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        <title type="main" xml:lang="ja">ある思想家の手紙</title>
        <title type="reading" xml:lang="ja-Hira">あるしそうかのてがみ</title>
        <author><persName xml:lang="ja"><surname>和辻</surname><forename>哲郎</forename><idno type="aozora-person-id">001395</idno></persName><persName xml:lang="ja-Hira"><surname>わつじ</surname><forename>てつろう</forename></persName><persName xml:lang="ja-Latn"><surname>Watsuji</surname><forename>Tetsuro</forename></persName></author>
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        <bibl><title>偶像再興・面とペルソナ　和辻哲郎感想集</title><publisher>講談社文芸文庫、講談社</publisher><date>2007（平成19）年4月10日</date><note type="input-edition">2007（平成19）年4月10日第1刷</note><note type="proof-edition">2007（平成19）年4月10日第1刷</note></bibl>
        <bibl type="first-publication">「新小説」1916（大正5）年11月</bibl>
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      <refsDecl xml:id="source-spans"><p>A note of type source-span has an xml:id of the form source-START-END, giving the extent in UTF-8 bytes of the decoded primary text identified in sourceDesc. <ptr target="https://w3id.org/soranoha/ns/tei"/></p></refsDecl>
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      <div type="layout" source="#source-412-473" style="padding-inline-start: 5em">
        <div>
          <head n="2" source="#source-433-469"><seg source="#source-433-436">一</seg></head>
        </div>
      </div>
      <div>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-473-1051">秋の雨がしとしとと松林の上に降り注いでいます。おりおり赤松の梢を揺り動かして行く風が消えるように通りすぎたあとには、――また田畑の色が豊かに黄ばんで来たのを有頂天になって喜んでいるらしいおしゃべりな雀が羽音をそろえて屋根や軒から飛び去って行ったあとには、ただ心に沁み入るような静けさが残ります。葉を打つ雨の単純な響きにも、心を捉えて放さないような無限に深いある力が感じられるのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-1051-2184">私はガラス越しにじっと窓の外をながめていました。そうしていつまでも身動きをしませんでした。私の眼には涙がにじみ出て来ました。湯加減のいい湯に全身を浸しているような具合に、私の心はある大きい暖かい力にしみじみと浸っていました。私はただ無条件に、生きている事を感謝しました。すべての人をこういう融け合った心持ちで抱きたい、抱かなければすまない、と思いました。私は自分に近い人々を一人一人全身の愛で思い浮かべ、その幸福を真底から祈り、そうしてその幸福のためにありたけの力を尽くそうと誓いました。やがて私の心はだんだん広がって行って、まだ見たことも聞いたこともない種々の人々の苦しみや涙や歓びやなどを想像し、その人々のために大きい愛を祈りました。ことに血なまぐさい戦場に倒れて死に面して苦しんでいる人の姿を思い浮かべると、私はじっとしていられない気がしました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-2184-2630">私は心臓が変調を来たしたような心持ちでとりとめもなくいろいろな事を思い続けました。――しかしこれだけなら別にあなたに訴える必要はないのです。あなたに聞いていただかなければならない事は、その後一時間ばかりして起こりました。それは何でもない小さい出来事ですが、しかし私の心を打ち砕くには十分でした。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">私は妻と子と三人で食卓を囲んでいました。私の心には前の続きでなおさまざまの姿や考えが流れていました。で、自分では気がつきませんでしたが、私はいつも考えにふける時のように人を寄せつけないムズかしい顔をしていたのです。私がそういう顔をしている時には妻は決して笑ったりハシャイだりはできないので、自然無口になって、いくらか私の気ムズかしい表情に感染します。親たちの顔に現われたこういう気持ちはすぐ子供に影響しました。初めおとなしく食事を取っていた子供は、何ゆえともわからない不満足のために、だんだん不機嫌になって、とうとうツマラない事を言い立ててぐずり出しました。こういう事になると子供は露骨に意地を張り通します。もちろん私は子供のわがままを何でも押えようとは思いませんが、しかし時々は自分の我のどうしても通らない障壁を経験させてやらなければ、子供の「意志」の成長のためによろしくないと考えています。で、この時にも私は子供を叱ってそのわがままを押しつぶそうとしました。――いつのまにか私は子供のわがままに対して自分の意地を通そうとしていました。私は涙ぐみながら子供の泣くのを叱っていました。おしまいには私も子供といっしょに大声をあげて泣きたくなりました。――何というばかな無慈悲な父親でしょう。子供の不機嫌は自分が原因をなしていたのです。子供の正直な心は無心に父親の態度を非難していたのです。大きい愛について考えていた父親は、この小さい透明な心をさえも暖めてやることができませんでした。</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">私は自分を呪いました。食事の時ぐらいはなぜ他の者といっしょの気持ちにならなかったのでしょう。なぜ子供に対してまで「自分の内に閉じこもること」を続けたのでしょう。私がすべての人を愛でもって抱きたいと思ったことはほんとうです。それに関係していろいろ「いい事」を考え続けていたこともほんとうです。しかしすぐその場で自分に最も近い者をさえも十分愛してやれないくせに、そんな事を考え続けたって何になるでしょう。しかもそれが、その運命に対しては無限の責任と恐ろしさとを感じている自分の子供なのです。不断に涙をもって接吻しつづけても愛したりない自分の子供なのです。極度に敬虔なるべき者に対して私は極度に軽率にふるまいました。羞ずかしいどころではありません。</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-5523-5650">私はこの事によって自分のもっと重大ないろいろな欠点を示唆されたように思いました。</seg></p>
      </div>
      <div type="layout" source="#source-5650-5711" style="padding-inline-start: 5em">
        <div>
          <head n="2" source="#source-5671-5707"><seg source="#source-5671-5674">二</seg></head>
        </div>
      </div>
      <div>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-5711-6100">私は自分のイゴイズムと戦っています。イゴイズムそのものは絶滅は望まれないまでも、イゴイズムをして絶対に私の愛を濁さしめないことは、私の日常の理想でありまた私の不断の鞭です。この志向だけについて言えば別に問題はありません。これが真の自己を生かせる道ですから。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-6100-6229">しかし私は自己を育てようとする努力に際して、この努力そのものがイゴイズムと同じく愛を</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-6229-6247"><rb>傷</rb><rt>そこな</rt></ruby><seg source="#source-6247-6996">うことのあるのを知りました。私は仕事に力を集中する時愛する者たちを顧みない事があります。私を愛してくれる者はもちろんそれを承知してその集中を妨げないように、もしくはそれを強めるように、力を添えてくれます。しかし自分を犠牲にしてまでそれに尽くしてくれる者はただ一人きりです。他の者たちは、私からされるように望んでいる事を私が果たさない場合に、やはり私を不満足に思います。そうしてそれがその人たちのツマラないわがままから出ている場合でも、私を怨み憤ります。私は彼らの眼に冷淡な薄情な男として映るのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">ことに私は時々何かの問題のためにひどい憂愁に閉じ込められる事があります。私はいくらあせってもこの問題を逃避しない限りある「時」が来るまでは自分をどうすることもできないのです。私もまさかこのジメジメした気分を側の者に振りかけなければいられないほど弱くはありません。しかし人の前でそれを少しも顔に出さないでいられるほど強くもありません。私は暗い沈んだ顔をして黙り込んでいます。そうしてこの表情のために愛するものたちを不幸にします。こういう時に私は彼らをいたわってやることも、彼らを喜ばせる事も、彼らとともに喜ぶこともできないのです。私の心は石のように固まって、ただ温められ融かされる事を望むばかりです。私にとっては一つの憂愁を切り抜ける事はいくらかの成長になります。しかしそのために私はある時の間冷たい人間になっています。</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">実際私たちのような仕事を選んだ者は、ある一つの輝いた瞬間を捕えるために、果実のないむだな永い時間を費やすことがあります。そういう時に人が、そんなにノラクラしているくらいなら、と思うのも無理はないと思います。自分でさえそう感じる事が時にはあるのですから。私は私たちの心持ちに同情のない要求にすぐ従おうとは思いませんが、しかしなお自分をどうにかしなければならない事を切に感じます。日常の生活は実に貴いのです。言い訳が立つからといって、なすべき事をしないのはやはりいい事ではありません。たとえ仕事に全精力を集中する時でも「人」としてふるまうことを忘れてはならない。それができないのは弱いからです。愛が足りないからです。</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-9001-9386">私は自分の仕事のために愛する者の生活をいくらかでも犠牲にすることを恥じます。この犠牲を甘んじて受けるのは、取りもなおさず、自分の弱さを是認するのです。私は弱さに安んじたくありません。自分の弱さのために他の運命を傷つけ犠牲にするなどは、あまりに恐ろしい。</seg></p>
      </div>
      <div type="layout" source="#source-9386-9447" style="padding-inline-start: 5em">
        <div>
          <head n="2" source="#source-9407-9443"><seg source="#source-9407-9410">三</seg></head>
        </div>
      </div>
      <div>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-9447-9740">また、私は人を責めることの恐ろしさをもしみじみと感じました。私はある思想に拠って行為を非難する事があります。そうして時には自分の行為もまた同じように非難せられなければならない事を忘れています。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-9740-11317">ある時私は友人と話している内に、だんだん他の人の悪口を言い出した事がありました。対象になったのは道徳的の無知無反省と教養の欠乏とのために、自分のしている恐ろしい悪事に気づかない人でした。彼は自分の手である人間を腐敗させておきながら、自分の罪の結果をその人のせいにして、ただその人のみを責めました。彼は物的価値以外を知らないためにすべてをこの価値によって律しようとし、最も厳粛な生の問題をさえもそういう心情の方へ押しつけて行きました。そういう罪過はいろいろな形で彼に報いに来ました。がしかし、彼はその苦悩の真の原因を悟る事ができないのでした。私はその人の人格に同感すればするほど不愉快を感じます。そうしてその苦悩に同情するよりもその無知と卑劣が腹立たしくなります。――で、私は友人と二人でヒドイ言葉を使って彼を罵りました。私の妻は初めから黙って側で編物をしていました。やがて（いつも悪口をいう時にそうであるように）私はだんだん心の空虚を感じて来て、ふと妻の方に眼をやりました。妻も眼を上げて黙って私を見ました。その眼の内には一撃に私を打ち砕き私を恥じさせるある物がありました、――私の欠点を最もよく知って、しかも私を自分以上に愛している彼女の眼には。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-11317-12438">私はすぐ口をつぐみました。後悔がひどく心を噛み始めました。人を裁くものは自分も裁かれなければならない。私はあの人を少しでもよくしなければならない立場にありながら、あの人に対する自分の悪感のみを表わしたのです。私の悪感は彼をますます悪くしようとも、善くするはずはありません。すでにこれまでにも彼を圧迫する事によって彼の自暴自棄を手伝ったのは、私であったかも知れません。私もまた彼の頽廃について責めを負うべき位置にあるのです。ことに私は（物的価値に重きをおかないと信じている私は）彼のためにどれだけ物的の犠牲を払ってやりましたか。物的価値に執する彼の態度への悪感から私はむしろそういう尽力を避けていました。そうしてこの私の冷淡は彼の態度をますます浅ましくしました。ここでもまた私は責めを脱れる事ができないのです。畢竟私の非難が私自身に返って来ます。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-12438-12685">私は自分の思想感情がいかに浮ついているかを知りました。私が立派な言葉を口にするなどは実におおけない業です。罵っても罵っても罵り足りないのはやはり自分の事でした。</seg></p>
      </div>
      <div type="layout" source="#source-12685-12746" style="padding-inline-start: 5em">
        <div>
          <head n="2" source="#source-12706-12742"><seg source="#source-12706-12709">四</seg></head>
        </div>
      </div>
      <div>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-12746-12946">私は道徳をただ内面的の意義についてのみ見ようとしています。そうして他人の不道徳を罵る時にはその内面的の穢なさを指摘しようとします。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-12946-14294">しかし自分の心はどれほど清らかになっているか。恥ずべき行為をしないと自信している私は、心の中ではなおあらゆる悪事を行なっているのです。最も狂暴なタイラントや最も放恣な遊蕩児のしそうなことまでも。もちろん私は気づくとともにそれを恥じ自分を責めます。しかし一度心に起こった事はいかに恥じようとも全然消え去るという事がありません。時には私は自分の心が穢ないものでいっぱいになっている事を感じます。私たちはこの穢ないものを恥じるゆえに、抑圧し征服し得るゆえに、安んじていていいものでしょうか。私は自分に親しい者たちの心の内に同じような穢ないものがある事を想像するのはとてもたまらない。それと同じく他の人も私の心の暗い影を想像するのは非常に不愉快だろうと思います。私はどうしても心を清浄にしたい。たとえそのために人間性質のある点に関する興味が涸渇しようとも。私が他人を罵るのは畢竟自分を罵ることでした。他人の内に穢ないもののある事を見いだすのは、要するに自分の内にも同じもののある証拠に過ぎませんでした。</seg></p>
      </div>
      <div type="layout" source="#source-14294-14355" style="padding-inline-start: 5em">
        <div>
          <head n="2" source="#source-14315-14351"><seg source="#source-14315-14318">五</seg></head>
        </div>
      </div>
      <div>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-14355-14510">あまりジメジメした事ばかりを書いてすみません。しかしあなたに訴えれば私の胸はいくらか軽くなるのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-14510-14905">私たちが今矮小だという事実は、実際私たちを苦しくさせます。けれども苦しいからといってこの事実を認めないわけには行きません。私よりも聡明な人は私よりももっとよくこの事実を呑み込んでいると思います。自分の小ささを知らない青年はとても大きく成長する事はできますまい。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">しかしこの事実の認識はただ「愚痴」という形にのみ現わるべきものでないと思います。愚痴をこぼすのは相手から力と愛を求めることです。相手にそれだけ力と愛とが横溢していない時には、勢い愚痴は相手を弱め陰気にします。我々から愛を求めている者に対して我々の愚痴を聞かせるのはあまりに心なき業だと思います。</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-15351-16145">私たちは未来を知らない。未来に希望をかける事が不都合なら未来に失望する事も同じように不都合です。しかし私たちはただ一つ、生が開展である事を知っています。私たちはただ未来を信じて、現在に努力すればいいのです。努力のための勇気と快活とを奮い起こせばいいのです。現在の小ささを悟れば悟るほど努力の熱は高まって来ます。自分の運命を信じて、今に見ろ今に見ろと言いながら努力する事は、自分に対していいのみならず、自分の愛する人々を力づけ幸福にする意味で、他人のためにもいい事です。どこまで行けるかなどという事はこの場合問題ではありません。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-16145-16633">ただ私はこの運命の信仰が現在の無力の自覚から生まれている事を忘れたくないと思います。ここに誇大妄想と真実の自己運命の信仰との別があるのです。成長しないものと不断に力強く成長するものとの別があるのです。前者は自己を誇示して他人の前に優越を誇ります。後者は自己を鼓舞し激励するとともに、多くの悩み疲れた同胞を鼓舞し激励します。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-16633-16886">あなたに愚痴をこぼしたあとでこんな事をいうのは少しおかしいかも知れません。しかし私はあなたに愚痴をこぼしている内に自然こういう事を言いたい気持ちになって来たのです。</seg></p>
      </div>
      <div type="layout" source="#source-16886-16947" style="padding-inline-start: 5em">
        <div>
          <head n="2" source="#source-16907-16943"><seg source="#source-16907-16910">六</seg></head>
        </div>
      </div>
      <div>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-16947-17426">私はどんなに自分に失望している時でも、やはり心の底の底で自分を信じているようです。眼が鈍い、頭が悪い、心臓が狭い、腕がカジカンでいる、どの性質にも才能にも優れたものはない、――しかも私は何事をか人類のためになし得る事を深く固く信じています。もう二十年！　そう思うとぐッたりしていた体に力がみなぎって来る事もあります。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">運命と自己。この問題は久しく私を悩ませました。今でもよくわかりません。しかしこれまで経て来た自分の道を振り返って見ると、重大な事はすべて予期を絶していました。これから起こる事も恐らく予期をはずれた事が多いでしょう。私はいろいろな事を考えたあとでいつも「明日の事を思い煩うな」という聖語を思い出し、すべてを委せてしまう気になります。そうしてどんな事が起ころうとも勇ましく堪えようと決心します。</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-18016-18840">しかし私はすでに与えられたものに対してはのんきである事ができません。運命が自分をいかに変化しようとも自分が他人になる事は決してありますまい。私の個性は性格は私の宿命です。どういう樹になるかは知らないが、芽はすでに出ているのです、伸びつつあるのです。芽の内に花や実の想像はつかないとしても、その花や実がすでに今準備されつつある事は確かです。今はただできるだけ根を張りできるだけ多く養分を吸い取る事のほかになすべき事はないのです。いよいよ果実が熟した時それがいい味を持っていなくても、私は精いっぱいいい実をならそうと努めたことで満足しようと思います。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-18840-20221">とはいえ、自分の才能のことは繰り返し繰り返し問題になります。そうして才能を重大視するなといういろいろの人の言葉が、私の底冷えのしている心に温かい慰めを与えてくれます。天才は勉強だ、彼らの才能はさほど特殊なものではない（ニイチェのような人ですら三十四の年にこう言いました）、才能少なくして偉大な人間になった人はあらゆる方面にある、彼らはただごまかしをしない、堅実な、辛抱強い Handwerker-Ernst があったのだ。――こういう言葉が私に力をつけてくれます。まことに英雄的生活が試練と苦悩と精力と勤労とにおいておもに偉大であったことは、私たちの勇気を鼓舞し私たちをふるい立たせます。憐れなる悩める者も誠実な勇気と努力とをもってすればついには何者かになり得るのです。偉大な人々の悲劇的生活は私たちの慰藉でありまた鞭であります。彼らが小さい一冊の本を書くためにも、その心血を絞り永年の刻苦と奮闘とを通り抜けなければならなかった事を思えば、私たちが生ぬるい心で少しも早く何事かを仕上げようなどと考えるのは、あまりにのんきで薄ッぺらすぎます。</seg></p>
      </div>
      <div type="layout" source="#source-20221-20282" style="padding-inline-start: 5em">
        <div>
          <head n="2" source="#source-20242-20278"><seg source="#source-20242-20245">七</seg></head>
        </div>
      </div>
      <div>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-20282-21886">私は才能乏しくしてしかも善良なる人が、宿命として自分に押しつけられている自分の性質を、呪い苦しんでいるのに出逢うごとに、わけもなく涙ぐましい心持ちになります。ことに彼が沈黙と憂愁との内に静かにうなだれているのを見ると、じっとしていられないような、飛びついて抱いてやりたいような心持ちになります。一つには身にツマされるせいもあるでしょう。しかしこの悲哀は人類の悲哀です。この悲哀にしみじみと心を浸して、ともに泣き互いに励まし合うのは、私にとっては最も人間的な気のする事です。私はこういう人に対していかなる場合にも高慢である事はできません。特にその才能の乏しいのを嘲うような態度は、恐ろしい冷酷として、むしろ憎むべき事に思います。才能の乏しいのは確かにいい事ではないでしょう。しかし才能が人間のすべてではありません。才能の乏しい者にも愛すべき者があり才能の豊かな者にも卑しむべき者があります。才能を重んずる現代の社会から、特に才能に富んだ人を集めた特殊の場所からは、あまり偉大な人が生まれて来ないという事実は、いかにも反語らしく私たちの心に響きます。私は才能を誇りながらついに何の仕事をも成し遂げない高慢な人よりも、才能の乏しい謙遜な人の方をはるかに愛しなつかしみます。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-21886-22653">けれども私は、同じく自分の凡庸を意識していても、それをごまかそうとかかっている人に同情する事はできません。彼らは何らかの点で自分を是認し安心しようとするのです。私はこういう人の前に出ると、ひどい腐敗の臭気を感じます。そうして、悲しむべき事を悲しまず、偉大な者にひざまずかず、畢竟人類の努力に対して没交渉であろうとする彼らの態度に、抑え難き憤怒を感じます。しかもこのような人がいかに多いことでしょう。彼らの前には偉大な芸術も思想も味なき塩と異ならないのです。彼らは、全体、人生が偉大である必要を認めないのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-22653-23121">私は正直に悩む人に対しては同胞らしい愛を感じます。現世の濁った空気の中に何の不満もなさそうに栄えている凡庸人に対しては、烈しい憎悪を感じます。安価な楽天主義は人生を毒する。魂の饑餓と欲求とは聖い光を下界に取りおろさないではやまない。人生の偉大と豊饒とは畢竟心貧しき者の上に恵まれるでしょう。悩める者、貧しき者は</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-23121-23142"><rb>福</rb><rt>さいわい</rt></ruby><seg source="#source-23142-23325">なるかな。私は自分の貧しさに嘆く人々が一日も早く精神の王国の内に、偉大なる英雄たちの築いたあの王国の内に、限りなき命の泉を</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-23325-23337"><rb>掬</rb><rt>く</rt></ruby><seg source="#source-23337-23443">み、強い力と勇気とをもってふるい立つ日の来たらんことを祈っています。</seg></p>
      </div>
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          <head n="2" source="#source-23464-23500"><seg source="#source-23464-23467">八</seg></head>
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        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-23504-24121">もう夜がふけました。沈んだ心持ちで書き始めたこの手紙をとりとめもなく書きつづけて行く内に、私は興奮して五体に力の充ちたことを感ずるようになりました。あなたは喜んでくださるでしょう。あなたに読んでいただくずっと前に、あなたに手紙を書いたという事だけで私にはもう効能があったのです。私はこの手紙に論理的連絡の欠けている事を知っています。しかしそれはかまいません。私はもうこの手紙を書き初めた時の目的を達しました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-24121-24376">空が物すごく晴れて月が鋭く輝いています。虫の音は弱々しく寂れて来ました。私は今あなたと二人で話に夜をふかした時のような心持ちになっています。では安らかにおやすみなさい。</seg></p>
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        <note type="source-attribution" source="#source-24384-24607"><seg type="source-line">底本：「偶像再興・面とペルソナ　和辻哲郎感想集」講談社文芸文庫、講談社</seg><lb/><seg type="source-line" style="padding-inline-start: 3em">2007（平成19）年4月10日第1刷発行</seg><lb/><seg type="source-line">初出：「新小説」</seg><lb/><seg type="source-line" style="padding-inline-start: 3em">1916（大正5）年11月</seg></note>
        <note type="transcriber-note" source="#source-24607-24926"><seg type="source-line">入力：門田裕志</seg><lb/><seg type="source-line">校正：noriko saito</seg><lb/><seg type="source-line">2011年5月6日作成</seg><lb/><seg type="source-line">青空文庫作成ファイル：</seg><lb/><seg type="source-line">このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫（http://www.aozora.gr.jp/）で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。</seg></note>
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      <note type="parser-completion" n="true">The n attribute is true when no parser diagnostic of error severity was raised for this source. What the converter could not interpret is recorded in the interpretation-problem and parser-diagnostic notes.</note>
      <note type="source-decoding">windows-31j</note>
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