Soranoha

美しいだけでは間にあはない

うつくしいだけではまにあわない

加藤 道夫

詩と劇とは元來、本質的に切り離せぬ關係にあるが、「思想」が劇に不可缺のものであるとは特に言ひきれない。我々は「思想」のない劇には飽きる程觸れて來たし、美しいとか面白いとか云ふ點で稱讃もして來た。思想劇と云ふ名稱は或る時期には「退屈」の代名詞の樣にさへ使はれてゐた。美しいのはいい。面白いのはいい。だが、美しいだけでは、面白いだけでは間に合はぬ時代になつてしまつたやうである。劇の思想性が反省されねばならぬ時であらう。

僕はこの頃では、別に斬新奇拔な戲曲を書きたいなどとは思はないが、唯、舞臺を通して眞に今日的な世界像や人間像に僕自身のイデエを託したいと云ふ切實な希ひにしきりにとらへられる。新劇は今までのやうな日常的な小世界の描寫や心理風俗の展開から大きな此の時代のドラマにまで飛躍して行かねば、やがて命數が盡きてしまふのではないか、とさへ思ふ。演劇の言葉が多愛もない娯樂の爲だとか、さゝやかな心理的共鳴の爲にのみあるべき時代ではなくなつたやうである。人々は依然劇場へカタルシスを求めて行く。だが彼等は個人的苦惱よりももつと大きな時代的苦惱を背負つてゐる。彼等の求めるカタルシスの概念そのものが既に變つて來てゐるのだ。

寫實主義の時代にはカタルシスの概念は個別的であつた。可視的世界の描寫と人間性格のまことらしき再現に依つて人々は夫々の心裡に個別的なカタルシスを行つた。更に心理主義は演劇を見えざる人間心理の内面へと深めた。寫實主義と心理主義が結びつくと、登場人物の外的表情と内的表情の複雜な葛藤が尤もらしい事件や出來事を通じて異樣に鮮かに浮彫されて來るやうになつたがその感銘も矢張り個別的なもので、個人々々の内的苦惱が心理的共鳴を呼ぶに過ぎない場合が多い。

僕は人々の心にもつと此の時代に普遍的なカタルシスが行はれねばならないと思ふ。此の時代に生きてゐる我々に共通な、切實な普遍的感銘が生きて來なければならない、と思ふ。それはもはや、寫實主義や心理主義の能く爲すところではない。今日の人間達に共通な不幸、矛盾、不條理、或ひは又我々の望み得る何等かの可能性に對して作者の抱く「思想」のみがそのことを能く爲すであらう。己れの思想的貧困を嘆く若い劇作家の朝夕反省して止まぬ命題である。

底本 / Source edition

底本:「加藤道夫全集(全一卷)」新潮社
1955(昭和30)年9月30日発行
初出:「俳優座六月公演パンフレット」
1952(昭和27)年
入力:鈴木厚司
校正:きゅうり
2019年9月27日作成
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リリース / Release
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書誌 / Bibliography
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加藤 道夫「美しいだけでは間にあはない」(旧字旧仮名)、底本『加藤道夫全集(全一卷)』新潮社、1955年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 049749_001240, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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