冬、家庭で最も歓迎される料理は、なべ料理であろう。煮たて、焼きたてが食べられるからである。

なべ料理では、決して煮ざましを食べるということはない。クツクツと出来たての料理を食べることが、なによりの楽しみである。だから、なべ料理ほど新鮮さの感じられる料理はない。最初から最後まで、<ruby><rb>献立</rb><rt>こんだて</rt></ruby>から煮て食べるところまで、ことごとく自分で工夫し、加減をしてやるのであるから、なにもかもが生きているというわけである。材料は生きている。料理する者は緊張している。そして、出来たてのものを食べるというのだから、そこにはすきがないのである。それだけになんということなく<ruby><rb>嬉</rb><rt>うれ</rt></ruby>しい。そして親しみのもてる料理といえよう。

しかし、材料が鮮魚、鮮菜という<ruby><rb>活物</rb><rt>いきもの</rt></ruby>が入った上での話である。入れるものがくたびれていたのでは、充分のものはできない。これは、なべ料理にかぎらぬ話であるが、念のため申し添えておく。

家庭でやるなべ料理は、原料はこれとこれだけと、決っているわけではない。前の晩にもらった<ruby><rb>折詰</rb><rt>おりづめ</rt></ruby>ものだとか、買い置きの<ruby><rb>湯葉</rb><rt>ゆば</rt></ruby>だとか、<ruby><rb>麩</rb><rt>ふ</rt></ruby>だとか、こんにゃくだとか、あるいは豆腐を使おうと、なんでも独創的に考案して、勝手にどんなふうにでもやれるのである。「なべ料理」のことを、東京では「寄せなべ」というが、<ruby><rb>上方</rb><rt>かみがた</rt></ruby>では「楽しみなべ」ともいっている。なぜ「楽しみなべ」というかといえば、たいの<ruby><rb>頭</rb><rt>かしら</rt></ruby>があったり、<ruby><rb>蒲鉾</rb><rt>かまぼこ</rt></ruby>があったり、<ruby><rb>鴨</rb><rt>かも</rt></ruby>があったり、いろいろな材料がちらちら目について、大皿に盛られたありさまが、はなやかで、あれを食べよう、これを食べようと思いめぐらして楽しみだからである。

「楽しみなべ」という名称は、実によくあてはまっている。しかし、「寄せなべ」というのは、なんだか簡単すぎて感じのよい名前ではないと思う。「なべ料理」は先にもいった通り、材料がいろいろあるし、それを盛る盛り方にもなかなか工夫がいるのである。この点を注意しないで、ぞんざいに扱うと、いかにも<ruby><rb>屑物</rb><rt>くずもの</rt></ruby>の寄せ集めみたいになってしまう。

関東の風習は、薄く平らに並べるようであるが、あまり感心しない。ふぐみたいなものは大皿に並べざるを得ないが、それは特殊なことであって、「なべ料理」の材料を盛るのは、<ruby><rb>深鉢</rb><rt>ふかばち</rt></ruby>にこんもりと盛るのがよろしい。材料はさっき述べた通り、なんでもよい。ただ感心しないのは貝類である。貝類は、ほんのわずかならかまわないが、多く使うと、どうも味を悪くするキライがある。貝類は結局だしをわるくして、ほかのものの味まで害するからいけない。また、貝類はさかなや肉にも調和しない。外国料理は、シチュー、カレー、スープの中によく貝を使っているが、マッチしていないのが多い。これは、外国には貝類も魚類も少ないので<ruby><rb>重宝</rb><rt>ちょうほう</rt></ruby>がっているせいだろうが、料理の味をこわしているのが<ruby><rb>大方</rb><rt>おおかた</rt></ruby>だ。

それとは逆に、日本では貝類がいくらでも取れるので、ぞんざいに使用しているようだ。貝類を多量に使用すると、あくどい料理になってしまうので、よい料理とはいえない。貝類はなるべく混合させぬ方がよいだろう。

さて、だしのことだが、人によって好みはさまざまである。あっさりしたのが好きだという人もある。あっさりしたのは、たいがい酒を飲む人に向く。<ruby><rb>飯</rb><rt>めし</rt></ruby>を食うのには、いくらか味の強いのがよいかも知れない。この辺も「寄せなべ」は自分の好み通りにいくから、まことにもってこいの料理である。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たれ</span>はあらかじめちゃんと調合してつくっておくことが大切である。初めから終りまで一定の味の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たれ</span>でやるのでないと、材料がかわるたびに、砂糖を入れる、<ruby><rb>醤油</rb><rt>しょうゆ</rt></ruby>を入れる、水を入れるという具合で、甘かったり、<ruby><rb>辛</rb><rt>から</rt></ruby>かったり、水っぽかったり、味がまちまちになってしまう。それではおもしろくない。また、幾人もが代わるがわる世話をすると、必ずこういうことになる。ひとりきりで世話をするにしても、味加減というものは、厳密に一致するとはいえないから、どうしても、前もって料理に必要な分量だけつくっておくのがよい。味はあまり強めでないのがよいが、これはその家の<ruby><rb>風</rb><rt>ふう</rt></ruby>でこしらえるのがよいと思う。たれをつくるには、すでにご承知であろうが、砂糖と醤油と酒とを適当に混和する。酒はふんだんに使うのがよろしい。かんざましでよい。アルコール分は含まれていなくていいのだし、飲んで酔おうというのとは異なるから、かんざましでよいわけである。ごく上等の酒を、思い切って多く用いるのがよい。

なべ料理は材料が主としてさかななので、だしにはかつおぶしより<ruby><rb>昆布</rb><rt>こぶ</rt></ruby>のほうがよい。「なべ料理」は出来たて、煮たてと、すべてが新鮮だからいいので、おでん屋というものがはやるのも、ここに一因があるわけだ。あれは決して料理がいいからはやるのではない。あの安料理のおでんが<ruby><rb>美味</rb><rt>うま</rt></ruby>いのは、つまり、出来たてを待っていて食うというところにあるので、実際は美味いものでもなんでもないのである。舌を焼くような出来たてのものを食べるから、おでんは美味いものと評判になってはいるが、その実、<ruby><rb>粗末</rb><rt>そまつ</rt></ruby>な食物なのだ。

粗末なおでんすら、出来たて<ruby><rb>故</rb><rt>ゆえ</rt></ruby>に私たちの味覚をよろこばすのであるから、お座敷おでんといえる「なべ料理」は、相当の満足を与えるに相違ない。私はおでんもてんぷらも、立ち食いをした経験をもっているから、その味がおよそどんなものだか分っている。ところが、私の考えているなべ料理となると、それらとは、はるかに距離のある高級なものである。その方法は、創作的に、独創的にやられればよい。

なべ料理は、気のおけぬごく<ruby><rb>懇意</rb><rt>こんい</rt></ruby>な間柄の人を招いて、和気あいあい、家族的に<ruby><rb>賑々</rb><rt>にぎにぎ</rt></ruby>しくつきあうような場合にふさわしい家庭料理といえよう。

次につくり方、食べ方の要領をお話ししよう。たいを煮ると仮定しよう。三人か五人で食べるなべだとすれば、その人数が一回食べるだけの分量のたいを煮る。煮えたらそれをすっかり上げてしまう。次に野菜を入れる。たいの<ruby><rb>頭</rb><rt>かしら</rt></ruby>などは、よくスープを出すから<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">だし</span>がふえる。ところが野菜はだしを吸収する。そういう材料の性質をみて、だしの出るもの、だしを吸うものを交互に入れて煮るというふうにする。そうして一回ごとになべの中をきれいに片付けて、最後まで新鮮な料理が食べられるようにする。食べ方にもこのような工夫がいる。

私は「なべ料理」の材料の盛り方ひとつにしても、生け花と寸分違わないと思っている。生け花というのは、自然の草や木を、自然にあるままに活かそうというので、そのためにいろいろ工夫をする。料理も自然、天然の材料を人間の味覚に満足を与えるように活かし、その上、目もよろこばせ、<ruby><rb>愉</rb><rt>たの</rt></ruby>しませる美しさを発揮さすべきだと思う。そのこころの働かせ方は、花を活けることとなんらの違いもない。

ふつうの家庭では、なにかの時だけ、儀式的なことに、<ruby><rb>無闇</rb><rt>むやみ</rt></ruby>と飾りたてたりしながら、平常はぞんざいにものごとを扱っている<ruby><rb>弊風</rb><rt>へいふう</rt></ruby>があるのを、私はどうもおもしろく思わない。美的生活をなそうとするには、特別な時だけでは<ruby><rb>駄目</rb><rt>だめ</rt></ruby>である。いつでも、どんなものにも、美を生み出す心掛けを忘れてはならない。

私の考えていることは、日常生活の美化である。日々の家庭料理をいかに美しくしていくかということである。材料に気を配るとともに、材料を取扱う際の盛り方からまず気をつけて、いかにすべきかと工夫するのだ。工夫は細工ではない。工夫とは自然にもっとも接近することだ。なべ料理の材料の盛り方ひとつでも、心掛け次第で、<ruby><rb>屑物</rb><rt>くずもの</rt></ruby>の寄せ集めに見えたり、見る目に快感を与え、美術品に類する美しいものに見えたりする。そういう区別が生ずるのである。

盛り方を工夫し、<ruby><rb>手際</rb><rt>てぎわ</rt></ruby>のよいものにしたいと思う時、当然そこに、食器に対しての関心が<ruby><rb>湧</rb><rt>わ</rt></ruby>いてくる。すなわち、陶器にも<ruby><rb>漆器</rb><rt>しっき</rt></ruby>にも目が開けてくるという次第になるのである。