Soranoha

鮎の試食時代

あゆのししょくじだい

北大路 魯山人

あゆがうまいという話は、味覚にあこがれを持ちながら、自由に食うことのできない貧乏書生などにとっては、絶えざる憧憬しょうけいの的である。わたしも青年の頃、ご多分に漏もれず、あゆを心ゆくまで食いたいと夢にまでみた時代があった。この夢を実現したのは二十四、五歳のころであったろうか。もちろんそれまでにあゆを全く口にしなかったわけではない。だが、あゆ通の喜ぶ上等のあゆによって、あゆの美味をテストするという意気込みで食ったのは、その時が初めてであった。わたしは日光の大谷川だいやがわのあゆをねらっていた。おそらく大谷川のあゆがうまいということをいつとはなしに聞いていたのだろう。わざわざ日光までなけなしの金を懐ふところにして出かけて行ったのである。

その時の価がなんでも一尾五、六十銭ぐらいであったと記憶している。それを二尾ばかり食ってみた。あゆは新鮮だし、色つやもよく、容姿も優れていて確かに一等級のものであったらしい。が、この時の偽らざる感じをいえば、うまいうまいとひとはいうが、なんだってこんなものが本当にそんなに美味なのかしら、というのが本音で、当時青年のわたしの味覚にはどうしてもしっくり得心がいかなかった。そうしてこの時以来、あゆの味はいよいよ真剣な宿題として残されたのである。

その後しばらくしてうまいと思って食ったのは、京都の保津川ほづがわのほとりにおいてであった。洛西嵐山の渡月橋とげつきょうを渡って、山の裾を七、八丁登ると、そこに嵐山温泉というのがある。ここで食ったあゆこそはなるほどと得心がいった。まったくうまいと思って食った。いつのころかはっきり憶えぬが、なんでも好況時代の絶頂に達したころででもあったろうか。ここのあゆは一尾五円を通常の値段としていたそうだ。

織物で京都屈指の名家たる今出川堀川の北川の主人某が、かつてわたしに向かい、「京都であゆを食えば、まず通常は二円で立派なものが食えますね。ところが、嵐山に行って食うと一尾五円は出さなあきまへん。京都広しといえども、五円のあゆを嵐山まで食いに出かけるものは、京都人にもまずおらへんやろ」と、いうのである。

そうしたご自慢を聞かされたわたしも、当時まだそういうふうに自由に食欲を満たすだけの財力を持たなかったから、うまいには相違ないと羨望せんぼうしながらも、得心のゆくまで食うわけにはゆかなかった。ただいたずらに憧あこがれるだけだった。

ところが、三十歳くらいのころ、京都に帰省した時、ようやく宿願を達成することができた。あゆを食うくらいはなんとか都合がついたからであり、かつまた、内貴清兵衛ないきせいべえという先輩のご馳走もたびたびあって、何十回となく各所を食い歩くことができたおかげであった。時には一日に二度も三度も吟味してみた。

京都では、宇治の菊屋とか、山端やまばなの平八とか、嵯峨の三軒茶屋など、あゆを生かしておいて食わせる店が諸所にあった。そうしたところを片っ端から食い歩いて、どうやらあゆの味が心底から舌に乗ってきた。

底本 / Source edition

底本:「魯山人の美食手帖」グルメ文庫、角川春樹事務所
2008(平成20)年4月18日第1刷発行
底本の親本:「魯山人著作集」五月書房
1993(平成5)年発行
初出:「星岡」
1935(昭和10)年
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2009年12月4日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

この表示について / About this rendering

記録は下にリンクした署名済みの TEI ファイルです。このページはそれを読むための一つの形です。読みが複数ある箇所は一つだけを本文に示し、もう一方は語の title に残しています。 / The record is the signed TEI file linked below. This page is one way of reading it. Where the text has more than one reading, the page shows one of them and keeps the other on the word itself, in its title text.

リリース / Release
913b24012e1626b47bebf5a14fd31773728229efdb088f1ceb934717c1ac800c
TEI
/works/049954_001403/tei
プレーンテキスト / Plain text
/works/049954_001403/plaintext
書誌 / Bibliography
/works/049954_001403/

北大路 魯山人「鮎の試食時代」(新字新仮名)、底本『魯山人の美食手帖』グルメ文庫、角川春樹事務所、2008年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 049954_001403, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

引用のしかた / How to cite