Soranoha

花屋の窓

はなやのまど

片山 広子

暮れかかる山手の坂にあかり射して花屋の窓の黄菊しらぎく

この歌は、昭和十一年ごろ横浜の山手の坂で詠んだのであるが、そのときの花屋の花の色や路にさした電気の白い光も、すこしも顕れてゐない。何度か詠みなほしてみても駄目なので、そのまま投げてしまつた。しかし歌はともかく、秋のたそがれの坂の景色を私はその後も時々おもひ出してゐた。

まだ静かな世の中で、大森山王にゐた娘たち夫婦が私を横浜に遊びに誘つてくれた。遊びにといつても週間の日の午後四時ごろ出かけたのだから、ちよつとした夕食をするのが目的で、その前に彼の大好きな場所であつたフランス領事館の前のあき地に行つて散歩した。その時分のタクシイは一円五十銭ぐらゐの料金で、大森八景坂からそのフランス領事館の坂の上まで私たちをはこんでくれた。

夕日がまだ暖かい丘の草はらを歩き廻つて崖ぎはに出ると、海はもう沈んだ光になつて、わづかばかりの鴎が高くひくく飛んでゐた。

その草はらで暫く休んでから、領事館の横を通つて急な坂道を下り始めた。片側は崖で、片側に一二軒の小家があつたが戸ざして火影もなく、みじか日がすつかり暮れて坂は暗くなつてゐた。坂を下りきる辺にあかりが白く路にさしてゐる家があつた。花屋で、中は一ぱいの西洋花が満ちみちて、大きなガラスの窓には白と黄の大輪の菊が咲きほこつてゐるのだつた。鉢植のが黄菊で、きり花が白菊だつたか、その反対であつたか今思ひ出せないけれど、その窓がまぶしいほど明るい世界を暗い路に見せてゐた。山手の外人の家に花を入れる店らしく、その辺にほかの店は一つもないやうだつた。店内にも路にもそのときわれわれのほかに一人の人間も見えず静かな夜みちを、そこから左にそれて南京町の方へ歩いて、聘珍へいちんで夕食をすました。

その後も横浜へは何度か買物や遊びに行つたけれど、この花屋の道にはそれきり出たことがなく、ただ家に帰つて来てから、あの花屋の店は今日も花で一ぱいかしらなぞと考へたりした。焦土となつた横浜がぐんぐん復興して来たと聞いて、私はまた昔のやうに花屋の窓の電気にうき出す菊の花を思ひゑがいた。

先日、「うめ うま うぐひす」といふ芥川龍之介随筆集を読んでゐた時、ゲエテー座のサロメを見物に行くところで、夕がた何処かの坂の中途で作者が、闇の中に明るい花屋のガラス窓を見るくだりがあつた。

「僕等四人の一高の生徒は日暮れがたの汽車に乗り、七時何分かに横浜へ着いた。それから何町をどう歩いたかはやはり判然と覚えてゐない。唯何処かの坂へかかると、屋並みも見えない闇の中に明るい硝子窓がたつた一つあり、その又窓の中に菊の花が沢山咲いてゐたのを覚えてゐる。それは或は西洋人相手の花屋か何かの店だつたであらう。が、ちよつと覗きこんだ所では誰も窓の中にゐる様子は見えない。しかも菊の花の群がつた上には煙草の煙の輪になつたのが一つ、ちやんと空中に漂つてゐる。僕はこの窓の前を通る時に妙に嬉しい心もちがした。」

これは、山手の坂のあの同じ花屋であることは確かである。妙に嬉しい心もちがしたと作者がいふところで私も妙にうれしくなつて、菊の花の群がつた上に漂つてゐる煙草の煙の輪を、私も見たやうな錯覚さへもち始めた。「夢のふるさと」といふやうな言葉でいふのはまはりくどいが、静かなおちつきの世界を芥川さんも私もおのおの違つた時間に覗いて見たのであつたらう。

底本 / Source edition

底本:「燈火節」月曜社
2004(平成16)年11月30日第1刷発行
底本の親本:「燈火節」暮しの手帖社
1953(昭和28)年6月
初出:「女人短歌 第二巻第三号」女人短歌会
1950(昭和25)年9月
入力:竹内美佐子
校正:伊藤時也
2010年10月14日作成
青空文庫作成ファイル:
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書誌 / Bibliography
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片山 広子「花屋の窓」(新字旧仮名)、底本『燈火節』月曜社、2004年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 050154_001346, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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