Soranoha

法王の祈祷

ほうおうのきとう

シュウォッブ マルセル

香煙と法衣とより離れて、わが殿中の一隅金薄きんぱくの脱落はげおちたこの一室に来れば、ずつと気やすく神と語ることが出来る。こゝへ来ては、腕を支へられずに、わが老来おいらくを思ふのである。弥撒ミサを行ふ間は、わが心自づと強く、身も緊しまつて、尊い葡萄酒の輝かゞやきは眼に満ちわたり、聖なる御油みあぶらに思も潤ふが、このわが廊堂の人げない処へ来ると、此世の疲つかれに崩折くづをれて、跼くゞまるとも構かまひない。「見よ、この人を。」主しゆは実に訓令と教書との荘厳を介して、其司祭等の声を聞取り給ふのではあるまい。紫衣も珠玉も絵画も主しゆは確たしかに嘉し給はぬ。唯この狭い密房の中より発するわが不束な口籠くちごもりならば、或は愍み給はむも知れぬ。主しゆよ、かゝる老の身の予は、今こゝに白衣を着て御前に伺候しこうし奉る。予はインノセンスと呼ばれて、君の知しろしめすが如く、何もえしらぬ。而して予が法王の聖職に在ることを容ゆるし給へ、聖職は始より既に制定せられ、予は唯に之に従ふのみ。予がこの高位を設置したのでは無い。予は先づ日の光を、色硝子の荘麗なる反映てりかへしに窺はむより、寧ろこの円形の玻璃板に透見るを悦ぶ。世の常の老人の如く、予をして哭なかしめ給へ、永遠の夜の波の上に、辛らく差上げたこの蒼白の皺顔を君の御前に向け奉る。わが世の終はての日数の経ちゆく如く、この痩せ細つたる手指をそうて、わが指金ゆびがねも滑すべり落ちる。

神よ、予はこの世に於ける君が御名代として、信仰の浄い葡萄酒を湛へた、このわが凹めたる手を捧げ奉る。世に大なる犯をかしがある、極めて大なる犯をかしがある。吾等は之を赦免し得る。世に大なる異端がある、極めて大なる異端がある。吾等は仮借せずに之を罰せねばならぬ。白衣を着けて、金薄きんぱくも脱落したこの密房に跪く時、予は烈しい苦悶に悩んでゐる。主しゆよ、世の中の犯と異端とは壮大なるわが法王職の領分に属するか、或はまた一介の老人が単に合掌するこの光の圏内に属するかを判じ難いからである。また君が御墓についても悩んでゐる。御墓はいつも異教徒にとり巻れてゐる。これが恢復を計る者も無い。今はたれも聖地に向つて君が御くるすを導くことなく、われらは皆昏々として眠つて居る。騎士は物の具を収め、国王は指揮を忘れた。主しゆよ、われはまた胸をうつて、自ら責めてゐる。弱い哉、老いたる哉。

廊堂のこの狭い密房に立ちのぼる、このわが囁に聞き給へ、而して御諭を授け給へ。わが臣下等はフランドル、独逸の国々より、馬耳塞、ジエノアの市々に亘つて、不思議の報知を送つて来る。今までに無い異端の宗派が生じた。処々の市々は黙したる裸形の女人等が走り歩るくを見た。この恥知らぬ唖の女等はたゞ天に指すばかり、又数多の狂人は朝いちに立つて、世の破滅を説く由。修道の隠者、流浪の学生たちは、いろいろの噂をしあふ。而していかなる心の狂惑にや七千有余の小児等は、それとなく心ひかれて家を棄て出た。御十字架みくるすと杖とをもつて、旅に出でた者が七千人もある。何の武器も有つてゐ無い。頼るべ無き幾千人の小児等よ、われらの恥辱よ。彼等は真の教を弁へてゐない。わが臣下どもが尋ね問ふと、一斉に答へて、聖地の恢復の為、イエルサレムへ行くといふ。さりとて海は越されまいと訊けば、否、海は波をわけて干上り、通路を開くに相違無いと答へる。信心深い世間の親たちが、彼等を引留めても夜の間に閂を破り、垣を越えて了ふ。小児等の多くは貴人の落胤である。不憫極まる者どもかな。主しゆよ、是等の嬰児は皆破船の憂目を見て、追つてモハメットの宗門に渡される。バグダットの帝王は遠い其宮殿に待伏してゐる、或はあらくれの船乗の手に落ちて人買に売られる。

主しゆよ、教法の掟に従つて、言上する事を、容し給へ。必定、この小児十字軍は善い業わざで無い。之が為に御墓の恢復は思ひもよらぬ。唯、正しき信仰の外端へりに徜ふ浮浪の徒を増すばかりである。わが司祭等は之を保護しえまい。あの憐れなる者どもには確に悪魔が憑ついた。彼等は山上の豕の様に群を成して断崖の方に走つて行く。主しゆよ、君のよく知り給ふ如く、悪魔は好んで幼児を捉へる。曽つて、彼は鼠取の姿を仮りて、其笛の音にハメリンの町の子等を誘さそつた。子等は皆ヹエゼルの河中に溺れ死んだとも言ふ。又は、或る山の中腹に封じ籠まれたともいふ。信仰無き者の呵責される処へ、悪魔が幼児等を導かぬやう、用心せねばならぬ。主しゆよ、君のよく知り給ふ如く、信仰の改変は善い事で無い。信仰はひとたび燃立つ叢くさむらに現れて、直すぐに幕屋の中に収められた。後また髑髏されかうべが丘の上、君が唇に洩れたことはあるが、之を聖体の器と筺とに蔵せよとの神慮であつた。今是等の稚い預言者等は君が教会の大厦を破砕しさうである。これは是非禁遏せねばならぬ。見よ、油にて清められたる吾等は君に奉仕して、白衣と長袍とを摩り耗らしつゝ、救を得ん為の一心に諸の誘惑に抗はむかつてゐる。さるを今己が為す行の何たるを弁へぬ彼等をも嘉し給はば即ち吾等司祭を貶しめ給ふに非ざるか。もとよりこれらの幼児を君の御許に到らしめたい、但し君が御教の道に依らねばならぬ。主しゆよ、君が御掟に従つて、かくは言上し奉る。是等の幼児は、此儘にして終に死すべきか。願はくはインノセンスの治下に新しき幼児インノセンスの戮殺あらしむる勿れ。

噫、神よ、この僧冠を戴きて君が御諭を乞ひ奉る事を恕し給へ。老衰の身顫はまた襲ひ来る。この憐れなる手を見給へ。老い朽ち果てたる此身かな。幼児の信仰はもはやわが心に無い。この密房の壁に歳を経た其金色は、白らみ果ててゐる。御空の日の円影まるかげも白らんでゐる。衣ころもも白い、涸れたわが心むねは清い。君が御掟に従つて言上し奉るのみ。世に大なる犯がある、極めて大なる犯がある。世に大なる異端がある、極めて大なる異端がある。わが心、今疲れ倦んで惑ふ。或は罰も下し難く、また赦免も与へ難いのであらうか。われらの過去を憶へば決断に躊躇する。此身はまだ奇跡を見たことが無い、心の暗を照し給へよ。或はこれが奇跡なるか。主しゆは如何なる休徴しるしを彼等に与へ給ひしぞ。時は今来たか。わが身の如き老いたる者も、君の清き幼児のやうに白かれと御意し給ふか。噫、七千人。たとひ信仰に無知なりとも、七千人の幼児インノセンスが無知を罰し給ふか。われも亦インノセンスといふ。主しゆよ、われも彼等の如く罪は無い。老おいの極きはみのこの身を罰し給ふ勿れ。彼等の願望は決して成就しまいと、永い歳月は予に教へる。それとも、これが奇跡であらうか。他の冥想の時の如く、密房は今寂としてゐる。現身に立出で給へと求め奉る事の無益なるは勿論ながら、わが老年の高みより、法王職の高みより祈り奉る。願はくは教へ給へ。今は何にも解らぬ。主しゆよ、彼等は君が憐れなる幼児インノセンスである。而してわれ、インノセンスには、すべて、わからぬ、わからぬ。

底本 / Source edition

底本:「定本 上田敏全集 第一巻」教育出版センター
1978(昭和53)年7月25日発行
底本の親本:「上田敏全集 第二巻」改造社
1928(昭和3)年
初出:「藝文 第六年第一号」
1915(大正4)年1月
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
※原題のうち「RÉCIT DU PAPE INNOCENT」は、ファイル冒頭ではアクセント符号を略し、「RECIT DU PAPE INNOCENT」としました。
入力:ロクス・ソルス
校正:Juki
2009年5月7日作成
青空文庫作成ファイル:
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リリース / Release
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TEI
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プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
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シュウォッブ マルセル「法王の祈祷」(新字旧仮名)、底本『定本 上田敏全集 第一巻』教育出版センター、1978年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 049704_001389, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

引用のしかた / How to cite