく、こう<ruby><rb>寒</rb><rt>さむ</rt></ruby>くてはやりきれないわね」

おかみさんは、こう言いながら、<ruby><rb>時計屋</rb><rt>とけいや</rt></ruby>が<ruby><rb>片手</rb><rt>かたて</rt></ruby>にぶらぶらとぶらさげている<ruby><rb>修理道具</rb><rt>しゅうりどうぐ</rt></ruby>のはいったふくろを<ruby><rb>見</rb><rt>み</rt></ruby>た、とたん、いいことを<ruby><rb>思</rb><rt>おも</rt></ruby>いついた。それは、

（テッディといっしょにあの<ruby><rb>客</rb><rt>きゃく</rt></ruby>のところへゆく）

ということだった。そこで、

「テッディさん、いいところへきてくださったわ、ちょうど、お<ruby><rb>客部屋</rb><rt>きゃくべや</rt></ruby>の<ruby><rb>時計</rb><rt>とけい</rt></ruby>を見てもらいたいと思っていたのよ。あのへやの<ruby><rb>時計</rb><rt>とけい</rt></ruby>ときたら、動くのは、ちゃんとまちがいなく動くし、<ruby><rb>時間</rb><rt>じかん</rt></ruby>だって、<ruby><rb>元気</rb><rt>げんき</rt></ruby>よく打つんだけど、<ruby><rb>針</rb><rt>はり</rt></ruby>だけがいつも六時を指したきりなのよ。どうしたのかしら？」

「へんだねえ、ちょっくら、見てみましょう」

テッディは<ruby><rb>首</rb><rt>くび</rt></ruby>をかしげながら言った。おかみさんは、かれをつれて、れいのふしぎな<ruby><rb>客</rb><rt>きゃく</rt></ruby>の<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>のドアをかるくたたいた。

へんじはなかった。が、おかみさんはさっさとドアをひらいて、部屋へはいりこんだ。

「<ruby><rb>眠</rb><rt>ねむ</rt></ruby>っておいでらしいわ」

おかみさんは、ひとり言のようにひくくつぶやいた。

男は、<ruby><rb>暖炉</rb><rt>だんろ</rt></ruby>の前のひじかけいすに、ふかぶかと<ruby><rb>体</rb><rt>からだ</rt></ruby>をうずめて、ほうたいだらけの頭をかしげ、うとうとと、いねむりをしているらしかった。

<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>のついていない<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>は<ruby><rb>暗</rb><rt>くら</rt></ruby>かった。ただ<ruby><rb>赤々</rb><rt>あかあか</rt></ruby>とさかんに<ruby><rb>燃</rb><rt>も</rt></ruby>えている<ruby><rb>暖炉</rb><rt>だんろ</rt></ruby>の火が、あたりをぼんやりと照らしだしていた。

男は、うつぶせになったまま、<ruby><rb>身動</rb><rt>みうご</rt></ruby>きもしない。

「まあ、なんて<ruby><rb>暗</rb><rt>くら</rt></ruby>いんだろう。<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>をつけないから、なんにも見えやしない」

いままで、明るい<ruby><rb>台所</rb><rt>だいどころ</rt></ruby>にいたおかみさんには、なにもかもが、ぼんやりと見えた。

「もし、だんなさま」

声をかけて、ひと足、男のほうに近づいた。と、つぎの<ruby><rb>瞬間</rb><rt>しゅんかん</rt></ruby>、

「あっ！」

おかみさんは、ぶっ<ruby><rb>倒</rb><rt>たお</rt></ruby>れるかと思うほどおどろいてしまった。ひょいと見た男の顔が、なんと<ruby><rb>怪物</rb><rt>かいぶつ</rt></ruby>そのままの<ruby><rb>不気味</rb><rt>ぶきみ</rt></ruby>な顔をしているではないか！

<ruby><rb>暖炉</rb><rt>だんろ</rt></ruby>の火をうつして、赤く光る<ruby><rb>色眼鏡</rb><rt>いろめがね</rt></ruby>、顔いちめんにぐるぐるまきにしたほうたい、そしてなによりおそろしく思えたのは、ぽっかりと深いあなのように開いている大きな口だった。まるで顔の<ruby><rb>下半分</rb><rt>したはんぶん</rt></ruby>が、すっかり口にかわったのではないかと思うほどだった。

「う、うーん」

おかみさんのびっくりした声に目をさましたのか、男は、ゆらりと<ruby><rb>体</rb><rt>からだ</rt></ruby>を動かし、<ruby><rb>眠</rb><rt>ねむ</rt></ruby>そうにいすから立ちあがった。

「あっ」

男は、目の前にたまげた顔で立ちすくんでいるおかみさんを見ると、あわてて、<ruby><rb>襟巻</rb><rt>えりまき</rt></ruby>のはしで口のあたりをかくそうとあせった。

その間に、おかみさんは、やっとの思いで、気をとりなおし、

「だんなさま、<ruby><rb>時計屋</rb><rt>とけいや</rt></ruby>が時計をなおしにまいりましたので、ちょっと……」

「時計をなおすのかい？　いいだろう――」

男は、とりつくろったようすで、<ruby><rb>重々</rb><rt>おもおも</rt></ruby>しくこたえた。

「では、テッディさん、ちょっと、待っててください。すぐランプをとってきますからね」

おかみさんは、<ruby><rb>逃</rb><rt>に</rt></ruby>げるようにへやからでてきた。時計屋も、<ruby><rb>怪</rb><rt>あや</rt></ruby>しげな<ruby><rb>客</rb><rt>きゃく</rt></ruby>の<ruby><rb>姿</rb><rt>すがた</rt></ruby>を見て、どぎもをぬかれ、<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>にはいらずに、おかみさんが引っかえしてくるのをじっと<ruby><rb>待</rb><rt>ま</rt></ruby>っていた。

「お待ちどおさま！」

と言って、おかみさんは、ランプを<ruby><rb>片手</rb><rt>かたて</rt></ruby>にもち、<ruby><rb>時計屋</rb><rt>とけいや</rt></ruby>をうながすような目をして、もういちど部屋にはいっていった。時計屋があとにつづいた。

男は、部屋のまん中につっ立っていた。時計屋は、おずおずと、

「おじゃまではございませんか？　お<ruby><rb>客</rb><rt>きゃく</rt></ruby>さま」

と言うと、男はちらりと<ruby><rb>色眼鏡</rb><rt>いろめがね</rt></ruby>をきらめかして、

「いや、かまわんとも」

と、ごうまんな<ruby><rb>態度</rb><rt>たいど</rt></ruby>でこたえた。<ruby><rb>時計屋</rb><rt>とけいや</rt></ruby>は、なにやら、ぞっと<ruby><rb>背</rb><rt>せ</rt></ruby>すじが<ruby><rb>冷</rb><rt>つめ</rt></ruby>たくなるような、いやな感じをうけた。できることなら、時計の<ruby><rb>修理</rb><rt>しゅうり</rt></ruby>などはほうりだして、この<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>からでていきたくなった。

と、男は、こんどはおかみさんにむかい、

「おかみさん！　ぼくのほかにはだれも、この<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>にはいらせない<ruby><rb>約束</rb><rt>やくそく</rt></ruby>だったね」

と、つめたい声で<ruby><rb>不満</rb><rt>ふまん</rt></ruby>そうに言った。おかみさんは、たじたじと<ruby><rb>後</rb><rt>うし</rt></ruby>ろにさがり、

「ですけど、<ruby><rb>時計</rb><rt>とけい</rt></ruby>だけは――」

なおしておかなくては、あなたがおこまりになるでしょうと、言うつもりだったが、おそろしさのために、そのあとの声がつづかなかった。

「むろん、<ruby><rb>時計</rb><rt>とけい</rt></ruby>は<ruby><rb>正確</rb><rt>せいかく</rt></ruby>でなくてはいけないよ。だが、ぼくは、この<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>にいつでもひとりで<ruby><rb>静</rb><rt>しず</rt></ruby>かにいたいのだ。だれもはいってこないように気をつけてもらいたいね」

ぶきみな男にどなりつけられると、<ruby><rb>時計屋</rb><rt>とけいや</rt></ruby>は<ruby><rb>逃</rb><rt>に</rt></ruby>げだしたくなった。もじもじ、手足を動かした。それをみると、男は、すぐに、

「だけど、<ruby><rb>時計</rb><rt>とけい</rt></ruby>をなおしてくれるのに<ruby><rb>文句</rb><rt>もんく</rt></ruby>をいうつもりはないよ。けっこうだよ。なおしてもらおう。きみ、さっそく、やってくれたまえ」

<ruby><rb>時計屋</rb><rt>とけいや</rt></ruby>のヘンフリイは、すくわれたように大いそぎで時計にとびつき、<ruby><rb>修理</rb><rt>しゅうり</rt></ruby>にかかった。

男は<ruby><rb>暖炉</rb><rt>だんろ</rt></ruby>をうしろにして、両手を<ruby><rb>背中</rb><rt>せなか</rt></ruby>でくみあわせ、また、おかみさんにむかって、

「おかみさん、時計がなおってからでいいから、お茶をいれてくれたまえ」

おかみさんは、

「ただいま、すぐ持ってまいりますわ」

と、いうより早く、出ていこうとした。男は、

「おっと、待ってくれたまえ、ブランブルハースト<ruby><rb>駅</rb><rt>えき</rt></ruby>にある、ぼくの<ruby><rb>荷物</rb><rt>にもつ</rt></ruby>をとりよせるようにたのんでくれたかね」

「<ruby><rb>配達屋</rb><rt>はいたつや</rt></ruby>にたのんでおきましたから、あすの朝早くとどきます」

「あすの朝……こん夜のうちに、とってくるわけにはゆかないかね」

「ええ、だめでございますよ」

おかみさんは、むかっ<ruby><rb>腹</rb><rt>ぱら</rt></ruby>をたてていた。と、みると男は、にわかにものやわらかいようすになり、

「じつはね、おかみさん。ぼくは<ruby><rb>科学者</rb><rt>かがくしゃ</rt></ruby>なんだよ。いままではこのひどい<ruby><rb>寒</rb><rt>さむ</rt></ruby>さがこたえて、<ruby><rb>気分</rb><rt>きぶん</rt></ruby>がすぐれなかったうえに、疲れきっていたので、なにをやる元気もでなかったが、ここで<ruby><rb>休</rb><rt>やす</rt></ruby>んでいるうちにやっと元気がでたんだよ。となると、もうじっとしていられないんだ。すぐにも<ruby><rb>実験</rb><rt>じっけん</rt></ruby>にとりかかりたくてね……これがぼくの<ruby><rb>性分</rb><rt>しょうぶん</rt></ruby>なんでね」

人のいいおかみさんは、これを聞くと、たちまち、この男を<ruby><rb>怪</rb><rt>あや</rt></ruby>しんだり、いやがったりしたことを<ruby><rb>後悔</rb><rt>こうかい</rt></ruby>して、

「さようでございましょうとも、で、<ruby><rb>駅</rb><rt>えき</rt></ruby>にございますお<ruby><rb>荷物</rb><rt>にもつ</rt></ruby>の中に、<ruby><rb>実験道具</rb><rt>じっけんどうぐ</rt></ruby>をおいれになっていらっしゃるのでございますか？」

「そうなんだ。<ruby><rb>全部</rb><rt>ぜんぶ</rt></ruby>はいっているんだ」

男は、おかみさんがじぶんを<ruby><rb>信用</rb><rt>しんよう</rt></ruby>しはじめたと見て、また話しつづけた。

「ぼくがこの<ruby><rb>片田舎</rb><rt>かたいなか</rt></ruby>のアイピング村へやってきたのは、だれにもじゃまされないで、思うように<ruby><rb>研究</rb><rt>けんきゅう</rt></ruby>をやりたいからなんだよ。<ruby><rb>実験</rb><rt>じっけん</rt></ruby>をやってる<ruby><rb>最中</rb><rt>さいちゅう</rt></ruby>にさまたげられると、たまらないからね。それに、ぼくは、ちょっとけがをしてね」

（やっぱりそうだったんだわ。この方は<ruby><rb>怪</rb><rt>あや</rt></ruby>しい人じゃなかったのよ。お気のどくに……ずいぶんひどいけがをなさったらしいわ）

おかみさんは、心のなかでそう思った。男は、よわよわしい<ruby><rb>調子</rb><rt>ちょうし</rt></ruby>で、

「そのうえ、けがのために<ruby><rb>視力</rb><rt>しりょく</rt></ruby>がすっかりよわってしまってね。ときどき<ruby><rb>痛</rb><rt>いた</rt></ruby>みだすと、何時間も<ruby><rb>暗</rb><rt>くら</rt></ruby>がりの中で、じっとしていなければならないんだ。<ruby><rb>痛</rb><rt>いた</rt></ruby>みの起こったときのつらさときたら、まったくたえられないほどなんだよ。そんなときに、だれかに<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>にはいってこられると、とてもいやなんでね。だから、きみもよく心えていてもらって、ぼくの部屋へ<ruby><rb>他人</rb><rt>たにん</rt></ruby>をいれないでくれたまえ。しずかに休んでいたいんだからね」

「わかりました。よく気をつけますわ。そんなひどいおけがを、どうしてなさいましたの？」

おかみさんは<ruby><rb>同情</rb><rt>どうじょう</rt></ruby>のこもった声で、やさしくたずねた。すると男は、

「話はそれだけだ」

うってかわった<ruby><rb>冷</rb><rt>つめ</rt></ruby>たさで言い、おかみさんが二度と口をひらかないように横をむいた。

おかみさんがでてゆくと、男はヘンフリイが<ruby><rb>時計</rb><rt>とけい</rt></ruby>の<ruby><rb>修理</rb><rt>しゅうり</rt></ruby>をやっているのを、じっと見つめはじめた。

ヘンフリイは、さっきからだまりこんで、せっせと手を動かしている。

<ruby><rb>針</rb><rt>はり</rt></ruby>をぬき、<ruby><rb>文字盤</rb><rt>もじばん</rt></ruby>をはずし、なかの<ruby><rb>機械</rb><rt>きかい</rt></ruby>をひっぱりだした。

かれはねんいりに<ruby><rb>機械</rb><rt>きかい</rt></ruby>をしらべた。男がじっとながめているので、かれはなんとなく<ruby><rb>気味</rb><rt>きみ</rt></ruby>がわるくて、<ruby><rb>仕事</rb><rt>しごと</rt></ruby>をしている手が思うように動かなかった。

十五分ほどたつと、<ruby><rb>時計</rb><rt>とけい</rt></ruby>はすっかりなおったが、ヘンフリイは、いつまでもぐずぐずと<ruby><rb>機械</rb><rt>きかい</rt></ruby>をいじっている。<ruby><rb>時</rb><rt>とき</rt></ruby>がたつにつれて<ruby><rb>恐</rb><rt>おそ</rt></ruby>ろしさがうすらいでくると、かれは、

（この<ruby><rb>奇妙</rb><rt>きみょう</rt></ruby>な男の<ruby><rb>正体</rb><rt>しょうたい</rt></ruby>を見きわめてやれ！）

と、いう気になっていた。どうにかして、男と話すおりをつかみたいと思ったが、だめだった。

男は、口をきかないばかりか、<ruby><rb>身動</rb><rt>みうご</rt></ruby>きひとつしないで、じっとつっ立っていた。

<ruby><rb>眼鏡</rb><rt>めがね</rt></ruby>のレンズが、青白く光ってヘンフリイを見つめている。

ヘンフリイは、たまらなくいらいらしてきた。

（ちえっ、なんていやなやつだろう。ぞっとするよ。まるで<ruby><rb>化物</rb><rt>ばけもの</rt></ruby>とむきあってるような気もちだよ。<ruby><rb>人間</rb><rt>にんげん</rt></ruby>なら人間らしく、きょうはひどく<ruby><rb>寒</rb><rt>さむ</rt></ruby>いねぐらいのことは、言ったらよさそうなもんだよ。ぶあいそうなやろうだ。が、こういつまでもだまってても、らちがあかねえや。ひとつこちらから先に、声をかけてやろう）

かれは<ruby><rb>決心</rb><rt>けっしん</rt></ruby>して、男の顔を見あげ、

「この天気は――」

とたんに、するどい声がとんできた。

「さっさと<ruby><rb>仕事</rb><rt>しごと</rt></ruby>を片づけて、でていったらどうだ？」

男は、どなりたいのをやっとがまんしているらしく、ふるえる声で言った。ヘンフリイはまっさおになった。男は、かさねて、

「<ruby><rb>短針</rb><rt>たんしん</rt></ruby>をじくにはめれば、すむんじゃないか。さっきから見ていると、やらないでもいいことばかりやってるみたいだぞ」

ヘンフリイは、ぎょっとした。男はなにもかも見すかしているのだ。

<ruby><rb>恐</rb><rt>おそ</rt></ruby>ろしさで<ruby><rb>体</rb><rt>からだ</rt></ruby>が、がたがたふるえてきた。大あわてで<ruby><rb>仕事</rb><rt>しごと</rt></ruby>をすませ、<ruby><rb>道具</rb><rt>どうぐ</rt></ruby>を片づけると、あたふたと<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>をでていった。

<ruby><rb>台所</rb><rt>だいどころ</rt></ruby>にくると、ヘンフリイは、いそがしそうに<ruby><rb>働</rb><rt>はたら</rt></ruby>いているおかみさんに、

「さようなら」

と、ふきげんなみじかいあいさつを<ruby><rb>残</rb><rt>のこ</rt></ruby>して、さっさと、<ruby><rb>雪</rb><rt>ゆき</rt></ruby>がふる外へとびだした。

道にはすっかり雪がつもっていた。

「ちくしょうめっ！　なにが科学者だい。学者ってものは、もうすこし<ruby><rb>上品</rb><rt>じょうひん</rt></ruby>なもんだよ。大きなつらをしやがって……あいつは<ruby><rb>悪魔</rb><rt>あくま</rt></ruby>かもしれねえぞ」

<ruby><rb>時計屋</rb><rt>とけいや</rt></ruby>は、<ruby><rb>道々</rb><rt>みちみち</rt></ruby>、思いつくかぎりの男のわる口をつぶやいた。それでも、やはりむしゃくしゃしていた。

## 気をつけたがいいぜ！

<ruby><rb>時計屋</rb><rt>とけいや</rt></ruby>がどんどん歩いて、グリーソン<ruby><rb>屋敷</rb><rt>やしき</rt></ruby>のかどまできたとき、のんきな顔で<ruby><rb>馬車</rb><rt>ばしゃ</rt></ruby>を走らせてくるホールにばったりと出あった。

「よう！　どうしたい、ヘンフリイ！　浮かねえ顔で、やけにいそいでるじゃねえか」

ホールがくったくのない声をはりあげた。

ホールは、<ruby><rb>怪</rb><rt>あや</rt></ruby>しい男が<ruby><rb>泊</rb><rt>と</rt></ruby>まった<ruby><rb>黒馬旅館</rb><rt>くろうまりょかん</rt></ruby>のあるじなのだ。かれはみるからに人の好いのんき者で、ホール夫人に気にいるように、てきぱき<ruby><rb>働</rb><rt>はたら</rt></ruby>くことなど、ぜったいにできない男だった。

ホールの<ruby><rb>仕事</rb><rt>しごと</rt></ruby>といえば、ときどき、シッダーブリッジ<ruby><rb>駅</rb><rt>えき</rt></ruby>まで<ruby><rb>馬車</rb><rt>ばしゃ</rt></ruby>を走らせ、<ruby><rb>荷物</rb><rt>にもつ</rt></ruby>をはこんでくるのが、せいぜいだった。

いまも、<ruby><rb>駅</rb><rt>えき</rt></ruby>からのかえり道で、いつもとおなじようにホールは<ruby><rb>途中</rb><rt>とちゅう</rt></ruby>で、さんざん<ruby><rb>世間話</rb><rt>せけんばなし</rt></ruby>に<ruby><rb>油</rb><rt>あぶら</rt></ruby>を売ってきたところである。

ヘンフリイは、ホールに声をかけられると、いんきな声で、

「ホール、おめえのとこには、へんな<ruby><rb>客</rb><rt>きゃく</rt></ruby>がとまっているな」

「なんだって？」

お人よしのホールは、すぐに<ruby><rb>馬車</rb><rt>ばしゃ</rt></ruby>をとめて、<ruby><rb>時計屋</rb><rt>とけいや</rt></ruby>のほうへのりだしてきた。

「おめえ、知らねえのかい？　あのみょうちきりんな顔の<ruby><rb>客</rb><rt>きゃく</rt></ruby>のことを……」

ホールは<ruby><rb>首</rb><rt>くび</rt></ruby>をふった。ヘンフリイは、

「おれもおどろいたぜ。おかみさんが<ruby><rb>客間</rb><rt>きゃくま</rt></ruby>の<ruby><rb>時計</rb><rt>とけい</rt></ruby>をなおしてくれっていうんで、いっしょに客間にはいったらさ、顔じゅうほうたいだらけの、<ruby><rb>色眼鏡</rb><rt>いろめがね</rt></ruby>をかけて、おっそろしく口の大きな、へんな顔の客がいるじゃねえか。おどろいたの、なんのって……おったまげたよ」

ホールはおどろいて、口をぽかんとあけてきいていた。それをみると、ヘンフリイはますます<ruby><rb>熱心</rb><rt>ねっしん</rt></ruby>に、客のようすをしゃべりたてた。

「あれはおめえ、よくねえやつかもしれねえぞ。じぶんでは<ruby><rb>科学者</rb><rt>かがくしゃ</rt></ruby>だなんて言ってるが……どうだか、わかったものじゃねえ。あいつは、<ruby><rb>変装</rb><rt>へんそう</rt></ruby>してるのかもしれないぜ。どこかで<ruby><rb>悪事</rb><rt>あくじ</rt></ruby>を<ruby><rb>働</rb><rt>はたら</rt></ruby>いて、それをかくすために、ああいうかっこうをして、なるべく人を近よせないでおくつもりかもしれないね」

「うちのやつは知ってるのかね？」

ホールが、心ぼそそうな声をだした。

「もちろんだよ。おかみさんもおかみさんだよ。なんだって、あんな男をとめる気になったんだろう？　おれが<ruby><rb>宿屋</rb><rt>やどや</rt></ruby>のあるじなら、相手の顔をよくよくながめ、名まえをたしかめてから、<ruby><rb>泊</rb><rt>と</rt></ruby>めるか、泊めないか決めるね。女ってものは、よそものっていうと、とかく<ruby><rb>信用</rb><rt>しんよう</rt></ruby>しがちなものさね。まして<ruby><rb>科学者</rb><rt>かがくしゃ</rt></ruby>なんていうと、なおさら<ruby><rb>信用</rb><rt>しんよう</rt></ruby>するがね。<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>をかりて、名まえを言わねえような男は、ろくな<ruby><rb>人間</rb><rt>にんげん</rt></ruby>じゃねえやね」

人がいいばかりで、頭の<ruby><rb>働</rb><rt>はたら</rt></ruby>きのにぶいホールは、ぼんやりと、

「そう言うもんかね」

「あたりまえだよ。しかし、おかみさんは、一<ruby><rb>週間</rb><rt>しゅうかん</rt></ruby>のけい<ruby><rb>約</rb><rt>やく</rt></ruby>をむすんでしまったんだ。いまさら、あいつがどんな<ruby><rb>悪者</rb><rt>わるもの</rt></ruby>だったとしても、一週間のあいだは追いだすことはできないんだ。あすになると、あいつのいう<ruby><rb>実験道具</rb><rt>じっけんどうぐ</rt></ruby>とやらが、どっさりはこびこまれるらしいぜ。なんの<ruby><rb>実験</rb><rt>じっけん</rt></ruby>をするつもりだかわからないがね」

「ふうん」

ホールは、<ruby><rb>心配</rb><rt>しんぱい</rt></ruby>そうに考えこんでしまった。ヘンフリイは、なおもくどくどと、

「<ruby><rb>用心</rb><rt>ようじん</rt></ruby>したほうがいいぜ。おれのおばさんもね、ヘイスティングズでやはり<ruby><rb>宿屋</rb><rt>やどや</rt></ruby>をやっているがね。見なれぬ客がえらく大きなりっぱなかばんをさげてきたのをみて、すっかり信用してしまったのさ。ところがそのかばんは中がからっぼで、それに気づいたときは、たくさんの<ruby><rb>宿料</rb><rt>やどりょう</rt></ruby>をふみたおされて、<ruby><rb>逃</rb><rt>に</rt></ruby>げられたあとだったんだ。おめえたちも、<ruby><rb>怪</rb><rt>あや</rt></ruby>しい<ruby><rb>客</rb><rt>きゃく</rt></ruby>には、よくよく気をつけたほうがいいぜ」

「ありがとう、ヘンフリイ。こいつはどうも、うちのやつにちょっくら、言ってきかせなくてはなるまい。これから大いそぎで帰ろう」

すっかり不安になった<ruby><rb>黒馬旅館</rb><rt>くろうまりょかん</rt></ruby>の<ruby><rb>主人</rb><rt>しゅじん</rt></ruby>ホールは、馬にひとむちあてると、いちもくさんに家へむかって走った。

いきおいこんだホールが家にとびこむと、

「おまえさん！　いつまで外をうろうろしてたんだい？　また<ruby><rb>油</rb><rt>あぶら</rt></ruby>を売ってたね。そうでなくて、こんなにながく時間がかかるはずがないじゃないの！」

ホール<ruby><rb>夫人</rb><rt>ふじん</rt></ruby>のがみがみとどなりつける声がとんできた。

「なに……それが、あの……その」

と、いままでの元気はどこへやら、ホールは<ruby><rb>叱</rb><rt>しか</rt></ruby>られた<ruby><rb>猫</rb><rt>ねこ</rt></ruby>のようにいくじなくちぢまって、しばらくたってから、やっとこさで、

「おまえ、新しいお<ruby><rb>客</rb><rt>きゃく</rt></ruby>があったってね。いったいどんな方だい？」

と、おずおずしながら聞いた。

「だれに聞いたの？　ヘンフリイがおしゃべりしたのね。どんな方って……りっぱな方よ。あなたになんか、あの方のことを話したってわかりゃしないわ。<ruby><rb>科学者</rb><rt>かがくしゃ</rt></ruby>なんですって」

それからあとは、いくらホールが聞いても、気のないへんじをしてごまかしてしまった。

（ちえっ、あいつ、おれにかくしだてをする気だな。いいよ。おれはじぶんの目で、そのへんな<ruby><rb>客</rb><rt>きゃく</rt></ruby>ってやつを見てやるから――）

ホールは、おかみさんにいくら聞いても、それいじょうは話さないとわかると、だまって<ruby><rb>決心</rb><rt>けっしん</rt></ruby>をした。

九時半になった。<ruby><rb>怪</rb><rt>あや</rt></ruby>しい<ruby><rb>客</rb><rt>きゃく</rt></ruby>も<ruby><rb>眠</rb><rt>ねむ</rt></ruby>りこんだらしく、<ruby><rb>黒馬旅館</rb><rt>くろうまりょかん</rt></ruby>は<ruby><rb>物音</rb><rt>ものおと</rt></ruby>ひとつしなくなった。

「やつも<ruby><rb>眠</rb><rt>ねむ</rt></ruby>ったらしいね。どれ、ひとつ、どんなやつだかしらべてこよう」

ホールは立ちあがり、<ruby><rb>足音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>をしのばせると、むこう見ずにも、<ruby><rb>客間</rb><rt>きゃくま</rt></ruby>にそろそろとしのびこんでいった。思ったとおり、<ruby><rb>客</rb><rt>きゃく</rt></ruby>は、ふかぶかとベッドにもぐりこんで<ruby><rb>眠</rb><rt>ねむ</rt></ruby>っていた。

ホールは、きょろきょろとあたりを見まわし、<ruby><rb>机</rb><rt>つくえ</rt></ruby>のうえいっぱいに、むずかしそうなこまかい<ruby><rb>数字</rb><rt>すうじ</rt></ruby>をかきこんだ<ruby><rb>紙</rb><rt>かみ</rt></ruby>が<ruby><rb>散</rb><rt>ち</rt></ruby>らばっているのをみると、ばかにしたようすで、

「ふふうん！」

と、<ruby><rb>鼻</rb><rt>はな</rt></ruby>のさきでせせら笑って、ひきあげた。

お人よしのホールは<ruby><rb>数字</rb><rt>すうじ</rt></ruby>をかきこんだ紙を見ただけで、このへんな<ruby><rb>客</rb><rt>きゃく</rt></ruby>が、おかみさんの言うとおり、<ruby><rb>学者</rb><rt>がくしゃ</rt></ruby>なのだと思いこみ、すっかり安心してしまったのである。

一方、おかみさんは、<ruby><rb>主人</rb><rt>しゅじん</rt></ruby>にむかっては、きっぱりと強がりを言ったものの、<ruby><rb>内心</rb><rt>ないしん</rt></ruby>はやはり、<ruby><rb>客</rb><rt>きゃく</rt></ruby>のことが気になってしかたがなかった。

ベッドにはいってからも、夜っぴて大きなかぶらのようにまっ白な、ぶきみな顔に追いかけられる<ruby><rb>夢</rb><rt>ゆめ</rt></ruby>をみて、うなされつづけた。

## ちょっとした<ruby><rb>事件</rb><rt>じけん</rt></ruby>

「おはようございます。<ruby><rb>荷物</rb><rt>にもつ</rt></ruby>を持ってあがりました」

<ruby><rb>馬車屋</rb><rt>ばしゃや</rt></ruby>のフィアレンサイドが、つぎの朝はやく元気のいい声をひびかせて、<ruby><rb>馬車</rb><rt>ばしゃ</rt></ruby>をひき、<ruby><rb>黒馬旅館</rb><rt>くろうまりょかん</rt></ruby>にやってきた。

<ruby><rb>寝</rb><rt>ね</rt></ruby>ぶそくらしく、はれぼったい目をしたおかみさんが、<ruby><rb>主人</rb><rt>しゅじん</rt></ruby>のホールといっしょにでてきた。

「ごくろうさま」

「きょうは、きのうの<ruby><rb>雪</rb><rt>ゆき</rt></ruby>のために、道がひどいぬかるみになっていて、えらい<ruby><rb>難儀</rb><rt>なんぎ</rt></ruby>でしたよ」

フィアレンサイドが、二人の顔をみるなりこぼした。が、二人は、かれの<ruby><rb>言葉</rb><rt>ことば</rt></ruby>などまるで耳にはいらぬようすで、<ruby><rb>馬車</rb><rt>ばしゃ</rt></ruby>につまれている、ふうがわりな<ruby><rb>荷物</rb><rt>にもつ</rt></ruby>に見とれていた。

ふつうの<ruby><rb>人間</rb><rt>にんげん</rt></ruby>の<ruby><rb>持物</rb><rt>もちもの</rt></ruby>らしいのは、トランクだけだった。トランクは二個あった。そのほかの<ruby><rb>荷物</rb><rt>にもつ</rt></ruby>ときたら、<ruby><rb>何</rb><rt>なん</rt></ruby>ともいえずふうがわりなのだ。なにをつめてあるのか、中の物がこわれぬように<ruby><rb>麦</rb><rt>むぎ</rt></ruby>わらをぎゅうぎゅう<ruby><rb>間</rb><rt>あいだ</rt></ruby>につめこんだ<ruby><rb>籠</rb><rt>かご</rt></ruby>が十二、三<ruby><rb>個</rb><rt>こ</rt></ruby>。それにぶあつな本をおしこんだ<ruby><rb>箱</rb><rt>はこ</rt></ruby>が数えきれないほど、そのほかにもえたいのしれぬ<ruby><rb>荷物</rb><rt>にもつ</rt></ruby>が山とつまれている。

ホールは<ruby><rb>馬車</rb><rt>ばしゃ</rt></ruby>に近より、<ruby><rb>籠</rb><rt>かご</rt></ruby>の中に手をつっこみ、<ruby><rb>詰物</rb><rt>つめもの</rt></ruby>の<ruby><rb>麦</rb><rt>むぎ</rt></ruby>わらをかきわけてさぐった。

中は、ガラスびんらしい。おかみさんは、客をよびにいった。

「<ruby><rb>荷物</rb><rt>にもつ</rt></ruby>がきたんだって？」

男はうれしそうに、声をあげてとんできた。みるとおどろいたことに、男は、へや<ruby><rb>着</rb><rt>ぎ</rt></ruby>のうえから、オーバーを着、<ruby><rb>帽子</rb><rt>ぼうし</rt></ruby>をかぶり、手ぶくろをはめ、ごていねいにえりまきまでしっかりと身につけていた。

フィアレンサイドもホールも、男の身じたくが、あんまりものものしいのに、あっけにとられて、ぼんやりとかれの顔を見ていた。男は、せきこんで、

「ずいぶん待たされたよ。さっそく<ruby><rb>運</rb><rt>はこ</rt></ruby>びこんでくれたまえ」

言いながら、<ruby><rb>待</rb><rt>ま</rt></ruby>ちきれないように、<ruby><rb>荷馬車</rb><rt>にばしゃ</rt></ruby>のうしろにまわり、<ruby><rb>籠</rb><rt>かご</rt></ruby>のひとつに手をかけようとした。

そのとき、フィアレンサイドがつれてきていた<ruby><rb>犬</rb><rt>いぬ</rt></ruby>が、とつぜん、かれの<ruby><rb>姿</rb><rt>すがた</rt></ruby>をみて、毛をさかだて、ものすごいうなり声をあげた。

男は、気にもせず、

「いいかい、どれもだいじなものだから、気をつけて運んでくれたまえよ」

と、いいつけ、<ruby><rb>玄関</rb><rt>げんかん</rt></ruby>の<ruby><rb>石段</rb><rt>いしだん</rt></ruby>をあがりかけた。とたんに、<ruby><rb>犬</rb><rt>いぬ</rt></ruby>はひときわ高くうなり声をあげ、ぱっと男の手にかみついた。

「うわっ！」

男は、大声をあげた。びっくりしたホールとフィアレンサイドは、

「こらっ、こいつめ！　なにをするのだっ」

と、あわててどなりつけ、フィアレンサイドは<ruby><rb>犬</rb><rt>いぬ</rt></ruby>をぶちのめそうと、むちをふりまわした。

そのとき、男は、目にもとまらぬす早さで、ぱっと力まかせに<ruby><rb>犬</rb><rt>いぬ</rt></ruby>をけとばした。

ふいをくらった<ruby><rb>犬</rb><rt>いぬ</rt></ruby>は、よろよろとよろめいたが、こんどは、<ruby><rb>猛然</rb><rt>もうぜん</rt></ruby>とうなり<ruby><rb>声</rb><rt>ごえ</rt></ruby>をあげ、もう一度男におそいかかったとみるや、その足に、がぶりっとかみついた。

びりびりと、ズボンがさける音がした。

「ひゃあっ！」

とびあがったフィアレンサイドが、

「こんちくしょうめ、こんちくしょうめ」

と、さけびながら、こんどこそ、したたか<ruby><rb>犬</rb><rt>いぬ</rt></ruby>をたたきのめした。

きゃんきゃんと<ruby><rb>犬</rb><rt>いぬ</rt></ruby>は<ruby><rb>悲鳴</rb><rt>ひめい</rt></ruby>をあげ、車の<ruby><rb>輪</rb><rt>わ</rt></ruby>のあいだに<ruby><rb>逃</rb><rt>に</rt></ruby>げこみ、小さくなった。

すべてが、あっという間のできごとだった。

気まずい<ruby><rb>空気</rb><rt>くうき</rt></ruby>がみんなのあいだに<ruby><rb>流</rb><rt>なが</rt></ruby>れた。男は、かみさかれた<ruby><rb>手袋</rb><rt>てぶくろ</rt></ruby>とズボンのすそを、しゃがみこんでしらべていたが、そのままくるりとむきをかえ、いちもくさんに<ruby><rb>旅館</rb><rt>りょかん</rt></ruby>の中にかけこみ、<ruby><rb>足音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>もあらく、じぶんの<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>にはいってしまった。

フィアレンサイドは、やっと<ruby><rb>我</rb><rt>われ</rt></ruby>にかえった顔つきで、

「でてこい！　わるいやつだ。とんだいたずらをしくさって。お<ruby><rb>客</rb><rt>きゃく</rt></ruby>さまのズボンをかみやぶったではねえか……」

そして車の<ruby><rb>輪</rb><rt>わ</rt></ruby>のあいだから、おく<ruby><rb>病</rb><rt>びょう</rt></ruby>そうにこちらをうかがっている犬に、むちをふりまわしてみせた。

ホールは、まだ、ぼんやりとつっ立っていた。フィアレンサイドが<ruby><rb>浮</rb><rt>う</rt></ruby>かぬ顔で、

「ホール、あのお<ruby><rb>客</rb><rt>きゃく</rt></ruby>さまにけがはなかっただろうかね？」

「ひどくかみつかれなさったようだったけど、おれ、ちょっと、<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>へいって、ようすをうかがってこよう」

ホールは、あたふたとかけだした。<ruby><rb>廊下</rb><rt>ろうか</rt></ruby>までくると、これも<ruby><rb>浮</rb><rt>う</rt></ruby>かない顔で歩いてくるおかみさんにばったりとあった。

「フィアレンサイドの<ruby><rb>犬</rb><rt>いぬ</rt></ruby>が、お<ruby><rb>客</rb><rt>きゃく</rt></ruby>さまの手と足にかみついたんだ」

ホールはせきこんで、<ruby><rb>眉</rb><rt>まゆ</rt></ruby>をしかめながら言った。が、おかみさんは、ちょっと、うなずいたきり、足もとめないですれちがってしまった。

<ruby><rb>客</rb><rt>きゃく</rt></ruby>の<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>のドアは、ひらいたままだった。

「お客さま、おけがはありませんでしたか？」

ホールは、声をかけ、なにげなく<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>にはいろうとした。

窓のカーテンはすっかりおろされ、部屋の中はうす<ruby><rb>暗</rb><rt>ぐら</rt></ruby>かった。その中に<ruby><rb>手首</rb><rt>てくび</rt></ruby>からさきのない<ruby><rb>腕</rb><rt>うで</rt></ruby>が、にゅっとかれのほうにつきだされ、のっぺらぼうのまっ白な大きな顔が、うす青い三つの<ruby><rb>深</rb><rt>ふか</rt></ruby>い<ruby><rb>穴</rb><rt>あな</rt></ruby>をあけて、<ruby><rb>空中</rb><rt>くうちゅう</rt></ruby>に<ruby><rb>浮</rb><rt>う</rt></ruby>いていた。

あっと思うひまもなく、ホールは、なにものともしれぬ<ruby><rb>強</rb><rt>つよ</rt></ruby>い力に、どんと<ruby><rb>胸</rb><rt>むね</rt></ruby>をつかれ、ひとおしに<ruby><rb>廊下</rb><rt>ろうか</rt></ruby>につきだされてしまった。

「うわあっ！」

よろめきながら、ホールがさけぶと、その目のまえに、ドアがばたんと音をたててしまった。

ホールは、しばらく、ドアを見つめて、ぼんやり考えこんでいた。

「これは、いったい、どうしたってことなんだ。どこのどいつがおれの<ruby><rb>胸</rb><rt>むね</rt></ruby>をついて、<ruby><rb>廊下</rb><rt>ろうか</rt></ruby>にほうりだしやがったというのだ……」

さっぱりわけがわからない。

いっぽう、<ruby><rb>宿屋</rb><rt>やどや</rt></ruby>のまえは、ものめずらしげにあつまってきた村の人びとで、<ruby><rb>黒山</rb><rt>くろやま</rt></ruby>の人だかりになっている。

フィアレンサイドは、その人たちを<ruby><rb>相手</rb><rt>あいて</rt></ruby>に、さっきのできごとを、くりかえしくりかえし話していた。

「おれがとめるひまもないほどのすばやさで、こいつは、がぶりとお<ruby><rb>客</rb><rt>きゃく</rt></ruby>さまの足にかみついたんだ。へいぜいおとなしいやつだのに、どうしてあんならんぼうなことをやったのか、さっぱりわからねえ」

フィアレンサイドは頭をふりふり、いく<ruby><rb>度</rb><rt>たび</rt></ruby>も言った。

「だけどさ、ふしぎじゃないかねえ。ただ立っているだけの人に、なんだってかみついたのかしら？」

話をきいていたおかみさんのひとりが、口をはさんだ。<ruby><rb>雑貨屋</rb><rt>ざっかや</rt></ruby>のハクスターがもっともらしいようすで、

「そうだよ、われわれがここに立っていても、こいつはかみつかないのにさ」

「だけど、もとはって言えば、フィアレンサイドがこんなろくでなしの<ruby><rb>犬</rb><rt>いぬ</rt></ruby>をかっているのが、大さわぎをおこすもとなんだよ」

また、ほかのひとりがいった。

ひとりがだまれば、ひとりがしゃべり、<ruby><rb>旅館</rb><rt>りょかん</rt></ruby>のまえはたいへんなさわぎだった。

このさわぎの中に、ホールは<ruby><rb>魂</rb><rt>たましい</rt></ruby>をなくした<ruby><rb>人間</rb><rt>にんげん</rt></ruby>のように、ぼうっとしていた。

目ざとく見つけたおかみさんは、

「おまえさん、どうしたの？　なにかあったのかい？」

「いいや、なんでもねえ」

ホールはうつろな<ruby><rb>目</rb><rt>め</rt></ruby>で、<ruby><rb>集</rb><rt>あつ</rt></ruby>まってきた人たちを見ていた。

## その<ruby><rb>荷物</rb><rt>にもつ</rt></ruby>は？

おしゃべりに<ruby><rb>夢中</rb><rt>むちゅう</rt></ruby>になっていた村人たちは、その男がいつのまにか、その<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>から<ruby><rb>玄関</rb><rt>げんかん</rt></ruby>にでてきていたのに、いっこうに気づかなかった。

「う、うう、わんわん！」

車のかげに小さくなっていたフィアレンサイドの犬が、きゅうにはげしくほえたてた。

「あっ！」

思わずふりかえった人びとは、<ruby><rb>玄関</rb><rt>げんかん</rt></ruby>に<ruby><rb>不気味</rb><rt>ぶきみ</rt></ruby>な人かげをみて、ぎょっと<ruby><rb>顔色</rb><rt>かおいろ</rt></ruby>をかえた。

そのとたん、

「<ruby><rb>馬車屋</rb><rt>ばしゃや</rt></ruby>、なにをぐずぐずしているんだ！　はやく<ruby><rb>荷物</rb><rt>にもつ</rt></ruby>をはこべ！」

すご<ruby><rb>味</rb><rt>み</rt></ruby>のあるどなり声が、あたりをふるわせてひびいた。

フィアレンサイドが、びくっと<ruby><rb>飛</rb><rt>と</rt></ruby>びあがり、ホール<ruby><rb>夫人</rb><rt>ふじん</rt></ruby>は<ruby><rb>棒立</rb><rt>ぼうだ</rt></ruby>ちになった。

村人は、くものこをちらすように、後もみずにちっていった。

<ruby><rb>馬車屋</rb><rt>ばしゃや</rt></ruby>は、しばらくためらっていたが、<ruby><rb>勇気</rb><rt>ゆうき</rt></ruby>をふるって男に近より、

「だんなさま。あいすみませんことで……おけがはありませんですか？　なんとも、はや、申しわけありません」

ぺこぺことわびた。男は、じろりと<ruby><rb>馬車屋</rb><rt>ばしゃや</rt></ruby>をにらみ、

「けがなんかせんよ。かすり<ruby><rb>傷</rb><rt>きず</rt></ruby>ひとつしてないんだ。それより早く<ruby><rb>荷物</rb><rt>にもつ</rt></ruby>をはこべ」

と、おうへいな<ruby><rb>態度</rb><rt>たいど</rt></ruby>で言った。

<ruby><rb>馬車屋</rb><rt>ばしゃや</rt></ruby>とホールの手で、<ruby><rb>荷物</rb><rt>にもつ</rt></ruby>は男の<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>にはこびこまれた。

男はすぐさま荷物をほどきにかかった。じれったそうに、<ruby><rb>間</rb><rt>あいだ</rt></ruby>につめた<ruby><rb>麦</rb><rt>むぎ</rt></ruby>わらをほうりだし、中のガラスびんをひとつずつ、だいじそうにとりだした。どのびんにも<ruby><rb>液体</rb><rt>えきたい</rt></ruby>や<ruby><rb>粉末</rb><rt>ふんまつ</rt></ruby>がつまっている。

男は、おびただしい<ruby><rb>数</rb><rt>かず</rt></ruby>のガラスびんをとりだすと、こんどは<ruby><rb>試験管</rb><rt>しけんかん</rt></ruby>をとりだした。

つぎに、はかり、そのつぎは、えたいのしれぬ<ruby><rb>機械</rb><rt>きかい</rt></ruby>だった。

「やれやれ、これですっかりとりだしたぞ。ぶじに<ruby><rb>荷物</rb><rt>にもつ</rt></ruby>がとどいてなによりだ。うすのろの<ruby><rb>馬車屋</rb><rt>ばしゃや</rt></ruby>め、おれのだいじな<ruby><rb>荷物</rb><rt>にもつ</rt></ruby>をだいなしにしないかと、はらはらしたよ」

男は、ほっとしたようにつぶやき、<ruby><rb>麦</rb><rt>むぎ</rt></ruby>わらや<ruby><rb>空籠</rb><rt>あきかご</rt></ruby>、<ruby><rb>空箱</rb><rt>あきばこ</rt></ruby>で、すっかり<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>が<ruby><rb>汚</rb><rt>よご</rt></ruby>れてしまったのも、気かつかぬようだった。

「さあ、さっそく、とりかかろう」

男は、<ruby><rb>息</rb><rt>いき</rt></ruby>をつくひまもなく、<ruby><rb>窓</rb><rt>まど</rt></ruby>のちかくに<ruby><rb>機械</rb><rt>きかい</rt></ruby>をならべ、<ruby><rb>実験</rb><rt>じっけん</rt></ruby>にとりかかった。

いつのまにやら、<ruby><rb>暖炉</rb><rt>だんろ</rt></ruby>の火はきえ、<ruby><rb>底</rb><rt>そこ</rt></ruby>びえのする<ruby><rb>寒</rb><rt>さむ</rt></ruby>さがしんしんとせまっていた。

しかし、男は<ruby><rb>暖炉</rb><rt>だんろ</rt></ruby>の火が消えたことなど、これっぽっちも気にしていなかった。

<ruby><rb>試験管</rb><rt>しけんかん</rt></ruby>をならべ、<ruby><rb>毒薬</rb><rt>どくやく</rt></ruby>とかかれた<ruby><rb>茶色</rb><rt>ちゃいろ</rt></ruby>のびんをとりあげると、試験管の中に、たらたらと、三、四<ruby><rb>滴</rb><rt>てき</rt></ruby>の<ruby><rb>液</rb><rt>えき</rt></ruby>をたらしこんだ。

こんどは、それを火にかけ、また、ほかの<ruby><rb>薬品</rb><rt>やくひん</rt></ruby>のふたをとった。

男は、ながい間、こうしてなにもかもわすれ、ただ<ruby><rb>実験</rb><rt>じっけん</rt></ruby>にねっちゅうしていた。

時はすぎ、いつのまにか、<ruby><rb>昼</rb><rt>ひる</rt></ruby>がきていた。ドアをたたく、かるい音がひびいた。

男はすこしも気づかない。おかみさんが、昼の<ruby><rb>食事</rb><rt>しょくじ</rt></ruby>をはこんできたのだった。

ドアをたたく音は、しばらくつづいていた。男は、むちゅうで<ruby><rb>試験管</rb><rt>しけんかん</rt></ruby>をふっていた。

たまりかねたおかみさんは、とうとう、だまってはいってきた。

「まあ！　これは……」

ひと足ふみこんだおかみさんは、たちまちしかめっ<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>になって、ふきげんな声をはりあげた。

<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>がだいなしになっている。わらくずがちらかり、<ruby><rb>古</rb><rt>ふる</rt></ruby>トランクがなげだされ、<ruby><rb>空籠</rb><rt>あきかご</rt></ruby>がほうりだされてある。

おかみさんはいきなり、<ruby><rb>腹</rb><rt>はら</rt></ruby>だちまぎれに、テーブルの上の麦わらを手荒くほうりだした。

がしゃんと、<ruby><rb>食事</rb><rt>しょくじ</rt></ruby>の<ruby><rb>皿</rb><rt>そら</rt></ruby>をその上に、音をたててなげだした。

男は、はじめて、「おやっ？」と、いうように顔をあげた。

「お<ruby><rb>食事</rb><rt>しょくじ</rt></ruby>をもってまいりましたわ」

おかみさんは男をにらんで、つっけんどんに言った。

男はへんじもせず、うつむいたままで、テーブルの上においてある<ruby><rb>眼鏡</rb><rt>めがね</rt></ruby>を大いそぎでとりあげてかけると、やっと、ゆっくりとおかみさんのほうにむきなおった。

男の<ruby><rb>動作</rb><rt>どうさ</rt></ruby>はすばやかった。しかしおかみさんは、その<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>に<ruby><rb>目玉</rb><rt>めだま</rt></ruby>がぬけ落ちて、ぽかりと二つの<ruby><rb>深</rb><rt>ふか</rt></ruby>い穴があいているような男の顔に気づいていた。が、なにくわぬ顔でつっ立っていた。男はいたけだかに、

「この<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>に用があったら、ノックをしてからはいってもらいたいね」

「ノックはいたしましたわ。なんどもなんども。でも、だんなさまが、お気づきにならなかったんですよ」

「それはしたかもしれんさ。しかしだね。この<ruby><rb>実験</rb><rt>じっけん</rt></ruby>は一<ruby><rb>分</rb><rt>ぷん</rt></ruby>もはやく<ruby><rb>完成</rb><rt>かんせい</rt></ruby>させなくてはならんのだ。じゃまがはいるとひどくめいわくするんだ。ドアがあく音がするだけでも気がちってこまる。いちど言ったことは、かならず<ruby><rb>守</rb><rt>まも</rt></ruby>ってもらいたいね」

おかみさんはぷんぷんして、

「わかりました。それでしたら、お<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>に<ruby><rb>鍵</rb><rt>かぎ</rt></ruby>をおかけになったらいかがですか？」

「なるほど、そうだったな。では、これからは鍵をかけることにしよう」

男は、落ちつきはらってこたえた。おかみさんはなおさらいまいましそうに、

「よろしかったら、この<ruby><rb>麦</rb><rt>むぎ</rt></ruby>わらを片づけましょうか？　ひどくよごれて……」

男はぎろりとおかみさんをにらみ、きっぱりと、

「ふれんでもらいたいね。この麦わらであなたにひどくめいわくがかかるというのなら、その分だけ<ruby><rb>金</rb><rt>かね</rt></ruby>をとってくれたまえ。えんりょなしに<ruby><rb>勘定書</rb><rt>かんじょうがき</rt></ruby>につけておいてくれればいいよ」

これを<ruby><rb>聞</rb><rt>き</rt></ruby>くと、いままでぷりぷり腹をたてていたおかみさんが、<ruby><rb>急</rb><rt>きゅう</rt></ruby>にねこなで声で、

「それはおそれいります。どのくらいお<ruby><rb>掃除代</rb><rt>そうじだい</rt></ruby>をいただけましょうか？」

「一シリングでいいだろう？」

「けっこうですわ」

「では一シリングとつけておきなさい。<ruby><rb>勘定</rb><rt>かんじょう</rt></ruby>をするときにいっしょに<ruby><rb>払</rb><rt>はら</rt></ruby>うから」

「ありがとうございます。ではどうぞ、お<ruby><rb>食事</rb><rt>しょくじ</rt></ruby>をなさってくださいませ」

おかみさんは<ruby><rb>礼</rb><rt>れい</rt></ruby>をいい、テーブルかけをひろげて、<ruby><rb>食事</rb><rt>しょくじ</rt></ruby>のしたくをととのえ、<ruby><rb>逃</rb><rt>に</rt></ruby>げるように<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>をでていった。<ruby><rb>台所</rb><rt>だいどころ</rt></ruby>へもどりながら、

「なんておかしな人だろう。でも、<ruby><rb>掃除代</rb><rt>そうじだい</rt></ruby>が一シリングならわるくないわ」

と、つぶやいた。

## うわさ<ruby><rb>話</rb><rt>ばなし</rt></ruby>

<ruby><rb>黒馬旅館</rb><rt>くろうまりょかん</rt></ruby>に<ruby><rb>平和</rb><rt>へいわ</rt></ruby>はなくなってしまった。このいなかの<ruby><rb>旅館</rb><rt>りょかん</rt></ruby>は、いつもひっそりと<ruby><rb>静</rb><rt>しず</rt></ruby>かで、<ruby><rb>一番</rb><rt>いちばん</rt></ruby><ruby><rb>客</rb><rt>きゃく</rt></ruby>のたてこむ夏の間でさえ、たいして<ruby><rb>変</rb><rt>か</rt></ruby>わったことがあるわけでなく、おだやかな毎日がくりかえされていた。

ところが、<ruby><rb>奇妙</rb><rt>きみょう</rt></ruby>な男がやってきてからというものは、おかみさんも<ruby><rb>主人</rb><rt>しゅじん</rt></ruby>のホールもすっかり<ruby><rb>落</rb><rt>お</rt></ruby>ちつきをなくしてしまい、ともすれば<ruby><rb>暗</rb><rt>くら</rt></ruby>い気もちにおそわれるのだった。

男の<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>からひきとってきたおかみさんは、くるくると<ruby><rb>忙</rb><rt>いそが</rt></ruby>しげに<ruby><rb>働</rb><rt>はたら</rt></ruby>きつづけていたが、心の中では、ずっと男のことを考えつづけていた。

<ruby><rb>客</rb><rt>きゃく</rt></ruby>の部屋は、一日中ひっそりと静かだった。

夕方、とつぜん、れいの客の部屋から、ものすごい音がひびいてきた。

がちゃーん、がちゃがちゃがちゃ！

ガラスびんや<ruby><rb>試験管</rb><rt>しけんかん</rt></ruby>がぶつかりあったらしい、はげしい音だった。

「たいへんだ！」

おかみさんはひと声さけぶと、手にしていた<ruby><rb>鍋</rb><rt>なべ</rt></ruby>をほうりだし、<ruby><rb>台所</rb><rt>だいどころ</rt></ruby>からよこっとびにとびだしていった。

どん、どんどん……。

はげしく<ruby><rb>客</rb><rt>きゃく</rt></ruby>の<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>の<ruby><rb>戸</rb><rt>と</rt></ruby>をノックした。なんのこたえもない。

どーんと<ruby><rb>体</rb><rt>からだ</rt></ruby>ごとぶつかってみた。しかし、ドアは<ruby><rb>内</rb><rt>うち</rt></ruby>がわから、しっかりと<ruby><rb>錠</rb><rt>じょう</rt></ruby>がかかっている。

こんどは、ドアにぴったりとくっつくと、じっときき<ruby><rb>耳</rb><rt>みみ</rt></ruby>をたてた。

<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>の中からは、男のわめく声が聞こえてきた。

「だめだ、また<ruby><rb>失敗</rb><rt>しっぱい</rt></ruby>だ。どうもうまくいかんぞ。三十万かな、いや、四十万かな、なにしろたいした<ruby><rb>数</rb><rt>かず</rt></ruby>だ。おれはだまされたのかな？　こんなことをやっていたら、一生かかってもできあがらないぞ、こまったなあ」

<ruby><rb>怒</rb><rt>いか</rt></ruby>りと<ruby><rb>悲</rb><rt>かな</rt></ruby>しみにしずんだ声だった。

それっきり、しばらく声はとぎれていたが、また、気をとりなおしたのか、

「やっぱりがまんしてつづけよう。ここで<ruby><rb>投</rb><rt>な</rt></ruby>げだしては、いままでの<ruby><rb>苦心</rb><rt>くしん</rt></ruby>も水の<ruby><rb>泡</rb><rt>あわ</rt></ruby>だ。それにしても、こんど、あいつに会ったら、ただではすまさんぞ」

おかみさんには、なんのことかわからなかったが、いかにも<ruby><rb>意味</rb><rt>いみ</rt></ruby>ありげな<ruby><rb>言葉</rb><rt>ことば</rt></ruby>だった。

おかみさんは、<ruby><rb>全身</rb><rt>ぜんしん</rt></ruby>を<ruby><rb>耳</rb><rt>みみ</rt></ruby>にして、男の声を聞いていた。

そのとき、

「こんにちは、おかみさん。いっぱいのませておくんなせえ」

<ruby><rb>大声</rb><rt>おおごえ</rt></ruby>をあげて、<ruby><rb>入口</rb><rt>いりぐち</rt></ruby>の<ruby><rb>酒場</rb><rt>さかば</rt></ruby>に<ruby><rb>客</rb><rt>きゃく</rt></ruby>がはいってきた。

「ああ、もうすこし聞いていれば、なんのことだかわかるかもしれないのに……」

おかみさんは<ruby><rb>舌</rb><rt>した</rt></ruby>うちをしながら、<ruby><rb>酒場</rb><rt>さかば</rt></ruby>にでていった。

<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>のさわぎはおさまったらしく、それっきり二度とさわぎはおこらなかった。ときどき、いすがきしむかすかな音と、びんがふれあうひびきが、かすかにきこえるだけだった。

いっぽう、<ruby><rb>馬車屋</rb><rt>ばしゃや</rt></ruby>のフィアレンサイドは、<ruby><rb>黒馬旅館</rb><rt>くろうまりょかん</rt></ruby>にきみょうな<ruby><rb>客</rb><rt>きゃく</rt></ruby>の<ruby><rb>荷物</rb><rt>にもつ</rt></ruby>を<ruby><rb>運</rb><rt>はこ</rt></ruby>んだ日の夜おそく、アイピング村のはずれのちいさなビヤホールで、一<ruby><rb>杯</rb><rt>ぱい</rt></ruby>かたむけながら、いつまでもいきおいこんでしゃべりつづけていた。

あいては、時計屋のテッディ・ヘンフリイともうひとりの村の男だった。

「おれはこの年になるまで、あんな<ruby><rb>変</rb><rt>へん</rt></ruby>なやろうは見たことがねえよ。おれの<ruby><rb>犬</rb><rt>いぬ</rt></ruby>が、あいつの足をがぶりとやったとき、おれはたしかに見たんだよ。あの男の足はまっ黒なんだ」

「ほんとうかい？　<ruby><rb>人間</rb><rt>にんげん</rt></ruby>の足がまっ<ruby><rb>黒</rb><rt>くろ</rt></ruby>だなんてことがあるものかなあ」

「おれの言うことをうたぐるのかい？　おれはちゃんと見たんだぜ。ズボンのさけ目と<ruby><rb>手袋</rb><rt>てぶくろ</rt></ruby>のやぶれたところから、はっきり<ruby><rb>黒</rb><rt>くろ</rt></ruby>ん<ruby><rb>坊</rb><rt>ぼう</rt></ruby>のようにまっ黒な<ruby><rb>肌</rb><rt>はだ</rt></ruby>がみえたんだ。おめえなんか、どう思っていたかしらねえがね」

フィアレンサイドは、<ruby><rb>酔</rb><rt>よ</rt></ruby>いのまわってきたビールのいきおいもあって、テーブルをたたきながら、がんとして言いはった。ヘンフリイはまだ<ruby><rb>半信半疑</rb><rt>はんしんはんぎ</rt></ruby>で、

「だとすると、おかしいじゃないか？　あいつの<ruby><rb>鼻</rb><rt>はな</rt></ruby>はちゃんと白いんだぞ」

「そうだよ。おめえの言うとおり、やつの鼻は白いんだ。だからさ、おれが考えるのに、たぶんあいつの<ruby><rb>体</rb><rt>からだ</rt></ruby>はあちこち色がちがうんだろう。白いところと黒いところがあってさ。まだらになってるだろうよ。だもんで、やつは<ruby><rb>恥</rb><rt>は</rt></ruby>ずかしがって、あんなにえり<ruby><rb>巻</rb><rt>まき</rt></ruby>やオーバーをしっかり身につけて、かくしてるんだよ」

「まるでシマ<ruby><rb>馬</rb><rt>うま</rt></ruby>みたいじゃないか。白と黒のまだらだなんて、はっはっは」

「はっはっはっはっ」

三人は声をあわせて<ruby><rb>笑</rb><rt>わら</rt></ruby>いころげた。いつまでたっても、かれらの<ruby><rb>話</rb><rt>はなし</rt></ruby>はつきそうもなかった。

## <ruby><rb>夕</rb><rt>ゆう</rt></ruby>ぐれになると

<ruby><rb>馬車屋</rb><rt>ばしゃや</rt></ruby>のフィアレンサイドと<ruby><rb>時計屋</rb><rt>とけいや</rt></ruby>のヘンフリイの口から、<ruby><rb>黒馬旅館</rb><rt>くろうまりょかん</rt></ruby>にとまったきみょうな<ruby><rb>客</rb><rt>きゃく</rt></ruby>のことは、たちまちのうちにアイピング村にひろまっていった。

うわさはうわさを生んで、村人たちはよるとさわると男の話でもちきりだった。

しかし、村人たちはかれの<ruby><rb>姿</rb><rt>すがた</rt></ruby>を見かけることは、ほとんどなかった。男はたいてい<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>にこもりきりで、いっしんに<ruby><rb>実験</rb><rt>じっけん</rt></ruby>をつづけていたからだ。<ruby><rb>日曜日</rb><rt>にちようび</rt></ruby>に、村の人たちがみんなそろってでかける<ruby><rb>教会</rb><rt>きょうかい</rt></ruby>へもこないし、日曜だからといって、ゆっくりやすむということもなかった。

ふるくからの<ruby><rb>習慣</rb><rt>しゅうかん</rt></ruby>をまもって、平和に<ruby><rb>暮</rb><rt>く</rt></ruby>らしている村の人たちは、この男のやることが気まぐれで、ひどく変わっているように思えた。

「<ruby><rb>黒馬旅館</rb><rt>くろうまりょかん</rt></ruby>では、よくあんな<ruby><rb>変</rb><rt>か</rt></ruby>わった<ruby><rb>客</rb><rt>きゃく</rt></ruby>をとまらせておくねえ。どんな考えでいるんだろう」

村人は、ホールやおかみさんのホール夫人に聞こえぬところでは、よくこんなことをささやきあった。ホールは、こんなかげ口を耳にはさむと、

「おい、どうかして、あの<ruby><rb>客</rb><rt>きゃく</rt></ruby>をことわるわけにはゆかないのかい？」

と、いやな顔をしながらホール夫人に言った。かれはその<ruby><rb>客</rb><rt>きゃく</rt></ruby>がきらいだった。<ruby><rb>廊下</rb><rt>ろうか</rt></ruby>でばったり顔をあわせるようなことがあっても、わざとよこをむいて、<ruby><rb>虫</rb><rt>むし</rt></ruby>が<ruby><rb>好</rb><rt>す</rt></ruby>かないことをあからさまにしめしたりした。

おかみさんは、<ruby><rb>主人</rb><rt>しゅじん</rt></ruby>が<ruby><rb>客</rb><rt>きゃく</rt></ruby>のことを言いだすと、できるだけひややかな<ruby><rb>態度</rb><rt>たいど</rt></ruby>をとり、いかにもりこうぶった口ぶりで、

「ただ<ruby><rb>虫</rb><rt>むし</rt></ruby>がすかないからって、あんなに<ruby><rb>金</rb><rt>かね</rt></ruby>ばなれのいいお<ruby><rb>客</rb><rt>きゃく</rt></ruby>さんをことわる人があるものですか。夏になって絵かきさんたちが<ruby><rb>避暑</rb><rt>ひしょ</rt></ruby>にくるまでは、気むずかしくても、きちんきちんとお<ruby><rb>勘定</rb><rt>かんじょう</rt></ruby>を<ruby><rb>払</rb><rt>はら</rt></ruby>ってくれるお客を、だいじにしなくてはね」

こういわれると、ホールはだまりこんでしまった。

ところが、<ruby><rb>金</rb><rt>かね</rt></ruby>ばなれのいいはずの男も、四月にはいると、そろそろふところがさびしくなってきたようすだった。それまでは、たびたびおかみさんの顔をしかめさすようなことをしでかしても、そのたびに、さっさとよぶんのお金をはらって、ホール夫人に<ruby><rb>叱言</rb><rt>こごと</rt></ruby>をいわせるようなことはなかったが、四月になってからは、目にみえて金ばらいがわるくなってきた。

こうなると、さすがのおかみさんも、ときにはいやな顔を見せるようになってきた。

その日も、ホールとホール<ruby><rb>夫人</rb><rt>ふじん</rt></ruby>がおそい<ruby><rb>昼食</rb><rt>ちゅうしょく</rt></ruby>をとっていると、その<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>からいらいらと歩きまわる<ruby><rb>客</rb><rt>きゃく</rt></ruby>の<ruby><rb>足音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>がひびき、そのうちにはげしい<ruby><rb>怒</rb><rt>いか</rt></ruby>り<ruby><rb>声</rb><rt>こえ</rt></ruby>とともに、<ruby><rb>壁</rb><rt>かべ</rt></ruby>になにかをぶつけるけたたましい音がきこえてきた。

「おい、またはじまったじゃないか。いまにあの<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>はめちゃめちゃになって使いものにならなくなるぞ。おれがいったように、あんなえたいのしれないやつは、早く追いだしてしまったほうがよかったんだ」

ホールがおかみさんにむかって言った。

「うるさいねえ。なにかって言えば、つべこべとうるさいことばかり」

おかみさんは高びしゃに言った。しかし、ホールも負けてはいなかった。

「なんだい、あんなへんな<ruby><rb>客</rb><rt>きゃく</rt></ruby>を<ruby><rb>泊</rb><rt>と</rt></ruby>めるくらいなら、いっそ<ruby><rb>化物</rb><rt>ばけもの</rt></ruby>でもとめたほうが気がきいてるよ。まだ夜もあけないうちから起きだして、いそがしそうに動きまわるかと思うと、<ruby><rb>昼</rb><rt>ひる</rt></ruby>すぎてやっとベッドをはなれて、ゆっくりたばこをすいながら、なん時間ものこのこと部屋を歩きまわっている。ときによると一<ruby><rb>日中</rb><rt>にちじゅう</rt></ruby>なんにもしないで、<ruby><rb>暖炉</rb><rt>だんろ</rt></ruby>のまえでいねむりばかりしているときもあるじゃないか。ことに、このごろのいらいらしてるようすときたら、ただじゃないよ。とんでもないことをしでかさないうちに、でていってもらったほうがいいぜ」

二人のあらそいはいつまでたってもおわりそうもなかった。ことに<ruby><rb>客</rb><rt>きゃく</rt></ruby>の<ruby><rb>金</rb><rt>かね</rt></ruby>ばらいがわるくなってからは、よけいにホールが、おかみさんにしつこくいや<ruby><rb>味</rb><rt>み</rt></ruby>をいいはじめた。

さわぎは<ruby><rb>黒馬旅館</rb><rt>くろうまりょかん</rt></ruby>の中だけではなかった。このごろアイピング村では、日が暮れるがはやいか人びとは、しっかりと<ruby><rb>戸口</rb><rt>とぐち</rt></ruby>の<ruby><rb>錠</rb><rt>じょう</rt></ruby>をかけ、いつまでも<ruby><rb>寝</rb><rt>ね</rt></ruby>ないでいる子どもにむかって、

「いつまでも寝ないでいると、<ruby><rb>黒馬旅館</rb><rt>くろうまりょかん</rt></ruby>のこわい男がやってくるぞ」

というのだった。<ruby><rb>村人</rb><rt>むらびと</rt></ruby>たちは夕ぐれ時、頭から手の先まですっかりつつみこんだかっこうで、<ruby><rb>人通</rb><rt>ひとどお</rt></ruby>りの少ないうら道とか、木のしげりあった<ruby><rb>暗</rb><rt>くら</rt></ruby>いじめじめした場所を<ruby><rb>散歩</rb><rt>さんぽ</rt></ruby>しているれいの男にでくわすと、子どもだけでなく<ruby><rb>大人</rb><rt>おとな</rt></ruby>でさえ、ひやっと<ruby><rb>背</rb><rt>せ</rt></ruby>すじにつめたい水を<ruby><rb>浴</rb><rt>あ</rt></ruby>びせかけられたような<ruby><rb>気分</rb><rt>きぶん</rt></ruby>になった。

## <ruby><rb>怪</rb><rt>あや</rt></ruby>しい<ruby><rb>客</rb><rt>きゃく</rt></ruby>の<ruby><rb>正体</rb><rt>しょうたい</rt></ruby>

## <ruby><rb>牧師</rb><rt>ぼくし</rt></ruby>の家の<ruby><rb>怪盗</rb><rt>かいとう</rt></ruby>

四月になった、とある日、とうとうたいへんな<ruby><rb>事件</rb><rt>じけん</rt></ruby>が持ちあがってしまった。

<ruby><rb>事件</rb><rt>じけん</rt></ruby>というのは、<ruby><rb>牧師館</rb><rt>ぼくしかん</rt></ruby>に<ruby><rb>気味</rb><rt>きみ</rt></ruby>のわるいどろぼうがはいったことなのだ。

夜あけもまぢかな、人の<ruby><rb>寝</rb><rt>ね</rt></ruby>しずまったしずかな<ruby><rb>時間</rb><rt>じかん</rt></ruby>だった。

「おやっ？」

<ruby><rb>牧師</rb><rt>ぼくし</rt></ruby>の<ruby><rb>夫人</rb><rt>ふじん</rt></ruby>は、そっとベッドに起きあがり、耳をすませた。じぶんのねむっている<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>のドアが一度あいて、またしまる音を聞いたような気がしたのである。

しかし<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>には、なんのかわりもない。気のまよいかなと、<ruby><rb>夫人</rb><rt>ふじん</rt></ruby>がよこになりかけると、となりの<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>から、ぱたぱたと、はだしで歩く<ruby><rb>足音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>がはっきりときこえた。

「あなた」

<ruby><rb>夫人</rb><rt>ふじん</rt></ruby>は、ふるえながら<ruby><rb>牧師</rb><rt>ぼくし</rt></ruby>をゆり起こした。

「どろぼうよ。ほら<ruby><rb>足音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>が……ね、階段をおりていったでしょう」

<ruby><rb>牧師</rb><rt>ぼくし</rt></ruby>は、<ruby><rb>夫人</rb><rt>ふじん</rt></ruby>の言うとおりに、はっきり足音がしているのをきくと、さっとガウンをはおりスリッパをつっかけて<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>をでた。

下のへやから、ごとごとと<ruby><rb>机</rb><rt>つくえ</rt></ruby>のひきだしをあける音がする。

「ほら」

つづいてでてきた<ruby><rb>夫人</rb><rt>ふじん</rt></ruby>が、そっとひじをつついた。

「よし」

<ruby><rb>牧師</rb><rt>ぼくし</rt></ruby>は、大またに<ruby><rb>寝室</rb><rt>しんしつ</rt></ruby>へひっかえすと、やにわに、すみっこにおいてあった<ruby><rb>火</rb><rt>ひ</rt></ruby>かき<ruby><rb>棒</rb><rt>ぼう</rt></ruby>をにぎりしめ、足音をしのばせて、音のするほうへとおりていった。

<ruby><rb>階段</rb><rt>かいだん</rt></ruby>の<ruby><rb>中</rb><rt>なか</rt></ruby>ほどまでおりたとき、

「くっしゃん！」

と、大きなくしゃみの音が、あたりのしずけさをやぶってひびいた。びくっと、<ruby><rb>牧師</rb><rt>ぼくし</rt></ruby>はたちどまった。それっきり音はやんだ。<ruby><rb>牧師</rb><rt>ぼくし</rt></ruby>は、またそろそろとおりていった。

「<ruby><rb>書斎</rb><rt>しょさい</rt></ruby>だな」

<ruby><rb>牧師</rb><rt>ぼくし</rt></ruby>は、かたくくちびるをかみしめて、<ruby><rb>机</rb><rt>つくえ</rt></ruby>をかきまわすひくい音のきこえている書斎へ、ひと足ずつ近づいていった。

<ruby><rb>書斎</rb><rt>しょさい</rt></ruby>のドアは、ほんのすこしひらいている。まっさおな顔でついてきた<ruby><rb>夫人</rb><rt>ふじん</rt></ruby>をうしろにかばいながら、<ruby><rb>牧師</rb><rt>ぼくし</rt></ruby>は、そっとのぞきこんだ。

「ちくしょうめ！　どこへしまってやがるんだろう」

口ぎたなくののしる声といっしょに、ぼーっとマッチのもえる音がして、<ruby><rb>黄色</rb><rt>きいろ</rt></ruby>なろうそくの光がゆらいだ。

「おお、ここだ！　こんなところへかくしていたんだな」

どろぼうは<ruby><rb>喜</rb><rt>よろこ</rt></ruby>びの声をあげ、<ruby><rb>金貨</rb><rt>きんか</rt></ruby>をちゃらちゃらとならした。

「うぬっ！」

<ruby><rb>牧師</rb><rt>ぼくし</rt></ruby>は、<ruby><rb>火</rb><rt>ひ</rt></ruby>かき<ruby><rb>棒</rb><rt>ぼう</rt></ruby>をにぎりしめた。

どろぼうのやつは、とうとう<ruby><rb>牧師</rb><rt>ぼくし</rt></ruby>がだいじにためていた<ruby><rb>金貨</rb><rt>きんか</rt></ruby>を見つけたらしい。

「あれを<ruby><rb>盗</rb><rt>ぬす</rt></ruby>まれてはたまるものか。わしがながい間かかって、やっと二ポンド十シリングためたんだぞ」

もう、ためらうひまはない。<ruby><rb>牧師</rb><rt>ぼくし</rt></ruby>は、

「このやろう！」

どなるといっしょに、ドアをけとばして、おどりこんだ。

「あっ！」

いると思ったどろぼうの<ruby><rb>姿</rb><rt>すがた</rt></ruby>は、どこにも見えない。どこへもぐったというのだろう。ただ<ruby><rb>机</rb><rt>つくえ</rt></ruby>の上にともされたろうそくの<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>が、ゆらゆらとゆれているばかりだった。

二人は、ぽかんと顔を見あわせた。

「たしかにここにいましたよ」

<ruby><rb>夫人</rb><rt>ふじん</rt></ruby>が言った。<ruby><rb>牧師</rb><rt>ぼくし</rt></ruby>は<ruby><rb>机</rb><rt>つくえ</rt></ruby>の下をのぞきこんだ。夫人はカーテンのかげをさがした。

そのとき、かすかに<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>の<ruby><rb>空気</rb><rt>くうき</rt></ruby>がゆれて、だれかが<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>をでてゆくけはいがした。

が、やはりだれもいないのだ。

「<ruby><rb>金貨</rb><rt>きんか</rt></ruby>はなくなっていますよ」

<ruby><rb>夫人</rb><rt>ふじん</rt></ruby>がさけんだ。

「うん、ろうそくだってともっている。だれかがこの部屋にいたことはたしかだよ」

「こんなおかしなことって、あるものでしょうか？」

夫人は<ruby><rb>歯</rb><rt>は</rt></ruby>をがちがちいわせて、ふるえていた。

と、またもや、<ruby><rb>廊下</rb><rt>ろうか</rt></ruby>で大きなくしゃみがきこえた。

「いるぞ」

<ruby><rb>牧師</rb><rt>ぼくし</rt></ruby>は、はじかれたように<ruby><rb>廊下</rb><rt>ろうか</rt></ruby>にとびだした。あらあらしい<ruby><rb>足音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>は<ruby><rb>廊下</rb><rt>ろうか</rt></ruby>をかけぬけ、<ruby><rb>台所</rb><rt>だいどころ</rt></ruby>のうら口のかんぬきを、らんぼうにひきあけているらしい。

牧師が<ruby><rb>台所</rb><rt>だいどころ</rt></ruby>にとびこんだしゅんかん、戸はあけられ、かすかな人のけはいが外へむかってかけだしたようだった。しかし、牧師の目には、やはりなにも見えなかった。

<ruby><rb>牧師</rb><rt>ぼくし</rt></ruby>と<ruby><rb>夫人</rb><rt>ふじん</rt></ruby>は、まっさおな顔を見あわしたまま、いつまでもいつまでも、じっと立っていた。

<ruby><rb>姿</rb><rt>すがた</rt></ruby>のないどろぼうが<ruby><rb>牧師館</rb><rt>ぼくしかん</rt></ruby>におしいったといううわさは、その日のうちに、アイピング村じゅうにひろまっていった。

## <ruby><rb>家具</rb><rt>かぐ</rt></ruby>がおどる

<ruby><rb>牧師館</rb><rt>ぼくしかん</rt></ruby>が<ruby><rb>姿</rb><rt>すがた</rt></ruby>のないどろぼうにひっかきまわされていたころ、<ruby><rb>黒馬旅館</rb><rt>くろうまりょかん</rt></ruby>の女あるじホール<ruby><rb>夫人</rb><rt>ふじん</rt></ruby>は、

「おまえさん、起きてくださいよ。ぐずぐずしていてはこまりますよ」

さかんに<ruby><rb>亭主</rb><rt>ていしゅ</rt></ruby>のホールをたたき起こしていた。二人は、お手伝いのミリーよりも早く起きて、いつものように<ruby><rb>穴蔵</rb><rt>あなぐら</rt></ruby>にしこんだビールにサルサ<ruby><rb>根</rb><rt>こん</rt></ruby>からとった<ruby><rb>液</rb><rt>えき</rt></ruby>をまぜ、いちだんと<ruby><rb>味</rb><rt>あじ</rt></ruby>をよくしようというのだ。

おかみさんは、まだ寝ぼけまなこをこすっているホールをひったてて、<ruby><rb>穴蔵</rb><rt>あなぐら</rt></ruby>におりていったが、

「おや、サルサ<ruby><rb>根</rb><rt>こん</rt></ruby>の<ruby><rb>液</rb><rt>えき</rt></ruby>のはいったびんを持ってくるのをわすれたよ。ちょいとおまえさん、大いそぎでとってきておくれよ」

「よしきた」

ホールは気がるにひきうけ、じぶんの<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>からいいつかったびんをとりだし、<ruby><rb>穴蔵</rb><rt>あなぐら</rt></ruby>へゆく<ruby><rb>階段</rb><rt>かいだん</rt></ruby>をかけおりようとした。

「おやっ！　<ruby><rb>玄関</rb><rt>げんかん</rt></ruby>のとびらのかんぬきがはずれているぞ」

ホールはびんを<ruby><rb>片手</rb><rt>かたて</rt></ruby>に、ぽかんとドアの前につったって、ゆうべたしかに<ruby><rb>玄関</rb><rt>げんかん</rt></ruby>のドアはしめたはずだ、と思った。

「そうだ。おれがろうそくをもって、うちのやつが家じゅうの戸じまりをしてまわったんだから、まちがいないな。それに、はて、あの<ruby><rb>客</rb><rt>きゃく</rt></ruby>の<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>の<ruby><rb>戸</rb><rt>と</rt></ruby>もあいてたようだったぞ」

ホールはそのまま、おくへひっかえして、客部屋のドアをおしてみた。<ruby><rb>案</rb><rt>あん</rt></ruby>のとおり、ドアは<ruby><rb>苦</rb><rt>く</rt></ruby>もなくひらいた。

<ruby><rb>客</rb><rt>きゃく</rt></ruby>の<ruby><rb>姿</rb><rt>すがた</rt></ruby>はどこにもみえない。ベッドの中はもぬけのからで、ぬぎちらした<ruby><rb>服</rb><rt>ふく</rt></ruby>があたりにちらばっている。ホールは、おかみさんのところにかけおりていった。

「おいおい、ジャニイや、ヘンフリイが言ったとおり、あの客は<ruby><rb>大悪党</rb><rt>だいあくとう</rt></ruby>らしいぜ」

おかみさんは、それをきくとかんしゃくをおこしてどなった。

「なにをねぼけたことを言ってるのさ。しっかりおしよ」

「ねぼけてなんかいねえよ。<ruby><rb>客</rb><rt>きゃく</rt></ruby>は<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>にいねえし、<ruby><rb>玄関</rb><rt>げんかん</rt></ruby>のかんぬきははずれているんだ。が、やつの<ruby><rb>服</rb><rt>ふく</rt></ruby>は<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>にほうりだしてあるんだが。とすると、はだかででかけたのかな？」

「おまえさん、それはほんとの話かい？」

「ほんとうとも……<ruby><rb>信</rb><rt>しん</rt></ruby>じないなら、おまえ、じぶんの目でみてみな」

おかみさんは顔いろをかえ、とっとっと<ruby><rb>階段</rb><rt>かいだん</rt></ruby>をのぼっていった。ホールはあとにつづいた。

<ruby><rb>穴蔵</rb><rt>あなぐら</rt></ruby>の<ruby><rb>階段</rb><rt>かいだん</rt></ruby>をのぼって一階にでたときだった。大きなくしゃみが、近くできこえた。

おかみさんはホールのくしゃみだと思い、ホールはおかみさんのだと考えて、おたがいに気にとめなかった。

「あら、ほんとにいないわ。へんだねえ、どうしたってんだろう」

おかみさんは、さっさと<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>にはいりこんで、ベッドにさわりながらさけんだ。

そのとたん、すぐうしろで、くすんくすん<ruby><rb>鼻</rb><rt>はな</rt></ruby>をすする音がした。おかみさんはすこしも気づかなかった。

「おまえさん、ちょっときてごらんよ。まだ夜あけ前だってのに、このベッドは起きてから一時間もたってるように、すっかりつめたくなってるんだよ」

「どれどれ」

ホールも、おくればせに近よってきた。

このときだった。世にもふしぎな、だれに言っても<ruby><rb>信</rb><rt>しん</rt></ruby>じてもらえそうもないことが、とつぜんに起こりはじめた。

まずさいしょは、ふとんがくるくるとまかれ、ぱっとベッドの外にとびだした。つぎには<ruby><rb>柱</rb><rt>はしら</rt></ruby>にかかっていた<ruby><rb>帽子</rb><rt>ぼうし</rt></ruby>が、きりきりとちゅうに<ruby><rb>舞</rb><rt>ま</rt></ruby>って、二、三<ruby><rb>回転</rb><rt>かいてん</rt></ruby>したかと思うと、矢のようにおかみさんの顔めがけてぶつかってきた。

「ああっ！」

おかみさんが<ruby><rb>帽子</rb><rt>ぼうし</rt></ruby>をさけようと、右にむいたとたん、こんどは<ruby><rb>洗面台</rb><rt>せんめんだい</rt></ruby>のスポンジがとんできた。つぎはズボン、そのつぎは<ruby><rb>服</rb><rt>ふく</rt></ruby>、<ruby><rb>恐怖</rb><rt>きょうふ</rt></ruby>に顔をひきつらして、かの女が<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>をうろうろと<ruby><rb>逃</rb><rt>に</rt></ruby>げまどうと、どこからともなく、からからとあざ<ruby><rb>笑</rb><rt>わら</rt></ruby>うつめたい声がきこえてきた。

さいごに、いすがすうっと<ruby><rb>宙</rb><rt>ちゅう</rt></ruby>にうかんだ。とみるまに、おかみさんめがけて、すごいいきおいで飛んできた。

「たすけてっ！」

おかみさんは<ruby><rb>悲鳴</rb><rt>ひめい</rt></ruby>をあげて、にげまどった。いすはおかみさんの<ruby><rb>背中</rb><rt>せなか</rt></ruby>にぴたっとくっついた。

「あれっ！　たすけて、だれかきて！」

なきさけぶおかみさんを、いすはぐいぐいとおし、<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>の外につきだした。ホールは<ruby><rb>這</rb><rt>は</rt></ruby>うようにして、いっしょに外にころがりでた。

ばたんと、二人のうしろでドアがいきおいよくしまった。

二人が<ruby><rb>命</rb><rt>いのち</rt></ruby>からがら、<ruby><rb>台所</rb><rt>だいどころ</rt></ruby>まで<ruby><rb>逃</rb><rt>に</rt></ruby>げのびると、お手伝いのミリーがかけつけてきた。

やっとこさでじぶんの<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>におちついたとき、ホール<ruby><rb>夫人</rb><rt>ふじん</rt></ruby>は、うわ言のように、

「ゆうれいだわ、きっとそうだ。そうでなければ、いすやズボンが、まるで生き物のようにとび歩くはずがないわ。ホール、すぐに<ruby><rb>玄関</rb><rt>げんかん</rt></ruby>のかぎをかけてちょうだい。あの男が帰ってきても中へ入れないように、早く、早く」

「ジャニイ、気をしずめなさい。ほら、これをぐっとひと口のんでごらん。ずっと<ruby><rb>気分</rb><rt>きぶん</rt></ruby>がしずまるから」

ホールがうろうろしながら、気つけ<ruby><rb>薬</rb><rt>ぐすり</rt></ruby>をおかみさんの口におしあてた。

「へんだ、へんだと思っていたんだけど……やっぱりあの男はわるい<ruby><rb>魔法</rb><rt>まほう</rt></ruby>をつかうんだわ。おっかさんの<ruby><rb>代</rb><rt>だい</rt></ruby>からのだいじな<ruby><rb>家具</rb><rt>かぐ</rt></ruby>に、<ruby><rb>悪霊</rb><rt>あくりょう</rt></ruby>をふきこんだんだわ。でなければ、いつもおっかさんが<ruby><rb>腰</rb><rt>こし</rt></ruby>かけていた、あのなつかしいいすが、わたしに飛びかかってくるはずがないわ」

「さあ、ジャニイ、もうひと口飲みなよ。おまえはえらくこうふんしてるよ」

ホールが一<ruby><rb>心</rb><rt>しん</rt></ruby>になだめた。

やがて夜がすっかり明けはなれ、明るい<ruby><rb>太陽</rb><rt>たいよう</rt></ruby>の光がまばゆくかがやきはじめると、<ruby><rb>黒馬旅館</rb><rt>くろうまりょかん</rt></ruby>には、<ruby><rb>鍛冶屋</rb><rt>かじや</rt></ruby>のウォッジャーズ、<ruby><rb>雑貨屋</rb><rt>ざっかや</rt></ruby>のハクスターがよび集められた。

しかし、だれひとり、この<ruby><rb>奇怪</rb><rt>きかい</rt></ruby>な話をきいて、これからどうすればいいか、はっきりと言える者はいなかった。

<ruby><rb>相談</rb><rt>そうだん</rt></ruby>はおなじところをめぐって、いつまでたってもらちがあかない。

ついに、ウォッジャーズがホールにむかって、

「これはやはり、おまえが<ruby><rb>客人</rb><rt>きゃくじん</rt></ruby>の<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>にいって、どういうわけでこんな<ruby><rb>奇怪</rb><rt>きかい</rt></ruby>なことが起こったのか、よくよくわけをきかしてもらってくるのが、いちばんいい<ruby><rb>方法</rb><rt>ほうほう</rt></ruby>じゃないかね」

と言いだした。これには、すぐにみんながさんせいして、お人よしのホールは、のこのこと<ruby><rb>客</rb><rt>きゃく</rt></ruby>の<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>にでかけていった。

「お客さま、ちょっとうかがわせておもらい<ruby><rb>申</rb><rt>もう</rt></ruby>してえだが――」

ホールがまのびした声をかけた、とたん、

「うるさい、でてゆけ！」

すさまじい声といっしょに、ホールは<ruby><rb>胸</rb><rt>むね</rt></ruby>ぐらをどーんとつかれて、ばったりたおれた。

## <ruby><rb>魔術師</rb><rt>まじゅつし</rt></ruby>か？

り、りりりーん！　もうれつな<ruby><rb>勢</rb><rt>いきお</rt></ruby>いでベルがなった。

これで三<ruby><rb>度目</rb><rt>どめ</rt></ruby>だ。あの化けものの<ruby><rb>客部屋</rb><rt>きゃくべや</rt></ruby>からである。

「なんどでもならすがいいわ。だれがいってやるもんか。あんな男は<ruby><rb>悪魔</rb><rt>あくま</rt></ruby>に食われて死んでしまえばいいんだ」

おかみさんは、長いすによこになったきり、にくにくしそうに言って、起きあがろうともしない。

あれっきり<ruby><rb>客</rb><rt>きゃく</rt></ruby>の<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>にはよりつく人もない。おかみさんは<ruby><rb>朝食</rb><rt>ちょうしょく</rt></ruby>をもってゆかなかった。きっと客は、<ruby><rb>腹</rb><rt>はら</rt></ruby>をすかせて<ruby><rb>弱</rb><rt>よわ</rt></ruby>りきっているのだろう。

<ruby><rb>昼</rb><rt>ひる</rt></ruby>ちかくになると、おかみさんはいいにおいをたてて、じゅうじゅうと<ruby><rb>肉</rb><rt>にく</rt></ruby>をやきはじめた。

たまりかねた男は、<ruby><rb>台所</rb><rt>だいどころ</rt></ruby>の<ruby><rb>戸口</rb><rt>とぐち</rt></ruby>にたって、

「おかみさんはいないかね？　すぐに、へやへきてくれ」

はや口に言って、<ruby><rb>姿</rb><rt>すがた</rt></ruby>をけした。

「ふん、お呼びかね」

おかみさんはうしろ<ruby><rb>姿</rb><rt>すがた</rt></ruby>に<ruby><rb>毒</rb><rt>どく</rt></ruby>づきながら、ちょっと考えて、<ruby><rb>勘定書</rb><rt>かんじょうがき</rt></ruby>をひょいと<ruby><rb>盆</rb><rt>ぼん</rt></ruby>の上にのせ、<ruby><rb>客</rb><rt>きゃく</rt></ruby>のへやにはいっていった。

「お<ruby><rb>勘定</rb><rt>かんじょう</rt></ruby>でございますか？」

<ruby><rb>盆</rb><rt>ぼん</rt></ruby>をつきつけながら、おかみさんはすまして言った。

「なにを言ってるんだ。だれが勘定だといった。ぼくはまだ朝食もくってないんだぜ。なぜ、ぼくの<ruby><rb>食事</rb><rt>しょくじ</rt></ruby>の<ruby><rb>支度</rb><rt>したく</rt></ruby>をしてくれないんだ。ベルをならしても知らんぷりだ。ぼくは<ruby><rb>仙人</rb><rt>せんにん</rt></ruby>じゃないぞ。<ruby><rb>飯</rb><rt>めし</rt></ruby>もくわずに生きていられるか」

「おやおや、お<ruby><rb>食事</rb><rt>しょくじ</rt></ruby>のさいそくでございますか？　では、わたくしにもさいそくさせてくださいませ。お<ruby><rb>勘定</rb><rt>かんじょう</rt></ruby>をしていただきたいんです」

「三日まえに言っただろう。まだ<ruby><rb>金</rb><rt>かね</rt></ruby>を送ってこないんだよ」

「あたしは二日まえに、ちゃんと<ruby><rb>申</rb><rt>もう</rt></ruby>したはずですわ。これいじょうお金を送ってくるのなんか<ruby><rb>待</rb><rt>ま</rt></ruby>っていられないんです。あなたさまは朝の食事がほんのすこしおくれたからって、がみがみとお<ruby><rb>叱</rb><rt>しか</rt></ruby>りになりますが、あたしどもはもう、五日もお<ruby><rb>勘定</rb><rt>かんじょう</rt></ruby>をまっておりますよ」

「な、なにを言うんだ。人をぺこぺこの<ruby><rb>空</rb><rt>す</rt></ruby>きっ<ruby><rb>腹</rb><rt>ぱら</rt></ruby>にさせておいて……け、けしからん。じつにけしからん」

「けしからんのは、そちらですよ。食事のさいそくをなさるくらいなら、さっさとお<ruby><rb>勘定</rb><rt>かんじょう</rt></ruby>をはらってからにしていただきたいですね。わたしのほうが、よっぽどさいそくしたいですよ」

この<ruby><rb>言葉</rb><rt>ことば</rt></ruby>は、さすがに男の心にぐさりとつきささったらしい。男はにわかにおとなしくなり、

「まあ、そう腹をたてないでくれたまえ。じつは、ないと思った金が、おもいがけなくポケットの中にすこしばかり残っていたんだ」

「ええっ！」

とたんにおかみさんの頭に、さっき村の人がかけこんで話したばかりの<ruby><rb>牧師館</rb><rt>ぼくしかん</rt></ruby>のどろぼうのことが、さっと頭にひらめいた。なんとなく思いあたるものがあった。

そこで、ずばりとたずねた。

「お金があったんですって？　いったい、どこで手にお入れになったのかしら……」

みるみる男のようすがおちつきを<ruby><rb>失</rb><rt>うしな</rt></ruby>い、はげしい<ruby><rb>怒</rb><rt>いか</rt></ruby>りにぶるぶるふるえ、じだんだをふんでどなった。

「なにをぬかす。<ruby><rb>失礼</rb><rt>しつれい</rt></ruby>なやつめ！」

おかみさんはすこしもひるまず、

「ちっとも失礼じゃございませんわ。お<ruby><rb>勘定</rb><rt>かんじょう</rt></ruby>をいただくにしろ、朝の<ruby><rb>食事</rb><rt>しょくじ</rt></ruby>を<ruby><rb>用意</rb><rt>ようい</rt></ruby>しますにしろ、そのまえにぜひともはっきりうかがっておきたいことがございます。お<ruby><rb>客</rb><rt>きゃく</rt></ruby>さまは、いったいどうやって、いすに<ruby><rb>魔法</rb><rt>まほう</rt></ruby>をかけてあやつり、いつのまに<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>からぬけだし、また、いつお<ruby><rb>帰</rb><rt>かえ</rt></ruby>りになったのですか？　なんのことわりもなく、<ruby><rb>空気</rb><rt>くうき</rt></ruby>のように、かって気ままに出入りなさってはめいわくでございますよ。それに――」

男は、

「うるさい、やめろ、やめろ！」

ものすごいけんまくでどなりちらし、足をふみならした。

「ようし、きさまたちがそんな<ruby><rb>料</rb><rt>りょう</rt></ruby>けんなら考えがあるぞ。おれがどんな<ruby><rb>人間</rb><rt>にんげん</rt></ruby>か、おまえらにわかるはずはないんだ。が、知りたければ知らせてやろう。見ておくがいい！」

## <ruby><rb>恐怖</rb><rt>きょうふ</rt></ruby>の<ruby><rb>一瞬</rb><rt>いっしゅん</rt></ruby>

<ruby><rb>怒</rb><rt>いか</rt></ruby>りくるった男は、ついにじぶんから<ruby><rb>正体</rb><rt>しょうたい</rt></ruby>をあらわしたのだった。

「見よ！」

男は<ruby><rb>手袋</rb><rt>てぶくろ</rt></ruby>をはめた手をふりまわし、

「おれがどんな<ruby><rb>人間</rb><rt>にんげん</rt></ruby>か知りたければしらせてやろう。よく見ておけ！」

そのすさまじさに、おかみさんはちぢみあがってしまった。

男は、ぱっと手をひろげると、つるりとひとなで<ruby><rb>顔</rb><rt>かお</rt></ruby>をなでおろした。

すると、顔のまん中に、ぽかりと<ruby><rb>穴</rb><rt>あな</rt></ruby>があいた。

「さあ」

男は手ににぎったものを、おかみさんの手のなかにおしつけた。

みるまに変わってしまった男の顔に、どぎもをぬかれてしまったおかみさんは、男のわたすものを、ひょいとうけとった。

が、ひと目みるなり、かなきり声をあげてほうりだしてしまった。

<ruby><rb>鼻</rb><rt>はな</rt></ruby>だ！　たったいままで男の顔にくっついていた鼻なのである。

ピンク色に光った鼻は、ごろごろと<ruby><rb>床</rb><rt>ゆか</rt></ruby>をころがっていった。

「だれかきて！」

おかみさんの<ruby><rb>必死</rb><rt>ひっし</rt></ruby>のさけびに、ホールや<ruby><rb>酒場</rb><rt>さかば</rt></ruby>にいた男の<ruby><rb>連中</rb><rt>れんちゅう</rt></ruby>がどやどやとかけつけてきた。

男は、その連中のまえで、ゆうゆうと<ruby><rb>眼鏡</rb><rt>めがね</rt></ruby>をはずし、<ruby><rb>帽子</rb><rt>ぼうし</rt></ruby>をとった。

かけつけた連中は、立ちすくんで<ruby><rb>息</rb><rt>いき</rt></ruby>をのみ、男のやることをながめているばかりだった。

こんどは、ほうたいをぐるぐるほどきはじめた。

人びとは、ほうたいの下から、どんなおそろしい顔があらわれるのか、と考えただけでも、おそろしさにぞっとして、じっとしていられなくなった。うき足だったひとりが、

「こいつあたいへんだ！」

大声をあげると、わっとばかり、ひとりのこらず<ruby><rb>逃</rb><rt>に</rt></ruby>げだしてしまった。

ホール夫人だけは、足がすくんで、その場にとりのこされていた。

男の顔から、ほうたいがつぎつぎととられてゆくにつれて、どうしたというのだろう？――

そのあとには、なにもなくなってしまったのである。考えていたような恐ろしい顔も、みにくい顔もあらわれてはこずに、男の顔はかき消え、<ruby><rb>首</rb><rt>くび</rt></ruby>なしの<ruby><rb>怪人</rb><rt>かいじん</rt></ruby>がそこにつっ立っていた。

首なしの<ruby><rb>化</rb><rt>ば</rt></ruby>けものは、そのまま、<ruby><rb>玄関</rb><rt>げんかん</rt></ruby>にかけだしていった。

入口の<ruby><rb>酒場</rb><rt>さかば</rt></ruby>により集まって、がやがやとさわいでいた村の連中に、ホール、それからお<ruby><rb>手伝</rb><rt>てつだ</rt></ruby>いのミリーがけたたましい<ruby><rb>悲鳴</rb><rt>ひめい</rt></ruby>をあげて、<ruby><rb>玄関</rb><rt>げんかん</rt></ruby>のとびらをおしあけて、こぼれ<ruby><rb>落</rb><rt>お</rt></ruby>ちるようにわっと外へとびだした。

それからあとのさわぎは、お話するまでもなかった。

人びとは<ruby><rb>遠</rb><rt>とお</rt></ruby>まきに<ruby><rb>黒馬旅館</rb><rt>くろうまりょかん</rt></ruby>をとりかこんで、

「頭がねえそうだよ。ほんとにねえんだ。<ruby><rb>帽子</rb><rt>ぼうし</rt></ruby>をとって、ほうたいをはずしたら、その下にあるはずの頭がなかったってんだ」

「ばかを言え。そんなことがあるはずがねえよ」

「ほんとだってば、おや、<ruby><rb>巡査</rb><rt>じゅんさ</rt></ruby>のジャッファーズがきたよ。<ruby><rb>化</rb><rt>ば</rt></ruby>けものをつかまえにきたんだ」

<ruby><rb>旅館</rb><rt>りょかん</rt></ruby>をとりかこんでいた人びとは、わっと巡査をとりかこんで、おもい思いにしゃべりたてた。<ruby><rb>巡査</rb><rt>じゅんさ</rt></ruby>は、いばって、

「頭があろうがなかろうが、わしはやつをつかまえなければならん」

「そうです、そうです。お<ruby><rb>巡</rb><rt>まわ</rt></ruby>りさん、さあ、つかめえてくだせえ」

ホールは、まっすぐに<ruby><rb>玄関</rb><rt>げんかん</rt></ruby>にすすみ、入口のドアをいきおいよくあけた。

ジャッファーズは、えらい元気でとびこんでいった。

<ruby><rb>旅館</rb><rt>りょかん</rt></ruby>のうす<ruby><rb>暗</rb><rt>くら</rt></ruby>い<ruby><rb>台所</rb><rt>だいどころ</rt></ruby>のすみに、首のない<ruby><rb>人間</rb><rt>にんげん</rt></ruby>が、片手にかじりかけのパン、片手にチーズの大きな切れをもってたっている。

「あれですっ！」

ホールがさけんだ。

「なんだ、きさまたち！　なにしにはいってきやがった」

<ruby><rb>首</rb><rt>くび</rt></ruby>なしの<ruby><rb>化物</rb><rt>ばけもの</rt></ruby>の、<ruby><rb>首</rb><rt>くび</rt></ruby>のあたりと思われるあたりから、<ruby><rb>怒</rb><rt>おこ</rt></ruby>った声がきこえてきた。

「ほほう、ずいぶん変わったやつだな。しかし首があろうがなかろうが、わしは<ruby><rb>逮捕状</rb><rt>たいほじょう</rt></ruby>をもってきてるんだから、からだだけでもつかまえていくぞ」

<ruby><rb>巡査</rb><rt>じゅんさ</rt></ruby>は、ぱっと男めがけてとびかかった。男はさっとうしろにとびさがり、パンとチーズを<ruby><rb>巡査</rb><rt>じゅんさ</rt></ruby>めがけてなげつけた。

「こんちくしょう！　てむかう気か……」

<ruby><rb>巡査</rb><rt>じゅんさ</rt></ruby>はまっかになって<ruby><rb>怒</rb><rt>おこ</rt></ruby>った。ホールはせいいっぱい気をきかせて<ruby><rb>机</rb><rt>つくえ</rt></ruby>の上のナイフをとり、ちょうど<ruby><rb>応援</rb><rt>おうえん</rt></ruby>にかけつけた<ruby><rb>鍛冶屋</rb><rt>かじや</rt></ruby>のウォッジャーズにわたした。

男はさわぎが大きくなったので、かんかんに<ruby><rb>腹</rb><rt>はら</rt></ruby>をたてたらしく、いきなり巡査の顔をいやと言うほどなぐりつけた。

「あっ！」

ふいをうたれた<ruby><rb>巡査</rb><rt>じゅんさ</rt></ruby>は、<ruby><rb>一瞬</rb><rt>いっしゅん</rt></ruby>たじろいだが、<ruby><rb>猛然</rb><rt>もうぜん</rt></ruby>と男にくみついていった。

けとばす、つきとばす、すごい<ruby><rb>格闘</rb><rt>かくとう</rt></ruby>がはじまった。

<ruby><rb>巡査</rb><rt>じゅんさ</rt></ruby>は、<ruby><rb>苦心</rb><rt>くしん</rt></ruby>のすえに相手の<ruby><rb>首</rb><rt>くび</rt></ruby>をしめあげた。もちろん、見えない首をしめあげるのだから、ずいぶんおかしなものだったが、巡査は一生けんめいだった。

男は苦しがって、巡査のむこうずねをけとばした。

「足をつかまえてくれ！」

<ruby><rb>巡査</rb><rt>じゅんさ</rt></ruby>は、<ruby><rb>痛</rb><rt>いた</rt></ruby>さをこらえてさけんだ。ホールが足をおさえにきたが、まごまごするうちに、あばら<ruby><rb>骨</rb><rt>ほね</rt></ruby>のあたりを音がするくらいけとばされて、<ruby><rb>胸</rb><rt>むね</rt></ruby>をおさえてしゃがみこんでしまった。

男はふいに、

「うむ！」

とさけぶと、ばか力をだして<ruby><rb>巡査</rb><rt>じゅんさ</rt></ruby>をなげとばし、あべこべに巡査を下にくみしいてしまった。

「こいつはいけねえ」

<ruby><rb>巡査</rb><rt>じゅんさ</rt></ruby>のはた色が悪いとみたウォッジャーズは、おく<ruby><rb>病風</rb><rt>びょうかぜ</rt></ruby>にふかれて、<ruby><rb>戸口</rb><rt>とぐち</rt></ruby>のほうへ<ruby><rb>逃</rb><rt>に</rt></ruby>げだした。そこへ、

「おーい、たすけにきたぞ！」

と、ハクスターと<ruby><rb>馬車屋</rb><rt>ばしゃや</rt></ruby>がかけこんできた。

<ruby><rb>巡査</rb><rt>じゅんさ</rt></ruby>とウォッジャーズが、ほっとしたとたん、<ruby><rb>戸棚</rb><rt>とだな</rt></ruby>から、がらがらとガラスびんが三つ四つころがりおち、<ruby><rb>鼻</rb><rt>はな</rt></ruby>をつくいやなにおいが部屋いっぱいにひろがった。

## <ruby><rb>首</rb><rt>くび</rt></ruby>のない男

「こうさんするよ」

なにを思ったのか、<ruby><rb>巡査</rb><rt>じゅんさ</rt></ruby>をおさえつけていた手をはなして、<ruby><rb>首</rb><rt>くび</rt></ruby>なし男は立ちあがった。

みれば、頭ばかりか、右手も左手もなくなっている。<ruby><rb>手袋</rb><rt>てぶくろ</rt></ruby>がぬげてしまったからだ。

<ruby><rb>巡査</rb><rt>じゅんさ</rt></ruby>は、すばやく起きなおり、<ruby><rb>威厳</rb><rt>いげん</rt></ruby>をつくろいながら、男に<ruby><rb>手錠</rb><rt>てじょう</rt></ruby>をはめようとして、なさけない声を出した。

「こいつはいかん、どこへ<ruby><rb>手錠</rb><rt>てじょう</rt></ruby>をはめればいいんだ、<ruby><rb>見当</rb><rt>けんとう</rt></ruby>がつかんぞ」

みんなは、ぎくっとして顔を見あわせた。

「ああっ！　やつは<ruby><rb>靴</rb><rt>くつ</rt></ruby>をぬいだぞ、<ruby><rb>靴下</rb><rt>くつした</rt></ruby>もぬいだ。あれっ！　足がない」

ホールが、とんきょうな声をあげた。

怪しい男は、うずくまって<ruby><rb>靴下</rb><rt>くつした</rt></ruby>をぬいだと思うと、こんどは<ruby><rb>上着</rb><rt>うわぎ</rt></ruby>をぬぎ、チョッキのボタンをはずしはじめた。

それは<ruby><rb>世</rb><rt>よ</rt></ruby>にもふしぎな<ruby><rb>光景</rb><rt>こうけい</rt></ruby>だった。

<ruby><rb>服</rb><rt>ふく</rt></ruby>だけが<ruby><rb>宙</rb><rt>ちゅう</rt></ruby>に浮かび、そして、まるで<ruby><rb>生命</rb><rt>せいめい</rt></ruby>のあるもののように動いて、一枚一枚ぬぎすてられていくのだ。

人びとはあっけにとられて手も足もでず、ぼんやりとながめるばかりだった。

男は、さっさとボタンをはずし、チョッキをぽいとぬぎすてた。シャツだけになった。

そのとき、<ruby><rb>巡査</rb><rt>じゅんさ</rt></ruby>があわてて大声でさけんだ。

「やめさせろ！　服をみんなぬがさせると、たいへんなことになるぞ！　すっかり見えなくなって、つかまえられなくなるんだ」

「そうだ、そうだ、いまのうちにつかまえてしまえ！」

しかし、すでに男は、手ばやくなにもかもぬぎすてていたので、いまとなっては、あちこち動きまわっている白いシャツだけが、<ruby><rb>怪</rb><rt>あや</rt></ruby>しい男のありかをしめしているだけになった。

シャツの<ruby><rb>袖</rb><rt>そで</rt></ruby>がひるがえると、ホールの顔にものすごいげんこつがとんできた。

<ruby><rb>巡査</rb><rt>じゅんさ</rt></ruby>がシャツめがけてとびついていく。ヘンフリイはうしろからせまっていったが、したたか耳たぶのあたりをなぐりつけられて、<ruby><rb>悲鳴</rb><rt>ひめい</rt></ruby>をあげた。

そのうち、シャツがくねくねと<ruby><rb>気味</rb><rt>きみ</rt></ruby>わるく動き、<ruby><rb>人間</rb><rt>にんげん</rt></ruby>がぬぎすてるようにまるまったと思うと、ぽんと<ruby><rb>窓</rb><rt>まど</rt></ruby>ぎわになげすてられて、<ruby><rb>怪</rb><rt>あや</rt></ruby>しい男は<ruby><rb>完全</rb><rt>かんぜん</rt></ruby>にその<ruby><rb>姿</rb><rt>すがた</rt></ruby>を<ruby><rb>消</rb><rt>け</rt></ruby>してしまった。

かれをつかまえる手がかりは、なんにもなくなったのである。

「気をつけろ、ドアをしめろ。外へださないようにして、なんでもいいから、手にさわったものはみんなつかまえて、なぐりつけろ！」

「ほら、いた！」

「いや、こっちだ！」

だれもかれもむやみに<ruby><rb>空間</rb><rt>くうかん</rt></ruby>をなぐりつけるばかりで、なんのたしにもならなかった。

「おい、おれをなぐるとはけしからんぞ！」

「おまえをなぐったんじゃないんだよ。あいつはふわふわ浮いてたんでなぐりつけたんだが、やつめ、うまくかわしやがったらしいな。そのはずみでおまえさんをかすったんだ」

人びとは、むやみにさわぎ、へとへとにつかれてきた。

そのとき、<ruby><rb>巡査</rb><rt>じゅんさ</rt></ruby>はかれとハクスターの間に動く、いようなけはいを<ruby><rb>感</rb><rt>かん</rt></ruby>じた。

「やつだ！」

かれは、見当をつけてとびついた。手ごたえがあり、男のがっちりとした<ruby><rb>体</rb><rt>からだ</rt></ruby>をつかまえたとたんに、<ruby><rb>首</rb><rt>くび</rt></ruby>をぐいとしめあげられた。

「つかまえたぞ！」

<ruby><rb>巡査</rb><rt>じゅんさ</rt></ruby>は、<ruby><rb>首</rb><rt>くび</rt></ruby>をしめられて<ruby><rb>紫色</rb><rt>むらさきいろ</rt></ruby>になりながら、一生けんめいにさけんだ。

男は、ひどい力で巡査をしめつけながら、しだいに<ruby><rb>玄関</rb><rt>げんかん</rt></ruby>のほうにでてきた。それにつれて人びとも右に左によろめきながら外へおしだされていった。

男と巡査がもつれるように<ruby><rb>玄関</rb><rt>げんかん</rt></ruby>のふみ<ruby><rb>段</rb><rt>だん</rt></ruby>まできたとき、巡査はもう<ruby><rb>息</rb><rt>いき</rt></ruby>もたえだえになっていた。

「えーい！」

男は、かけ声といっしょに、<ruby><rb>巡査</rb><rt>じゅんさ</rt></ruby>をぶるんとふりまわして、地面になげとばした。巡査は、ひと声うめき声をあげると、その場にばったりと<ruby><rb>倒</rb><rt>たお</rt></ruby>れたまま、動かなくなってしまった。

「わあっ、<ruby><rb>化</rb><rt>ば</rt></ruby>けものがきたぞ！　<ruby><rb>巡査</rb><rt>じゅんさ</rt></ruby>がたおされた！　やられないうちに<ruby><rb>逃</rb><rt>に</rt></ruby>げろ！」

村びとは後もみずに、つきあたったりつまずいたりしながら、右へ左へ、くもの子をちらすように<ruby><rb>逃</rb><rt>に</rt></ruby>げていった。

人っこひとりいなくなった道に、<ruby><rb>巡査</rb><rt>じゅんさ</rt></ruby>のジャッファーズだけが、気をうしなってよこたわっていた。

## <ruby><rb>逃走</rb><rt>とうそう</rt></ruby>

アイピング村から二キロほどへだたったところにある<ruby><rb>丘</rb><rt>おか</rt></ruby>の<ruby><rb>中腹</rb><rt>ちゅうふく</rt></ruby>に、ひとりのこじきがすわっていた。

名をトーマス・マーヴェルという男で、お人よしですこしばかり頭の<ruby><rb>働</rb><rt>はたら</rt></ruby>きがにぶく、ぶくぶくふとったしまりのない顔をして、頭にはおそろしく時代がかったシルクハットをちょこんとのっけていた。

かれはさっきから目のまえの草のうえに、二<ruby><rb>足</rb><rt>あし</rt></ruby>の<ruby><rb>長靴</rb><rt>ながぐつ</rt></ruby>をきちんとならべて、つくづくと見いっていた。

<ruby><rb>片方</rb><rt>かたほう</rt></ruby>はいままではいていた<ruby><rb>長靴</rb><rt>ながぐつ</rt></ruby>で、片方はさっきもらったばかりの長靴だ。

いままでの分は、足にぴったりとしてはき<ruby><rb>心地</rb><rt>ごこち</rt></ruby>はよかったが、ひどい<ruby><rb>古靴</rb><rt>ふるぐつ</rt></ruby>で、雨がふると、じくじくと水がしみこんできた。

もらったばかりのほうは、古くてもなかなかりっぱな<ruby><rb>品</rb><rt>しな</rt></ruby>だったが、かれの足にはすこし大きすぎた。

「どっちをはいたらいいのかな？　水のしみこむのはいやだし、だぶだぶのやつをはくのもいやだし」

トーマスは、さんさんとかがやく<ruby><rb>太陽</rb><rt>たいよう</rt></ruby>の下で、いつまでも、どちらをはくか<ruby><rb>迷</rb><rt>まよ</rt></ruby>いつづけて、ぼんやりと<ruby><rb>靴</rb><rt>くつ</rt></ruby>をみながらすわっていた。

「どちらも<ruby><rb>長靴</rb><rt>ながぐつ</rt></ruby>だが、<ruby><rb>古</rb><rt>ふる</rt></ruby>ぼけてるな」

トーマスのうしろでふいに人の声がした。トーマスは、ふりかえりもせずに、

「そうなんですよ。どっちもいただきものですがね。いままでのやつは水がはいるんです。あっしは、いつも靴はこのへんでいただいておるんですよ。このあたりの人たちは、おうようで<ruby><rb>情</rb><rt>なさけ</rt></ruby>ぶかいですよ」

「ばかを言え、このへんのやつらはみんないやなやつらばかりだ！」

「そうですかね。だが、わたしはそう思いませんね。この靴だっていただきましたしね」

トーマスは、こう言ってふりかえった。

ところが、どうしたわけだろう。いまのいままでしゃべっていた男が、どこにも見あたらないのだ。

「だんな、いったいどこにいらっしゃるんで？」

かれは、きょろきょろと見まわした。

風で木の<ruby><rb>枝</rb><rt>えだ</rt></ruby>がゆれているばかりで、だれひとりいない。

「おやおや、おや？　おれはよっぱらったのかな？　それとも……」

「こわがらなくてもいいよ。おれはちゃんといるんだから」

「ひゃあ！　だんな、どこにいらっしゃるんですか、こわがるなって言われたって、こわくなりますよ」

「こわがらなくてもいいと言ってるじゃないか、おちつけよ。おまえにおれの<ruby><rb>姿</rb><rt>すがた</rt></ruby>がみえなくても、いることは、ちゃんとここにいるんだから」

トーマスは、あわてて<ruby><rb>丘</rb><rt>おか</rt></ruby>の上をぐるぐる見まわした。どこを見ても人っこひとりいなかった。生きているものは、あたりのこずえを飛びまわっている<ruby><rb>小鳥</rb><rt>ことり</rt></ruby>だけだ。

「助けてくれ！　おれはどうかしてしまったよ。空から声がふってくるなんて、ただごとじゃねえや」

「おちつけ、おれは<ruby><rb>化</rb><rt>ば</rt></ruby>けものじゃないよ。それに、おまえが気がちがったんでもない。おれのいうことを<ruby><rb>信用</rb><rt>しんよう</rt></ruby>しろ。でないと、石をぶつけるぞ」

「だって、だんな、どこにおいでなんです？」

トーマスの声がおわるかおわらないかに、小石がひょいと地面から<ruby><rb>舞</rb><rt>ま</rt></ruby>いあがったと思うと、びゅっと風をきってかれの肩をめがけてとんできた。

「ひゃあ！」

トーマスがわめいて<ruby><rb>逃</rb><rt>に</rt></ruby>げだそうとしたとたん、目に見えないなにかに、どすんと力いっぱいおしとばされて、ひっくりかえってしまった。

「さあ、これでもおれのいうことを<ruby><rb>信</rb><rt>しん</rt></ruby>じないか？」

トーマスは、やっとこさで起きあがると、草の上にすわりこんで、ふてくされてこたえた。

「どうでもしろ、おれにはなんのことやら、さっぱりわからねえや。ひとりでにとんでくる石だの、<ruby><rb>空中</rb><rt>くうちゅう</rt></ruby>からふってくる声だの……<ruby><rb>気味</rb><rt>きみ</rt></ruby>のわるいことはやめにしてもらいたいね」

すると、空中の声はやさしくなり、トーマスをなだめるように、

「おれの<ruby><rb>姿</rb><rt>すがた</rt></ruby>がおまえに見えないからって、おれは<ruby><rb>怪</rb><rt>あや</rt></ruby>しい<ruby><rb>人間</rb><rt>にんげん</rt></ruby>ではないんだ。ただわけがあっておれの姿は<ruby><rb>空気</rb><rt>くうき</rt></ruby>とおなじで、すきとおっていてだれにも見えないんだ」

「えっ、おれのことをからかわないでくだせえよ。いくらおれがこじきだからって、ばかにしてもらいますまい。すきとおって姿のない人間なんて、いるわけがありませんよ」

「ところがいるんだよ。いま、おれの<ruby><rb>体</rb><rt>からだ</rt></ruby>にさわらせてやるからな」

あっけにとられているトーマスの手が、だれかの手につよくにぎられた。

トーマスは、おずおずしながら手さぐりであたりをなでまわすと、なるほど、たくましい男の<ruby><rb>体</rb><rt>からだ</rt></ruby>が、はっきりと手ざわりでさぐれた。

「こいつはおもしれえや、だんなはほんとにいたんですね。だが<ruby><rb>体</rb><rt>からだ</rt></ruby>がすきとおってしまったなんて、ずいぶんふしぎですねえ。だんなの腹の中には、なにもはいってないんですか？　パンだのチーズだの食べれば、腹の中に見えるでしょう」

「それはそうだよ、<ruby><rb>消化</rb><rt>しょうか</rt></ruby>してしまうまでは見えてるよ」

「なるほど、しかし、どうしてそんなふしぎな体になりなさったのですかね？」

「それにはながい<ruby><rb>話</rb><rt>はなし</rt></ruby>があるんだ。しかし、そんなことをおまえに話してきかせたって、わかりはしないよ。それよりおれがこうしておまえのあとをつけてきたのは、話したいことがあるからなんだよ」

「おれにたのみたいことですって……いったい、それはなんですね？」

トーマスは、目をくりくりさせてきいた。

「じつは、おれははだかなので、いろいろのことでこまりきっているんだ。大いそぎで着る物を手にいれてもらいたいんだよ。それから<ruby><rb>寝</rb><rt>ね</rt></ruby>る<ruby><rb>所</rb><rt>ところ</rt></ruby>とな――ほかにもいろいろやってもらいたいことはあるが、とりあえずそれだけを、おまえの力でぜひなんとかしてくれ」

「着る物を手にいれろとおっしゃるんですか、なんだか、あっしは頭がぐらぐらしてきたようだ。すこし落ちついて、ゆっくりと考えさせてくだせえ。だれひとりいない<ruby><rb>丘</rb><rt>おか</rt></ruby>からいきなり声がして、なんにも見えねえのに、さぐればたしかにだんながいらっしゃる。<ruby><rb>体</rb><rt>からだ</rt></ruby>がすきとおっているんだそうだが……そしてこんどは<ruby><rb>着物</rb><rt>きもの</rt></ruby>とねる所を手にいれろとおっしゃる。あっしは、すっかりめんくらってしまいましたよ」

「いまさら、ぐずぐず言うな。<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>のわしが、おまえをえらんだんだ。おれのために<ruby><rb>働</rb><rt>はたら</rt></ruby>いてくれ。そうすればお<ruby><rb>礼</rb><rt>れい</rt></ruby>はたっぷりやるよ。わかったな」

そして<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>は、大きなくしゃみをした。

「そのかおり、おまえがおれをうらぎってみろ、どんなことになるか、おもい知らせてやるからな」

男は、言いおわってぽんとトーマスの<ruby><rb>肩</rb><rt>かた</rt></ruby>をたたいた。トーマスは、きゃっと<ruby><rb>恐怖</rb><rt>きょうふ</rt></ruby>のさけび<ruby><rb>声</rb><rt>ごえ</rt></ruby>をあげ、

「と、とんでもねえ。うらぎったりするものですか……<ruby><rb>心配</rb><rt>しんぱい</rt></ruby>しねえでも<ruby><rb>大丈夫</rb><rt>だいじょうぶ</rt></ruby>ですよ。あっしにできることなら、なんでもいたしますよ――なんなりと言いつけてくだせえ」

トーマスは、気のどくなほど、はげしくふるえながら言った。

## <ruby><rb>怒</rb><rt>いか</rt></ruby>る<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>

## <ruby><rb>酒場</rb><rt>さかば</rt></ruby>の中

その日は<ruby><rb>復活祭</rb><rt>ふっかつさい</rt></ruby>だった。

アイピング村では、朝はやくから村じゅうの年よりも若いものも<ruby><rb>晴着</rb><rt>はれぎ</rt></ruby>を<ruby><rb>着</rb><rt>き</rt></ruby>かざって、うきうきしていた。

<ruby><rb>黒馬旅館</rb><rt>くろうまりょかん</rt></ruby>では、<ruby><rb>亭主</rb><rt>ていしゅ</rt></ruby>のホールと<ruby><rb>雑貨屋</rb><rt>ざっかや</rt></ruby>のハクスターは、とりとめのないばか話をだらだらとつづけていた。そこへ、あらあらしくドアをおして、ひとりの男がはいってきた。

<ruby><rb>古</rb><rt>ふる</rt></ruby>びたシルクハットを頭にのせた、ずんぐりとした小がらの男で、ひどく、しんけんな顔つきで、わきめもふらず<ruby><rb>酒場</rb><rt>さかば</rt></ruby>にはいってくると、つかつかととおりぬけて、おくの<ruby><rb>客部屋</rb><rt>きゃくべや</rt></ruby>のほうへ歩いていった。<ruby><rb>浮浪者</rb><rt>ふろうしゃ</rt></ruby>のトーマスだ。

そのすばやさときたら、はっと気づいたときには、もう男はおくの<ruby><rb>客部屋</rb><rt>きゃくべや</rt></ruby>のドアをあけていた。

「おっと、お<ruby><rb>客</rb><rt>きゃく</rt></ruby>さん、お客さん、そこはいまではお客さん用に使っていないんですよ。もどってきてくだせえ」

ホールが、まのびのした<ruby><rb>調子</rb><rt>ちょうし</rt></ruby>でどなった。

男はへんじもしなかったが、まもなく、むっつりした顔でもどってくると、<ruby><rb>酒場</rb><rt>さかば</rt></ruby>にきて、ききとれないほどひくい声で、酒を<ruby><rb>注文</rb><rt>ちゅうもん</rt></ruby>して飲みはじめた。

「おい、かわったやつじゃねえか。気をつけたほうがいいぜ」

ハクスターがホールにささやいた。

男は、ぐいぐいと<ruby><rb>流</rb><rt>なが</rt></ruby>しこむようにたてつづけていく<ruby><rb>杯</rb><rt>はい</rt></ruby>ものみ、口のはたをてのひらでぬぐうと立ちあがって、<ruby><rb>中庭</rb><rt>なかにわ</rt></ruby>にぶらりとでていった。

たばこに火をつけ、ぶらぶらと<ruby><rb>庭</rb><rt>にわ</rt></ruby>を歩きまわっている。いかにも、ものうそうだった。

が、ハクスターは、男がときどき、ちらりと<ruby><rb>客部屋</rb><rt>きゃくべや</rt></ruby>の<ruby><rb>窓</rb><rt>まど</rt></ruby>にするどい<ruby><rb>視線</rb><rt>しせん</rt></ruby>を送っているのを見のがさなかった。

どさり！

重い物が<ruby><rb>窓</rb><rt>まど</rt></ruby>からおちる音がした。男は身をかがめて、落ちてきたテーブルクロスに<ruby><rb>包</rb><rt>つつ</rt></ruby>んだ大きな包みと、三<ruby><rb>冊</rb><rt>さつ</rt></ruby>のノートを、小わきにかかえこむとみると、うさぎのようなすばやさで<ruby><rb>木戸</rb><rt>きど</rt></ruby>から<ruby><rb>大通</rb><rt>おおどお</rt></ruby>りへ走りでた。

「どろぼう！」

さっととびあがったハクスターは、いちもくさんにかれのあとを追った。

「どろぼうだっ！　つかまえてくれ！」

ホールも、ハクスターのあとを追ってかけだした。

外には、あかるい日の光がさんさんとふりこぼれ、着かざった人びとがのどかにゆききしていた。

シルクハットをかぶり、大きな<ruby><rb>包</rb><rt>つつ</rt></ruby>みをかかえたおかしな人かげは、風のように<ruby><rb>街路</rb><rt>がいろ</rt></ruby>をかけぬけ、<ruby><rb>街</rb><rt>まち</rt></ruby>かどをまがって<ruby><rb>丘</rb><rt>おか</rt></ruby>へむかって走っていった。

「どろぼうだ！　つかまえてくれ」

ホールとハクスターは声をかぎりにわめいた。しかし、<ruby><rb>往来</rb><rt>おうらい</rt></ruby>の人びとは、あっけにとられて、ただ見送っているばかりだった。

とある<ruby><rb>街</rb><rt>まち</rt></ruby>かどまできたとき、やっとこさで男に追いついた。

「こんちくしょうめっ！　もう<ruby><rb>逃</rb><rt>に</rt></ruby>がさんぞ、つかまえたぞ！」

おどりかかったと思ったそのとき、ハクスターは、目に見えないなにものかに、むこうずねを<ruby><rb>力</rb><rt>ちから</rt></ruby>いっぱいけとばされた。

「わっ！」

ふいをうたれたハクスターはもんどりうって道にたおれ、それっきり気を失ってしまった。

つづいて同じようにおどりかかっていったホールも、ものの<ruby><rb>見事</rb><rt>みごと</rt></ruby>に<ruby><rb>投</rb><rt>な</rt></ruby>げとばされ、<ruby><rb>腰</rb><rt>こし</rt></ruby>の<ruby><rb>骨</rb><rt>ほね</rt></ruby>をしたたかうって起きあがれなくなった。

シルクハットの男は、そのまま、すごいいきおいで<ruby><rb>丘</rb><rt>おか</rt></ruby>のほうへ<ruby><rb>姿</rb><rt>すがた</rt></ruby>を消していった。

## <ruby><rb>正体</rb><rt>しょうたい</rt></ruby>が<ruby><rb>知</rb><rt>し</rt></ruby>れると

夕ぐれがせまってきた。

シルクハットをかぶったれいの男が、ぶなの<ruby><rb>並木</rb><rt>なみき</rt></ruby>をぬうようにして、ブランブルハースト<ruby><rb>街道</rb><rt>かいどう</rt></ruby>をいそぎ足で歩いていた。

テーブルクロスの<ruby><rb>包</rb><rt>つつ</rt></ruby>みとノートは、やはりだいじそうに小わきにかかえている。

いつのまにか、トーマスの足どりがしだいにおそくなり、のろのろと悲しげな顔つきで考えこみながら歩いていると、<ruby><rb>空中</rb><rt>くうちゅう</rt></ruby>からせかせかした声がひびいてきた。

「おい、さっさと歩け。なにを考えてるんだ。また、さっきのようにおれをまいて<ruby><rb>逃</rb><rt>に</rt></ruby>げようというのかい？　こんど<ruby><rb>逃</rb><rt>に</rt></ruby>げてみろ、ただではおかないからな」

「<ruby><rb>逃</rb><rt>に</rt></ruby>げようなんて、そんなことは考えてませんよ。あっ、そんなに<ruby><rb>肩</rb><rt>かた</rt></ruby>をつっつかねえでくだせえ。おいら、いまに<ruby><rb>傷</rb><rt>きず</rt></ruby>だらけになってしまいますぜ」

トーマスは、しおしおとこたえた。<ruby><rb>空中</rb><rt>くうちゅう</rt></ruby>の声はなおも<ruby><rb>意地</rb><rt>いじ</rt></ruby>わるく、

「いいか、こんど<ruby><rb>逃</rb><rt>に</rt></ruby>げようとしたら、<ruby><rb>殺</rb><rt>ころ</rt></ruby>してやるからな」

「とんでもねえ。おいら、あんたをまいて<ruby><rb>逃</rb><rt>に</rt></ruby>げようなどとは、これっぽっちだって考えていませんよ。ただ、どこでまがったらいいかわからなくて、あのまがり角へはいりこんじまったんですよ。あっしはこのへんの道はちっとも知らねえんです。そんなおそろしいことを言わねえでくだせえ」

<ruby><rb>浮浪者</rb><rt>ふろうしゃ</rt></ruby>のトーマスは、いまにも<ruby><rb>泣</rb><rt>な</rt></ruby>きだしそうだった。目にみえて元気を<ruby><rb>失</rb><rt>うしな</rt></ruby>い、あきらめきったようすで、とぼとぼと歩きつづけた。

<ruby><rb>空中</rb><rt>くうちゅう</rt></ruby>の声は、もちろん言わずとしれた<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>である。

かれは<ruby><rb>黒馬旅館</rb><rt>くろうまりょかん</rt></ruby>でうばってきた<ruby><rb>衣類</rb><rt>いるい</rt></ruby>と、<ruby><rb>研究</rb><rt>けんきゅう</rt></ruby>ノートの<ruby><rb>包</rb><rt>つつ</rt></ruby>みをトーマスにもたせ、どこへゆこうとしているのか、しきりに先をいそいでいた。

「なあ、トーマス、アイピング村のばか者どもが、考えなしの大さわぎをおっぱじめやがったおかげで、おれの<ruby><rb>姿</rb><rt>すがた</rt></ruby>が<ruby><rb>透明</rb><rt>とうめい</rt></ruby>で<ruby><rb>着物</rb><rt>きもの</rt></ruby>を身につけさえしなければ、だれにも姿をみられなくなるってことを、みんなに知られてしまったんだ。いまいましいじゃないか。そこで<ruby><rb>問題</rb><rt>もんだい</rt></ruby>はこれから先どうするかってことだ。どうせ、やつらはおれを追いまわすにきまってるだろうし……なにかいい考えはないか」

「だんな、あっしにいい考えなんてあるはずがないですよ」

しばらく二人は、だまって道をいそいだ。しだいに夕やみがあたりをつつんで、遠くの家の<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>がちらほらと見えてきた。

トーマスは<ruby><rb>疲</rb><rt>つか</rt></ruby>れきっていた。小わきにかかえた<ruby><rb>包</rb><rt>つつ</rt></ruby>みが、しだいに下にずり落ちていった。

「おい、ぼやぼやするな。しっかりと<ruby><rb>荷物</rb><rt>にもつ</rt></ruby>をかかえて<ruby><rb>歩</rb><rt>ある</rt></ruby>け。そのノートはだいじなんだ。なくすんじゃないぞ、しっかり持ってろ！」

いきなりするどい声がして、トーマスの<ruby><rb>肩</rb><rt>かた</rt></ruby>をぐいと<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>がついた。トーマスはあわてて、ずるずると<ruby><rb>包</rb><rt>つつ</rt></ruby>みをひきあげ、しっかりとかかえなおしてから、泣き声をあげ、

「だんな、だんなはあっしをなんに使おうとおっしゃるんで……はじめは<ruby><rb>旅館</rb><rt>りょかん</rt></ruby>からだんなの<ruby><rb>荷物</rb><rt>にもつ</rt></ruby>をもちだす手伝いをしてくれとおっしゃった。それがすむと、あっしの<ruby><rb>役目</rb><rt>やくめ</rt></ruby>はおわったはずなのに、やはりあっしをはなしてはくださらねえで、こうして荷物をかかえてだんなのいくほうへつれてゆきなさる。いったい、どういうお気もちなんでごぜえますか？」

「つべこべいうな、おまえみたいなやつでもおれにはいり用なんだ。それに、いまにわしが<ruby><rb>仕事</rb><rt>しごと</rt></ruby>をやりはじめれば、どうしてもおまえの手伝いがいるようになるのだ」

「なにをおやりなさるのかしらねえが、あっしはとても、だんなの役には立ちましねえ。だいいち、じまんではねえが、力はないし、そのうえ、<ruby><rb>心臓</rb><rt>しんぞう</rt></ruby>もよわいんです。せいぜい、さっきぐらいのことしかやれねえですよ。<ruby><rb>度胸</rb><rt>どきょう</rt></ruby>はねえし、びくびくしながら手伝ったところで、あんまり役にもたたねえでしょう」

「力がないのはこまるな、見かけだおしなのか……まあいいさ、それに、なにもびくびくすることはないんだ。おれはだいそれたことをたくらんでいるわけじゃないし、おれがいつもくっついててやるから、おれのいうとおりにやればいいんだ」

トーマスは<ruby><rb>首</rb><rt>くび</rt></ruby>をすくめ、ちょっと考えていたが、思いきって、

「だんながいくらこわがらなくてもいいとおっしゃっても、あっしはうす<ruby><rb>気味</rb><rt>きみ</rt></ruby>わるくて死にてえくらいでさあ。いってえ、どんなことをあっしにしろとおっしゃるんで……あっしだって、いやならいやとおことわりできる<ruby><rb>権利</rb><rt>けんり</rt></ruby>があるんですがね」

「だまれ！　だまれ、だまれ。だまっておれのいいつけどおりにしていればいいんだ。おまえは<ruby><rb>利口</rb><rt>りこう</rt></ruby>な<ruby><rb>人間</rb><rt>にんげん</rt></ruby>じゃないし、あまり役に立ちそうもないが、おれのいいつけどおりにやりさえすれば、おれはいつもおまえを<ruby><rb>守</rb><rt>まも</rt></ruby>っていてやろう」

<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>は、強い力でぐっとトーマスの手首をつかんで、しかりとばした。

「わかってますよ。どうせ、あなたがあっしをはなしてくれないぐらいのことは、知ってまさあね」

トーマスは、シルクハットをかぶった頭をたれ、しずみきって歩いていった。

村をすぎていったじぶんには、あたりはとっぷりと日がくれ、美しい<ruby><rb>星</rb><rt>ほし</rt></ruby>がきらきらと空にかがやきはじめていた。

## ポート・ストウ村で

よく朝の十時ごろ、トーマスはポート・ストウ村にたどりついた。

<ruby><rb>旅</rb><rt>たび</rt></ruby>のほこりをあび、つかれた顔をして村はずれの<ruby><rb>宿屋</rb><rt>やどや</rt></ruby>のまえのベンチにすわりこんでいた。

ベンチの上にはれいのノートが三<ruby><rb>冊</rb><rt>さつ</rt></ruby>、<ruby><rb>革</rb><rt>かわ</rt></ruby>ひもでしばっておいてある。テーブルクロスの<ruby><rb>包</rb><rt>つつ</rt></ruby>みのほうは、とちゅうで<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>の気がかわり、ブランブルハーストをでたところの<ruby><rb>松林</rb><rt>まつばやし</rt></ruby>ですててしまったのである。

トーマスのようすはひどくへんだった。せかせかとあたりを見まわし、なんども、なんどもポケットに手をつっこんでは、しきりになにかをさがしているようすだった。

一<ruby><rb>時間</rb><rt>じかん</rt></ruby>あまりもトーマスはベンチにすわって、こんな<ruby><rb>奇妙</rb><rt>きみょう</rt></ruby>なことをくりかえしてやっていた。

「やあ、いいお天気じゃありませんか」

ほがらかな声がひびいて、<ruby><rb>船員</rb><rt>せんいん</rt></ruby>ふうの気さくそうな男が、<ruby><rb>新聞</rb><rt>しんぶん</rt></ruby>を<ruby><rb>片手</rb><rt>かたて</rt></ruby>にトーマスに近づき、ベンチに腰かけた。

「そうですね」

トーマスはぎくっとしてふりかえり、気ののらないようすでこたえた。しかし、男はトーマスのようすに気をわるくするでもなく、ひどくあいそうよく、

「<ruby><rb>暑</rb><rt>あつ</rt></ruby>くもなし<ruby><rb>寒</rb><rt>さむ</rt></ruby>くもなし、じつに気もちのいい朝だ。あなたは、どちらからおいでなさったね」

「遠くからですよ」

「ははあ、おやっ、そこにおいていなさるのは本ですかい？」

本と聞かれてトーマスは、はっとして大あわてにノートをひざの上にのせた。そのひょうしにかれのポケットで、ちゃらちゃらと<ruby><rb>金貨</rb><rt>きんか</rt></ruby>の音がした。

男は、目をまるくして、しげしげとトーマスを見つめた。ほこりで<ruby><rb>汚</rb><rt>よご</rt></ruby>れきったトーマスの<ruby><rb>服装</rb><rt>ふくそう</rt></ruby>に、金貨の音はどう考えても<ruby><rb>似</rb><rt>に</rt></ruby>つかわしくなかったからだ。しかし、その<ruby><rb>船員</rb><rt>せんいん</rt></ruby>は、すぐに前とおなじあけっぴろげな<ruby><rb>態度</rb><rt>たいど</rt></ruby>になって、

「おれは、本なんてものはなん<ruby><rb>年間</rb><rt>ねんかん</rt></ruby>も読んだことがねえが、ずいぶんめずらしいことを書いたのがあるそうだね。その本にもかわったことが書いてあるかね」

「そりゃあそうでさ」

トーマスは、気がかりらしく、ちらっと<ruby><rb>相手</rb><rt>あいて</rt></ruby>の顔を見て、つづいてあたりを見まわした。

「しかし、けさの<ruby><rb>新聞</rb><rt>しんぶん</rt></ruby>には、本にまけないほどめずらしいことがのってるぜ」

「そうですかね」

「なんだ、おめえ、まだ新聞を読んでいないのかい？　<ruby><rb>姿</rb><rt>すがた</rt></ruby>の見えねえ人間ってのが、あらわれたそうで、でかでかと書きまくってあるよ」

とたんにトーマスは、おちつかなくなってしまった。口をもぐもぐと動かし、むやみにほっぺたをひっかいてから、きこえないほどのほそい声で、

「<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>ですって、いったいどこにそいつがあらわれたんですね。オーストラリアか、アメリカですかい？」

「ばかを言いたまえ、そんな遠くの話ではないんだ。この土地にあらわれたんだ」

「えっ！」

トーマスは、ぐるぐるっと<ruby><rb>心配</rb><rt>しんぱい</rt></ruby>そうにあたりを見まわした。

「はっはっは、この<ruby><rb>辺</rb><rt>へん</rt></ruby>といってもこのベンチのまわりじゃねえよ。この近くの村にだよ」

「ああ、そうですか、で、その<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>はなにをしようってんですかね？」

「あばれたいだけあばれたってことだ。なにしろ<ruby><rb>体</rb><rt>からだ</rt></ruby>が見えねえんだから、どんなことだってやれるさ。だれもつかまえることも、とめることもできないからね。<ruby><rb>昔</rb><rt>むかし</rt></ruby>、おとぎ話にあったのが、ほんとのことになったんだね」

「そうですか、あっしはこの四日間、新聞ってやつを見たことがねえんでしてね」

「<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>がはじめて<ruby><rb>暴</rb><rt>あば</rt></ruby>れだしたのは、アイピング村がはじまりだそうだ」

「それで……」

「その人間はどういう男なのか、アイピング村にくるまではどこに<ruby><rb>住</rb><rt>す</rt></ruby>んでいたのか、どんなことをしていたのか、さっぱりわかっていないそうだ。ほら、この新聞をみてみたまえ、アイピング村の<ruby><rb>怪事件</rb><rt>かいじけん</rt></ruby>って書いてあるだろう」

「なるほど、それではやはり、ほんとうの話なんですね。信じられねえようだが……」

「そいつは、はじめ<ruby><rb>黒馬旅館</rb><rt>くろうまりょかん</rt></ruby>にとまっていたんだそうだ。頭にほうたいをまいて<ruby><rb>服</rb><rt>ふく</rt></ruby>をきこんでいたから、だれひとり<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>だなんて気づかなかったそうだ」

トーマスは、そっとあたりを見まわしてからうなずいた。

「だが、ついに<ruby><rb>化</rb><rt>ば</rt></ruby>けの<ruby><rb>皮</rb><rt>かわ</rt></ruby>のはがれるときがきたんだ。アイピング村の<ruby><rb>連中</rb><rt>れんちゅう</rt></ruby>は、そいつが<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>とわかったので、<ruby><rb>大格闘</rb><rt>だいかくとう</rt></ruby>をやってつかまえようとしたが、なにしろ<ruby><rb>相手</rb><rt>あいて</rt></ruby>の<ruby><rb>姿</rb><rt>すがた</rt></ruby>はみえないんだ。いたずらにさわぎまわるばかりで、とうとう<ruby><rb>逃</rb><rt>に</rt></ruby>げられたということだ。」

「へえ、ふしぎな話ですな。で、アイピング村であばれてから、<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>はどこへいったのでしょうね」

「さあ、たしかなことではないらしいが、ポート・ストウ<ruby><rb>方面</rb><rt>ほうめん</rt></ruby>へむかったようすだって書いてあるぜ。おれたちのいるこの村へ、<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>なんていうおかしなやつにやってこられるのは、ありかたくないね」

「まったくですよ。なにしろ<ruby><rb>姿</rb><rt>すがた</rt></ruby>がみえないんですからね」

トーマスは<ruby><rb>船員</rb><rt>せんいん</rt></ruby>の話をききながらも、まわりの<ruby><rb>物音</rb><rt>ものおと</rt></ruby>に気をくばっていた。かすかな風の動きでも、ききのがさないようにしていた。

## じつは、その……

そして、あたりにかれの<ruby><rb>主人</rb><rt>しゅじん</rt></ruby>の<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>の姿がなさそうだと見きわめをつけると、

「あっしはぐうぜんなことから、あなたのいまおっしゃった<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>を知っているんですよ」

「えっ？　おまえが知ってるというのかい？」

「へえ、そうなんですよ。わしがやっと知りあったときのことを聞いてくだせえ。が、びっくらしねえでくだせえよ。たいへんかわったことなんだから」

「そりゃあそうだろうよ。いいよ、びっくりしねえから話してきかせなよ」

「あっしは、透明人間のようにおそろしいやつに、いままで<ruby><rb>会</rb><rt>あ</rt></ruby>った……」

言いかけてトーマスはふいに、

「いててて、おおいてえ！」

苦しそうにさけび、片手で耳をおさえ、片手で本をつかんで、<ruby><rb>体</rb><rt>からだ</rt></ruby>をまげておかしな<ruby><rb>腰</rb><rt>こし</rt></ruby>つきでベンチから立ちあがった。

<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>は、いつのまにか、トーマスのところに帰ってきていたのだ。

トーマスが、見しらぬ船員にかれのことをしゃべりそうになると、ぐいぐいとトーマスの耳をつまみあげた。

トーマスは、透明人間が<ruby><rb>帰</rb><rt>かえ</rt></ruby>ってきていたと知ると、おそろしさでふるえあがってしまった。

もう、かれのことを<ruby><rb>船員</rb><rt>せんいん</rt></ruby>にしゃべるどころではない。透明人間に耳をひっぱられ、ずるずるとくっついていくだけだった。

しかし、そんなこととは<ruby><rb>夢</rb><rt>ゆめ</rt></ruby>にも知らない<ruby><rb>船員</rb><rt>せんいん</rt></ruby>は、びっくりしてトーマスをのぞきこみ、

「おいおい、どうかしたのかい？　どこが<ruby><rb>痛</rb><rt>いた</rt></ruby>いのだ？」

と<ruby><rb>心配</rb><rt>しんぱい</rt></ruby>そうにたずねた。トーマスはじりじりとベンチから<ruby><rb>遠</rb><rt>とお</rt></ruby>ざかってゆきながら、

「<ruby><rb>歯</rb><rt>は</rt></ruby>が<ruby><rb>痛</rb><rt>いた</rt></ruby>いんだよ。急にいたみだしたんで、おおいてえ、いてえ」

しかし、トーマスのようすはどこか<ruby><rb>変</rb><rt>へん</rt></ruby>だった。歯が痛いと言いながら、<ruby><rb>片手</rb><rt>かたて</rt></ruby>で耳をおさえて、<ruby><rb>片手</rb><rt>かたて</rt></ruby>でノートをしっかりとつかんでいる。船員は、うさんくさそうにトーマスをじろじろと見て、

「おい、どうしたんだい？　<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>のことを話すと言ったじゃないか？」

「うそでさ。いっぱいかついだだけですよ」

トーマスが<ruby><rb>苦</rb><rt>くる</rt></ruby>しそうにこたえると、<ruby><rb>船員</rb><rt>せんいん</rt></ruby>はむかっ<ruby><rb>腹</rb><rt>ぱら</rt></ruby>をたてたらしく、

「新聞にだってのっているんだ。透明人間はたしかにいるんだ。なんだ、透明人間を知ってるなんて言って、人をかつぐ気だったのか？　しかし、きさまがやつのことをしらなくても、透明人間はいるんだぞ」

「<ruby><rb>新聞</rb><rt>しんぶん</rt></ruby>だって、でたらめを書くこともありますよ。あっしは、このうそをつきはじめたやつを知ってるんですよ。やつの口から<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>なんていうでたらめが話されて、ほうぼうへひろまっていったんですよ」

船員は、<ruby><rb>半信半疑</rb><rt>はんしんはんぎ</rt></ruby>でトーマスの顔をじっと見つめた。

「だが、新聞にのっているし……りっぱな人たちが<ruby><rb>証人</rb><rt>しょうにん</rt></ruby>になってるしな」

「うそですよ。うそですよ。だれがなんと言ったってうそにきまってますよ。ばかばかしい、<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>なんてものが、いまの世の中にいるはずがないじゃありませんか」

トーマスは<ruby><rb>必死</rb><rt>ひっし</rt></ruby>になって、がんこに言いはった。船員はおもしろくない顔をして、

「それほどはっきりうそとわかっているなら、なんだってはじめにうそだと言わねえんだ」

「なにっ！」

二人は、ぐっとにらみあった。いまにもどちらからか、げんこのつぶてが飛んできそうなあんばいだった。

「トーマス、ぐずぐずするな、おれといっしょにくるんだ」

とつぜん、<ruby><rb>空中</rb><rt>くうちゅう</rt></ruby>から声がした。

トーマスは、はっとしたようで、そのまま、おかしな<ruby><rb>腰</rb><rt>こし</rt></ruby>つきでひょこひょこ歩きだした。

「<ruby><rb>逃</rb><rt>に</rt></ruby>げるのか」

船員がうしろからどなった。

「逃げるもんか」

トーマスはくるりとむきなおろうとしたが、あべこべにつきとばされるように、前へとんとんとつんのめった。

そして、それっきり<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>もみずに<ruby><rb>船員</rb><rt>せんいん</rt></ruby>から遠ざかっていった。

だれかと言いあらそいでもしているようなつぶやきが、いつまでも聞こえていた。

船員は、大またをひろげ<ruby><rb>腰</rb><rt>こし</rt></ruby>に両手をあてがって、遠ざかっていく相手をにらみつけ、

「あいつは<ruby><rb>新聞</rb><rt>しんぶん</rt></ruby>が読めねえんだよ。なにがうそだい。目を大きくあけて新聞をみろ、ちゃんとくわしく書いてあるから、まぬけめ！」

声のつづくかぎり、どなりまくっていた。

## <ruby><rb>空中</rb><rt>くうちゅう</rt></ruby>を<ruby><rb>飛</rb><rt>と</rt></ruby>ぶ<ruby><rb>金貨</rb><rt>きんか</rt></ruby>

このことがあって二日ほどたったとき、またまた<ruby><rb>船員</rb><rt>せんいん</rt></ruby>は、世にもふしぎなできごとにであった。

船員は、じぶんの<ruby><rb>部屋</rb><rt>じぶん</rt></ruby>でゆっくりとコーヒーをすすっていた。

たっぷり<ruby><rb>砂糖</rb><rt>さとう</rt></ruby>をほうりこんだ、<ruby><rb>濃</rb><rt>こ</rt></ruby>いコーヒーをうまそうに飲みながら、かたわらの新聞をながめていると、

「おおい、あにき、あにきいるかい」

と、われるように戸をたたく者がいる。

「だれだい？　しずかにしろ、戸がこわれるじゃないか。戸をたたくのをやめて入ってこい」

ころがりこんできたのは、かれのなかまのわかい<ruby><rb>船</rb><rt>ふな</rt></ruby>のりだった。

「なんだい、ひどくあわてて……どんな<ruby><rb>大事件</rb><rt>だいじけん</rt></ruby>が起こったっていうのかい？　えっ、おまえ、<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>にでもぶつかったというのかね？」

船員はなかまの顔を、にやにや笑って見ながら声をかけた。

「いいや、透明人間じゃない。だが、おなじようにへんなふしぎなことなんだ」

「ふしぎなこと？　まあいいから落ちつきなよ。コーヒーをごちそうするから、ゆっくり話したらどうだい」

やがて、<ruby><rb>熱</rb><rt>あつ</rt></ruby>いコーヒーがはこぼれ、わかい<ruby><rb>船</rb><rt>ふな</rt></ruby>のりはひと<ruby><rb>息</rb><rt>いき</rt></ruby>つくと、まだこうふんのさめないようすで話しだした。

「おどろいたの、なんのって、きょうのようにおどろいたことは、いままで一度だってありはしねえよ、あにきだってその場にいあわせたら、きっと目の玉がひっくりかえるほどおどろくにちがいないよ」

「おれがおどろくか、おどろかないか、そんなことはいいけど、その話というのはどんなことなんだい？　おまえはかんじんのことはちっとも話してねえぜ」

「うん、それだよ。おれが朝はやくセント・マイクル<ruby><rb>小路</rb><rt>こうじ</rt></ruby>を歩いていたんだ。まだ時間が早かったので、<ruby><rb>街</rb><rt>まち</rt></ruby>はしいんとしていて、通っている人は、おれのずっと先を歩いている年よりきりで、ほかに人かげは前にも<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>にも見えなかった。おれはこんど乗っていく船や、ゆく先の<ruby><rb>港</rb><rt>みなと</rt></ruby>のことを<ruby><rb>考</rb><rt>かんが</rt></ruby>えて歩いていた。その時、どういうきっかけだったかわからないが、ひょいとよこの<ruby><rb>壁</rb><rt>かべ</rt></ruby>に目をやった」

「うん、それで……」

「そのとたんに、おどろいたねえ。ひとにぎりの<ruby><rb>金貨</rb><rt>きんか</rt></ruby>が、<ruby><rb>壁</rb><rt>かべ</rt></ruby>にそって<ruby><rb>空中</rb><rt>くうちゅう</rt></ruby>をふわふわととんでいるんだ。それを見たときのびっくりしたこと……おれは思わずなんども目をこすったよ。が、なん度見なおしても、ほんものの金貨だ。かなりの早さで<ruby><rb>飛</rb><rt>と</rt></ruby>んでいくんだ。じっと見つめているうちに、すこしおどろきがおさまると、<ruby><rb>欲</rb><rt>よく</rt></ruby>がむらむらっと起こったんだ」

「その<ruby><rb>金貨</rb><rt>きんか</rt></ruby>を、じぶんのものにしようとしたのかい？」

<ruby><rb>船</rb><rt>ふな</rt></ruby>のりはいつのまにか、わかいなかまのふしぎな話にひきずりこまれて、<ruby><rb>熱心</rb><rt>ねっしん</rt></ruby>にきいていた。

「おはずかしいが、そうなんだ。あたりに人はいない、<ruby><rb>金貨</rb><rt>きんか</rt></ruby>は<ruby><rb>持主</rb><rt>もちぬし</rt></ruby>がいるようではなし、ちょうど手のとどくところをとんでいるんだ。おれは、一枚や二枚ちょうだいしたって、たいして悪くはあるまいと考えたので、ひょいと手をのばして、その<ruby><rb>金貨</rb><rt>きんか</rt></ruby>をつかもうとした」

「うまくつかめたのか？」

「いいや、手をのばしたとたん、いきなり強い力でなぐり<ruby><rb>倒</rb><rt>たお</rt></ruby>されて、その場にばったりとたおれてしまった。ひどく<ruby><rb>腰</rb><rt>こし</rt></ruby>をうってのびてしまったが、かろうじて<ruby><rb>痛</rb><rt>いた</rt></ruby>みをこらえて立ちあがったときには、<ruby><rb>金貨</rb><rt>きんか</rt></ruby>はちょうちょうが<ruby><rb>舞</rb><rt>ま</rt></ruby>うように、ふわふわとマイクル<ruby><rb>小路</rb><rt>こうじ</rt></ruby>のかどを消えていったんだ」

「おまえ、<ruby><rb>夢</rb><rt>ゆめ</rt></ruby>でも見ていたのじゃないか？　ゆうべ、ぐっすり<ruby><rb>眠</rb><rt>ねむ</rt></ruby>ったのかい？」

<ruby><rb>船</rb><rt>ふな</rt></ruby>のりが<ruby><rb>疑</rb><rt>うた</rt></ruby>ぐりぶかい<ruby><rb>調子</rb><rt>ちょうし</rt></ruby>でいうと、わかいなかまは、<ruby><rb>不平</rb><rt>ふへい</rt></ruby>そうにほおをふくらし、

「いやになるなあ、あにきまでがそんなことを言うのですかい？　おれの<ruby><rb>腰</rb><rt>こし</rt></ruby>は、その時すごい力でなぐり<ruby><rb>倒</rb><rt>たお</rt></ruby>されて、いやっというほど地面にうちつけたので、いまでもずきんずきん<ruby><rb>痛</rb><rt>いた</rt></ruby>んでますよ。おれだってさっきまで、<ruby><rb>金貨</rb><rt>きんか</rt></ruby>が<ruby><rb>空中</rb><rt>くうちゅう</rt></ruby>をふわふわ<ruby><rb>飛</rb><rt>と</rt></ruby>ぶなんてことがあるとは思ってませんでしたよ。だけど、はっきりじぶんの目でみたんです。これよりたしかなことはありませんよ。おれは<ruby><rb>金貨</rb><rt>きんか</rt></ruby>がマイクル<ruby><rb>小路</rb><rt>こうじ</rt></ruby>のかどに<ruby><rb>消</rb><rt>き</rt></ruby>えてゆくまで、じっと見ていて、その足であにきのところへかけつけてきたんだよ」

「そうか、では、まんざらうそでもなさそうだし、おまえが<ruby><rb>寝</rb><rt>ね</rt></ruby>ぼけていたわけでもないんだね。とすると、ずいぶんふしぎな<ruby><rb>気味</rb><rt>きみ</rt></ruby>のわるい話じゃないか」

「そうなんだよ。おれも<ruby><rb>金貨</rb><rt>きんか</rt></ruby>が見えてる間は<ruby><rb>無我</rb><rt>むが</rt></ruby>むちゅうだったが、金貨が消えてしまったとたん、ぞっとしたね。がたがたとふるえてきて、どうしてもとまらねえんだ。このごろは<ruby><rb>変</rb><rt>へん</rt></ruby>なことばかり<ruby><rb>続</rb><rt>つづ</rt></ruby>くじゃないか。<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>だなんて<ruby><rb>恐</rb><rt>おそ</rt></ruby>ろしいやつのことを、新聞がでかでか書きたてたと思うと、金貨が<ruby><rb>空中</rb><rt>くうちゅう</rt></ruby>をとびまわる。おれはなんとなくおそろしくてしかたがないよ」

<ruby><rb>船</rb><rt>ふな</rt></ruby>のりは、その時、なぜともなく<ruby><rb>宿屋</rb><rt>やどや</rt></ruby>の前で会ったシルクハットをかぶったみょうな男のことと、そのとき<ruby><rb>空中</rb><rt>くうちゅう</rt></ruby>からきこえた声のことをふっと思いだした。

（おれも頭がどうかしているのかな。あのときふいに<ruby><rb>空中</rb><rt>くうちゅう</rt></ruby>から声がきこえてきたような気がしたが……そら耳だと思っていたが、もしかすると、ほんとに空中からきこえたのかもしれないぞ。金貨が空中を<ruby><rb>飛</rb><rt>と</rt></ruby>ぶなら、空中から声がきこえてもふしぎではないかもしれん）

ひとりで考えこんでしまった。わかいなかまもだまりこんで、やけにたばこばかりすっていた。

<ruby><rb>金貨</rb><rt>きんか</rt></ruby>が<ruby><rb>空中</rb><rt>くうちゅう</rt></ruby>を<ruby><rb>飛</rb><rt>と</rt></ruby>ぶということは、<ruby><rb>事実</rb><rt>じじつ</rt></ruby>だったらしい。

その<ruby><rb>証拠</rb><rt>しょうこ</rt></ruby>にポート・ストウ村では、一日じゅう、ほうぼうの物かげやへいのそばを、<ruby><rb>金貨</rb><rt>きんか</rt></ruby>がふわふわと飛んでいた。

そのようすを見たという人はいく人もあった。

「ええ、そうですよ。人もいなければ動物もいません。ただ<ruby><rb>金貨</rb><rt>きんか</rt></ruby>だけがふわふわとかなりの<ruby><rb>速</rb><rt>はや</rt></ruby>さで<ruby><rb>飛</rb><rt>と</rt></ruby>んでるんですよ。わたしが近づいたとたんに、どこへともなく消えてしまったんです」

かれらは口をそろえて言った。

「そしておどろくじゃありませんか。その<ruby><rb>金貨</rb><rt>きんか</rt></ruby>は、どうも、ほうぼうの金庫やぜに<ruby><rb>箱</rb><rt>ばこ</rt></ruby>からとびだしてきたものらしいんですよ。村の<ruby><rb>銀行</rb><rt>ぎんこう</rt></ruby>の<ruby><rb>金庫</rb><rt>きんこ</rt></ruby>からも、ちょうど<ruby><rb>片手</rb><rt>かたて</rt></ruby>でつかめるほどの<ruby><rb>金貨</rb><rt>きんか</rt></ruby>と、紙できちんと<ruby><rb>巻</rb><rt>ま</rt></ruby>いた<ruby><rb>貨幣</rb><rt>かへい</rt></ruby>とが、ふいに<ruby><rb>空中</rb><rt>くうちゅう</rt></ruby>に<ruby><rb>舞</rb><rt>ま</rt></ruby>いあがり、おどろく<ruby><rb>行員</rb><rt>こういん</rt></ruby>をしり<ruby><rb>目</rb><rt>め</rt></ruby>に、ふわふわと<ruby><rb>飛</rb><rt>と</rt></ruby>んで<ruby><rb>銀行</rb><rt>ぎんこう</rt></ruby>をでてゆき、<ruby><rb>表通</rb><rt>おもてどお</rt></ruby>りにとびだすと、そのまま見えなくなってしまったそうだ」

ふしぎなことのあったのは、<ruby><rb>銀行</rb><rt>ぎんこう</rt></ruby>だけではなかった。

<ruby><rb>食料品</rb><rt>しょくりょうひん</rt></ruby>をうっているこじんまりした店では、<ruby><rb>客</rb><rt>きゃく</rt></ruby>につり<ruby><rb>銭</rb><rt>せん</rt></ruby>をわたすために<ruby><rb>主人</rb><rt>しゅじん</rt></ruby>が<ruby><rb>銭箱</rb><rt>ぜにばこ</rt></ruby>のふたをあけた。そのとたん、<ruby><rb>主人</rb><rt>しゅじん</rt></ruby>はすぐ<ruby><rb>身近</rb><rt>みぢか</rt></ruby>に人のけはいがせまるような感じをうけた。

「おやっ？」

<ruby><rb>主人</rb><rt>しゅじん</rt></ruby>は、あたりを見まわしたが、もちろん、店さきでまだ<ruby><rb>卵</rb><rt>たまご</rt></ruby>を<ruby><rb>熱心</rb><rt>ねっしん</rt></ruby>に見くらべている客よりほかに、だれもいなかった。

<ruby><rb>主人</rb><rt>しゅじん</rt></ruby>が<ruby><rb>銭箱</rb><rt>ぜにばこ</rt></ruby>からつり<ruby><rb>銭</rb><rt>せん</rt></ruby>をつまみだそうとすると、さっと銭箱の中のひとつかみの金貨が空中へ<ruby><rb>舞</rb><rt>ま</rt></ruby>いあがった。

「きゃっ！」

<ruby><rb>主人</rb><rt>しゅじん</rt></ruby>は<ruby><rb>悲鳴</rb><rt>ひめい</rt></ruby>をあげて、<ruby><rb>舞</rb><rt>ま</rt></ruby>いあがった金貨のゆくえを見まもるばかりだった。主人の悲鳴におどろいた客も、<ruby><rb>空中</rb><rt>くうちゅう</rt></ruby>をとびながら店をでて大通りへ金貨が逃げていくのを見ると、すっかりたまげて、つり銭もうけとらず、いちもくさんにわが家へ逃げていった。

ポート・ストウ村は、ひっくりかえるようなさわぎになってしまった。

ほうぼうの店や<ruby><rb>宿屋</rb><rt>やどや</rt></ruby>から、手につかめるほどずつの<ruby><rb>金貨</rb><rt>きんか</rt></ruby>が<ruby><rb>空中</rb><rt>くうちゅう</rt></ruby>をとんで<ruby><rb>消</rb><rt>き</rt></ruby>えていった。

あちらの通りや、こちらの<ruby><rb>街</rb><rt>まち</rt></ruby>かどで、人びとは<ruby><rb>金貨</rb><rt>きんか</rt></ruby>の<ruby><rb>飛</rb><rt>と</rt></ruby>んでいるのを見かけたが、人が近づくとふしぎなことに、金貨はさっと身をひるがえすようにかき消えてしまった。

こうして、ほうぼうの<ruby><rb>金庫</rb><rt>きんこ</rt></ruby>や<ruby><rb>銭箱</rb><rt>ぜひばこ</rt></ruby>から<ruby><rb>舞</rb><rt>ま</rt></ruby>いあがってきた金貨のゆくえを知ったら、村の人たちは、いまよりもっとおどろいたにちがいない。

<ruby><rb>金貨</rb><rt>きんか</rt></ruby>は人目をさけて、<ruby><rb>街</rb><rt>まち</rt></ruby>の通りを飛びつづけて村はずれまでやってくると、そこの小さな<ruby><rb>宿屋</rb><rt>やどや</rt></ruby>のまえで、おどおどとあたりを見まわして<ruby><rb>心配</rb><rt>しんぱい</rt></ruby>そうに立っている、<ruby><rb>古</rb><rt>ふる</rt></ruby>びたシルクハットをかぶった男のポケットに、吸いこまれるようにはいっていった。

## たすけてくれ！

バードック町は、うしろになだらかな丘がある。丘のふもとのバスの<ruby><rb>停留所</rb><rt>ていりゅうじょ</rt></ruby>のすぐ前の<ruby><rb>酒場</rb><rt>さかば</rt></ruby>『<ruby><rb>銀</rb><rt>ぎん</rt></ruby>ねこ』では、さっきからまるまるとふとったおやじが、むちゆうになって、ひとりの<ruby><rb>客</rb><rt>きゃく</rt></ruby>をあいてに、さかんに、<ruby><rb>競馬</rb><rt>けいば</rt></ruby>の話をまくしたてていた。

あいての男は、おやじとはまるっきりはんたいの、やせてひょろひょろした顔いろのわるい男で、<ruby><rb>商売</rb><rt>しょうばい</rt></ruby>は<ruby><rb>馬車屋</rb><rt>ばしゃや</rt></ruby>だ。

おやじの<ruby><rb>言葉</rb><rt>ことば</rt></ruby>に、ときどきあいづちをうちながら、ビスケットにチーズで、ちびちびと<ruby><rb>酒</rb><rt>さけ</rt></ruby>を飲んでいた。

「なんだい？　<ruby><rb>表</rb><rt>おもて</rt></ruby>のほうがだいぶさわがしいようじゃないか」

とめどのないおやじの話をうちきるように馬車屋が言って、立ちあがると、うす<ruby><rb>汚</rb><rt>ぎた</rt></ruby>ないカーテンのすきまから、<ruby><rb>丘</rb><rt>おか</rt></ruby>のほうをのぞいてみた。

「おい、なんだか、おおぜいの人が<ruby><rb>駈</rb><rt>か</rt></ruby>けていくぜ」

「どれどれ、ほんとうだ。火事かもしれねえな」

<ruby><rb>酒場</rb><rt>さかば</rt></ruby>のおやじが気のない<ruby><rb>調子</rb><rt>ちょうし</rt></ruby>で言ったとたん、ばたばたと足音が近づき、ドアをさっとひらいて、あの<ruby><rb>浮浪者</rb><rt>ふろうしゃ</rt></ruby>のトーマスがとびこんできた。

<ruby><rb>髪</rb><rt>かみ</rt></ruby>をふりみだし、<ruby><rb>息</rb><rt>いき</rt></ruby>をはずませて、<ruby><rb>上着</rb><rt>うわぎ</rt></ruby>のえりもはだけてしまっている。れいの<ruby><rb>古</rb><rt>ふる</rt></ruby>びたシルクハットは、とっくにどこかへすっとんだらしく、頭へのっかっていなかった。

<ruby><rb>飛</rb><rt>と</rt></ruby>びこんでくるなり、トーマスは<ruby><rb>恐怖</rb><rt>きょうふ</rt></ruby>におののきながら、大声でさけんだ。

「やつが追ってくるんだ。あっしのあとを追って……助けてくだせえ。<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>に追われているんです」

「<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>がくるって……そいつはたいへんだ。おいっ！　ドアを<ruby><rb>閉</rb><rt>し</rt></ruby>めろ、ドアを閉めろ！」

<ruby><rb>酒場</rb><rt>さかば</rt></ruby>じゅうの<ruby><rb>者</rb><rt>もの</rt></ruby>が色を<ruby><rb>失</rb><rt>うしな</rt></ruby>ってさわぎたてた。ちょうどきあわせていた<ruby><rb>警官</rb><rt>けいかん</rt></ruby>は、さすがにほかの者たちよりは落ちついており、すぐに<ruby><rb>表</rb><rt>おもて</rt></ruby>のドアをしっかりとしめてやった。

おやじも台所のほうへすっ<ruby><rb>飛</rb><rt>と</rt></ruby>んでいくと、うら口のドアを力いっぱい、ひっぱってしめた。

「さあ、もう<ruby><rb>大丈夫</rb><rt>だいじょうぶ</rt></ruby>だよ」

<ruby><rb>警官</rb><rt>けいかん</rt></ruby>が言ったが、トーマスは<ruby><rb>泣</rb><rt>な</rt></ruby>きださんばかりの声をふりしぼって、

「あっしをかくしてくだせえ。どこかおくのほうの<ruby><rb>鍵</rb><rt>かぎ</rt></ruby>のかかる<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>にかくしてもらいてえんです。やつがあっしを追っかけてくるんです。あいつはどんなところへでもはいってきますよ。あっしのことを<ruby><rb>殺</rb><rt>ころ</rt></ruby>そうと思っているんです」

「どんなやつかしらないが、ここまでくれば<ruby><rb>大丈夫</rb><rt>だいじょうぶ</rt></ruby>だよ。ドアはしめたし、そちらに<ruby><rb>警官</rb><rt>けいかん</rt></ruby>もいらっしゃるんだ」

すみっこで、ひとりで<ruby><rb>酒</rb><rt>さけ</rt></ruby>をのんでいた、黒いひげをはやしたアメリカなまりの男が言った。

と、そのとき、ドアがはげしくたたかれた。

「<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>だ！　はやくどこかへかくしてくだせえ。こんどみつかれば、きっと<ruby><rb>殺</rb><rt>ころ</rt></ruby>されてしまうんだ。おお、神さま！」

「この中へはいったらいいだろう」

おやじが、カウンターのはね板をあげた。トーマスはあわててとびこんだ。

その間じゅう、ドアをたたく音はひっきりなしにつづいた。

「だれだ？」

<ruby><rb>警官</rb><rt>けいかん</rt></ruby>がどなりながらドアに近づいた。トーマスは、それをみると泣き声をふりしぼって、

「戸をあけねえでくだせえ。たのむからあけねえでくだせえ」

黒ひげの男が、

「外で戸をたたいているのが、<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>だというのか。どんなやつか、見たいものだな」

その<ruby><rb>言葉</rb><rt>ことば</rt></ruby>がおわるかおわらないうちに、すさまじい音をたてて、表通りのほうの窓ガラスがわれた。

「きゃっ！」

トーマスがふるえあがって<ruby><rb>絶叫</rb><rt>ぜっきょう</rt></ruby>した。

「さあ、こちらへ<ruby><rb>来</rb><rt>こ</rt></ruby>い」

おやじは気をきかせてトーマスをおくまった<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>にかくし、<ruby><rb>鍵</rb><rt>かぎ</rt></ruby>をかけてやってから、もとのところへもどってきた。

外では、かけまわるたくさんの人の足音とさけび声がいりみだれて、たいへんなさわぎだった。

<ruby><rb>警官</rb><rt>けいかん</rt></ruby>はドアに近より<ruby><rb>鍵穴</rb><rt>かぎあな</rt></ruby>から外をのぞき見しながら、

「ほんとに<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>らしいな。<ruby><rb>警棒</rb><rt>けいぼう</rt></ruby>をもってくればよかった」

黒ひげの男も警官のあとにつづき、

「ねえ、かまわないから、かんぬきをぬいてドアをおあけなさい。やつがはいってきたら、ぼくがこいつに物を言わせましょう」

そして、手にしたピストルを<ruby><rb>警官</rb><rt>けいかん</rt></ruby>の目のまえに、にゅっとつきだしてみせた。

ピストルをみると<ruby><rb>警官</rb><rt>けいかん</rt></ruby>は、あわてて手をふり、

「とんでもない、そいつはこまるよ、きみ。そんなものをふりまわして、相手が運わるく死んでみたまえ、<ruby><rb>殺人罪</rb><rt>さつじんざい</rt></ruby>になってしまうよ」

「へっへっへ、そんなことは心えていますよ。やつを<ruby><rb>殺</rb><rt>ころ</rt></ruby>してしまうようなへまはやりませんよ。足をねらいますよ。おれは足をねらう<ruby><rb>名人</rb><rt>めいじん</rt></ruby>なんだよ。さあ、かんぬきをはずしなさい」

カーテンのすきまから外のようすをうかがっていたおやじは、あわててうしろをふりかえり、

「わたしをうたんでくださいよ」

と、どなった。

「さあ、こい！」

黒ひげの男は身がまえ、さっとピストルを<ruby><rb>背</rb><rt>せ</rt></ruby>にかくした。

<ruby><rb>警官</rb><rt>けいかん</rt></ruby>は、ちょっと<ruby><rb>思案</rb><rt>しあん</rt></ruby>していたが、いきなりかんぬきを、さっとひきぬいた。

しかし、ドアはしまったままで、人がはいってくるけはいはさらにない。

二分たち、三分たった。やはり、なんのかわったこともなかった。

三人が<ruby><rb>息</rb><rt>いき</rt></ruby>をころしてドアを見つめていると、<ruby><rb>奥</rb><rt>おく</rt></ruby>の<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>から、ひょいとトーマスが頭をだし、

「<ruby><rb>家</rb><rt>いえ</rt></ruby>じゅうのドアは、みんなしめてありますかい？　<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>のやつは、きっとぐるっとまわって、<ruby><rb>開</rb><rt>ひら</rt></ruby>いてるドアをさがしてみますぜ。<ruby><rb>悪魔</rb><rt>あくま</rt></ruby>のように、ぬけめのねえやつですからね」

「そいつはたいへんだ。うち口のドアはあけたまんまだ。ちょっとわたしはいってくる。こちらはおまえさんたちにたのみますぜ」

ふとったおやじは、ころがるようにかけだした。トーマスは顔をひっこめ、ばたんとドアをしめ、<ruby><rb>鍵</rb><rt>かぎ</rt></ruby>をしっかりとかけた。

やがて、かけもどってきたおやじは、手に大きな<ruby><rb>肉切包丁</rb><rt>にくきりぼうちょう</rt></ruby>をぶらさげ、<ruby><rb>心配</rb><rt>しんぱい</rt></ruby>そうに、

「<ruby><rb>庭</rb><rt>にわ</rt></ruby>の<ruby><rb>木戸</rb><rt>きど</rt></ruby>も<ruby><rb>通用口</rb><rt>つうようぐち</rt></ruby>のドアも、みんなしめるのをわすれていたんだ。そのうえ、庭の木戸はあけっぱなしになっていたんだが……」

「<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>が、そこからはいりこんだんじゃないか？」

気の早い<ruby><rb>馬車屋</rb><rt>ばしゃや</rt></ruby>が、おやじが話しおわらないうちに、こわそうにさけんだ。

「<ruby><rb>調理場</rb><rt>ちょうりば</rt></ruby>にお手伝いが二人いたが、だれもはいってきたけはいはなかったそうだ」

「しかし、ゆだんはならないぞ！」

<ruby><rb>警官</rb><rt>けいかん</rt></ruby>はあたりを、ぐるぐると見まわしながらいった。黒ひげの男は、ぐっとピストルをにぎりなおして、<ruby><rb>調理場</rb><rt>ちょうりば</rt></ruby>のほうをにらんだ。

そのとき、ぎ、ぎぎいっーと、おくの<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>のドアが、はげしくきしむ音がしたと思うと、あっと思うまもなく、ぱっと大きくあけはなされた。

## <ruby><rb>酒場</rb><rt>さかば</rt></ruby>の<ruby><rb>事件</rb><rt>じけん</rt></ruby>

トーマスのかなきり声がひびいた。それはちょうど<ruby><rb>蛇</rb><rt>へび</rt></ruby>にみこまれた小鳥の、<ruby><rb>悲</rb><rt>かな</rt></ruby>しいさけび声に似ていた。

「それっ！」

三人はカウンターをとびこえて、かけつけた。黒ひげの男のピストルがなった。

と、同時に、おくの<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>の<ruby><rb>鏡</rb><rt>かがみ</rt></ruby>が音をたててくだけ落ちた。

「助けてくれ！　だれかきてくれ！」

トーマスは、目に見えぬ人にひきずられながら、じたばたともがいている。

三人は顔を見あわせてためらった。<ruby><rb>敵</rb><rt>てき</rt></ruby>の<ruby><rb>姿</rb><rt>すがた</rt></ruby>は、ぜんぜん見えないのだ。どうやってトーマスをかれの手からうばい<ruby><rb>返</rb><rt>かえ</rt></ruby>して助けてやればいいのか、さっぱりわからなかった。

そのひまにトーマスは、ずるずるとひきずられて、おくの<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>から<ruby><rb>調理場</rb><rt>ちょうりば</rt></ruby>へひきずりこまれていった。<ruby><rb>棚</rb><rt>たな</rt></ruby>からフライパンや<ruby><rb>鍋</rb><rt>なべ</rt></ruby>が、けたたましい音をたててころがり落ちた。

「どけろ！　どけろ！」

<ruby><rb>警官</rb><rt>けいかん</rt></ruby>はおやじをおしのけ、トーマスの<ruby><rb>首</rb><rt>くび</rt></ruby>すじをおさえている手があると思われるあたりに、ぎゅっとしがみついた。

「ええい！　じゃまするな」

<ruby><rb>恐</rb><rt>いか</rt></ruby>りにもえた声がして、<ruby><rb>警官</rb><rt>けいかん</rt></ruby>はものの<ruby><rb>見事</rb><rt>みごと</rt></ruby>に、その場になぐりたおされた。

トーマスは<ruby><rb>必死</rb><rt>ひっし</rt></ruby>になって、ドアのとっ手にしがみついたが、なんのかいもなく、みるまにひきずられていった。<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>からとびこんできた<ruby><rb>馬車屋</rb><rt>ばしゃや</rt></ruby>とおやじは、めちゃくちゃに手足をふりまわしているうちに、とうとう、<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>の<ruby><rb>体</rb><rt>からだ</rt></ruby>のどこかをつかまえた。

「つかまえたぞ！　みんなこい！　ここにやつがいるぞ！」

「いたぞ！　<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>がいたぞ」

二人は、つかまえたが<ruby><rb>最後</rb><rt>さいご</rt></ruby>、どんなことがあってもはなすものかと、むしゃぶりついてあばれまわっている。

さすがの<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>も、トーマスをつかまえていて、二人を<ruby><rb>相手</rb><rt>あいて</rt></ruby>では、<ruby><rb>戦</rb><rt>たたか</rt></ruby>えるわけがない。

「ちくしょうめ！」

いまいましげに<ruby><rb>舌</rb><rt>した</rt></ruby>うちして、トーマスをはなした。二人がむやみにあばれて、げんこつをぶんぶんふりまわすので、<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>もいささかもてあましてきたらしい。

「うん、なんだって、じゃまをしやがるんだ。おまえらの知ったことじゃないんだ」

透明人間と二人は、はげしく取っ組みあってあばれた。

そのうち、やっと起きあがった<ruby><rb>警官</rb><rt>けいかん</rt></ruby>も<ruby><rb>加勢</rb><rt>かせい</rt></ruby>にかけつけ、<ruby><rb>両</rb><rt>りょう</rt></ruby>うでを<ruby><rb>水車</rb><rt>みずぐるま</rt></ruby>のようにふりまわして、目に見えぬ<ruby><rb>敵</rb><rt>てき</rt></ruby>におどりかかっていった。

トーマスは、あばれまわっている人たちの足もとを<ruby><rb>這</rb><rt>は</rt></ruby>いまわりながら、<ruby><rb>必死</rb><rt>ひっし</rt></ruby>で逃げだす道をさがしている。

<ruby><rb>調理場</rb><rt>ちょうりば</rt></ruby>での<ruby><rb>大乱闘</rb><rt>だいらんとう</rt></ruby>が二十分もつづいたころ、

「おや、おかしいぞ。やつはどこへいっちまったんだ。外へ逃げたのか？」

黒ひげの男が、ふいに、きょろきょろとあたりを見まわしてさけんだ。

「<ruby><rb>中庭</rb><rt>なかにわ</rt></ruby>へ逃げたんだ。<ruby><rb>敵</rb><rt>てき</rt></ruby>は中庭だ」

<ruby><rb>警官</rb><rt>けいかん</rt></ruby>がまっさきにたって、中庭にとびだそうとした一<ruby><rb>瞬</rb><rt>しゅん</rt></ruby>……。

ぴゅうっ――と風をきって<ruby><rb>屋根</rb><rt>やね</rt></ruby>がわらが、かれの頭をかすめて飛んできた。

調理台の<ruby><rb>皿小鉢</rb><rt>さらこばち</rt></ruby>が音をたてて、みじんにくだけ<ruby><rb>散</rb><rt>ち</rt></ruby>る。

「ようし、おれがひきうけた」

黒ひげの男は、ひと声たかくさけんで、警官の<ruby><rb>肩</rb><rt>かた</rt></ruby>ごしにピストルをつきだし、つづけざまに五発、透明人間のいるらしい<ruby><rb>方向</rb><rt>ほうこう</rt></ruby>にむけてぶっぱなした。<ruby><rb>弾</rb><rt>たま</rt></ruby>はうなりを<ruby><rb>生</rb><rt>しょう</rt></ruby>じて<ruby><rb>飛</rb><rt>と</rt></ruby>んでいった。ピストルの音がしずまると、<ruby><rb>庭</rb><rt>にわ</rt></ruby>はしいんとしずまりかえった。

かわったことは、なにも起こらなかった。

「五発うったぞ。こいつが一番ききめがあったろう。もう、だいじょうぶだ。透明人間の死がいを<ruby><rb>探</rb><rt>さが</rt></ruby>そうじゃないか」

## <ruby><rb>恐</rb><rt>おそ</rt></ruby>るべき<ruby><rb>発見</rb><rt>はっけん</rt></ruby>

## ケンプ<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>の<ruby><rb>来客</rb><rt>らいきゃく</rt></ruby>

その日の夕方、ケンプ<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>は、こじんまりしたかれの<ruby><rb>書斎</rb><rt>しょさい</rt></ruby>で、書きものをしていた。

<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>の家は町をみおろす、<ruby><rb>丘</rb><rt>おか</rt></ruby>のうえに建っている。そこからは、丘のふもとの『<ruby><rb>銀</rb><rt>ぎん</rt></ruby>ねこ』<ruby><rb>酒場</rb><rt>さかば</rt></ruby>や、バスの<ruby><rb>停留所</rb><rt>ていりゅうじょ</rt></ruby>が、ひと目でみることができた。おだやかな静かな町で、これといって騒がしい事件がおこらない平和な町であった。

<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>のへやの<ruby><rb>書</rb><rt>しょ</rt></ruby>だなには、ぎっしりと本がつまっている。<ruby><rb>自然科学</rb><rt>しぜんかがく</rt></ruby>、<ruby><rb>薬理学</rb><rt>やくりがく</rt></ruby>の本がおもで、<ruby><rb>窓</rb><rt>まど</rt></ruby>ぎわの<ruby><rb>机</rb><rt>つくえ</rt></ruby>には、けんび<ruby><rb>鏡</rb><rt>きょう</rt></ruby>、スライド、<ruby><rb>培養</rb><rt>ばいよう</rt></ruby>えき、くすりのびんなどが、いちめんにならべてあった。

とつぜん、ピストルの音がした。ピストルの音は一<ruby><rb>発</rb><rt>ぱつ</rt></ruby>だけではなかった。つづけざまに、五発の<ruby><rb>銃声</rb><rt>じゅうせい</rt></ruby>が<ruby><rb>夕空</rb><rt>ゆうぞら</rt></ruby>にこだまして、<ruby><rb>街</rb><rt>まち</rt></ruby>の<ruby><rb>静寂</rb><rt>せいじゃく</rt></ruby>をやぶった。

<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>は気がかりになってきた。

この平和な<ruby><rb>街</rb><rt>まち</rt></ruby>にピストルの音がひびくのは、きっとなにか起こったにちがいない。

「なんだろう？」

<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>は南がわの<ruby><rb>窓</rb><rt>まど</rt></ruby>をおしひらいて<ruby><rb>街</rb><rt>まち</rt></ruby>を見おろした。

いつもとかわらぬしずかな<ruby><rb>景色</rb><rt>けしき</rt></ruby>だったが、しばらく耳をすませていると、ちょうど、『<ruby><rb>銀</rb><rt>ぎん</rt></ruby>ねこ』<ruby><rb>酒場</rb><rt>さかば</rt></ruby>のあたりで、がやがやとさわぐただならない<ruby><rb>人声</rb><rt>ひとごえ</rt></ruby>が、風にのってきこえてきた。

「<ruby><rb>酒場</rb><rt>さかば</rt></ruby>のあたりだな」

<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>はつぶやいて、なおもじっと、夕方の<ruby><rb>街</rb><rt>まち</rt></ruby>を見おろしていた。

<ruby><rb>夕空</rb><rt>ゆうぞら</rt></ruby>はしだいにくら<ruby><rb>闇</rb><rt>やみ</rt></ruby>のいろにつつまれ、ほそい<ruby><rb>新月</rb><rt>しんげつ</rt></ruby>が<ruby><rb>夢</rb><rt>ゆめ</rt></ruby>のような<ruby><rb>姿</rb><rt>すがた</rt></ruby>をみせ、<ruby><rb>星</rb><rt>ほし</rt></ruby>もふたつみっつ数をましていった。

<ruby><rb>港</rb><rt>みなと</rt></ruby>にとまっている<ruby><rb>汽船</rb><rt>きせん</rt></ruby>に、あかりがつき、きらきらと<ruby><rb>宝石</rb><rt>ほうせき</rt></ruby>のようにきらめいているのが、とりわけ美しく思われた。

<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>は、いつかピストルの音のしたことなどわすれてしまっていた。

さわぐ声もきこえなくなっていた。

<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>は<ruby><rb>窓</rb><rt>まど</rt></ruby>をしめ、もう一<ruby><rb>度</rb><rt>ど</rt></ruby>、<ruby><rb>机</rb><rt>つくえ</rt></ruby>のまえにすわった。一時間ほどたったとき、<ruby><rb>玄関</rb><rt>げんかん</rt></ruby>のベルがはげしくなった。<ruby><rb>応対</rb><rt>おうたい</rt></ruby>にでていくお手伝いの足音がした。

しかし、それっきり、なんの音さたもなかった。

「おかしいな？　だれか<ruby><rb>訪</rb><rt>たず</rt></ruby>ねてきたのではなかったのかな？」

<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>は、ふと気になった。大いそぎでお手伝いをよび、

「いまのベルは、<ruby><rb>郵便配達</rb><rt>ゆうびんはいたつ</rt></ruby>だったのかね？」

「いいえ、だんなさま。それがおかしいのでございますよ。ベルはたしかになりましたのに、<ruby><rb>玄関</rb><rt>げんかん</rt></ruby>にはだれもいないのです。おおかた、子どものいたずらでございましょう」

「子どものいたずらか」

お手伝いがひきとっていくと、<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>はスタンドを手もとにひきよせ、一生けんめいに書き物をはじめた。

<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>の中はしずかで、時をきざむ<ruby><rb>時計</rb><rt>とけい</rt></ruby>の音だけがきこえている。夜の二時になった。

<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>は書きかけの<ruby><rb>書類</rb><rt>しょるい</rt></ruby>から頭をあげると、

「もう二時か、そろそろ眠くなってきたな、<ruby><rb>疲</rb><rt>つか</rt></ruby>れもしたし、こん夜はこれでおしまいにしよう」

大きくのびをして、<ruby><rb>灯</rb><rt>あかり</rt></ruby>をけすと、<ruby><rb>階下</rb><rt>かいか</rt></ruby>の<ruby><rb>寝室</rb><rt>しんしつ</rt></ruby>へおりていった。

<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>はひどく<ruby><rb>疲</rb><rt>つか</rt></ruby>れていた。頭がおもい。

こんな時、<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>はいつも<ruby><rb>愛用</rb><rt>あいよう</rt></ruby>のウィスキーを少し飲んで、ぐっすり<ruby><rb>眠</rb><rt>ねむ</rt></ruby>ることにしていた。

「こん夜もすこし飲んで<ruby><rb>眠</rb><rt>ねむ</rt></ruby>ろう」

<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>はひとり言をいって、<ruby><rb>上着</rb><rt>うわぎ</rt></ruby>とチョッキをぬいだままの<ruby><rb>姿</rb><rt>すがた</rt></ruby>で<ruby><rb>台所</rb><rt>だいどころ</rt></ruby>におりていった。

ウィスキーのびんをさげて、ひっかえしてきたとき、<ruby><rb>階段</rb><rt>かいだん</rt></ruby>の下にしかれているマットに、ひと所、黒いしみができているのが目についた。

「だれだろう？　こんなところにしみをつけて……」

<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>はぶつぶつ言いながら、ひょいと身をかがめて、そのしみをながめた。しみは、ちょうどかわきかけた血のように見えた。

「おかしいな、血かな？」

<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>は<ruby><rb>指</rb><rt>ゆび</rt></ruby>さきで、そっとさわった。思ったとおりだった。

「だれがこんなところに血をおとしたのかな？」

にわかに<ruby><rb>胸</rb><rt>むな</rt></ruby>さわぎがして、<ruby><rb>暗</rb><rt>くら</rt></ruby>い<ruby><rb>予感</rb><rt>よかん</rt></ruby>がしてきた。

<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>は、考えながら<ruby><rb>寝室</rb><rt>しんしつ</rt></ruby>にやってきた。

と、そこでもまたかれは、おそろしいことに<ruby><rb>出会</rb><rt>であ</rt></ruby>ってしまった。

なにげなく手をかけようとしたドアのハンドルが、血でまっかにそまっているのだ。

これはただごとではない。

<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>の<ruby><rb>全身</rb><rt>ぜんしん</rt></ruby>の<ruby><rb>血</rb><rt>ち</rt></ruby>が、さっとひいていくようだった。かれの頭には、その時、夕方<ruby><rb>書斎</rb><rt>しょさい</rt></ruby>できいたピストルの音が、ありありと<ruby><rb>浮</rb><rt>う</rt></ruby>かんでいた。

おそろしいことが起こりつつあるのではなかろうか？

<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>はきっとした<ruby><rb>表情</rb><rt>ひょうじょう</rt></ruby>になり、ゆだんなくあたりを見ながら、しずかに<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>にはいっていった。

しかし<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>が考えたように、<ruby><rb>警官</rb><rt>けいかん</rt></ruby>のピストルで<ruby><rb>傷</rb><rt>きず</rt></ruby>ついたギャングはいなかった。

ギャングはもちろん、ねこの<ruby><rb>子</rb><rt>こ</rt></ruby>一ぴきすら<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>にはみえない。

ただ、ベッドの上のふとんが<ruby><rb>乱暴</rb><rt>らんぼう</rt></ruby>にめくられ、血でよごされ、そのうえ、シーツがびりびりにひきさかれていた。

ギャングは、<ruby><rb>警官</rb><rt>けいかん</rt></ruby>に追われて、この家に逃げこみ、ついさっきまでこの<ruby><rb>寝室</rb><rt>しんしつ</rt></ruby>にしのびこんでいたにちがいない。

「そうだ。きっとそうにちがいない。なによりの<ruby><rb>証拠</rb><rt>しょうこ</rt></ruby>に、ベッドにいままで人が<ruby><rb>腰</rb><rt>こし</rt></ruby>かけていたらしいくぼみができているじゃないか」

<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>は<ruby><rb>血</rb><rt>ち</rt></ruby>ですっかりよごれたベッドのまわりを、<ruby><rb>念</rb><rt>ねん</rt></ruby>いりにしらべた。

「いつのまにしのびこんだのかな？」

<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>がふしぎそうにつぶやいた、そのとき、

「やあ、しばらくだったじゃないか、ケンプ！」

いかにもなつかしそうによびかける声が、耳のはたでひびいた。

「あっ！」

ふいをうたれてかれは、けげんそうに<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>じゅうをぐるぐる見まわした。

どこにも声の<ruby><rb>主</rb><rt>ぬし</rt></ruby>の<ruby><rb>姿</rb><rt>すがた</rt></ruby>はない。

「だれだね？」

<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>の声はうわずっていた。しかし、こんどは<ruby><rb>返事</rb><rt>へんじ</rt></ruby>がなかった。

ただ<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>をよこぎって歩く足音がして、<ruby><rb>洗面所</rb><rt>せんめんじょ</rt></ruby>のカーテンが、生き物のように動き、するするとひらいたと思うと、すぐにもとのようにしまった。

<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>は声をのみ、ぶきみに動くカーテンをみつめて<ruby><rb>棒立</rb><rt>ぼうだ</rt></ruby>ちになっていた。

## <ruby><rb>傷</rb><rt>きず</rt></ruby>ついた<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>

それから五分もたったであろうか……。

<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>には、ながい時間がたったようにも思われた。

もう一度カーテンがゆれ動き、なかから、ぼんやりと、<ruby><rb>血</rb><rt>ち</rt></ruby>のにじんだほうたいでぐるぐる巻きにした頭があらわれてきた。

頭だけだ。<ruby><rb>空中</rb><rt>くうちゅう</rt></ruby>にぼんやり<ruby><rb>浮</rb><rt>う</rt></ruby>かびあがったほうたいまきの頭は、目もなければ<ruby><rb>鼻</rb><rt>はな</rt></ruby>もない。いや頭ぜんたいがないのだ。ほうたいだけが、しっかりとまきつけられている。

もちろん手も足もありはしない。

たいていの者なら、ひと目みただけで<ruby><rb>気絶</rb><rt>きぜつ</rt></ruby>してしまうところだ。

が、<ruby><rb>気丈</rb><rt>きじょう</rt></ruby>な博士はまっさおになりながら、じっとそのふしぎなものを見つめていた。

「ケンプ！」

ふしぎなものは博士をよんだ。

「え？」

「おどろいてるな。ぼくはグリッフィンなんだよ。ほら<ruby><rb>大学</rb><rt>だいがく</rt></ruby>で<ruby><rb>同級</rb><rt>どうきゅう</rt></ruby>だったグリッフィンだよ。おぼえてるだろう」

「グリッフィンだって……なにをばかなことを……この<ruby><rb>化</rb><rt>ば</rt></ruby>けものめ！」

<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>はいきなり、ほうたいのほうへ手をのばした。と、どうだろう……。

人の<ruby><rb>体</rb><rt>からだ</rt></ruby>にふれたではないか！

ぎょっとして手をひっこめ、まじまじと<ruby><rb>空中</rb><rt>くうちゅう</rt></ruby>にうかぶおかしなものをみた。

「おちついてくれよ、ケンプ。おれはまちがいなくグリッフィンなんだ。ただおれはふとしたことで<ruby><rb>体</rb><rt>からだ</rt></ruby>がすきとおってしまい、人の目に見えなくなってしまったんだ。<ruby><rb>世間</rb><rt>せけん</rt></ruby>のやつらが<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>だとさわいでいるだろう」

<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>は目に見えぬ手で、しっかりと<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>の手をにぎりしめて、いっしんに話した。

しかし、<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>は、その手をふりほどき、めちゃめちゃに手をふりまわして、透明人間にぶつかってきた。

「しずかにしろ！　ケンプ、話せばわかることなんだ、話をきいてくれ」

「なにを、このやろう、このばけものめ。<ruby><rb>話</rb><rt>はなし</rt></ruby>もなにもあるものか、ふんづかまえてやるぞ」

「だまれ、おれがおまえなんかにつかまるものか……」

<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>は、むかっ<ruby><rb>腹</rb><rt>ぱら</rt></ruby>をたてたらしく、とうとう、<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>の足をえいっとすくい、ベッドの上にほうりだし、大声をあげて助けをよびそうにしている口の中へ、シーツのはしをぐっとねじこんだ。<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>は、こうなっては手足をばたばたさせて、もがくばかりだった。

「しずかにしてくれたまえよ、ケンプ。きみをおどしたり、きみに<ruby><rb>害</rb><rt>がい</rt></ruby>をくわえるつもりできたんではないんだ。ぼくはいまこまっているんだ。きみの助けがほしくてやってきたんだよ」

<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>は、このうえ手むかってもむだだと考えたのか、おとなしくなった。<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>は、口におしこんだシーツをとりのぞき、

「ねえ、きみ、どうかぼくの言うことを<ruby><rb>信</rb><rt>しん</rt></ruby>じてくれたまえ。ぼくは<ruby><rb>大学</rb><rt>だいがく</rt></ruby>にいたときと同じグリッフィンなんだ。ただ、あることで<ruby><rb>姿</rb><rt>すがた</rt></ruby>が見えなくなったが、人さまの目に見えないだけで、ぼく<ruby><rb>自身</rb><rt>じしん</rt></ruby>は、なんにも<ruby><rb>変</rb><rt>か</rt></ruby>わったことはないんだ。<ruby><rb>心</rb><rt>こころ</rt></ruby>も<ruby><rb>体</rb><rt>からだ</rt></ruby>も<ruby><rb>昔</rb><rt>むかし</rt></ruby>のままのグリッフィンなんだよ」

<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>は物わかりのいい人だったし、頭の慟きのするどい人だったので、<ruby><rb>姿</rb><rt>すがた</rt></ruby>の見えないほうたいの<ruby><rb>化</rb><rt>ばけ</rt></ruby>ものの<ruby><rb>言葉</rb><rt>ことば</rt></ruby>に<ruby><rb>真実</rb><rt>しんじつ</rt></ruby>のあることを見ぬき、

「ずいぶんきばつな話だが、話をきけばあるいはわかるかもしれん。話してみたまえ。それにきみの言うように、わしの目には、きみの<ruby><rb>姿</rb><rt>すがた</rt></ruby>は見えないが、たしかに<ruby><rb>体</rb><rt>からだ</rt></ruby>はあるらしいな。わしの手がたしかにさわったし、きみの<ruby><rb>腕</rb><rt>うで</rt></ruby>がわしをなげとばしたからな」

「そうなんだ、そうなんだ。たしかにぼくは頭もある手足もあるんだ……。おそろしい<ruby><rb>化</rb><rt>ば</rt></ruby>けものなんぞじゃないんだ。ただ<ruby><rb>研究</rb><rt>けんきゅう</rt></ruby>の<ruby><rb>結果</rb><rt>けっか</rt></ruby>でこんなことになってしまったんだ」

「<ruby><rb>研究</rb><rt>けんきゅう</rt></ruby>の<ruby><rb>結果</rb><rt>けっか</rt></ruby>だって？　研究の結果できみが<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>になったというのかい？」

「そうだよ」

「<ruby><rb>信</rb><rt>しん</rt></ruby>じられないね。だいいち、<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>がグリッフィンだと言ったところで、たしかにかれだという<ruby><rb>証拠</rb><rt>しょうこ</rt></ruby>はないわけだ。顔をみることもできんし……もっとも声はグリッフィンらしいが」

「きみ、まだそんなことを言うのかい……ぼくはまちがいなくグリッフィンだよ。ゆっくり話せば<ruby><rb>疑</rb><rt>うたが</rt></ruby>いははれるよ。信じてくれたまえ、ケンプ！」

「では、話してみたまえ」

「話そう、が、そのまえにすまないがウィスキーと<ruby><rb>食事</rb><rt>しょくじ</rt></ruby>と<ruby><rb>着</rb><rt>き</rt></ruby>る<ruby><rb>物</rb><rt>もの</rt></ruby>がほしいんだよ。じつはけがをしているので、<ruby><rb>傷</rb><rt>きず</rt></ruby>はいたむし疲れきっているんだよ」

「<ruby><rb>食</rb><rt>た</rt></ruby>べ<ruby><rb>物</rb><rt>もの</rt></ruby>に<ruby><rb>着物</rb><rt>きもの</rt></ruby>だって……すこし<ruby><rb>待</rb><rt>ま</rt></ruby>ちたまえ、なにかあるだろう。が、家のものをさわがしたくないから、まにあわせだよ」

博士は、<ruby><rb>落</rb><rt>お</rt></ruby>ちつきをとりもどしていた。<ruby><rb>科学者</rb><rt>かがくしゃ</rt></ruby>らしく、ちみつに頭を働かし、このふしぎな<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>の<ruby><rb>秘密</rb><rt>ひみつ</rt></ruby>をできるかぎり<ruby><rb>探</rb><rt>さぐ</rt></ruby>りだしてやろうと考えていた。

「なんでもけっこうだよ。死ぬほどつかれているんだ。なにか食べてゆっくりと<ruby><rb>眠</rb><rt>ねむ</rt></ruby>りたいだけなんだ」

博士は<ruby><rb>衣裳戸棚</rb><rt>いしょうとだな</rt></ruby>から、古くなったガウンをとりだして、

「これでまにあうかね？」

「けっこうだよ。それにズボン下とくつした、そしてスリッパがあれば申し分ないが……」

<ruby><rb>空中</rb><rt>くうちゅう</rt></ruby>の声がへんじをするといっしょに、<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>の手からガウンがとりあげられ、<ruby><rb>空中</rb><rt>くうちゅう</rt></ruby>でばたばたとゆれていたが、そのうち、<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>が<ruby><rb>着</rb><rt>き</rt></ruby>こんだらしく、しゃんと立ってボタンがひとつずつかけられていった。

「やれやれ、これで身じたくがととのったよ。あとはウィスキーに食べ物があればいいんだ。<ruby><rb>裸</rb><rt>はだか</rt></ruby>で<ruby><rb>腹</rb><rt>はら</rt></ruby>をすかせているのは、まったくつらいよ。まだ夜になると裸ではこおりつきそうに寒いし、<ruby><rb>腹</rb><rt>はら</rt></ruby>がすいてたおれそうになるし、まったくつらかったよ」

<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>は、<ruby><rb>服</rb><rt>ふく</rt></ruby>をきてしまうと、ゆっくりといすに<ruby><rb>腰</rb><rt>こし</rt></ruby>をおろした。

「ねえ、ケンプ。早くウィスキーを<ruby><rb>飲</rb><rt>の</rt></ruby>ませてくれないか」

<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>は、せかせかとさいそくした。

「いま<ruby><rb>持</rb><rt>も</rt></ruby>ってくるよ。だが、こんなきちがいじみたことにであうのは、生まれてはじめてだよ。ぼくは<ruby><rb>催眠術</rb><rt>さいみんじゅつ</rt></ruby>にかかっているのかな？」

「ばかなことを言いたまえ、ぼくは催眠術なんぞやらないよ」

博士は、足音をしのばせて台所におりてゆくと、<ruby><rb>冷</rb><rt>ひ</rt></ruby>えたカツレツとパンを手にしてもどってきた。

「ウィスキーはここにある。さあ食べたまえ」

<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>はサイドテーブルにそれらをならべると、ほうたいとナイト・ガウンの<ruby><rb>化</rb><rt>ば</rt></ruby>けものに声をかけた。ウィスキーをグラスについでやると、ナイト・ガウンの<ruby><rb>袖</rb><rt>そで</rt></ruby>が動いて、すっとグラスを持ちあげた。グラスを持ちあげたというより、グラスがひとりで<ruby><rb>空中</rb><rt>くうちゅう</rt></ruby>に浮かびあがっていったような感じだった。

口のあたりと思われるところでグラスがかたむくと、みるまにウィスキーは飲みほされた。

「ああ、うまい」

つぎに、カツレツが<ruby><rb>空中</rb><rt>くうちゅう</rt></ruby>に<ruby><rb>舞</rb><rt>ま</rt></ruby>いあがった。つづいてパンも……。

「なるほど、見えないよ。で、<ruby><rb>傷</rb><rt>きず</rt></ruby>をしているといったが、どこを傷つけられたんだね」

「<ruby><rb>傷</rb><rt>きず</rt></ruby>はたいしたことはないんだ」

<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>はがつがつと口いっぱいにほおばって、むさぼるように食べながら言った。

見るまにウィスキーも食べものも、へっていった。

「ああ、うまい、それにしてもぼくがほうたいをさがしてまよいこんだのが、きみの家だったとはふしぎだな。ぼくは<ruby><rb>運</rb><rt>うん</rt></ruby>がよかったよ。こん夜は<ruby><rb>泊</rb><rt>と</rt></ruby>めてもらいたいね。ひさしぶりにゆっくり<ruby><rb>眠</rb><rt>ねむ</rt></ruby>りたいんだ。ベッドを<ruby><rb>血</rb><rt>ち</rt></ruby>でよごしてすまなかったね。<ruby><rb>体</rb><rt>からだ</rt></ruby>は<ruby><rb>透明</rb><rt>とうめい</rt></ruby>になっていても、血だけはかたまると見えてくるんだよ……。そのためにさっきも、あやうくつかまるところを、きみの所ににげこんでたすかったんだ」

「また、どうしてピストルでうちあいなんかやったんだね」

「ばかなやつが、ぼくの<ruby><rb>金</rb><rt>かね</rt></ruby>を<ruby><rb>盗</rb><rt>ぬす</rt></ruby>もうとしたんだ。そいつはぼくがなかまにしようと思ってた男だのに……」

「そいつも<ruby><rb>透明</rb><rt>とうめい</rt></ruby>なのかい？」

「いいや、かれはふつうの<ruby><rb>人間</rb><rt>にんげん</rt></ruby>だよ。あいつはぼくを<ruby><rb>恐</rb><rt>おそ</rt></ruby>れてびくびくしていたくせに、ぼくをうらぎろうとしたんだ。あいつめ、こんど<ruby><rb>会</rb><rt>あ</rt></ruby>ったらぶち<ruby><rb>殺</rb><rt>ころ</rt></ruby>してやる。ちくしょうめ！」

<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>は、はげしく<ruby><rb>体</rb><rt>からだ</rt></ruby>をふるわして<ruby><rb>怒</rb><rt>おこ</rt></ruby>りだした。ナイト・ガウンがそれにつれてぶるぶるとふるえた。

<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>は、グリッフィンが大学生のころから、ひどくおこりっぽい感情のはげしい男だったのを思いだして、一生けんめいになだめた。<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>は、ようやく<ruby><rb>怒</rb><rt>いか</rt></ruby>りをしずめ、

「ぼくは<ruby><rb>武器</rb><rt>ぶき</rt></ruby>をつかったりなんかしなかったんだ。それだのに、やつらはおれにむかって、つづけざまにピストルをうつんだ。たいていのやつらはぼくをこわがって、ぼくを<ruby><rb>追</rb><rt>お</rt></ruby>っぱらおうとして<ruby><rb>乱暴</rb><rt>らんぼう</rt></ruby>するんだよ」

「なるほど、が、きみがそんな<ruby><rb>体</rb><rt>からだ</rt></ruby>になったいきさつを、話してきかせてほしいな」

「それはゆっくり話すよ。そのまえに、たばこがほしいんだが」

<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>はいわれるままに、たばこを<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>にあたえた。ところが、見るからに<ruby><rb>奇怪</rb><rt>きかい</rt></ruby>なことが起こった。それは透明人間が、うまそうにたばこを<ruby><rb>吸</rb><rt>す</rt></ruby>いはじめると、たばこの<ruby><rb>煙</rb><rt>けむり</rt></ruby>が流れるにしたがって、<ruby><rb>口</rb><rt>くち</rt></ruby>からのど、そして<ruby><rb>鼻</rb><rt>はな</rt></ruby>と、そのかたちがぼんやりとうきあがってきたのだ。

「ありがたい。きみのおかげで、<ruby><rb>寒</rb><rt>さむ</rt></ruby>さからも<ruby><rb>空腹</rb><rt>くうふく</rt></ruby>からものがれることができたよ。そのうえ、おちついてたばこをすうことまでできたんだ。まったく<ruby><rb>感謝</rb><rt>かんしゃ</rt></ruby>するよ。しかし、ケンプ、きみは<ruby><rb>学生時代</rb><rt>がくせいじだい</rt></ruby>と、ちっとも変わっていないな。きみのようにどんなときでも落ちつきはらって、てきぱきと物ごとをかたづけてゆける人間こそたよりになるんだ。これからどうか、ぼくをたすけてくれたまえ」

<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>が言った。博士は、じぶんもちびちびとウィスキーをのみながら、

「いったいきみはぼくに、なにをやれというのだね。ぼくは人をたすけるどころか、ぼく自身どうしたらいいかと思いまよっているんだよ」

と、<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>はくらい<ruby><rb>表情</rb><rt>ひょうじょう</rt></ruby>でこたえた。そのうち<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>は、にわかにうめき声をあげ、<ruby><rb>体</rb><rt>からだ</rt></ruby>をえびのようにまげ、頭をかかえこんだ。

<ruby><rb>熱</rb><rt>ねつ</rt></ruby>がでてきて、<ruby><rb>傷</rb><rt>きず</rt></ruby>がいたみはじめたのだ。

「きみ、この<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>で朝までゆっくり<ruby><rb>眠</rb><rt>ねむ</rt></ruby>りたまえ。そうすればきっと、あすの朝は<ruby><rb>気分</rb><rt>きぶん</rt></ruby>もさわやかになるだろうから……」

博士は<ruby><rb>親切</rb><rt>しんせつ</rt></ruby>にすすめた。ところが<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>は、<ruby><rb>苦</rb><rt>くる</rt></ruby>しそうにうなり声をたてながら、どうしても<ruby><rb>眠</rb><rt>ねむ</rt></ruby>ろうとしなかった。

「きみ、えんりょしないで眠りたまえ。そうすれば気分もよくなるし……」

透明人間は、なにを思ったのか、しばらくだまって博士をじっと見つめていたが、

「ぼくは、心をゆるした人間につかまるのはいやだね」

と言った。<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>はぎくりとした。

なにもかも見すかしたような<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>のことばは、<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>の心をぐさりと<ruby><rb>突</rb><rt>つ</rt></ruby>きさした。

## <ruby><rb>友</rb><rt>とも</rt></ruby>をどうしよう

「ぼくがきみを<ruby><rb>警官</rb><rt>けいかん</rt></ruby>の手にわたすなんて、そんなばかなことがあるものか……ぼくを<ruby><rb>信</rb><rt>しん</rt></ruby>じてゆっくりとやすみたまえ」

しかし、<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>はどこまでも<ruby><rb>用心</rb><rt>ようじん</rt></ruby>ぶかかった。<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>のなかをねんいりに見わたしてから、ふたつの<ruby><rb>窓</rb><rt>まど</rt></ruby>をしらべ、そしてドアの<ruby><rb>鍵</rb><rt>かぎ</rt></ruby>をあらため、<ruby><rb>警官</rb><rt>けいかん</rt></ruby>がまんいちかれをおそうことがあっても、逃げだす道があることをたしかめてから、やっと、よこになった。

「おやすみ」

博士が<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>に言って、ドアをしめようとすると、<ruby><rb>急</rb><rt>きゅう</rt></ruby>にナイト・ガウンがすーっと<ruby><rb>近</rb><rt>ちか</rt></ruby>づいてきて、

「だいじょうぶだろうね、ケンプ。ぼくをゆっくりねむらしてくれるね。<ruby><rb>警官</rb><rt>けいかん</rt></ruby>にわたしはしないだろうね」

<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>は顔いろをかえ、

「わすれたのかい。たったいま、やくそくしたじゃないか。よけいな<ruby><rb>心配</rb><rt>しんぱい</rt></ruby>をしないで、ぐっすりやすみたまえ」

ドアをしめると、すぐに中から<ruby><rb>鍵</rb><rt>かぎ</rt></ruby>をかける音がした。

<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>は、

「やれやれ、とうとうじぶんの<ruby><rb>寝室</rb><rt>しんしつ</rt></ruby>から追いだされてしまった。まるっきり、<ruby><rb>夢</rb><rt>ゆめ</rt></ruby>をみているのか、気がちがっているのか……わけがわからない」

なんども頭をふりながら、<ruby><rb>廊下</rb><rt>ろうか</rt></ruby>をゆっくりと歩いて<ruby><rb>書斎</rb><rt>しょさい</rt></ruby>にはいった。

<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>は、ぐったりといすに身をなげだして、もの思いにしずんでいたが、

「そうだ、<ruby><rb>新聞</rb><rt>しんぶん</rt></ruby>を見れば、なにか手がかりがつかめるかもしれんぞ」

ぽつりとひとり<ruby><rb>言</rb><rt>ごと</rt></ruby>をもらし、いくとおりもの<ruby><rb>新聞</rb><rt>しんぶん</rt></ruby>をかきあつめ、<ruby><rb>机</rb><rt>つくえ</rt></ruby>の上にひろげて、むさぼるように読みはじめた。

どの<ruby><rb>新聞</rb><rt>しんぶん</rt></ruby>も、アイピング村でのさわぎが、大げさに書きたてられている。

「ふうん、村人をなぐりたおしてあばれまわったというのか……なんて<ruby><rb>乱暴</rb><rt>らんぼう</rt></ruby>なことをするのだ。えっ、なに、<ruby><rb>巡査</rb><rt>じゅんさ</rt></ruby>はなぐられて<ruby><rb>気</rb><rt>き</rt></ruby>ぜつしたっていうのか。そして<ruby><rb>宿屋</rb><rt>やどや</rt></ruby>の<ruby><rb>女主人</rb><rt>おんなしゅじん</rt></ruby>はおそろしさのために、寝こんでしまったのか。なんというおそろしいことをやる男だ」

<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>は、ぼんやりと<ruby><rb>前方</rb><rt>ぜんぽう</rt></ruby>を見つめて、考えこんでいたが、ぽとりと新聞を手から落としてしまった。いくら<ruby><rb>考</rb><rt>かんが</rt></ruby>えても、この<ruby><rb>奇怪</rb><rt>きかい</rt></ruby>な<ruby><rb>事件</rb><rt>じけん</rt></ruby>ははっきりしない。

<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>は、長いすによりかかって<ruby><rb>眠</rb><rt>ねむ</rt></ruby>ろうとしたが、目がさえて、<ruby><rb>寝</rb><rt>ね</rt></ruby>つかれそうもなかった。

やがて、<ruby><rb>窓</rb><rt>まど</rt></ruby>から、しらじらと朝のひかりが<ruby><rb>流</rb><rt>なが</rt></ruby>れこんできたが、博士はまだふいに<ruby><rb>飛</rb><rt>と</rt></ruby>びこんできたやっかいな<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>を、どうしようかと思いなやんでいた。

「やれやれ、これでやつが<ruby><rb>起</rb><rt>お</rt></ruby>きだしてくれば、また、<ruby><rb>服</rb><rt>ふく</rt></ruby>だけの<ruby><rb>化</rb><rt>ば</rt></ruby>けものと、しかつめらしい顔をして話し、なんにもないところへ、たべものがつぎつぎと消えていくのを見ていなくてはならないのか。どうかして、この<ruby><rb>災難</rb><rt>さいなん</rt></ruby>からのがれるすべはないかな」

へいぜいは頭のするどさをほこり、どんなことでもあざやかにかたづけてしまう<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>も、思ってもみなかった透明人間には、すっかり手をやいたらしかった。

夜がすっかりあけはなたれると、お手伝いが朝の新聞をかかえてやってきた。

博士は、お手伝いにむかい、

「いいか、<ruby><rb>朝食</rb><rt>ちょうしょく</rt></ruby>を二人まえ<ruby><rb>用意</rb><rt>ようい</rt></ruby>して、ここまでもってきなさい。そしてわしが<ruby><rb>呼</rb><rt>よ</rt></ruby>ぶまで、二<ruby><rb>階</rb><rt>かい</rt></ruby>へかってにくることはならんよ。わかったな」

「はい」

お手伝いは、博士が研究であたまをつかいすぎて、気が変になったのではないかと、心配しはじめた。

<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>は、お手伝いがはこんできた<ruby><rb>熱</rb><rt>あつ</rt></ruby>いコーヒーをすすると、いくらか<ruby><rb>気分</rb><rt>きぶん</rt></ruby>がはっきりした。

朝の<ruby><rb>新聞</rb><rt>しんぶん</rt></ruby>をひろげ、<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>のことが書かれているところを、ねんいりに読んだ。

「新聞には、透明人間は<ruby><rb>狂人</rb><rt>きょうじん</rt></ruby>になったにちがいないと書いてあるぞ。じっさいやつは、気がくるっているにちがいない。なにをやりだすか、わかったもんじゃない。しかも<ruby><rb>空気</rb><rt>くうき</rt></ruby>のように<ruby><rb>自由</rb><rt>じゆう</rt></ruby>な身だ。<ruby><rb>悪事</rb><rt>あくじ</rt></ruby>をやりだせば、こんなおそろしい<ruby><rb>敵</rb><rt>てき</rt></ruby>はない。そいつがおれの<ruby><rb>家</rb><rt>いえ</rt></ruby>にまいこんできたんだ。それにやつは、<ruby><rb>昔</rb><rt>むかし</rt></ruby>の友だちのグリッフィンだというのだから……」

博士は<ruby><rb>机</rb><rt>つくえ</rt></ruby>のまえに、どっかりと<ruby><rb>腰</rb><rt>こし</rt></ruby>をおろすと、ながい間、頭をかかえて考えこんでいた。

「おお、どうしてそんなことができよう――<ruby><rb>友</rb><rt>とも</rt></ruby>だちの<ruby><rb>信</rb><rt>しん</rt></ruby>らいをうらぎるなんて……。だが……たとえ友だちであっても――」

<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>は、思いまよったすえ、ひきだしから<ruby><rb>便</rb><rt>びん</rt></ruby>せんをとりだすと、ペンを走らせだした。

書いてはすて、書いてはすて、博士はなんども書きなおして、やっと一<ruby><rb>通</rb><rt>つう</rt></ruby>の<ruby><rb>手紙</rb><rt>てがみ</rt></ruby>をかきあげると、<ruby><rb>封</rb><rt>ふう</rt></ruby>をして、<ruby><rb>宛名</rb><rt>あてな</rt></ruby>をしたためた。

それには<ruby><rb>肉太</rb><rt>にくぶと</rt></ruby>の<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>のいつもの字で、

『ポート・バードック<ruby><rb>署</rb><rt>しょ</rt></ruby>　アダイ<ruby><rb>警部</rb><rt>けいぶ</rt></ruby>どの』――と書かれてあった。

## <ruby><rb>光</rb><rt>ひかり</rt></ruby>と<ruby><rb>色</rb><rt>いろ</rt></ruby>

<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>は起きあがるやいなや、あばれはじめた。けさはひどく、きげんがわるいらしい。

いすをなげとばし、<ruby><rb>洗面所</rb><rt>せんめんじょ</rt></ruby>のコップをたたきわった。

もの音で<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>が、あわててかけつけてきた。

「どうしたのだ？　なにか気にいらないことでもあるのかい？」

「なに、頭の<ruby><rb>傷</rb><rt>きず</rt></ruby>がすこしばかりいたみだしたので、<ruby><rb>気分</rb><rt>きぶん</rt></ruby>がすぐれないんだ。いやな気もちがするんだ」

<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>はだまって、ちらばっているガラスのかけらをひろいあつめ、

「きみのことが、すっかり新聞にのっているよ。<ruby><rb>世間</rb><rt>せけん</rt></ruby>は<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>のうわさでもちきりらしい。ただ、ぼくの家にきみがしのびこんでいることは知らないがね」

「うるさいやつらだ！　なぜぼくを、しずかにしておいてはくれないんだろう」

「それはむりだよ。世の中は、物わかりのいいやつばかりでできてやしないんだ。そいつらは、どこまでもきみをつかまえようとさわぐだろうね。そこで、これからどうするかね？　むろん、ぼくはできるかぎりの<ruby><rb>手伝</rb><rt>てつだ</rt></ruby>いはするよ。だが、きみはいったい、どうしたいと思ってるのかね」

<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>は考えこんでいるらしく、ベッドのはしにすわりこんだまま、だまっている。

ケンプ<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>は、しばらくしてから、さりげなく、

「<ruby><rb>書斎</rb><rt>しょさい</rt></ruby>に<ruby><rb>朝食</rb><rt>ちょうしょく</rt></ruby>のよういをさせてあるよ」

と、さそった。<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>はすなおに立ちあがり、<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>のあとについて<ruby><rb>書斎</rb><rt>しょさい</rt></ruby>にはいってきた。

ゆうべとおなじように、ナイト・ガウンだけが、すーっと<ruby><rb>食卓</rb><rt>しょくたく</rt></ruby>のまえにすわりこんで、手も口もなんにも見えないのに、どんどん食べはじめた。

はじめて見たときほどおどろかなかったが、やはりへんな<ruby><rb>光景</rb><rt>こうけい</rt></ruby>だった。

<ruby><rb>食事</rb><rt>しょくじ</rt></ruby>がおわりかけたころ、ケンプ<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>は、

「これから<ruby><rb>先</rb><rt>さき</rt></ruby>のことを<ruby><rb>相談</rb><rt>そうだん</rt></ruby>するまえに、なぜきみがそんな<ruby><rb>体</rb><rt>からだ</rt></ruby>になったか、くわしく話してもらいたいね」

<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>は、ナプキンをとりあげ、ゆっくりと口のあたりと思われるところをふき、

「かんたんなことなんだ。きみだって<ruby><rb>説明</rb><rt>せつめい</rt></ruby>をきけば、なーんだ、と思うよ。<ruby><rb>奇跡</rb><rt>きせき</rt></ruby>がおこったのでも、なんでもないさ」

「きみには、かんたんかもしれないが、ほかの者にとっては、<ruby><rb>奇跡</rb><rt>きせき</rt></ruby>とおなじくらいふしぎなことだよ」

「はっはっは」

<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>は、ケンプ<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>に会ってからはじめて、ゆかいそうに<ruby><rb>笑</rb><rt>わら</rt></ruby>った。

「さて、それではなにから話そうかな。ぼくが、はじめ<ruby><rb>医学</rb><rt>いがく</rt></ruby>を<ruby><rb>勉強</rb><rt>べんきょう</rt></ruby>していたことは、きみも知っているとおりだ。その<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>、ふとしたことから医学を<ruby><rb>研究</rb><rt>けんきゅう</rt></ruby>することをよして、<ruby><rb>物理学</rb><rt>ぶつりがく</rt></ruby>にうつったんだ。ことに<ruby><rb>光</rb><rt>ひかり</rt></ruby>の<ruby><rb>反射</rb><rt>はんしゃ</rt></ruby>とか<ruby><rb>屈折</rb><rt>くっせつ</rt></ruby>とかが、ぼくの<ruby><rb>興味</rb><rt>きょうみ</rt></ruby>をとらえてしまったんだ」

「<ruby><rb>昔</rb><rt>むかし</rt></ruby>からきみは、そういうことを<ruby><rb>研究</rb><rt>けんきゅう</rt></ruby>するのがすきだったじゃないか」

「そうだよ。しかも、この<ruby><rb>研究</rb><rt>けんきゅう</rt></ruby>は人があまりやっていないので、いくらでも研究することが<ruby><rb>残</rb><rt>のこ</rt></ruby>されているのが、若いぼくには、たまらない<ruby><rb>魅力</rb><rt>みりょく</rt></ruby>だったのだ。まだ二十二才のわかい<ruby><rb>科学者</rb><rt>かがくしゃ</rt></ruby>だったぼくには、これに一<ruby><rb>生</rb><rt>しょう</rt></ruby>をささげて、いつかは<ruby><rb>世間</rb><rt>せけん</rt></ruby>のやつどもを、あっといわせるような<ruby><rb>研究</rb><rt>けんきゅう</rt></ruby>をやりとげようと<ruby><rb>決心</rb><rt>けっしん</rt></ruby>したんだ」

<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>は、いつもの、いんきくさい<ruby><rb>世</rb><rt>よ</rt></ruby>をのろったような声とはまるでちがう、わかい<ruby><rb>張</rb><rt>は</rt></ruby>りのある声で話しつづけた。

「それからのぼくの頭には、<ruby><rb>研究</rb><rt>けんきゅう</rt></ruby>のことよりほかは、なにもなかったね。<ruby><rb>寝</rb><rt>ね</rt></ruby>てもさめても考えるのは、<ruby><rb>研究</rb><rt>けんきゅう</rt></ruby>のことばかり――六ヵ月ほどたったとき、はっと思いついたことがあったのだ」

「どんなことだ」

「きみも知っているとおり、物が見えるということは、光が物にあたったとき<ruby><rb>反射</rb><rt>はんしゃ</rt></ruby>するか、そのまま<ruby><rb>吸収</rb><rt>きゅうしゅう</rt></ruby>されてしまうか、または光がおれまがる<ruby><rb>具合</rb><rt>ぐあい</rt></ruby>によって、いろいろな色とか、形とかが、それぞれの<ruby><rb>姿</rb><rt>すがた</rt></ruby>をもって目にみえるので――光のこの三つの<ruby><rb>働</rb><rt>はたら</rt></ruby>きがなかったら、われわれは物をみることができないわけだ」

「そうだ」

「たとえば、われわれが赤い<ruby><rb>布</rb><rt>ぬの</rt></ruby>をみるとするね。赤くみえるのは、<ruby><rb>太陽</rb><rt>たいよう</rt></ruby>の<ruby><rb>光線</rb><rt>こうせん</rt></ruby>のなかで赤い色のところだけを<ruby><rb>布</rb><rt>ぬの</rt></ruby>が<ruby><rb>反射</rb><rt>はんしゃ</rt></ruby>して、あとの色はみんな<ruby><rb>吸</rb><rt>す</rt></ruby>いこんでしまうからなんだ。また光をぜんぶ<ruby><rb>反射</rb><rt>はんしゃ</rt></ruby>してしまえば、白くきらきらとかがやいてみえるだろう。そしてふつうのうすいガラスが、光のすくないうす暗いところなどでは見にくいわけは、光をほとんど<ruby><rb>吸収</rb><rt>きゅうしゅう</rt></ruby>しないし、はねかえすことも、おれまがる<ruby><rb>度合</rb><rt>どあい</rt></ruby>もすくないからなんだ」

<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>はむちゅうで、しゃべりまくっている。ケンプ<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>はあきれ顔をして、じっと<ruby><rb>相手</rb><rt>あいて</rt></ruby>の声をきいていた。

「そのガラスをこなごなにして、水のなかに入れてみたまえ。たちまち見えなくなってしまうだろう。これは水とガラスは、光がおなじような<ruby><rb>具合</rb><rt>ぐあい</rt></ruby>におれまがるからなんだ。これから考えをすすめてゆけば、なにもガラスを<ruby><rb>水中</rb><rt>すいちゅう</rt></ruby>に入れなくても、水の中に入れたとおなじように見えなくすることができるはずだろう」

## ガラスと<ruby><rb>人間</rb><rt>にんげん</rt></ruby>

「そうだ。しかし、<ruby><rb>人間</rb><rt>にんげん</rt></ruby>はガラスとちがうからな！」

「そんなことはない。人間はガラスとおなじように<ruby><rb>透明</rb><rt>とうめい</rt></ruby>だよ」

「そんなむちゃな話はないよ」

「むちゃな話ではないんだ。りっぱにすじみちのとおっている話だよ。人間だって<ruby><rb>血液</rb><rt>けつえき</rt></ruby>の赤い色と<ruby><rb>毛髪</rb><rt>もうはつ</rt></ruby>の色などをとりのぞけば、<ruby><rb>体</rb><rt>からだ</rt></ruby>じゅうが<ruby><rb>無色</rb><rt>むしょく</rt></ruby>で<ruby><rb>透明</rb><rt>とうめい</rt></ruby>になってしまうんだ。ガラスとたいしてちがわないよ」

ケンプ<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>は<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>のきばつな考えに、ただうなずくばかりだった。透明人間のことばはますます<ruby><rb>熱</rb><rt>ねつ</rt></ruby>をおびてきた。

「ぼくがこれを考えついたのは、ロンドンを去ってチェジルストウにいたときだ。今から六年ほど前のことになるがね。その時のぼくの<ruby><rb>先生</rb><rt>せんせい</rt></ruby>のオリバー<ruby><rb>教授</rb><rt>きょうじゅ</rt></ruby>というのは、じつに<ruby><rb>根性</rb><rt>こんじょう</rt></ruby>のまがった男で、<ruby><rb>学者</rb><rt>がくしゃ</rt></ruby>のくせに<ruby><rb>学問</rb><rt>がくもん</rt></ruby>や<ruby><rb>実験</rb><rt>じっけん</rt></ruby>に身を入れないで、<ruby><rb>世間</rb><rt>せけん</rt></ruby>のひょうばんや<ruby><rb>名声</rb><rt>めいせい</rt></ruby>ばかりに気をとられているのだ。だから、ぼくはだれにも<ruby><rb>秘密</rb><rt>ひみつ</rt></ruby>で、<ruby><rb>研究</rb><rt>けんきゅう</rt></ruby>をすすめていくことにしたのだ」

「だれの手もかりないで、きみひとりでかい？」

「そうだ。ぼくは<ruby><rb>研究</rb><rt>けんきゅう</rt></ruby>が<ruby><rb>完成</rb><rt>かんせい</rt></ruby>したそのとき、ぱっと<ruby><rb>世間</rb><rt>せけん</rt></ruby>に<ruby><rb>発表</rb><rt>はっぴょう</rt></ruby>して、一夜で<ruby><rb>天下</rb><rt>てんか</rt></ruby>に名をとどろかせてやろうと考えたんだ。研究はおもうとおりに進んだ。そのうち、思いもかけない大発見をしたのだ。これはぼくの手がらではないんだ。ぐうぜんなことで、おもいがけないたまものが、さずかったというわけだ」

「ずいぶん大げさなんだね。いったい、どんな大発見なんだい？」

「きみ、おどろいてはいけないよ。ぼくは<ruby><rb>血</rb><rt>ち</rt></ruby>を<ruby><rb>無色</rb><rt>むしょく</rt></ruby>にすることができるということを見つけたんだよ。<ruby><rb>血</rb><rt>ち</rt></ruby>を<ruby><rb>無色</rb><rt>むしょく</rt></ruby>にすることができれば、人間を<ruby><rb>透明</rb><rt>とうめい</rt></ruby>にすることができる、というわけだ。人間の<ruby><rb>体</rb><rt>からだ</rt></ruby>の<ruby><rb>血液</rb><rt>けつえき</rt></ruby>を<ruby><rb>透明</rb><rt>とうめい</rt></ruby>にしてしまえば、体じゅうが透明になるわけだからな。そうなれば、ぼく<ruby><rb>自身</rb><rt>じしん</rt></ruby>、透明になることはわけないというわけさ。もちろん、そのために<ruby><rb>体</rb><rt>からだ</rt></ruby>に<ruby><rb>害</rb><rt>がい</rt></ruby>があってはなんにもならないが、その<ruby><rb>点</rb><rt>てん</rt></ruby>は<ruby><rb>自信</rb><rt>じしん</rt></ruby>があったのだ」

「な、なんだって……なんということを考えだしたのだ。おそろしい人だね、きみは」

「おどろくのもむりはないよ。それを発見したぼく自身、しばらくの間は、ぼうぜんとしていたくらいだからね。ぼくはその夜のことを、いまでも、はっきりとおぼえているよ――。<ruby><rb>研究室</rb><rt>けんきゅうしつ</rt></ruby>にいるのはぼくひとりで、ひっそりとしずまりかえっていた。ぼくはじぶんのこの発見にすっかり<ruby><rb>興奮</rb><rt>こうふん</rt></ruby>してしまい、じっとしていられなくなった。<ruby><rb>窓</rb><rt>まど</rt></ruby>をおしひらいて、<ruby><rb>夜空</rb><rt>よぞら</rt></ruby>にしずかにまたたいている星をみあげ、いくどか、おれも<ruby><rb>透明</rb><rt>とうめい</rt></ruby>になれるんだぞと、くりかえしてつぶやいた。それでいくらか落ちつきをとりもどしたんだよ」

「そうだろうね。その気もちは、ぼくにもわかるようだが……」

「ねえ、きみ、考えてみたまえ。すがたを<ruby><rb>消</rb><rt>け</rt></ruby>して思いのままをやるのは、人間の<ruby><rb>昔</rb><rt>むかし</rt></ruby>からのあこがれだったじゃないか。おとぎ話のなかの<ruby><rb>魔法使</rb><rt>まほうつか</rt></ruby>いとおなじになれるんだ。こんなすてきなことがあるだろうか。それをぼくがやりとげたんだ」

<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>は、いきおいこんで話しつづけた。せきをきった水のように、とまることをしらぬようにさえ思われた。ケンプ<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>はしずんだようすで、かれの話に耳をかたむけていた。

「これで、ながい間、ばかな<ruby><rb>主任教授</rb><rt>しゅにんきょうじゅ</rt></ruby>に見はられながら、<ruby><rb>苦心</rb><rt>くしん</rt></ruby>したかいがあったと思ったね。<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>の大学で頭のさえない学生をあいてに心にそまない<ruby><rb>授業</rb><rt>じゅぎょう</rt></ruby>をして、毎日をみじめにすごしてきたぼくが、これはどの<ruby><rb>成功</rb><rt>せいこう</rt></ruby>をしようとは、だれも考えなかったろう。しかし、この研究をかんぜんなものにするために、それからさらに三年の年月、むがむちゅうで<ruby><rb>研究</rb><rt>けんきゅう</rt></ruby>をつづけたんだ。ところが三年たってみると、この<ruby><rb>研究</rb><rt>けんきゅう</rt></ruby>を<ruby><rb>完成</rb><rt>かんせい</rt></ruby>させるには、どうしても<ruby><rb>金</rb><rt>かね</rt></ruby>がたりないということに気づいたんだ」

「<ruby><rb>金</rb><rt>かね</rt></ruby>が……」

「そうだ」

<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>は<ruby><rb>吐</rb><rt>は</rt></ruby>きすてるように言って、だまりこんでしまった。

## <ruby><rb>研究</rb><rt>けんきゅう</rt></ruby>の<ruby><rb>鬼</rb><rt>おに</rt></ruby>

ケンプ<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>もだまりこんで、じっとナイト・ガウンだけの<ruby><rb>人間</rb><rt>にんげん</rt></ruby>を見つめていた。

ながい間、なんの物音もしなかった。

ふと、<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>が口をひらいた。

「金がなければ、ぼくの<ruby><rb>研究</rb><rt>けんきゅう</rt></ruby>をつづけることはできない。やむをえず、おやじの<ruby><rb>金</rb><rt>かね</rt></ruby>を<ruby><rb>盗</rb><rt>ぬす</rt></ruby>んでしまったんだ……」

「おとうさんの金を盗んだって……きみが？」

「うん、ところがそのお金は、おやじのものではなかったんだ――。そして……おやじはそのために<ruby><rb>自殺</rb><rt>じさつ</rt></ruby>をしてしまったんだ」

ケンプ博士は、くらい目つきで、<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>をみつめた。

「ぼくのそのころ、チェジルストウの家をひきはらって、ロンドンのポートランド<ruby><rb>街</rb><rt>がい</rt></ruby>にもどっていた。<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>をかりてすんでいたんだ。おやじの金をぬすんで、いろいろな<ruby><rb>実験</rb><rt>じっけん</rt></ruby>にいるものを買いととのえたので、ぼくの<ruby><rb>研究</rb><rt>けんきゅう</rt></ruby>は気もちがいいほど具合よくすすんでいったんだ」

ケンプ博士はうなずいた。そして心のなかで、

（なんというつめたい男だろう。やつは研究の<ruby><rb>鬼</rb><rt>おに</rt></ruby>になってしまったんだ。やつの心には、もうあたたかい人間の<ruby><rb>血</rb><rt>ち</rt></ruby>が通っていないのかもしれない。おそろしいことだ）

と考えていた。が、透明人間は<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>の心のなかのことなどは気にもかけず、

「おやじの<ruby><rb>葬式</rb><rt>そうしき</rt></ruby>は風のつめたい、さむい寒い日だったよ。ぼくはおやじがさびしい<ruby><rb>丘</rb><rt>おか</rt></ruby>の<ruby><rb>中腹</rb><rt>ちゅうふく</rt></ruby>にほうむられるのをみても、考えるのはただ<ruby><rb>研究</rb><rt>けんきゅう</rt></ruby>のことばかりで、さびしいとも<ruby><rb>悲</rb><rt>かな</rt></ruby>しいとも思わなかったんだ。<ruby><rb>葬式</rb><rt>そうしき</rt></ruby>をすませてじぶんの<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>にかえってきたときには、はじめて生きているかいがあると思ったよ。ぼくはむちゅうになって<ruby><rb>研究</rb><rt>けんきゅう</rt></ruby>にとりかかった」

<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>は、ふと口をつむぐと、くらい顔ですわりこんでいる<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>に、

「きみ、つかれたのかい？　顔いろがさえないようだ」

「いや、なんでもない。さあ、つづけたまえ。それからどうなったんだ」

「そのときすでに<ruby><rb>研究</rb><rt>けんきゅう</rt></ruby>は、九<ruby><rb>分</rb><rt>ぶ</rt></ruby>どおりできあがっていたんだ。その<ruby><rb>大体</rb><rt>だいたい</rt></ruby>のことは、<ruby><rb>浮浪者</rb><rt>ふろうしゃ</rt></ruby>がもち<ruby><rb>逃</rb><rt>に</rt></ruby>げしたノートに、<ruby><rb>暗号</rb><rt>あんごう</rt></ruby>をつかって書いてある。あいつめ、おれのノートを取りやがって……どんなことをしてもとりかえしてやるぞ。うらぎったやつには、思いしらせてやる！」

<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>はあの<ruby><rb>浮浪者</rb><rt>ふろうしゃ</rt></ruby>のことを思いだし、研究の話をするのもわすれて、さんざんにののしりはじめた。すると、<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>が、

「<ruby><rb>研究</rb><rt>けんきゅう</rt></ruby>のほうのことをきかせてくれたまえ。そしてどうなったんだい？」

「ついに待ちのぞんでいた日がきたんだ。その日の<ruby><rb>実験</rb><rt>じっけん</rt></ruby>には白い<ruby><rb>羊毛</rb><rt>ようもう</rt></ruby>を使ってみたんだ。<ruby><rb>実験</rb><rt>じっけん</rt></ruby>はうまくいって、白い羊毛がじっと<ruby><rb>息</rb><rt>いき</rt></ruby>をころしてみつめているぼくの目のまえで、けむりのように色がしだいにうすくなり、やがて、すーっと<ruby><rb>消</rb><rt>き</rt></ruby>えていってしまったんだ。その<ruby><rb>光景</rb><rt>こうけい</rt></ruby>は、なんともいいようのないくらい、ぶきみなものだったよ」

「それで……」

「白い<ruby><rb>羊毛</rb><rt>ようもう</rt></ruby>がすっかり<ruby><rb>消</rb><rt>き</rt></ruby>えて、ぼくの目に見えなくなったときには、まるで<ruby><rb>信</rb><rt>しん</rt></ruby>じられない気がしたよ。ぼくはそっと、<ruby><rb>羊毛</rb><rt>ようもう</rt></ruby>をおいたあたりをさわってみた。すると、どうだ！　やはり<ruby><rb>羊毛</rb><rt>ようもう</rt></ruby>はまえとおなじ場所に、ちゃんとあるんだ。そのときのぼくの気もちといったら、うれしいような、<ruby><rb>気味</rb><rt>きみ</rt></ruby>のわるいような、<ruby><rb>変</rb><rt>へん</rt></ruby>な気もちだったよ」

ケンプ<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>は口のなかで、そっとつぶやいた。

「<ruby><rb>信</rb><rt>しん</rt></ruby>じられん話だが………うそではなさそうだ」

そして<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>に、ひとやすみしないかと<ruby><rb>言</rb><rt>い</rt></ruby>い、ポケットからたばこをとりだした。

透明人間は一本ぬきとると、火をつけて口にくわえた。と言っても、やはり<ruby><rb>空中</rb><rt>くうちゅう</rt></ruby>にたばこがういているように見えるだけである。

「つぎの研究には、ねこをつかったんだ」

「生きてるねこをかい？」

「もちろんさ。そのねこは<ruby><rb>階下</rb><rt>かいか</rt></ruby>にすむ、ひとり<ruby><rb>者</rb><rt>もの</rt></ruby>の<ruby><rb>老婆</rb><rt>ろうば</rt></ruby>のかわいがっているねこなんだ。ぼくは<ruby><rb>血</rb><rt>ち</rt></ruby>のいろをうすめる<ruby><rb>薬</rb><rt>くすり</rt></ruby>やらそのほかの薬やらを、<ruby><rb>苦心</rb><rt>くしん</rt></ruby>してそのねこにのませたんだ。そして<ruby><rb>薬</rb><rt>くすり</rt></ruby>で、ねこを<ruby><rb>眠</rb><rt>ねむ</rt></ruby>らせておいた。ねこがつぎに目をさましたときには、羊毛とおなじように、けむりのようにきえていたんだ」

「ねこが<ruby><rb>透明</rb><rt>とうめい</rt></ruby>になってしまったって……？」

「そうだ。もっともすこし<ruby><rb>失敗</rb><rt>しっぱい</rt></ruby>したところもあって、うまく<ruby><rb>消</rb><rt>き</rt></ruby>えうせてはしまわなかったがね。うまくいかなかったところは、ひとみと<ruby><rb>爪</rb><rt>つめ</rt></ruby>だ。ねこは<ruby><rb>薬</rb><rt>くすり</rt></ruby>をのませると<ruby><rb>同時</rb><rt>どうじ</rt></ruby>に、ひもでしばって<ruby><rb>逃</rb><rt>に</rt></ruby>げださぬようにしておいたんだ。そのうちに気をとりもどして、起きあがったときには、からだはかんぜんに<ruby><rb>消</rb><rt>き</rt></ruby>え、ふたつのほそい目と<ruby><rb>爪</rb><rt>つめ</rt></ruby>だけが、部屋のなかにゆうれいのように<ruby><rb>浮</rb><rt>う</rt></ruby>いていたんだ」

「ぶきみな話だ！　それに、ねこがかわいそうじゃないか」

ケンプ<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>は、とがめるように言った。

「<ruby><rb>持主</rb><rt>もちぬし</rt></ruby>の<ruby><rb>老婆</rb><rt>ろうば</rt></ruby>が、ねこを<ruby><rb>探</rb><rt>さが</rt></ruby>しにきて、『わたしのねこが、こちらにきているでしょう。たしかになき声がしていましたよ』と、がなりたて、<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>の中をじろじろとのぞきこんだが、ねこはクロロフォルムでねむらせてあったので、見つかるはずはない。うさんくさそうになんどもながめまわしてから、やっとひきあげていったよ。おかしかったねえ」

「<ruby><rb>透明</rb><rt>とうめい</rt></ruby>になってしまったねこは、その<ruby><rb>後</rb><rt>ご</rt></ruby>、どうしたんだね」

「さあ、どうしたかね。<ruby><rb>透明</rb><rt>とうめい</rt></ruby>になると、ひどくあつかいにくくてね。つかまえようとしてもつかまえることができない。そして、にゃあにゃあ、なきつづけているので、とうとう、うるさくなって、<ruby><rb>窓</rb><rt>まど</rt></ruby>をあけてそとへ追いだしてやったよ」

「すると<ruby><rb>透明</rb><rt>とうめい</rt></ruby>ねこは、いまでもどこかをさまよっているというわけだね」

「<ruby><rb>生</rb><rt>い</rt></ruby>きていればね。だが、おそらく<ruby><rb>死</rb><rt>し</rt></ruby>んでいるだろう。目に見えないねこに、えさをやる人もいないだろうからね」

「そうか、かわいそうに……」

<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>は、なんにもないところに、ねこの<ruby><rb>丸</rb><rt>まる</rt></ruby>いひとみがふたつ、みどり色にひかり、かなしそうに食べ物をもとめてなく声だけがきこえる<ruby><rb>光景</rb><rt>こうけい</rt></ruby>を、ありありと思いうかべて身ぶるいした。

「ぶきみなことだ！」

## グリッフィン<ruby><rb>透明</rb><rt>とうめい</rt></ruby>になる

つぎに<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>が話しだしたのは、いよいよかれ<ruby><rb>自身</rb><rt>じしん</rt></ruby>の<ruby><rb>体</rb><rt>からだ</rt></ruby>が、どのようにして透明にかわっていったか、ということだった。

「一月のことだったよ。<ruby><rb>雪</rb><rt>ゆき</rt></ruby>のふる前の日で、おそろしくさむい日だった。ながい<ruby><rb>研究</rb><rt>けんきゅう</rt></ruby>のつかれがでたのか、<ruby><rb>気分</rb><rt>きぶん</rt></ruby>はすぐれず、いつものように<ruby><rb>実験</rb><rt>じっけん</rt></ruby>をつづける<ruby><rb>元気</rb><rt>げんき</rt></ruby>もなかったんだ」

<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>はつかれたようすもなく、また話しはじめた。

「四年の間、あけてもくれても、ただ<ruby><rb>研究</rb><rt>けんきゅう</rt></ruby>を<ruby><rb>完成</rb><rt>かんせい</rt></ruby>させることだけを考えてくらしていたが、もともとわずかばかりしかなかった金は、ほとんど使いはたしてしまい、<ruby><rb>体</rb><rt>からだ</rt></ruby>もくたくたにつかれきると、なにをするのもいやになってしまった。ぼんやりと<ruby><rb>丘</rb><rt>おか</rt></ruby>にのぼって子どもたちがあそんでいるのをながめていたが、そのうち、ぼくの<ruby><rb>体</rb><rt>からだ</rt></ruby>が<ruby><rb>透明</rb><rt>とうめい</rt></ruby>になって人目につかなくなったら、こんなみじめな<ruby><rb>境遇</rb><rt>きょうぐう</rt></ruby>からぬけだし、いろいろときばつな、ゆかいなことができるのではないかと、考えたんだ」

「それできみは、<ruby><rb>体</rb><rt>からだ</rt></ruby>を<ruby><rb>透明</rb><rt>とうめい</rt></ruby>にするおそろしい仕事にとりかかったのかね？」

「そうなんだ。ぼくは<ruby><rb>下宿</rb><rt>げしゅく</rt></ruby>にかえると、さっそく<ruby><rb>薬</rb><rt>くすり</rt></ruby>の<ruby><rb>調合</rb><rt>ちょうごう</rt></ruby>にかかったんだ。そこへ前からぼくのことをうさんくさい目でみていた<ruby><rb>下宿</rb><rt>げしゅく</rt></ruby>のおやじが、<ruby><rb>文句</rb><rt>もんく</rt></ruby>を言いにきたんだ。おやじは部屋じゅうをじろじろながめまわして、『あんたはいったいこの<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>で、どんな仕事をしているんですかね、へんなにおいがしたり、夜っぴてガス・エンジンがうなったり……おかげで<ruby><rb>下宿</rb><rt>げしゅく</rt></ruby>じゅうの<ruby><rb>人間</rb><rt>にんげん</rt></ruby>が、おちおち<ruby><rb>暮</rb><rt>く</rt></ruby>らすこともできないではありませんか。人には言えねえ<ruby><rb>怪</rb><rt>あや</rt></ruby>しげな<ruby><rb>研究</rb><rt>けんきゅう</rt></ruby>でもやっているんじゃありませんか……とんだめいわくをかけられたら、たまったものじゃありませんからな』と、くどくどといつまでもいいつづけるので、ぼくはとうとうかんしゃくを起こして、『うるさい！　でていけっ！』と、どなってやったんだ」

「らんぼうだね！」

「しかたがないさ。おやじは、ぼくにどなられると、かんかんになっておこりだした。ぼくはついにがまんしきれなくなって、おやじのえり<ruby><rb>首</rb><rt>くび</rt></ruby>をつかむと、ドアのそとへ<ruby><rb>力</rb><rt>ちから</rt></ruby>いっぱいなげだしてやったよ。これでぼくは、この<ruby><rb>下宿</rb><rt>げしゅく</rt></ruby>からもでてゆかねばならないことになってしまったんだ」

<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>の<ruby><rb>着</rb><rt>き</rt></ruby>ているナイト・ガウンが、はげしくぶるぶるとふるえた。そのときのことを思いだして、もういちど<ruby><rb>腹</rb><rt>はら</rt></ruby>をたてているらしかった。

「こんなわからずやのおやじがいては、とてもじぶんの<ruby><rb>研究</rb><rt>けんきゅう</rt></ruby>をこのままぶじにつづけることはできない、とわかったので、ぼくはすぐにつぎの<ruby><rb>手段</rb><rt>しゅだん</rt></ruby>を考えだした。大いそぎで<ruby><rb>薬品</rb><rt>やくひん</rt></ruby>の<ruby><rb>調合</rb><rt>ちょうごう</rt></ruby>にとりかかり、それができあがると、<ruby><rb>夕方</rb><rt>ゆうがた</rt></ruby>から夜にかけて、ぼくは<ruby><rb>体</rb><rt>からだ</rt></ruby>を<ruby><rb>透明</rb><rt>とうめい</rt></ruby>にするその<ruby><rb>薬</rb><rt>くすり</rt></ruby>をのみつづけたんだ――」

ケンプ<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>は、そのとき口をもぐもぐさせて、なにか言いかけたが、そのまま、<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>の話をだまってききつづけた。

「夜ふけになったとき、<ruby><rb>薬</rb><rt>くすり</rt></ruby>のために、ぼくはたまらないほど気もちがわるくなってしまった。いすにぼんやりと<ruby><rb>腰</rb><rt>こし</rt></ruby>かけていると、だれかがドアを力いっぱいたたくんだ。ぼくは動く気がしないので、ながいあいだ<ruby><rb>放</rb><rt>ほう</rt></ruby>っておいたが、どうしてもノックをやめないんだ。たまりかねてドアをあけると、下宿のおやじが立っていて、なまいきな<ruby><rb>態度</rb><rt>たいど</rt></ruby>で一枚の紙きれをさしだしたが、ひょいとぼくの顔をみると、<ruby><rb>目玉</rb><rt>めだま</rt></ruby>がとびでるほどおどろいて、<ruby><rb>紙</rb><rt>かみ</rt></ruby>きれをその場にほうりだして、ころがるように逃げていったよ」

「どうしたというのだい？　そのおやじは……」

「ぼくも<ruby><rb>鏡</rb><rt>かがみ</rt></ruby>をみるまでは、わけがわからなかったんだ。が、おやじが<ruby><rb>逃</rb><rt>に</rt></ruby>げだしてから、鏡をみて、やっと、やつのふるえあがったわけがわかったよ。ぼくの顔がまっ白にかわっていたんだ。すきとおるほど白くね」

「白く？………」

「そうだ。<ruby><rb>予期</rb><rt>よき</rt></ruby>したようにね。それから夜あけまでの<ruby><rb>苦</rb><rt>くる</rt></ruby>しみは、ぼくも予期しなかったことなんだ。<ruby><rb>皮膚</rb><rt>ひふ</rt></ruby>はもえるように<ruby><rb>熱</rb><rt>あつ</rt></ruby>くなり、<ruby><rb>体</rb><rt>からだ</rt></ruby>じゅうが、かっかっとほてって、その苦しさときたら、いまにも<ruby><rb>気絶</rb><rt>きぜつ</rt></ruby>して、それっきり死んでしまうかと、たびたび思ったほどだった。<ruby><rb>歯</rb><rt>は</rt></ruby>をくいしばってがまんしたが、うめき声はひとりでに高くなり、ついにぼくは<ruby><rb>気絶</rb><rt>きぜつ</rt></ruby>してしまったんだ」

ケンプ<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>は、おそろしさに身ぶるいしながら、心のなかで、

（やつの<ruby><rb>魂</rb><rt>たましい</rt></ruby>は<ruby><rb>悪魔</rb><rt>あくま</rt></ruby>にみいられているにちがいない。でなければ、ふつうの<ruby><rb>人間</rb><rt>にんげん</rt></ruby>に、そんなおそろしいことがたえきれるはずがないんだ）

と、思っていた。<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>は、じぶんの話にすっかりむちゅうになって、<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>のことなどわすれてしまっているようだった。

「こんど気がついたときは夜あけだったよ。はげしい<ruby><rb>苦</rb><rt>くる</rt></ruby>しみはやんでいたが、ひどい<ruby><rb>疲</rb><rt>つか</rt></ruby>れでくたくたになっていた。明けがたの光が<ruby><rb>窓</rb><rt>まど</rt></ruby>からさしこんだとき、ぼくはじぶんの手をみて、おどろきとよろこびといっしょになった、言いようのない声をあげたんだ。なぜって――両手がくもりガラスのような色になってたんだ。そして、じっと見つめているうちに、両手はどんどん透きとおって、夜がすっかり明けきったころには、まったく<ruby><rb>透明</rb><rt>とうめい</rt></ruby>になってしまったんだ」

「<ruby><rb>両手</rb><rt>りょうて</rt></ruby>といっしょに、<ruby><rb>体</rb><rt>からだ</rt></ruby>じゅうも<ruby><rb>透明</rb><rt>とうめい</rt></ruby>になったのかい？」

「もちろんだ。一番さいごまで色が残っていたのは<ruby><rb>爪</rb><rt>つめ</rt></ruby>だったね。じぶんで<ruby><rb>決心</rb><rt>けっしん</rt></ruby>してやったことだが、こうして<ruby><rb>成功</rb><rt>せいこう</rt></ruby>して<ruby><rb>全身</rb><rt>ぜんしん</rt></ruby>が<ruby><rb>透明</rb><rt>とうめい</rt></ruby>になってしまうと、さすがのぼくも、たいへんなことをやったなと、心おだやかでなかった。もう一度ベッドにもぐりこんで、<ruby><rb>昼</rb><rt>ひる</rt></ruby>ちかくまでゆっくり<ruby><rb>眠</rb><rt>ねむ</rt></ruby>って<ruby><rb>元気</rb><rt>げんき</rt></ruby>をとりもどすと、<ruby><rb>研究</rb><rt>けんきゅう</rt></ruby>に使った<ruby><rb>機械</rb><rt>きかい</rt></ruby>や<ruby><rb>道具</rb><rt>どうぐ</rt></ruby>を二度ともとにできないように、めちゃめちゃにしておき、ここからでていくじゅんびに取りかかった。」

「なぜ<ruby><rb>機械</rb><rt>きかい</rt></ruby>をこわしたんだい？」

「ほかの者に、ぼくの研究をかぎつけられないためさ。そこへまた夜のあけるのをまちかねた<ruby><rb>下宿</rb><rt>げしゅく</rt></ruby>のおやじが、くっ<ruby><rb>強</rb><rt>きょう</rt></ruby>な<ruby><rb>若者</rb><rt>わかもの</rt></ruby>を二人もつれて、『<ruby><rb>化</rb><rt>ば</rt></ruby>けものやろうめ、きょうこそは、なにがなんでも追いだしてやるからな。<ruby><rb>腕</rb><rt>うで</rt></ruby>づくでも追っぱらう気なんだ』といきまきながら、ドアをおしやぶってはいってきた。ぼくは、入れちがいにそとへでていったよ。もちろん、やつらはすこしも気づかなかった。<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>のなかにぼくの<ruby><rb>姿</rb><rt>すがた</rt></ruby>がみえないので大さわぎをしていたよ」

そこで<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>はおかしそうに、くっくっくっとふくみ<ruby><rb>笑</rb><rt>わら</rt></ruby>いをして、また話しだした。

「やつらがぼくの<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>をひっかきまわしてさわいでる間に、ぼくは、おやじの<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>にもぐりこんでようすを見ていたんだ。さわぎはだんだん大きくなって、<ruby><rb>下宿</rb><rt>げしゅく</rt></ruby>の<ruby><rb>人間</rb><rt>にんげん</rt></ruby>はひとり<ruby><rb>残</rb><rt>のこ</rt></ruby>らず、そのうえ<ruby><rb>出入</rb><rt>でい</rt></ruby>りの<ruby><rb>商人</rb><rt>しょうにん</rt></ruby>たちまでがぼくの<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>にはいりこんで、<ruby><rb>実験</rb><rt>じっけん</rt></ruby>の<ruby><rb>機械</rb><rt>きかい</rt></ruby>や<ruby><rb>薬品</rb><rt>やくひん</rt></ruby>をいじりはじめたんだ」

「それで……」

「ぼくはそのようすを見ながら、ふと、『こいつらのように<ruby><rb>無学</rb><rt>むがく</rt></ruby>なやつどもがさわいでいる間はよいが、そのうちに<ruby><rb>学問</rb><rt>がくもん</rt></ruby>のあるやつがこれを見にきて、ぼくの<ruby><rb>研究</rb><rt>けんきゅう</rt></ruby>をかぎつけるようなことになるかもしれない』と考えたんだ」

「だってきみは、<ruby><rb>機械</rb><rt>きかい</rt></ruby>をこわしておいたんだろう？」

「そうだ。だが、それで安心はしていられないよ。そこで<ruby><rb>永久</rb><rt>えいきゅう</rt></ruby>にぼくの<ruby><rb>研究</rb><rt>けんきゅう</rt></ruby>を<ruby><rb>秘密</rb><rt>ひみつ</rt></ruby>にしておく方法を考えだしたんだ」

「どんな方法だい？　そんなことができるのかい……」

「<ruby><rb>完全</rb><rt>かんぜん</rt></ruby>な<ruby><rb>方法</rb><rt>ほうほう</rt></ruby>だよ。ぼくは、ぼくの<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>でさわいでいた<ruby><rb>連中</rb><rt>れんちゅう</rt></ruby>がすっかりひきあげると、そっと、おやじの部屋から、ぼくの部屋にひきかえして、そのへんにある<ruby><rb>書類</rb><rt>しょるい</rt></ruby>や<ruby><rb>紙</rb><rt>かみ</rt></ruby>くずを山とつみあげ、マッチをすって、火をつけてやった。<ruby><rb>燃</rb><rt>も</rt></ruby>えあがるのをみて、その上にふとんやいすをつみかさね、さいごにゴム<ruby><rb>管</rb><rt>かん</rt></ruby>をひっぱって、ガスをふきださせたんだ。ガスはすぐに<ruby><rb>燃</rb><rt>も</rt></ruby>えあがり、たちまち、ふとんもいすもめらめらと<ruby><rb>火</rb><rt>ひ</rt></ruby>をふきだした。ぼくは、そこまで見とどけると、そっと<ruby><rb>玄関</rb><rt>げんかん</rt></ruby>から、<ruby><rb>街</rb><rt>まち</rt></ruby>へしのびでていったよ。いやな<ruby><rb>下宿</rb><rt>げしゅく</rt></ruby>におさらばしてね」

「それじゃあ、きみは、<ruby><rb>放火</rb><rt>ほうき</rt></ruby>してきたというのかい？」

「そうさ。それよりほかに、ぼくの<ruby><rb>研究</rb><rt>けんきゅう</rt></ruby>を<ruby><rb>永久</rb><rt>えいきゅう</rt></ruby>に<ruby><rb>秘密</rb><rt>ひみつ</rt></ruby>にしておける方法があるかね？　ないだろう」

<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>には、そのときの<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>の声が、<ruby><rb>地獄</rb><rt>じごく</rt></ruby>のそこからきこえてくる<ruby><rb>悪魔</rb><rt>あくま</rt></ruby>の声のようにおもえた。

## <ruby><rb>街</rb><rt>まち</rt></ruby>にでた<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>

「<ruby><rb>街</rb><rt>まち</rt></ruby>へふみだしてみて、ぼくははじめて<ruby><rb>透明</rb><rt>とうめい</rt></ruby>になったことをゆかいに思ったよ。ぼくがうしろから、<ruby><rb>通行人</rb><rt>つうこうにん</rt></ruby>の<ruby><rb>帽子</rb><rt>ぼうし</rt></ruby>をはじきとばしたり、<ruby><rb>肩</rb><rt>かた</rt></ruby>をぽんとたたいたら、そいつはどんなにおどろいた顔をするだろうかと思うと、まったく考えただけで、ふきだすほどうきうきしてきたんだ。ぼくは<ruby><rb>街</rb><rt>まち</rt></ruby>をあちこちと気ままに歩いていった。ところが、<ruby><rb>夕方</rb><rt>ゆうがた</rt></ruby>ちかくなると、ぼくはすっかり<ruby><rb>弱</rb><rt>よわ</rt></ruby>ってしまった。よくはれたあたたかい日だったが、一月になったばかりだもの、まっぱだかではたまったものではないよ。ぼくは歩きながら、がたがたふるえどおしだった」

「はっはっはっ、いくら<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>になっても、人間はやはり人間だよ。ま<ruby><rb>冬</rb><rt>ふゆ</rt></ruby>にはだかでいられるものか」

ケンプ<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>は、はじめて<ruby><rb>気味</rb><rt>きみ</rt></ruby>よさそうに笑い声をたてた。

「<ruby><rb>笑</rb><rt>わら</rt></ruby>いごとじゃないよ。日がかたむきかけてくるにつれて、<ruby><rb>寒</rb><rt>さむ</rt></ruby>さはいっそうひどくなった。ちょうどブルームズベリイ<ruby><rb>広場</rb><rt>ひろば</rt></ruby>をぬけようとしていたときだ。ぼくは大きなくしゃみをひとつした。まわりにいた人たちが、いっせいにふしぎそうにあたりを見まわした。とたんに、近よってきた白い<ruby><rb>犬</rb><rt>いぬ</rt></ruby>が、ぼくをかぎつけたのか、わんわんとほえたててとびかかってきたんだ」

「<ruby><rb>透明</rb><rt>とうめい</rt></ruby>になっていても、犬にはわかったのだろうか？」

「犬にはわかるらしいね。かぎつけるんだ。いまいましい話だが、それからぼくはラッセル<ruby><rb>広場</rb><rt>ひろば</rt></ruby>まで犬に追われて、力のかぎり走りつづけたよ。ラッセル広場には、まだ人だかりがしていた。犬からのがれてほっとしたのもつかのま、また、つぎの<ruby><rb>災難</rb><rt>さいなん</rt></ruby>がふりかかってきたんだ」

「つぎの災難っていうのは、どんなことだったのだい？」

「こんどは子どもに見つけられたんだ。もちろんぼくの<ruby><rb>姿</rb><rt>すがた</rt></ruby>を見つけるはずはない。ぼくはつかれはてていたので、ひと<ruby><rb>休</rb><rt>やす</rt></ruby>みしようと思って、<ruby><rb>博物館</rb><rt>はくぶつかん</rt></ruby>のまっ白な<ruby><rb>階段</rb><rt>かいだん</rt></ruby>をのぼっていったんだ。その近くで子どもたちが<ruby><rb>幾人</rb><rt>いくにん</rt></ruby>も遊んでいたよ。そのひとりがふいに大声でさけんだんだ。

『あっ、みてごらん！　おばけの足あとだよ。ほらほら、はだしの足あとが<ruby><rb>階段</rb><rt>かいだん</rt></ruby>につぎつぎとついてるよ。おかしいなあ――だあれも<ruby><rb>登</rb><rt>のぼ</rt></ruby>っていってないのに、足あとだけがくっついているよ』この声をきいた時には、ぼくはぎょっとして、どうしていいか、わからなくなってしまったね。進めば足あとがつくし、立ちどまっていれば、だれかがつかまえにあがってくるだろう。このときのぼくの気もちをさっしてくれたまえ」

「それで、どうした？」

「そのうち、子どもの声で、やじ<ruby><rb>馬</rb><rt>うま</rt></ruby>がぞろぞろと集まってきだした。こうなっては逃げるよりほかはない。足あとがつこうが、そんなことにかまっていられなくなって、ぼくは、すぐそばでまごまごしている若い男をつきとばすと、いちもくさんにかけだした。やじ馬たちはわけもわからず、ただ足あとをたよりにわいわいと追っかけてきたんだ」

「とんだ<ruby><rb>災難</rb><rt>さいなん</rt></ruby>にあったものだな」

「まったくだ。なんども<ruby><rb>街</rb><rt>まち</rt></ruby>かどをまがって、めくらめっぽう<ruby><rb>逃</rb><rt>に</rt></ruby>げていくうちに、足のうらのぬれていたのが<ruby><rb>乾</rb><rt>かわ</rt></ruby>いてきて、足あとがはっきりつかなくなってきた。しめたと思って、物かげにかくれ、足のどろをすっかりはらい落として、ゆっくりと<ruby><rb>休</rb><rt>やす</rt></ruby>み<ruby><rb>場所</rb><rt>ばしょ</rt></ruby>をさがして歩きだしたんだ。追っかけてきたやつらは、うすくなって、ついに消えてしまった足あとをさがして、その<ruby><rb>辺</rb><rt>へん</rt></ruby>をうろうろしていたよ」

「やれやれ、<ruby><rb>透明</rb><rt>とうめい</rt></ruby>になっても、いいことばかりじゃないね」

「それはそうだ。だが、もちろん、すてきなことだってあるからね。かけまわっているうちに体はぽかぽかあたたまってきたが、すっかり<ruby><rb>風邪</rb><rt>かぜ</rt></ruby>をひいたらしく、しきりにくしゃみがでるのには<ruby><rb>閉口</rb><rt>へいこう</rt></ruby>したよ。落ちついてみると、ぼくの<ruby><rb>下宿</rb><rt>げしゅく</rt></ruby>のある<ruby><rb>街</rb><rt>まち</rt></ruby>にきてたんだ」

<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>は、ケンプ<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>になにもかも話してしまうつもりらしく、いっしんに話しつづけている。博士は、なにか、落ちつかないようすだが、それでも、じっとかれの話をきいていた。

「そのうち<ruby><rb>往来</rb><rt>おうらい</rt></ruby>の人たちが、きゅうに、なにかさけびながら、いっさんにかけだしていった。<ruby><rb>人数</rb><rt>にんずう</rt></ruby>はつぎつぎにふえてゆき、やがて火事だとわかったときには、どうもぼくの<ruby><rb>下宿</rb><rt>げしゅく</rt></ruby>のあたりと思われる<ruby><rb>方向</rb><rt>ほうこう</rt></ruby>から、もくもくとまっ黒な<ruby><rb>煙</rb><rt>けむり</rt></ruby>がすごいいきおいで、<ruby><rb>電話線</rb><rt>でんわせん</rt></ruby>とかさなりあった家のむこうに見えてきたんだ。それをみて、ぼくは、ほっとしたね。これでぼくの<ruby><rb>秘密</rb><rt>ひみつ</rt></ruby>は<ruby><rb>安全</rb><rt>あんぜん</rt></ruby>だ――そう考えると同時に、なにか新しい<ruby><rb>勇気</rb><rt>ゆうき</rt></ruby>がわいてくるような気がしたんだ」

<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>は、一気にここまでしゃべってきたが、なにを思ったか、いすにふかぶかと身をしずめて、だまって考えこんだ。

ケンプ<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>は、ちらりと<ruby><rb>窓</rb><rt>まど</rt></ruby>のそとに、すばやい一べつをなげ、だまってすわっていた。

## うらぎられた<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>

## <ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>の<ruby><rb>秘密</rb><rt>ひみつ</rt></ruby>

「<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>になるということは、はじめぼくが考えたほど、すばらしい、ゆかいなものではなかったんだ。<ruby><rb>寒</rb><rt>さむ</rt></ruby>いからといって<ruby><rb>服</rb><rt>ふく</rt></ruby>をきれば、透明人間でいることができなくなる。透明人間でいようと思えば、寒くても<ruby><rb>服</rb><rt>ふく</rt></ruby>をきることができなくなるばかりか、もっとこまることが起こってきたんだ」

しばらくだまっていた透明人間は、ゆっくりと話しだした。

「はだかでいるより、もっとこまることというと、どんなことだい？」

ケンプ博士は、つかれてしまっていたので、気のりのしない<ruby><rb>調子</rb><rt>ちょうし</rt></ruby>できいた。

「おそらく、きみには<ruby><rb>想像</rb><rt>そうぞう</rt></ruby>もつかないことだろう。<ruby><rb>透明</rb><rt>とうめい</rt></ruby>でいるために服をきないでいると、食べ物を口に入れることができないんだ。なぜって、考えてみたまえ……ぼくがはだかのままでパンをたべるとするね。パンはぼくの口にはいったときから、のどをとおり、<ruby><rb>胃</rb><rt>い</rt></ruby>にとどき<ruby><rb>消化</rb><rt>しょうか</rt></ruby>してしまうまで、人の目にさらされてしまうのだ。<ruby><rb>体</rb><rt>からだ</rt></ruby>の中にはいった食べ物がそのまま<ruby><rb>空中</rb><rt>くうちゅう</rt></ruby>に<ruby><rb>浮</rb><rt>う</rt></ruby>いてみえるなんて、考えただけでもぞっとすることだろう。ぼくはそんなことになるのはいやだ。が、そうすれば、ぼくはいくら<ruby><rb>腹</rb><rt>はら</rt></ruby>がすいていても、パンひとかけ口にすることができなくなるんだ」

「なるほど、そこまではぼくも考えつかなかったよ。そうすると、<ruby><rb>透明</rb><rt>とうめい</rt></ruby>になるのも考えものだね」

「もちろん、こまることもあればいいこともある。けれども新しい<ruby><rb>生活</rb><rt>せいかつ</rt></ruby>にふみだしたいじょうは、いやでもやりぬくほかはないんだ。いまとなっては<ruby><rb>身</rb><rt>み</rt></ruby>をよせる家もなければ、たよりにする人もない。<ruby><rb>働</rb><rt>はたら</rt></ruby>いて<ruby><rb>金</rb><rt>かね</rt></ruby>をもうけ、その金で楽しくくらすなどということは、<ruby><rb>夢</rb><rt>ゆめ</rt></ruby>にも思えない身の上になってしまったんだ」

<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>の声は、しみじみとさびしそうだった。

ケンプ<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>も、さすがにかれの変わった<ruby><rb>境遇</rb><rt>きょうぐう</rt></ruby>に<ruby><rb>同情</rb><rt>どうじょう</rt></ruby>して、

「それできみは、それからどうしたんだい？」

「どうするといって、ぼくは道のまん中につっ立ったまま、どうしていいかわからなくなってしまったんだよ。<ruby><rb>雪</rb><rt>ゆき</rt></ruby>ははげしく<ruby><rb>降</rb><rt>ふ</rt></ruby>りだし、寒さと<ruby><rb>空腹</rb><rt>くうふく</rt></ruby>はたまらなくぼくをせめたてるんだ。ぼくはただ雪の中からのがれて、<ruby><rb>屋根</rb><rt>やね</rt></ruby>の下でゆっくりとやすんで、<ruby><rb>腹</rb><rt>はら</rt></ruby>いっぱい食べたいと、そればかり考えていたよ」

「そうだろうね。で、それから……」

「そのうえ、これこそ思いもかけなかったことだが、雪の中にじっとしていると、<ruby><rb>体</rb><rt>からだ</rt></ruby>に雪がつもって、たちまち、ぼくの体のりんかくがぼーっと浮かびあがってくるんだ。これにはまったくへいこうしたね。ぼくは身をきるような<ruby><rb>北風</rb><rt>きたかぜ</rt></ruby>が、雪といっしょに吹きつけてくる道を、あてどもなくさまよいつづけたんだ」

「なぜどこかの家の物おきへでも、もぐりこんで、雪の中を歩きまわることからだけでもまぬがれなかったんだ。食べ物にありつくことはできなくても、<ruby><rb>寒</rb><rt>さむ</rt></ruby>さだけはいくらかしのぎやすいのではないか？」

「ぼくだって、それは考えたんだ。ところがロンドンじゅうの家という家は<ruby><rb>一軒</rb><rt>いっけん</rt></ruby>のこらずドアをしめ、<ruby><rb>鍵</rb><rt>かぎ</rt></ruby>をかけているので、いくらぼくが<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>でも、もぐりこむすきさえなかったんだ。だがぼくはそのとき、ふいにすばらしいことを考えついたんだよ」

透明人間は、そのときのことを思いだしたのか、いきいきとした声になって、

「デパートのなかにもぐりこめば、ぼくのほしい物はなんでも手にはいる。それにデパートならはいるにもでるにも、なんの<ruby><rb>苦労</rb><rt>くろう</rt></ruby>もないし、どうして早くこのことに気がつかなかったかと思ったね。ぼくはすぐ、ぞろぞろとひっきりなしに<ruby><rb>客</rb><rt>きゃく</rt></ruby>が出入りしているデパートにもぐりこみ、<ruby><rb>閉店</rb><rt>へいてん</rt></ruby>するのをまっていたんだ。やがて店がしまって<ruby><rb>店員</rb><rt>てんいん</rt></ruby>たちがでていってしまった。店の<ruby><rb>品物</rb><rt>しなもの</rt></ruby>はすっかり片づけられ、<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>はけされて、あれほどにぎわっていたデパートも、しーんとなってしまった。ぼくはうす<ruby><rb>暗</rb><rt>ぐら</rt></ruby>くなった店の中をわがもの<ruby><rb>顔</rb><rt>がお</rt></ruby>で歩きまわって、<ruby><rb>下着</rb><rt>したぎ</rt></ruby>やくつ下などの<ruby><rb>売場</rb><rt>うりば</rt></ruby>から、ふかふかしてあたたかそうな下着やくつ下をとりだして身につけた」

「ほっとしたろう」

「きみの言うとおりだよ。<ruby><rb>服装</rb><rt>ふくそう</rt></ruby>をすっかりととのえおわり、<ruby><rb>体</rb><rt>からだ</rt></ruby>があたたまってくると、こんどは<ruby><rb>地下室</rb><rt>ちかしつ</rt></ruby>の<ruby><rb>食堂</rb><rt>しょくどう</rt></ruby>におりていって、そこに残っていた<ruby><rb>肉</rb><rt>にく</rt></ruby>やパンやチーズを、いやというほどつめこんだんだ。おまけにおいしい<ruby><rb>果物</rb><rt>くだもの</rt></ruby>や<ruby><rb>菓子</rb><rt>かし</rt></ruby>まで食べられるのだから、まるで<ruby><rb>天国</rb><rt>てんごく</rt></ruby>のようだったよ。<ruby><rb>体</rb><rt>からだ</rt></ruby>もあたたまり、<ruby><rb>腹</rb><rt>はら</rt></ruby>ごしらえもできると、にわかに<ruby><rb>眠</rb><rt>ねむ</rt></ruby>くなったんだ。さっそくふとんの<ruby><rb>売場</rb><rt>うりば</rt></ruby>のふかふかした<ruby><rb>羽根</rb><rt>はね</rt></ruby>ぶとんの山の上によこになり、めずらしくのびのびとした気分でねむりに落ちていったのだ」

「まるでおとぎ話にでもでてきそうな話じゃないか……」

「ここまではよかったんだ。だが、朝になるとおもしろくないことがもちあがったんだ。目がさめたときには、すっかり夜があけ、明るい<ruby><rb>太陽</rb><rt>たいよう</rt></ruby>がさしこんでいて、<ruby><rb>出勤</rb><rt>しゅっきん</rt></ruby>してきた<ruby><rb>店員</rb><rt>てんいん</rt></ruby>の話し声や<ruby><rb>掃除</rb><rt>そうじ</rt></ruby>をする音がきこえていた。あわててしまったぼくは<ruby><rb>羽根</rb><rt>はね</rt></ruby>ぶとんの山をすべりおりて、どこから逃げたらいいかと、あたりを見まわしたとたん、羽根ぶとんの山が音をたててくずれおちたんだ。あっと思ったぼくは、思わず横っとびにかけだすと、目ざとい<ruby><rb>店員</rb><rt>てんいん</rt></ruby>のひとりが、大声で、『あっ、<ruby><rb>首</rb><rt>くび</rt></ruby>のない<ruby><rb>人間</rb><rt>にんげん</rt></ruby>がいるぞ！　あやしいやつだっ！』とさけんだんだ」

「そりゃあ、きみ、店員だって、さぞやびっくりしたろうさ」

ケンプ<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>は、ものかげから走りだした<ruby><rb>首</rb><rt>くび</rt></ruby>のない人間を見つけた<ruby><rb>店員</rb><rt>てんいん</rt></ruby>たちのようすを思いうかべて、デパートじゅうがひっくりかえるさわぎになったろうと考えていた。

「ここでつかまってはたいへんだと思ったので、死にものぐるいで逃げまわったんだ。逃げるにつれて、きれいにかざられてあった花びんがぶつかりあってくずれ落ちる、電気スタンドがころがる、おもちゃの山がくずれる、さいごに<ruby><rb>食堂</rb><rt>しょくどう</rt></ruby>をかけぬけて、ベッドの<ruby><rb>売場</rb><rt>うりば</rt></ruby>から<ruby><rb>洋服</rb><rt>ようふく</rt></ruby>ダンスのならんでいるところへ逃げこんで、そのかげで、着ているものをすっかりぬぎすてて、もとの<ruby><rb>透明</rb><rt>とうめい</rt></ruby>な<ruby><rb>姿</rb><rt>すがた</rt></ruby>になって、<ruby><rb>追手</rb><rt>おって</rt></ruby>につかまるのをまぬがれたんだ」

「やれやれ、苦労をするではないか……」

「こんなわけで、せっかく手にいれた服はすっかりぬぎすててしまったので、ぼくはもとのはだかで、ふたたび雪のふる<ruby><rb>街</rb><rt>まち</rt></ruby>へさまよいでなくてはならなくなってしまった。ぼくはデパートをそっとしのびでると、むやみに<ruby><rb>腹</rb><rt>はら</rt></ruby>がたってたまらなかった。

しかし腹をたててみても、どうにもなるものではなし、ぼくはまえと同じように<ruby><rb>寒</rb><rt>さむ</rt></ruby>さとうえになやまされだしたのだ」

「けっきょく、うえをしのいで、たっぷり<ruby><rb>眠</rb><rt>ねむ</rt></ruby>れたというだけだったのだね。それでもいいではないか……」

「ちっともよくないよ。ぼくが一番のぞんでいるのは、服を手にいれることなんだ。服を身につけ、<ruby><rb>帽子</rb><rt>ぼうし</rt></ruby>をかぶり、マスクでもつければ、どうやら<ruby><rb>人前</rb><rt>ひとまえ</rt></ruby>をごまかして、<ruby><rb>暮</rb><rt>く</rt></ruby>らしていけるのではないかと思ったんだ。ぼくはついにロンドンのはずれのうすぎたない<ruby><rb>横町</rb><rt>よこちょう</rt></ruby>にある<ruby><rb>古着屋</rb><rt>ふるぎや</rt></ruby>にしのびこんで、ほしい物を手に入れ、できればお<ruby><rb>金</rb><rt>かね</rt></ruby>もついでに手にいれることにしたんだ」

「金も手に入れるというのか？」

「そうだ。この<ruby><rb>古着屋</rb><rt>ふるぎや</rt></ruby>でも、いくども見つかりそうになって、ひやひやしたよ。おやじというのは、かわった男で、おそろしく耳がするどくて、ぼくのかすかな足音をききつけ、『どうもおかしい、だれかこの家にしのびこんでるにちがいない』と、ひとり<ruby><rb>言</rb><rt>ごと</rt></ruby>をいうと、ピストルを<ruby><rb>片手</rb><rt>かたて</rt></ruby>に<ruby><rb>家中</rb><rt>いえじゅう</rt></ruby>をぐるぐるまわりはじめたんだ。おかげでぼくは<ruby><rb>古着</rb><rt>ふるぎ</rt></ruby>の山を目のまえにみながら、どうすることもできなかったのだ」

<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>は、その男のことを思いだしたのか、<ruby><rb>急</rb><rt>きゅう</rt></ruby>にいらいらした口ぶりになって、

「いやな男だったよ。うたがい<ruby><rb>深</rb><rt>ぶか</rt></ruby>くておく<ruby><rb>病</rb><rt>びょう</rt></ruby>で、しまいには家じゅうのドアにも<ruby><rb>窓</rb><rt>まど</rt></ruby>にも、かぎをかけはじめたんだ。ぼくがどこからも<ruby><rb>逃</rb><rt>に</rt></ruby>げることができないようにしておいて、ピストルで<ruby><rb>射</rb><rt>う</rt></ruby>ちとろうとしたんだ。ぼくはそれを知ると、かっとなってしまった。こんなやつに<ruby><rb>射</rb><rt>う</rt></ruby>たれてたまるものか、ぼくは<ruby><rb>階段</rb><rt>かいだん</rt></ruby>をおりかけていたおやじのうしろにせまると、いきなり、古いすをふりあげて、やつの頭をちからまかせになぐりつけてやった」

「頭をなぐったって！　なんてらんぼうなことをするんだ。<ruby><rb>古着屋</rb><rt>ふるぎや</rt></ruby>はきみになぐられるようなことをなにもしていないよ……考えてみたまえ」

「らんぼうする気はなかったんだ。ただ、ぼくはその<ruby><rb>古着屋</rb><rt>ふるぎや</rt></ruby>で服をきて、すがたをととのえなくては、こまるんだ。それだのにおやじは、ぼくを<ruby><rb>追</rb><rt>お</rt></ruby>いまわして、ピストルで<ruby><rb>射</rb><rt>う</rt></ruby>つつもりなんだから……。ぼくは追いつめられて、心ならずも<ruby><rb>乱暴</rb><rt>らんぼう</rt></ruby>をはたらいたというわけなんだ。おやじは物もいわずに、その場にたおれたので、手もとにあった<ruby><rb>古着</rb><rt>ふるぎ</rt></ruby>でぐるぐるまきにしばりあげ、さるぐつわをかませた。そして、ぼくは手ばやく服を身につけ、だいどころにいって、たらふくパンとチーズをたべ、コーヒーをのんでから、<ruby><rb>帽子</rb><rt>ぼうし</rt></ruby>をまぶかにかぶり、マスクをつけた。ちょっと見たぐらいでは、透明人間だと気づかれないように身じたくをととのえて、ゆうゆうとその古着屋をでてきた」

「で、きみはおやじをそのまま、ほうりっぱなしにしてかい？」

<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>は顔いろをかえてさけんだ。<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>はおちつきはらって、

「もちろんだよ。あとでやつは、さんざん<ruby><rb>苦心</rb><rt>くしん</rt></ruby>して<ruby><rb>自由</rb><rt>じゆう</rt></ruby>の<ruby><rb>体</rb><rt>からだ</rt></ruby>になっただろう。そうとうきつくしばってやったからな」

<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>はしばらく思いなやんでいるようすで、青ざめた顔をうつむけて考えこんでいたが、

「それできみは、やっと人なみの<ruby><rb>生活</rb><rt>せいかつ</rt></ruby>ができるようになったのだね」

と、ほそい声でいった。

「いや、人目の多いロンドンでは、やはりうまくいかなかったよ。食事をしようと思えば、どうしても<ruby><rb>透明</rb><rt>とうめい</rt></ruby>なぼくの顔を<ruby><rb>給仕人</rb><rt>きゅうじにん</rt></ruby>や、<ruby><rb>客</rb><rt>きゃく</rt></ruby>の目にさらさないかぎり、肉のひときれも口にいれられないんだ。透明人間なんて、ほんとうに<ruby><rb>情</rb><rt>なさけ</rt></ruby>ないものだよ。人目をおそれて、いつもびくびくしながら<ruby><rb>暮</rb><rt>く</rt></ruby>らさなくてはならないんだからね」

「で、アイピング村へは、どうしていったのだい？」

「<ruby><rb>研究</rb><rt>けんきゅう</rt></ruby>をつづけたくていったんだよ」

「研究をつづけるためにだって？　だってきみの研究は<ruby><rb>完成</rb><rt>かんせい</rt></ruby>して、<ruby><rb>望</rb><rt>のぞ</rt></ruby>みどおり<ruby><rb>透明</rb><rt>とうめい</rt></ruby>になったじゃないか……」

「しかし、きみ、考えてくれたまえ。<ruby><rb>体</rb><rt>からだ</rt></ruby>が<ruby><rb>透明</rb><rt>とうめい</rt></ruby>になったおかげで、ぼくはほかの<ruby><rb>人間</rb><rt>にんげん</rt></ruby>が持つことのできない力をもつことができるようになった。だが、そのかわり、ぼくは何もかも<ruby><rb>失</rb><rt>うしな</rt></ruby>ってしまったんだ。<ruby><rb>科学者</rb><rt>かがくしゃ</rt></ruby>として名をあげてみても、ぼくの<ruby><rb>姿</rb><rt>すがた</rt></ruby>がみえないのでは、どうにもしようがないだろう。あたたかい<ruby><rb>家庭</rb><rt>かてい</rt></ruby>をつくって楽しく暮らすことも、友だちとゆかいに話しあうことも、<ruby><rb>永久</rb><rt>えいきゅう</rt></ruby>にできなくなったのだ。ぼくはたったひとりぽっちで暮らすほかはなくなったのだ。ただ、たったひとつの<ruby><rb>望</rb><rt>のぞ</rt></ruby>みは、もとの<ruby><rb>体</rb><rt>からだ</rt></ruby>にかえることができる<ruby><rb>薬</rb><rt>くすり</rt></ruby>を<ruby><rb>発見</rb><rt>はっけん</rt></ruby>したいということなんだ。その<ruby><rb>研究</rb><rt>けんきゅう</rt></ruby>のために、しずかなアイピング村へいったわけだよ」

「なるほど、そんなわけだったのか……」

<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>は、ナイト・ガウンの<ruby><rb>化</rb><rt>ば</rt></ruby>けもののような<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>をみつめた。そこに友人のグリッフィンがいる。かれはながい間、胸にたまっていた思いをケンプ<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>にうちあけて、ほっとしたのか、ゆったりといすに腰かけて、たばこに火をつけた。

## <ruby><rb>悪魔</rb><rt>あくま</rt></ruby>と<ruby><rb>天使</rb><rt>てんし</rt></ruby>

「ところで、きみはこれから、どうするつもりだい？　なんのために、このバードック町にやってきたんだ？」

はじめに<ruby><rb>下宿</rb><rt>げしゅく</rt></ruby>で<ruby><rb>放火</rb><rt>ほうか</rt></ruby>、つぎに、<ruby><rb>古着屋</rb><rt>ふるぎや</rt></ruby>でおそろしい<ruby><rb>殺人</rb><rt>さつじん</rt></ruby>をやりかけている。よくもわずかの間に、とんでもないことを<ruby><rb>仕出</rb><rt>しで</rt></ruby>かしたものだと、むかしの友人のかわりはてた<ruby><rb>異様</rb><rt>いよう</rt></ruby>なすがたをながめながら、ケンプ<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>がたずねた。

「うん。ぼくがここにきたのは、<ruby><rb>国外</rb><rt>こくがい</rt></ruby>にのがれたかったからさ。はだかで暮らすのには、イギリスはまだ、<ruby><rb>寒</rb><rt>さむ</rt></ruby>すぎるよ。<ruby><rb>洋服</rb><rt>ようふく</rt></ruby>をきればすぐ人にあやしまれて、追いまわされるし、ぼくは、もっと<ruby><rb>暖</rb><rt>あたた</rt></ruby>かい地方へいってしまいたいと思って、この<ruby><rb>港町</rb><rt>みなとまち</rt></ruby>へきたのだ」

「それで？」

「ここからは、フランス行きの<ruby><rb>便船</rb><rt>びんせん</rt></ruby>がでる。フランスへわたり、<ruby><rb>汽車</rb><rt>きしゃ</rt></ruby>でスペインへいって、そこからアフリカのアルジェリアへいくつもりだ。アルジェリアなら、<ruby><rb>姿</rb><rt>すがた</rt></ruby>をけしてはだかで暮らしても、いっこう<ruby><rb>寒</rb><rt>さむ</rt></ruby>くはないだろうからね」

「アフリカにいくのか？」

「そうだ。ぼくの<ruby><rb>秘密</rb><rt>ひみつ</rt></ruby>がしれてしまったからには、もう、どうしようもない……。ところが、それには、ぼくひとりではやれないのだ。ぼくが<ruby><rb>荷物</rb><rt>にもつ</rt></ruby>をもって歩くわけにはいかない。そうすると、このまえの<ruby><rb>金貨</rb><rt>きんか</rt></ruby>が<ruby><rb>空中</rb><rt>くうちゅう</rt></ruby>をとぶような<ruby><rb>騒</rb><rt>さわ</rt></ruby>ぎになって、すぐ、大さわぎになってしまうんだ。そこで、あの<ruby><rb>浮浪者</rb><rt>ふろうしゃ</rt></ruby>をやとったんだが、だいじな<ruby><rb>研究</rb><rt>けんきゅう</rt></ruby>ノートと<ruby><rb>金</rb><rt>かね</rt></ruby>をもって、にげてしまった」

「浮浪者は<ruby><rb>警察</rb><rt>けいさつ</rt></ruby>にいるよ」

「えっ、あいつが……」

<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>が、すっくと立ちあがった。

そのとき、<ruby><rb>玄関</rb><rt>げんかん</rt></ruby>のベルがなった。

ベルの音をききつけると、<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>はケンプ<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>から二、三歩とびさって、

「あれは、なんだ？」

と、するどく言いはなった。

「なにも聞こえないが……」

「いや、二階へあがってくる足音だ」

「気のせいだよ」

<ruby><rb>警官</rb><rt>けいかん</rt></ruby>がきたことを、あいてにさとられまいとして、ケンプ<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>は、おだやかに言った。

「ちょっと見てくる」

博士がとめようとしたが、<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>はドアに近づいていった。

すると、博士がドアを背にして、その前に立ちふさがった。

「なんだ、きみは！　じゃまをするのか」

入口に近づけまいとする<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>から、ぱっと<ruby><rb>跳</rb><rt>と</rt></ruby>びのいて、透明人間は<ruby><rb>身</rb><rt>み</rt></ruby>がまえた。

「おれをだましたな！」

その声は、<ruby><rb>怒</rb><rt>いか</rt></ruby>りにふるえていた。

「<ruby><rb>警官</rb><rt>けいかん</rt></ruby>をよびやがって、よくも<ruby><rb>裏切</rb><rt>うらぎ</rt></ruby>ったな……裏切り者め！」

<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>はガウンの前をひらくと、すばやく、下に着ているものを<ruby><rb>脱</rb><rt>ぬ</rt></ruby>ぎはじめた。

この男を、この<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>から外に出してはならない。博士はドアを<ruby><rb>後</rb><rt>うし</rt></ruby>ろ<ruby><rb>手</rb><rt>で</rt></ruby>に開いて<ruby><rb>廊下</rb><rt>ろうか</rt></ruby>にとびだし、バタンと<ruby><rb>閉</rb><rt>し</rt></ruby>めた。カギがない。透明人間が<ruby><rb>内側</rb><rt>うちがわ</rt></ruby>から開けようとして、博士がにぎる<ruby><rb>把手</rb><rt>とって</rt></ruby>をひねった。その力は、ものすごく強かった。博士はドアを開けさせまいとして、<ruby><rb>奮闘</rb><rt>ふんとう</rt></ruby>した。ドアのすき<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>からガウンの<ruby><rb>腕</rb><rt>うで</rt></ruby>がのびた。博士はのどを<ruby><rb>絞</rb><rt>し</rt></ruby>めつけられ、把手をはなした。博士はガウンの<ruby><rb>怪物</rb><rt>かいぶつ</rt></ruby>に突きとばされた。

<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>からの手紙で、いそいで<ruby><rb>駆</rb><rt>か</rt></ruby>けつけた、バードックの<ruby><rb>警察署長</rb><rt>けいさつしょちょう</rt></ruby>アダイ<ruby><rb>警部</rb><rt>けいぶ</rt></ruby>は、<ruby><rb>玄関</rb><rt>げんかん</rt></ruby>からホールを通って<ruby><rb>階段</rb><rt>かいだん</rt></ruby>をのぼりかけたところで、目に見えない怪物と戦っている博士を見て、立ちすくんでしまった。

「なんだ？」

<ruby><rb>怪物</rb><rt>かいぶつ</rt></ruby>と戦う<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>は、倒されたり起きあがったりしながら、二階の<ruby><rb>廊下</rb><rt>ろうか</rt></ruby>から<ruby><rb>階段</rb><rt>かいだん</rt></ruby>のおどり場へのがれてきた。怪物のガウンが宙を飛んできて、博士におそいかかって倒した。目の前のできごとに、びっくりしている<ruby><rb>署長</rb><rt>しょちょう</rt></ruby>を、ガウンの<ruby><rb>化</rb><rt>ば</rt></ruby>けものがなぐり倒した。

起きあがろうとする<ruby><rb>署長</rb><rt>しょちょう</rt></ruby>を、<ruby><rb>怪物</rb><rt>かいぶつ</rt></ruby>は<ruby><rb>階段</rb><rt>かいだん</rt></ruby>から下にけり落として、動けなくしてしまった。<ruby><rb>階下</rb><rt>かいか</rt></ruby>には<ruby><rb>応援</rb><rt>おうえん</rt></ruby>の<ruby><rb>警官</rb><rt>けいかん</rt></ruby>が二人いた。二人はあわてて、<ruby><rb>宙</rb><rt>ちゅう</rt></ruby>を飛ぶガウンを追いまわした。追いまわすうち、ガウンは一階のホールの<ruby><rb>天井</rb><rt>てんじょう</rt></ruby>へパッと<ruby><rb>舞</rb><rt>ま</rt></ruby>いあがったかと思うと、落ちてきて、そのまま、へなへなっと動かなくなった。

<ruby><rb>玄関</rb><rt>げんかん</rt></ruby>のドアが、<ruby><rb>人影</rb><rt>ひとかげ</rt></ruby>もないのに開いて、バタンと<ruby><rb>閉</rb><rt>し</rt></ruby>まった。

<ruby><rb>署長</rb><rt>しょちょう</rt></ruby>は起きあがったが、顔をしかめて、また、へなへなとすわった。そこへ、<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>との<ruby><rb>格闘</rb><rt>かくとう</rt></ruby>で<ruby><rb>傷</rb><rt>きず</rt></ruby>だからけの顔となった<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>が、ふらふらになって<ruby><rb>階段</rb><rt>かいだん</rt></ruby>を降りてきて、くやしそうに言った。

「しくじった。にげてしまった」

## <ruby><rb>大捜査陣</rb><rt>だいそうさじん</rt></ruby>

<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>があばれまわるのを見ただけでなく、したたかになぐられ、<ruby><rb>階段</rb><rt>かいだん</rt></ruby>からけり落とされて動けなくなるほどの目にあいながら、アダイ<ruby><rb>署長</rb><rt>しょちょう</rt></ruby>は、なおも信じられないという顔をしていた。

そんな顔の<ruby><rb>署長</rb><rt>しょちょう</rt></ruby>に、<ruby><rb>血</rb><rt>ち</rt></ruby>だらけの<ruby><rb>腫</rb><rt>は</rt></ruby>れあがった顔のケンプ<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>が、ぐずぐずしてはいられないと、せきこんで言った。

「あいつは気がくるっている。このまま逃がしておいたら、どんなひどいことをしでかすか、わかりませんよ。けさも、これまでにやってきたことを、<ruby><rb>得意</rb><rt>とくい</rt></ruby>になって話すんですからね。あきれたもんです。署長！　あの男はもう、かなりたくさんの人を<ruby><rb>傷</rb><rt>きず</rt></ruby>つけています。これからもっと<ruby><rb>暴</rb><rt>あば</rt></ruby>れまわって、町や村のひとたちを恐れさせてやるんだと話していました」

「かならず<ruby><rb>逮捕</rb><rt>たいほ</rt></ruby>してみせます」

<ruby><rb>署長</rb><rt>しょちょう</rt></ruby>がこたえた。

「<ruby><rb>大至急</rb><rt>だいしきゅう</rt></ruby>、<ruby><rb>警官</rb><rt>けいかん</rt></ruby>の<ruby><rb>非常召集</rb><rt>ひじょうしょうしゅう</rt></ruby>をおこなって、この町から<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>がにげだせないようにすることです」

「こころえています。さっそく召集して、道という道に見はりを立てて、あの<ruby><rb>怪物</rb><rt>かいぶつ</rt></ruby>がにげられないようにしましょう」

「<ruby><rb>汽車</rb><rt>きしゃ</rt></ruby>や<ruby><rb>船</rb><rt>ふね</rt></ruby>に乗って、逃げられないように、<ruby><rb>駅</rb><rt>えき</rt></ruby>や<ruby><rb>港</rb><rt>みなと</rt></ruby>にも見はりをつけてほしいですな。あの男は、かけがえのない物と考えているノートを取りもどすまでは、この町をはなれないと思います。その<ruby><rb>浮浪者</rb><rt>ふろうしゃ</rt></ruby>のトーマスは、<ruby><rb>警察</rb><rt>けいさつ</rt></ruby>に<ruby><rb>保護</rb><rt>ほご</rt></ruby>してあるんでしょうな」

「ぬかりはありませんよ、<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>！　そのノートのことも」

「<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>をつかまえるには、<ruby><rb>食物</rb><rt>しょくもつ</rt></ruby>をあたえないことです。ねむらせないことです。この二つのことを<ruby><rb>実行</rb><rt>じっこう</rt></ruby>することです」

「なるほど」

<ruby><rb>署長</rb><rt>しょちょう</rt></ruby>がうで<ruby><rb>組</rb><rt>ぐみ</rt></ruby>してうなずいた。

「たべものは手のとどかないところにしまっておき、透明人間が家の中にはいれないように、町じゅうの家が、<ruby><rb>戸</rb><rt>と</rt></ruby>や<ruby><rb>窓</rb><rt>まど</rt></ruby>にカギをかけておくことです」

「さっそく<ruby><rb>署</rb><rt>しょ</rt></ruby>へもどって、作戦を立てるとしましょう」

署長は立ちあがって、博士といっしょに歩きながら話をきいた。

「やつは<ruby><rb>食物</rb><rt>しょくもつ</rt></ruby>をのみおろすと、<ruby><rb>消化</rb><rt>しょうか</rt></ruby>するまでは体の中のものが見えるので、しばらくは、どこかに<ruby><rb>隠</rb><rt>かく</rt></ruby>れてやすまねばならんのです。ここが、こちらのねらいです。それと、犬をですな……犬を、できるだけたくさん、かり集めることです」

「ほほオ、<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>は犬には見えますかな」

「見えないことは、われわれ人間とおなじですが、犬はにおいで<ruby><rb>嗅</rb><rt>か</rt></ruby>ぎつけるんです。これは透明人間が、犬にかみつかれて弱ったと、じぶんで話してたことですから、まちがいありません」

「<ruby><rb>名案</rb><rt>めいあん</rt></ruby>ですな。ハルステッド<ruby><rb>刑務所</rb><rt>けいむしょ</rt></ruby>の<ruby><rb>看守</rb><rt>かんしゅ</rt></ruby>たちが知ってる男に、<ruby><rb>警察犬</rb><rt>けいさつけん</rt></ruby>を<ruby><rb>飼</rb><rt>か</rt></ruby>っておる男がいるそうですから、さっそく<ruby><rb>手配</rb><rt>てはい</rt></ruby>しましょう」

こうしている間に、<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>の<ruby><rb>屋敷</rb><rt>やしき</rt></ruby>からにげだした透明人間が、なにをしでかすか知れないと思うと、ケンプ博士は気が気でなかった。

「<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>のもう一つの弱いところは、<ruby><rb>凶器</rb><rt>きょうき</rt></ruby>を持ってあるけないことです。<ruby><rb>鉄棒</rb><rt>てつぼう</rt></ruby>とかナイフとか、太いステッキのような物は、手ごろの<ruby><rb>武器</rb><rt>ぶき</rt></ruby>……つまり凶器になりますが、あの男がこれらの物を手にして歩くと、鉄棒やナイフが<ruby><rb>宙</rb><rt>ちゅう</rt></ruby>を浮いてうごくことになるので、すぐ気づかれてしまいます。ですから、やつが凶器を持ってあるく<ruby><rb>心配</rb><rt>しんぱい</rt></ruby>はありませんが、凶器につかわれそうな物は、どの家でも、かくしておくように知らせてもらいたいのです」

「ごもっともな<ruby><rb>意見</rb><rt>いけん</rt></ruby>です。その<ruby><rb>方針</rb><rt>ほうしん</rt></ruby>で、かならず<ruby><rb>逮捕</rb><rt>たいほ</rt></ruby>してみせます」

アダイ<ruby><rb>署長</rb><rt>しょちょう</rt></ruby>はこたえた。

「もう一つ、だいじなことがあります」

「なんです？」

「ガラスの<ruby><rb>破片</rb><rt>はへん</rt></ruby>を<ruby><rb>道路</rb><rt>どうろ</rt></ruby>にまきちらすのです。<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>は、はだかで、はだしで歩いていますから、これは<ruby><rb>効</rb><rt>き</rt></ruby>きめがありますよ。すこし<ruby><rb>残酷</rb><rt>ざんこく</rt></ruby>なやりかたですが、そんなことは言っておられませんので」

「スポーツマンシップに<ruby><rb>欠</rb><rt>か</rt></ruby>けるようですが、お考えどおり、ガラスの<ruby><rb>破片</rb><rt>はへん</rt></ruby>をよういさせましょう。目に見えない<ruby><rb>怪物</rb><rt>かいぶつ</rt></ruby>に、あばれられては<ruby><rb>大変</rb><rt>たいへん</rt></ruby>ですからな」

「あの男は、むかしのグリッフィンとは人が変わってしまった。けだものになって、気がくるっているのです」

<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>はアダイ<ruby><rb>署長</rb><rt>しょちょう</rt></ruby>がよんだ<ruby><rb>辻馬車</rb><rt>つじばしゃ</rt></ruby>に乗って、署長といっしょにバードックの<ruby><rb>警察署</rb><rt>けいさつしょ</rt></ruby>にいそいだ。

## <ruby><rb>石切場</rb><rt>いしきりば</rt></ruby>の<ruby><rb>殺人</rb><rt>さつじん</rt></ruby>

ケンプ<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>の家をとびだしてからの<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>のゆくえは、どこに行ってしまったのか、さっぱりわからなかった。

<ruby><rb>港町</rb><rt>みなとまち</rt></ruby>ポート・バードックの人びとは、その日の朝のうちは透明人間の話もうわさにすぎなかったものが、午後になると、ほんものの<ruby><rb>怪物</rb><rt>かいぶつ</rt></ruby>が町にあらわれたと知って、大さわぎになった。

なにしろ人の目に、その姿かたちが見えないのである。道をあるいていて、いきなりなぐられても<ruby><rb>防</rb><rt>ふせ</rt></ruby>ぎようがない、というのだ。音もなく家に忍びこまれても、これまた、見えないのだから、どうしようもない。町の人は不安にかられていた。げんにその朝、道で遊んでいた子どもの一人が、いきなり何者ともしれないものに突きとばされて、ケガをしている。その場にいあわせた子どもたちは、友だちを突きとばしたものを、だれも見ていないのだ。

<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>の<ruby><rb>危害</rb><rt>きがい</rt></ruby>から町の人を守るには、<ruby><rb>怪物</rb><rt>かいぶつ</rt></ruby>を<ruby><rb>捕</rb><rt>とら</rt></ruby>えることである。そのための<ruby><rb>警察</rb><rt>けいさつ</rt></ruby>の<ruby><rb>手配</rb><rt>てはい</rt></ruby>は<ruby><rb>着々</rb><rt>ちゃくちゃく</rt></ruby>とすすみ、おもったよりはやく、町のこれぞと思うところに、警官が<ruby><rb>動員</rb><rt>どういん</rt></ruby>されていた。

<ruby><rb>騎馬巡査</rb><rt>きばじゅんさ</rt></ruby>が町をねり歩いては、<ruby><rb>戸締</rb><rt>とじま</rt></ruby>りをげんじゅうにするよう、家々によびかけた。小学校は午後三時には<ruby><rb>授業</rb><rt>じゅぎょう</rt></ruby>をうち切って、<ruby><rb>児童</rb><rt>じどう</rt></ruby>を<ruby><rb>帰宅</rb><rt>きたく</rt></ruby>させた。町の人は、三人四人と組んで<ruby><rb>自警団</rb><rt>じけいだん</rt></ruby>をつくり、<ruby><rb>鉄砲</rb><rt>てっぽう</rt></ruby>やこん<ruby><rb>棒</rb><rt>ぼう</rt></ruby>をもって<ruby><rb>警戒</rb><rt>けいかい</rt></ruby>にあたった。<ruby><rb>港</rb><rt>みなと</rt></ruby>の<ruby><rb>船着場</rb><rt>ふなつきば</rt></ruby>、<ruby><rb>汽車</rb><rt>きしゃ</rt></ruby>の<ruby><rb>停車場</rb><rt>ていしゃば</rt></ruby>、おもだった道の出入り口。バードックの町を中心にして三〇キロの<ruby><rb>半径</rb><rt>はんけい</rt></ruby>の円にはいる<ruby><rb>地域</rb><rt>ちいき</rt></ruby>の町や村が、透明人間の<ruby><rb>出没</rb><rt>しゅつぼつ</rt></ruby>にそなえたのである。

<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>にたいする<ruby><rb>注意書</rb><rt>ちゅうきがき</rt></ruby>が、ケンプ<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>とアダイ<ruby><rb>署長</rb><rt>しょちょう</rt></ruby>の名をそえて、町のいたるところに<ruby><rb>貼</rb><rt>は</rt></ruby>りだされた。<ruby><rb>食物</rb><rt>しょくもつ</rt></ruby>をとらせないこと、眠る場所をあたえないことなどが、書かれてあった。<ruby><rb>警戒</rb><rt>けいかい</rt></ruby>は<ruby><rb>万全</rb><rt>ばんぜん</rt></ruby>であった。

ところが、透明人間のゆくえは、どうなったのか。その日の朝、遊んでいる子どもを突きとばして、ケガをさせたのは、たしかに透明人間のしわざにちがいないが、それから先、どこへ行ったのか、音さたないのである。

ポート・バードックの町のうしろは、<ruby><rb>高原</rb><rt>こうげん</rt></ruby>になっている。その遠くまでつづく高原には森もある。<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>はおそらく、その森で、ひと休みしているのではないかと、ケンプ<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>も<ruby><rb>署長</rb><rt>しょちょう</rt></ruby>も、そのように考えていた。

ケンプ<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>は、<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>はかならず町にもどってくると思っていた。<ruby><rb>食物</rb><rt>しょくもつ</rt></ruby>をもとめてのためか。それだけではない。博士に<ruby><rb>裏切</rb><rt>うらぎ</rt></ruby>られたことへ、<ruby><rb>仕返</rb><rt>しかえ</rt></ruby>しをするために、夜になったら、きっと、博士の家にあらわれるものと信じていた。

夕方になった。透明人間のゆくえがわからないまま、遠くへにげられたのではないかと、みんないらいらしているところへ、町から一六キロはなれたところで起こった、<ruby><rb>殺人</rb><rt>さつじん</rt></ruby>のニュースがとどいた。むろん、その<ruby><rb>事件</rb><rt>じけん</rt></ruby>を調べたその土地の<ruby><rb>警察</rb><rt>けいさつ</rt></ruby>からである。<ruby><rb>奇妙</rb><rt>きみょう</rt></ruby>な事件であった。

そこはバードック<ruby><rb>卿</rb><rt>きょう</rt></ruby>の<ruby><rb>荘園</rb><rt>しょうえん</rt></ruby>のある<ruby><rb>高原</rb><rt>こうげん</rt></ruby>の静かな土地で、荘園ではたらく<ruby><rb>執事</rb><rt>しつじ</rt></ruby>が、じぶんの<ruby><rb>住居</rb><rt>すまい</rt></ruby>に昼の食事にかえるとちゅう、<ruby><rb>殺</rb><rt>ころ</rt></ruby>されたのである。

もうながいことバードック卿の荘園で執事をつとめるウィックスティード氏は、おだやかな<ruby><rb>人柄</rb><rt>ひとがら</rt></ruby>で、ひとににくまれたり、けんかをしたりするような人でなかった。昼になると、荘園の木戸から一五〇メートルほどはなれたところにある<ruby><rb>住居</rb><rt>すまい</rt></ruby>にもどって、食事をするのが<ruby><rb>日課</rb><rt>にっか</rt></ruby>となっており、<ruby><rb>草原</rb><rt>そうげん</rt></ruby>をとぼとぼ横切る<ruby><rb>執事</rb><rt>しつじ</rt></ruby>を、その日も近所の女の子が見ていた。

「おじさーん」

いつものように声をかけると、いつもならすぐ、にこにこした執事の<ruby><rb>笑顔</rb><rt>えがお</rt></ruby>と、おどけた返事がかえってくるのに、おじさんはステッキをふりまわして、女の子には見向きもしないで、通りすぎたというのだ。

「おじさん、なにしてるの？」

女の子は、太った<ruby><rb>執事</rb><rt>しつじ</rt></ruby>のあとを追った。おじさんは、おかしなことをしていた。見ると、一本の<ruby><rb>鉄</rb><rt>てつ</rt></ruby>の<ruby><rb>棒</rb><rt>ぼう</rt></ruby>が、執事があるく前に浮かんで、ふらふらとゆれているではないか。女の子は、びっくりした。世にもふしぎな<ruby><rb>宙</rb><rt>ちゅう</rt></ruby>に浮く<ruby><rb>鉄棒</rb><rt>てつぼう</rt></ruby>を追って、おじさんはステッキでその鉄棒を、たたき落とそうとした。

すーっと、鉄棒がにげた。

「この<ruby><rb>化</rb><rt>ば</rt></ruby>けものやろう！」

口にしたこともないきたないことばを、おとなしい<ruby><rb>執事</rb><rt>しつじ</rt></ruby>が、めずらしく<ruby><rb>吐</rb><rt>は</rt></ruby>きすてた。つづいて、このやろう……このやろう、と<ruby><rb>夢中</rb><rt>むちゅう</rt></ruby>で<ruby><rb>鉄棒</rb><rt>てつぼう</rt></ruby>にステッキで、なぐりかかっていった。

<ruby><rb>宙</rb><rt>ちゅう</rt></ruby>に浮いた鉄棒と<ruby><rb>執事</rb><rt>しつじ</rt></ruby>とのたたかいは、ブナ林をぬけて、なおもつづいた。おじさんは<ruby><rb>汗</rb><rt>あせ</rt></ruby>をかいて、へとへとになり、それでもあきらめずに、なんとかして鉄棒の化けものをたたき落として<ruby><rb>正体</rb><rt>しょうたい</rt></ruby>を<ruby><rb>見破</rb><rt>みやぶ</rt></ruby>ろうと、追いつづけ、ついにその鉄棒を<ruby><rb>石切場</rb><rt>いしきりば</rt></ruby>と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いらくさ</span>の<ruby><rb>茂</rb><rt>しげ</rt></ruby>みのあいだに追いつめたのである。

そこで<ruby><rb>執事</rb><rt>しつじ</rt></ruby>ウィックスティード氏は、鉄棒の化けものの<ruby><rb>猛反撃</rb><rt>もうはんげき</rt></ruby>をくった。ただ、<ruby><rb>残酷</rb><rt>ざんこく</rt></ruby>としか言いようのない、<ruby><rb>無残</rb><rt>むざん</rt></ruby>な<ruby><rb>殺</rb><rt>ころ</rt></ruby>されようであった。頭はたたき<ruby><rb>割</rb><rt>わ</rt></ruby>られ、<ruby><rb>腕</rb><rt>うで</rt></ruby>はへし折られて、これがあの<ruby><rb>温厚</rb><rt>おんこう</rt></ruby>な人の姿であるか、と<ruby><rb>憤</rb><rt>いきどお</rt></ruby>りを感じさせるほどに、ひどいものだった。

「あいつのやったことです。<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>のしわざです」

ケンプ<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>がニュースを聞いて、<ruby><rb>署長</rb><rt>しょちょう</rt></ruby>にいった。

「かならず<ruby><rb>逮捕</rb><rt>たいほ</rt></ruby>してみせます。この町にはいってきたら、こんどこそ逃がしはしない」

アダイ<ruby><rb>署長</rb><rt>しょちょう</rt></ruby>は<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>と、これからの打合わせをした。

「ぼくは家に帰って、<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>があらわれるのを待つことにします」

博士が<ruby><rb>警察署</rb><rt>けいさつしょ</rt></ruby>をでると、外には<ruby><rb>夕闇</rb><rt>ゆうやみ</rt></ruby>がせまり、夜になろうとしていた。<ruby><rb>街角</rb><rt>まちかど</rt></ruby>には<ruby><rb>警備</rb><rt>けいび</rt></ruby>のひとが立ち、三人四人と隊を組んだ見張りの者が、町の通りをあるきまわっていた。

## <ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>の<ruby><rb>最期</rb><rt>さいご</rt></ruby>

きんちょうのうちに一夜があけたが、なにごともなかった。町に<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>があらわれた話はなく、ケンプ<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>の<ruby><rb>屋敷</rb><rt>やしき</rt></ruby>にも、透明人間は近づいてこなかった。

その朝もぶじに過ぎて、おそい昼の食事を博士がしていたときである。一<ruby><rb>通</rb><rt>つう</rt></ruby>の手紙が<ruby><rb>舞</rb><rt>ま</rt></ruby>いこんできた。<ruby><rb>切手</rb><rt>きって</rt></ruby>を<ruby><rb>貼</rb><rt>は</rt></ruby>らないので、<ruby><rb>郵税</rb><rt>ゆうぜい</rt></ruby>二ペンスの<ruby><rb>不足</rb><rt>ふそく</rt></ruby>となっている。透明人間からのものだ。<ruby><rb>消印</rb><rt>けしん</rt></ruby>はヒントンディーン<ruby><rb>局</rb><rt>きょく</rt></ruby>。どこかで紙を<ruby><rb>盗</rb><rt>ぬす</rt></ruby>んで書いて、ポストに投げこんだものとみえる。

――よくも<ruby><rb>裏切</rb><rt>うらぎ</rt></ruby>って、おれを苦しめたな。こんどは、かならず、きさまを<ruby><rb>殺</rb><rt>ころ</rt></ruby>してやる！

<ruby><rb>差出人</rb><rt>さしだしにん</rt></ruby>の名は書いてないが、透明人間、すなわちグリッフィンからの手紙にちがいなかった。

消印のヒントンディーン局のある町からここまで、一時間あれば、やってこられる道のりである。<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>は食事をやめて、<ruby><rb>窓</rb><rt>まど</rt></ruby>ぎわに寄って外を見た。それから<ruby><rb>家政婦</rb><rt>かせいふ</rt></ruby>にいいつけて、家じゅうの窓や戸のカギを調べさせた。どこにも手落ちはなく、透明人間が<ruby><rb>忍</rb><rt>しの</rt></ruby>びこむすきは、どこにもない。そこへ<ruby><rb>警察署長</rb><rt>けいさつしょちょう</rt></ruby>が、しんぱいしてやってきた。<ruby><rb>玄関</rb><rt>げんかん</rt></ruby>のドアを開くのも、人ひとりがやっと通れるくらいの<ruby><rb>細目</rb><rt>ほそめ</rt></ruby>にして、署長を入れる用心ぶかさで、博士は署長を中にいれると、<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>からの手紙をわたして見せた。

「あなたをねらって、ここへ……」

「かならずきますよ。もう、そのへんをうろついてるかも知れません」

<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>がそう言ったとき、ガチャーンと、ガラスが<ruby><rb>砕</rb><rt>くだ</rt></ruby>ける音が、二階のどこかでした。

「二階の<ruby><rb>窓</rb><rt>まど</rt></ruby>だ！」

ポケットにかくしておいた銀色の<ruby><rb>小型</rb><rt>こがた</rt></ruby>ピストルをにぎって、博士は二階にかけあがった。署長がそのあとにつづいた。<ruby><rb>書斎</rb><rt>しょさい</rt></ruby>にかけこむと、庭に<ruby><rb>面</rb><rt>めん</rt></ruby>した三つの窓のうち二つが、めちゃくちゃにガラスをたたき<ruby><rb>割</rb><rt>わ</rt></ruby>られていて、<ruby><rb>床</rb><rt>ゆか</rt></ruby>いちめんに、ガラスの<ruby><rb>破片</rb><rt>はへん</rt></ruby>がちらばっていた。

ケンプ<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>は、まだ<ruby><rb>破</rb><rt>やぶ</rt></ruby>られていない三つ目の<ruby><rb>窓</rb><rt>まど</rt></ruby>に目をはしらせると、ピストルをぶっ<ruby><rb>放</rb><rt>ぱな</rt></ruby>した。ガラスは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たま</span>に<ruby><rb>撃</rb><rt>う</rt></ruby>ちぬかれてひび割れ、三<ruby><rb>角状</rb><rt>かくじょう</rt></ruby>の<ruby><rb>破片</rb><rt>はへん</rt></ruby>となって内側へ落ちた。

「やつがいましたか」

<ruby><rb>署長</rb><rt>しょちょう</rt></ruby>が目を大きくしてきいた。

「いや、ここまでは<ruby><rb>登</rb><rt>のぼ</rt></ruby>ってこられませんよ。ねんのために、ぶっ<ruby><rb>放</rb><rt>ぱな</rt></ruby>したのです」

ドスン……と<ruby><rb>階下</rb><rt>かいか</rt></ruby>で<ruby><rb>破目板</rb><rt>はめいた</rt></ruby>をたたき<ruby><rb>破</rb><rt>やぶ</rt></ruby>る音がした。つづいて、<ruby><rb>窓</rb><rt>まど</rt></ruby>ガラスがやぶられた。しかし、一階の窓には、のこらず<ruby><rb>鎧戸</rb><rt>よろいど</rt></ruby>がつけてある。かんたんには<ruby><rb>侵入</rb><rt>しんにゅう</rt></ruby>できないだろう。

「<ruby><rb>警察犬</rb><rt>けいさつけん</rt></ruby>をつれてきましょう。用意してあるんです。十分とかかりません」

<ruby><rb>署長</rb><rt>しょちょう</rt></ruby>はケンプ<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>からピストルを<ruby><rb>借</rb><rt>か</rt></ruby>りて、外にでた。ところが、アダイ署長が<ruby><rb>芝生</rb><rt>しばふ</rt></ruby>の上を門に近づいて、中ほどにきたときである。目に見えない<ruby><rb>怪物</rb><rt>かいぶつ</rt></ruby>が、署長を<ruby><rb>襲</rb><rt>おそ</rt></ruby>った。

はじめ、いきなりなぐり倒された。署長がピストルで<ruby><rb>応戦</rb><rt>おうせん</rt></ruby>した。起きあがったが、けり倒されてピストルを<ruby><rb>奪</rb><rt>うば</rt></ruby>われ、手をあげて家のほうへ歩きだしたが、ピストルを取り返そうとして射ち倒されてしまった。ピストルは<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>の手にわたったのである。二人の<ruby><rb>警官</rb><rt>けいかん</rt></ruby>が、かけつけてきた。<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>は用心ぶかく二人をなかにいれた。そのときはもう、<ruby><rb>裏</rb><rt>うら</rt></ruby>にまわった透明人間が、<ruby><rb>物置</rb><rt>ものおき</rt></ruby>から<ruby><rb>探</rb><rt>さが</rt></ruby>しだした<ruby><rb>手斧</rb><rt>ておの</rt></ruby>で、ガンガン、<ruby><rb>台所</rb><rt>だいどころ</rt></ruby>のドアを<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>きこわしてるところだった。

「あれは？」

「<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>だ。ピストルを持っている。残りの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たま</span>は二発……<ruby><rb>署長</rb><rt>しょちょう</rt></ruby>は<ruby><rb>射</rb><rt>う</rt></ruby>たれた」

おどろく<ruby><rb>警官</rb><rt>けいかん</rt></ruby>に<ruby><rb>説明</rb><rt>せつめい</rt></ruby>して、<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>は火かき<ruby><rb>棒</rb><rt>ぼう</rt></ruby>を手にして、台所に向かった。それに二人の警官も火かき棒を持って、あとにつづいた。

ガンガン………バリバリッと、がんじょうなドアは<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>きやぶられ、見えない手が突きだしたピストルが、博士めがけて、二度、火を<ruby><rb>噴</rb><rt>ふ</rt></ruby>いた。博士と警官二人は広いホールに逃げて、ホールに入ってくる透明人間を<ruby><rb>包囲</rb><rt>ほうい</rt></ruby>するように<ruby><rb>身</rb><rt>み</rt></ruby>がまえ、火かき棒を前に突きだして敵を待った。

そこへ、<ruby><rb>手斧</rb><rt>ておの</rt></ruby>が頭上の高さに<ruby><rb>回転</rb><rt>かいてん</rt></ruby>しながら、ホールに飛びこんできた。<ruby><rb>大乱闘</rb><rt>だいらんとう</rt></ruby>となった。

「ケンプ！　きさまと<ruby><rb>勝負</rb><rt>しょうぶ</rt></ruby>だ」

<ruby><rb>怒</rb><rt>いか</rt></ruby>りにふるえる声がした。<ruby><rb>警官</rb><rt>けいかん</rt></ruby>のひとりが、くるいまわる手斧を、火かき棒でたたき落とした。もう一人の警官は見えない足で、け<ruby><rb>倒</rb><rt>たお</rt></ruby>された。そのあいだにケンプ<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>は、<ruby><rb>窓</rb><rt>まど</rt></ruby>から庭へとび降り、町に向かって走った。それに気がついた<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>は、<ruby><rb>警官</rb><rt>けいかん</rt></ruby>をなぐり倒すと、ちくしょう！　とさけんで、ケンプ博士のあとを追った。<ruby><rb>別荘</rb><rt>べっそう</rt></ruby>がつづく<ruby><rb>高台</rb><rt>たかだい</rt></ruby>をかけ抜けると、町へ下るながい坂になっている。町へにげれば、追ってくる透明人間を、そこで<ruby><rb>捕</rb><rt>とら</rt></ruby>えることができると博士は考えていた。はだしの足音が、すぐうしろに追っている。

博士は走って走って、まっ青になって走った。<ruby><rb>砂利</rb><rt>じゃり</rt></ruby>や石ころが、ごろごろしている道をえらんで走った。透明人間との間が少しはなれた。やっと、町の入口に走りついた。

「透明人間がきたぞーっ」

さけびながら博士は、町の大通りを、<ruby><rb>鉄道馬車</rb><rt>てつどうばしゃ</rt></ruby>の<ruby><rb>駅</rb><rt>えき</rt></ruby>のほうへ走った。駅の前に広場がある。その広場には砂利の山があり、シャベルを持った<ruby><rb>工夫</rb><rt>こうふ</rt></ruby>がはたらいていた。

「<ruby><rb>透明人間</rb><rt>とうめいにんげん</rt></ruby>だ、にがすな」

手に手に棒をにぎりしめた町の人が、わっと飛びだしてきて、博士のゆくての道をふさいだ。

「<ruby><rb>裏切</rb><rt>うらぎ</rt></ruby>りやがったな！」

透明人間がま近にきたな、と感じた<ruby><rb>瞬間</rb><rt>しゅんかん</rt></ruby>、ケンプ博士は、したたかに<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>に一<ruby><rb>撃</rb><rt>げき</rt></ruby>をくらった。倒れたところを<ruby><rb>脾腹</rb><rt>ひばら</rt></ruby>をけられ、つづいて胸を重いものがおさえつけ、のどをしめつけられた。

<ruby><rb>工夫</rb><rt>こうふ</rt></ruby>の一人が、<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>の上になっている透明人間のせなかを、シャベルでなぐりつけた。手ごたえがあった。また、なぐった。すると、こんどは博士が上になり、<ruby><rb>警官</rb><rt>けいかん</rt></ruby>もくわわって、透明人間の手や足をおさえつけた。<ruby><rb>姿</rb><rt>すがた</rt></ruby>を見せない透明人間が、ぐったりとなった。博士のあいずで、みんな手をひいて立ちあがった。

「あっ？」

<ruby><rb>群衆</rb><rt>ぐんしゅう</rt></ruby>に囲まれた広場の、<ruby><rb>博士</rb><rt>はくし</rt></ruby>の足もとの地上に、はじめはかすかに、それから少しずつ……<ruby><rb>半透明</rb><rt>はんとうめい</rt></ruby>の人の形をした物が姿をあらわし、まもなく、若い男の<ruby><rb>裸</rb><rt>はだか</rt></ruby>の<ruby><rb>傷</rb><rt>きず</rt></ruby>だらけの<ruby><rb>体</rb><rt>からだ</rt></ruby>がよこたわっているのが、見えてきた。透明人間グリッフィンの<ruby><rb>最期</rb><rt>さいご</rt></ruby>である。（おわり）