Soranoha

活人形

いきにんぎょう

泉 鏡花

急病  系図  一寸手懸  宵にちらり  妖怪沙汰  乱れ髪  籠の囮  幻影  破廂  夫婦喧嘩  みるめ、かぐはな  無理 強迫  走馬燈  血の痕  火に入る虫  啊呀!  同士討  虐殺  二重の壁  赤城様――得三様  旭

一 急病

雲の峰は崩れて遠山の麓ふもとに靄もや薄く、見ゆる限りの野も山も海も夕陽の茜あかねに染そみて、遠近おちこちの森の梢こずえに並ぶ夥多あまた寺院の甍いらかは眩まばゆく輝きぬ。処は相州東鎌倉雪の下村……番地の家は、昔何某なにがしとかやいえりし大名邸やしきの旧跡あとなるを、今は赤城あかぎ得三が住家とせり。

門札かどふだを見て、「フム此家ここだな。と門前に佇たたずみたるは、倉瀬泰助という当時屈指の探偵なり。色白く眼まなこ清すずしく、左の頬に三日月形なりの古創ふるきずあり。こは去年の春有名なる大捕物をせし折、鋭き小刀ナイフにて傷きずつけられし名残なごりなり。探偵の身にしては、賞牌しょうはいともいいつべき名誉の創痕きずあとなれど、衆ひとに知らるる目標めじるしとなりて、職務上不便を感ずること尠すくなからざる由を喞かこてども、巧たくみなる化粧にて塗抹ぬりかくすを常とせり。

倉瀬は鋭き眼にて、ずらりとこの家を見廻し、「ははあ、これは大分古い建物だ。まるで画えに描いた相馬の古御所というやつだ。なるほど不思議がありそうだ。今に見ろ、一番正体を現してやるから。と何やら意味ありげに眩つぶやきけり。

さて泰助が東京よりこの鎌倉に来りたるは、左のごとき仔細しさいのありてなり。

今朝東京なる本郷病院へ、呼吸いきも絶々たえだえに駈込かけこみて、玄関に着くとそのまま、打倒れて絶息したる男あり。年は二十二三にして、扮装みなりは好よからず、容貌かおかたちいたく憔やつれたり。検死の医師の診察せるに、こは全く病気のために死したるにあらで、何にかあるらん劇はげしき毒に中あたりたるなりとありけるにぞ、棄置き難しと警官がとりあえず招寄せたる探偵はこの泰助なり。

泰助はまず卒倒者の身体を検して、袂たもとの中より一葉の写真を探り出だしぬ。手に取り見れば、年の頃二十歳はたちばかりなる美麗うつくしき婦人おんなの半身像にて、その愛々しき口許くちもとは、写真ながら言葉を出ださんばかりなり。泰助は莞爾かんじとして打頷うちうなずき、「犯罪の原因と探偵の秘密は婦人おんなだという格言がある、何、訳はありません。近い内にきっと罪人を出しましょう。と事も無げに謂いう顔を警部は見遣みやりて、「君、鰒ふぐでも食って死しによったのかも知れんが。何も毒殺されたという証拠は無いではないか。泰助は死骸しがいの顔を指さして、「御覧なさい。人品ひとがらが好よくって、痩やせっこけて、心配のありそうな、身分のある人が落魄おちぶれたらしい、こういう顔色かおつきの男には、得て奇妙な履歴があるものです。と謂いつつ、手にせる写真を打返して、頻しきりに視ながめていたりけり。先刻より死骸の胸に手を載せて、一心に容体を伺いいたる医師は、この時人々を見返かえりて、「どうやら幽かすかに脈が通う様です。こっちの者になるかも知れません。静しずかにしておかなければ不可いけませんから、貴下方あなたがたは他室あっちへお引取下さい。警部は巡査を引連れて、静にこの室まを立去りぬ。

泰助は一人残りて、死人の呼吸いきを吹返さんとする間際には、秘密を唸うなり出す事もやあらんと待構うれば、医師の見込みは過あやまたず、ややありて死骸は少しずつの呼吸を始め、やがて幽に眼まなこを開き、糸よりもなお声細く、「ああ、これが現世このよの見納みおさめかなあ。得たりと医師は膝立直して、水薬を猪口ちょこに移し、「さあこれをお飲みなさい。と病人の口の端はたに持行けば、面おもてを背けて飲まんとせず。手をもて力無げに振払い、「汝うぬ、毒薬だな。と眼まなこを睜みはりぬ。これを聞きたる泰助は、(来たな)と腹に思うなるべし。

医師は声を和やわらげて、「毒じゃない、私は医師いしゃです。早くお飲みなさい。という顔をまず屹きっと視みて、やがて四辺あたりを見廻しつ、泰助に眼を注そそぎて、「あれは誰方どなた。泰助は近く寄りて、「探偵吏です。「ええ、と病人は力を得たる風情にて、「そうして御姓名おなまえは。「僕は倉瀬泰助。と名乗るを聞きて病人は嬉しげに倉瀬の手を握り、「貴下が、貴下があの名高い……倉瀬様さん。ああ嬉しや、私は本望が協かなった。貴下に逢えば死しんでも可いい。と握りたる手に力を籠めぬ。何やらん仔細あるべしと、泰助は深切に、「それはどういう次第だね。「はい、お聞き下さいまし、と言わんとするを医師は制して、「物を言ったり、配慮きあつかいをしては、身体からだのために好くない。と諭せども病人は頭こうべを掉ふりて、「悪僕、――八蔵奴めに毒を飲まされましたから、私はどうしても助りません。「何、八蔵が毒を。……と詰寄る泰助の袂を曳ひきて、医師は不興気に、「これさ、物を言わしちゃ悪いというのに。「僕は探偵の職掌だ。問わなければならない。「私は医師の義務だから、止めなければなりませぬ。と争えば病人は、「御深切は難有ありがとう存じますが、とても私は助りませんのですから、どうぞ思ってることを言わして下さいまし。明日まで生延びて言わずに死ぬよりは、今お話し申してここで死ぬ方が勝手でございます。と思い詰めてはなかなかに、動くべくも見えざりければ、探偵は医師に向いて、「是非が無い。ああいうのですから、病人の意にお任せなさい。病人はまた、「そうして他ほかの人に聞かしとうございませんから、恐入りますが先生はどうぞあちらへ。……とありければ、医師は本意ほい無げに室の外おもてに立出でけり。

二 系図

病人は苦痛を忍びて語り出だしぬ。

我は小田原の生うまれにて本間次三郎という者。幼少の折父母を失いければ、鎌倉なる赤城家に嫁ぎたる叔母の許もとにて養われぬ。仮の叔父なる赤城の主人あるじは大酒のために身を損いて、その後病死したりしかば、一族同姓の得三といえるが、家事万端の後見せり。

叔母には下枝しずえ、藤とて美しき二人の娘あり。我とは従兄妹いとこ同士にていずれも年紀としは我より少わかし。多くの腰元に斉眉かしずかれて、荒き風にも当らぬ花なり。我は食客の身なれども、叔母の光を身に受けて何不自由無く暮せしに、叔母はさる頃病気やまいに懸かかり、一時に吐血してその夕ゆうべ敢あえなく逝みまかりぬ。今より想えば得三が毒殺なせしものなるべし。さる悪人とはその頃には少しも思いがけざりき。

されば巨万の財産を挙げて娘の所有ものとなし、姉の下枝に我を娶めあわせ後日家を譲るよう、叔母はくれぐれ遺言せしが、我等の年紀としの少わかかりければ、得三は旧もとのまま一家いっけを支配して、己おのが随意ままにぞ振舞いける。

淑母死して七七日の忌いみも果てざるに、得三は忠実の仮面を脱ぎて、ようやく虎狼ころうの本性を顕あらわしたり。入用いらざる雑用ぞうようを省くと唱え、八蔵といえる悪僕一人を留め置きて、その余の奴僕ぬぼくは尽ことごとく暇を取らせ、素性も知れざる一人の老婆を、飯炊めしたきとして雇い入れつ。こは後より追々にし出ださんずる悪計わるだくみの、人に知られんことを恐れしなりけり。昨日きのうの栄華に引替えて娘は明暮不幸を喞かこち、我も手酷てひどく追使おいつかわるる、労苦を忍びて末々を楽たのしみ、たまたま下枝と媾曳あいびきしてわずかに慰め合いつ、果は二人の中をもせきて、顔を見るさえ許さざれば垂籠たれこめたる室まの内に、下枝の泣く声聞く毎たびに我は腸はらわたを断つばかりなりし。

数うれば三年前ぜん、一日あるひ黄昏たそがれの暗紛れ、潜ひそかに下枝に密会しのびあい、様子を聞けば得三は、四十を越したる年にも恥じず、下枝を捉とらえて妻にせん。我心に従えと強迫すれど、聞入れざるを憤り、日に日に手暴てあらき折檻せっかんに、無慙むざんや身内の皮は裂け、血に染そみて、紫色に腫れたる痕あとも多かりけり。

下枝は我に取縋とりすがりて、得え堪えぬ苦痛を訴えつつ、助けてよ、と歎くになむ。さらば財産も何かせむ。家邸も何かせむ、皆得三に投与えて、かかる悪魔の火宅を遁のがれ、片田舎にて気散じに住みたまう気は無きか、連れて遁にげんと勧めしかど、否いや、先祖より伝わりたる財産は、国とも城ともいうべきもの、いかに君と添いたいとて、人手には渡されず。今得三は国の仇あだ、城を二十重はたえに囲まれたれば、責殺されんそれまでも、家は出でずに守るという。男勝りの心に恥じて、強いてとも言い難く、さればとてこのままにては得三の手に死ぬばかりぞ、と抱いだき合いつつ泣きいたりしを、得三に認められぬ。言語道断の淫戯者いたずらもの片時へんじも家に置難しと追出されんとしたりし時、下枝が記念かたみに見たまえとて、我に与えし写真あり。我はかの悪僕に追立てられて詮方せんかた無く、その夜赤城の家を出で、指して行方もあらざればその日その日の風次第、寄る辺べ定めぬ捨小舟すておぶね、津や浦に彷徨さまようて、身に知る業わざの無かりしかば、三年越しの流浪にて、乞食こつじきの境遇にも、忘れ難きは赤城の娘、姉妹あねいもとともさぞ得三に、憂い愁つらい目を見るならむ。助くる術すべは無きことか、と頼母たのもしき人々に、一つ談話ばなしにするなれど、聞くもの誰も信まこととせず。思い詰めて警察へ訴え出でし事もあれど、狂気の沙汰とて取上げられず。力無く生甲斐無く、漣さざなみや滋賀県に佗年月わびとしつきを過すうち、聞く東京に倉瀬とて、弱きを助くる探偵ありと、雲間に高きお姓名なまえの、雁かりの便たよりに聞ゆるにぞ、さらば助たすけを乞い申して、下枝等を救わむと、行李こうりそこそこかの地を旅立ち、一昨日おとといこの地に着きましたが、暑気あつさに中あたりて昨日一日、旅店に病みて枕もあがらず。今朝はちと快気こころよげなるに、警察を尋ねて見ばやと、宿を出づれば後より一人跟つけ来る男あり。忘れもせぬ其奴そやつこそ、得三に使わるる八蔵という悪僕なれば、害心もあらんかと、用心に用心して、この病院の裏手まで来りしに、思えば運の尽つきなりけん。にわかに劇はげしく腹の痛みて、立ってもいられず大地に僵たおれ、苦しんでいる処へ誰やらん水を持来りて、呑ましてくるる者のあり。眼も眩くらみ夢中にてただ一呼吸ひといきに呑干しつ、やや人心地になりたれば、介抱せし人を見るに、別人ならぬ悪僕なり。はっと思うに毒や利きけむ、心身たちまち悩乱して、腸はらわた絞る苦しさにさては毒をば飲まされたり。かの探偵に逢うまでは、束の間欲しき玉の緒を、繋つなぎ止めたや繋ぎ止めたやと絶入る心を激まして、幸いここが病院なれば、一心に駈け込みし。その後は存ぜずと、呼吸いきつきあえず物語りぬ。

三 一寸手懸

泰助は目をしばたたき、「薄命ふしあわせな御方だ、御心配なさるな。請合ってきっと助けてあげます。と真実面おもてに顕あらわるれば、病人は張詰めたる気も弛ゆるみて、がっくりと弱り行きしが、頻しきりに袂たもとを指さすにぞ、泰助は耳に口、「何です、え、何ぞあるのですか。「下枝の写真。「むむ、それはこれでしょう。先刻さっき僕が取出しました。とかの写真を病人の眼前めさきに翳かざせば、つくづくと打視うちながめ、「私わたくしと同じ様に、さぞ今では憔やつれて、とほろりと涙を泛うかべつつ、「この面影はありますまいよ。死顔でも見たい、もう一度逢いたい。と現心うつつごころにいいければ、察し遣りて泰助が、彼の心を激まさんと、「気を丈夫に持って養生して、ね、翌朝あしたまで眼を塞がずに僕が下枝を連れて来るのを御覧なさい。今夜中に助け出して、財産も他手ひとでには渡さないから、必ず御案じなさるな。と言語ことばを尽して慰むれば、頷うなずくように眼まなこを閉じぬ。

折から外おもてより戸を叩きて、「もう開けましても差支えございませんか。と医師の尋ぬるに泰助は振返りて、「宜よろしい、おはいんなさい。と答うれば、戸を排ひらきて、医師とともに、見も知らぬ男入いり来れり。この男は、扮装みなり、風俗、田舎漢いなかものと見えたるが、日向ひなた眩まばゆき眼色めつきにて、上眼づかいにきょろつく様、不良よからぬ輩やからと思われたり。

泰助屹きっと眼を着けて、「お前様さんは何しに来たのだ。問われて醜顔むくつけき巌丈男の声ばかり悪優しく。「へいへい、お邪魔様申します。ちとお見舞みめえに罷出つんでたんで。「知己ちかづきのお方かね。「いえ、ただ通懸とおりかかった者でがんすがその方が強えらくお塩梅あんばいの悪い様子、お案じ申して、へい、故意わざと。という声耳に入りたりけん。その男を見て、病人は何か言いたげに唇を震わせしが、あわれ口も利けざりければ、指もて其方そなたを指示さししめし、怒り狂う風情にて、重き枕を擡もたげしが、どうと倒れて絶入りけり。

今病人に指さされし時、件くだんの男は蒼あおくなりて恐しげに戦慄わななきたり。泰助などて見遁みのがすべき。肚はらの中うちに。ト思案して、「早く、お退のきなさい。お前方の入って来る処ではありません。と極きめつけられて悄気しょげかえり、「ああ呼吸いきを引取ましたかい。可愛や可愛や、袖振合うも他生の縁とやら、お念仏申しましょ。と殊勝らしく眼を擦り赤めてやおら病院を退出まかんでぬ。泰助は医師に向い、「下手人がしらばくれて、(死)をたしかめに来たものらしい。わざと化されて、怪まぬように見せて反対あべこべに化かしてやった。油断をするに相違ちがい無い。「いかさま怪しからん人体でした。あのまま見遁して置くお所存つもりですか、「なあにこれから彼奴あいつを突止めるのです。この病人は及ばぬまでも手当を厚くして下さい。誠に可哀相な者ですから。「何か面白い談話はなしがありましたろう。「ちっとも愉快おもしろくはありませんでした、がこれから面白くなるだろうと思うのです。追々お談話申しましょう。と帽子を取って目深に被かぶり、戸外おもてへ出づればかの男は、何方いずれへ行きけん影も無し。脱心ぬかりたりと心急立せきたち、本郷の通とおりへ駈出でて、東西を見渡せば、一町ばかり前さきに立ちて、日蔭を明神坂の方へ、急ぎ足に歩み行く後姿うしろつきはその者なれば、遠く離れて見失わじと、裏長屋の近道を潜くぐりて、間近く彼奴かやつの後に出でつ。まずこれで可よしと汗を容いれて心静かに後を跟つけて、神田小柳町のとある旅店へ、入りたるを突止めたり。

泰助も続いて入込いりこみ、突然いきなり帳場に坐りたる主人に向むかいて、「今の御客は。と問えば、訝いぶかしげに泰助の顔を凝視みつめしが、頬の三日月を見て慇懃いんぎんに会釈して、二階を教え、低声こごえにて、「三番室。」

四番室の内に忍びて、泰助は壁に耳、隣室の談話声はなしごえを聞けば、おのが跟けて来し男の外になお一人の声しけり。

「お前、御苦労であった。これで家うちへ帰っても枕を高うして寐ねられるというものだ。「旦那もう帰国けえりますか。この二人は主従と見えたり。「ああしてしまえば東京に用事は無いのだ。今日の終しまい汽車で帰国かえるとしようよ。「それが宜ようございましょう。そうして御約束の御褒美は。「家へ行ってから与やる。「間違ませんか。「大丈夫だ。「きっとでしょうね。「ええ、執拗しつッこいな。「難有ありがてえ、と無法に大きな声をするにぞ、主人は叱りて、「馬鹿め、人が聞かあ。後は何を囁ささやくか小声にてちっとも聞えず。少時しばらくして一人その室まを立出で、泰助の潜みたる、四番室よばんの前を通り行くを、戸の隙間すきまより覗のぞき見るに、厳格いかめしき紳士にて、年の頃は四十八九、五十にもならんずらん。色浅黒く、武者髯むしゃひげ濃く、いかさま悪事は仕かねまじき人物にて、扮装いでたちは絹布おかいこぐるみ、時計の金鎖胸にきらきら、赤城というはこの者ならんと泰助は帳場に行きて、宿帳を検すれば、明あきらかに赤城得三とありけり。(度胸の据った悪党だ、)と泰助は心に思いつ。

四 宵にちらり

三時少し過ぎなれば、終しまい汽車にはまだ時間ひまあり。一度ひとたび病院へ取って返して、病人本間の様子を見舞い、身支度して出直さんと本郷に帰りけるに、早警官等は引取りつ。泰助は医師に逢いて、予後の療治を頼み聞え、病室に行きて見るに、この不幸なる病人は気息奄々えんえんとして死したるごとく、泰助の来れるをも知らざりけるが、時々、「赤城家の秘密……怨めしき得三……恋しき下枝、懐かしき妻、……ああ見たい、逢いたい、」と同じ言ことを幾いくたびも譫言うわごとに謂いうを聞きて、よくよく思い詰めたる物と見ゆ。遥々はるばる我を頼みて来し、その心さえ浅からぬに、蝦夷えぞ、松前はともかくも、箱根以東にその様なる怪物ばけものを棲すませ置きては、我が職務の恥辱なり。いで夏の日の眠気覚しに、泰助が片膚かたはだ脱ぎて、悪人儕ばらの毒手の裡うちより、下枝姉妹きょうだいを救うて取らせむ。証拠を探り得ての上ならでは、渠等かれらを捕縛は成り難し。まず鎌倉に立越えてと、やがて時刻になりしかば、終汽車に乗り込みて、日影ようよう傾く頃、相州鎌倉に到着なし、滑川なめりがわの辺ほとりなる八橋楼に投宿して、他所よそながら赤城の様子を聞くに、「妖物ばけもの屋敷、」「不思議の家、」あるいは「幽霊の棲家すみか、」などと怪しからぬ名を附して、誰ありて知らざる者無し。

病人が雪の下なる家を出でしは、三年前の事とぞ聞く。あるいは救助すくいの遅くして、下枝等は得三のために既に殺されしにあらざるか、遠くもあらぬ東京に住む身にて、かくまでの大事を知らず、今まで棄置きたる不念ぶねんさよ。もし下枝等の死したらんには、悔いても及ばぬ一世の不覚、我三日月の名折なり。少しも早く探索せむずと雪の下に赴きて、赤城家の門前に佇たたずみつつ云々しかじかと呟つぶやきたるが、第一回の始まりなり。

この時赤城得三も泰助と同じ終汽車にて、下男を従えて家に帰りつ。表二階にて下男を対手あいてに、晩酌を傾けおりしが、得三何心無く外おもてを眺め、門前に佇む泰助を、遠目に見附けて太いたく驚き、「あッ、飛んだ奴が舞込んだ。と微酔ほろよいも醒さめて蒼あおくなれば、下男は何事やらんと外おもてを望み、泰助を見ると斉ひとしく反そり返りて、「旦那々々、あれは先刻さっき病院に居た男だ。と聞いてますます蒼くなり、「ええ! それでは何だな。お前を疑う様な挙動そぶりがあったというのは彼奴あいつか。「へい、左様でござい。恐怖おっかねえ眼をして我おれをじろりと見た。「こりゃ飛んだ事になって来た。と一方ならず恐るる様子、「何もそう、顔色がんしょくを変えて恐怖おっかながる事もありますめえ。病気で苦しんでる処を介抱してやったといえばそれ迄のことだ。「でもお前が病院へ行った時には、あの本間の青二才が、まだ呼吸いきがあったというではないか。「ひくひく動いていましたッけ。「だから、二才の口から当家の秘密を、いいつけたに違いない。「だって何程いつかばちのこともあるめえ。と落着く八蔵。得三は頭こうべを振り、いや、他ほかの奴と違う。ありゃお前、倉瀬泰助というて有名な探偵だ。見ろ、あの頬桁ほおげたの創きずの痕あとを。な、三日月形なりだろう、この界隈かいわいでちっとでも後暗いことのある者は、あれを知らぬは無いくらいだ。といえば八蔵はしたり顔にて、「我おれも、あの創を目標めじるしにして這しゃッ面つらを覚えておりますのだ。「むむ、汝きさまはな、これから直ぐに彼奴あいつの後を跟つけて何をするか眼を着けろ。「飲込のみこみました。「実に容易ならぬ襤褸ぼろが出た。少しでも脱心ぬかるが最後、諸共ともどもに笠の台が危ないぞ。と警戒いましむれば、八蔵は高慢なる顔色かおつきにて、「たかが生ッ白ちろい痩やせた野郎、鬼神おにがみではあるめえ。一思いに捻ひねり潰つぶしてくりょう。と力瘤ちからこぶを叩けば、得三は夥度あまたたび頭こうべを振り、「うんや、汝には対手が過ぎるわ。敏捷すばしこい事ア狐の様で、どうして喰える代物じゃねえ。しかし隙すきがあったら殺害やッつけッちまえ。」

まことや泰助が一期の失策、平常いつものごとく化粧して頬の三日月は塗抹ぬりけし居たれど、極暑の時節なりければ、絵具汗のために流れ落ちて、創の露あらわれしに心着かず、大事の前に運悪くも悪人の眼に止まりたるなり。

さりとも知らず泰助は、ほぼこの家の要害を認めたれば、日の暮れて後忍び入りて内の様子を探らんものをと、踵きびすを返して立去りけり。

表二階よりこれを見て、八蔵は手早く身支度整え、「どれ後を跟けましょう。「くれぐれも脱心ぬかるなよ。「合点がってんだ。と鉄の棒の長さ一尺ばかりにて握太きを小脇に隠し、勝手口より立出たちいでしが、この家やは用心厳重にて、つい近所への出入ではいりにも、鎖じょうを下す掟おきてとかや。心急せきたる折ながら、八蔵は腰なる鍵を取り出いだして、勝手の戸に外より鎖を下し、急ぎ門前に立出でて、滑川の方へ行く泰助の後より、跫音あしおとひそかに跟け行ゆけども、日は傾きて影も射映ささねば、少しも心着かざりけり。

五 妖怪沙汰

泰助は旅店に帰りて、晩餐ばんさんの前に湯に行ゆきつ。湯殿に懸けたる姿見に、ふと我顔の映るを見れば、頬の三日月露あらわれいたるにぞ、心潜かに驚かれぬ。ざっと流して座敷に帰り、手早く旅行鞄を開きて、小瓶の中より絵具を取出し、好よく顔に彩りて、懐中鏡に映し見れば、我ながらその巧妙たくみなるに感ずるばかり旨々まんまと一皮被かぶりたり。

今夜を過さず赤城家に入込みて、大秘密を発あばきくれん。まずその様子を聞置かんと、手を叩きて亭主を呼べば、気軽そうな天保てんぽう男、とつかわ前に出来りぬ。「御主人外でも無いが、あの雪の下の赤城という家。と皆まで言わぬに早合点はやのみこみ、「へい、なるほど妖物邸ばけものやしき。「その妖物屋敷というのはどういう理窟だい。「さればお聞きなさいまし。まず御免被って、と座を進み、「種々いろいろ不思議がありますので、第一ああいう大おおきな家に、棲すんでいる者がございません。「空屋かね、「いえ、そこんところが不思議でごすて。ちゃんと門札も出ておりますが何者が住んでいるのか、それが解りません。「ふふむ、余り人が出入ではいりをしないのか。「時々、あの辺で今まで見た事の無い婆様ばあさんに逢うものがございますが、何でも安達あだちが原の一ツ家やの婆々ばばという、それはそれは凄い人体にんていだそうで、これは多分山猫の妖精ばけものだろうという風説うわさでな。「それじゃあ風の吹く晩には、糸を繰る音が聞えるだろうか。「そこまでは存じませんが、折節女の、ひい、ひい、と悲鳴を上げる声が聞えたり、男がげらげらと笑う声がしたり、や、も、散々な妖原ばけはらだといいますで。とこれを聞きて泰助は乗出して、「ほんとなら奇怪な話だ。まずお茶でも一ツ……という一眼小僧は出ないかね。とさも聞惚ききとれたる風を装おい、愉快おもしろげに問いかくれば、こは怪談の御意に叶いしことと亭主は頻しきりに乗地のりじとなり、「いえ世がこの通り開けましたで、そういう甘口な妖方ばけかたはいたしません。東京の何とやら館の壮士が、大勢でこの前さきの寺へ避暑に来てでございますが、その風説うわさを聞いて、一番妖物退治をしてやろうというので、小雨の降る夜二人連で出掛けました。草ぼうぼうと茂った庭へ入り込んで、がさがさ騒いだと思し召せ。ずどんずどんとどこかで短銃ピストルの音がしたので、真蒼まっさおになって遁にげて帰ると、朋輩のお方が。そりゃ大方天狗てんぐが嚔くさみをしたのか、そうでなければ三ツ目入道が屍を放ひった音だろう。誰某だれそれは屁玉へだまを喰くらって凹んだと大きに笑われたそうで、もう懲々こりこりして、誰も手出しは致しません、何と、短銃では、岩見重太郎宮本の武蔵でも叶いますまい。と渋茶を一杯。舌を濡して言ことばを継ぎ、「串戯じょうだんはさて置き、まだまだ気味の悪いのは。と声を低くし、「幽霊れこが出ますので。こは聞処ききどころと泰助は、「人、まさか幽霊が。とわざといえば亭主は至極真面目になり、「いいえ、人から聞いたのではございません。私わたくしがたしかに見ました。「はてな。「思い出すと戦慄ぞっといたします。と薄気味悪げに後うしろを見返り、「部室へやの外が直ぐ森なので、風通しは宜ようございますが、こんな時には、ちとどうも、と座敷の四隅に目を配りぬ。

泰助は思い当る事あれば、なおも聞かんと亭主に向い、「談はなしてお聞かせなさい、実に怪談が好物だ。「余り陰気な談をしますと是非魔が魅さすといいますから。と逡巡しりごみすれば、「馬鹿なことを、と笑われて、「それでは燈ひを点ともして懸かかりましょう。暗くなりました。「怪談は暗がりに限るよ。「ええ! 仕方がありません。先月の半ば頃一日あるひ晩方の事……」

この時座敷寂しんとして由井が浜風陰々たり。障子の桟も見えずなり、天井は墨のごとく四隅は暗く物凄ものすごく、人の顔のみようよう仄ほのめき、逢魔あうまが時とぞなりにける。亭主はいよいよ心臆おくし、団扇うちわにてはたはたと、腰の辺あたりを煽あおぎ立て、景気を附けて語りけるは、「ちょうどこの時分用事あって、雪の下を通りかかり、かねて評判が高いので、怯気々々びくびくもので歩いて行くと、甲走かんばしった婦人おんなの悲鳴が、青照山の谺こだまに響いて……きい――きいっ。「ああ、嫌否いやな声だ。「は――我ながら何ともいえぬ異変な声でございます。と泰助と顔を見合せ、亭主は膝下ひざもとまでひたと摺寄すりより、「ええそれが私わたくしは襟許から、氷を浴びたような気が致して、釘附にされたように立止って見ました。有様ありようは腰ががくついて歩行あるけませなんだので。すると貴客あなた、赤城の高楼たかどのの北の方の小さな窓から、ぬうと出たのは婦人おんなの顔、色真蒼まっさおで頬面ほうッぺたは消えて無いというほど瘠やせっこけて、髪の毛がこれからこれへ(ト仕方をして)こういう風、ぱっちり開あいた眼が、ぴかりしたかと思うと、魂消たまぎった声で、助けて――助けて――と叫びました。」

語るを聞いて泰助は心の中うちに思うよう、いかさま得三に苛責かしゃくされて、下枝かあるいは妹か、さることもあらむかし。活命ながらえてだにあるならば、おッつけ救い得させむずと、漫そぞろに憐あわれを催しぬ。談話はなし途切れて宿の亭主は、一服吸わんと暗中くらがりを、手探りに、煙管きせるを捜して、「おや、変だ。ここに置いた煙管が見えぬ。あれ、魔隠、気味の悪い。となおそこここを見廻せしが、何者をか見たりけむ。わっと叫ぶに泰助も驚きて、見遣る座敷の入口に、煙けぶりのごとき物体ものあって、朦朧もうろうとして漂えり。あれはと認むる隙ひまも無く、電いなずま? ふっと暗中やみに消え、やがて泰助の面前に白き女の顔顕あらわれ、拭ぬぐいたらむ様にまた消えて、障子にさばく乱髪のさらさらという音あり。

六 乱れ髪

亭主の叫びし声を怪しみ、慌あわただしく来る旅店の内儀、「まあ何事でござんすの、と洋燈ランプを点つけて据え置きながら、床の間の方を見るや否や、「ン、と反返そりかえるを抱き止めて、泰助屹きっと振返れば、柱隠しの姿絵という風情にて、床柱に凭もたれて立つ、あら怪しき婦人おんなありけり。

つくづくその婦人を見るに、年は二十二三なるべし。しおしおとある白地の浴衣の、処々裂け破れて肩や腰の辺あたりには、見るもいぶせき血の汚点にじみたるを、乱次無しどけなく打纏うちまとい、衣紋えもん開きて帯も占めず、紅くれないのくけ紐ひもを胸高に結びなし、脛はぎも顕あらわに取乱せり。露垂るばかりの黒髪は、ふさふさと肩に溢こぼれて、柳の腰に纏いたり。膚はだえの色真白く、透通るほど清らかにて、顔は太いたく蒼みて見ゆ。ただ屹きっとしたる品格ありて眼の光凄すさまじく、頬の肉落ち頤おとがい細りて薄衣の上より肩の骨の、いたいたしげに顕われたるは世に在る人とは思われず。強き光に打たれなば、消えもやせんと見えけるが、今泰助等を見たりし時、物をも言わで莞爾にっこりと白歯を見せて笑める様は、身の毛も弥立よだつばかりなり。

人々ものを言いかくれど、答は無くて、ただにこにこと笑うを見て、始め泰助は近隣の狂女ならんと見て取りつ、問えばさるものは無しという。今もなお懐中せる今朝の写真に心附けば、憔やつれ果ててその面影は無けれども、気けばかり肖にたる処あり。さては下枝のいかにしてか脱け出でて来しものにはあらずや。日夜折檻をせらるると聞けば、責苦にや疲れけん、呼吸いきも苦しげに見ゆるぞかし。こはこのままに去いなし難しと、泰助は亭主に打向い、「どこか閑静な処へ寝さして、まあまあ気を落着かしてやるが可いい。当家へ入って来たのも、何かの縁であろうからと、勧むれば、亭主は気の好よき男にて、一議も無く承引なし、「向側の行当ゆきあたりの部屋は、窓の外がすぐ墓原なので、お客がございませんから、幽霊でさえなけりゃ、それへ連れて行って介抱してつかわしましょう。といいつつ女房を見返りて、「おい、御女中をお連れ申して進ぜなさいと、命いいつけられて内儀は恐々こわごわ手を曳ひいて導けば、怪しき婦人は逆らわず、素直に夫婦に従いて、さもその情を謝するがごとく秋波斜めに泰助を見返り見返り、蹌踉よろよろとして出行きぬ。

面おもてにべったり蜘蛛くもの巣を撫払なではらいて、縁の下より這出はいいづるは、九太夫にはちと男が好過ぎる赤城の下男八蔵なり。かれ先刻さきに泰助の後を跟け来りて、この座敷の縁の下に潜みており、散々藪蚊やぶかに責められながら、疼痛いたみを堪こらうる天晴あっぱれ豪傑、かくてあるうち黄昏たそがれて、森の中暗うなりつる頃、白衣を着けたる一人の婦人、樹の下蔭に顕あらわれ出でつ、やおら歩あゆみを運ばして、雨戸は繰らぬ縁側へ、忍びやかに上りけるを、八蔵朧気おぼろげに見てもしやそれ、はてよく肖た婦人おんなもあるものだ、下枝は一室ひとまに閉込めあれば、出て来らるべき道理は無きが、となおも様子を聞きいるに、頭の上なる座敷には、人の立騒ぐ気勢けはいあり。幽霊などと動揺どよめきしがようやくに静まりて、彼方あなたへ連れ行き介抱せんと、誘いざない行きしを聞澄まし、縁の下よりぬっと出で蚊を払いつつ渋面つくり、下枝ならむには一大事、とくと見届けてせむ様あり、と裏手の方の墓原へ潜ひそかに忍び行きたりける。

座敷には泰助が、怪しき婦人を見送りて、下枝の写真を取出し、洋燈ランプに照して彼とこれと見競べている処へ、亭主は再び入来りて、「お客様、寝床を敷いてやりますと、僵たおれる様に臥ふせりました。何だか不便ふびんな婦人おんなでございます。「それは深切に好くしておやんなすった。そうして何とか言いましたかい。「あれは唖おうしじゃないかと思われます。何を言っても聞えぬようすでございます。「何なんしろ談話はなしの種になりそうだね。「いかさまな。「で、私はこれからちよいと行って来る処がある。御当家おうちへ迷惑は懸かけないから、帰るまでああして蔵匿かくまって置いて下さらないか、衣服きものに血が附ついてたり、おどおどしている処を見ると、邪慳じゃけんな姑しゅうとめにいびられる嫁か。「なるほど。「あるいは継母に苦しめられる娘か。「勾引かどわかされた女で、女郎にでもなれと責められるのか。こりゃ、もしよくあるやつでございますぜ。「うむその辺だろう。何でも曰附いわくつきに違いないから、御亭主、一番侠客気おとこぎを出しなさい。「はあて、ようごぜえさあ、ほい、直ぐとその気になる。はははははは。かからんには後に懸念無し。亭主もし二の足ふまば我が職掌をいうべきなれど、蔵匿うことを承知したればそれにも及ばず都合可よし。人情なればこの婦人を勦いたわりてやる筈はずなれど、大犯罪人前にあり、これ忽ゆるがせにすべからずと、泰助は急ぎ身支度して、雪の下へと出行きぬ。赤城の下男八蔵は、墓原に来て突当つきあたりの部屋の前に、呼吸いきを殺していたりしが、他の者は皆立去りて、怪しと思う婦人おんなのみ居残りたる様子なれば、倒れたる墓石を押し寄せて、その上に乗りて伸び上り、窓の戸を細う開きて差覗さしのぞけば、かの婦人は此方こなたを向きて横様に枕したれば、顔も姿もよく見えたり。「やあ! と驚きの余り八蔵は、思わず声を立てけるにぞ、婦人は少し枕を上げて、窓をあおぎ見たる時、八蔵ぬっと顔つら差出し、拳こぶしに婦人を掴つかむ真似して、「汝、これだぞ、と睨ねめつくれば、連理引きに引かれたらむように、婦人は跳ね起きて打戦うちおののき、諸袖もろそでに顔を隠し、俯伏うつぶしになりて、「あれえ。」

七 籠の囮

倉瀬泰助は旅店を出でて、雪の下への道すがら、一叢ひとむら樹立こだちの茂りたる林の中へ行懸ゆきかかりぬ。月いと清うさしいでて、葉裏を透すかして照らすにぞ、偶然ふと思い付く頬の三日月、また露あらわれはせざるかと、懐中鏡を取出とりいだせば、きらりと輝く照魔鏡に怪しき人影映りけるにぞ、はっと鏡を取落せり。

とたんに鉄棒空くうに躍って頭こうべを目懸けて曳えい! と下す。さしったりと身を交せば、狙ねらい外はずれて発奮はずみを打ち路傍の岩を真二まっぷたつ。石鉄戛然かつぜん火花を散らしぬ。こはかの悪僕八蔵が、泰助に尾し来りて、十分油断したるを計り、狙撃ねらいうちしたりしなり。僥倖さいわいに鏡を見る時、後に近接ちかづく曲者映りて、さてはと用心したればこそ身を全うし得たるなれ。

「しまった。と叫びて八蔵が、鉄棒を押取おっとり直すを、泰助ははったと睨め付け、「御用だ。と大喝一声、怯ひるむ処を附け入って、拳こぶしの雷いなずま手錬のあてに、八蔵は急所を撲うたれ、蹈反ふんぞりて、大地はどうと響きけり。

「月夜に暗殺、馬鹿々々しい、と打笑いつつ泰助は曲者の顔を視ながめて、「おや、此奴こやつは病院へ来た奴だ。赤城の手下に違いないが、ふむ敵はもう我おれが来たことを知ってるな。こりゃ油断がならぬわい。危険々々けんのんけんのん、ほんの一機ひといきでこの石の通りになる処、馬鹿力の強い奴だ。と舌を巻きしが、「待て、何ぞ手懸りになる様な、掘出し物があろうかも知れぬ。とかかる折にも油断無く八蔵の身体からだを検して腰に附けたる鍵を奪いぬ。時に取りては千金にも勝りたる獲物ぞかし。これあらば赤城家へ入込いりこむに便たよりあり造化至造妙しあわせよしと莞爾にっこと頷うなずき、袂たもとに納めて後をも見ず比企ひきが谷やつの森を過ぎ、大町通って小町を越し、坐禅川を打渡って――急ぎ候ほどに、雪の下にぞ着きにける。

(談話はなし前にもどる。)

ここに赤城得三は探偵の様子を窺うかがえとて八蔵を出いだし遣やりたる後、穏かならぬ顔色がんしょくにて急がわしく座を立ちて、二室ふたま三室通り抜けて一室の内へ入いり行ゆきぬ。こは六畳ばかりの座敷にて一方に日蔽ひおおいの幕を垂れたり。三方に壁を塗りて、六尺の開戸ひらきどあり。床の間は一間の板敷なるが懸軸も無く花瓶も無し。ただ床の中央に他に類たぐい無き置物ありけり。鎌倉時代の上﨟じょうろうにや、小挂こうちぎしゃんと着こなして、練衣ねりぎぬの被かずきを深く被かぶりたる、人の大きさの立姿。溢こぼるる黒髪小袖の褄つま、色も香もある人形なり。言ものいわぬ高峰たかねの花なれば、手折るべくもあらざれど、被の雲を押分けて月の面影洩出もれいでなば、﨟長ろうたけたらんといと床し。

得三は人形の前に衝つと進みて、どれ、ちょっと。上﨟の被を引き上げて、手燭てしょくを翳かざして打見遣やり、「むむ可々よしよし。と独言ひとりごと。旧もとのごとく被を下して、「後刻のちに高田が来る筈はずだから、この方はあれにくれてやって、金にするとしてまず可よしと。ところで下枝の方は、我おれが女房にして、公債や鉄道株、ありたけの財産を、我おれが名に書き替えてト大分旨い仕事だな。しかし、下枝めがまた悪く強情で始末におえねえ。手を替え、品を替え、撫なでつ抓つねりつして口説いても応うむと言わないが、東京へ行懸けに、梁うつばりに釣して死ぬ様な目に逢わせて置いたから、ちっとは応えたろう。それに本間の死んだことも聞かしてやったら、十に九つはこっちの物だ。どうやら探偵いぬが嗅かぎ附けたらしい。何もかも今夜中に仕上げざなるめえ。その代り翌日あしたッから御大尽だ。どれ、ちょびと隠妾かくしづまの顔を見て慰もうか。とかねてより下枝を幽閉せる、座敷牢へ赴くとて、廻廊に廻り出でて、欄干に凭よりかかれば、ここはこれ赤城家第一の高楼たかどのにて、屈曲縦横の往来を由井が浜まで見通しの、鎌倉半面は眼下にあり。

山の端はに月の出汐いでしお見るともなく、比企が谷の森の方かたを眺むれば、目も遥かなる畦道あぜみちに、朦朧もうろうとして婦人おんなあり。黒髪颯さっと夜風に乱して白き衣服きものを着けたるが、月明りにて画えがけるごとく、南をさして歩むがごとし。

得三は啊呀あなやと驚き、「あれはたしかに下枝の姿だ……いや、いや、三年以来このかた、あの堅固な牢の内へぶちこんであるものを、まさか魔術を使いはしめえし、戸外おもてへ脱けて出る道理が無い。こりゃ心の迷いだ。脱にがしてはならぬ脱がしてはならぬと思ってるからだ。こればかりの事に神経を悩すとは、ええ、意気地の無い事だ。いかさまな、五十の坂へ踏懸けちゃあ、ちと縒よりが戻ろうかい。だが油断はならない、早く行って見て安心しよう。何、居るに違いないが……ままよ念のためだと、急がわしく、馳はせ行きて北の台と名づけたる高楼の、怪しげなる戸口に到り、合鍵にて戸を開けば、雷らいのごとき音ありて、鉄張の戸は左右に開あきぬ。室内に籠りたる生暖なまぬるき風むんむと面おもてを撲うちて不快こころわるきこといわん方無し。

手燭に照して見廻みまわせば、地に帰しけん天に朝しけん、よもやよもやと思いたる下枝は消えてあらざりけり。得三は顛倒てんどうして血眼ちまなこになりぬ。

八 幻影

先刻さきに赤城得三が、人形室を出行いでゆきたる少時しばらく後に、不思議なることこそ起りたれ。風も無きに人形の被かずき揺めき落ちて、妖麗あでやかなる顔の洩もれ出でぬ。瑠璃るりのごとき眼も動くようなりしが、怪しいかな影法師のごとき美人静々と室まの中うちに歩み出でたり。この幻影まぼろし譬たとえば月夜に水を這はう煙けぶりに似て、手にも取られぬ風情なりき。

折から畳障りの荒らかなる、跫音あしおと彼方かなたに起りぬれば、黒き髪と白き顔はふっと消え失うせ、人形はまた旧もとの通り被を被かぶりぬ。

途端にがたひしと戸を開けて、得三は血眼に、この室に駈かけ込み、「この方はどうだろう。あの様子では同じく翼はねが生えて飛出したかも知れぬ。さあ事だ、事だ、飛んだ事だ。もう一度見ねばならない。と小洋燈こともしの心を繰上げて、荒々しく人形の被をめくり、とくと覗きて旧のように被を下ろし、「うむ、この方は何も別条は無い。やれこれで少しは安堵おちついた。それにしても下枝めはどうして失うせた知らん。婆々が裏切をしたのではあるまいか。むむ、何なんしろ一番糺明ただして見ようと、掌たなそこを高く打鳴らせば、ややありて得三の面前に平伏したるは、当家に飼殺しの飯炊にて、お録といえる老婆なり。

得三は声鋭く、「お録、下枝をどこへ遁にがした。と睨附ねめつくれば、老婆は驚きたる顔を上げ、「へい、下枝様さんがどうかなさいましたか、「しらばくれるない。きっと汝きさまが遁にがしたんだ。「いいえ、一向に存じません。「汝うぬ、言ッちまえ。「ちっとも存じません。「ようし、白状しなけりゃこうするぞ。と懐中より装弾たまごめしたる短銃ピストルを取出いだし、「打殺ぶちころすが可いか。とお録の心前むなさきに突附くれば、足下に踞うずくまりて、「何でそんな事をいたしましょう。旦那様が東京へいらっしゃってお留守の間も私わたくしはちゃんと下枝様の番をしておりました。縄は解いてやりましたけれども。「それ見ろ。そういう糞慈悲を垂れやあがる。我おれが帰るまで応うむといわなけりゃ、決けして下してやることはならないと、あれほど言置いて行ったじゃないか。「でもひいひい泣きまして耳の遠い私でも寝られませんし、それに主公あなた、二日もああして梁うつばりに釣上げて置いちゃあ死んでしまうじゃございませんか。「ええ! そんなことはどうでも可い。どこへ遁したか、それを言えッてんだ。「つい今の前さきも北の台へ見廻りに参りましたら、下枝様は平常いつもの通り、牢の内に僵たおれていましたのに、にわかに居なくなったとおっしゃるが、実まこととは思われません。と言解いいとく様の我を欺あざむくとも思われねば、得三は疑い惑い、さあらんには今しがた畦道あぜみちを走りし婦人おんなこそ、籠を脱けたる小鳥ならめ、下枝一たび世に出いでなば悪事の露顕は瞬く間と、おのが罪に責められて、得三の気味の悪さ。惨むごたらしゅう殺したる、蛇くちなわの鎌首ばかり、飛失せたらむ心地しつ立っても居ても落着かねば、いざうれ後を追懸けて、草を分けて探し出し、引摺ひきずって帰らんとお録に後を頼み置き、勝手口より出でんとして、押せども、引けども戸は開かず。「八蔵の馬鹿! 外から鎖じょうを下して行ゆく奴があるもんか。とむかばらたちの八ツ当り。

折から玄関の戸を叩きて、「頼む、頼む。と音訪おとなう者あり。聞覚えのある声はそれ、とお録内より戸を開けば、外おもてよりずっと入るは下男を連れたる紳士なりけり。こは高田駄平たかただへいとて、横浜に住める高利貸にて、得三とは同気相集る別懇の間柄なれば、非義非道をもって有名なだかく、人の活血いきちを火吸器すいふくべと渾名あだなのある男なり。召連れたる下男は銀平という、高田が気に入りの人非人。いずれも法衣ころもを絡まといたる狼ぞかし。

高田は得三を見て声をかけ、「赤城様さん、今晩は。得三は出迎いでむかえて、「これは高田様さんでございますか。まあ、こちらへ。と二階なる密室に導きて主客三人みたりの座は定まりぬ。高田は笑ましげに巻莨まきたばこを吹ふかして、「早速ながら、何は、令嬢は息災かね。「ええ、お藤の事でございますか、「左様さ、私の情婦いいひと、はははははは。と溶解とろけんばかりの顔色かおつきを、銀平は覗のぞきて追従ついしょう笑い、「ひひひひ。得三は苦笑いして、「藤は変った事はございません。御約束通り、今夜貴下に差進さしあげるが。……実は下枝ね。「ははあ。「あれが飛んだことになりました。「ふむ、死にましたろう。だから言わないことか、あんなに惨むごいことをなさるなと。とうとう責殺したね。非道ひどいことをしなすった。「いえ、死んだのならまだしも可いが、どうしてか逃げました。「なに! 遁にげたえ?「それで今捜しに出ようというところですて。「むむ、それはとんだ事だ。猶予をしちゃ不可いけません。あの嬢こが饒舌しゃべると一切の事が発覚ばれっちまう。宜しい銀平にお任せなさい。のう、銀平や、お前はそういうことには馴なれているから、取急いで探しておあげ申しな。と命いいつくれば得三も、探偵に窺うかがわるることを知りたれば、家を出でむは気懸りなりしに、これ幸さいわいと銀平に、「じゃ御苦労だが、願います。私どもは後にちっと用事があるから。といえば、もとより同穴ひとつあなの貉むじなにて、すべてのことを知るものなれば、銀平は頷うなずきて、「へい宜しゅうございます。下枝様がああいう扮装みなりのまま飛出したのなら、今頃は鎌倉中の評判になってるに違いありません。何をいおうと狂気きちがいにして引張ひっぱって参ります。血だらけのあの姿じゃ誰だって狂気ということを疑いません。旦那、左様なら、これから直ぐに。と立上るを得三は少時しばしと押止め、「例のな、承知でもあろうが、三日月探偵がこっちへ来ているから、油断のないように。と念を入るれば、「それは重々容易ならぬことだ。銀平しっかりやってくんな。と高田も言ことばを添えにける。銀平とんと胸を叩きて、「御配慮おきづかいなされますな。と気軽に飛出し、表門の前を足早に行懸ゆきかかれば、前途むこうより年少わかき好男子の此方こなたに来懸るにはたと行逢いけり。擦違うて両人斉ひとしく振返り、月明つきあかりに顔を見合いしが、見も知らぬ男なれば、銀平はそのまま歩を移しぬ。これぞ倉瀬泰助が、悪僕八蔵を打倒して、今しもここに来れるなりき。

九 破廂

泰助は昼来て要害を見知りたれば、その足にて直ぐと赤城家の裏手に行ゆき、垣の破目やれめを潜くぐりて庭に入りぬ。

目も及ばざる広庭の荒たきままに荒果てて、老松ろうしょう古杉こさん蔭暗く、花無き草ども生茂りて踏むべき路みちも分難わけがたし、崩れたる築山あり。水の洞かれたる泉水あり。倒れかけたる祠ほこらには狐や宿を藉かりぬらん、耳許みみもと近き木の枝にのりすれのりすれ梟ふくろうの鳴き連るる声いと凄すさまじ、木の葉を渡る風はあれど、塵ちりを清むる箒ははき無ければ、蜘蛛の巣ばかり時を得顔に、霞を織る様哀あわれなり。妖物ばけもの屋敷と言合えるも、道理ことわりなりと泰助が、腕拱こまぬきて彳たたずみたる、頭上の松の茂しげりを潜りて天より颯さっと射下す物あり、足許にはたと落ちぬ、何やらんと拾い見るに、白き衣切きぬぎれようのものに、礫いしこを一つ包みてありけり。押開きて月に翳かざせば、鮮々なまなましき血汐にて左さの文字もんじを認したためたり。

虐殺なぶりごろしにされようとする女が書きました。どうぞ、この家やの内から助け出して下さいまし。……書様の乱れたる字の形の崩れたる、筆にて運びし物にはあらじ。思うに指など喰い切りてその血をその手ににじり書き、句の終りには夥おびただしく血のぬらぬらと流れたるを見て、泰助はほろりと落涙せり。

これを投げたるは、下枝か、藤か。目も当てられぬことどもかな。いで我来れり、泰助あり、今夜の中うちに地獄より救い取りて、明日はこの世に出し参らせむ。そもいずくより擲なげうちたらんと高楼たかどのを打仰げど、それかと見ゆる影も無く、森々と松吹く風も、助けを呼びて悲しげなり。屹きっと心を取直し、丈に伸びたる夏草を露けき袖にて押分け押分けなお奥深く踏入りて忍び込むべき処もやと、彼方あなた此方こなたを経歴へめぐるに、驚くばかり広大なる建物の内に、住む人少なければ、燈ともしびの影も外おもてへ洩もれず。破廂やれびさしより照射入さしいる月は、崩れし壁の骨を照して、家内寂寞せきばくとして墓に似たり。ややありて泰助は、表門の方かたに出で、玄関に立向い、戸を推おして試むれば、固く内より鎖とざして開あかず。勝手口と覚しき処に行ゆきて、もしやと引けども同じく開かず。いかにせんと思いしが、ふと錠前に眼を着くれば、こは外より鎖せしなり。試みに袂たもとを探りて、悪僕より奪い置きたる鍵を嵌はむれば、きしと合いたる天の賜物たまもの、「占めた。」と捻ねじれば開ひらくにぞ、得たりと内へ忍び入りぬ。

暗闇を歩むに馴なれたれば、爪先探りに跫音あしおとを立てず。やがて壇階子だんばしごを探り当て、「これで、まず、仕事に一足踏懸けた。と耳を澄まして窺うかがえど、人の気附たる様子も無ければ、心安しと二階に上りて、壁を洩れ来る月影に四辺あたりを屹と見渡せば、長き廊下の両側に比々として部屋並べり。大方は雨漏に朽ち腐れて、柱ばかり参差しんしと立ち、畳は破れ天井裂け、戸障子も無き部屋どもの、昔はさこそと偲しのばるるが一ひい二ふウ三みいと数うるに勝たえず。遥はるか彼方に戸を閉じたる一室ひとまありて、燈火ともしびの灯影ほかげ幽かすかに見ゆるにぞ、要こそあれと近附きて、ひたと耳をあてて聞くに、人のあるべき気勢けはいもなければ、潜ひそかに戸を推して入込みたる、此室ここぞかの人形を置ける室なる。

垂れ下したる日蔽ひおおいは、これ究竟くっきょうの隠所かくれどころと、泰助は雨戸とその幕の間に、電いなずまのごとく身を隠しつ。と見れば正面の板床に、世に希有めずらしき人形あり。人形の前に坐りたる、十七八の美人ありけり。

泰助は呼吸いきを殺してその様を窺えば、美人は何やらむ深く思い沈みたる風情にて、頭こうべを低たれて傍目わきめもふらず、今泰助の入りたることは少しも心附かざりき。額襟許清らに見え、色いと白く肉置ししおき好よく、髪房やかに結いたるが、妖艶あでやかなることはいわむ方無し。美人は正坐に堪えざりけん、居坐いずまい乱して泣きくずおれ啜すすり上げつつ独言つぶやくよう、「ああ悪人の手に落ちて、遁にげて出ることは出来ず、助けて下さる人は無し。あの高田に汚けがされぬ先に、いっそこのまま死にたいなあ、お姉様あねさんはどう遊ばしたかしら、定めし私と同じ様に。と横に倒れて唯泣ひたなきに泣きけるが、力無げに起直り赤めたる眼を袖にて押拭おしぬぐいて、件くだんの人形に打向い、「人形や、よくお聞き。お前はね、死亡おなくなり遊ばした母様おっかさんに、よく顔が肖にておいでだから、平常いつも姉様ねえさんと二人して、可愛がってあげたのに、今こんな身になっているのを、見ていながら、助けてくれないのは情ないねえ、怨めしいよ。御覧な、誰も世話をしないから、この暑いのに綿の入った衣服きものを着ておいでだよ。私を旧もとのようにしておくれだったら、甘味おいしい御膳ごぜんも進あげようし、衣服も着換えさせますよ。お前のに綺麗な衣服を、姉様と二人で縫い上げて、翌日あすは着せてあげようと楽みにして寝た晩から、あの邪慳じゃけんな得三に、こうされたのはよく御存じでないかい。今夜は高田に恥かしめられるからさあ、どうかして下さいてばよう。ええ、これほどいうのに返事もしないかねえ。とひしと上﨟の腰に縋すがりて、口説きたるには、泰助も涙ぐみぬ。

美人はまた、「あれ堪忍して下さいましよ。貴女あなたは仮にも母様おっかさん、恨みがましいことを申して済みませんでした。でももう神様も、仏様も、妾わたしを助けて下さらないから、母様どうぞ助けて下さい。そうでなくば、私を殺して早うお傍そばに連れて行って下さいまし、よ、よ。と力一杯抱緊だきしめて、身を震わせば人形もともにわななくごとくなり。

泰助は見るに忍びず。いでまずこの嬢こを救い出いださん、家の案内は心得たれば背負うて遁げんに雑作は無しと幕を掲げて衝つと出でたり。不意に驚き、「あれ。と叫びて、泰助声をも懸けざるに、身を飜ひるがえして、人形の被かずきを潜くぐって入るよと見えし、美人は消えて見えずなりぬ。あまりの不思議に呆気に取られ、茫然として眼をぱちぱち、「不思議だ。不思議と泰助は、潜かに人形の被の端へ片手を懸けたる折こそあれ。部室へやの外おもてにどやどやと跫音あしおとして、二三人が来れる様子に、南無三宝飛び退すさりて再び日蔽の影に潜みぬ。

十 夫婦喧嘩

高田の下男銀平は、下枝を捜し出いださんとて、西へ東へ彷徨さまよいつ。巷ちまたの風説うわさに耳を聳そばだて、道行ゆく人にもそれとはなく問試むれど手懸り無し。南を指して走りしと得三の言いたれば、長谷はせの方かたに行きて見んと覚束おぼつかのうは思えども、比企が谷より滑川へ道を取って行懸り、森の中を通るとき、木の根を枕に叢くさむらに打倒れたる者を見たり。

時すがら悪き病疾やまいに罹かかれるやらむ、近寄りては面倒、と慈悲心無き男なれば遠くより素通りしつ。まてしばし人を尋ぬる身にしあれば、人の形をなしたる物は、何まれ心を注つくべきなり。と思い返して傍そばに寄り、倒れし男の面体を月影にてよく見れば、かねて知己ちかづきなる八蔵の歯を喰切くいしばりて呼吸いき絶えたるなり。銀平これはと打驚き、脈を押えて候うかがえば遥かすかに通う虫の呼吸、呼び活けんと声を張上げ、「八蔵、やい八蔵、どうしたどうした、え、八蔵ッ、と力任せに二つ三つ掴拳にぎりこぶしを撲くらわせたるが、死活の法にや協かないけん。うむと唸うめくに力を得て「やい、しっかりしろ。と励ませば、八蔵はようように、脾腹ひばらを抱えて起上り、「あ痛いつ、あ痛。……おお痛え、痛え、畜生非道ひどいことをしやあがる。と渋面つくりて銀平の顔を視ながめ、「銀平、遅かったわやい。「おらあすんでの事で俗名八蔵と拝もうとした。「ええ、縁起でもねえ廃止よしてくれ。物をいうたびに腹へこたえて、こてえられねえ。「全体どうしたんだ。八蔵は頭を掻かき掻きありし事ども物語れば、銀平は、驚きつまた便たよりを得つ、「ふむ、それでは下枝は滑川の八橋楼に居るんだな。「ああ、どうしてか紛れ込んだ。おらあ、窓から覗のぞいてたしかに見た。何とか工夫をして引摺り出そうと思ってる内に、泰助めが出懸ける様だから、早速跡を跟つけて、まんまと首尾よくぶっちめる処を、さんざんにぶっちめられたのだ。忌々いめえましい。「可よし一所に歩べ。行って下枝を連れて帰けえろう。「おっと心得た。「さあ行ゆこうぜ。「参りまする参りまする。何かと申すうちに、はやここは滑川にぞ着きにける。

八橋楼の亭主得右衛門は、黄昏時たそがれどきの混雑に紛れ込みたる怪しき婦人を、一室ひとまの内に寝やすませおき、心を静めさせんため、傍へは人を近附けず。時経たたば素性履歴を聞き糺ただし、身に叶うべきほどならば、力となりて得させむず、と性質うまれつきたる好事心。こうしてああしてこうして、と独りほくほく頷うなずきて、帳場に坐りて脂下やにさがり、婦人を窺うかがう曲者などの、万一もし入いり来きたることもやあらむと、内外に心を配りいる。

勝手を働く女房が、用事了しもうて襷たすきを外し、前垂まえだれにて手を拭き拭き、得衛の前へとんと坐り、「お前様さんどうなさる気だえ。「どうするって何をどうする。と空とぼければ擦寄って、「何をもないもんだよ。分別盛りの好い年をして、という顔色の尋常ただならぬに得右衛門は打笑い、「其方そなたもいけ年どしを仕つかまつってやくな。といえば赫かっとなり、「気楽な事をおっしゃいますな。お前様見たような人を怪我にも妬やく奴があるものか。「おや恐ろしい。何をそうがみがみいうのだ。「ああいう婦人おんなを宅うちへ置いてどんな懸合かかりあいになろうも知れませぬ。「その事なら放棄うっちゃッときな、おれが方寸にある事だ。ちゃんと飲込んでるよ。「だッてお前様、御主筋の落人ではあるまいし、世話を焼く事はござりませぬ。「お前こそ世話を焼きなさんな。「いいえ、ああして置くときっと庄屋様からお前を呼びに来て、手詰の応対、寅刻ななつを合図に首討って渡せとなります。「その時は例の贋首にせくびさ。「人を馬鹿にしていらっしゃるよ。「そうして娘は居ず、さしずめ身代みがわりにお前さね。「とんでもない。「うんや喜こばっし。「なぜ喜ぶの。「はて、あの綺麗首の代りにたてば、お前死んでも浮ばれるぜ。「ええ悔しい。「悔しい事があるものか。首実検に入れ奉る。死相変じてまッそのとおり、ははははは。「お前はなあ。「これ、古風なことをするな。呼吸いきが詰る、これさ。「鶏とりが鳴いても放しはしねえ。早く追い出しておしまいなさい。「水を打懸ぶっかけるぞ。「啖くらい附くぞ。「苦あ、痛、ほんとに啖くいついたな。この狂女きちがいめ、と振払う、むしゃぶりつくを突飛ばす。がたぴしという物音は皿鉢飛んだ騒動さわぎなり。

外おもてに窺うかがう、八蔵、銀平、時分はよしとぬっと入り、「あい、御免なさいまし。」

十一 みるめ、かぐはな

「はい、光来おいでなさいまし、何ぞ御用。と得右衛門居住い直して挨拶すれば、女房も鬢びんのほつれ毛掻き上げつつ静まりて控えたり。銀平は八蔵に屹きっと目注めくばせして己おのれはつかつかと入込いりこめば、「それお客様御案内と、得衛の知らせに女房は、「こちらへ。と先に立ち、奥の空室あきまへ銀平を導き行きぬ。道々手筈てはずを定めけむ、八蔵は銀平と知らざる人のごとくに見せ、その身は上口あがりくちに腰打懸け、四辺あたりをきょろきょろ見廻すは、もしや婦人を尋ねにかと得右衛門も油断せず、顔打守りて、「貴方は御泊おとまりではございませんか。と問えばちょっとは答せず、煙草たばこ一服思わせぶり、とんとはたきて煙管きせるを杖、「親方、逢わしておくんねえ。と異おつにからんで言懸くれば、それと察して轟とどろく胸を、押鎮めてぐっと落着き、「逢わせとはそりゃ誰に。亭主ならば私じゃ、さあお目に懸かかりましょ。と此方こなたも負けずに煙草をすぱすぱ。八蔵は肩を動ゆすってせせら笑い、「おいらが媽々かかが来ている筈、ちょいと逢おうと思って来た。「ふむ、してどんな御婦人だね。「ちと気が狂ふれて血相変り、取乱してはいるけれど、すらっとして中肉中脊、戦慄ぞっとするほど美いい女さ。と空嘯そらうそぶいて毛脛けずねの蚊をびしゃりと叩く憎体面にくていづら。かくてはいよいよかの婦人の身の上思い遣られたり、と得衛は屹きっと思案して、「それは大方門違い、私わしの代になってから福の神は這入はいっても狂人きちがいなどいう者は、門端かどばたへも寄り附きません。と思いの外の骨の強さ。八蔵は本音を吐き、「おい、可いい加減に巫山戯ふざけておけ。これ知るまいと思うても、先刻さっきちゃんと睨にらんでおいた、ここを這入って右側の突当つきあたりの部室へやの中に匿蔵かくまってあろうがな。と正面より斬って懸かかれば、ぎょっとはしたれど受流して、「居たらまた何とする。「やい、やい、馬鹿落着に落着おちつくない。亭主の許さぬ女房を蔵かくしておけば姦通まおとこだ。足許あしもとの明るい内に、さらけ出してお謝罪わびをしろと、居丈高に詰寄れば、「こりゃ可笑おかしい、お政府かみに税を差上げて、天下晴れての宿屋なら、他人ひとの妻でも妾めかけでも、泊めてはならぬ道理は無い。それとも其方そちの女房ばかりは、泊めるなという掟おきてがあるか、さあそれを聞きこうかい。と言われて八蔵受身になり、むむ、と詰りて頬脹ふくらし、「何さ、そりゃ此方こなたの商売じゃ、泊めたが悪いというではない。用があるから亭主の我おれが連れて帰るに故障はあるまい。といわれて否いやとは言われぬば、得衛もぐっと行詰りぬ。八蔵得たりと畳みかけて、「さあ、出して渡してくれ、否と言うが最後だ。とどっかと坐して大胡坐おおあぐら。得右衛門思い切って「居さえすれば渡して進ぜる、居おらぬが実じゃで断念あきらめさっし。と言わせも果てず眼を怒らし、「まだまだ吐ぬかすか面倒だ。踏み込んで連れて行ゆく、と突立上れば、大手を拡げ、「どっこい遣らぬわ、誰でも来い、家の亭主ここに控えた。「何をと、八蔵は隠し持ったる鉄棒を振翳ふりかざして飛懸とびかかれば、非力の得衛仰天して、蒼あおくなって押隔つれど、腰はわなわな気はあぷあぷ、困こうじ果てたるその処へ女房を前さきに銀平が一室ひとまを出でて駈かけ来りぬ。

銀平は何思いけん、勢いきおいに乗る八蔵を取って突除つきのけずいと立ち、「勾引かどわかしの罪人、御用だッ。と呼ばわれば、八蔵もまた何とかしけむ、「ええ、と吃驚びっくり身を飜ひるがえして、外おもてへ遁出にげだし雲を霞、遁がすものかと銀平は門口まで追懸け出で、前途ゆくてを見渡し独言ひとりごと、「素早い、野郎だ。取遁がした、残念々々と引返せば、得右衛門は興覚顔にて、「つい混雑に紛れまして、まだ御挨拶も申しません。貴下あなたは今しがた御着おつきになった御客様、さてはその筋の。と敬えば、銀平したり顔に打頷うちうなずき、「応うむ、僕は横須賀の探偵だ。」

遁げると見せかけ八蔵は遠くも走らず取って返し、裏手へ廻って墓所はかしょに入いり、下枝が臥ふしたる部室へやの前に、忍んで様子を窺うかがえり。

横須賀の探偵に早替りせる銀平は、亭主に向むかいて声低く、「実は、横須賀のさる海軍士官の令嬢が、江の島へ参詣さんけいに出懸けたまま、今もって、帰って来ない。と口より出任せの嘘を吐つけど、今の本事てなみを見受けたる、得右衛門は少しも疑わず。真に受けて、「なるほどなるほど。と感じ入りたる体なり。銀平いよいよ図に乗り、「ええ、それで必定てっきり誘拐かどわかされたという見込でな。僕が探偵の御用を帯びて、所々方々と捜している処だ。「御道理ごもっとも。「先刻さっきからの様子では、お前の処に誰か婦人を蔵匿かくまってある。それをば悪者が嗅かぎ出して、奪返しに来た様子だが。……と言いつつ亭主の顔を屹きっと見れば、鈍おぞや探偵と信じて得右衛門は有体に、「左様、その通り。実はこれこれの始末にて。と宵よりありし事柄を落も無くいうてのくれば、銀平はしてやったりと肚はらに笑みて、表面うわべにますます容体を飾り、「ははあ、御奇特の事じゃ、聞く処では年齢と言い、風体と言い、全く僕が尋ねる令嬢に違いない。いや、追ってその許に、恩賞の御沙汰これあるよう、僕から上申を致そう、たしかにそれが見たいものじゃが、というに亭主はほくほく喜び、見事善根をしたる所存、傍聞かたえぎきする女房を流眄しりめに懸けて、乃公だいこうの功名まッこのとおり、それ見たかといわぬばかり。あわれ銀平が悪智慧に欺あざむかれて、いそいそと先達して、婦人を寝やすませおきたる室へ、手燭てしょくを取って案内せり。

前には八蔵驚破すわといわばと、手ぐすね引きて待懸けたり。後うしろには銀平が手も無く得右衛門に一杯くわして、奪い行かむと謀はかりたり。わずかに虎口を遁のがれ来て、仁者の懐に潜みながら、毒蛇の尾にて巻かれたる、下枝が不運憐むべし。

十二 無理強迫

赤城家にては泰助が、日蔽ひおおいに隠れし処へ、人形室の戸を開きて、得三、高田、老婆お録、三人の者入来いりきたりぬ、程好き処に座を占めて、お録は携たずさえ来りたる酒と肴さかなを置排おきならべ、大洋燈おおランプに取替えたれば、室内照りて真昼のごとし。得三その時膝押向け、「高田様さん、じゃ、お約束通り証文をまいて下さい。高田は懐中より証書を出いだして、金一千円也と、書きたる処を見せびらかし、「いかにも承知は致したが、まだ不可いけません。なにしてしまったら、綺麗さっぱりとお返し申そうまずそれまでは、とまた懐へ納め、頤おとがいを撫なでている。「お録、それそれ。と得三が促し立つれば、老婆は心得、莞爾にこやかに高田に向いて、「お芽出度めでとう存じます。唯今ただいま花嫁御を。……と立上り、件くだんの人形の被かずきを掲げて潜くぐり入りしが、「じたばたせずにおいでなさい、という声しつ。今しがた見えずなりたる、美人の小腕こがいなを邪慳じゃけんに掴つかみて、身を脱のがれんと悶もだえあせるを容赦ようしゃなく引出ひきいだしぬ。美人は両手に顔を押えて身を縮すくまして戦おののきいたり。

得三これを打見遣り、「お藤、かねて言い聞かした通り、今夜は婿を授けてやるぞ。さぞ待遠であったろうの。と空嘯そらうそぶきて打笑えば、美人はわっと泣伏しぬ。高田はお藤をじろりと見て、「だが千円は頗すこぶる高直こうじきだ。「考えて御覧なさい。これ程の玉なら、潰つぶしに売ったって三年の年期にして四五百円がものはあります。それを貴下あなたは、初物をせしめるばかりか、生涯のなぐさみにするのだもの、こちらは見切って大安売だ。千円は安価やすいものだね。「それもそうじゃな。どれ、一つ杯を献さそう。この処ちょいとお儀式だ。と独り喜悦よがりの助平顔づら、老婆は歯朶はぐきを露むき出して、「直すぐと屏風びょうぶを廻しましょうよ。「それが可いい。と得三は頷うなずきけり。虎狼や梟に取囲まれたる犠牲いけにえの、生きたる心地は無き娘も、酷薄無道のこの談話はなしを聞きたる心はいかならむ。絶えも入るべき風情を見て、得三は叱るように、「おい、藤。高田様さんがお盃を下さる、頂戴しろ。これッ、人が物を言うに返事もしないか。と声荒らかに呼よばわりて、掴み挫ひしがん有様に、お藤は霜枯の虫の音ねにて、「あれ、御堪忍なさいまし。「何も謝罪あやまる事アねえ。機嫌よくお盃を受けろというのだ。ええ、忌々しい、めそめそ泣いてばかりいやあがる。これお録、媒灼人役なこうどやくだ。ちと、言聞かしてやんな。老婆は声を繕いて、「お嬢様、どうしたものでございますね。御婚礼のお目出度めでたいに、泣いていらしっちゃあ済すみません。まあ、涙を拭いて、婿様をお見上げ遊ばせ。どんなに優しいお顔でございましょう。それはそれは可愛がって下さいますよ、ねえ旦那様、と苦笑い、得三は「そうともそうとも。「ほんとに深切な御方っちゃアありません。不足をおっしゃては女冥利みょうりが尽きますによ。貴女あなたお恥かしいのかえ、と舐なめるがごとく撫廻せば、お藤は身体からだを固うして、頭かぶりを掉ふるのみ答いらえは無し。高田はわざと怒り出し、「へん、好いい面つらの皮だ。嫌否いやなものなら貰いますまい。女旱ひでりはしはしまいし。工手間くでまが懸かかるんなら破談にするぜ。と不興の体に得三は苛立いらだちて、「汝うぬ、渋太しぶとい阿魔だな。といいさまお藤の手を捉とらうれば、「あれえ。「喧やかましいやい。と白き頸うなじを鷲掴わしづかみ、「この阿魔、生意気に人好ごのみをしやあがる。汝うぬどうしても肯きかれないか。と睨附ねめつくれば、お藤は声を震わして、「そればっかりは、どうぞ堪忍して下さいまし。と諸手を合すいじらしさ。「応うむ、肯きかれないな。よし、肯かれなきゃあ無理に肯かすまでのことだ。して見せる事があるわい。というは平常いつもの折檻せっかんぞとお藤は手足を縮すくめ紛る。得三は腕まくりして老婆を見返り、「お録、一番責めなきゃ埒らちが明くめえ。お客の前で掙もき廻ると見苦しい、ちょいと手を貸してくれ。老婆はチョッと舌打して、「ても強情なお嬢こだねえ。といいさま二人は立上りぬ。高田は高見に見物して、「これこれ台無しにしては悪いぜ。「なあに、売物だ。面つらに疵きずはつけません。

泰助は、幕の蔭よりこれを見て、躍り出いでんと思えども、敵は多し身は単ひとつ、湍はやるは血気の不得策、今いうごとき情実なれば、よしや殴打おうだをなすとても、死に致す憂うれいはあらじ。捕縛してその後に、渠等かれらの罪を数うるには、娘を打たすも方便ならんか、さはさりながらいたましし、と出るにも出られずとつおいつ、拳こぶしに思案を握りけり。

得三はかねてかくあらんと用意したる、弓の折おれを振上ぐれば老婆はお藤の手を扼とりしばりぬ。はっしと撲うたれて悲鳴を上げ、「ああれ御免なさいまし、御免なさいまし。と後うしろへ反そり前へ俯ふし、悶もだえ苦しみのりあがり、紅くれない蹴返す白脛しらはぎはたわけき心を乱すになむ、高田駄平は酔えるがごとく、酒打ち飲みていたりけり。

十三 走馬燈

無慙むざんやなお藤は呼吸いきも絶々に、紅顔蒼白く変りつつ、苛責かしゃくの苦痛に堪えざりけん、「ひい、殺して下さい殺して。と、死を決したる処女おとめの心。よしやこのまま撲殺うちころすとも、随うべくも見えざれば、得三ほとんど責倦せめあぐみて、腕を擦さすりて笞しもとを休やめつ。老婆はお藤を突放せば、身を支うべき気力も失うせて、はたと僵たおれて正体無し。

得三は、といきを吐つきて高田に向い、「御覧の通りで仕様がありません。式作法には無いことだが、お藤の手足をふん縛じばって、そうして貴下あなたに差上げましょう、のう、お録、それが可いいじゃないか。「それが好ようございます。その後は活いかすとも殺すとも、高田様さんの御存分になさいましたら、ねえ旦那。といえば得三引取って、「ねえ高田様さん。駄平は舌舐したなめずりして、「慾よくにも得にももうとてもじゃわい。そうして貰いましょうよ。「では証文をな。「うう、承知、承知。ここに恐しき相談一決して、得三は猶予ゆうよなく、お藤の帯に手を懸けぬ。娘は無念さ、恥かしさ。あれ、と前褄まえづま引合して、蹌踉よろめきながら遁にげんとあせる、裳もすそをお録が押うれば、得三は帯際おびぎわ取って屹きっと見え。高田は扇を颯さっと開き、骨の間あいから覗のぞいて見る。知らせにつき道具廻る。

さても得右衛門は銀平を下枝の部屋いまに誘引いざないつ、「此室ここに寝さしておきました。と部屋の戸を曳開ひきあくれば、銀平の後うしろに続きて、女房も入って見れば、こはいかに下枝の寝床は藻脱もぬけの殻、主ぬしの姿は無かりけり。「や。「おや。「これは、と三人が呆れ果てて言葉も出でず。

銀平は驚きながら思うよう、亭主はあくまで探偵と、我を信じて疑わねば、下枝を別の部屋に蔵かくして、我を欺あざむくびょうもなし。こは必ず八蔵が何とかして便たよりを得て、前に奪い出だせるならん。さすれば我はこの家やに用無し。長居は無益むやくと何気無く、「これは、怪しからん。ふとすると先刻さっき遁失にげうせた悪漢わるものが小戻こもどりして、奪い取ったかも知れぬ、猶予する処でない。僕は直ぐに捜しに出るといわれて亭主は極きまり悪げに、「飛んだことになりました、申訳がございません。「なあに貴下あなたの落度じゃない、僕が職務の脱心ぬかりであった。いやしからば。と言い棄ててとつかわ外へ立出でて雪の下へと引返せば、とある小路の小暗き処に八蔵は隠れいつ、銀平の来かかるを、小手で招いて、「おい、ここだよ。」

お藤は得三の手籠てごめにされて、遂には帯も解け広がりぬ。こは悲しやと半狂乱、ひしと人形に抱いだき附きて、「おっかさん! と血を絞る声。世に無き母に救すくいを呼びて、取り縋すがる手を得三がもぎ離して捻ねじ上ぐれば、お録は落散る腰帯を手繰ってお藤を縛り附け、座敷の真中まんなかにずるずると、髷まげを掴つかんで引出ひきいだし、押しつけぬ。形怪しき火取虫いと大きやかなるが、今ほど此室ここに翔かけり来て、赫々かくかくたる洋燈ランプの周囲めぐりを、飛び廻めぐり、飛び狂い、火にあくがれていたりしが、ぱっと羽たたき火屋ほやの中へ逆さまに飛び入りつ、煽動あおりに消える火とともに身を焦してぞ失うせにけり。

颯さっと照射入さしいる月影に、お藤の顔は蒼あおうなり、人形の形は朦朧もうろうと、煙のごとく仄ほの見えつ。霊山に撞つく寺の鐘、丑満時うしみつどきを報つげ来こして、天地寂然しんとして、室内陰々たり。

かかりし時、いずくともなく声ありて、「お待ち! と一言ひとこと呼ばわり叫びぬ。

思いがけねば、得三等ら、誰たそやと見廻す座敷の中うちに、我々と人形の外には人に肖にたらむ者も無し。三人奇異の思いをなすうち、誰たが手を触れしということ無きに人形の被かずきすらりと脱け落ちて、上﨟じょうろうの顔かんばせ顕あらわれぬ。啊呀あなやと顔を見合す処に、いと物凄き女の声あり。「無法を働く悪人等ども、天の御罰ごばちを知らないか。そういう婚姻は決してなりません。」

幕の内なる泰助さえ、この声を怪しみぬ。前にも既に説いうごとく、この人形は亡き母として姉妹あねいもとが慕い斉眉かしずく物なれば、宇宙の鬼神感動して、仮に上﨟の口を藉かりかかる怪語を放つらんと覚えず全身粟生あわだてり。まして得三高田等は、驚き恐れつ怪しみて、一人立ち、二人立ち、次第に床の前へ進み、熟じっと人形を凝視みつめつつ三人みたりは少時しばらく茫然たり。

機ときこそ来たれ。と泰助が、幕を絞って顕あらわれたり。名にし負う三日月の姿をちらと見せるとおもえば、早くもお藤を小脇に抱いだき、身を飜ひるがえして部屋を出でぬ。まことに分秒電火の働き、一散に下階したへ駈下かけおりて、先刻忍びし勝手口より、衝つと門内に遁のがれ出づれば、米利堅産種メリケンだねの巨犬おおいぬ一頭、泰助の姿を見て、凄すさまじく吠え出いだせり。

南無三、同時に轟然一発、頭こうべを覗ねらって打出す短銃ピストル。

幸い狙いは外それたれど泰助はやや狼狽ろうばいして、内より門を開けんとすれば、跫然きょうぜんたる足音門前に起りて、外よりもまた内に入らんとするものありけり。

泰助蒼くなりて一足退さがれば、轟然たり、短銃の第二発。

いとも危うく身を遁れて、泰助は振返り、屹きっと高楼たかどのを見上ぐれば、得三、高田相並んで、窓より半身を乗出のりいだし、逆落さかおとしに狙う短銃の弾丸たまは続いて飛来らん。その時門の扉を開きて、つッと入るは銀平、八蔵、連立ちて今帰れるなり。

さすがの泰助も度を失いぬ。

短銃の第三発轟然。

十四 血の痕

贋探偵の銀平が出去いでさりたる後、得右衛門はなお不審晴れ遣らねば、室いまの内を見廻みめぐるに、畳に附たる血の痕あとあり。一箇処のみか二三箇処。ここかしこにぼたぼたと溢こぼれたるが、敷居を越して縁側より裏庭の飛石に続き、石燈籠の辺あたりには断えて垣根の外にまた続けり。こは怪あやしやと不気味ながら、その血の痕を拾い行ゆくに、墓原を通りて竹藪たけやぶを潜くぐり、裏手の田圃たんぼの畦道あぜみちより、南を指して印されたり。

一旦助けんと思い込みたる婦人おんななれば、このままにて寐入ねいらんは口惜し。この血の跡を慕い行かばその行先を突留め得べきが、単身ひとりにては気味悪しと、一まず家に立帰りて、近隣の壮佼わかものの究竟くっきょうなるを四人ばかり語らいぬ。

各々興ある事と勇み立ち、読本よみほんでこそ見たれ、婦人といえば土蜘蛛つちぐもに縁あり。さしずめ我等は綱、金時、得右衛門の頼光らいこうを中央まんなかにして、殿しんがりに貞光さだみつ季武すえたけ、それ押出せと五人にて、棍棒よりぼう、鎌など得物を携え、鉢巻しめて動揺どよめくは、田舎茶番と見えにけり。

女房は独り機嫌悪く、由緒よしなき婦人おんなを引入れて、蒲団ふとんは汚れ畳は台無し。鶏卵たまごの氷のと喰べさせて、一言ひとことの礼も聞かず。流れ渡った洋犬かめでさえ骨一つでちんちんお預あずけはするものを。おまけに横須賀の探偵とかいう人は、茶菓子を無銭ただでせしめて去いんだ。と苦々しげに呟つぶやきて、あら寝ねむたや、と夜着引被ひっかつぎ、亭主を見送りもせざりける。

得右衛門を始めとして四人よつたりの壮佼わかものは、茶碗酒にて元気を養い一杯機嫌で立出でつ。惜しや暗夜やみなら松明たいまつを、点ともして威勢は好よからんなど、語り合いつつ畦伝い、血の痕を踏んで行く程に、雪の下に近づきぬ。金時真先まっさきに二の足踏み、「得右衛門もう帰ろうぜ。と声の調子も変になり、進みかねて立止まれば、「これさお主ぬしはどうしたものだ。と言い励す得右衛門。綱は上意を承り、「親方、大人気無い、廃止よしにしましょう。余所よそなら可いいが、雪の下はちと、なあ、おい。と見返れば貞光が、「そうだともそうだとも、もうかれこれ十二時だろう。という後しりにつき季武は、「今しがた霊山の子刻ここのつを打った、これから先が妖物ばけものの夜世界よ。と一同に逡巡しりごみすれば、「ええ、弱虫めら何のこれたかが幽霊だ。腰の無い物なら相撲を取ると人間の方が二本足だけ強身だぜ。と口にはいえど己おのれさえ腰より下は震えけり。金時は頭こうべを掉ふり、「なに鬼や土蜘蛛なら、糸瓜へちまとも思わねえ。「己おれもさ、狒々ひひや巨蛇うわばみなら、片腕で退治て見せらあ。「我おいらだって天狗の片翼を斬って落すくらいなら、朝飯前だ。「ここにも狼の百疋は立処に裂いて棄てる強者つわものが控えておると、口から出任せ吹き立つるに、得右衛門はあてられて、「豪気々々えらいえらい、その口で歩行あるいたら足よりは達者なものだ。さあ行ゆこうかい。といえばどんじりの季武が、「ところが、幽霊は大嫌否きらいさ。「弁慶も女は嫌否かッ。「宮本無三四むさしは雷らいに恐れて震えたという。「遠山喜六という先生は、蛙を見ると立竦たちすくみになったとしてある。

「金時ここにおいてか幽霊が大禁物。「綱もすなわち幽霊れこには恐れる。といわれて得右衛門大きに弱り、このまま帰らんは余り腑甲斐ふがい無し、何卒なにとぞして引張り行かん。はて好い工夫はおっとある。「どうだ。一所に交際つきあってくれたら、翌日あすとは言わず帰り次第藤沢(宿場女郎の居る処)を奢おごってやるが、と言えば四人よつたり顔見合わせ、「なるほどたかの知れた幽霊だ。「この中に人を殺したものは無いから、まず命に別条はあるまい。「むむ、背負おぶってくれがちと怪しいが、「ままよ行ゆこうか、「おう。「うむ。と色で纏まとまる壮佼等わかものども、よしこの都々逸どどいつ唱い連れ、赤城の裏手へ来たりしが、ここにて血の痕あと途断とぎれたり。

得右衛門立停たちどまって四辺あたりを見廻し、「皆待ったり。この家はどうやら、例の妖物ばけもの屋敷らしいが、はてな。して見るとあの婦人おんなも化生けしょうのものであったか知らん。道理で来てから帰るまで変なことずくめ、しかし幽霊でも己おれが一廉いっかどの世話をしてやったから、空あだとは思うまい。何のせいだかあの婦人おんなは、心から可愛かわゆうて不便ふびんでならぬ。今じゃ知己ちかづきだから恐しいとも思わぬわい。おい、おらあ、一番表へ廻って見て来るから、一所に来い。といえども一人として応ずる者無し。「そんなら待っていろ、どれ、幽霊に逢うて来ましょ。と得右衛門ただ一人、板塀を廻って見えずなりぬ。

四人の壮佼は、後に残りて、口さえもよう利かれず。早夜よは更けて、夏とはいえど、風冷々ひやひやと身に染みて、戦慄ぞっと寒気のさすほどに、酔えいさえ醒さめて茫然と金時は破垣やれがきに依懸よりかかり、眠気つきたる身体からだの重量おもみに、竹はめっきと折れたりけり。そりゃこそ出たぞ、と驚き慌て、得右衛門も待ち合えず、命からがら遁帰りぬ。

十五 火に入る虫

短銃ピストルの筒口に濃き煙の立つと同時に泰助が魂消たまざる末期の絶叫さけび、第三発は命中せり。

渠かれは立竦たちすくみになりてぶるぶると震えたるが、鮮血なまちたらたらと頬に流れつ、抱いだきたるお藤をどうと投落して、屏風びょうぶのごとく倒れたり。

それと見て駈け寄る二人の悪僕、得三、高田、お録もろとも急ぎ内より出で来りぬ。高田はお藤を抱き上げて、「おお、可哀相にさぞ吃驚びっくりしたろう、すんでのことで悪漢わるものが誘拐かどわかそうとした。もう好よいわい、泣くな泣くな。と背せな掻撫かいなでて助いたわれば、得三もほっと呼吸いき、「あ、好かった。何者だ、大胆な、人形が声を出したのに度胆を抜かれた処へ幕の後うしろから飛出しゃあがって、ほんとに驚いたぜ。お録、早く内へ連れて行ゆきな。「へい承かしこまりました。と高田の手よりお藤を抱取り肩に掛けて連れて行く。

「まず、安心だ。うん八蔵帰けえったか、それその死骸しがいの面つらを見いと、指図に八蔵心得て叢中くさむらなかより泰助を引摺ひきずり出し、「おや、此奴こいつあ探偵だ。我おれを非道ひどい目に逢わしゃあがった。「何、どうしたと、殺やり損そくなって反対あべこべに当身あてみを喰くらった。それだから虚気うっかり手を出すなと言わねえことか。や、銀平殿お前もお帰りか。「はい、旦那唯今。「うむ、御苦労、なに下枝様さんはどうじゃ。「早速ながら下枝奴めは知れましたか。と二人斉ひとしく問懸くれば、銀平、八蔵交代かたみがわりに、八橋楼にての始末を語り、「それでね、いざという段になって部屋へ這入ると御本人様さんどこへ消えたか見えなくなりました。これは八蔵殿どんが前さきへ廻って連出したのかと思った処が、のう八蔵殿。「おおさ、己おれも墓場の方で、銀平様さんの合図を待ってましたが、別に嬢様の出て来る姿を見附けませんで、「もうもう尋飽倦たずねあぐみまして、夜よも更けますし、旦那方の御智慧を借りようと存じましてひとまず帰りました。というに得三頭こうべを傾けやや久しく思慮かんがえいたるが、それにて思い当りたり。「して見ると下枝はまた家内うちへ帰って来たかも知れぬ。というのは、今しがた誰も居ないのに声が懸かかって、人形が物を言うていこたあ無い筈だと思ったが、下枝の業わざであったかも知れぬわい。待て、一番ひとつ家内うちを検しらべて見よう。その死骸はな、よく死んだことを見極めて、家内うちの雑具部屋へ入れておけ。高田様さん、貴下あなたも御迷惑であろうが手伝って下枝を捜して下さい。探偵は片附けてしまったト、これで下枝さえ見附ければ、落着いてお藤が始末も附けます。と高田を誘いざない内に入いりぬ。

八蔵は泰助に恨うらみあれば、その頭蓋骨は砕かれけん髪の毛に黒血凝かたまりつきて、頬より胸に鮮血なまち迸ほとばしり眼を塞ぎ歯を切しばり、二目とは見られぬ様にて、死しおれるにもかかわらず。なお先刻の腹癒はらいせに、滅茶々々に撲なぐり潰つぶさんと、例の鉄棒を捻ひねる時、銀平は耳を聳そばだてて、「待て! 誰か門を叩くぜ。八蔵はよくも聞かず、「日が暮ると人ッ子一人通らねえこの辺だ。今時誰が来るもんか。といううち門の戸を丁とん、丁、丁、「お頼み申す。という声あり。

八蔵は急いで鉄棒押隠し、「いかさま、叩くわ。「探偵の合棒でも来はしねえか。己おらあ見て来る、死骸を早く、「合点だ。と銀平は泰助の死骸を運び去りつ。八蔵は門の際に到り、「誰だね。「へい私。「へい私では解らないよ。夜夜中けたたましい何の用だ。戸外おもてにて、「ええ、滑川の者ですが、お家うちへ婦人おんなが入って来はしませんかい。八蔵は聞覚えあるたしかに得右衛門の声なれば、はてなと思い、「どんな女だ。「中肉中脊、凄いほど美いい婦人おんな。と聞いて八蔵心可笑おかしく、「その様な者は来ない、何ぞまた此家ここへ来たという次第わけでもあるのか。「私どもの部屋から溢こぼれて続いてる血の痕が、お邸の裏手で止まっております。

さては下枝は得三が推量通り、再び帰りしに相違なからん。それはそれにて可いとして、少時しばらくなりとも下枝を蔵匿かくまいたる旅店の亭主、女の口より言い洩もらして主人を始め我おれまでの悪事を心得おらんも知れず。遁にがしはやらじ、とやにわに門の扉を開けて、むずと得右衛門の手を捉え、「婦人おんなは居るから逢わしてくれる、さあ入れ。と引入れて、門の戸はたと鎖さしければ、得右衛門はおどおどしながら、八蔵を見て吃驚びっくり仰天、「やあ此方こなたは先刻さっきの、「うむ、用があるこっちへ来いと、力任せに引立ひったてられ、鬼に捕とらるる心地して、大声上げて救いを呼べど、四天王の面々はこの時既に遁げたれば、誰も助くる者無くて、哀あわれや擒とりことなりにけり。

十六 啊呀!

今は悪魔ばかりの舞台となりぬ。磨ぎ清すましたる三日月は、惜しや雲間に隠れ行ゆき、縁ゆかりの藤の紫は、厄難いまだ解けずして再び奈落に陥りつ、外より来きたれる得右衛門も鬼の手に捕られたり。さてかの下枝はいかならん。

さるほどに得三は高田とともに家内うちに入いり、下枝は居おらずや見えざるかと、あらゆる部屋を漁あさり来て、北の台の座敷牢を念のため開き見れば、射込む洋燈ランプの光の下に白く蠢うごめくもののあるにぞ、近寄り見れば果せるかな、下枝はここにぞ発見みだされたる。

かばかり堅固なる囲かこいの内よりそもいかにして脱け出でけん、なお人形の後うしろより声を発いだして無法なる婚姻を禁とどめしも、汝なんじなるか。と得三は下枝に責め問い、疑うたがいを晴さんと思うめれど、高田はしきりに心急ぎて、早くお藤の方かたをつけよ。夏とはいえど夜は更けたり。さまでに時刻後おくれては、枕に就くと鶏とりうたわむ、一刻の価値あたい千金と、ひたすら式を急ぐになん。さはとて下枝を引起して、足あらばこそ歩みも出いでめ、こうして置くにしくことあらじ。人に物を思わせたる報酬むくいはかくぞと詈ののしりて、下枝が細き小腕こがいなを後手に捻ねじ上げて、縛いましめんとなしければ、下枝は糸よりなお細く、眼を見開きて恨うらめしげに、「もう大抵に酷ひどうしたが好ようござんしょう。坐っている事も出来ぬように弱り果てた私の身体からだ、どこへも参りは致しませぬ。といえば得三冷笑あざわらい、「その手はくわぬわ。また出て失うしょうと思いやあがって、へん、そう旨くはゆかないてや、ちっとの間まの辛抱だ。後刻のちに来て一所に寝てやる。ふむ、痛いか様ざまを見ろ。と下枝の手を見て、「おや、右の小指をどうかしたな、こいつは一節切ってあらあ。やい、どこへ行って指切断きりをして来たんだ。と問いかかるを高田は押止め、「まあまあ、そんな事ア何時でも可いいて。早く我おれの方を、「はて、せわしない今行きます。と出血休やまざる小指の血にて、我掌わがてのひらの汚けがれたるにぞ、かっぷと唾を吐き懸けて、下枝の袖にて押拭い、高田と連立ち急がわしく、人形室に赴きぬ。後より八蔵入来り、こうこういう次第にて、八橋楼の亭主を捕とらえ、一室ひとまに押込め置きたるが、というに得三頷うなずきて、その働はたらきを誉ほめそやし、後にて計らうべき事あり。そのままにして置きて、銀平と勝手にて酒を飲んで寛くつろげ。と八蔵を去いなして手を打鳴し、「録よ、お録。と呼び立つれど、老婆は更に答いらえせねば、「はてな、お録といえば先刻さっきから皆目姿を見せないが、ははあ、疲れてどこかで眠ったものと見える。老年としよりというものはええ! 埒らちの明かぬ。と呟つぶやきつつ高田に向い、「どうせ横紙破りの祝言だ。媒灼なこうども何も要った物ではない。どれ、藤を進あげますから。と例の被かずきを取除とりのくれば、この人形は左の手にて小褄こづまを掻取かいどり、右の手を上へ差伸べて被を支うるものにして、上げたる手にて飜ひるがえる、綾羅りょうらの袖の八口やつくちと、〆めたる錦にしきの帯との間に、人一人肩をすぼむれば這入らるべき透間あり。そこに居て壁を押せば、縦三尺幅四尺向うへ開く仕懸しかけにて、すべての機械は人形に、隠るる仕方巧みにして、戸になる壁の継目など、肉眼にては見分け難し。得三手燭てしょくにてこの仕懸を見せ、「平常ふだんは鎖じょうを下してお藤を入れておくが、今晩は貴下あなたに差上げるので、開けたままだ。こちらへお入り。と先に立ちて行く後より、高田も入りて見るに、壁の彼方うらにも一室あり。畳を敷くこと三畳ばかり。「いいちょんの間まだ。と高田がいえば、得三呵々からからと打笑いて、「東京の待合にもこれ程の仕懸はあるまい。といいつつ四辺あたりを見廻すに、今しがた泰助の手より奪い返してお録に此室ここへ入れ置くよう、命いいつけたりしお藤の姿、またもや消えて見えざりければ、啊呀あなやとばかり顔色がんしょく変じぬ。

高田は太いたく不興して、「令嬢はどうしました。え、お藤様さんはどうしたんです。とせきこむにぞ、得三は当惑の額を撫で、「いやはや、お談話はなしになりません。藤が居なくなりました。高田は顔色変え、「何だ、お藤が居なくなったと?「この通り、この室より外に入れて置く処はない。実に不思議でなりません。とさすがの得三も呆れ果てて、悄しおれ返れば高田は勃然むっとして、「そういうことのあろう道理は無い。ふふん、こりゃにわかにあの娘が惜しくなったのだな。「滅相な。「いや、それに違いありません。隠して置いて、我おれを欺あざむくのだ。「と思召おぼしめすのも無理ではない。余り変で自分で自分を疑う位です。先刻さっきから見えぬといい、あるいは婆々奴めが連れ出しはしないかと思うばかりで、それより他ほかに判断の附様つけようがございません。早速探し出しますで、今夜の処は何分にも御猶予を願いたい。と腰を屈かがめ、揉手もみでをして、ひたすら頼めどいっかな肯きかず、「なんのかのと、体の可いことを言うが、婆々と馴なれ合ってする仕事に極まった。誰だと思う、ええ、つがもねえ、浜で火吸器すいふくべという高田駄平だ。そんな拙策あまてを喰う者か。「まあまあそう一概におっしゃらずに、別懇の間に免じて。「別懇も昨今もあるものか。可よし我おれもたってお藤を呉れとは言わぬ。そん代でえに貸した金千円、元利揃えてたった今貰おうかい。と証文眼前めさきに附着くれば、強情我慢の得三も何と返さん言葉も無く困こうじ果ててぞいたりける。

十七 同士討

高田はなおも詰寄りて、「妖物ばけもの屋敷に長居は無益むやくだ。直ぐ帰るから早く渡せ。「そりゃ借りた金だ抵当のお藤が居なくなれば、きっとお返済かえし申すが、まだ家の財産も我が所有ものにはならず、千円という大金、今といっては致方がございません。どうぞ暫時しばらくの処を御勘弁。「うんや、ならねえ。この駄平、言い出したからは、血を絞っても取らねば帰らぬ。きりきりここへ出しなさい。と言い募るに得三は赫かっとして、「ここな、没分暁漢わからずや。無い者ア仕方がねえ。と足を出せば、「踏む気だな、可いいわ。踏むならば踏んで見ろ。おおそれながらと罷まかり出て、汝きさまの悪事を訴えて、首にしてやる覚悟しやあがれ。得三はぎょっとして、「何の、踏むなどという図太い了簡りょうけんを出すものか。と慌つる状さまに高田は附入つけいり、「そんなら金を、さあ返済かえせ。「今といっては何ともどうも。「じゃ訴えて首にしようか。「それはあんまり御無体な。「ええ! 面倒だ。と立懸たちかかれば、「まあ、待ってくれ。と袂たもとを取るを、「乞食め、動くな。と振離され、得三たちまち血相変り、高田の帯際むずと掴つかみて、じりじりと引戻し、人形の後うしろの切抜戸を、内よりはたと鎖とざしける。

何をかなしけむ。壁厚ければ、内の物音外へは漏れず。

ややありて戸を開き差出さしいだしたる得三の顔は、眼まなこ据って唇わななき、四辺あたりを屹きっと見廻して、「八蔵、八蔵、と呼懸けたり。八蔵は入来りぬ。得三は声を潜め、「八、ちょっとここへ来い。「へい、何、何事でございます。と人形の袖を潜くぐって密室の戸口に到れば、得三は振返って後うしろを指ゆびさし、「これを。……八蔵は覗のぞき込みて反そり返り「ひゃっ、高田様さんが自殺をしたッ。と叫ぶを、「叱しっ! 声高しと押止めて、眼を見合わせ少時しばらく無言だんまり、この時一番鶏の声あり。

得三は片頬かたほに物凄き笑えみを含みて、「八蔵。という顔を下より見上げて、「へい。「お前にもそう見えるかい。「何な、何な、何なにが。「いやさ。高田の死骸は自殺と見えるか。「へい。自分で短刀の柄つかを握ってそして自分の喉のどを突いてれば誰が見ても全く自殺。「応うむ、たしかにそう見える。が、実は我おれが殺したのだ。「ええ、お殺やんなすったか。「突然藤が居なくなったぞ。八、先刻さっきからお録は見懸けまいな。「へい、あの婆様ばあさんはどこへ行ったか居りません。「そうだろう。彼奴あいつもしたたか者だ。お藤を誘拐かどわかして行ったに違いない。あの嬢こはまだ小児こどもだ。何にも知らないから可よし、老婆ばばあも、我等おれらと一所に働いた奴だ。人に悪事は饒舌しゃべるまい。惜くも無し、心配も無いが、高田の業突張ごうつくばり、大層怒ってな。お藤がなくなったら即金で千円返せ、返さなけりゃ、訴えると言い募って、あの火吸器すいふくべだもの、何というても肯くものか。すんでに駈出そうとしやあがる。ままよ毒喰わば皿迄と、我おれが突殺したのだ。「それは好ようございました。「すると奴やっこさん苦しいものだから、拳こぶしでしっかりとこの通り短刀どすの柄を握ったのよ。「体の可い自殺でございますね。「そうよ。そこで己おれが旨い事を案じついたて。これからあの下枝を殺してさ。「下枝様さんを。「三年以来このかた辛抱して、気永に靡なびくのを待っていたが、ああ強情では仕様が無ねえ。今では憎さが百倍だ。虐殺なぶりごろしにして腹癒はらいせして、そうして下枝の傍そばに高田の死骸を僵たおして置く。の、そうすれば誰が目にも、高田が下枝を殺して、自殺をしたと見えるというものだ。何と可い工夫であろうが。」

さりとは底の知れぬ悪党なり。八蔵は手を拍うって「旨い。と叫べり。「そうして己おれが口の前さきで旨く世間を欺あざむけば、他ほかに親類は無し、赤城家の財産はころりと我おれが手へ転がり込む。何と八蔵そうなる日にはお前に一割は遣るよ。「ええ難有ありがたい、夢になるな夢になるな。「もうこれッ切り御苦労は懸けないが、もう一番ひとつ頼まれてくれ。「へい、何なりとも。「銀平はどうした。「しきりに飲んでおります。「彼奴あいつも序ついでに片附けてしまいたい、家でやっては面倒だから、これから飲直すといって連出してな。「へいへい、なるほど。「どこかへ行って酒を飲まして、ちょいと例の毒薬を飲ましゃあ訳は無い、酔って寝たようになって、翌日あすの朝はこの世をおさらばだ。「承かしこまりました。しかし今時青楼おちゃやで起きていましょうか。「藤沢の女郎屋は遠いから、長谷はせあたりの淫売店じごくやどへ行けば、いつでも起きていらあ、一所にお前も寝て来るが可い。「じゃあ直ぐと参ります。「御苦労だな。「なんの貴下あなた。と行懸くるを、「待て、待て。「え。「宿屋の亭主とかはどうしたのだ。「手足を縛って猿轡さるぐつわを噛かまして、雑具部屋へ入れときました。「よし、よし。仕事が済んだら検しらべて見て大抵なら無事に帰してやれ。「へい左様なら。と八蔵は勝手に行きて銀平を見れば、「八、やい、置去りにしてどこへ行っていた。というさえ今は巻舌にて、泥のごとくに酔うたるを、飲直さむとて連出しぬ。

十八 虐殺

得三は他に一口ひとふりの短刀かいけんを取り出いだして、腰に帯び、下枝を殺さんと心を決さだめて、北の台に赴き見れば、小手高う背そびらに捻ねじて縛いましめて、柱に結え附け置きたるまま、下枝は膝に額を埋うずめ、身動きもせでいたりけり。

「約束通り寝に来た。と肩に手を懸け引起し、移ろい果てたる花の色、悩める風情を打視うちながめ、「どうだ、切ないか。永い年月よく辛抱をした。豪えらい者だ。感心な女だ。その性根にすっかり惚れた。柔順すなおに抱かれて寝る気は無いか。と嘲弄ちょうろうされて切歯はがみをなし、「ええ汚らわしい、聞とうござんせぬ。と頭かぶりを掉ふれば嘲笑あざわらい、「聞きとうのうても聞かさにゃ置かぬ、もう一度念のためだが、思い切って応うむといわないか。「嫌否いやですよ。「そうか、淡々あっさりとしたものだ。そんならこっちへ来な。好い者を見せてやる。立て、ええ立たないか。「あれ。と下枝は引立られ、殺気満ちたる得三の面色、こは殺さるるに極きわまったりと、屠所としょの羊のとぼとぼと、廊下伝いに歩は一歩、死地に近寄る哀れさよ。蜉蝣ふゆうの命、朝あしたの露、そも果敢はかなしといわば言え、身に比べなば何かあらむ。

閻王えんおうの使者に追立てられ、歩むに長き廻廊も死しにに行ゆく身はいと近く、人形室に引入れられて亡き母の存生いまそかりし日を思い出し、下枝は涙さしぐみぬ。さはあれ業苦の浮世を遁のがれ、天堂に在おわす御傍おんそばへ行くと思えば殺さるる生命いのちはさらさら惜からじと、下枝は少しも悪怯わるびれず。その時得三下枝をば、高田の傍かたえに押据えつ、いと見苦しき死様を指さしていいけるは、「下枝見ろ、この顔色つらつきを。殺されるのはなかなか一通りの苦しみじゃないぜ、それもこう一思いに殺ればまだしもだが、いざお前を殺すという時には、これ迄の腹癒はらいせに、かねても言い聞かした通り、虐殺なぶりごろしにしてやるのだ。可いいか、それでも可いか。これと、肩を押えてゆすぶれば、打戦うちわななくのみ答いらえは無し。「それからまだある。この男と、お前と、情死しんじゅうをした様にして死恥を曝さらすのだ。どうだ。どうだ。下枝は恨めしげに眼を睜みはり、「得三様さん、あんまりでございます。「下枝様さん、貴嬢あなたも余り強情でございます。それが嫌否いやなら悉皆しっかい財産を我おれに渡して、そうして⦅得三様さん、貴下あなたは可愛いねえ。⦆とこういえば可い。それは出来ないだろう。やっぱり、斬られたり、突かれたりする方が希望のぞみなのか、さあ何と。と言わるるごとにひやひやと身体からだに冷たき汗しっとり、斬刻きりきぎまるるよりつらからめ。猛獣犠牲いけにえを獲えて直ぐには殺さず暫時しばらくこれを弄もてあそびて、早慊あきたりけむ得三は、下枝をはたと蹴返せば、苦あっと仰様のけざまに僵たおれつつ呼吸いきも絶ゆげに唸うめきいたり。「やい、婦人おんな、冥途めいどの土産に聞かしてやる。汝きさまの母親はな。顔も気質きだても汝きさまに肖にて、やっぱり我おれの言うことを聞かなかったから、毒を飲まして得三が殺したのだ。下枝は驚きに気力を復して、打震えて力無き膝立直して起き返り、「怪しき死様しによう遊ばしたが、そんなら得三、おのれがかい。「おう、我おれだ。驚いたか。「ええ憎らしいその咽喉のどへ喰附いてやりたいねえ。「へ、へ、唇へ喰附いて、接吻キッスならば希望のぞみだが、咽喉へは真平御免蒙こうむる。どれ手を下ろして料理りょうろうか。と立懸たちかかられて、「あれえ、人殺し。と一生懸命、裳もすそを乱して遁にげ出づれば、縛いましめの縄の端を踏止められて後居しりいに倒れ、「誰ぞ助けて、助けて。と泣声嗄からして叫び立つれば、得三は打笑い、「よくある奴だ。殺して欲いの死にたいのと、口癖にいうていて、いざとなるとその通り。ても未練な婦人おんなだな。「いえ、死にとうない、死にとうない。親を殺した敵かたきと知っては、私ゃ殺されるのは口惜くちおしい。と伏しつ転まろびつ身をあせりぬ。

得三は床柱を見て屈竟と打頷うちうなずき、やにわに下枝を抱いだき寄せ、「踠もがくな。じっとしておれ。とかの人形と押並べて、床柱へぐるぐる巻きに下枝の手足を縛り附け、一足退すさって突立つったちたり。下枝は無念さ遣る方なく、身体からだを悶もだえて泣き悲しむを寛々ゆるゆると打見遣り、「今となっては汝きさまの方から随したがいます、財産も渡しますと吐ぬかしても許しはせぬ。と言い放てば、下枝は顔に溢こぼれかかる黒髪を颯さっと振分け、眼まなこ血走り、「得三様さん、どうしても殺すのか。という声いとど、裏枯れたり。「うむ、虐殺なぶりごろしにするのだ。「あれえ。「何だ、まだびくびくするか、往生際の見苦しい奴だ。「そんならどうでも助からぬか、末期いまわの際に次三郎様さんにお目に懸かかって、おのれの悪事をお知らせ申し敵かたきが討って貰いたい。と泣き入る涙も尽き果てて血をも絞らむばかりなり。「次三もな我おれが命いいつけて、八蔵が今朝毒殺したわい。「ええあの方まで殺したのか。御方の失うせさせたまいし上は、最早この世に望みは無し、と下枝は落胆がっかり気落ちして、「もう聞とうない、言とうない。さあお殺し。と口にて衣紋えもんを引合わせ、縛られたるまま合掌して、従容しょうようとして心中に観音の御名みなを念じける。

その時得三は袖を掲げて、雪より白き下枝の胸を、乳も顕あらわに押寛おしくつろぐれば、動悸どうき烈しく胸騒立さわだちて腹は浪打つごとくなり。全体虫が気に喰わぬ腸はらわた断割わって出してやる。と刀引抜き逆手に取りぬ。

夜は正に三更万籟死して、天地は悪魔の独有たり。

(次三郎とは本間のこと、第一回より三回の間に出でて毒を飲みたる病人なり。鎌倉より東京のことなれば、敏さとき看官みるひとの眼も届くまじとて書添え置く。)

十九 二重の壁

得三一度ひとたび手を動うごかさば、万事ここに休せむかな。下枝の命の終らむには、この物語も休やみぬべし。さらばそれに先立て、一旦滑川の旅店まで遁のがれ出でたる下枝の、何とて再び家に帰りて屠ほふり殺さるる次第となりけむ、その顛末てんまつを記し置くべし。

下枝は北の台に幽囚せられてより、春秋幾つか行きては帰れど、月も照さず花も訪とい来ず、眼に見る物は恐ろしき鉄くろがねの壁ばかりにて、日に新しゅうなるものは、苛責かしゃくの品の替るのみ、苦痛いうべくもあらざれど、家に伝わる財産も、我身の操も固く守護まもりて、明しつ暮しつ長き年、月日は今日にいたるまで、待てども助くる人無ければ、最早忍び兼ねて宵のほど、壁に頭かしらを打砕きて、自殺をせんと思い詰め、西向の壁の中央ただなかへ、ひしと額を触れけるに、不思議や壁は縦五尺、横三尺ばかり、裂けたらむがごとく颯さっと開きて、身には微傷うすでも負わざりけり。

大名の住めりし邸やしきなれば、壁と見せて忍び戸を拵こしらえ置き、それより間道への抜穴など、旧ふるき建物にはあることなり。人形の後うしろの小座敷もこれと同じきものなるべし。

こは怪しやと思いながら、開きたる壁の外を見るに、暗くてしかとは見分け難きが、壇階子だんばしごめきたるものあり。静しずかに蹈ふみて下り行くに足はやがて地に附きつ、暗さはいよいよ増りぬれど、土平らにて歩むに易し。西へ西へと志して爪探りに進み行けば、蝙蝠かわほり顔に飛び違い、清水の滴々したたり膚はだえを透とおして、物凄きこと言わむ方無し。とこうして道のほど、一町ばかり行きける時、遥はるかに梟ふくろうの目のごとき洞穴の出口見えぬ。

この洞穴は比企ヶ谷の森の中にあり。さして目立つほどのものにあらねば、誰も這入はいって見た者無し。

下枝は穴を這出でて始めて天日を拝したる、喜び譬たとえんものも無く、死なんとしたる気を替えて、誰か慈悲ある人に縋すがりて、身の窮苦を歎き訴え、扶助たすけを乞わんと思いつる。そは夕暮のことにして、畦道あぜみちより北の方かた、里ある方へぞ歩みたれ。

(得三が高楼たかどのにて女を見たるはこの時なり。)

かくて下枝は滑川の八橋楼の裏手より、泰助の座敷に入りたるが、浮世に馴なれぬ女気に人の邪正を謀はかりかね、うかとは口くちを利かれねば、黙して様子を見ているうち、別室に伴われ、一人残され寝床に臥して、越方行末思い佗わび、涙に暮れていたりし折から、かの八蔵に見とがめられぬ。それのみならず妹お藤を、今宵高田に娶めあわすよしかねて得三に聞いたれば、こもまた心懸りなり、一度家に立返りて何卒なにとぞお藤を救いいだし、またこそ忍び出でなんと、忌いまわしき古巣に帰るとき、多くの人に怪あやしませて、赤城家に目を附けさせなば、何かに便たよりよかるべしと小指一節喰い切って、かの血の痕あとを赤城家の裏口まで印し置きて、再び件くだんの穴に入り冥途よみじを歩みて壇階子に足踏懸くれば月明し。いずくよりか洩もるると見れば、壁を二重に造りなして、外の壁と内の壁の間にかかる踏壇を、仕懸けて穴へ導くにて透間より月の照射さすなり。直ぐ眼の下は裏庭にてこの時深き叢くさむらに彳たたずめる人ありければ、(これ泰助なり)浴衣の裳すそを引裂きて、小指の血にて文字したため、かかる用にもたたむかとて道にて拾いし礫こいしに包み、丁ちょうと投ぐればあたかも可よし。その人の目に触れて、手に開かれしを見て嬉しく、さてお藤をばいかにせむ。

この壇階子の中央なかほどより道は両ふたつに岐わかれたり。右に行けば北の台なるかの座敷牢に出づべきを、下枝は左の方かたに行きぬ。見も知らざる廊下細くしていと長し。肩をすぼめてようように歩み行くに、両側はまた壁なり。理外の理さえありと聞くこは家の外ほかの家ならんか。十数年来住める身の、得三もこは知らざるなり。廊下の終る処に開戸あり、開けて入れば自おのずから音なく閉じて彼方かなたより顧みれば壁と見紛うばかりなり。ここぞかの人形の室の裏なる密室になんありける。

この時しも得三等らが、お藤を責めて婚姻を迫る折なりしかば、いかにせば救い得られんかと、思い悩みいたるうち、火取虫に洋燈ランプ消えて、こよなき機会を得たるにぞ、怪しき声音に驚かせしに、折よく外にも人ありて妹を抱いだきて遁出にげいでたれば、嬉しやお藤は助かりぬ。我も早く出去らんとまたもや廊下を伝わりて穴に下りんと蹈迷ふみまよい、運拙つたのうしてまた旧もとの座敷牢に入り終んぬ。かかりしほどに身は疲れ、小指の疵きずの痛苦いたみ劇はげしく、心ばかりは急はやれども、足蹌踉よろぼいて腰起たたず、気さえ漸次しだいに遠くなりつ、前後も知らでいたりけるを、得三に見出されて、さてこそかくは悪魔の手に斬殺されんとするものなれ。

二十 赤城様――得三様

普門品ふもんぼん、大悲の誓願ちかいを祈念して、下枝は気息奄々えんえんと、無何有むかうの里に入りつつも、刀尋段々壊とうじんだんだんねと唱うる時、得三は白刃を取直し、電光胸前むなさきに閃きらめき来りぬ。この景この時、室外に声あり。

「アカギサン、トクゾウサン。」

不意に驚き得三は今や下枝を突かんとしたる刀を控えて、耳傾くれば、「あかァぎさん、とくぞうさん。」

得三は我耳を疑うごとく、耳朶みみたぶに手をあてて眉を顰ひそめつ、傾聴すれば、たしかに人声、

「赤城様さん――得三様さん。」

得三はぎょっとして、四辺あたりを見廻し、人形の被かずきを取って、下枝にすっぽりと打被うちかぶせ、己おのが所業を蔽おおい隠して、白刃に袂たもとを打着せながら洋燈ランプの心を暗うする、さそくの気転これで可しと、「誰だ。何誰どなたじゃ。と呼懸くれば、答は無くて、「赤城様。得三様。しや忌々し何奴ぞと得三からりと部屋の戸開くれば、かの声少し遠ざかりて、また、「赤城様、得三様。「ええ、誰だ。誰だ。とつかつかと外おもてに出いづれば、廊下をばたばたと走る音して姿は見えずに、「赤得、赤得。背後うしろの方かたにてまた別人の声、「赤城様、得三様。啊呀あなやと背後うしろを見返れば以前の声が、「赤得、赤得。と笑うがごとく泣くがごとく恨むがごとく嘲けるごとく、様々声の調子を変じて遠くよりまた近くより、透間もあらせず呼立てられ、得三は赤くなり、蒼あおくなり、行きつ戻りつ、うろ、うろ、うろ。拍子に懸けて、「赤、赤、赤、赤。「何者だ。何奴だ。出合え出合え。といいながら、得三は血眼ちまなこにて人形室へ駈け戻り、と見れば下枝は被を被せ置きたるまま寂として声をも立てず。「ちええ、面倒だ。と剣を揮ふるい、胸前むなさき目懸けて突込みしが、心急せきたる手元狂いて、肩先ぐざと突通せば、きゃッと魂消たまぎる下枝の声。

途端に烈しく戸を打叩きて、「赤得、赤得。と叫び立つれば、「汝うぬ野狐奴め、また来うせた。と得三室外へ躍出づれば、ぱっと遁出にげだす人影あり。廊下の暗闇やみに姿を隠してまた――得三をぞ呼んだりける。

憎さも憎しと得三が、地蹈韛じだんだふんで縦横に刃やいばを打掉うちふる滅多打。声はようよう遥はるかになり、北の台にて哀かなしげに、「あかァぎさん、とくぞうさん。――四辺あたりは寂然しん。

これより以前さき得三が人形室を走り出でて声する者を追いける時、室の外より得三と入違いりちがいに、鳥のごとくに飛び込む者あり。突然下枝の被を外してこれを人形に被らせつ。その身は日蔽ひおおいの影に潜みぬ。

されば得三が引返し来て、被の上より突込みたるは、下枝にあらで人形なりけり。ただ下枝は右にありて床柱に縛し上げられつ、人形は左にありて床の間に据えられたる、肩は擦合うばかりなれば、白刃はくじんものを刺したるとき、下枝は胆消え目も眩くらみて、絶叫せしはさもありなん。またもや声に呼び出されて、得三再び室の外へ駈かけ行きたる時、幕に潜めるかの男は鼬いたちのごとく走り出で、手早く下枝の縄を解き、抱いだき下して耳に口、「心配すな。と囁ささやきたり。時しも廊下を蹈鳴ふみならして、得三の帰る様子に、かの男少し慌てる色ありしが、人形を傍わきへずらして柱に寄せ、被は取れて顔も形もあからさまなる、下枝を人形の跡へ突立せ、「声を立てるな。と小声に教えて、己おのれは大音に、「赤城様、得三様。」いうかと思えば姿は亡なし。すでに幕の後うしろへ飛込みたるその早さ消ゆるに似たり。

かれもこれも一瞬時、得三は眼まなこ血走り、髪逆立ちて駈込つ、猶予ためらう色無く柱に凭よれる被を被りし人形に、斬きりつけ突つきつけ、狂気のごとく、愉快、愉快。と叫びける。同時に戸口へ顔を差出し、「赤城様、得三様。「やあ、汝うぬは! と得三が、物狂わしく顧みれば、「光来おいで、光来。ここまで光来と、小手にて招くに、得三は腰に付けたる短銃ピストルを発射はなつ間まも焦躁もどかしく、手に取って投附くれば、ひらりとはずして遁出すを、遣らじものを。とこの度は洋燈ランプを片手に追懸おっかけて、気も上の空何やらむ足に躓つまずき怪し飛びて、火影に見ればこはいかに、お藤を連れて身を隠せしと、思い詰めたる老婆お録、手足を八重十文字に縛くくられつ、猿轡さるぐつわさえ噛かまされて、芋いものごとくに転がりたり。

得三後居しりいにどうと坐し、「やい、この態ざまはどうしたのだ。と口なる手拭退のけてやれば、お録はごほんと咳せき入りて、「はい、難有ありがとうございます。「ええどうしたのだ。「はい、はい。もしお聞きなされまし。あの時お藤様さんを人形の後うしろへ隠して、それから貴下あなた、階下したへおりてがらくた部屋の前を通ると、内でがさがさいたしますから、鼠か知らん、と覗のぞきますとね、どうでございましょう。あの探偵泰助奴めがむくむくと起き上る処でございました。「え!」

二十一 旭

幾度か水火の中に出入して、場数巧者の探偵吏、三日月と名に負う倉瀬泰助なれば、何とて脆もろくも得三の短銃ピストルに僵たおるべき。されば高楼たかどのより狙い撃たれ、外よりは悪僕二人が打揃いて入いり来しは、さすがの泰助も今迄に余り経験無き危急の場合、一度は狼狽ろうばいしたりしが、かねて携うる絵具にて、手早く血汐ちしおを装いて、第三発の放たれしを、避けつつわざと撃たれし体にて叢くさむらに僵れしに、果せるかな悪人輩ばらは誑死そらじにに欺あざむかれぬ。

さりながら八蔵がなお念のため鉄棒にて撲なぐり潰つぶさむと犇ひしめくにぞ、その時敵は二人なれば、蹴散らして一度ひとたび退かむか、さしては再び忍び入るにはなはだ便り悪ければ、太いたく心を痛めしが、あたかも好し得右衛門がこの折門を叩きしかば、難無く銀平に抱いだかれて、雑具部屋へ押込まれつ、後より得右衛門が擒とりこにされて、同じ室へ入れられたるをも、泰助はよく知れるなり。

四辺あたり静しずかになりしかば、潜ひそかに頭を擡もたぐる処を、老婆お録に見咎められぬ。声立てさせじと飛蒐とびかかりて、お録の咽喉のどを絞め上げ絞め上げ、老婆が呼吸いきも絶々に手を合して拝むを見澄まし、さらば生命いのちを許さむあいだ、お藤を閉込め置く処へ、案内せよ、と前さきに立たせ、例の人形室に赴きて、その仕懸の巧みなるに舌を巻きて驚歎せり。かくてかの密室より、お藤を助け出いだしつつ、かたのごとく老婆を縛りてまた雑具部屋へ引取りしを、知る者絶えて無なかりけり。それより泰助は庭の空井戸の中にお藤を忍ばせ、再び雑具部屋へ引返して旧もとのごとく死を粧よそおい、身動きもせでいたりしかば、二三度八蔵が見廻りしも全く死したる者と信じて、かくとは思い懸けざりき。

とこうするうち、高田は殺され悪僕二人は酒を飲みに出行いでゆきたれば、時分は好しと泰助は忍びやかに身支度するうち、二階には下枝の悲鳴頻しきりなり。驚破すわやと起たって行き見れば、この時しも得三が犠牲いけにえを手玉に取りて、活いきみ殺しみなぶりおれる処なりし。

ここにおいて泰助も、と胸を吐つきて途方に暮れぬ。他よの事ならず。得三は刀を手にし、短銃ピストルを腰にしたり。我泰助は寸鉄も帯びず。相対して戦わば利無きこと必定なり。とあって捕吏とりてを招集せんか、下枝は風前の燈ともしびの、非道の刃やいばにゆらぐ魂たまの緒、絶えんは半時を越すべからず。よしや下枝を救い得ずとも殺人犯の罪人を、見事我手に捕縛せば、我探偵たる義務は完まったし。されども本間が死期の依頼を天に誓いし一諾だくあり、人情としては決して下枝を死なすべからず。さりとて出いでて闘わんか、我が身命は立処に滅し、この大悪人の罪状を公になし難し。噫ああ公道人情両是非ふたつながらこれひなり。人情公道最難為もっともなしがたし。若依公道人情欠もしこうどうによらばにんじょうかけ。順了人情公道虧にんじょうにしたがわばこうどうをかく。如しかず人情を棄てて公道に就き、眼前に下枝が虐殺さるる深苦の様を傍観せんか、と一度は思い決さだめつ、我同僚の探偵吏に寸鉄を帯びずしてよく大功を奏するを、栄として誇りしが、今より後は我を折りて、身に護身銃を帯すべしと、男泣に泣きしとなん。

下枝が死を宣告され、仇敵あだがたきの手には死なじとて、歎き悶もだゆる風情を見て、咄嗟とっさに一いつの奇計を得たり。

走りて三たび雑具部屋に帰り、得右衛門の耳に囁きて、その計略を告げ、一臂いっぴの力を添えられんことを求めしかば、件くだんの滑稽翁兼かねたり好事家こうずか、手足を舞わして奇絶妙と称し、両膚りょうはだ脱ぎて向う鉢巻、用意は好よきぞやらかせと、斉ひとしく人形室の前に至れば、美婦人正に刑柱にあり、白刃乳ちの下に臨める刹那せつな、幸さいわいにして天地は悪魔の所有ものに非ず。

得右衛門は得三の名を呼びて室外におびき出し、泰助は難無く室内に入いりて潜むを得たり。しかる後二人計略合期ごうごして泰助をして奇功を奏せしめたる、この処得右衛門大出来というべし。被かずきを被替かけかえて虚兵を張り、人形を身代みがわりにして下枝を隠し、二度ふたたび毒刃どくじんを外して三度目に、得三が親仁おやじを追懸け出でて、老婆に出逢い、一条の物語に少しく隙ひまの取れたるにぞ、いでこの時と泰助は、下枝を抱いだきて易々と庭口に立出づれば、得右衛門待受けて、彼はお藤を背に荷にない、これは下枝を肩に懸けて、滑川にぞ引揚げける。

時正に東天紅。

暗号一発捕吏を整え、倉瀬泰助疾駆しっくして雪の下に到り見れば、老婆録は得三が乱心の手に屠ほふられて、血に染みて死しいたり。更に進んで二階に上れば、得三は自殺して、人形の前に伏しいたり。

旭の光輝ひかりに照らされたる、人形の瞳は玲瓏れいろうと人を射て、右眼、得三の死体を見て瞑めいするがごとく、左眼泰助を迎えて謝するがごとし。五体の玉は乱刃らんじんに砕けず左の肩わずかに微傷の痕こんあり。

明治二十六(一八九三)年五月

底本 / Source edition

底本:「泉鏡花集成1」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年8月22日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第一卷」岩波書店
1942(昭和17)年7月30日第1刷発行
初出:「探偵小説第十一集 活人形」春陽堂
1893(明治26)年5月3日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:清角克由
2014年1月20日作成
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プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
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泉 鏡花「活人形」(新字新仮名)、底本『泉鏡花集成1』ちくま文庫、筑摩書房、1996年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 050102_000050, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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