Soranoha

北穂天狗の思い出

きたほてんぐのおもいで

上村 松園

懐しまれるのは去年の六月信州北穂の天狗の湯へ旅をしたときの思い出である。

立夏過ぎ一日二日、一行は松篁はじめ数人、私は足が弱いので山腹から馬の背をかりることにした。馬の背の片側にお炬燵のやぐらを結えつけ座蒲団を敷いて私がはいり、一方には重さの調節をとるようにいろいろの荷物をつけている、自分ながら一寸ほほえましい古雅な図である。馬子もちょっと風変りな男であった。馬はゆっくり落葉松や白樺の林の間をぬって進む。思いなしかわざと意地悪く道の端を歩くかのように、足どりにつれてグラリと揺られる私の身体は、何時も熊笹の生い上った深い山の傾斜の上につき出されているのでヒヤヒヤさせられた。ここかしこに山桜や山吹が咲きこぼれ、鶯の声や啄木鳥のくちばしの音が澄んできこえる。馬子は時々思いついたように馬を追いたてながらのんびりした調子で話しかけている。非常に絵が好きらしく「東京からはよく絵かきさんが来る」とか「京都の方からもいろんな人が来るし、宇田荻邨てきそんさんや中村岳陵さんなぞも来たことがある」などとなかなかよく知っている。山道にはところどころに清水が湧き出ているが、こうした処にゆくと馬はきまって立止りゆっくり水を飲む。せきたてられてもぶたれても、別にあせる模様もなくどこまでものんびりである。ここかしこの山間渓間にはまだ残雪が深く、おくれ咲きの山桜や山吹とともに何ともいわれぬ残春の景趣を横溢させている。山の声は甲高い馬子や一行の話声と小鳥のやさしい語らいと、時々人気に驚いて熊笹をゆすって逃げ去る兎くらいのものでまったく閑寂そのものである。ひる頃天狗の湯に着いた。麓を出てから二時間後のことであった。

(昭和十年)

底本 / Source edition

底本:「青帛の仙女」同朋舎出版
1996(平成8)年4月5日第1版第1刷発行
初出:「京都日出新聞」
1935(昭和10)年7月30日
※初出時の表題は「北穂天狗へ湯の旅」です。
入力:川山隆
校正:鈴木厚司
2009年1月29日作成
青空文庫作成ファイル:
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リリース / Release
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書誌 / Bibliography
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上村 松園「北穂天狗の思い出」(新字新仮名)、底本『青帛の仙女』同朋舎出版、1996年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 049737_000355, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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