一

北海道の<ruby><rb>留萌</rb><rt>るもい</rt></ruby>港……正確に言えば、<ruby><rb>天塩国留萌郡留萌町</rb><rt>てしおのくにるもいぐんるもいまち</rt></ruby>であろうが、もちろんこんな<ruby><rb>辺陬</rb><rt>へんすう</rt></ruby>の一小港などが諸君の関心を<ruby><rb>惹</rb><rt>ひ</rt></ruby>いていようとも思われぬ。

札幌から宗谷本線<ruby><rb>稚内</rb><rt>わっかない</rt></ruby>行に乗って三時間、深川という駅で乗り換えて更に一時間半、留萌本線の終端駅と言えばすこぶる体裁よく聞えるが、吹雪の<ruby><rb>哮</rb><rt>ほ</rt></ruby>え狂う北日本海の暗い<ruby><rb>怒濤</rb><rt>どどう</rt></ruby>の陰に<ruby><rb>怯</rb><rt>おび</rt></ruby>えながら瞬いているような<ruby><rb>侘</rb><rt>わび</rt></ruby>しい漁師町と思えば間違いはない。

十余年前の一月半ばのある寒い日の夕方、私はここへ行ったことがある。何のために、こんな北の<ruby><rb>端</rb><rt>はず</rt></ruby>れの小さな港町などへわざわざ行ってみたのか、今考えてみてもハッキリとは覚えていないが、大体その時北海道を旅行して歩いたというのが別段これぞという目的があったわけでもなく、いよいよ私も北海道を去って東京へ出ようと決心していた頃であったから、その時分気心の合っていた札幌の芸者で君太郎という二十一になる自前の<ruby><rb>妓</rb><rt>こ</rt></ruby>と、しばらく人眼を避けて二人だけになりたい一種の逃避行なのであった。

だから行く先なぞはどこでも構わない。ただその時その時の気任せに、なるべく人眼に付かない<ruby><rb>辺鄙</rb><rt>へんぴ</rt></ruby>な静かな場所ばかり飛んで歩いていたようなものでもあった。

その時も、大晦日を眼の前に控えた暮の二十五、六日から札幌を発って、<ruby><rb>有珠</rb><rt>うす</rt></ruby>、<ruby><rb>登別</rb><rt>のぼりべつ</rt></ruby>、<ruby><rb>音威音府</rb><rt>おといねっぷ</rt></ruby>、<ruby><rb>名寄</rb><rt>なよろ</rt></ruby>と言った、いずれも<ruby><rb>深々</rb><rt>しんしん</rt></ruby>と雪に埋もれて眠ったような町々ばかり、今にもまた降り出しそうに重苦しく垂れ込めた灰色の空の下を、これという<ruby><rb>定</rb><rt>き</rt></ruby>めた<ruby><rb>計画</rb><rt>もくろみ</rt></ruby>もなく旅を続けていた。お互いに別段、そう熱を上げて夢中になっていたというのでもなかったが、さりとてひと思いに他人になってしまうだけの決心もつかず、ただ何となくズルズルと、一日でも長くこうして一緒に暮していたいような気持が、金のなくなるまでまだまだこんな旅行を続けているつもりなのであった。

……が、まあ、そんなことなぞはどうでもいい。なにも君太郎のことを書こうというわけではなかったから。そんな余計な<ruby><rb>穿鑿</rb><rt>せんさく</rt></ruby>なぞはどうでもいいが、ともかく私たちが留萌の港に着いたのは夕方の五時頃ではなかったかと思われる。北海道の原野はもう<ruby><rb>蒼茫</rb><rt>そうぼう</rt></ruby>と暮れ果てて雪もよいの空は<ruby><rb>暗澹</rb><rt>あんたん</rt></ruby>として低く垂れ下っていた。

そして町は停車場前の広場から両側の<ruby><rb>堆</rb><rt>うずたか</rt></ruby>く掃き寄せられた雪の吹き溜りの陰にチラチラと灯を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>かせていたが、私たちはもちろんこんな淋しい港町なぞに一人の知り人があったわけでもない。灯を<ruby><rb>翳</rb><rt>かざ</rt></ruby>して迎えに出ている番頭に連れられるまま、駅前の丸源という三階建のこの辺としてはかなりの宿屋に案内せられた。

ともかくひと風呂暖まって、丹前に<ruby><rb>寛</rb><rt>くつろ</rt></ruby>ぎながら、<ruby><rb>夕餉</rb><rt>ゆうげ</rt></ruby>の膳を囲んでゆっくりと飲みはじめたのであったが、こんな辺陬な駅への区間列車なぞはこれでおしまいだったのであろう。機関車の入れ換え作業でもしているのか、機関庫と覚しいあたりからは蒸気を吐き出す音と一緒に鈍い汽笛の響きが、雪を<ruby><rb>孕</rb><rt>はら</rt></ruby>んで<ruby><rb>寂然</rb><rt>ひっそり</rt></ruby>とした夜の厚い空気を<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>わせて、いかにも雪深い田舎の停車場らしい趣を伝えてきた。

そんな空気の中で私と君太郎とは、さっき女中の<ruby><rb>焚</rb><rt>た</rt></ruby>き付けて行ったストーヴにどんどん薪を<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>り込みながら、<ruby><rb>炬燵</rb><rt>こたつ</rt></ruby>の上で熱いやつを<ruby><rb>酌</rb><rt>く</rt></ruby>み交していたが、もう十日の余もこうして場所を換えては飲み汽車の中では飲みして酒に<ruby><rb>爛</rb><rt>ただ</rt></ruby>れ切った喉には今更変った話があるというでもなければ酒の味が旨いというのでもなく、いい加減に切り上げて、各々床に<ruby><rb>潜</rb><rt>もぐ</rt></ruby>り込んでしまった。そしてさあ、時間にしてどのくらいも経った頃であったろうか。

二

ふと私は、ただならぬ表の騒がしさに夢を破られて、がばと跳ね起きた。沈々と更け行く<ruby><rb>凍</rb><rt>い</rt></ruby>てついた雪の街上を駈け抜ける人の<ruby><rb>跫音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>、金切り声で泣き叫ぶ声、戸外からは容易ならぬ<ruby><rb>気色</rb><rt>けしき</rt></ruby>を伝えてくる。

てっきり火事だと私は直観した。子供の時分から、火事と聞くと一応飛び出して検分してこぬことには、どうしても気の納まらぬ性分であった。いわんや、こんな知った人もない一小<ruby><rb>都邑</rb><rt>とゆう</rt></ruby>！　風はないようであったが、旨く行って町中総<ruby><rb>舐</rb><rt>な</rt></ruby>めの大火にでもなってくれれば有難いぞと念じながら、私は丹前の上にしっかりと帯を締め直していると、眠っているとばかり思っていた君太郎が、重そうな<ruby><rb>丸髷</rb><rt>まるまげ</rt></ruby>の下から、パッチリと<ruby><rb>眸</rb><rt>め</rt></ruby>を開いた。これもさっきから表の騒がしさに眼が<ruby><rb>醒</rb><rt>さ</rt></ruby>めていたらしい。

「火事だっていうと、こんなところへ来てまで飛び出すのねえ。方角も知らずにいて、迷子にでもなったらどうするの？」

と<ruby><rb>微笑</rb><rt>ほほえ</rt></ruby>んだが、

「そんな恰好をして、風邪でも引かないように気をつけて頂戴！」

と夜具の<ruby><rb>襟</rb><rt>えり</rt></ruby>に頬を埋めて<ruby><rb>眩</rb><rt>まぶ</rt></ruby>しそうに薄眼をしながら言った。

そのうちに、宿屋の者も起き出たらしい。ガラガラと大戸の開く音がしたが、途端に、

「あらあら、大変だ！　大変だ！　どうしましょう、番頭さん！　早く来て下さいよう！　早くさあ！」

と、涙ぐんだ甲高い女の叫びがした。

私は、大急ぎで階段を駈け降りて、<ruby><rb>有合</rb><rt>ありあわ</rt></ruby>せの下駄を突っ掛けたが、一足躍り出した途端に思わず<ruby><rb>固唾</rb><rt>かたず</rt></ruby>を呑んで、釘付けになった。

街路の上、人の腰の高さほども雪は踏み固められて、そこが冬中の通路となって、カチカチに凍りついていた。そして家々の軒の脇には、屋根までも届くくらい、掃き寄せられた雪や吹き溜りの雪が小山のように賑やかに林立していた。その高い通路の上を今、こけつ<ruby><rb>転</rb><rt>まろ</rt></ruby>びつ、小山の陰になって、見えつ隠れつ、全身<ruby><rb>生</rb><rt>いき</rt></ruby>不動のように<ruby><rb>紅蓮</rb><rt>ぐれん</rt></ruby>の焔を上げた三人の男女が、追いつ<ruby><rb>逐</rb><rt>お</rt></ruby>われつ狂気のようになって、走り狂っているのであった。

そして廻りを囲んだ人々は、火を<ruby><rb>揉</rb><rt>も</rt></ruby>み消そうとして、家から<ruby><rb>担</rb><rt>かつ</rt></ruby>いできた蒲団を往来に投げ出すやら、座蒲団を持ってこの三人を追い駈けるやら、必死になって口々に何か<ruby><rb>呶鳴</rb><rt>どな</rt></ruby>り合っているところであった。

しかも焔に包まれた三人が<ruby><rb>雪崩</rb><rt>なだれ</rt></ruby>を打って転がり込んで来る向う側の店々では、家に火の付くのを恐れて<ruby><rb>慌</rb><rt>あわ</rt></ruby>てて戸を閉め出すやら、未だかつて私は、生れてこれほどの<ruby><rb>凄</rb><rt>すさま</rt></ruby>じい光景を見たことがなかった。<ruby><rb>夜眼</rb><rt>よめ</rt></ruby>にも<ruby><rb>仄</rb><rt>ほの</rt></ruby>白い雪の街路を転がり廻っているこの紅蓮の焔の周囲を遠巻きにして、黒い人影は右往左往にただ混乱し切っていた。

幸いに、私の<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>んでいたところからは家数にして五、六軒ばかりも離れていたから、こちら側へ転がって来る危険はなかったが、私の側に震えている女たちは、生きた心地もなく身<ruby><rb>悶</rb><rt>もだ</rt></ruby>えしながら、

「早く、どうにかして！　あ、早く消して上げて！　あ！　ああ！」

と身も世もなくおろおろ声をふり絞っていた。

その間にも、組んず<ruby><rb>解</rb><rt>ほぐ</rt></ruby>れつ、焔の<ruby><rb>塊</rb><rt>かたまり</rt></ruby>は互いに往来を<ruby><rb>逐</rb><rt>お</rt></ruby>いつ転げつしていたが、私にもようやくおぼろ気ながらに、この場の様子が呑み込めてきた。走り狂っていると思ったのは私の見誤りであった。

男一人と女二人、全身火焔に包まれた年若い娘の火を揉み消そうとして、これも火焔に包まれた<ruby><rb>年増</rb><rt>としま</rt></ruby>の女が必死に追っ駈けている。そのまた女を追って火焔を上げた男が、女の火を叩き消そうとして狂気のように<ruby><rb>苛</rb><rt>あせ</rt></ruby>っている。火の玉が三つ<ruby><rb>巴</rb><rt>どもえ</rt></ruby>になって、互いに追っ駈け合っているのであった。そしていずれも烈しい焔を全身から放った<ruby><rb>火達磨</rb><rt>ひだるま</rt></ruby>のような恰好で、組んず解れつ街路を転げ廻っている。無残とも凄惨とも評しようのない地獄絵のような場面なのであった。

三

私も夢中で宿屋の中へ駈け込んで、帳場から座布団を<ruby><rb>搬</rb><rt>はこ</rt></ruby>び出そうとしたが、もうその時には、奥から男衆たちがどんどん蒲団を<ruby><rb>担</rb><rt>かつ</rt></ruby>ぎ出すところであった。

「幸さん！　しっかりしなよう！　もう大丈夫だあ！　今医者様が来るでなあ！　すぐに医者様が来るでなあ！」

「お<ruby><rb>内儀</rb><rt>かみ</rt></ruby>さん！　大丈夫だぞう！　妹さんは助かったぞう！　気をしっかり持ちなせえよう！　大丈夫だからしっかりしなせえよう！」

喧騒の中からは、口々に勢いをつけている声が入り乱れて耳を打ってきた。そして<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>んでいた女たちが<ruby><rb>堪</rb><rt>たま</rt></ruby>らなくなったのであろう。ワッと泣き出す声や<ruby><rb>啜</rb><rt>すす</rt></ruby>り上げる声が、一時にそこここから湧き起ってきた。

そして私が歯の根も合わぬくらいガタガタと胴震いしながら、搬び出される蒲団の後についてまた表へ飛び出した時には、もう廻りにいた人たちが、やっとのことで<ruby><rb>躍</rb><rt>おど</rt></ruby>り<ruby><rb>蒐</rb><rt>かか</rt></ruby>って蒲団蒸しにして三人の火を揉み消したところと見えた。ジリジリと皮膚の焦げる何とも言えぬ異様な<ruby><rb>腥</rb><rt>なまぐさ</rt></ruby>さがプウンと鼻を<ruby><rb>衝</rb><rt>つ</rt></ruby>いて、人垣と人垣の間や往来に散らばった<ruby><rb>土嚢</rb><rt>どのう</rt></ruby>のような蒲団の隙間から、ガヤガヤと黒い影が大声に<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>り合っていた。

それでもやっと助かったなと人事ならず私も<ruby><rb>吻</rb><rt>ほっ</rt></ruby>としたが、ちょうどその時であった。ギャッ！　と悲鳴ともつかず絶叫ともつかぬ異様な叫びが挙がると同時に、<ruby><rb>提灯</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>の光が<ruby><rb>慌</rb><rt>あわただ</rt></ruby>しく飛び<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>いて私の眼前に立ちはだかっていた人波が一時に崩れ立った。

その人<ruby><rb>雪崩</rb><rt>なだれ</rt></ruby>に危うく突き倒されそうになって、身を<ruby><rb>替</rb><rt>かわ</rt></ruby>した途端、崩れ立った人垣の間から私は、見るべからざる物を眺めてしまったのであった。それは往来の、丸められた蒲団の下からムクムクと起き出した女が――ボロボロに焼け焦げた着物の恰好から、私も確かにそれを年増の方の女だと見たのであるが――突然に泳ぐような足取りで、フラフラと立ち出でて、二足三足歩み出したかと思う間もなくたちまち、バッタリ倒れて、

「いけねえ、いけねえ！　もうみんな助かっていると言うのに！　お<ruby><rb>内儀</rb><rt>かみ</rt></ruby>さん！　動き出しちゃいけねえじゃねえか！」

と叱りつけるようにして、その後から一人の男が大急ぎで蒲団を広げて追っ駈けてゆくところであった。

時間にして、わずか五秒かものの十秒とも経たぬ瞬時の出来事なのであったが、私の生涯忘れることのできぬ映像を焼きつけられたのは、立ち上った時のそのお内儀さんの顔であった。頭髪も眉毛も皮膚もすっかり<ruby><rb>爛</rb><rt>ただ</rt></ruby>れ落ちて、頭の皮が<ruby><rb>剥</rb><rt>は</rt></ruby>がれてしまったと見えて顔頭の区別もなくただベロンとノッペラボウに腫れ上って、もう視覚も失われていたのであろう。あらぬ方へ向ってフラフラと踏み出した、その<ruby><rb>刹那</rb><rt>せつな</rt></ruby>の顔であった。

思わず私は、眼を閉じた。しかしそれも瞬間！　倒れてパッと上から蒲団が<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>せられたと見ると、怖いもの見たさで一遍崩れ立った人垣はまた<ruby><rb>犇</rb><rt>ひ</rt></ruby>し犇しと廻りへ取り囲んで行った。方々から啜り泣きの声が一層烈しく湧き起った。

「あねえになっても、やっぱり妹さんの事が気に<ruby><rb>懸</rb><rt>か</rt></ruby>かると見える。なむあみだぶ！　なむあみだぶ！　お<ruby><rb>内儀</rb><rt>かみ</rt></ruby>さん、案じることはねえだぞい！　お<ruby><rb>前</rb><rt>めえ</rt></ruby>さんの一念だけでも妹さんはきっと助かるぞい！　なむあみだぶ！　なむあみだぶ！」

と口の中で<ruby><rb>唱名</rb><rt>しょうみょう</rt></ruby>を称えているお婆さんもあった。

私はその夜着いたばっかりで、妙な抑揚のある土地の言葉に<ruby><rb>馴染</rb><rt>なじ</rt></ruby>みがなく、人々の叫ぶ言葉の意味がよくわからなかったが、おそらく医者や病院の名を口々に呼んでいたのであろうと思われる。振り<ruby><rb>翳</rb><rt>かざ</rt></ruby>される<ruby><rb>提灯</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>の灯がますます殖えて、巡査や医者も駈けつけて来たらしく、人出と喧騒は刻一刻とその度を増してきた。<ruby><rb>懐手</rb><rt>ふところで</rt></ruby>をしていた私の手に、突然袖口から金氷のように冷たい物が触ってきた。場合が場合だけに思わず<ruby><rb>竦然</rb><rt>ぞっ</rt></ruby>として振り向いたが、そこには君太郎が大きな<ruby><rb>眸</rb><rt>め</rt></ruby>に涙を一杯溜めて、訴えるように私を振り仰いでいたのであった。

「見てたのかい？」

と聞いたら、

「ええ」

と<ruby><rb>睫毛</rb><rt>まつげ</rt></ruby>をしばたたいたが、

「助かるでしょうか？　どうかして助けて上げたいわ」

と<ruby><rb>潤</rb><rt>うる</rt></ruby>んだ声で<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いた。

無言で<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>きながらふところの中で君太郎の<ruby><rb>華奢</rb><rt>きゃしゃ</rt></ruby>な手を握りしめていたが、私もこの時ほど君太郎をいとおしく感じたことはなかった。

この世の中というものは、<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>思いも掛けぬ災難が降りかかってくるかわからぬ、一寸先は闇の世界だから、なまじっか、野心なぞ起さずに、もう東京へもどこへも行かないで、どこか北海道の<ruby><rb>涯</rb><rt>はて</rt></ruby>へでも行って君太郎と一緒に世帯を持って生涯を送ってしまおうかと、胸の迫るような感慨に打たれたのであった。

そして、今手を握り合って佇んでいる君太郎と私との関係が芸妓とお客とか、芸妓とその情人とか言ったようなものとはどうしても考えられず、私にはまるで頼りどころない、妹の手でも<ruby><rb>曳</rb><rt>ひ</rt></ruby>きながら、この厳粛な人生の出来事を<ruby><rb>凝視</rb><rt>みつめ</rt></ruby>ているような心地がしたのであった。そんな思いを胸一杯にたぎらせながら、私はそこに<ruby><rb>茫然</rb><rt>ぼうぜん</rt></ruby>と突っ立っていた。

「もう運ばれて行ってしまったわ。さあ、はいりましょうよ。ね」

と、不仕合せな人たちの方へしゃがんで掌を合せていた君太郎に促されて、私もようやく座敷へ戻って来たが、酷寒北海道の真夜中はおそらく零度を五、六度くらいは下っていたろうと思われる。

今までは気もつかなかったが、部屋へ戻って来ると一時に寒さが身に<ruby><rb>徹</rb><rt>こた</rt></ruby>えてきてブルブルと胴震いがして、急には口もきけなかった。しかも口がきけなかったばかりか、もう眼が冴えて、床へ潜り込んでもなかなか眠れるものではなかった。ただ眼先にちらついてくるのは、たった今のあのフラフラと立ち上った時の顔も頭も区別のつかないノッペラボウなお内儀さんの姿ばかりであった。

「……どうしても眠れないわ。ちょいと！　起きて下さらない？　ね、起きてお酒でも飲んで話してましょうよ」

と、これもいったん床へはいった君太郎がムックリ起き上ったのを<ruby><rb>機会</rb><rt>しお</rt></ruby>に、私も蒲団を離れてしまった。

ごうごうと音だてて燃え盛っているストーヴの合間合間に耳を澄ませると、表はまだざわめいて、<ruby><rb>階下</rb><rt>した</rt></ruby>でも起きて話しているらしく、まだみんな異常な出来事の昂奮から落ちつきを取り戻していないらしい様子であった。

そしてやっと酒の仕度を整えて来た女中は、真っ青な<ruby><rb>動悸</rb><rt>どうき</rt></ruby>の静まらぬ顔をして、

「とんだお騒がせをしましてん」

と自分が粗相でもしでかしたかのように、謝った。

四

この女中に聞くと、怪我人たちはすぐ側の池田病院とかいうのへ運ばれて行ったが、三人とも全身焼け<ruby><rb>爛</rb><rt>ただ</rt></ruby>れてとうてい命は取り留め得なかろうということであった。

発音の聞きとりにくいこの地方の浜言葉であったから、明瞭にはわからなかったが、すぐ七、八軒先の向い側の小さな時計屋の亭主とお内儀さんと亭主の妹との三人で、<ruby><rb>夜業</rb><rt>よなべ</rt></ruby>をやっていながらふとした粗相で傍に置いてあった<ruby><rb>揮発</rb><rt>きはつ</rt></ruby>の大罐に火が移って、三人とも頭からその爆発を浴びてしまったというのであった。亭主がお内儀さんの火を揉み消そうとせず、お内儀さんが亭主の妹の火を消そうともせずまた妹が兄の火を揉み消そうと<ruby><rb>苛</rb><rt>あせ</rt></ruby>らないで三人とも、それぞれに自分たちの身体についている火さえ消そうと努めたならば、まさかあんな大事にもならなかったであろうが、あんまり夫婦兄弟の情合の深いのもこういう時には<ruby><rb>善</rb><rt>よ</rt></ruby>し<ruby><rb>悪</rb><rt>あ</rt></ruby>しだというふうなことを、まだ震えの止まらぬらしいこの女中は、幾分腹立たしそうに<ruby><rb>朴訥</rb><rt>ぼくとつ</rt></ruby>な言葉で話してくれた。すんでのところ火事になりかかったのをその方だけは隣りの乾物屋の親父とかが揉み消してしまったということであった。

「まあま、お酌もせんどいて、えろう済まんことしてしまいましたけん。冷えて<ruby><rb>拙</rb><rt>まず</rt></ruby>うなりましてん？」

と、女中は気がついて銚子を取り上げたが、別に酒がそんなに飲みたい気もしなかった。

「いいよ、いいよ、自分でするから」

と女中を帰した後で、冷えた盃を持ったままメラメラと燃えしきるストーヴの焔を眺めながら、通り魔のような<ruby><rb>夜前</rb><rt>やぜん</rt></ruby>の出来事を考えていると、

「世の中なんて、<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>どんな災難が降って湧くかわからないものねえ、やっぱりあたし、東京へなんか行って出世してもらわなくてもいいわ。こっちで一緒に暮しましょうよ。人の命なんて何時どんなことになるかわからないんですもの」

とふだんの勝気にも似ずしみじみ感じたように、しかし幾分甘えた口調で君太郎が言った。が、それでも私が無言でストーヴをみつめて考え込んでいると、ふと気を変えたように、「明日発つ時、その池田病院とかいうのへ、ちょっと玄関だけでも見舞って行きましょうね。そうしておけば、後まで嫌な思いが残らないで済みますから」

と、しんみり言った。

「ああ、そうしよう！　そうしよう！」

と、私も賛成した。君太郎に勧められるまでもなくそうでもしなければ、今の私にも到底このままでは、この<ruby><rb>惨</rb><rt>むご</rt></ruby>たらしい記憶に幕が降ろせそうもないのであった。丸髷には結っていても一見誰にでもすぐそれとわかる君太郎なぞを連れてそんなところへ顔出しするのは、いかにも人の不幸のところへ心ない<ruby><rb>遊蕩児</rb><rt>ゆうとうじ</rt></ruby>の<ruby><rb>気紛</rb><rt>きまぐ</rt></ruby>れな<ruby><rb>仕業</rb><rt>しわざ</rt></ruby>と人に取られるかも知れなかったが、思う人には何とでも思わせておいて、明日はぜひそうしておいてからこの留萌の町を去ってしまおうと考えていたのであった。

床へはいってみたり、ストーヴの前へ座を占めてみたり、そして東京へ行くとか行かないとか、ポソポソと二人でしゃべり合ってとうとう私たちは一晩中眠らずじまいであった。

翌る朝この妙な因縁の町を発つ時には、もちろん病院の門口まで私たちは見舞に行った。停車場から二、三町足らずの距離であったが、町の世話役らしい人々が多勢詰めかけて、病院の入り口はごった返していた。そしてそこには私たちの泊った丸源の亭主もいたが、<ruby><rb>眼敏</rb><rt>めざと</rt></ruby>く私たちの姿を見つけると大急ぎで飛出して来た。

「とんだ御迷惑をお掛けしまして……またどうぞお<ruby><rb>懲</rb><rt>こ</rt></ruby>りなく、ぜひお近いうちに」

と、頭を下げた。それにつれてその辺にいた人々も何かは知らず頭を下げた。

「とうとういけませんでした。一人残った妹の方も、つい今し方息を引き取りました」

と亭主は身寄りの者にでも話すかのようにしんみりとそう言った。

わずかばかりではあったが霊前へ供えてくれるように頼んでおいて、逃げるように私たちはまた停車場へ出て来たが、身を切るように寒い朝の町はしいんとしてまだ人っ子一人通ってもいなかった。もちろんまだ札幌へ引揚げようという気持も起らず、さりとてこれからどこへ行こうと決めていたわけでもなかったが、ともかくやっと汽車が動き出して<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>に相客もない二等車の中でガチガチ震えながら、だんだん遠ざかって行く国境の連山の<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>にこの不思議な思い出の町を眺めていると、やっと私にも昨夜からの気持が納まって人心地が徐々についてくるような気持がしたのであった。

五

……あれからもう十何年かになる。私はやはり君太郎の留めるのを振り切って東京へ出て来たが、もうそれっきり彼女には逢わなかった。この頃人<ruby><rb>伝</rb><rt>づ</rt></ruby>てに聞けば、彼女は今では札幌見番でも一、二を争う大きな芸妓家の<ruby><rb>女将</rb><rt>おかみ</rt></ruby>になって、最近では裏の方に新築を始めて、料理屋も始めるらしいという噂であったが、私はこの昔<ruby><rb>馴染</rb><rt>なじみ</rt></ruby>を思い出すごとに、いつでも決まって忘れ得ぬ留萌の不思議な一夜を思い出さずにはいられなかった。

そして、留萌の悲惨な出来事を想い出しさえすればきっと決まって美しかった君太郎の<ruby><rb>俤</rb><rt>おもかげ</rt></ruby>を懐かしく想い出す。今年の夏あたりは、ぜひ札幌へ行って、一度その後の彼女にも逢ってみたいと思っているが、逢うのはいいがまたあの時の話が出るかと思うと、それだけはしみじみ逃げたいような気持がする。