Soranoha

能面の様式

のうめんのようしき

和辻 哲郎

野上豊一郎君の『能面』がいよいよ出版されることになった。昨年『面とペルソナ』を書いた時にはすぐにも刊行されそうな話だったので、「近刊」として付記しておいたが、それからもう一年以上になる。網目版の校正にそれほど念を入れていたのである。それだけに出来ばえはすばらしくよいように思われる。ここに集められた能面は実物を自由に見ることのできないものであるが、写真版として我々の前に置かれて見ると、我々はともどもにその美しさや様式について語り合うことができるであろう。この機会に自分も一つの感想を述べたい。

今からもう十八年の昔になるが、自分は『古寺巡礼』のなかで伎楽面の印象を語るに際して、「能の面は伎楽面に比べれば比較にならぬほど浅ましい」と書いた。能面に対してこれほど盲目であったことはまことに慚愧ざんきに堪たえない次第であるが、しかしそういう感じ方にも意味はあるのである。自分はあの時、伎楽面の美しさがはっきり見えるように眼鏡の度を合わせておいて、そのままの眼鏡で能面を見たのであった。従って自分は能面のうちに伎楽面的なものを求めていた。そうして単にそれが無いというのみでなく、さらに反伎楽面的なものを見いだして落胆したのであった。その時「浅ましい」という言葉で言い現わしたのは、病的、変態的、頽廃的な印象である。伎楽面的な美を標準にして見れば、能面はまさにこのような印象を与えるのである。この点については自分は今でも異存がない。

しかし能面は伎楽面と様式を異にする。能面の美を明白に見得るためには、ちょうど能面に適したように眼鏡の度を合わせ変えなくてはならぬ。それによって前に病的、変態的、頽廃的と見えたものは、能面特有の深い美しさとして己れを現わして来る。それは伎楽面よりも精練された美しさであるとも言えるであろうし、また伎楽面に比してひねくれた美しさであるとも言えるであろう。だからこの美しさに味到した人は、しばしば逆に伎楽面を浅ましいと呼ぶこともある。能面に度を合わせた眼鏡をもって伎楽面を見るからである。

もし初めからこの両者のいずれをも正しく味わい得る人があるとすれば、その人の眼は生来自由に度を変更し得る天才的な活眼である。誰でもがそういう活眼を持つというわけには行かない。通例は何らかの仕方で度の合わせ方を先人から習う。それを自覚的にしたのが様式の理解なのである。

では能面の様式はどこにその特徴を持っているであろうか。自分はそれを自然性の否定に認める。数多くの能面をこの一語の下に特徴づけるのはいささか冒険的にも思えるが、しかし自分は能面を見る度の重なるに従ってますますこの感を深くする。能面の現わすのは自然的な生の動きを外に押し出したものとしての表情ではない。逆にかかる表情を殺すのが能面特有の鋭い技巧である。死相をそのまま現わしたような翁や姥うばの面はいうまでもなく、若い女の面にさえも急死した人の顔面に見るような肉づけが認められる。能面が一般に一味の気味悪さを湛たたえているのはかかる否定性にもとづくのである。一見してふくよかに見える面でも、その開いた眼を隠してながめると、その肉づけは著しく死相に接近する。

といって、自分は顔面の筋肉の生動した能面がないというのではない。ないどころか、能面としてはその方が多いのである。しかし自分はかかる筋肉の生動が、自然的な顔面の表情を類型化して作られたものとは見ることができない。むしろそれは作者の生の動きの直接的な表現である。生の外現としての表情を媒介とすることなく、直接に作者の生が現われるのである。そのためには表情が殺されなくてはならない。ちょうど水墨画の溌剌はつらつとした筆触が描かれる形象の要求する線ではなくして、むしろ形象の自然性を否定するところに生じて来るごとく、能面の生動もまた自然的な生の表情を否定するところに生じてくるのである。

そこで我々は能面のこの作り方が、色彩と形似とを捨て去った水墨画や、自然的な肉体の動きを消し去った能の所作と同一の様式に属することを見いだすのである。能についてほとんど知るところのない自分が能の様式に言及するのははなはだ恐縮であるが、素人にもはっきりと見えるあの歩き方だけを取って考えても右のことは明らかである。能の役者は足を水平にしたまま擦すって前に出し、踏みしめる場所まで動かしてから急に爪先をあげてパタッと伏せる。この動作は人の自然な歩き方を二つの運動に分解してその一々をきわ立てたものである。従って有機的な動き方を機械的な動き方に変質せしめたものと見ることができる。この表現の仕方は明白に自然的な生の否定の上に立っている。そうしてそれが一切の動作の最も基礎的なものなのである。が、このように自然的な動きを殺すことが、かえって人間の自然を鋭く表現するゆえんであることは、能の演技がきわめて明白に実証しているところである。それは色彩と形似を殺した水墨画がかえって深く大自然の生を表現するのと等しい。芸術におけるこのような表現の仕方が最もよく理解せられていた時代に、ちょうど能面の傑作もまた創り出されたのであった。その間に密接な連関の存することは察するに難くないであろう。

のみならず顔面のこのような作り方は無自覚的になされ得るものではない。顔面は人の表情の焦点であり、自然的な顔面の把捉は必ずこの表情に即しているのである。ことに能面の時代に先立つ鎌倉時代は、彫刻においても絵画においても、個性の表現の著しく発達した時代であった。その伝統を前にながめつつ、ちょうどその点を殺してかかるということは、何らかの自覚なくしては起こり得ぬことであろう。もちろん能面は能の演技に使用されるものであり、謡と動作とによる表情を自らの内に吸収しなくてはならなかった。この条件が能面の制作家に種々の洞察を与えたでもあろう。しかしいかなる条件に恵まれていたにもせよ、人面を彫刻的に表現するに際して、自然的な表情の否定によって仕事をすることに思い至ったのは、驚くべき天才のしわざであると言わねばならぬ。能面の様式はかかる天才のしわざに始まってそれがその時代の芸術的意識となったものにほかならない。

底本 / Source edition

底本:「和辻哲郎随筆集」岩波文庫、岩波書店
1995(平成7)年9月18日第1刷発行
2006(平成18)年11月22日第6刷発行
初出:「思想」
1936(昭和11)年7月号
入力:門田裕志
校正:米田
2010年12月4日作成
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書誌 / Bibliography
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和辻 哲郎「能面の様式」(新字新仮名)、底本『和辻哲郎随筆集』岩波文庫、岩波書店、1995年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 049907_001395, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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