Soranoha

飛騨の怪談

ひだのかいだん

岡本 綺堂

(一)

綺堂君、足下そっか。

聡明なる読者諸君の中うちにも、この物語に対して「余あんまり嘘らしい」という批評を下す人があるかも知れぬ。否いな、足下自身も或あるいは其一人そのいちにんであるかも知れぬ。が、果はたして嘘らしいか真実ほんとうらしいかは、終末おしまいまで読んで見れば自然に判る。

嘘らしいような不思議の話でも、漸々だんだんに理屈を詮じ詰めて行くと、それ相当の根拠よりどころのあることを発見するものだ。

勿論もちろん、僕は足下に対して、単にこの材料の調書しらべがきを提供するに過ぎない。之これを小説風に潤色して、更に読者の前に提供するのは、即ち足下の役目である。宜よろしく頼む。

大正元年十一月XY生

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こんな手紙と原稿とを突然だしぬけに投げ付けられては、私も少しく面食めんくらわざるを得ない。宜しく頼むと云われても、これは余よほどの難物である。例えば、蟹だか蛸だか鮟鱇あんこうだか正体えたいの判らぬ魚を眼前めさきへ突き付けて、「さあ、之これを旨うまく食わして呉くれ」と云われては、大抵の料理番も聊いささか逡巡たじろぐであろう。況いわんや素人の小生に於てをや。この包丁塩梅あんばい甚だ心許ない。

随したがって実際は真実ほんとうらしい話も、私の廻らぬ筆に因よって、却かえって嘘らしく聞えるかも知れぬが、それは最初はじめから御詫おわびを申して置いて、扨さていよいよ本文ほんもんに取とりかかる。これは今から十七八年以前の昔話と御承知あれ。

北国ほっこくをめぐる旅人が、小百合火さゆりびの夜燃ゆる神通川じんつうがわを後に、二人輓ににんびきの人車くるまに揺られつつ富山の町を出て、竹藪の多い村里に白粉おしろい臭い女のさまよう上大久保かみおおくぼを過ぎると、下大久保しもおおくぼ、笹津ささつの寂しい村々の柴焚たく烟けむりが車の上に流れて来る。所謂いわゆる越中平えっちゅうだいらの平野はここに尽きて、岩を噛む神通川の激流を右に視みながら、爪先上りに嶮けわしい山路やまじを辿って行くと、眉を圧する飛騨ひだの山々は、宛さながら行手を遮さえぎるように峭そそり立って、気の弱い旅人を脅かすように見えるであろう。

けれども、地図によれば此処ここらは未まだ越中の領分で、足腰の疼痛いたみに泣く旅人も無し、山霧に酔う女もあるまいが、更に進んで雲を凌しのぐ庵峠いおりとうげを越え、川を抱いだいたる片掛村かたかけむらを過ぎて、越中飛騨の国境くにざかいという加賀澤かがそに着くと、天地の形が愈いよいよ変って来て、「これが飛騨へ入る第一の関門だな。」と、何人なんぴとにも一種の恐怖と警戒とを与えるであろう。乱山らんざん重畳ちょうじょう、草鞋わらじの穿はけぬ人の通るべき道ではない。

この加賀澤から更に二十里ほどの奥であると云えば、其その地勢などは委くわしく説明する必要もあるまい。そこに戸数八十戸ばかりの小さい駅しゅくがある。山間の平地に開かれた町で、学校もあれば寺院もあり、且かつは近年其その附近に銀山が拓かれるとか云うので、土地は漸次しだいに繁昌に向むかい、小料理屋のようなものも二三軒出来て、口臙脂くちべにの厚い女が斯こんな唄を謡う様になった。

行ゆくにゃ辛いがお山は飛騨よ

黄金こがね白金しろかね花が咲く

「小旦那こだんな……小旦那……。昨夜ゆうべも亦また、彌作やさくの内で鶏を盗やられたと云いますよ。」

「鶏を……。誰に盗やられたろう。又、銀山の鉱夫の悪戯いたずらかな。」と、若い主人は少しく眉を顰ひそめて、雇人やといにんの七兵衛老爺じじいを顧みかえった。

「何、何、鉱夫じゃアねえ。」と、七兵衛は頭かしらを掉ふって、「それ、例の……。」

「例の……。」

「𤢖わろですよ。」

「むむ、山𤢖やまわろか。ははははは。ここらでは未まだそんなことを云ってるのか。」

若い主人は一笑に附し去ろうとしたが、七兵衛は固く信じて動かぬらしい。

「小旦那は幾ら東京で学問したって、そりゃア駄目でがすよ。現在、𤢖が出て来るんだから仕方がねえ。論より証拠だ。」

(二)

若主人の名は市郎いちろう、この駅しゅくでは第一の旧家と呼ばるる角川つのかわ家の一人息子である。斯こういう山村に生れても、家が富裕であるお庇かげに、十年以前から東京に遊学して、医術を専門に研究し、開業試験にも首尾好く合格して、今年の春から郷里に帰った。年は二十七歳で、色の浅黒い活発の青年わかものである。

ここは山村で昔から良い医師が無い。市郎の父は之これを憂いて、倅せがれには充分に医術を修業させ、将来は郷里で医師を開業させる心組こころぐみであった。市郎も固もとより其その覚悟であったので、帰郷の後、半年ばかりは富山の某ある病院の助手に雇われ、此頃このごろ再び帰郷して愈いよいよ開業の準備に取懸とりかかっている中うちに、飛騨の山里は早くも冬を催して、霜に悩める木葉このはは雨のように飛んだ。

十月の末ではあるが、朝の霜は白い。其その白きを履ふんで散歩する市郎の許ところへ、彼かの七兵衛老爺おやじが駈けて来て、大きな眼と口とを頻しきりに働かせながら、山𤢖やまわろの一件を注進したのである。

対手あいてが余り熱心であるので、市郎も無下むげに跳ね付ける訳にも行かぬ。

「然そうかねえ。」と、軽く笑って、「僕等も小児こどもの時には其そんな話を聞いたことがあるが、真実ほんとうに𤢖が出るのか。」

「確たしかに出ますよ。幾らも見た者があるんだから争われねえ。」

「そこで、昨夜ゆうべも彌作の許ところで鶏を盗やられたんだね。」

「何でも夜半よなかのことだと聞きましたが、裏の鶏舎とやで羽搏はばたきの音が烈しく聞えたので、彌作が窃そっと出て見ると、暗い中に例の𤢖が立っている。彌作も魂消たまげて息を殺していると、𤢖は鶏舎とやの中から一羽を握つかみ出して、ぎゅうと頸くびを捻ねじって、引抱ひっかかえて何処どこへか行って了しまったと云いますよ。」

「ふむ。」と、市郎は首を拈ひねって、「で、其その𤢖という奴は何どんなものだね。」

七兵衛は慌てて遮さえぎって、更に前後を見廻して、若い主人を叱るように、

「奴なんぞと云うじゃアねえ。何処に立聞たちぎきをしていて、何どんな祟たたりをするか知れねえ。幾らお前様めえさまが理屈を云ったって、𤢖に逢ったが最後、何どんな人間だって敵かなうものじゃねえから……。」

「じゃア、奴というのは先まず取消にして、兎とにかく其その𤢖とかいう者に一度逢って見たいもんだね。」

「馬鹿云わっしゃい。」

若い主人は又叱られた。

ここで鳥渡ちょっと其その𤢖なるものを説明して置く必要が有る。此この土地に限らず、奥州にも九州にも昔から山男又は山𤢖の名が伝えられている。勿論もちろん、繁華の地には無いことであるが、山間の僻地では稀に其その姿を見ることがある。要するに猿とも人とも区別の付かぬ一種奇怪の動物で、中には人間の詞ことばを少しは解する者もあるとかいう。山𤢖のわろは恐おそらく和郎わろという意味であろう。で、大おおきいのを山男といい、小さいのを山𤢖と云うらしいが、能よくは判らぬ。まだ其他そのほかに山姥やまうばといい、山女郎やまじょろうと云う者もある。これは恐おそらく彼等の女性であろう。

兎とに角かくに彼等は一種の魔物として、附近の里人から恐れられている。山深く迷い入った猟夫かりゅうどが、暗い岩蔭に嘯うそぶいて立つ奇怪の𤢖を視みれば、銃を肩にして早々に逃げ帰る。万一之これに一発の弾たまを与えたならば、熱病其他そのたの怖るべき祟たたりを蒙こうむって、一家は根絶ねだやしになると信じられている。彼等は勿論深山の奥に棲んで、滅多に姿を見せることは無いが、時としては里に現われて食物を猟あさる。其その場合には矢張やはり一般の盗賊ぬすびとの如くに、成なるべく白昼ひるを避けて夜陰に忍び込み、鶏や米や魚や手当り次第に攫さらって行く。其その素捷すばやいことは所謂いわゆる猿ましらの如くで、容易に其その影を捕捉することは能できぬ。

又たとい其その姿を認めた者があっても、臆病な里人は決して之これを追おうとは試みない。若もし迂濶うかつに妨害を加えたらば、彼等は何時なんどき如何いかなる復讐をするかも知れぬので、何事も殆ど𤢖が為すままに任して置く。

𤢖に対する奇怪の伝説や歴史は、まだ此他このほかにも沢山あるが、概括して云えば先まずこんなものである。

(三)

市郎も此この土地に生れたので、小児こどもの時から山𤢖やまわろの話を聞いていた。「そんなに悪戯いたずらをすると、山𤢖に与やって了しまいますよ。」と、亡母なきははから嚇おどされたことも有った。が、多年東京の空気に混まじっている中うちに、そんなお伽話のような奇怪な伝説は、彼の頭脳あたまから悉皆すっかり忘れられていたのを、今や再び七兵衛老爺おやじから叱るが如くに諭さとされて、彼は夢のような少年当時の記憶を呼び起おこすと同時に、彼かの山𤢖なるものに就ついて尠すくなからぬ好奇心を生じた。

「𤢖とは何だろう。矢やはり猿か狒々ひひの一種か知ら。」と、市郎は頻しきりに考えた。

七兵衛が去った後の裏庭は閑静しずかであった。旭日あさひの紅い樹の枝に折々小禽ことりの啼く声が聞えた。差したる風かぜも無いに、落葉は相変らずがさがさと舞って飛んだ。

「市郎、大分寒くなったな。」と、父の安行やすゆきが背後うしろから声をかけた。安行は今年六十歳の筈であるが、年齢としよりも遥はるかに若く見られた。

父がここへ来たのは丁度ちょうど幸いである。市郎は彼かの𤢖に就ついて父の意見を訊ただすべく待ち構えていた。が、父の話は其そんな問題で無かった。

「時に忠一ちゅういちさんから何か消息たよりがあったか。」

「何でも来月初旬には帰郷するということでしたが……。」

「そうか。それは好都合だ。」と、父は満足の笑えみを洩らした。

「ですが、私の為に態々わざわざ帰郷させるのも気の毒ですから、此方こっちは別に急ぐ訳でもないから、冬季休業まで延期しろと云って与やりました。」

「そう云って与やったか。」と、安行は少しく不平らしい口吻くちぶりで、「当人が帰ると云うなら、帰って来いと云って与やれば可いいのに……。成なるほど、今の所でお前の婚礼を急ぐにも及ばないが、決った事は早く行やって了しまうに限る。吉岡の阿母おっかさんも急いで居るんだからな。」

「でも、一月ひとつきや二月ふたつきを争うこともありますまい。」

「むむ。阿母おっかさんはまア何どうでも可いいとしても、冬子ふゆこさんが嘸さぞ待っているだろう。」

市郎は少しく顔を染めた。

「まあ、可いい。」と、父は首肯うなずいて、「そんなら其様そのように吉岡の阿母おっかさんの方へも云って置こうよ。倅せがれは何どうも冬子さんを嫌っているようですから、婚礼は当分延のばしますと……。はははははは。」

安行は我子に対むかっても、何時いつも平気で冗談を云うのだ。市郎も笑って聞いていたが、やがて例の一件を思い出した。

「阿父おとっさん。あなたに伺ったら判るでしょうが、昨夜ゆうべ彌作の家うちで鶏を奪とられたそうですね。」

「むむ。七兵衛がそんなことを云ったよ。」

「私も七兵衛から聞いたんですが、山𤢖が奪とったとか云うことです。一体、𤢖なんて云うものが実際居るんですかね。」

「さあ、居るとも云い、居ないとも云うが、俺にも確然しっかりとは判らないね。」

「けれども、彌作は確たしかに視みたと云いますが……。どうも不思議ですよ。」

「不思議だね。」とばかりで、父は此話このはなしを余り好まぬらしい。

「ねえ、阿父おとっさん。外国でも遠い田舎へ行くと、種々いろいろ不思議な話があるそうで……。約つまり一種の迷信ですね。ここの山𤢖なんて云うものも矢やはり其その一つでしょう。わたくしは之これを十分に研究したいと思うんですが……。忠一君も曾かつてそんな話を為したことが有りましたよ。」

「𤢖を研究したい。」と、安行は稍やや真面目になって、我子の顔を凝じっと視みた。

「そうです。恐おそらく猿か何かでしょうな。」

「猿でも猩々しょうじょうでも、そんなものには構わずに置くが可いい。先年駐在所の巡査が𤢖を追って山の奥へ入ったら、其その留守に駐在所から火事が始はじまって、到頭とうとう全焼まるやけになって了しまったことが有る。加之しかも駐在所が一軒焼やけで、近所には何の事も無かった。其その巡査も後に病気になったそうだよ。」

物の道理を相当に心得ている筈の父安行すらも、矢やはり𤢖を恐るる一人いちにんであるらしい。市郎は肚はらの中で可笑おかしく思った。

(四)

𤢖わろに対する市郎の好奇心は愈いよいよ募って来たので、彼は何とかして父を釣り出そうと試みた。

「あなたも𤢖が怖いんですか。」

「怖いとも思わないが、好んで其そんなものに関係かかりあう必要も無いじゃアないか。」

と、安行は情すげなく答えた。

「祖父おじいさんは𤢖を見たそうですね。」

「誰から聞いた。」

「死んだ阿母おっかさんから聞いたことがあります。」

「祖父おじいさんは𤢖に殺されたのだ。」と、父は思わず歎息ためいきを吐ついた。

市郎は驚いて飛び上あがった。

「え、祖父おじいさんは𤢖に……。何どうして殺されたんです。」

「そんな話は止よそうよ。」

一旦は斯こう云ったが、到底とても黙って承知しそうもない我子の熱心な顔を見て、安行は又思い直したらしい。

「では、話して聞かせるから、まあ此方こっちへ来い。」と、父は先に立って、日当りの好いい小屋の前に進んだ。

午前十時、初冬の日は愈いよいよ暖かく麗うららかになって、白い霜の消えて行く地面からは、遠近おちこちに軽い煙を噴いていた。南向みなみむきの小屋の前には、二三枚の莚むしろが拡げて乾してあった。父子おやこはここに腰を卸おろして、見るとも無しに瞰上みあげると、青い大空を遮さえぎる飛騨の山々も、昨日今日は落葉に痩せて尖って、宛さながら巨大おおいなる動物が肋骨あばらぼねを露あらわした様ようにも見えた。其その骨の尖角とがりの間から洩るる大空が、気味の悪いほどに澄切すみきっているのは、軈やがて真黒な雪雲を運び出す先触さきぶれと知られた。人馬の交通を遮さえぎるべき厳寒の時節も漸ようやく迫り来るのである。

「今から丁度ちょうど五十年前の事だから、俺も真実ほんとうの話は能よくも知らない。後に他ひとから聞いたのだが……。」と、安行は我子を顧みかえって、「矢やはり今時分のことだ。お前の祖父おじいさんが隣村まで用達ようたしに出かけて、日が暮れてから帰って来た。其その晩は好いい月夜で二三町先まで能よく見える。祖父おじいさんは少し酔っていたので、何か小唄を謳うたいながらぶらぶら来ると、路傍みちばたの樹の蔭から可怪おかしな者がちょこちょこ出て来た。猿のような、小児こどものような者で、矢やはり真直まっすぐに立って歩いて行く。はて、不思議だと思いながら、抜足ぬきあしをして窃そっと尾つけて行くと、不意に赤児の泣声が聞えた。熟よく視みると、其奴そいつが赤児を抱えていたのだ。」

市郎は息を詰めて聴いていた。

「そこで、祖父おじいさんも考えた。これは例の山𤢖が他ひとの赤児を攫さらって行くに相違ない。対手あいてが対手あいてだから大抵の事は見逃して置くが、人間を攫って行くのを唯ただ打捨うっちゃって置く訳には行かぬ。其その当時の事だから、祖父おじいさんも腰に刀を佩さしていたので、突然いきなりにひらりと引抜ひきぬいて、背後うしろから「待てッ」と声をかけた。対手あいては振返ふりかえって屹きっと此方こっちを視みたが、生憎あいにくに月を背後うしろにしているので其その顔は能よく判らなかった。」

「顔は判りませんでしたか。」と、市郎は失望の息を吐ついた。

「顔は判らなかったが、暫時しばらくは此方こっちを睨んで居たらしかった。が、何分にも此方こっちは長い刃物を振翳ふりかざしていたので、対手あいても流石さすがに気怯きおくれがしたと見えて、抱えていた赤児を其処そこへ投ほうり出だして、直驀地まっしぐらに逃げて了しまった。」

「何地どっちの方へ……。」

「あの山の方へ……。」と、安行は北を指さして、「勿論もちろん、飛ぶように足が疾はやいのだから、到底とても追い付く訳には行かない。そこで、祖父おじいさんは其その赤児を拾って帰って、燈火あかりの下で熟よく視みると、生れてから十月とつき位にもなろうかと思われる男の児で、色の白い可愛い児であった。いずれ近所の人の児であろうと、明あくる朝方々ほうぼうへ問い合わして見たが、この駅しゅくでは小児こどもを奪とられた者は一人ひとりも無い。隣村にも無い。約つまり何処どこから持って来たのだか判らずに了しまった。」

「其その小児こどもは何どうしました。」

「まあ、漸々だんだんに話す。其その小児こどもの事よりも、先まず祖父おじいさんの方を話さなければならない。祖父さんは強い人であったから、別に何とも意にも介とめずにいた処が、対手あいての方では執念深く怨んでいて、三日の後に残酷な復讐を為したよ。」

安行の声は少しく顫ふるえて聞えた。

(五)

「復讐……。山𤢖やまわろが……。一体どんなことを為しました。」と、市郎も思わず摺寄すりよると、安行は今更のように嘆息した。

「それから三日目の晩に、祖父おじいさんは用があって又隣村まで行ったが、夜が更けても帰って来ないので、家中うちじゅうの者も心配して、松明たいまつを点つけて迎いに出た。其その晩は真闇まっくらで、寒い山風が吹き下おろしていた。で、先夜山𤢖から小児こどもを奪返とりかえしたという場所へ来ると、祖父おじいさんは血だらけになって死んでいた。さあ大騒ぎになって、よくよく死骸を検あらためると、人か獣か知らないが何でも鋭い牙のある奴が、背後うしろから飛び付いて喉笛を食い破ったらしい。祖父さんも幾らかは防いだと見えて、手や足にも引っ掻かれた爪の痕が沢山あった。勿論もちろん、死人しにんに口無しで、誰に何どうされたのか判らないが、祖父さんは他ひとから恨うらみを受けるような記憶おぼえも無し、又普通の追剥おいはぎならば斯こんな残酷な殺し方をする筈がない。突然いきなりに人の喉笛に噛み付くなどと云うことは、普通の人間には容易に能できる芸で無い。それ等の事情から考えると、同じ場所といい、残酷な殺し方と云い、どうしても例の山𤢖が先夜の復讐に来たとしか思われないのだ。いや、確たしかにそれに相違ないということに決着して、死骸は寺に葬った。すると、まだまだ驚くことが有る。」

斯こう云って父は一息吐ついた。市郎も余りに奇怪なる物語に気を呑まれて、何とも詞ことばを挿はさむ勇気が無かった。

「それから初七日しょなぬかの日に、親類一同が式かたの如く寺参りに行くと、祖父おじいさんの墓は散々に掘り返されて、まだ生々しい死骸が椿の樹の高い枝に懸けてあった。勿論もちろん、誰の仕業か知れないが、これも大抵は判っている。其その以来、土地の者は愈いよいよ山𤢖を恐れるようになって、今日こんにちまで誰も指をさす者が無いのだ。まあ、そんな訳だから何も好んで山𤢖なんぞに関係かかりあうことは無い、打捨うっちゃって置く方が可いいよ。」

「成なるほど不思議ですな。」と、市郎も何だか夢のように感じた。天狗や山男や、そんなものは未開時代の昔語むかしがたりと一図いちずに信じていた彼の耳には、此この話が余りに新し過ぎて、殆ど虚実の判断に迷った。が、彼は一概に之これを馬鹿馬鹿しいと蔑けなして了しまうほどの生物識なまものじりでもなかった。市郎は飽あくまでも科学的に此この怪物の秘密を訐あばこうと決心したのである。

「それで、明治以後にも相変らず其そんな怪談が屡々しばしばありましたか。」

「さあ。」と、父も考えて、「今も云うような訳で、此方こっちでは誰も手出しを為しないから、対手あいての方でも別に悪い事は為しないらしい。時々に里へ出て来て鶏や野菜などを掻かっ攫さらって行ゆくけれども、まあ其その位のことは打捨うっちゃって置くのさ。」

「警察でも構わないんですか。」

「昔は女や小児こどもを攫さらったと云うことだが、今は滅多にそんな噂を聞かない。で、人でも殺せば格別だが、小泥坊こどろぼうをする位のことでは、警察でもまあ大目に見逃して置くらしい。先刻さっきも云った通り、巡査が一度追掛おっかけたことも有ったが、到頭とうとう捉つかまらなかった。何しろ、猿と同じように樹にも登る、山坂を平気で駈かける、到底とても人間の足では追い付かないよ。併しかし近所に銀山も拓けて、漸々だんだんここらも賑にぎやかになるから、𤢖も山奥へ隠れて了しまって、余り出なくなるかも知れない。」

「そうですねえ。ここらも昔に比べると余よほど開けて来ましたから……。」

「土地の繁昌は結構だが、銀山の鉱夫などが大勢入込いりこんで来たので、怪しげな料理屋などが追々おいおい殖えて来るのは些ちっと困る。」と、安行は苦笑いした。

「今に山𤢖も料理屋へ上あがって、甚九じんくでも踊るようになるかも知れません。ははははは。」

父子おやこは笑いながら内へ入った。

今日は些ちっとも風のない温かい日であった。午餐ひるめしの済んだ後、市郎は縁側に立って、庭の南天の紅い実を眺めていると、父の安行が又入って来た。

「好いい天気だな。何どうだ。運動ながら吉岡の家うちへ一所いっしょに行かないか。吉岡の阿母おっかさんに逢って、お前の婚礼を延のばすことを一応断ことわって置こうと思うから……。」

「はあ、お伴ともしましょう。」

市郎は散歩が好すきであった。加之しかも未来の妻たるべき冬子の家を訪問するのであるから、悪い心地こころもちは為しなかった。早速に帽子を被って家を出た。

近来賑にぎやかになったと云っても、矢やはり山間の古い駅しゅくである。町の家々は昼も眠っているように見えた。

富山の友人から貰ったトムと云う大きな西洋犬せいよういぬが、主人父子おやこの後を遅々のそのそと躡ついて行った。

(六)

長くもない町を行ゆき尽つくして、やがて駅尽頭しゅくはずれの角かどに来ると、冬を怨む枯柳が殆ど枝ばかりで垂れている傍かたわらに、千客万来と記した角行燈かくあんどうを懸けて、暖簾のれんに柳屋と染め抜いた小料理屋があった。雪国の習ならいで、板葺いたぶきの軒は低く、奥の方は昼も薄暗い。

安行父子おやこが今やここの門かどを通ると、丁度ちょうど出合頭であいがしらに内から笑いながら出て来た女があった。年は二十二三でもあろう、髪は銀杏返いちょうがえしの小粋な風ふうであった。

市郎の顔を見るや、彼女かれは俄にわかに衣紋えもんを繕つくろって、「あら、若旦那……。」と、叮嚀ていねいに挨拶した。市郎も黙って目礼した。

「よいお天気になりました。」と、女は笑えみを含んで再び詞ことばをかけた。

「好いい天気になりましたなあ。」と、市郎も鸚鵡返おうむがえしに挨拶して、早々にここを行き過ぎた。女は枯柳の下に立って、暫時しばしは其その後姿を見送っていた。

「お前はあの女を知っているのか。」

五六間けん行き過ぎてから、安行は低声こごえで訊いた。

「いえ、知ってると云う程でも無いんですが、この夏、吉岡の忠一君が帰省した時に、一所いっしょにあの家うちへ飲みに行ったことが有るんです。何、唯たった一度ですよ。」

「そうか。併しかし狭い土地だから、お前が角川の息子だと云うことは、先方むこうでも知ってるだろう。あんな許ところへ余あんまり出入ではいりするなよ。世間の口が煩うるさい。」

「そうですとも……。あんな家うちへは決して二度と足踏あしぶみは為しませんよ。」と、市郎は潔いさぎよく答えた。が、何を思い出したか、嫣然にやにや笑いながら、「それでも忠一君は彼あの女に思惑でも有ったと見えて、頻しきりに戯からかって騒いでいましたよ。」

「若い者には困るな。」と、安行も共に笑いながら、「あれは酌婦しゃくふだろう。何という名だ。」

「たしかお葉ようと云いました。」

「お葉か。忠一が今度帰ったら冷評ひやかして与やろうよ。」

「詰つまらない。お止よしなさいよ。あれでも表面は真面目なんですから……。」

「それだから戯からかって与やるんだ。」

斯こういう暢気のんきな親父が、何故山𤢖やまわろなんぞを恐れるのだろうと、市郎は不思議に思いながら、不図ふと顧みかえると、自分達の後を追って来たトムの姿が見えない。

はて、何処へ行ったかと見廻すと、犬は彼かの柳屋の前に止とまって、お葉から何か食物くいものを貰っているらしい。

「トム、トム……。」と、二三度呼んだが、犬は食物くいものに気を奪とられて、主人の声を聞付ききつけぬらしい。市郎は舌打したうちしながら引返ひっかえして来た。

「トム、トム……。」と、少しく声を暴あらくして呼ぶと、犬は初めて心付いたらしく、食物くいものを捨てて駈け出そうとしたが、早くも背後うしろからお葉に抱かれて了しまった。

「この犬は良いい犬ですね。」

「無闇に吠えて困るんです。」

「でも、温良おとなしいわ。妾あたし、此この犬が大好だいすきよ。」

「トム、トム……。」と、市郎は又呼んだ。犬は尾を掉ふって行こうとしたが、お葉は相変らず緊乎しっかり抱いていた。

「トム、トム……。」

市郎は重ねて呼びながら、犬の頸くびに手をかけると、お葉は傍そばへ寄って来て、低声こごえで少しく怨恨うらみを含んだように、

「あなた、あの時限ときぎり被入いらしって下さらないのね。」

市郎は黙っていた。

「後生ですから、あなた最もう一度来て下さいな。え、お厭いやですか。え、どうしても厭……。来て下さらないの。」

「厭という事も無いんだが……。」と、市郎は返事に困って、思わず父の方を顧みかえると、安行は小半町こはんちょうばかり先の木蔭こかげに立って、此方こっちを凝じっと見詰めているので、市郎は何とも無しに赤面した。

「兎とにかく又来ますよ。」

詞ことば短かに云い捨てて、無理に犬を牽ひき出すと、お葉は漸く手を放したが、今度は市郎の腕に手をかけて、

「あなた、必然きっとですか。可よござんすか。欺だますと山𤢖を頼んで、意趣返しを為させますよ。」

お前ならば山女郎やまじょろうの方が可よかろうと云おうとしたが、戯からかっていると長くなる。市郎は黙って首肯うなずいて、早々に立去たちさった。

(七)

「おや、角川のおじさん被入いらっしゃい。市郎さんも……。さあ、どうぞ……。」

吉岡の母お政まさは、喜んで安行父子おやこを迎えた。吉岡も隣村では由緒ある旧家で、主人は一昨年世を去ったが、お政との間に二人の子供があった。総領は忠一と云って、帝国大学の文科に学んでいる。妹いもとの冬子も兄と共に上京して、某ある女学校に通っていたが、昨年無事に卒業して今は郷里の実家に帰っている。地方には能よくある習ならい、角川の市郎と冬子とは所謂いわゆる許嫁いいなづけの間柄で、市郎が医師を開業すると同時に、めでたく祝言しゅうげんという内相談ないそうだんになっている。勿論もちろん、二人の間に異存は無かった。

斯こういう関係であるから、昔から両家は殆ど親類同様に親しく交際していた。殊に主人が死んだ後のちは、吉岡の家では何かに付けて角川一家を力と頼んでいた。

安行父子おやこが座敷へ通ると、今年二十歳はたちの冬子も笑顔を作って出て来た。

「東京の倅せがれの方から一昨日手紙が参りまして、冬子の婚礼に就ついて来月初旬には必然きっと帰って来ると云うことでした。」と、お政が先まず口を切った。

「いや、其事そのことですが……。」と、安行は市郎を顧みかえって、「倅の云うには、それが為に忠一さんを態々わざわざ呼び戻すにも及ぶまい。どうで歳暮くれには帰郷するのだから、其その時まで延のばしても差支さしつかえはあるまいと……。」

「それも然そうですが……。」と、お政は娘の顔を視みた。市郎は何の気も注つかずに、「実は私から忠一君の方へ、然そう云って与やったんですが……。」

「まあ。」と、お政は更に市郎の顔を視みた。

「私も今朝初めて聞いたのだが、延期しては何か御都合が悪いかな。」

安行の問といに対して、母子おやこは即坐に何とも答えなかった。お政は霎時しばらく考えて、

「いいえ、別に都合の悪いと云うこともありませんが……。善は急げとか云いますから、一日も早く御婚礼を済まして、妾わたくしも安心したいと思うのですが……。是非来月で無ければ成らないと云う訳もありませんから、約つまり貴下あなたや市郎さんの思召おぼしめし次第で……妾の方は何方どちらでも宜よろしいのです。唯ただ、妾の方では……こんなことを申しては何ですけれども、市郎さんも未まだお若いのですから、何かの間違いのない中うちに些ちっとも早く……と斯こう思って居りますので……。ほほほほほ。」

お政は冗談のように笑って云ったが、其詞そのことばの底には何かの意味があるらしくも聞えた。冬子も恨めしそうな眼をして、市郎の顔を視みていた。斯こうなると、何だか聞捨ききずてにもならぬような意きもするので、安行も稍やや真面目になった。

「御承知の通り、倅せがれもまだ書生上あがりで小児こどもも同然だから、私も平生ふだんから厳しく監督していますが、冬子さんとの婚礼は昨日今日に初はじまった話でも無し、たとい一月ひとつきや二月ふたつき延びたからと云って、決して間違いの起おこるなどと云うことは……。」

「それは然そうですとも……。」と、お政は遮さえぎって、「ですから、妾わたくしの方でも決して心配は為しませんが……。それでもお若い方と云うものはね。」と、又笑った。

市郎も何だか黙ってはいられぬ羽目になった。

「じゃア、おばさん、私が何か不都合な事でも為していると被仰おっしゃるんですか。」

「別に不都合ということは無いのですけれど、他ひとの噂を聞くと、市郎さんは此頃このごろ柳屋とか云う家うちにお馴染なじみが出来たそうで……。皆みんなが然そう云っていますよ。」

「へえー。」と、市郎は眼を丸くした。柳屋と聞いて、安行の眼も少しく晃ひかった。

「嘘です、そりゃア実際嘘ですよ。」と、市郎は口早に、「そんなことは決してありませんよ。今も親父に話したのですけれども、此この夏、忠一君が帰省した時に、唯たった一度行ったことが有るだけで、其後そのごは柳屋の閾しきいも跨またいだ事は無いんです。」

「そうですかねえ。」と、お政はまだ笑っていた。其その疑惑うたがいは融とけぬらしい。

(八)

「市郎、お前は真実ほんとうに柳屋へ出入ではいりするのか。」と、今度は安行が問うた。

「いいえ、嘘です、嘘ですよ。何かの間違いでしょう。」と、市郎は慌てて弁解した。

「でも、忠一も其その時に云っていましたよ。市郎君は色男だ、柳屋の女が大層チヤホヤしていたと……。ねえ、然そうでしょう。」

如才じょさいないお政は絶えず笑顔を見せているが、対手あいては甚だ迷惑に感じた。と云って、ここで何時いつまで争っても究竟つまりは水掛論みずかけろんである。市郎も終末しまいには黙って了しまった。

安行も考えた。何方どちらの云うことが真実ほんとうか知らぬが、先刻さっき市郎の話では、忠一が女と巫山戯ふざけたと云う。今又ここの話では、市郎が女と情交わけがあるらしいと云う。何方どっちにしても、対手あいては客商売の女である。要するに二人の客に対して、等分に世辞せじ愛嬌あいきょうを振蒔ふりまいたと云うに過ぎまい。随したがって其その時だけの遊興あそびならば兎とこうの論は無いが、若もし市郎が其後そのごも柳屋へ通っている様ようならば、少しく警戒を加えねばならぬ。彼かのお葉という女は、どんな素性来歴の者か知らぬが、豪家ごうかの息子を丸め込んで、揚句あげくの果はてに手切れとか足切れとか居直るのは、彼等社会に珍しからぬ例ためしである。殊に此方こっちは婚礼を眼の前に控えているから、それを附目つけめに何かの面倒を持ち込まれては、吉岡家に対しても気の毒、自分達も世間に対して余計な恥を晒さらすようにもなる。何どうか其そんなことの無い様ようにしたいものだと、心こころ窃ひそかに無事を祈った。

が、誰の考慮かんがえも同じことで、ここで何時いつまで争った所で水掛論に過ぎない。これだけに釘を刺して置けば既もう可いいと思ったのであろう、お政は相変らず嫣然にこにこ笑いながら、更に話を他ほかに反そらした。

「好いい塩梅あんばいにお天気が続きますね。併しかし来月になったら、急にお寒くなりましょう。来年のお正月も又雪でしょうかねえ。」

旧暦に依る此この土地では、正月は恰あたかも大雪の最中さなかである。年々の事とは云いながら、三尺、四尺、五尺、六尺と漸次しだいに振積ふりつんで、町や村にあるほどの人々を、暗い家の中に一切封じ込めて了しまう雪の威力を想像すると、何と無く一種の恐怖おそれを懐いだかぬ訳には行ゆかぬ。四人は今更のように庭を眺め、空を仰いで、日毎に襲い来る冬の寒気さむさを染々しみじみと感じた。

この時、表では犬の啼く声が頻しきりに聞えた。トムは何物を視みたか知らぬが、狂うが如くに吠え哮たけるのであった。

「何をあんなに吠えるのだろう。」と、手持無沙汰てもちぶさたの市郎は、之これを機しおに起上たちあがって門かどへ出た。

この家は小さい陣屋のような構造かまえで、門もんの前には細い流ながれを引き繞めぐらし、一間けんばかりの細い板橋が架わたしてある。家の周囲は竹藪に包まれて、其その藪垣やぶがきの間から栗の大木が七八本聳そびえていた。トムは橋の中央に走り出いでて、凄じい唸声うなりごえを揚げているのである。

「トム、トム……。」と、市郎は先まず声をかけながら不図ふと視みると、トムの五六歩前には一人の怪しい女が立っていた。

女は六十前後でもあろう。灰色の髪を芒すすきのように乱して、肩の下まで長く垂れていた。彼女かれが若かりし春の面影は、恐おそらく花のようにも美しかったであろうと想像されるが、冬の老樹おいきの枯れ朽ちたる今の姿は、唯ただ凄愴ものすごいものに見られた。身には縞目しまめも判らぬような襤褸ぼろの上に、獣の生皮なまかわを纏まとっていた。其その風体ふうていが既に奇怪であるのに、更に人を脅かすのは其その窪んだ眼の光で、凡およそ此この世界にありと有らゆる物は、総て我敵わがかたきであると云わぬばかりに睨み詰めているらしい。

狂人きちがいか、乞食か、但ただしは彼かの山𤢖やまわろの眷族けんぞくか、殆ど正体の判らぬ此この老女を一目見るや、市郎も流石さすがに悸然ぎょっとした。トムが怪あやしんで吠えるのも無理は無い。

併しかし彼女かれは別に何をするでもなく、門前の往来に飄然ひょうぜんと立っているだけの事であるから、市郎も改まって咎とがめる訳には行かぬ。唯ただ暫時しばらくは黙って睨んでいると、老女は何と感じたか、黄きいろい歯を露出むきだして嫣然にやにや笑いながら、村境むらざかいの丘の方へ……。姿は煙の消ゆるが如くに失うせて了しまった。

市郎は夢のように其その行方を見送っていると、トムの声を聞き付けて、この家やの下男しもおとこも内から出て来た。其その話によると、彼かの怪しの老女は北の山奥に棲むお杉すぎという親子連づれの乞食であると云う。乞食とあれば是非もないが、何だか唯者ただものでは無いように市郎は感じた。

「あれは山𤢖の女房だとも云いますよ。」と、下男は更に低声こごえで囁ささやいた。

(九)

「トムは何を吠えていたのだ。」

市郎が旧もとの座敷へ戻って来ると、安行は煙草を喫のみながら徐しずかに訊いた。

「いや、表に変な女が立っていましてね。後で聞けばお杉とか云う乞食だそうで……。」

「ああ、お杉ですか。」と、お政母子おやこは眉を顰ひそめて首肯うなずいた。

「何です、彼女あれは……。頗すこぶる変な奴ですね。狂人きちがいでしょうか。」

「さあ、幾らか気も変になっているか知れないが、所謂いわゆる狂人きちがいと云うのでも無いようだ。」と、安行は考えて、「彼女あれも俺の家うちに満更まんざら縁が無いでも無いのだ。お前も知っているだろう。」

「いえ、些ちっとも知りませんね。一体、彼女あれは何です。」と、市郎は父の顔を覗いた。

「今朝お前に話した通り、祖父おじいさんが五十年ほど昔に、山𤢖やまわろに攫さらわれた小児こどもを助けたことが有る。」

「けれども、それは男の児こでしょう。」

「まあ、黙って聞くが可いい。それには又種々いろいろの可怪おかしな話が絡んでいるのだ。」

山𤢖と怪しの老女、この関連は愈いよいよ市郎の好奇心を湧かした。お政も冬子も珍しそうに耳を欹そばたてた。

茶を一杯、それから安行はこんなことを語り出した。

市郎の祖父、即ち安行の父は山𤢖の復讐の為に無残の死を遂げた。併しかし其その手に救われた赤児は、角川家の情なさけに因よって無事に生長した。固もとより何者の子とも判らぬので、仮に重蔵じゅうぞうと名を付けて、児飼こがいの雇人やといにんのようにして養って置いた。角川の家は代々の郷士で、傍かたわらに材木伐出きりだしの業を営んでいたので、家の雇人等も木挽こびきの職人と一所に山奥へ入ることが屡々しばしばある。重蔵も十二三歳の時から山へ入った。

何でも彼が十五六歳の秋であった。小児こどもの癖に気の暴あらい重蔵は、木挽の職人と何か喧嘩をした結果、同じく気の早い職人は「どうでも勝手にしろ。」と、山小屋に重蔵一人を置去おきざりにして帰って了しまった。而しかも其処そこには伐倒きりたおされた杉や山毛欅ぶなの材木が五六本残っていたので、飽あくまでも強情な重蔵は、自分一人で之これを麓ふもとまで担ぎ出そうとしたが、長く大きい材木は少年の肩に余って、到底とても嶮けわしい山坂を降くだる訳には行かぬ。兎とこうする中うちに日は暮れかかる。彼も流石さすがに途方に暮れている処へ、恐おそらく例の山𤢖であろう。人か猿か判らぬ一個の怪しい者がふらりと出て来た。

並大抵の者ならば、驚いて慌てて逃げ出すべきであるが、重蔵は頗すこぶる大胆であった。咄嗟とっさの間あいだに思案を定さだめて、腰に提げたる割籠わりごから食残くいのこりの握飯を把出とりだして、「これを与やるから手伝って担いで呉くれ。」と手真似で示すと、𤢖も合点がてんしたと見えて悠々と材木を担ぎ出した。斯かくして彼は先棒さきぼうとなり、𤢖は後棒あとぼうとなって、幾本の重い材木を無事に麓まで担ぎ下おろしたのである。

これが一種の縁となったとでも云うのであろう、其後そのごも𤢖は折々に山小屋へ姿を見せた。但ただし他人のいる時は決して近寄らず、重蔵一人の時を窺って忍んで来る。其都度そのつどに重蔵は自分の握飯を分わかって、𤢖に仕事を手伝わせていた。が、或時これを見付けた者が有って、重蔵は山𤢖を友としているという噂が忽たちまち拡がった。角川家でも大おおいに心配して、其その以来彼を山小屋へ遣やらぬ事とした。

それから又二三年過ぎた。其間そのあいだ別に変った事も無かったが、一旦山𤢖と親しんだという風説が、甚だ此この青年わかものに禍わざわいして、彼は附近の人々から爪弾つまはじきされた。若い者の寄合よりあいにも重蔵一人は殆ど除外のけものとなって了しまった。随したがって彼の性質も愈いよいよ僻ひがんで来て、仕事を怠ける、喧嘩をする、酒を飲む、甲それから乙それへと堕落して、果はては第二の親とも云うべき角川一家の人々からも見放される様ようになった。

が、其間そのあいだに於て独り重蔵に同情した女があった。即ち彼かのお杉である。お杉は此この駅尽頭しゅくはずれの蕎麦屋の娘で、飛騨小町と謳われる程の美人であったが、何どういう訳か不思議に縁遠いので、三十に近いまで独身で過すごした。

(十)

お杉が評判の美人であるにも拘かかわらず、盛さかりを過ぎるまで縁遠いに就ついても、山里には有勝ありがちの種々しゅじゅの想像説が伝えられた。其中そのなかでも、彼女かれは蛇の申子もうしごで、背中に三つの鱗うろこが有るということが、一般の人々に最も多く信ぜられていた。

お杉は重蔵に比べると、殆ど十歳とうばかりの姉であったが、何時いつか此この二人が狎なれ馴染なじんで、一旦は山の奥へ身を隠した。お杉の家でも驚いて、そこの森や彼処かしこの谷合たにあいを猟あさり尽した末に、一里ばかりの山奥にある虎ヶ窟とらがいわやという岩穴に、二人の隠れ潜んでいるのを発見して、男は主人方に引渡ひきわたされ、女は実家へ連れて戻られたが、其その翌あくる夜に二人は又もや飛び出した。今度は他国へ遠く奔はしったらしい。遂に其その行方を探り得なかった。

それから十年ほど経つ中うちに、お杉の家は死絶しにたえて了しまった。二人の名も大方忘れられて了しまった。然しかるに某日あるひのこと、樵夫きこりが山稼ぎに出かけると、彼かの虎ヶ窟の中から白い煙の細く颺あがるのを見た。不思議に思って近寄って窺うと、岩穴の奥には怪しい女が棲んでいた。十年前ぜんに比べると、顔容かおかたちは著いちじるしく窶やつれ果てたが、紛う方なき彼かのお杉で、加之しかも一人の赤児を抱いていた。驚いて其その仔細を訊ただしたが、彼女かれは何にも答えなかった。赤児は恐らく重蔵の胤たねであろうと思われるが、男の生死しょうしは一切不明であった。

それから二十余年の間、彼女かれは此この窟いわやを宿として、余念もなく赤児を育てていた。赤児も今は立派な大人になって、其その名を重太郎じゅうたろうと呼ぶそうである。で、此この母子おやこは何に因よって衣食しているか判らぬが、折々に麓ふもとの駅しゅくに現われて物を乞うのを見れば、先まず一種の乞食であろう。勿論もちろん、これまでにも警官から度々立退たちのきを命ぜられたが、今日逐おわれても明日は又戻って来るという風で、殆ど手の着け様ようがない。駐在所でも終末しまいには持余もてあまして、彼等が悪事を働かない限かぎりは、其そのままに捨てて置くらしい。

虎ヶ窟は其その昔、若き恋に酔えるお杉と重蔵との隠れ家であった。彼女かれは今や白髪しらがの嫗うばとなっても、思い出多き此この窟を離れ得ぬのであろう。

で、単に是これだけの事ならば仔細も無いが、このお杉婆すぎばばあに就ついて又もや一種の怪しい風説が起おこった。と云うのは、この母子おやこが折々に里へ出て物を乞う時、快く之これに与うれば可矣よし、若もし情すげなく拒んで追い払うと、彼等は黙って笑って温順おとなしく立去たちさるが、其その家は其その夜必ず山𤢖やまわろに襲われて、鶏とりか稗ひえかを奪われる。或あるいは偶然かも知れぬが、其間そのあいだに何かの関係が有るらしくも思われるので、人々は自ずと此このお杉を忌み且かつ恐るるようになった。で、お杉は山𤢖を手先に遣つかうとも伝えられた。お杉は山𤢖の女房であるとも伝えられた。固もとより確たしかな証拠がある訳でもないが、こんなような意味からして、老おいたるお杉は一種の魔女の如くにも見られていた。

或時には又こんな事もあった。お杉が門かどに立って米を乞うた時に、或人が一合いちごうばかりの米を与えて、冗談半分に斯こう云った。「お前も知っている通り、飛騨の国は米が少いのだから、之これを十倍にして返して呉くれるか。」お杉は黙って首肯うなずいて去った。すると、其その晩の中うちに一升しょうほどの白米が、其その家の前に蒔まき散らされてあった。

又、或家に夜も昼も泣く赤児があって、お杉が門かどに立った時にも、其その児は火の付くように泣いていた。彼女かれは黙って其その額を撫でると、赤児は其その以来些ちっとも泣かなくなった。

善か、悪か、狂きょうか、兎とにも角かくにも彼女かれは普通の人間でない、一種不思議の魔力を有もっている女の様ようにも見えた。

お杉に就ついて安行の知っているのは、先まず此この位の程度であったが、迷信の多い人々の説を聞いたら、まだ此この上にも種々しゅじゅ不可思議の実例があるらしい。

こんな話に時の移るのを忘れている中うちに、庭に囀さえずる小禽ことりの声も止んで、冬の日影は余よほど薄くなった。

「もうお暇いとま為しようか。」

安行と市郎は暇乞いとまごいして、吉岡の家を出た。

(十一)

飛騨といふ詞ことばは襞ひだを意味して、一国の中うちに山多く、さながら衣きぬに襞多きが如くに見ゆる所から、昔の人が此この国の名を斯かく呼んだのである。随したがって飛騨と云えば直ただちに山を聯想れんそうするまでに、一国到る処に山を見ざるは無い。この物語の中心となっている町も村も、殆ど三方は剣つるぎの如き山々に囲かこまれていた。

お杉が棲んでいる虎ヶ窟というのは、角川家のある町と吉岡家の居村きょそんとを境さかいする低い丘から、約一里の山奥にあった。一里といえば人里から左さのみ遠からぬ処であるにも拘かかわらず、ここは殆ど通路の無いほどに岩石嶮けわしく峭そそり立っているのと、昔から此辺このあたりは魔所ましょと唱えられているのとで、猟夫かりゅうども樵夫きこりも滅多に通わなかった。苔こけ蒸むす窟は無論天然のものであったが、幾分か人工を加えて其その入口を切拓きりひらいたらしくも見える。奥は真暗で其その深さは判らぬ。背後うしろは屏風のような絶壁で、右の方には大おおいなる谷が繞めぐっていた。

窟の入口には薄黒い獣の生皮なまかわを敷いて、Xエッキスという字のように組まれた枯木と生木なまきとが、紅い炎焔ほのおや白い烟けむりを噴いていた。其その火に対むかって孑然つくねんと胡坐あぐらを掻いているのは、二十歳はたちばかりの極めて小作りの男であった。

何処どこやらで滝の音が聞えて、石燕いわつばめが窟の前を掠めて飛んだ。男は燃未了もえさしの薪たきぎを把とって、鳥を目がけて礑はたと打つと、実に眼にも止とまらぬ早業で、一羽の石燕は打つに随したがって其手下そのてもとに落ちた。男は拾うより早くも其羽そのはねを毟むしり取って、燃え颺あがる火に肉を炙あぶった。

やがて落葉を踏む音して、お杉婆ばばあは諷然ひょうぜんと帰って来た。男は黙って鳥を咬かじっていた。二人共に暫時しばしは何の詞ことばをも交さなかったが、お杉の方から徐しずかに口を切った。

「重太郎。何か他に喫たべる物は無いか。」

男は彼女かれの倅せがれの重太郎であった。其風采そのふうさいは母と同じく異体いていに見えたが、極めて無邪気らしい、小児こどものような可愛い顔であった。髪を蓬おどろに被った頭かしらを掉ふって、

「何にも無いよ。」

一日や二日の断食は此母子このおやこに珍しくもないらしい。お杉は唯ただ首肯うなずいて其処そこに坐ったが、俄にわかに思い出したように少しく詞ことばを改めた。

「重太郎。お前に少し話して置きたい事があるのだ。」

「阿母おっかさん、何だ。」

「妾わたしは既もう十日の中うちに死ぬかも知れない。死んだら必然きっと仇かたきを取ってお呉くれよ。」

「可いいとも……。どんな奴でも、俺おらア必然きっと仇を取って与やる。唯ただは置くものか。」

重太郎は腕を叩いて潔よく答えたので、お杉も快こころよげに微笑ほほえんだ。

「そこで、お前に見せて置く物が有る。今まではお前にも秘かくして置いたが、此この窟の奥には大切な宝が蔵しまってある。何か大事が出来しゅったいして、お前が何どうしても此処ここに居られない様ような場合になったら、其それを持出もちだして逃にげるが可いい。相当な買人かいてを探して売払うりはらえば、お前は乞食を為しないでも済むのだ。」

母は起たって奥へ入ると、重太郎も黙って其後そのあとにつづいた。窟の奥は昼も真暗であったが、お杉の点ともす一挺いっちょうの蝋燭に因よっておぼろおぼろに明るくなった。

行くこと七八間けんにして、第一の石門せきもんが有った。これから先は路みちが狭く、岩が低くなって、到底とても真直まっすぐに立っては歩けなかった。母子おやこともに頭かしらを屈かがめて進むと、更に第二の石門が行手を塞ふさいでいた。蝙蝠かわほりのような怪しい鳥が飛んで来て、蝋燭の火を危あやうく消そうとしたのを、重太郎は矢庭やにわに引握ひっつかんで足下あしもとの岩に叩き付けた。

第三の石門には、扉のような大きな扁平ひらたい岩が立て掛けてあって、其下そのしたの裂目から蝦蟆ひきがえるのように身を縮すくめて潜もぐり込むのである。二人は兎とも角かくも此この石門を這い抜けて、更に暗い冷つめたい石室いしむろに入った。

「さあ、覗いて御覧。」と、お杉は蝋燭を高く擎ささげた。

石室の隅には広い深い岩穴があって、穴の遠い底には、風か水か知らず、ごうごうと微かすかに鳴っていた。若もし一歩を誤れば、この暗い地獄の底に葬られねばならぬ。重太郎も足下あしもとを覗いて流石さすがに悚然ぞっとした。

(十二)

お杉は無言で蝋燭を翳かざすと、深い岩穴の中腹かとも思われる所に、さながら大蛇おろちの眼の如き金色こんじき爛々の光を放つものが見えた。

「判ったか。」と、お杉が蝋燭を退のけると、穴は旧もとの闇に復かえって、金色こんじきの光は夢のように消えた。重太郎は呆れて立っていた。

「阿母おっかさん、あれは何だい。」

「何でも可いい。いざと云う時に持ち出して他ひとに売れば、お前は金持になれるのだ。」

穴の中では猿のような声で、キキと叫ぶ者があった。

「騒々しい。静しずかにお為しよ。」と、お杉は鋭い声で叱り付けると、怪しい声は忽たちまち止んだ。お杉は再び無言で歩み出すと、重太郎も黙って続いて出た。

二人が旧もとの入口に出た頃には、山峡やまあいの日は早く暮れて、暗い山霧が海のように拡がって来た。重太郎は再び枯木を焚たくと、霧は音もせずに手下てもとまで襲って来て、燃え颺あがる火の光は宛さながら紗しゃに包まれたる様ように朧おぼろになった。

窟の奥から人か猿か判らぬ者が、ちょこちょこと駈け出して来た。四辺あたりが薄暗いので正体は知れぬが、人ならば先まず十五六歳の少年かとも思われる。髪を颯さっと振乱ふりみだして、伸上のびあがりつつ長い手をお杉の肩にかけた。小児こどもが親に甘えるように……。

「どこへ行くんだえ。」と、お杉は顧みかえって、「お前、里へ行くなら頼みたい事が有るんだよ。」と、彼の耳に口を寄せた。

怪しの者は首肯うなずいて、忽たちまちひらりと飛び出したかと見る中うちに、樹根きのね岩角いわかどを飛越とびこえ、跳越はねこえて、小さい姿は霧の奥に隠れて了しまった。お杉は白い息を吐はいて呵々からからと笑った。

「阿母おっかさん、阿母さん。」と、重太郎は思い出したように声をかけた。

「何だえ。」

「お前は十日の中うちに死ぬと云ったね。俺おらア先刻さっきも約束した通り、必然きっと其その仇を取る。其その代りお前にも頼んで置くことが有るんだ。お前が居なくっても、俺が困らない様ように……。」

「だから、宝の在所ありかを教えて置いたじゃアないか。あれさえ有れば些ちっとも困ることは無いよ。」

「そればかりじゃア無い。」と、重太郎は少しく云い淀んで、「あの、俺に嫁を貰って呉くれないか。」

「嫁……。」と、お杉は寂しく笑った。

「むむ。実は俺ア嫁に貰いたい女があるんだ。阿母おっかさん、知ってるかい。」

母は黙っていた。重太郎も流石さすがに面目きまりが悪いか、燃未了もえさしの薪たきぎを撥ほじりながら、

「あの、何を……。柳屋にいるお葉という女……。好いい女だね。俺ア大好だいすきだよ。」

人か獣か判らぬような生活をしている此この青年わかものにも恋は有った。彼は何日いつか柳屋のお葉を見染めたものと思われる。お杉は憫あわれむように我子の顔を見た。

一口に酌婦しゃくふとは云うものの、お葉は柳屋の一枚看板で、東京生れの気前は好よし、容貌きりょうも好し、山の中には珍しい粋な姐ねえさんとして、ここらの相場を狂わしている流行児はやりっこである。恋に間隔へだては無いとは云え、此方こっちは宿無やどなしの乞食も同様で、山𤢖やまわろの兄弟分とも云うべき身の上では、余りに間隔へだてが有り過ぎて、到底とてもお話にも相談にもなる訳のもので無い。

けれども、それは普通の人の考える単純の理屈である。小児こどもの時から人も通わぬ此この窟を天地として、人間らしい(?)のは阿母おふくろ一人で、昔物語に聞く山姥やまうばと金太郎とを其そのままに、山𤢖や猿や鹿や蝙蝠かわほりを友としつつ、此ここに二十余年を送り来きたった重太郎自身に取っては、人間の身分や階級などは、何の値あたいも無いものであった。彼は唯ただ自己おのれの情じょうの動くがままに働くのである。彼がお葉を嫁に貰いたいと云い出したのも、決して不思議でも無理でもない。

「お前がそんなに彼あの女が欲ほしければ、妾わたしがお嫁に貰って上げるよ。」

お杉は極めて無雑作むぞうさに受合うけあった。

(十三)

角川安行の父子おやこが吉岡家を辞して、帰途に就いたのは午後四時を過すぐる頃であった。ここらの冬の日は驚くばかりに早く暮れて、村境むらざかいを出る頃には足下あしもとが漸ようやく暗くなった。

「吉岡のおばさんは、何だか私が柳屋の女に関係でもあるように思っているらしいので、実に困りましたよ。」と、市郎は歩きながら語り出した。

「それだから気を注つけなければ不可いけない。世間では針ほどの事を棒のように吹聴するのだから……。併しかし真実ほんとうにお前は彼あのお葉とか云う女に関係はあるまいな。」

「大丈夫です。決して無いです。」

風は無いが、夜の気は漸々だんだんに寒くなって来た。あなたの丘で狐の啼く声が聞えた。

「明後日あさっては市の立つ日だな。」と、安行は独語ひとりごとのように、「何どうか天気に為したいものだ。」

「そうです。月に一度の市ですから……。」

この時まで主人の後あとに温和おとなしく尾ついて来た彼かのトムは、猝にわかに何を認めたか知らず、一声いっせい高く唸って飛鳥ひちょうの如くに駈け出した。

「トム、トム……。」と、市郎は呼び返したが聞えぬらしい、犬は直驀地まっしぐらにあなたの森へ向った。市郎も心許なさに其後そのあとを追って行くと、唯とある樅もみの大樹の蔭でトムが凄じく吠えていた。加之しかも堆うずたかき枯葉を蹴って、何者かと挑み闘うように聞えた。

何か知らぬが、猶予はならぬ。市郎は洋杖すてっきを把直とりなおして、物音のする方かたへ飛び込んで見ると、もう遅かった。僅わずかに一足ひとあし違いで、トムは既に樹根きのねに倒れていた。敵は髪を長く垂れた十五六の少年で、手には晃きらめく洋刃ないふのようなものを振翳ふりかざしていた。薄闇で其形そのかたちは能よくも見えぬが、人に似て人らしく無い。

「若もしや山𤢖やまわろか。」と、市郎は咄嗟とっさに思い付いた。で、先まず其その正体を見定める為に、袂たもとから燐寸まっちを把出とりだして、慌てて二三本擦すった。この時、敵は血に染そみたる洋刃を揮ふるって、更に市郎を目がけて飛び蒐かかって来たが、其その眼前めさきに恰あだかも燐寸の火が溌ぱっと燃ゆるや、彼は電気に打たれたように、猝にわかに刃物をからりと落して、両手で顔を掩おおったまま、霎時しばらくそこに立縮たちすくんで了しまった。

この刹那に、市郎の眼に映った敵の姿は、頗すこぶる異形いぎょうのものであった。勿論もちろん、顔は判らぬが、膚はだは赭土色あかつちいろで手足は稍やや長く、爪も長く尖とがっていた。身丈みのたけは低いが、小児こどもかと見れば大人のようでもあり、猿かと思えば人のようでもある。この寒空に全身殆ど裸で、僅わずかに腰の辺あたりに獣の皮を纏まとうているのみであった。

が、斯こう見えたのも一瞬時で、燐寸まっちの火は忽たちまち消えた。火が消えると同時に、彼は再び強くなった。地に落ちたる洋刃ないふを手早く拾い取って、更に市郎に対むかって突いて来た。彼は闇中くらがりでも多少は物が見えるらしい。

市郎は透すかさず第二の燐寸を擦すると、彼は再び眼を掩おおった。彼は野獣に均ひとしく、非常に火を恐るるらしい。市郎は勝つに乗って、続けさまに燐寸を擦ると、敵は既もう此方こっちを向く勇気が失うせたらしく、頭かしらを回めぐらして一散に逃げ出した。市郎は何処いずこまでもと其後そのあとを追ったが、敵は非常に逃足が疾はやい。森を出抜ける頃には、既に十五六間けんも懸隔かけへだたって了しまった。

「畜生……到底とても駄目だ。」と、市郎は呟きながら引返ひっかえして来ると、安行も丁度ちょうど駈付かけつけた。トムは咽喉のどを深く抉られて、既に息が絶えていた。

「可哀想な事を為しましたな。今の奴は何どうも山𤢖らしかったですよ。」

「そうか。」と、安行は低声こごえで云った。

兎とに角かく、愛犬を路傍みちばたに捨てては置かれぬので、市郎は血に染そみたるトムの死骸を抱えて起たった。

「市郎、衣類きものが汚れるぞ。」

「けれども、ここへ残して置くのは何だか不安心ですから……。」

自分達が去った後へ、再び山𤢖が現われて、トムの屍骸を盗み去らぬとも限らぬ。愛犬の骨を敵に渡すのは、何だか口惜くやしい様ようにも思われるので、市郎は到頭とうとうトムを抱えて帰った。

(十四)

其その翌あくる日も申分のない天気であった。霜は日増ひましに深くなって来るが、朝の日影は麗うららかであった。

鉱山のお客だとか云う三人連づれが、昨夜ゆうべから柳屋の奥に飲み明あかしていて、今朝けさも早天そうてんから近所構わずに騒いでいたが、もう大抵騒ぎ草臥くたびれたと見えて、午頃ひるごろには生酔なまよいも漸々だんだんに倒れて了しまった。酌婦の笑い声も聞えなくなった。内も外も蕭寂ひっそりとなった。

心さびしや飛騨行ゆく路みちは

川の鳴瀬なるせと鹿の声

低声こごえでこんな唄を謳うたいながら、お葉は微酔ほろよい機嫌で門かどに出た。お葉は東京深川生れの、色の稍やや蒼白い、細面ほそおもての、眉の長い女であった。彼女かれは自ら謳うが如く「心さびしい」のであろう、少しく眉を顰ひそめつつ晴れたる空を仰いでいた。

「お葉さん、お葉さん。」

奥から続いて出て来たのは、お清せいという酌婦、色白の丸顔で、お葉よりも二三歳ふたつみつ若く見えた。これも幾らか酔っているらしい、苦しそうに顔を皺しかめて、

「お前さん、何を見ているの。」

「何、昨夜ゆうべから飲み続けて、余あんまり頭が重いから、表へ些ちっと出て見たのさ。」と、お葉は懶ものうげに答えた。

「ほんとうに鉱山の人は忌いやね。お酒を飲むと、無闇に悪巫山戯わるふざけをして……。それでも鉱山が出来たお庇かげで、ここらも漸々だんだんに賑にぎやかになったんだと云うから、仕方がないけれど……。」

「芋掘いもほりも忌いやだが、鉱掘かねほりも忌だねえ。どうせ楽は能できないのさ。こんな商売になっちゃア仕様がないよ。好すきなお酒でも飲んで紛まぎらしているのさ。」

「お前さん此頃このごろは何だか欝ふさいでばかり居るね。平生ふだんから陽気な人でも、矢張やっぱり苦労があると見えるんだね。」

「呼んでお呉くれよ。」と、お葉は突然いきなりにお清の腕を掴んだ。

「誰を……。」と、対手あいては笑った。

「察してお呉くれな。角川の若旦那を……。お前も知ってるじゃアないか。」

「何故、あれ限ぎり来ないんだろう。」

「究竟つまり妾達あたしたちが意きに適いらないからさ。けれども、妾あたしア必然きっと呼んで見せる。昨日も丁度ちょうどここで逢ったから、腕を掴んで引摺ひきずり上げて与やろうと思ったんだけれど、生憎あいにく阿父おとっさんが一所いっしょだったから、まあ堪忍して置いて与やったのさ。嫌うなら嫌うが可いい、妾ア必然きっと祟って与やるから……。」

「だッて、そりゃア無理だ。」と、お清は益々笑い出した。

「無理なもんかね。昔から云う安珍あんちん清姫きよひめさ。嫌えば嫌うほど執念深く祟って与やるのが当然あたりまえだアね。先方むこうが何とも思わなくっても、此方こっちが惚れていりゃア仕方がないじゃアないか。お前さんは馬鹿だよ、素人だよ。」

お清は対手あいてにならずに、相変らず笑っていた。お葉は口惜くやしそうに、

「今に見ておいて。必然きっとあの人を呼んで、お前さん達に見せ付けて与やるから……。嫌われたからと云って、すごすご指を啣くわえて引込ひっこむようなお葉さんじゃアないんだから……。確乎しっかり頼むよ。」

お清の腕を掴んで又小突こづいた。

「痛いよ。だッて、お前さん。角川の若旦那には判然ちゃんとお嫁さんが決きまってると云うじゃアないか。」

「決っていても可いいよ。そんな悪魔は妾あたしが追ッ攘ぱらって了しまうから……。」

「お前さんの方が余よッ程ぽど悪魔だ。𤢖わろの御親類かも知れないよ。」と、お清は笑いながら不図ふと思い出したように、「𤢖と云えば、角川の若旦那は昨夜ゆうべ𤢖に逢ったってね。」

「若旦那が𤢖に……。まあ、而そうして何どうしたの。」と、お葉は俄にわかに真面目になった。

「でも、若旦那の方が強かったので、𤢖は逃げて了しまったとさ。」

「ほんとうかい。担ぐと肯きかないよ。」

「何でも犬は殺されたとさ。」

「あ、あの犬が……。可哀想にねえ。お前、ほんとうかい。」

「この人は疑り深いね。ここらじゃア今朝から大おお評判だわ。それを知らない様ようじゃア、お前さんは馬鹿だよ、素人だよ。」

「他真似ひとまねをお為しでないよ。馬鹿……。」

「馬鹿……。」

お清は笑いながら奥へ入って了しまった。人通りの尠すくない往来には、小禽ことりが餌えを猟あさっていた。

(十五)

お葉は其そのままふらふらと歩き出した。𤢖わろの噂が何となく意きに関かかったのであろう、彼女かれは他よそながら恋人の様子を探ろうとして、行くとも無しに角川家の門前まで来て了しまった。門もんの前には彼かの七兵衛老爺じじいが、銀杏いちょうの黄なる落葉を掃はいていた。横手の材木置場には、焚火の煙が白く渦巻いて、鋸のこぎりの音に雑まじる職人の笑い声も聞えた。

お葉は酔っていた。七兵衛の傍そばへ進み寄って、馴々なれなれしく声をかけた。

「あの、若旦那は昨夜ゆうべ𤢖にお逢いなすったッて、真実ほんとうですか。」

「はあ、酷ひどい目に逢いましたよ。」

「怪我けがでも為なすって……。」

「何、若旦那は何どうも為しねえが、大事の洋犬かめを殺やられたので、力を落していなさる様ようだよ。」

お葉は首肯うなずいて奥を覗いた。七兵衛は無頓着に落葉を掃いていた。

この時恰あたかも市郎の姿が見えた。市郎は庭の空地にトムの亡骸なきがらを葬り了おわって、鍬くわを片手に奥の方へ行くらしい。お葉は其その姿を見ると共に、有合ありあう小石を拾って投げ付けると、礫つぶては飛んで市郎の袂たもとに触れた。振返ふりかえると門前にはお葉が立っている、加之しかも笑えみを含んで小手招こてまねぎをしている。市郎も其その図迂図迂ずうずうしいのに少しく惘あきれた。

前にも云う如く、市郎が冬子の兄忠一と連立つれだって、彼かの柳屋に遊んだのは、今から三四ヶ月前のことで、それも唯ただ一度、別に深い馴染なじみというでもないのに、其後そのごはお葉が兎とかく附纏つきまとって、往来で逢えば馴々なれなれしく詞ことばをかける。あわ好よくば自分の家うちへ誘い込もうとする。随したがって根も葉もない噂も立ち、吉岡の母にも有らぬ疑惑うたがいを受ける様ようになった。実に馬鹿馬鹿しい。身の潔白を立てる為には、今後何処どこで行逢ゆきあおうとも決して彼女かれとは口を利くまいと、窃ひそかに決心している矢先へ、恰あたかも彼かのお葉が現われた。加之しかも先方むこうから真白昼まっぴるま押掛おしかけて来て、平気でお出いでお出いでを極きめるとは、図迂図迂ずうずうしい奴、忌々いまいましい奴と、市郎は惘あきれを通り越して、稍やや勃然むっとした。

見ればお葉は嫣然にこにこして、相変らず小手招ぎをしている。市郎は黙って霎時しばらく睨んでいた。

「何故そんな怖い顔をして被在いらっしゃるの。妾あたし、𤢖じゃなくってよ。妾の罰ばちで、貴下あなたは𤢖に酷い目に逢ったと云うじゃアありませんか。」

お葉は首を掉ふるようにして、はははははと高く笑った。彼女かれは酒の強い方であったが、昨夜以来飲み明かした地酒の酔よいは漸次しだいに発したと見えて、今は微酔ほろよいどころでない。

「老爺じいや。其その女を追っ攘ぱらって了しまえ。」と、市郎は声を暴あらくして云った。

「お前めえは酔っている様ようだ。早く帰らッせえよ。」と、七兵衛は箒ほうきを輟やめて顧みかえった。

「大きにお世話よ。後生だから若旦那をここまで呼んで来て頂戴。」

「そんなこと云わねえで、帰らッせえと云うのに……。」

「どうしても呼んで呉くれないの。」

「不可いけねえと云ったら……。」

この押問答の中うちに、市郎は奥へつかつかと入って了しまった。

「若旦那……市郎さん……。」

お葉も続いて内へ入ろうとするので、七兵衛は驚いた。

「どこへ行くのだ。」

「若旦那に逢わして下さいよ。」

「馬鹿云うものでねえ。」

一酷老爺いっこくおやじの七兵衛は、箒で手暴てあらく突き退のけると、酔っているお葉は一堪ひとたまりもなく転んだ。だらしなく結んだ帯は解とけかかって、掃き寄せた落葉の上に黒く長く引いた。

「随分酷いのね。」と、お葉は落葉を掴んで起上おきあがったが、やがて畜生ちきしょうと叫んで、其その葉を七兵衛の横面よこつらに叩き付けた。眼潰めつぶしを食って老爺じじいも慌てた。

「阿魔あま、何をするだ。」

腹立紛はらたちまぎれに箒を取直とりなおして、お葉の弱腰を礑はたと薙なぐと、女は堪らず又倒れた。

「あら、老爺じいやさん。どうしたの。」

優しい声に驚いて顧みかえった七兵衛、俄にわかに色を和やわらげて、

「や、吉岡の嬢様……。被入いらっせえまし。」

(十六)

市郎が途中で𤢖わろに襲おそわれたという噂は、早くも隣村まで伝えられたので、吉岡の家でも甚だ心配して、冬子が取敢とりあえず見舞に来たのであった。来て見ると此この始末で、仔細わけは知らぬが七兵衛老爺じじいの箒の下もとに、一人の女が殴り倒されているので、制とめずには居いられぬ。

「老爺じいやさん、まあ其そんな乱暴なことを為しないで……。一体、どうしたの。」

「何、この淫売婦じごくおんなが家うちの若旦那を呼び出しに来たから、追っ攘ぱらって了しまう所で……。」

「若旦那を呼び出しに……。若もしや柳屋の……。」と、冬子は眼を輝かしてお葉を凝じっと視みた。お葉は落葉の上に倒れていた。

「そうでがすよ。」と、七兵衛は首肯うなずいて、「お前様めえさまよく知っていなさるね。這奴こいつ、若旦那を釣出つりだそうと思ったって、然そうは行かねえ。」

七兵衛は憎さげに顧みかえった。冬子も嫉ねたげに顧った。この四つの眼に睨まれたお葉は、相変らず落葉を枕にして、死んだ者のように横よこたわっていた。

「酔っている様ようね。」と、冬子は少しく眉を顰ひそめた。

「這奴等こいつらア毎日毎晩、酒ばかり食くらっているのが商売しょうべえだからね。お前様めえさまも用心しなせえ。こんな阿魔あまが蛇のように若旦那を狙っているんだから……。」

「何しろ、何どうか為しなくっちゃア不可いけまい。兎とも角かくも起おこして与やって……。」

「さあ、さあ、寝た振ふりなんぞ為しねえで、起きろ、起きろ、横着な阿魔あまだ。」

口小言くちこごとを云いながら、七兵衛は進んでお葉を抱え起おこそうとすると、彼女かれは其その手を跳ね退のけて衝つと起たった。例えば疾風しっぷう落葉らくようを巻くが如き勢いで、さッと飛んで来て冬子に獅噛付しがみついた。あれと云う間に、孱弱かよわい冬子は落葉の上に捻倒ねじたおされると、お葉は乗のし掛かかって其その庇髪ひさしがみを掴んだ。七兵衛は胆きもを潰して、直すぐに背後うしろから抱き縮すくめたが、お葉は一旦掴んだ髪を放さなかった。

「阿魔あま、放せ。嬢様を何どうするだよ。」

七兵衛は息を切って制したが、お葉は唯ただ冷笑あざわらうのみで何とも答えなかった。余りの意外に驚いたのであろう、冬子は声をも立てなかった。

「これ、馬鹿為するでねえ。放さねえか。」と、七兵衛は無理に其その手を引放ひきはなそうとしたが、お葉の握った拳は些ちっとも弛ゆるまなかった。彼女かれは冬子の前髪を掴んだままで、凝じっと対手あいての顔を睨んでいた。

寂しいと云っても往来である。この騒ぎを見て忽たちまち五六人駈け付けた。材木置場からも職人が駈出かけだして来た。大勢寄って兎とも角かくも二人を引き起おこしたが、何どうもならぬのはお葉の手であった。彼女かれの石の如き拳は、如何いつまでも冬子の黒髪を握り詰めて放さなかった。

大勢は声を揃えて「放せ」と叫んだが、お葉の口は決して答えなかった。大勢が力を協あわせて、無理に引放ひきはなそうとしたが、お葉の拳は決して開かなかった。彼女かれは黙って冬子の髪を掴んでいるのである。

打ぶっても叩いても仕方がない。此上このうえは、お葉の白い手を切るか、冬子の黒い髪を切るか、二つに一つを択えらぶの他ほかは無かった。

「強情な阿魔だなあ。」

何いずれも惘あきれて顔を見合せている処へ、この騒ぎを聞いて市郎も奥から出て来た。人々から委細の話を聴いて、彼も驚かずには居られなかった。お葉の傍そばへ進み寄って、

「お前、何故そんなことをするんだ。」

お葉は初めて口を開いた。

「此女これはあなたのお嫁さんでしょう。」

市郎は返事に困った。

「妾あたし、死んでも放しませんよ。」

実際、死んでも放すまいと思われた。掴まれた冬子はと見れば、不意の驚愕おどろきと恐怖おそれとに失神したのであろう、真蒼まっさおな顔に眼を瞑とじて、殆ど息も為しない。酔よいも漸次しだいに醒めたと見えて、お葉の顔も蒼くなって来た。

見物人は追々に殖ふえて来た。柳屋のお清も駈けて来たが、唯ただわやわや云うばかりで手の着様つけようがない。其雑踏そのひとごみを掻き分けて、ぬっと顔を出したのは彼かのお杉婆ばばあであった。彼女かれは例の如く黄きいろい歯を露出むきだして笑っていた。

(十七)

前にも云う如く、お葉が角川家の前に来たのは、別に深い意味があるのでは無かった。𤢖の一件が意きにかかるのと、二つには何と無しに此地こっちの方へ足が向いたと云うに過ぎないのである。けれども、彼女かれは酔っていた。酔よいに乗じて種々いろいろの捫着もんちゃくを惹起ひきおこしている中うちに、折悪おりあしくも其処そこへ冬子が来合わせたので、更にこんな面倒な事件を演出しいだす事となって了しまった。

恋の仇かたきと睨まれた冬子の災難は云うまでもないが、市郎もこれには頗すこぶる弱った。この場合に理屈を云っても仕方がない、嚇おどしても仕方がない、こんな狂気染きちがいじみた女は宥なだめて還すより他はあるまいと思った。

「お葉さん。何しろ、この通り人立ひとだちがしては、お前も外聞が悪かろうし、私の家うちでも迷惑するから、まあ堪忍して呉くれ。此方こっちに不都合があるなら、何どんなにも謝るから……。」

お葉は冷笑あざわらって答えなかった。

「ね、後生だから堪忍して与やって呉くれ。必然きっとお前の意きの済むようにするから……。」

迂濶うっかり口を滑らせると、黙っていたお葉は屹きっと顧みかえった。

「妾あたしの意きの済むようにするんですね。」

否いやとも云われぬ、市郎は首肯うなずいた。

「じゃア、二度と此この女をここの家うちへ入いれないようにして下さい。若もし此この女がここの門かどを潜くぐった所を見ると、妾は何日いつでも押掛おしかけて来て、頭の毛を一本一本引ッこ抜いて与やるから、然そう思ってお在いでなさい。」

無理は最初はじめから知れているが、一時いっとき逃れに市郎は承知した。

「可よし、可よし。それだから最もう堪忍して与やって呉くれ。頼むから……。」

「必然きっとですね。」

「むむ、必然きっとだ。間違まちがいはない。」

市郎は心にもない誓ちかいを立てた。これで漸ようやく意きが済んだのであろう、お葉は勝利の笑えみを洩もらして、掴んだ手を初めて弛ゆるめようとする時、お杉婆ばばあが衝つと寄って来て、例の凄愴ものすごい顔をぬッと突き出した。

「いや、不可いけない、不可いけない。それは嘘だ。」

「え。嘘だ……。」

市郎も驚いて顧みかえると、怪しの婆ばばあは傍若無人に呵々からからと笑った。

「此この娘を二度とここの家うちへ入れないと云うのは嘘だ。お前の顔に判然ちゃんと書いてある。ははははは。」

「喧やかましい、引込ひっこんでいろ。」と、市郎は疳癪かんしゃくを起おこして呶鳴どなり付けた。

「ははははは。怒っても駄目だ。お前の嘘は妾わたしが知っている。お前も此この娘も相互おたがいに惚れ合っている。どうして二度と逢わずに居られるものか。ははははは。」

忌々いまいましいとは思うけれど、婆ばばあの云うことは確たしかに真実ほんとうである。市郎も少しく怯ひるんだが、ここで弱味を見せては落着おさまりが付かない。

「ええ、貴様の知ったことじゃアない。余計な口を出すな。彼方あっちへ行け。」

「はは、妾はお前に云っているのじゃアない。このお葉さんに教えて与やっているのだ。お前さん、意きをお注つけよ。幾ら何どうしたって、この男と娘とは離れるんじゃアないからね。」

お葉の火の手が折角鎮しずまりかかった処へ、又もや斯こんな狂気婆きちがいばばあが飛込とびこんで来て、横合よこあいから余計な藁わらを炙くべる。重ね重ねの面倒に小悶こじれの来た市郎は、再び大きい声で呶鳴どなり付けた。

「喧やかましい、煩うるさい。もう彼方あっちへ行け。」

「ははははは。」

お杉は嘲あざけるように高く笑った。如何いかにも他ひとを馬鹿にした態度である。もう斯こうなっては我慢も堪忍も能できぬ。市郎の疳癪かんしゃくは一時に爆発した。

「彼方あっちへ行けと云うのに……判らないか。おい、這奴こいつを彼方あっちへ引摺ひきずって行け。」

左右を顧みかえって又呶鳴どなったが、直すぐには声に応ずる者もなかった。これが余人ならば知らず、一種の魔力を有もっているかの様ように思われているお杉婆ばばあに対むかって、迂濶うかつに手を下くだすのは何だか不気味ぶきびでもあるので、何いずれも眼と眼を見合わして、真先に進んで出る勇者を待っていた。

この臆病者等が怯ひるんで動揺どよめく醜態ざまをじろじろ見廻して、

「ははははは。」

お杉は又もや凱歌かちどきの笑声わらいごえを揚げた。

(十八)

この時、群集ぐんじゅを押分おしわけて、捫着もんちゃくの中へ割って入ったのは、駐在所の塚田つかだ巡査。年の壮わかい、色の黒い、口鬚くちひげの薄い、小作りの男であった。

彼は職掌柄、平生へいぜいからお杉婆ばばあに就ついては注意の眼まなこを配っている処へ、恰あたかもこの騒動さわぎを見付けたのであるから、容赦は無い。

「こら、お前はここへ来て何をして居おる。ここの家うちの迷惑になるから、早く立去たちされ。」

お杉は依然やはり笑って答えず、腰にぶら下げた皮袋から山毛欅ぶなの実を把出とりだして、生のままで悠々と咬かじり初めた。

「実に困るんです。どうか追攘おいはらって頂きたいもので……。」と、市郎も口を出した。

「よろしい。」と、巡査は首肯うなずいて、「さあ、早く行け。他ひとの迷惑になるのが判らんか。斯こういう所に何時いつまでもぐずぐずしていると、道路妨害で引致いんちするぞ。」

対手あいては相変らず平気で笑っているので、巡査も少し悶じれ出した。

「こら、行けと云うのに……。何故ぐずぐずして居おるのか。判らん奴だ。」

お杉の痩腕やせうでを掴んで一つ小突いたが、彼女かれは些ちっとも動かなかった。見掛みかけは枯木のようでも容易に倒れない、さながら大地に根が生えたように突ッ立っていた。巡査はいよいよ悶じれて、力一ぱいに強く曳ひくと、彼女かれも流石さすがに二足ふたあしばかり踉蹌よろめいた。

「さあ、行け、行け。」

突遣つきやっても又ふらふらと戻って来る。市郎も見兼ねて突き戻した。巡査も亦また突き戻した。血気の男二人に、突き戻され、押遣おしやられて、強情なお杉も漸次しだいに後あとへ退すさったが、やがて口一杯に啣ふくんだ山毛欅ぶなの実を咬みながら、市郎の顔に向ってふッと噴き付けた。

市郎はあッと顔を押えながら、腹立紛はらたちまぎれの殆ど無意識に、お杉の胸の辺あたりを強く突くと、彼女かれは屏風倒しに撲地はたと倒れた。袋の山毛欅は四方に散乱した。

この騒ぎを聞き付けて、安行も奥から出て来た。

「こりゃア一体どうしたのだ。」

人々はわやわや云いながらお杉の周囲まわりに群れ集あつまると、婆ばばあは歯を食縛くいしばって正体もない。巡査は小膝を突いて抱え上げた。

「偽死そらじにでもないらしい。急所でも打ったかな。」

市郎も立寄たちよって検あらためた。彼は医師である。左右の人々に吩附いいつけて、兎とも角かくもお杉を我家へ舁かき入れさせた。

けれども、お葉の方はまだ埓らちが明かぬ。彼女かれは依然として生贄いけにえの冬子を掴んでいるのであった。市郎は気が気でない。忙しい中にも駈け寄って、

「この通りの始末だから、委くわしいことは後で話す。兎とも角かくも今日の処は何どうか堪忍して呉くれ。」

拝むようにして只管ひたすら頼むと、お葉は誇りがに首肯うなずいた。

「可よござんす。じゃア、先刻さっきの約束は忘れませんね。」

「忘れない、必然きっと忘れない。」

お葉は初めて手を弛ゆるめた。荒鷲の爪から逃れ出た温ぬくめ鳥どりのように、冬子は初めてほッと息を吐ついたが、髪を振乱ふりみだした彼女かれの顔には殆ど血色ちのいろを見なかった。

それも関心きがかりではあるが、猶なお一方には気を失っているお杉が有る。市郎は倉皇あたふたとして内へ駈込かけこんだ。塚田巡査も続いて入った。

お杉は南向みなみむきの縁側に横よこたえられた。市郎の人工呼吸其他そのたの応急手当が効を奏して、彼女かれは間もなく息を吹き返した。

「どうだ、既もう気が注ついたか。」と、巡査が問うた。

「何、死ぬものか。」

独語ひとりごとのように云って、お杉は矗然すっくと起たち上あがったかと見る中うちに、左右の人々を一々睨ねめ廻しながら、彼女かれはふらふらと歩き出した。加之しかも今の騒動さわぎは忘れたように、諷然ひょうぜんと表へ出て行った。居合わす四五人は其後そのあとを尾つけて行くと、お杉は顧みかえりもせずに、町の真中を悠々と歩いていた。

町の尽頭はずれまで来た時に、お杉は初めて立止たちどまった。尾行して来た人々も既もう散って了しまった。お杉は柳屋の門かどに寄って、皴枯しわがれた声で、

「お葉さん、居いるかい。」

(十九)

思うがままに恋の仇かたきの冬子を呵責さいなんだお葉は、お清に扶たすけられて柳屋へ帰った。

「お前さん、随分酷いことを為したねえ。」

「ああ、これて清々せいせいした。」と、お葉は酔醒よいざめの水を飲んだ。お清は惘あきれて其その顔を眺めている処へ、彼かのお杉婆ばばあの声が聞えたのである。

「お葉さん……お葉さん。」

わが名を呼ばれて、お葉はふらふらと起たった。お清は慌てて其袂そのたもとを曳ひいた。

「お止よしよ、お前さん、もう外へ出るのは……。あんな奴にお構いでないよ。」

「お葉さん。」と、外では又呼んだ。

「あいよ。」

お葉はお清を突き退のけて、門かどへ出た。門にはお杉が笑いながら立っていた。

「お前さん、少し話があるから一所いっしょに来てお呉くれでないか。」

「あい、行きますよ。」

お葉は弛ゆるんだ帯を結び直して、店口みせぐちに有合ありあう下駄を突ッ掛けると、お清はいよいよ危あやぶんで又抑留ひきとめた。

「お前さん、どこへ行くんだよ。」

「可いいよ、うるさい人だねえ。」

「早くお出いでよ。」と、外では又呼んだ。

「あい、あい。」

お杉は痩せた手をあげて差招さしまねくと、お葉は宛さながら死神の迎むかいを受けた人のように、唯ただふらふらと門口かどぐちへ迷い出た。お清もつづいて追って出ると、婆ばばあは徐しずかに顧みかえって、

「お前に用は無いよ。」

鋭い眼でじろりと睨まれて、気の弱いお清は思わず立縮たちすくんだ。其間そのまにお杉は出て行く。お葉も後から躡ついて行った。正午に近い冬の日は明るく晴れて、蒼い空には黒い鳥の一群ひとむれが飛んで渡った。

お葉は酒の酔よいが未まだ醒めぬのかも知れぬ、或あるいは何かの夢か幻を視みているのかも知れぬ。兎とにかくお杉婆ばばあの魔力に引かれたように、殆ど無意識でふらふらと歩いていた。彼女かれは一種の催眠術に罹かかった人の様ようであった。

町を行き尽つくして村境むらざかいに出た。昨夜トムと𤢖とが闘った樅もみの林を過ぎると、路みちは爪先上りに嶮けわしくなって来た。落葉松からまつや山毛欅ぶなや扁柏ひのきの大樹が日を遮さえぎって、山路やまみちは漸次しだいに薄暗くなって来た。何処どこやらで猿の声が聞えた。

天正十三年、所謂いわゆる「飛騨の三方崩さんぽうくずれ」という怖るべき大地震が、ここら一帯の地形を一変して、麓ふもと近い路みちにまで剣つるぎなす岩石が突出とっしゅつした。其中そのなかには怒れる人の顔のような真蒼な岩もあった。百千人の生血を灑そそぎ掛けたような真赤な岩もあった。岩と岩との間は飛んで渡るより他はない、二人は蛇のような山蔦やまづたの太い蔓つるに縋すがって、宛さながら架空線を修繕しゅぜんする工夫こうふのように、宙にぶら下さがりながら通り越した。

お杉は通い馴れた路みちであるから不思議はないが、お葉が何どうして此この難所なんじょを跳越はねこえ、渡り越えたかは疑問である。恐おそらく夢のようで自分にも判るまい。

虎ヶ窟の入口には彼かの重太郎が佇立たたずんでいた。其その傍かたえには猿のような、小児こどものような、一種の怪しい者が蹲踞しゃがんでいた。

「帰って来たよ。」

お杉が声をかけると、重太郎は無言で顧みかえった。母の後うしろには、帯も裳すそもしどけなく、脛はぎも露出あらわに立ったるお葉の艶えんなる姿が見えたので、重太郎は山猿のような笑い声を出して、猶予なく其その前にひらりと飛んで行った。怪しい者も同じく叫んで、後から続いて行こうとすると、忽たちまちお杉に叱られた。

「お前は彼方あっちへ行ってお出いでよ。」

怪しい者は小さくなって、窟いわやの奥へ逃げ込んで了しまった。お葉は茫然ぼんやりと立っていた。重太郎も黙って其その顔や容かたちに見惚みとれていた。

山風がどっと吹き下おろして、岩と岩との間を掻き廻すと、そこらに積つもっていた真赤な落葉は、さながら火粉ひのこを散らすが如くに、はらはらと乱れて飛んだ。

(二十)

お杉が去り、お葉が去った後のちの角川家は、所謂いわゆる大風おおかぜの吹いた後あとであった。塚田巡査も近所の人々も漸次しだいに帰って了しまった。

冬子も一時は失神の態さまであったが、これも市郎の手当に因よって回復して、南向みなみむきの座敷に俯向うつむいて坐っていた。傍そばには安行と市郎の二人が同おなじく黙って坐っていた。

「冬子さん、何どうだね。気分は既もう悉皆すっかり快いいのかね。」と、安行は霎時しばらくして口を切った。

「はあ、有難うございます。お庇かげさまで、もう悉皆すっかり快よくなりました。」

とは云ったが、冬子の顔は未まだ蒼ざめていた。市郎は心許こころもとなげに、

「ほんとうに既もう快いいんですか。まだ血色が不良よくないようだが……。何しろ、飛んだ災難でお気の毒でしたねえ。」

冬子は黙って俯向うつむいていた。

「災難……実に飛んだ災難だったよ。」と、安行も首肯うなずいて、「あんな狂気染きちがいじみた奴が飛び込んで来るというのは、何どう云う訳だろう。私が早く知ったら、何とか無事に納めたのだが、あの七兵衛めが一酷いっこくなことを云うもんだから、到頭とうとうあんな騒ぎを演出来しでかして了しまって……。そこへ出ッ食くわした冬子さんは、実に運が悪かったのだ。それでも怪我けがを為しないのが勿怪もっけの幸さいわいで、大事の顔へ疵きずでも付けられようものなら、取返とりかえしが付きゃアしない。何しろ、お葉とか云う奴は呆れた女だ。」

「実際、呆れた奴ですなあ。あれも少し気が触ふれているんじゃアありませんか知ら。尠すくなくもヒステリー患者ですな。」と、市郎も眉を顰ひそめた。

「何どうして又、ヒステリーに罹なったんでしょう。」と、冬子は不意に顔を擡あげた。お葉に掴み毀こわされた前髪の庇ひさしは頽くずれたままで、掻上かきあげもせぬ乱れ髪は黒幕のように彼女かれの蒼い顔を鎖とざしていた。其中そのなかから輝くのは葉末はずえの露の如き眼の光であった。

「さあ、何どうしてと云って……。」と、市郎も考えて、「ああ云う女には能よくあるんですよ。其その上に酒にも酔っている様ようでしたから……。」

「酔っているばかりでも有りますまい。妾わたくしが二度と御当家こちらへ来ればあの人が又暴れて来るそうですね。あの人は何故そんなに妾を恨んでいるんでしょう。妾には些ちっとも訳が判りません。」

口では「判りません」と云うけれども、冬子は大抵推量している。自分達母子おやこが予かねて疑っている如く、お葉という女は市郎と情交わけがあるに相違ない。左さもなければ自分に対して、あんな乱暴を働く筈がない。市郎が婚礼延期などを主張するのも、畢竟ひっきょうは彼あの女を恐れている為であろう。自分の夫たるべき男を他ひとに奪とられて、加之おまけに自分が斯こんな酷ひどい目に逢うとは、債権者が債務者から執達吏しったつりを差向さしむけられたようなもので、余りに馬鹿馬鹿しい理屈である。自分には何の科とがが有ってこんな理非りひ顛倒てんどうの侮辱を受けるのであろう。考えれば考えるほど、冬子は口惜くやしくって堪たまらなかった。

けれども、彼女かれも若い娘である。流石さすがに胸一杯の嫉妬と怨恨うらみとを明白地あからさまには打出うちだし兼ねて、先まず遠廻しに市郎を責めているのである。自分が折角見舞に来た𤢖の問題などは、もう何どうでも可いいことになって了しまった。

「いや、誰にも判りませんよ。彼あの女は云う通りのヒステリー……究竟つまり狂人きちがいも同様なんですから……。」と、市郎は嘆息するように答えた。

「でも、狂人きちがいになるには何か仔細わけがあるでしょう。」と、冬子は目眦まなじりを昴あげて追窮ついきゅうした。

「余あんまり酒でも飲み過ぎたんでしょう。」

「そうでしょうか。」と、冬子は少しく冷笑あざわらって、「あなたは其その原因を御存知ないんですか。」

「知りません、一向知りません。」

「知らない筈は無いでしょう。」

冬子の声が稍やや鋭く聞えたので、市郎も聊いささか面食めんくらって思わず其その顔を屹きっと視みると、露の如き彼女かれの眼は今や火のように燃えていた。

「ああ、判った。あなたは僕を疑っているんですね。それは冤罪えんざいです、全く冤罪です。昨日も云う通り、僕は唯たった一度彼家あすこへ行った限ぎりで、あの女と何等の関係も無いんです。先方むこうでは何どう思っているか知らんが、此方こっちは清浄しょうじょう潔白です。」

「それならば何故あんな乱暴を為したのだろう。可怪おかしいな。」

父も我子の味方ではなかった。

(二十一)

お葉の問題に就ついて市郎を責めるのは、実際気の毒であった。本人が自白する通り、過ぎし夏に冬子の兄忠一が帰郷した砌みぎり、若い同士が連れ立って唯ただ一度彼かの柳屋へ遊びに行ったことが有る。忠一は元気の好いい男で、酔って随分騒いだ。市郎も温順おとなしくしては居なかった。けれども、二人ながら唯ただ酔って騒いで帰った丈だけのことで、別に後日ごにちの面倒を惹起ひきおこすような種は播まかなかったのである。

右の通りで、此方こっちでは何の種も播まかなかったが、結局は此方こっちが自ら刈らねば成らぬような羽目に陥ったのは、市郎の不幸であった。此方こっちには何の考慮かんがえもなかったが、恋の種はお葉の胸に播かれた。東京の深川に生れて、十六の年から神奈川、豊橋、岐阜と東海道を股にかけたウエンチ生活の女が、二十三という此この年の夏に初めて真まことの恋を知った。

市郎は其後そのご再び柳屋の門かどを潜くぐらなかったが、元来が狭い町で、恋しい人の家屋敷は眼と鼻の間あいだにあるのだから、女は男を呼び出す術が無いでもなかった。況ましてお葉は男を恐れるような弱い女では無かったが、恋に柔やわらげられた此この女は日頃の気性に似も遣やらず、自分の男を捉えて来ることは躊躇して、唯ただ往来で折々逢う毎に、馴々なれなれしく詞ことばをかける位ぐらいを切せめてもの心遣こころやりに、二月ふたつき三月みつきを過すごす中うちに、飛騨の涼しい秋は早くも別れを告げて、寒い冬の山風が吹いて来た。柳屋の門かどの柳が霜に痩せると共に、恋に悩める女にも漸次しだいに痩やせが見えた。持病のヒステリーも嵩じて来た。果はては酔うて狂うて、前の如き椿事を演出しいだしたのである。

けれども、其対手そのあいての市郎は云うに及ばず、父の安行も周囲まわりの人々も、お葉の恋を斯かばかりに熱烈なるものとは想像し得なかった。昔から世間に能よくある習ならいで、田舎のお大尽だいじんを罠に掛ける酌婦の紋切形であろう位に、極めて単純に解釈していた。況まして市郎は、最初はじめから彼かのお葉という女を意中は愚おろか、眼中にも置いて居なかったのであるが、今日の一件に出逢って聊いささか意外の感を作なした。固もとより半狂気はんきちがいの酒乱のような女が、何を云うか判ったものでは無いが、彼女かれは自分の未来の妻たるべき冬子に対して、一種の根強い嫉妬心を懐いているのは事実らしく、加之しかも自分に対しても、二度と此この女をここの家うちへ入れるなと誓わしめたのを見ると、其底意そのそこいは善か悪か知らず、兎とにかく自分に対して何等かの執着心を有もっているらしく思われる。随したがって、冬子にも疑われ父にも怪あやしまれるのも無理はない。

「この疑惑うたがいを何どうして解くか。」

市郎も考えた。が、彼かの柳屋に就ついて事実の有無を証拠立てるより他に仕様もない。

「じゃア、阿父おとっさんと冬子さんと三人で柳屋へ行って、私が其後そのご遊びに行ったことが有るか無いか訊いて見ましょう。」

「馬鹿な。」と、安行は叱るが如くに苦笑いした。「親と一所いっしょに訊きに行ったって、先方むこうで真実ほんとうのことを云うと思うか。」

これは至極道理もっともである。市郎も叱られて閉口して了しまった。冬子も声を顫ふるわして、「妾わたしは死んでもあんな家うちへは行きません。」と云った。これも道理もっともである。

「だが、お前は真実ほんとうにお葉という女と関係は無いんだな。」と、霎時しばらくして父は問うた。

「実際です、実際関係は無いんです。」

市郎は之これより他に、自分の潔白を表明すべき詞ことばを知らなかった。わが子を信ずる安行は僅わずかに首肯うなずいたが、疑惑うたがいと嫉妬ねたみとが蟠わだかまれる冬子の胸は、まだ容易に解けそうにも見えなかった。

「冬子さん。」と、安行は声を和やわらげて、「倅せがれも此この通り云うんだから、よもや嘘じゃアありますまい。で、今日のことは阿母おっかさんが心配しないように、能よく云って置いて下さい。何いずれ私からも委くわしいお話を為しますから……。」

差当さしあたり斯こんなことを云って、冬子を宥なだめるより他は無かった。冬子も何時いつまで憤おこっても居られないので、解けぬ疑惑うたがいを懐いたままで、やがて我家へ帰る事となった。が、途中が何となく不安である。

「可よし、私と七兵衛とで送って上げよう。」

安行と七兵衛は冬子を送って出た。

(二十二)

虎ヶ窟の前に立ったお葉は、霎時しばらく夢のようであった。襟えりに沁しむ山風に吹き醒まされて、少しく正気に復かえって見ると、自分の白い手は人か山𤢖やまわろか判らぬような重太郎に掴まれていた。お葉は驚いて慌てて振放ふりはなした。

「重太郎、お前のお嫁さんを連れて来たよ。」と、お杉は笑いながら云った。重太郎も笑えみを含んで首肯うなずいた。

飛とんでもない話である。誰がこんな奴の嫁になるものかと、お葉は寧むしろ可笑おかしくなった。が、之これに伴う不安が無いでもなかった。さりとて逃げる訳にも行かぬ。彼女は相変らず黙って立っていた。

「お葉さん。お前は倅せがれの嫁になって呉くれるだろうね。」と、お杉は徐しずかに問うた。

お葉は矢やはり黙っていた。重太郎は堪たまり兼ねて又飛び付こうとするのを、母は制して、

「まあ、お待ちよ。ねえ、お葉さん。妾達わたしたちも時々に町へ出るから、お前さんとも予かねてお馴染だが、妾達は二十年以来このかたこの窟いわやに棲んで、山𤢖と一所いっしょに暮している。けれども、妾の倅の重太郎は𤢖じゃアない。是これでも立派な人間だ。其その人間の重太郎がお前さんに惚れたのも無理ではあるまい。そこで、是非お前さんを嫁に貰って呉くれと云うから、今日お前さんを呼んで来たのだ。何どうぞまあ仲好くしてお呉くれよ。」

云う人は極めて真面目であるが、云われる方は余り馬鹿馬鹿しくて御挨拶が能できぬ。お葉は唯とある岩角に腰を卸おろして、紅い木葉このはを弄いじっていた。

重太郎は漸々だんだんに熱して来たらしい、又飛蒐とびかかってお葉の手を捉とろうとするのを、母は再び遮さえぎった。

「そんなことをすると、お葉さんに嫌われるよ。ねえ、お前さん。ここまで一所に来る位だから、肯きいて呉くれるのだろうね。」

「妾あたしはそんな意つもりで来たんじゃありません。」

「それじゃア何しに来た。」

「お前さんが呼んだから……。」

「呼ばれて来るからには、承知だろう。」

「いいえ。」と、お葉は頭かぶりを掉ふった。

併しかし斯こうなると、お葉も我ながら判らなくなって来た。自分は何の為にここまでお杉に附いて来たのであろう。呼ばれたから来た……とばかりでは、余りに他愛が無さ過ぎる。何か他に相当な理屈が無ければならぬ。が、何どう考えても夢の様ようで、何の為に悪所絶所を越えて斯こんな処へ入込いりこんだのか、其その理屈は一切判らぬ。まだ酒に酔っていた故せいか知らと、無理に理屈を附けても見たが、それも何だか覚束ない様ようにも思われた。

酒の酔よいも醒め、ヒステリー的の発作も漸ようやく鎮しずまった今の彼女かれは、所謂いわゆる「狐の落ちた人」のように、従来これまでの自分と現在の自分とは、何だか別人の様ようにも感じられた。

お杉は又もや徐しずかに問うた。

「お前さん、重太郎が忌いやなのかえ。」

問わずとも判った話だ。お葉は矢やはり黙っていた。

「何故、忌なのだえ。」

お葉は相変らず俯向うつむいていた。

「はは、判った。お前は彼あの市郎に惚れているのだろう。無効だめだからお止よしよ。先方むこうじゃアお前を嫌い抜いているのだから……。」

「嫌われていても可よござんすよ。」と、お葉は屹きっと顔を上げた。

「嫌われても思いを通すというのかえ。それは道理もっともだ。が、お前が市郎に嫌われても、自分の思いを通そうと云うのと同じ訳で、重太郎も幾らお前に嫌われていても、必然きっと自分の思いを通すよ。然そう思ってお在いで。」

お杉は嫣然にやにや笑っていた。

逃げようと思っても逃げられる筈は無い。傍そばには重太郎が獣のような眼を晃ひからして見張っている。窟の奥には山𤢖らしい怪物ばけものも居る。路みちは人間も通わぬ難所なんじょである。こんな処へ導かれて来て、こんな怪物共ばけものどもに取囲とりかこまれたからは、自分の智恵や力で自分の運命を左右する訳には行かぬ。運を天に任すと云うのは、洵まことに今のお葉の身の上であった。

(二十三)

窟の中から怪しい者の影が又現れた。加之しかも二つ、うす暗い奥から此方こっちを覗いていたが、やがて入口の方へちょこちょこ駈出かけだして来た。

「𤢖わろが又来たよ、煩うるさいねえ。」と、お杉は重太郎を顧みかえって「少し焚火をお為しよ。」

重太郎は燐寸まっちを有もっていた。有合ありあう枯枝や落葉を積んで、手早く燐寸の火を摺付すりつけると、溌々ぱちぱち云う音と共に、薄暗うすぐろい煙が渦巻いて颺あがった。つづいて紅い火焔ほのおがひらひら動いた。

火の光を見ると、怪しい者共は俄にわかに恐れたらしい。キキと叫んで、早々に窟の奥へ逃げ込んで了しまった。

「お葉さん、寒いだろう。此方こっちへ来てお当りな。」と、お杉は徐しずかに焚火の傍そばへ寄った。お葉は岩に腰をかけたままで、返事も為しなかった。

「幾らお前が強情を張った所で、一旦ここへ連れて来た以上は、もう帰す気配きづかいはないから、其意そのつもりで悠々ゆっくりしてお在いで。夜も寒くない様ように、毛皮も沢山用意してあるから……。大事の花嫁さんに風邪でも引かせると大変だからね。ははははは。」

焚火はいよいよ燃え上あがって、其その紅い光は、お杉の尖とがった顔と、重太郎の丸い顔と、お葉の蒼い顔とを鮮明あざやかに照てらした。

昼も暗い山峡やまあいでは、今が何時頃だか判らぬ。あなたの峰を吹き過ぐる山風が、さながら遠雷のように響いた。

三人は霎時しばらく黙っていた。やがてお杉は矗然すっくと起たった。

「お葉さん、何を考えているんだえ。もッと此方こっちへお出いでよ。」

対手あいては矢やはり黙っているので、お杉は笑いながら其傍そのそばへ歩み寄った。

「判らない人だねえ。何でも可いいから妾わたしの云うことを肯きいて、素直にここの人にお成りよ。お前が惚れている市郎も、今にここへ連れて来て上げるから……。可いいだろう。」

「若旦那がここへ……。」

「ああ、妾が必然きっと連れて来て見せるから、温順おとなしくして待ってお在いで。え、それでも忌いやかえ。ねえ、お葉さん、確乎しっかり返事をお為しよ。」

お杉は窪んだ眼を異様に輝かして、対手あいての顔を穴の明くほど凝じっと見詰めると、お葉は少しく茫ぼうとなって来た。

「え、判ったかえ。」

低声こごえに力を籠めて云うと、お葉は小児こどものように首肯うなずいた。彼女かれは漸次しだいに酔って来たように感じた。

「可いいかえ。はいと返事をお為し。」

「はい。」

「重太郎のお嫁になるかい。」

「はい。」

お葉は夢心地で答えた。

「可よし、可よし。さあ、妾と一所いっしょにお出いで。」

進んで其その手を把とると、お葉は拒みもせずにふらふらと起たち上あがった。お杉は此この捕虜とりこを窟の暗い奥へ連れ込んで了しまった。焚火に映る重太郎の顔は、火よりも熱して赤く見えた。

やがて窟の奥からお杉の声で、

「重太郎、火を消してお了しまいよ。」

重太郎は云わるるままに焚火を踏み消すと、四辺あたりは俄にわかに暗くなった。奥から母が再び出て来た。後につづいて例の怪しい者が二つ飛んで来た。

お杉は宙を歩むように、傍かたえの小高い岩角へするすると登った。天を凌しのぐ山毛欅ぶなの梢の間ひまから、僅わずかに洩るる空の色を仰いで、

「もう日が暮れるのに間もあるまい。今夜はお前達に大事だいじの仕事があるんだよ。」

「阿母おっかさん、何だ。」

「角川の市郎はお前の仇かたきだ。彼奴あいつが無事に生きて居ては、お葉は何日いつまでも未練が残って、長くお前に附いて居まいよ。」

重太郎は眼を瞋いからして首肯うなずいた。

「それから彼奴あいつは妾にも仇だ。先刻さっき妾を突き倒して、半殺しの目に逢わした奴だ。お前達は其その復讐しかえしをしてお呉くれ。頼んだよ。」

「可よし、大丈夫だ。」

勢い込んで駈け出そうとするのを、母は呼び止めて何事をか囁き示す中うちに、日も漸ようやく暮れかかったらしい。例に依よって濛々もうもうたる山霧が潮うしおの如くに湧いて来た。

「早く行ってお出いでよ。」

お杉の声を後あとに聞きながら、重太郎も𤢖も霧の中を衝ついて出た。お杉は笑いながら再び焚火を撥ほじり初めた。

(二十四)

冬子を送って隣村まで出向いた安行と七兵衛とは、日が暮れるまで戻らなかった。が、それは左さのみ珍しいことでも無い。安行が吉岡家を訪問して、半日ぐらい話し込んでいることは、従来これまでにも屡々しばしばあった。

此頃このごろは日晷ひあしが滅切めっきり詰つまって、午後四時には燈火あかりが要る。麗うららかな日も、今日は午後から俄にわかに陰くもって、夕から雨を催した。五時を過ぎても、六時を過ぎても、二人は帰らないので、市郎も少しく不安を感じ初めた。殊に昨夜の𤢖わろの一件もあるので、途中が何だか剣呑けんのんにも思われた。家うちにいて心配するよりも、迎いながら町尽頭はずれまで出て見ようと決心して、市郎は洋杖すてっきを振りながら門を出ると、恰あたかも七兵衛の駈けて戻るのに逢った。

「小旦那こだんな……。」

彼は呼吸いきを喘はずませていた。暗くて能よくは判らぬが、恐おそらく顔の色も蒼くなっているだろうと思われた。

「どうしたんだ。」と、市郎も慌しく駈寄かけよって訊ねた。

「大旦那様は戻ったかね。」

「まだ帰らない。お前は親父と一所いっしょじゃアないのか。」

「一所いっしょだったが……途中で失はぐれて……一体どうしただろう。」

七兵衛が口早に語るのを聞くと、二人は冬子を吉岡家へ送り届けて、母のお政に昨夜の𤢖の一件や、今日のお葉の一条などを話している中うちに、思いの外ほかに時が移って、冬の日は早くも傾きかかった。二人は暇いとまを告げて立出たちでると、お政は途中の用心に松明たいまつを貸して呉くれた。

七兵衛が先に立って松明を振照ふりてらしながら、村と町との境まで来蒐きかかると、路みちは全く暗くなった。昨夜ゆうべ山𤢖に襲われたのは此辺このへんだなどと話していると、行手の木蔭から一人の小作りの男がひらりと飛んで出た。何者かと松明を突き付ける間ひまもなく、彼は蝗いなごの如くに飛んで来て、七兵衛の持ったる松明を叩き落した。加之しかも落ちたる松明を取って、傍かたえの小川に投げ込んで了しまった。

火の消えるのを相図のように、同じ木蔭から又もや怪しい者がばらばらと飛び出して、安行を手取り足取り引担ひっかついで行こうとする。安行も無論抵抗した。七兵衛も進んで主人の急を救おうとすると、最初はじめの小さい男が這って来て七兵衛の足を掬すくった。彼は倒れながらに敵の腕を取って、一旦は膝下しっかに捻伏ねじふせたが、体なりに似合わぬ強い奴で忽たちまち又跳返はねかえした。二人は起きつ転びつ毟むしり合っている中うちに、安行は自分の敵を突き退のけて十間けんばかりは逃げたらしい。敵もつづいて追って行った。

主人の身の上が関心きがかりではあるが、自分も一人の敵を控えているので何どうすることも能できない。七兵衛は声をあげて救いを呼んだ。この声を遠く聞き付けて、後あとの村から二三の人が駈けて来た。其跫音そのあしおとを聞くと、敵も流石さすがに狼狽うろたえたらしく、力の限りに七兵衛を突退つきのけ刎退はねのけて、あなたの森へ逃げ込んで了しまった。

が、主人の行方も安否も判らぬ。救いに来きたった人々に仔細わけを話して、七兵衛も共々に其処そこらを尋ね廻ったが、何分にも暗黒くらがりと云い、四辺あたりには森が多いので、更に何の手懸てがかりも無かった。或あるいは首尾好く町の方へ逃げ延びたかも知れぬと、彼は念の為に兎とに角かくも駈戻かけもどったのである。

以上の報告を聞いて、市郎も色を変えた。対手あいては𤢖か、或あるいは其それに似寄によりの曲者くせものか知らぬが、何いずれにしても彼等に襲われた父の運命は、甚だ心許ないものと云わねばならぬ。

「七兵衛、早く駐在所へ行って来い。」

七兵衛が駐在所へ駈付かけつける間に、市郎は家中うちじゅうの者を呼集よびあつめて、右の始末を慌しく云い聞かせると、一同は眼を瞠みはって駭おどろいた。何しろ一刻も早く捜査さがしに出ろと身支度する処へ、塚田巡査も出張しゅっちょうした。提灯や松明たいまつが点とぼされた。

「角川の大旦那が𤢖に攫さらわれた!」

誰云うとなく此声このこえが駅中しゅくちゅうに拡がると、まだ宵ながら眠れるような町の人々は、不意に山海嘯やまつなみが出たよりも驚かされた。日頃出入の者は云うに及ばず、屈竟くっきょうの若者共は思い思いの武器を把とって駈集かけあつまった。

塚田巡査は町の者共を従え、市郎は我家の職人や下男げなんを率いて、七兵衛老翁じじいに案内させ、前後二手に分れて現場げんじょうへ駈向かけむかった。夜の平和は破られて、幾十の人と火とが、町尽頭まちはずれの方へ乱れて走った。

(二十五)

午後から陰くもった冬の空は遂に雨を齎もたらして、闇を走る人々の上に冷つめたい糸の雫しずくを落した。が、そんなことに頓着している場合でない。松明たいまつの火を消すほどの強雨つよぶりでも無いのを幸いに、何いずれも町を駈け抜けて、隣村の境まで来て見ると、暗い森、暗い川、暗い野路のみち、見渡す限り唯ただ真黒な闇に鎖とざされて、天地寂寞せきばく、半時間前に怖るべき椿事ちんじがここに起おこったとは、殆ど想像の付かぬ位であった。

「老翁じいや、この辺へんかい。」と、市郎は立止たちどまって顧みかえると、七兵衛は水涕みずばなを啜すすりながら進み出た。

「はあ、丁度ちょうどここらでがすよ。あれ、あの樅もみの木の蔭から𤢖わろが出て来たので……。それから何でも大旦那は彼地あっちの方へ逃げたように思うのでがすが……。」

人々は松明を振照ふりてらして、七兵衛の指さす方かたを仔細に検査したが、別に手懸りとなるべき足跡もなく、遺留品も見出し得なかった。

「どうも判らんな。」と、塚田巡査も失望の嘆息といきを洩もらした。

が、兎とに角かくに其儘そのままでは済まされぬ。巡査の率いる一隊は、森に沿うて山路やまみちを北に登る事となった。市郎の一隊は現場げんじょうを中心として、附近の森や野原や村落を猟あさる事となった。斯かくて夜半やはんまで草を分けて詮議したが、安行の行方は依然不明であった。加之しかも夜の更けると共に、寒い雨が意地悪く降頻ふりしきるので、人々も寒気かんきと飢うえとに疲れて来た。

「到底とても今夜のことには行くまい。」と、弱い音ねを吹く者も出て来た。が、市郎は容易に諦めることは能できなかった。疲れた一隊を慰め励まして、其その附近約三里の間を東西に南北に駈け廻ったが、遂に何の手懸りも無かった。懐中時計を見ると、既もう午前一時である。松明の火も漸ようやく尽きて来た。

此この上は矢やはり山へ向うより他は無い。で、曩さきに巡査等が登った路みちとは方角を変えて、西の方から山路やまみちへ分入わけいろうとする途中に、小さい丘が見えた。ここらに多い山毛欅ぶなが茂って、丘の麓ふもとには名も無い小川が繞めぐっていた。

「や。人が死んでいる!」

先に立ったる一人が松明を翳かざして驚き叫ぶと、余よの人々も慌てて駈け寄った。見ると、山毛欅ぶなの大樹の根を枕にして、一人の男が赤裸で雨の中に倒れていた。

市郎は殆ど夢中で駈寄かけよった。消えかかる幾多の松明の火が一時にここへ集められた。其その光に照し出されたる屍体の有様ありさまは、身の毛も悚立よだつばかりに残酷なるものであった。男は前にも云う如く、身には一糸いっしを附けざる赤裸で、致命傷は咽喉のどであろう、其疵口そのきずぐちから滾々こんこんたる鮮血なまちを噴いていた。更に驚くべきは、鋭利なる刃物を以て其その顔の皮を剥ぎ取ったことである。随したがって其その顔は判然はんぜんせぬが、僅わずかに灰色の髪の毛に因よって、其その六十近い老人であることを確たしかめ得た。

「阿父おとっさんだ。」と、市郎は屍体を抱いだいて叫んだ。七兵衛も声を揚げて泣いた。

この意外なる光景ありさまに胆きもを挫ひしがれて、余の人々は唯ただ動揺どよめくばかり、差当り何どうするという分別も出なかった。が、流石さすがは職業であるから、市郎は先まず其疵口そのきずぐちを検査すると、疵きずは刃物でなく、鋭い牙と爪とて咬破かみやぶり掻裂かきさいたものらしい。彼は再び驚くと共に、敵は正まさしく𤢖であることを悟った。

この時、あなたの山の方から幾箇いくつの松明たいまつが狐火のように乱れて見えた。巡査の一隊は尋ね飽あぐんで、今や山を降って来たのであろう。斯かくと見るより此方こなたの人々は口々に叫んだ。

「大旦那はここに居たぞ。おうい、おうい。早く来いよ。」

先方むこうでも声に応じて駈けて来た。が、惨憺たる此場このばの光景ありさまを見て、何いずれも霎時しばらくは呆気あっけに取られた。巡査は剣鞘けんざやを握って進み出た。

「残酷なことを行やりましたなあ。𤢖でしょうか。」

「無論、𤢖です。𤢖の仕業です。」と、市郎は歯噛はがみをした。

「顔の皮を剥はいだのは、犯跡はんせきを晦くらます為でしょうか。」

「そんなことかも知れませんな。」

巡査は首肯うなずいて、これも一応屍体を検あらためたが、やがて少しく眉を顰ひそめた。

(二十六)

「角川さん。」と、塚田巡査は市郎を顧みかえって、「もう一度この老人の口を……歯を能よく見て下さい。」

市郎は死人しにんの口を開けて見た。

「どうです。違ちがや為しませんか」と、巡査は首を拈ひねった。

成程なるほど、違っていた。今まで気が顛倒てんどうしていたので、流石さすがにそこまでは意きが注つかなかったが、安行の前歯は左が少しく缺かけていた。この男の前歯は左右とも美事に揃っている。髪の色こそ似ているが、確たしかに人違いだ、我父では無い。市郎は吻ほっとした。

「違います。違います。成程、これは親父じゃアありません。」

「そうでしょう。」

「違った、違った。」と、人々は喜悦よろこびの声を揚げた。七兵衛は嬉しさに又泣き出した。人々は消えかかった松明たいまつが再び明るくなった様ように感じた。

が、これが安行でないとすると、何処いずこの何者であろう。たとい角川家の主人其人そのひとにあらずとも、一個ひとりの人間が惨殺されて此処ここに横よこたわっているのは事実である。塚田巡査は職務上これを捨置すておく訳には行かぬ。取敢とりあえず其その屍体を町へ運ばせて、己おのれは其その報告書を作る準備に取とりかかった。

夜はいよいよ更けて、雨は益々烈しくなって来た。此このまま雨中に立ち尽しては、或あるいは凍えて死ぬかも知れぬので、遺憾ながら安行の捜索は一旦中止して、一同も空しく町へ引揚ひきあげて来た。市郎は其夜そのよ一睡も為しなかった。

「阿父おとっさんは何どうしたろう。」

彼の冴えたる眼には、彼かの惨殺されたる老人の屍体がありありと映った。自分の父も矢やはり彼あのような浅ましい姿になって、人の知らぬ山奥か谷間たにあいに倒れているのではあるまいか。それにしても、あの老人は何者であろうか。父の行方不明と彼かの惨殺事件との間に、何等かの関聯かんれんがあるのではあるまいか。こんな事を際涯はてしもなく思い続けている中うちに、夜は白んだ。幸いに暁方あけがたから雨は晴れた。

遠近おちこちでは鶏とりが勇ましく啼いた。市郎は衾よぎを蹴って跳ね起きた。家内の者共は作夜の激しい疲労に打たれて、一人もまだ起きていない。が、何だか沈着おちついても居られないので、市郎は洋服身軽に扮装いでたって、兎とも角かくも庭前にわさきへ降立おりたった。

「今日は先まず何地どっちの方面から捜して見ようか。」

頬を吹く雨後あまあがりの寒い朝風は、無数の針を含んでいる様ようにも感じられたので、市郎は思わず襟えりを縮すくめながら、充血した眼に大空を仰ぐと、東は漸ようやく明るくなったが、北の山々は夜の衣ころもをまだ脱がぬと見えて、頽くずれかかった砲塁ほうるいのような黒雲くろくもが堆うずたかく拡がっていた。

一昨夜はトムを殺された、昨夜は父を奪われた。彼かの山𤢖やまわろなるものは、何が故に執念深く自分等に祟るのか、市郎は殆ど判断に苦くるしんだ。が、彼は不図ふとこんな事を思い泛うかべた。

トムは一昨日吉岡家の門前で、彼かのお杉婆ばばあに吠え付いた。而そうして其その晩に殺された。自分は昨日我家の門前で、同じくお杉婆を突倒つきたおして気絶させた。而そうして其その晩に父が行方不明になった。果はたして世間で伝うる如く、お杉婆と山𤢖との間に、何か不思議の因縁が結び付つけられてあるとすれば、昨夜の禍わざわいも或あるいはお杉婆ばばあに関係が有るのではあるまいか。

「そうだ、必然きっとそうだろう。」

斯こう考えると、彼は矢も盾も堪たまらなくなった。家内の者共を呼び起おこすまでもなく、自分一人で彼かの虎ヶ窟を探ろうと決心した。で、一旦内へ引返ひっかえして、応急の薬剤と繃帯ほうたいとを用意して、足早に表へ出ようとする時、七兵衛父爺じじいが寝惚眼ねぼけまなこを擦こすりながら裏口を遅々のそのそ出て来た。出逢頭であいがしらに喫驚びっくりして、

「や、小旦那……。朝飯も食わねえで何処どこへ……。駐在所かね。」

「いや、虎ヶ窟へ……。私は一足先へ行くから、皆みんなが起きたら直すぐに後あとから来るように然そう云って呉くれ。」

「虎ヶ窟へ……。」

七兵衛が危あやぶむ顔を後あとにして、市郎は早々に飛び出して了しまった。

(二十七)

市郎が駅しゅくを抜けて村境むらざかいに着いた頃には、旭日あさひが已すでに紅々あかあかと昇った。遠近おちこちの森では鳥が啼いて、眼も醒めるような明るい朝の景色は、彼に前途の光明を示すようにも見えたので、市郎は自ずと心が勇まれた。

例の樅林もみばやしの落葉を踏んで行くと、漸次しだいに山路やまみちへ差蒐さしかかる。岩は俄にわかに嶮けわしくなって来た。

「多寡たかが一里だ。知れたものだ。」

市郎は勇を鼓こして登った。が、彼は所謂いわゆる虎ヶ窟なるものの在所ありかを委くわしくは知らなかった。小児こどもの時に友達と一所いっしょに、一度ばかり登ったことが有るように記憶するが、今となっては其その方角も頗すこぶる覚束おぼつかないものであった。何でも本道から西へ入ると聞き伝えているので、心の急せく彼は遮二無二しゃにむに西へと進んだ。昨日彼かのお葉が踏んだ路みちである。彼も大小の岩を飛び越えねばならなかった、山蔦やまづたに縋すがって危あぶない綱渡りをせねばならなかった。洋服扮装でたちの彼は、草鞋わらじを穿はいて来なかったのを悔いた。

彼は又、曾かつて読んだ八犬伝の中うちで、犬飼現八いぬかいげんぱちが庚申山こうしんざんに分け入るの一段を思い出した。現八は柔術やわらに達していたので、岩の多い難所なんじょを安々と飛び渡ったと書いてある。市郎には生憎あいにくそんな素養が無かった。

「多寡たかが一里だ。」と、彼は難所に逢う毎に自ら励ました。が、或あるいは路みちを踏み違えたのかも知れぬ。已すでに二時間余あまりを費したかと思うのに、目指す窟いわやを未いまだ探り得なかった。この寒いのに彼は全身に汗を覚えた。岩の蔭から瞰上みあぐれば、日は已すでに高く昇ったらしい。

幾ら気が張っていても、疲労つかれには勝たれぬ。市郎は昨夜雨中を駈廻かけまわった上に、終夜殆ど安眠しなかった。加之しかも今朝は朝飯も食わなかった。疲労ひろうと不眠と空腹とが重かさなった上に、又もや此この難所を二時間余も彷徨さまよったのであるから、身体からだの疲れと気疲れとて、彼は少しく眼が眩くらんで来た。脳に貧血を来きたしたらしい。ここで倒れては大変だ。

「これでは到底とても歩かれない。」

市郎は唯とある岩角に腰をかけて、用意の気注薬きつけぐすりを啣ふくんだ。足の下には清水が長く流れているが、屏風のような峭立きったての岩であるから、下へは容易に手が達とどかぬ。少しく体を前へ屈かがめると、飜筋斗もんどり打って転げ墜おちるであろう。斯こう思うと、飲料のみものを用意していない彼は愈いよいよ渇かわきを覚えた。

「自分は医師いしゃでありながら、何故斯こう不注意だろう。」と、彼は自己おのれを叱っても追付おっつかない。市郎は余りに慌てて我家を出たのであった。

「それにしても、七兵衛や他ほかの者は何どうしたろう。」と、彼は心細さに斯こんな事も考えた。が、今更引返ひっかえすべきではない。進め、進め、倒れるまでも進めと、市郎は勇気を振い起おこして又歩き出した。あなたの梢では大きな山猿が、他ひとを嘲あざけるように笑っていた。

市郎は何処どこを何どう歩いたか、半なかばは夢中で無闇に進んで行った。それから約一時間ばかりも経ったと思う頃、彼はあなたの大きい岩の狭間から、一縷いちるの細い煙けぶりの迷い出いづるを見た。

「占めた!」

彼は喜んで躍った。で、思わず声を揚げて呼ぼうとしたが、遠方から敵を驚おどろかしては妙でない。窃ひそかに近寄って其その不意を襲うに如しかずと、市郎は故意ことさらに跫音あしおとを偸ぬすんで、煙のなびく方かたへ岩伝いに辿った。

この辺あたりには大樹が多かった。大樹の聳そびゆる下もとに落葉焚く煙が白く颺あがって、彼かのお杉婆ばばあは窟を背後うしろに、余念もなく稗ひえの粥かゆを煮ていたが、彼女かれの耳は非常に敏さとかった。忽たちまち人の跫音に心附こころづいたと見えて、灰色のおどろ髪を振乱ふりみだしつつ此方こなたを屹きっと顧みかえった。市郎はつかつかと其その眼前めさきに現れた。

お杉は騒ぐ気色けしきもなく、徐しずかに起たち上あがって軽く会釈した。

「昨日きのうは何どうも飛んだ御邪魔を致しました。」

「いや、僕の方でも大変失礼した。」と、市郎も尋常の挨拶をして、「時に今日来たのは他でもないが、家うちの親父が昨夕ゆうべから行方知れずになったので……。」

「まあ。」と、お杉は驚いた顔をした。

(二十八)

市郎は少しく躊躇したが、更に詞ことばを次いだ。

「そこで、心当りを方々ほうぼう探しているんだが、何どうも判らないので困っている。」

「それは困りましたねえ。」と、お杉も心配そうに眉を寄せた。

「村の者の話に拠よると、親父は山の方へ登ったとも云うんだ。若もし然そうならば、万一此地こっちの方へでも迷い込んで来やアしないかと思って……。」

「いいえ、お見掛みかけ申しませんね。」

お杉は昨日に引替ひきかえて、極めて叮嚀ていねいな口吻くちぶりであった。が、市郎は中々油断しなかった。

「親父は来なかったかね」と、考えて、「そこで、些ちっと云い難にくいことだが、折角ここまで来たもんだから、念の為に窟の中を一応調べさして貰いたいんだが、何どうだろうね。」

「判りました。あなたは妾わたしを疑っているんでしょう。妾はこんな姿をして、乞食同様の生活くらしをしていますが、人を攫さらったり、殺したりした記憶おぼえはありません。山𤢖やまわろとは違いますからね。」

「それは僕も知っているが、まあ念晴ねんばらしだ。検あらためても可いいだろう。」

お杉は黙って市郎の顔を視みていた。

「可いいだろう、鳥渡ちょいと検めても……。」

「何どうとも勝手にお為しなさい。だが、倅せがれの帰らない中うちに早く願いますよ。」

「倅は何処どこへ行った。」

「そこらへ木実きのみを拾いに行きました。」

「そうか。」

市郎は窟へ五六歩踏込ふみこんだが、奥は暗いので何にも見えなかった。お杉は黙って窟の入口に立っていた。

「中は真暗まっくらだね。」と、市郎は外を顧みかえって呼ぶと、お杉もつづいて入って来た。

「何か松明たいまつか蝋燭のようなものは無いかね。暗くって仕様がない。」

「松明もあります、蝋燭もあります。」

「何方どっちでも可いいから貸して呉くれないか。」

お杉は黙って蝋燭に火を点つけた。

「あなた、どうぞお早く願いますよ。ここへ倅が帰って来ると不可いけませんから……。彼児あれは正直者ですから、他ひとから嫌疑うたがいを受けて家捜やさがしをされたなどと聞くと、必然きっと憤おこるに相違ありませんから……。」

「可よし、可よし。判った。」

お杉が照す蝋燭の淡い光を便宜たよりに、市郎は暗い窟の奥へ七八間けんほど進み入ると、第一の石門せきもんが眼の前に立っていた。市郎はお杉の手から燈火あかりを受取うけとって、左右の隅々くまぐまを照てらし視みたが、上も下も右も左も唯ただ一面の嶮けわしい岩石で、片隅の低い岩の上には母子おやこの寝道具ねどうぐかと思われる獣の生皮二三枚と、茶碗と箸と薬鑵やかんのたぐいが少しばかり転がっているのみで、他には別に眼に入いる物もなかった。市郎は念の為に獣の皮を一枚づつ引き剥めくって見た。

「何か見付みつかりましたか。」と、お杉は冷笑あざわらうような口吻くちぶりで問うたが、市郎は何とも答えなかった。これより更に奥深く進むと、第二の黒い石門せきもんが扉のように行手を塞ふさいでいて、四辺あたりの空気は凍るばかりに寒かった。

「この先にも路みちがあるかね。」

「ありますから、まあ入って御覧なさい。石の下から潜もぐって行くんですよ。」

市郎は一旦立止たちどまったが、此このまま半途で引返ひっかえしては何にもならぬ。彼は障碍物しょうがいぶつ競走をするような形で、兎とも角かくも冷つめたい石門の下を這って通ると、其後そのあとからお杉の痩せた身体が蛇のようにするすると抜け出して来た。

「ここが行止ゆきどまりだね。」

お杉は首肯うなずいた。市郎は一度消えた蝋燭に再び燐寸まっちの火を点つけて、暗い石室いしむろの中を仔細に照てらして視みたが、所々の岩の窪みに氷のような水を宿している他には、矢やはり何物も眼に入はいらなかった。

「何か見付みつかりましたか。」と、お杉は重ねて問うた。其その声が四方の低い石壁に響いて、何となく凄愴ものすごいように聞えた。市郎は黙って立っていた。

(二十九)

市郎が唯一の希望のぞみの光も消えた。あれほどの難所なんじょを越えてようよう此処ここを尋ね当てた効かいも無く、暗い窟の奥には何の秘密も無かった。彼はお杉に有らぬ疑惑うたがいを掛けたのを、今更大おおいに後悔した。

「どうも僕が悪かったよ。」

「じゃア、もう可いいんですか。」

「むむ。ここまで詮議すれば心残りは無い。もう帰ろうよ。」

とは云ったが、まだ幾分の未練が有るらしい、市郎は壁に沿うて室内を一巡ひとめぐりした。

「や、あの隅に大きな穴がある……。」

お杉の眼は晃然ぎろりと光った。市郎は進んで蝋燭の火を翳かざすと、岩穴は深さ幾丈、遠い地の底でごうごうという音が微かすかに聞えるばかりで、蝋燭の細い光ぐらいでは到底とても達とどきそうも無い。穴の奥は深い闇に埋うずまれていた。

市郎は更に跪ひざまずいて底を覗いたが、底は唯ただ暗いのみで何にも見えなかった。お杉は黙って其背後そのうしろに突っ立っていた。

低い狭い石室いしむろの中は、墓場のように鎮しずまり返っていた。が、其その寂寞せきばくは忽地たちまちに破られた。市郎は我が背後うしろで微かすかに物の動く気息けはいを聞いたので、何心なにごころなく顧みかえると、驚くべし彼かのお杉婆ばばあは手に磨とぎ澄すましたる小刀こがたなを振翳ふりかざして、あわや彼を突かんとしているのであった。

「何をするッ。」

市郎が驚いて叫ぶ間もありや無しや、お杉の兇器は其その頸筋くびすじへ閃いて来た。が、咄嗟とっさの間あいだに少しく体たいを躱かわしたので、鋭い切尖きっさきは僅わずかに其その肩先を掠かすったのみであった。空くうを撃ったお杉は力余って、思わず一足前へ蹌踉よろめく機会はずみに、恐おそらく岩角に蹉つまずいたのであろう、身を翻ひるがえして穴の底へ真逆さまに転げ墜おちた。蝋燭は消えて真の闇となった。

意外の出来事に市郎も一時は呆気あっけに取られたが、お杉が自分を殺そうとしたのは、恐おそらく昨日きのうの復讐ばかりではあるまい。彼女かれは此この岩穴の中うちに何等かの暗い秘密を蔵ぞうしているので、其その発覚を恐れて斯かかる兇行を企てたに相違ない。矢やはり自分が最初はじめに疑っていた通り、生死しょうし不明の父は此この穴の底深き処に葬られているのかも知れぬ。それにしても、お杉は何どうしたろう。岩石に骨を砕かれて即座に命を隕おとしたか、或あるいは案外の軽傷で無事に生きているか、先まず其その安否を確たしかめねばならぬ。いかに悪人にもせよ、此このまま見殺しにするという法はあるまい。

「兎とも角かくも穴へ入って見よう。」

父の行方とお杉の安否とを探る為に、市郎は直ちに此この冒険を試みようと決心した。彼は燐寸まっちを擦すって再び蝋燭に火を点つけた。其その光に因よって又もや穴の中を窺うと、底の底は依然として真暗まっくらであったが、彼は幸いに或物を見出した。それは一条の細い綱である。

今までは些ちっとも眼に注つかなかったが、綱は人間の髪毛かみのけに因よって固く編まれたもので、所謂いわゆる「毛綱けづな」の類たぐいであった。其その一端は穴の降口おりぐちとも思しき処の岩角に結び付けられて、他たの端は暗い底の方に長く垂れていた。試みに之これを手繰たぐって見ると、綱は古代の大蛇だいじゃのように際限はてしもなく長いもので、繰くれども繰くれども容易に其端そのはしには達とどかなかったが、根こんよく手繰たぐっている中うちに、漸ようやく残りなく引揚ひきあげた。長さは幾丈あるか鳥渡ちょっとは想像が付かぬ位で、黒い固い綱は狭い室内に蟠蜒とぐろを巻いて、其端そのはしは蛇の鎌首のように突っ立った。これが総て人間の髪毛かみのけであるかと思うと、市郎は何となく薄気味悪く感じた。

が、今は猶予している場合でない。市郎は其その綱の片端を自分の胴に緊しかと結び付けて、海燕うみつばめの巣を猟あさる支那人のように、岩を伝って真直まっすぐに降り初めた。岩は殆ど峭立きったったように嶮けわしいが、所々には足がかりとなるべき突出とっしゅつの瘤こぶがあるので、それを力に探りながら徐々そろそろと進んだ。

降くだるに従って、深い穴の底はいよいよ暗かった。彼が僅わずかに頼みとするのは、鬼火のように燃ゆる一挺いっちょうの蝋燭の他は無かった。

(三十)

市郎は半なかば夢中であるから、約およそ何どのくらい降りて進んだか判らぬ。兎とにかく手がかり足がかりの岩を辿って、下へ下へと危あやうくも降りてゆくと、暗い中から蝙蝠かわほりのようなものがひらりと飛んで来て、市郎の横面よこつらを礑はたと打った。あッと顔を背そむける機はずみに、冷つめたい空気の煽りを受けて、頼みの蝋燭はふッと消えた。

「あ、失敗しまった!」と、市郎は思わず舌打したうちした。が、現在の位置にあって再び蝋燭を点つけると云うことは、殆ど不可能であった。彼は左の手に蝋燭を持ち、右の手に岩を抱いて、辛くも其身そのみを支えているのであるから、到底とても燐寸まっちを擦するべき余裕は無い。迂濶うかつに手を放せば、彼は底知れぬ暗黒くらやみに転げ墜おちて、お杉と同じ運命を追わねばならぬ。さりとて此このままの暗黒くらやみでは仕方が無い。

彼は霎時しばらく途方に暮れたが、此この場合兎とも角かくも進んで行くより他は無いので、市郎は探りながらに徐しずかに降りた。それから二三間げんほど進んだかとも思う時に、彼の左の足は硬い物に触れた。靴で幾度いくたびか探って見ると、これは突出とっしゅつした岩の角で、岩は可成かなりに広いらしい。ここならば両手を放しても立って居られそうに思われたので、「可よし、ここで燐寸まっちを点つけようか。」と、市郎は更に右の足を踏み締めると、足の下は意外に柔やわらかであった。左は硬く、右は柔かい。少しく可怪おかしいとは思ったが、柔かいのは恐おそらく粘土ねばつちであろうと想像して、彼は先まずここに両足を踏み固めた。

で、何よりも早く蝋燭を点けねばならぬ。市郎は手早く燐寸を擦ると、余りに慌てた結果、火は点いたが又忽たちまち消えた。が、この瞬時の光に因よって、彼は我が足下あしもとに人の横よこたわっているのを見た。男か女か確しかとは判らぬ、唯ただ蒼白い顔が朦朧ぼんやりと浮き出したかと思う間もなく、四辺あたりは再び旧もとの闇に隠れて了しまった。

「阿父おとっさんか、お杉か、但ただしは別人か。」

市郎は急せいて又燐寸を擦ったが、胸の動悸に手は顫ふるえて、幾たびか擦損すりそんじた。彼は愈いよいよ悶じれて、一度に五六本の燐寸を掴んで力任せに引擦ひっこすると、火は漸ようやく点いた。

わが足下あしもとに横よこたわっているのは、尋ぬる父の安行であった。わが右の足で踏んでいた柔かい物は粘土ねばつちで無い、老おいたる父の左の股ももであった。市郎は驚いて声も出なかった。慌てて飛退とびのいて更に熟よく視みると、人違いでない、確たしかに父の安行である。が、其その顔は生ける日と些ちっとも変らず、極めて平和な温順な人相を現わして、斯かかる変死者に往々おうおう見る所の苦痛や煩悶の死相は少しも見えなかった。父は恐おそらく不意に殺されたのであろう。父は怖るべき危害の迫り来るを予知せずに突然死んだのであろう。

市郎は蝋燭を岩の罅間さけめに立てて、一先ひとまず父の亡骸なきがらを抱き起おこしたが、脈は疾とうに切れて、身体は全く冷えていた。併しかし一通り見た所では、何処どこにも致命傷らしい疵きずの痕は無かった。多分この岩の上へ突き落されて、脳震盪のうしんとうを起おこして死んだのではあるまいか。勿論もちろん、これとても想像に過ぎない。

「阿父おとっさん……。」

切せめてもの心床こころゆかしに、市郎は父の名を呼んだが、魂魄たましいの空しい人は何とも答えなかった。

「阿父さん……。」

彼は再び呼んだ。呼んで返らぬとは知りながら、再び呼んだのである。

市郎は一人児ひとりこであった。小児こどもの時に生うみの母には死別しにわかれて、今日こんにちまで父おや一人子一人の生涯を送って来たのである。父は年齢としよりも若い、元気の好いい人であった。わが子に対むかっても平気で冗談を云うような人であった。加之しかも我子を又無く愛する親であった。遠からず我子に嫁を迎えて、自分は隠居する意つもりの親であった。

この父おやと子と突然に別離わかれを告げたのである。それも尋常一様の別離わかれでない。父は夢のように姿を隠して、夢のように死んだのである。加之しかも人間の通わぬ窟の奥、暗い蝋燭の下で其その悲しき死顔を見たのである。

市郎は父の亡骸を抱いだいて泣いた。

(三十一)

この時、背後うしろの方から不意に物の気息けはいが聞えて、何者か忍び寄るようにも思われたので、市郎は手早く蝋燭を把とって起上たちあがると、余りに慌てたので、彼は父の死骸に蹉つまずいた。広いと云っても一坪にも足らぬ岩の上である。彼はあッと云う間に足を踏み外して、深さも知れぬ暗い底へ転げ墜おちた。

が、幸いに彼の身体には例の毛綱けづなが結び付けてあるので、市郎は岩から墜おちる途端に、早くも綱に取付とりついてずるずると滑り墜おちると、二三間げんにして又もや扁平ひらたい岩の上に止とまった。横さまに跪ひざまずいて倒れたので、左の膝を少しく痛めたが、差したることでも無いらしい。彼は疼痛いたみを忍んで直すぐに起き上あがった。其その片手には消えた蝋燭を後生大事に握っていた。

斯かくして彼は父の死骸から遠ざかって了しまったのである。引返ひっかえそうにも足がかりが見出されぬ。降りる方は比較的容易であったが、登るのは余よほど困難であるらしい。斯こうなるからは寧いっそのこと、どん底まで真直まっすぐに降りて行って、彼かのお杉の安否を確たしかめた方が優ましかも知れぬ。ええ、何どうなるものか、行ける所まで行って見ろと、一種の自棄やけと好奇心とが混まじって、市郎は更に底深く降りることに決心した。それに付けても唯一の味方は蝋燭である。彼は又もや燐寸まっちを擦付すりつけようとする時、人か獣か何か知らぬが、嶮けわしい岩を跳越はねこえてひらりと飛んで来た者がある。

身を躱かわす間もあらばこそ、彼かの怪物は早くも市郎の前に飛込とびこんで来て、左の外股そとももの辺あたりを礑はたと打った。敵は兇器を持っているらしい、打たれた所は唯ただならぬ疼痛いたみを感じて、市郎は思わず小膝を突いた。「𤢖わろか。」と、此この刹那に市郎は忽たちまちに悟ったが、敵が余りに近く薄せまっているので、火を点つける余裕が無い。彼は右の足を働かして強く蹴ると、敵は足下あしもとに倒れたらしい。暗黒くらやみで固もとより見当は付かぬが、市郎は勝つに乗って滅多矢鱈めったやたらに蹴飛ばす中うちに、靴の尖さきには応こたえがあった。敵は猿のような声を揚げてきゃッと叫んだぎりで霎時しばらくは動かなかった。

この隙を見て、市郎は忙いそがわしく燐寸まっちを擦すった。蝋燭の火の揺ゆらめく影を便宜たよりにして、先まず此この怪物の正体を見定めようとする時に、一人の男がぬッと其その眼前めさきへ現われた。市郎は悸然ぎょっとして熟よく視みると、これは𤢖では無いらしい。而しかも𤢖とは大差ない程に見ゆる下級労働者らしい扮装いでたちで、年の頃は五十前後でもあろう、髪を長く伸のばして、尖とがった顔に鋭い眼を晃ひからせ、身には詰襟つめえりの古洋服の破れたのを着て、足には脚袢きゃはん草鞋わらじを穿はいていた。其扮装そのいでたちを見て察するに、近来この土地へ続々流れ込んで来る坑夫か土方どかたの仲間らしい。

「私わたしは𤢖じゃアありませんよ。御安心なせえまし。ははははは。」

男は笑いながら馴々なれなれしく近寄って来たが、市郎は容易に油断しない、蝋燭を突き付けたままで其その顔を屹きっと睨んでいた。

「𤢖はここに居まさあ。御覧なせえまし、此この醜態ざまだ。」

男が笑いながら指さす我が足下あしもとには、何さま異形いぎょうの者が倒れていた。先夜トムを殺した奴と確たしかに同種類に相違ない。赭土色あかつちいろの膚はだで、髪の長い、手足の長い、爪の長い、人か猿か判らぬような怪物である。彼は市郎の靴で額の真向まっこうを蹴破られたと見えて、濃黒どすぐろいような鮮血なまちが其その凄愴ものすごい半面を浸していた。

併しかし彼は死んだのでは無かった。其その眼前めさきに蝋燭の火を差付さしつけられると共に、又もやきゃッと叫んで跳ね起きて、血だらけの顔を抱えながら岩から岩へ、何処どこへか飛んで行って了しまった。

斯かくして真実ほんとうの𤢖は逃げ去ったが、𤢖類似の怪しい男は未まだ眼の前に残っている。此この男は果はたして善か悪か、敵か味方か、市郎も其その判断に苦くるしんで佇立たたずんでいると、男は愈いよいよ馴々なれなれしい。

「旦那、御心配なせえますな。𤢖なんて云うものは、意気地のねえ奴ですから、もう蒐かかって来る気配きづかいありませんよ。はははは。」

彼は勇士である。人の恐るる山𤢖を物の屑かずとも思っていないらしい。

(三十二)

何しろ、得体の判らぬ男であるが、何時いつまで睨み合っていても際限はてしがないと、市郎の口も解ほぐれ初めた。

「お前さんは此この穴に棲んでいるのか。」

「そうじゃアありませんが、大抵勝手は心得ていますよ。」

「底までは未まだ余よほど遠いかね。」

「何、もう直すぐです。御覧なせえまし、唯たった三四間けんの所でさあ。」

蝋燭を照てらして視みると、底は近い。獣の牙のような大小の岩が聳そびえていた。

「今、人が墜おちたんだが……。」と、市郎は伸上のびあがって底を覗くと、男は首肯うなずいた。

「もう少し前に、上から墜おちて来た者がありましたよ。𤢖わろかと思っていたが、然そうじゃア無かったか知ら。」

男は先に立って岩を降りた。市郎も続いて降りた。やがてどん底まで辿り着くと、果して其処そこにお杉の死骸が倒れている。彼女かれは牙のような岩と岩との間に挟まれて、さながら巨大おおいなる野獣に咬まれたような形で死んでいた。

男は少しく眉を顰ひそめて、お杉の死顔を凝じっと眺めていた。市郎は念の為に脈を取って見たが、これも手当を施すべき依頼たのみは切れていた。

「一体、この女は何どうして墜おちたんだろう。旦那は此女これを御存知ですか。」

善悪判らぬ此この男に対して、市郎は真まことを語らなかった。

「さあ、僕も知らない。僕は唯ただこの窟を探険に来たのだ。」

「じゃア、書生さんだね。」

「まあ、然そうさ。」

こんなことを云っている中うちに、市郎は漸次しだいに足の疼痛いたみを感じた。今までは気が張っていたので、何も彼かも殆ど夢中であったが、曩さきに岩の上へ転げ墜おちた時に彼は左の膝を痛めた。続いて𤢖の為に左の股ももを傷きずつけられた。加之しかも二度目の傷は刃物で突かれたと見えて、洋袴ずぼんに滲にじみ出る鮮血なまちの温味あたたかみを覚えた。究竟つまり彼は左の片足に二ヶ所の傷を負っているのであった。

父の行方も探し当て、お杉の生死しょうしも確たしかめ得たので、彼も今は気が弛ゆるむと共に、市郎は正しく立つに堪たえられなくなって来た。跛足びっこを曳ひきながら傍かたえの岩角に跟蹌よろけかかって、倒れるように腰を卸おろした。男も其側そのそばへ腰をかけた。

「旦那は何どうか為なすったんですか。」

「些ちっと怪我けがをした。」と、市郎は顔を皺しかめて、「そこでお前さんに頼みたいことが有るんだが……。僕は此この通り、足を痛めているんで到底とても歩けそうもない。お前さんは此処ここの勝手を知っていると云うなら、後生ごしょうだから僕の家うちまで行って来て呉くれないか。而そうして、僕がここに居るから迎いに来て呉くれと……。」

「旦那の家うちは遠いんですか。」

男は余り気の進まぬような返事であった。市郎は衣兜かくしの紙入かみいれから紙幣を探り出して、黙って男の手に渡すと、彼は鳥渡ちょっと頂いて直すぐに我が洋袴ずぼんの衣兜かくしへ捻込ねじこんで了しまった。

「じゃア、行って来ましょう。旦那のお宅は何方どちらです。」

「この山を降りて樅もみの林を抜けると、町は直すぐに見える。僕の家うちは角川と云うんだから、町で訊けば直すぐに判る。」

角川と聞いて、男の顔色は少しく動いた。市郎の顔を再び覗いて、

「あなたは角川の若旦那ですかい。」

「むむ。僕は角川の倅せがれだ。」

「へえ、そうですか。」と、考えて、「大旦那はまだ御健康おたっしゃですかい。」

「え、お前さんは僕の親父を知っているのか。」と、市郎は不審の眼を晃ひからせると、男は忽たちまち頭かしらを掉ふった。

「いいえ、お目にかかったことは有りませんが……。何しろ、それじゃア直すぐに行って来ましょうよ。」

「何分頼むよ。」

「よろしい。待ってお在いでなせえまし。」

男は口早に、身軽に起上たちあがって、衣兜かくしから新しい手拭を把とって頬包ほおかむりした。

「旦那、この綱は大丈夫ですかい。」

「むむ、上の岩に緊乎しっかり結び付けてある。」

市郎は自分の胴に巻いた毛綱けづなを解といて、傍かたえの岩角に結び付けると、男は之これに縋すがって登り初めた。かれは鉱山生活に慣れているらしい、手は綱に縋り、足は岩に踏みかけて、案外無造作にするすると登って行った。穴の入口に達した時に、彼は下に向って声をかけた。

「旦那、行って来ますよ。」

(三十三)

虎ヶ窟に於て是これほどの事件が出来しゅったいしている間に、彼かのお葉と重太郎とは、何処どこに何をしていたであろう。二人に関する昨夜以来の成行なりゆきを、ここで簡短かんたんに説明せねばならぬ。

前にも記す如く、お葉は自分にも判らぬ心理状態の中うちに此この山中やまなかへ誘いざなわれ、此この窟の奥に囚われて了しまった。重太郎と山𤢖やまわろとは夜の更けるまで帰って来なかった。

「妾あたしは何どうして斯こんな処へ来たんだろう。」と、時の経つに従って、お葉は夢から醒めたように考えた。今日一日のお葉は、自分ながら何が何どうしたのか殆ど判断が付かなかった。或あるいは酔い、或あるいは醒め、或あるいは夢み、自分の頭脳あたまは種々いろいろの混乱を来きたした末に、お杉婆ばばあの威嚇的命令の下もとに重太郎の嫁たるべく約束した。が、考えて見ると斯こんな馬鹿馬鹿しいことは無い。妾は気でも狂ちがったのか知らと、お葉はつくづく自分の馬鹿馬鹿しさに愛想あいそを竭つかした。

で、何は扨さて措いても、斯こんな処に長居すべきでない。自分は東京深川生れのお葉さんである。自分の身状みじょうが悪い為に、旅から旅を流れに渡って、「行ゆくにゃ辛い」と唄にまで謳うたわるる飛騨の山家やまがに落ちて来たが、それでも自分には自分の生命せいめいが有る、自分には自分の恋が有る。こんな山奥へ引摺込ひきずりこまれて、人だか𤢖だか判らぬような怪物共ばけものどもの玩弄おもちゃにされて堪たまるものか。他ひと面白くもない、好加減いいかげんに馬鹿にしろと、彼女かれは持前の侠肌きゃんを発揮して、奮然袂たもとを払って起たった。

が、お葉も流石さすがに彼かのお杉婆ばばあに対しては、何となく不気味の感が無いでもなかった。窟の奥から窃そっと抜け出して、先まず表の有様ありさまを偸ぬすみ視みると、夜は既もう更けたらしい、山霧は雨となって細かに降っている。お杉は消えかかる焚火を前にして、傍かたえの岩に痩せた身体を凭よせかけたまま、さながら無言の行ぎょうとでも云いそうな形で晏然じっと坐っていた。生きているのか、死んでいるのか、眠っているのか、起きているのか、一向に見当が付かない。

捉つかまったら其それまでと度胸を据えて、お葉は抜足をして外へ出た。お杉婆は身動きも為しなかった。お葉は折柄おりからの雨を凌しのぐ為に、有合ありあう獣の皮を頭から引被ひっかぶって、口には日頃信ずる御祖師様おそしさまの題目を唱えながら、跫音あしおとを偸ぬすんで忍び出た。

それから一時間も過ぎた後のちに、重太郎が帰って来た、山𤢖も帰って来た。彼等は山蔦やまづたで引縛ひっくくった角川安行を抱えていた。

「阿母おっかさん、阿母さん。」

重太郎が呼んでもお杉は答えなかった。重太郎は先まず窟の奥へ駈け込んだが、霎時しばらくして狂気の如く飛んで来た。

「阿母さん、お葉は……。お葉は何処どこへ行った。」と、彼はお杉の腕を掴んで、力任せに引摺ひきずり廻した。

「何、お葉が居ない。」と、お杉も初めて眼を睜みひらいた。

「阿母さん、寝ていたのか。」

「例いつもの通り、眼を瞑つぶって神様に祈っていたのさ。」

「そんなら判りそうなものだ。お葉は居ない、お葉は逃げた。」

重太郎は足摺あしずりして泣き出した。

「お葉が逃げた……。」と、母も眼を晃ひからしたが、「心配お為しでない。何処どこへ行くものか。家うちへ帰ったら又連れて来るから……。」と、さびしく笑っていた。

「何日いつ連れて来て呉くれる。」

「明日あしたでも、明後日あさってでも……。」

十日の中うちには死ぬと予言したお杉婆ばばあにも、流石さすがに明日あしたの自分の運命は判らなかったと見える。彼女は沈着払おちつきはらって我子を慰めた。が、若い血の燃ゆる重太郎には、明後日あさっては愚おろか、明日あしたをも待たれなかった。彼は宛さながら狂える馬のように跳おどり上あがった。

「否いやだ、否だ。今夜中に連れて来て呉くれ。」

「でも、今夜は不可いけない。妾あたしは他に用が有る。明日までお待ちよ。」

重太郎は既もう耳にも入れなかった。これから直すぐにお葉の行方を追う意つもりであろう、彼は旧もと来し方かたへ直驀地まっしぐらに駈けて行った。

(三十四)

お葉は虎ヶ窟から虎口ここうを逃れた。

逃れたのは嬉しいが、扨さて其先そのさきに種々いろいろの困難が横よこたわっていた。路みちは屡々しばしば記す通りの難所なんじょである、加之しかも細雨こさめふる暗夜あんやである。不知案内ふちあんないの女が暗夜に此この難所を越えて、恙つつがなく里へ出られるであろうか。

けれども、今はそんなことに頓着する場合で無かった。お葉は唯ただ無闇に行手を急いだ。昼ならば一度越えた路に就ついて、多少の心覚えや目標めじるしも有ったか知らぬが、真暗黒まっくらがりでは何が何やら些ちっとも判ろう筈が無い。同じような岩や、同じような谷や、同じような坂が、そこにも此処ここにも路を遮さえぎって、彼女かれを遣やらじと抑留ひきとめるようにも思われた。

「死んでも構うものか」

お葉は覚悟を極きめた。𤢖わろ見たような奴等の玩弄おもちゃになる位ならば、寧いっそ死んだ方が優ましである。彼女かれは足の向く方へと遮二無二しゃにむにと進んだ。其その勇気は健気けなげとも云うべきであったが、此この種の冒険は気の強いばかりでは押通おしとおせるものでない。猟夫かりゅうどや樵夫きこりの荒くれ男ですら之これを魔所と唱えて、昼も行悩ゆきなやむ三方崩さんぽうくずれの悪所絶所を、女の弱い足で夜中に越そうと云うのは、余りに無謀で大胆であった。

彼女かれは裳すそを高く褰かかげて、足袋跣足たびはだしで歩いた。何を云うにも暗黒くらがりで足下あしもとも判らぬ。剣つるぎなす岩に踏み懸けては滑り墜おち、攀上よじのぼっては転まろび落ちて、手を傷きずつけ、脛はぎを痛めた。況まして飛騨山中の冬の夜は、凍えるばかりに寒かった。霧に似たる細雨こさめは隙間もなく瀟々しとしとと降頻ふりしきって、濡れたる手足は麻痺しびれるように感じた。

併しかし彼女かれは飽あくまでも強情であった。倒るるまでは進むという覚悟で、方角も知らずに起きつ転ころんづ、盲探めくらさぐりに辿って行くと、兎とも角かくも普通の山路やまみちらしい処まで漕ぎ着けた。東に迷い、南に迷い、彼女かれは実に幾時間を費したか知らぬが、人の一心いっしんは怖しいもので、何どうやら斯こうやら彼かの難所なんじょを乗切のりきったらしい。

ここまで来ると、流石さすがのお葉も寒気かんきと疲労とに堪たえ兼ねて、唯とある大きな岩の蔭に這い寄ったが、再び起たち上あがる元気は無かった。彼女かれは殆ど夢のように倒れて了しまった。

雨は何時いつか降歇ふりやんで、其夜そのよも明け放れた。暁あかつきの霧は晴れて、朝日は昇った。父を尋ぬる市郎も、同じ時刻に此この山路やまみちへ迷い入って、或あるいは此このあたりを過ぎたかも知れぬが、お葉は遂に見出されずに了しまった。

ここで市郎に見出されたら、お葉は何どんなに幸福であったろう。ここで重太郎に見出されたら、お葉は何どんなに不幸であったろう。飽あくまでも運の悪いお葉は、第二の籤くじを取らねばならぬ不幸に陥った。彼女かれはここで重太郎に見出されたのである。

重太郎はお葉の跡を追って、これも東西の嫌きらい無しに山中やまじゅうを駈け廻ったが、容易に女を捉え得なかった。嶮岨けんそに馴れたる彼は、飛ぶが如くに駈歩かけあるいて、一旦は麓ふもとまで降ったが又思い直して引返ひっかえした。お葉は矢やはり山中さんちゅうに迷っていると信じたからであろう。

斯かくて此処ここよ其処そこよと捜し廻る中うちに、夜が明けた。彼は目眩まばゆき朝日の光を避けて、岩の蔭を縫って歩いていると、不図ふと我眼の前に白い物の横よこたわっているのを見付けた。

「お葉だ、お葉だ。」と、重太郎は跳おどって近ちかづいた。

彼は半死半生のお葉を抱え起おこして、霎時しばしは飽かずに其その顔を眺めていたが、やがて傍かたえの谷間の清水を掏すくい取って、女の口に注そそぎ入れた。死んだ方が寧いっそ優ましのお葉は、不幸にも又蘇生いきかえったのである。

気が注ついて見ると、自分の手は獣のような重太郎に握られていた。驚いて振放ふりはなして起上おきあがると、重太郎は再び其その手を掴んだ。

「お葉さん。何故逃げるんだ。お前は俺おらの女房になるという約束じゃアないか。」

「馬鹿にしてるよ。」と、お葉は蒼い顔を瞋いからして、眼を吊上つりあげた。

「だって、昨夕ゆうべ約束したじゃアないか。」

「知らないよ。昨夕は昨夕、今日は今日さ。昨夕は雨が降っても、今日はお天気になるじゃアないか。」

「じゃア、俺おらの女房にはならないのか。」

「知れたことさ。」

お葉は罵ののしるように答えた。

(三十五)

獣のような重太郎と相対あいたいしているお葉は、頗すこぶる危険の位置にあると云わねばならぬ。彼かれの情じょうが激して一旦其その野性を発揮したら、孱弱かよわい女に対して何どんな乱暴を敢あえてせぬとも限らぬ。

お葉もそれを知らぬでは無かったろうが、彼女かれも或時には其その野性を遠慮なく発揮する女であった。或時には坑夫や土方を客にして、負けず劣らずに乱暴比べをする程の勇気を有もっていた。彼女かれは大抵の男を恐るるような女では無かった。昨日彼かのお杉に対して殆ど絶対的の服従を敢あえてしたのは、自分にも判断の付かぬ一種不可思議の心理作用に因よった為で、醒めたる後のちの彼女かれは依然として強い女であった。

況ましてお杉はここに居ない。わが目前の敵は重太郎一人いちにんである。たとい這奴こいつが山𤢖やまわろの同類にした所で、一人ひとりと一人との勝負ならば多寡たかの知れたものである。罷まかり間違ったらば、其その喉笛にでも啖くらい付いて与やるまでのこと。勝負は時の運次第と、彼女かれは咄嗟とっさの間あいだに度胸を据えて了しまった。

対手あいてが斯こういう覚悟で居ようとは、重太郎は夢にも知らぬ。彼は母に甘える小児しょうにのような態度で、飽あくまでもお葉に附纏つきまとった。

「お葉さん。お前、何どうしても俺おらの嫁になるのは忌いやか。え、お葉さん。後生だから承知して呉くれないか。俺おらア斯こんな山の中に棲んでるけれども、善いい宝物たからものを沢山有もっているんだ。」

お葉は唯ただ冷笑あざわらうのみで、見向きも為しなかった。

「お葉さん、真実ほんとうだよ、決して嘘じゃアない。俺おらア昨日きのう……いや、一昨日おととい……阿母おっかさんから大事の宝物の在所ありかを教わったんだ。それを持出もちだして他ひとに売れば、一足いっそく飛びに大変な金持になれるんだ。俺おらも能よく知らないが、其その宝物というのは実に立派なものだ。真闇まっくらな処でもぴかぴか光って……。何だか斯こう……。」

山育ちの彼は、之これを形容すべき適当の詞ことばを知らなかった。重太郎は徒爾いたずらに眼を瞠みはり、手を拡げて、其その尊とうとき宝であるべきことを頻しきりに説明為しようと試みた。

「そんな立派な宝物がありゃア其それで可いいじゃアないか。お前さんが金持になりゃア、何どんな良いいお嫁さんでも貰えるんだから、妾あたしなんぞに構ってお呉くれでないよ。」

お葉は相変らず鼻で扱あしらっているので、重太郎は愈いよいよ急せいた。

「だから、お前に頼むんだ。俺おらが金持になるから、お前を嫁に貰いたいんだ。何日いつだったか忘れたが、雨のふる日の夕方に、俺が町へ食物くいものを猟あさりに出て、柳屋の門口かどぐちに立って彷徨うろうろしていると、酒に酔った奴等が四五人出て来て、此この乞食め、彼地あっちへ行けと俺を突き飛ばした。口惜くやしいから撲なぐって与やろうと思ったけれども、対手あいてが大勢だから我慢していると、そこへお葉さん、お前が出て来たんだ。」

彼は其その当時の光景ありさまを思い泛うかべたらしい、今更のようにお葉の顔をしげしげと眺めた。

「而そうしてお前が大きい声で、お止よしよ、そんな可哀想なことをするもんじゃアない。其その人は妾あたしの可愛い人なんだから……。ねえ、お葉さん。お前は然そう云ったろう。俺おらは其その時に確たしかに聞いた。其その晩、俺は窟へ帰ると、お前と夫婦になった夢を見たんだ。それから……それから俺は、何どうしてもお前と夫婦になる気になったんだ。ねえ、お葉さん。判ったろう。俺は毎晩お前を夢に見ていたんだ。」

然そう云われると、此方こっちに記憶おぼえが無いでもない。成なるほど過日いつかそんなことも有った様ようである。が、それは固もとより酒の上の冗談に過ぎないのを、世間知らずの山育ちの青年わかものは唯ただ一図いちずに真実ほんとうと信じて、此ここに飛とんでもない恋の種を播まいたのであろう。対手あいてに因よっては迂濶うっかり冗談も云えぬものだと、お葉は今更のように思い当った。

山𤢖同様の分際で、深川生れのお葉さんに惚れるとは、途方もない贅沢な奴だと、今の今までは馬鹿馬鹿しくもあり、腹立はらだたしくもあったが、斯こうなって見ると自分にも罪が無いでもない。嘘にもしろ、冗談にもしろ、自分は重太郎を可愛い人だと云った。で、対手あいての方でも自分を可愛い人だと思い染めた。究竟つまりは無心の小児こどもに対むかって菓子を与やると戯からかった為に、小児こどもは本気になって是非呉くれろと強請ねだって来たような理屈である。対手あいてが世間を知らぬ小児こども同様の人間だけに、斯こうなると誠に始末が悪い。

(三十六)

お葉が黙って考えているので、重太郎は又もや迫り寄った。

「ねえ、お葉さん。お前は俺おらが髪をこんなに生はやしているので、忌いやなのか。それから……こんな獣類けだものの皮を被きているので、忌いやなのか。髪は今でも直すぐに切るよ。衣服きものは……金持になれば直すぐに良いい衣類きものを買って被きるよ。お前にも最もッと良い衣類きものを被きせて与やる。それから……山に棲んでいるのが忌いやなら、お前と一所いっしょに町へ行く。何処どこへでも行く。ね、可いいだろう。ね、それから……。」

云わんとすることは未まだ種々いろいろ畳たたまっているらしいが、山育ちの悲しさには彼の口が自由に廻らぬ。重太郎は唖おしか吶どもりのように、半なかばは身振や手真似で説明しながら、其その切なき胸を訴えているのである。普通の人から見れば、彼は野蛮である、兇暴である、殆ど𤢖わろの眷属けんぞくである。が、彼は決して所謂いわゆる悪人では無かった。彼が獰猛野獣の如きは其人そのひと境遇の罪で、其人そのひと自身の罪では無かった。

そんな理屈までは思い及ばぬにしても、お葉は気の強いと共に涙脆もろい女であった。種々いろいろ考えると、最初はじめは唯ただ憎いと思っていた重太郎其人そのひとも、今は漸々だんだんに可哀そうにもなって来た。先刻さっきからの様子を見ると、彼は飽あくまでも無邪気である。彼は極めて明白に、正直に、自己おのれの詐いつわりなき恋を語っているのである。

形は人か猿か判らぬような青年わかものではあるが、彼の恋は深山みやまの清水しみずの如く、一点いってん人間の塵ちりを交えぬ清いものであった。お葉も其その誠には動かされた。が、此この返事は何となろう。

「お前さん、堪忍してお呉くれよ。」

お葉は重太郎の手を把とって泣いた。

「じゃア、嫁になって呉くれるかい。」

「それが不可いけないから謝るんだよ。妾あたしは何どうしてもお前さんのお嫁にゃアなれないんだから……。」

重太郎は黙って眼を晃ひからせた。

「だから、堪忍してお呉くれと云うんだよ。」と、お葉は賺すかすように重ねて云った。

「何な、何故なぜだ。」と、重太郎は息を喘はずませて詰寄つめよった。

何故と聞かれると返事に困るが、お葉も重太郎と同じように片思いの恋が有る。重太郎の片思いが哀れであると共に、お葉の片思いも哀れであった。彼女は何どうしても彼かの市郎を思い切れぬのである。

「お前さんは可哀想な人だねえ。」と、お葉は我身につまされて嘆息した。

「可哀想なら、嫁になって呉くれないか。」

重太郎は飽あくまでも無邪気であった。可愛いと可哀想とは其間そのあいだに少しく距離のあることを、彼は未まだ理解し得なかった。お葉は重太郎を可哀想だとは思ったが、其その同情が変じて恋とはならなかった。

「どうしても忌いやか。俺おらが斯こんなに云っても肯きいて呉くれないのか。」と、重太郎は泣かぬばかりに口説いた。

「堪忍してお呉くんなさいよ。」と、お葉は泣いて答えた。

「だから、何故だと云うのに……。」

以前のお葉ならば、「お前が忌いやだからさ」と、木て鼻を括くくったように情すげなく断ったかも知れぬ。が、今は然そうでない。彼女かれは優しく重太郎の手を把とった。

「ねえ、お前さん。妾あたしは決してお前を嫌う訳じゃアない。それほどに妾を思って呉くれるのは、真実ほんとうに嬉しいと思っている。だが、困ることには、妾にも思っている人があるんだから……。どうしてもお前のお嫁になることは能できないんだから、何どうぞ諦めてお呉くんなさい。ね、判ったかい。決してお前さんを嫌うんじゃないよ。世間に女は妾一人ひとりじゃアない。お前が真実ほんとうに金持になれば、どんな良いいお嫁さんだって貰えるんだから……。妾よりも若い、最もっと綺麗な人がお内儀かみさんに能できるんだから……。」

重太郎は頭かしらを掉ふった。其その眼には熱い涙を湛たたえていた。

「判らないの。」と、少しく持余もてあましたようなお葉の声も湿うるんで聞えた。

可哀想ではあるが、何時いつまでも際限はてしが無い。お葉は捉とられたる袂たもとを払って、

「じゃア、左様さよなら。」

重太郎は追掛おいかけて、又其その袂を捉えた。

(三十七)

お葉を追い捉えた重太郎は、定めて破れかぶれの乱暴を始めるかと思いの外ほか、彼は矢やはり温順おとなしい態度であった。が、其その湿うるんだ眼は一種異様に輝いていた。

「お葉さん。どうしても帰るのか。」

「今も云ったような訳だから……。」

「どうしても帰るのか。」と、重ねて念を押した重太郎の声には、低いながらも力が籠っていた。

彼も恐おそらく最後の決心を固めたかも知れぬ。涙の眼は漸次しだいに乾いて、険けわしい眉の間あいだに殺気を含んで来た。物を奪い、人を殺す位ぐらいのことは、彼等の仲間では別に不思議の事でもない。

お葉も其その眼色めいろを早くも悟った。

「お前さん、妾あたしを殺す気かい。」

重太郎は黙っていた。

「殺すなら殺しても可いいよ。だが、力づくで乱暴を為しようと云うなら、妾にも料見があるから……。」

重太郎は黙っていた。

「だから、素直にお帰りよ。」

重太郎は矢やはり黙っていた。が、やがて傍かたえの岩蔭に聳そびえたる山椿の大樹に眼を注つけると、彼は忽たちまち猿のように其その梢にするすると攀登よじのぼった。南向みなみむきの高い枝は既に紅い蕾つぼみを着けているので、彼は其その二叉ふたまたの枝を択えらんで折った。

何どうするのかと見ていると、重太郎は其その枝を口に喞くわえてひらりと飛び降りたが、物をも云わずお葉の前に歩み寄って、二叉の枝を股から二つに引裂ひきさくと、何方どっちの枝にも四五輪の蕾を宿していた。彼は其その一枝ひとえだをお葉に渡した。お葉も黙って受取うけとった。

二人は黙って各自めいめいの枝を眺めていた。

「取替とりかえて貰おう。」と、霎時しばらくして重太郎は自分の枝を出した。お葉も自分の枝を出した。春待顔はるまちがおに紅い蕾を着けた椿の二枝ふたえだは、二人の手に因よって交換されたのである。

重太郎はお葉の枝を我が胸に犇ひしと押当おしあてた。お葉は重太郎の枝を我が袖に抱いだいた。重太郎の眼には涙が見えた。お葉も何とは無しに悲しくなった。

「じゃア、もう帰りますよ。」

重太郎は無言で首肯うなずいた。市郎が窟にあると知ったら、お葉は無論引返ひっかえしたであろうが、そんなことは夢にも知らなかった。重太郎も知らなかった。飛騨山中の寒い朝あした、哀れは同じ片思いの男と女は、温かい涙を形見の花に灑そそいで別れた。

重太郎は潔いさぎよくお葉を思い切ったのであろうか。彼はお葉から受取うけとった椿の枝を大事に抱えて、虎ヶ窟の方かたへ悄々しおしおと引返ひっかえした。

昨夜さくや彼が𤢖わろと共に山を降って、七兵衛と闘い、安行を奪うばったのは、市郎に対する恋の恨うらみと母の恨とであった。が、そんなことは既もう忘れて了しまったらしい。重太郎は唯ただこの形見の枝を保護することにのみ屈託して、夢のように岩石の間を辿った。

窟の前に来ると、母の姿が見えぬ。少しく怪あやしんで内を覗いたが、奥にもお杉の姿は見えなかった。

「阿母おっかさん、阿母さん。」

彼は続けて呼んだ。この途端に窟の奥から一人の見馴れぬ男が飛んで出た。これは前に記した通り、市郎の使つかいを頼まれて、穴の底から登って来た坑夫体ていの男である。

二人は恰あたかも入口で礑はたと出逢った。

「誰だい、お前は……。」

重太郎は眼に角立かどだてて詰なじったが、男は急せいているのであろう、返事もせずに駈け出した。窟には母の姿が見えず、加之しかも怪しい男が出て来たのであるから、重太郎の不審は愈いよいよ晴れぬ。先まず飛び蒐かかって男の腰に組付くみついた。

「お前は誰だ。」

「誰でも可いいよ。煩うるせえ。」

男は突放つきはなして又駈出かけだそうとした。

「お前は俺おらの阿母おっかさんを殺したのか。」と、重太郎は呶鳴どなった。

「そんなことは知らねえ。」

男は手暴てあらく重太郎を突き退のけると、彼は椿の枝を持ったままで地に倒れた。これで黙っている重太郎ではない、椿の枝を口に喞くわえて又跳ね起きた。此ここに忽たちまち掴み合あいが始まった、上になり下になり、互たがいに転げて挑み争う中うちに、何方どっちが先に足を滑らしたか知らず、二人は固く引組ひっくんだままで、傍かたえの深い谷へ転げ墜おちた。

(三十八)

山椿の下では、お葉と重太郎との詩的な別離わかれがあった。窟の外では、重太郎と素性の知れぬ男との蛮的な格闘があった。こんな事件が続いてある間あいだ、市郎は暗い岩穴の底に取残とりのこされて、救いの人々の来るのを待っていた。

一本の蝋燭は漸次しだいに燃え尽つくして、風なきに揺めく火の光は軈やがて其その消えんとするを示している。左さしたる重傷ではないと知りながらも、股ももと膝との疼痛いたみは漸々だんだんに激しくなって来た。疲労と空腹とは愈いよいよ我を悩なやまして来た。

「七兵衛は何どうしたろう。彼奴等あいつらも途みちに迷っているのか知ら。それにしても使つかいの男が早く行着いきついて呉くれれば可いいが……。一体、あの男は何者だろう。土地不案内の為に、これも途中で迷っていられた日には、何時いつまで経っても際限はてしがあるまい。何どうか一刻も早く町へ出て貰いたいものだ。若もし彼奴あいつが不親切な奴で、金を貰いながら其儘そのままどこへか行って了しまったら何どうだろう。いや、真逆まさかにそんな事もあるまい。」

甲それから乙それへと考えながら、市郎は硬い岩を枕に暫しばらく寝転んでいた。

「もう何時なんじだろう。」

懐中時計を取出とりだして視みると、先刻さっきからの騒ぎで何時いつ何どうしたか知らぬが、硝子がらすの蓋は毀こわれて針は折れていた。日光ひのめの視みえぬ穴の底では、今が昼か夜か、それすらも殆ど見当が付かぬ。

待つ身の辛さは今に始めぬことであるが、取分とりわけて今いま此この場合、市郎は待つ身の辛さと侘しさとを染々しみじみ感じた。彼は何なにとは無しに起き上あがって、蝋燭を照てらしつつ四辺あたりを見廻すと、四方しほうの壁は峭立きったての岩石であるが、所々に瘤こぶのような突出とっしゅつの大岩があって、其その岩の奥には更に暗い穴があるらしい。

「𤢖わろは此この穴に棲んでいるんだろう。」と、市郎は首肯うなずいた。先刻さっき自分を傷きずつけた𤢖も、恐おそらくあの穴へ逃げ込んだのであろう。一体、彼かの𤢖なるものが何匹居るのか知らぬが、若もし大勢が其処そこや彼処かしこの穴から現われて出て、自分一人を一度に襲って来たら到底とても敵かなわぬ。

彼は何等の武器を有もって居なかった。而しかも先夜の経験に因よって、彼等に対する唯一の武器は燐寸まっちの火であることを知っているので、市郎は慌てて燐寸の箱を検あらためると、剰あます所は僅わずかに五六本に過ぎぬ。彼は先刻さっきから燐寸を濫用したのを悔いた。

で、更に念の為に蝋燭を揚げて、高い岩の上を其処そこここと照てらして視みると、遠い岩蔭に何か知らず、星のように閃く金色こんじきの光を視みた。蝋燭の淡い光で熟よくは判らぬが、兎とにかく其処そこに一種の光る物があるらしい。こんな処だから何が棲んでいるか判らぬ。或あるいは怪獣の眼かと市郎は屹きっと瞰上みあげる途端に、頭の上から小さな石が一つ飛んで来たが、幸いに身には中あたらなかった。市郎は俄にわかに蝋燭を吹き消した。敵の的まとにならぬ用心である。

「これも𤢖の仕業だろう。」

斯こう思うと中々油断はならぬ。市郎は小さくなって岩の蔭に身を寄せた。つづいて第二の石が落ちて来た。今度のは余よほど大きいと見えて、投げると云うよりも、寧むしろ転がし落したらしい。これに頭を打たれたら人間の最期である。

市郎も流石さすがに肝きもを冷して、愈いよいよ小さくなっていると、又もや石をがらがらと投げ落す奴がある。敵は一人ではないらしい、大小の岩石が一時いちじに上から落ちて来た。何人なんぴとも此この石攻めに逢っては堪たまらぬ、市郎も実に途方に暮れた。頭の上では何とも形容の能できぬ一種奇怪な笑い声が聞えた。石はつづいて落ちて来た。

「どうしたら可よかろう。」

此このまま小さくなっているのも愚ぐである。何とかして彼等を撃退する工夫はあるまいかと、市郎も苦し紛れに種々いろいろ考えていると、わが傍かたわらにひらりと飛んで来た者があるらしい。𤢖め、近寄って来たなと、市郎は直ただちに用意の燐寸まっちを摺すった。果はたして一人いちにんの敵は刃物を振翳ふりかざして我が眼前めさきに立っていた。

不意に燐寸の火に出逢って、敵は例の如く立縮たちすくんで了しまった。其隙そのすきを見て、市郎は我が足下あしもとに落ちたる大石を両手に抱えるより早く、敵の真向まっこうを目がけて力任せに叩き付けると、頭が割れたか顔が砕けたか、敵は悲鳴をあげて倒れた。

(三十九)

目前の敵を一人ひとり殪たおしたので、市郎は少しく勇気を回復した。敵もこれに幾分の恐怖おそれを作なしたか、其後そのごは石を降らさなくなった。が、彼等は何処どこに隠れているか判らぬ、又何時なんどき不意に近寄って来るか判らぬ。斯こう思うと些ちっとも油断が能できぬので、市郎は絶えず八方に気を配っていた。

併しかしこんな不安の状態ありさまで何時いつまでも続いていたら、結局自分は根負こんまけがして了しまうに決きまっている。先刻さっきから余よほど時間も経っているだろうのに、救いの人々はまだ見えぬ。一旦は勝誇かちほこった市郎も漸次だんだんに心細くなって来た。この上は依頼たのみにもならぬ救援すくいの手を待ってはいられぬ、自分一人の力で此この危険の地を脱出するより他はない。

「早く然そう決心すれば可よかった。」

市郎は痛む足を踏み締めて、例の毛綱けづなを再び我が胴に緊しかと結び付け、綱を力に精一杯伸び上あがって、傍かたえの高い岩に飛び付こうとしたが、何どうも足が自由に働かぬ。彼は飛び損じて又墜おちた。さらでも痛い足を更に痛めた。

「到底とても不可いけない。」と、市郎は失望の声を揚げて倒れた。

この時、遠い頭の上で例の金色こんじきの光が淡く閃いた。市郎は眼を定さだめて熟よく視みると、穴の入口と覚しき所で何者か火を照てらしているらしく、其その光に映じて例の金色が見えつ隠れつ漂うのであった。

「扨さては救いの人が来たか。」

市郎は我を忘れて蹶はね起きた。精一ぱいの声を振絞ふりしぼって、「助けて呉くれ。角川市郎はここにいるぞ。」

声はあなたまで響いたらしい、上でも之これに応じて、「おうい。」と、答えた。

市郎は重ねて呼んだ、上でも再び答えた。やれ可矣よしと安心する途端に、何処どこから飛んで来たか知らず、例の大石が磊々がらがらと落ちて来て、市郎の左の肱ひじを強く撃ったので、彼は堪たまらず横さまに倒れた。生きているのか死んで了しまったのか判らぬ、彼は既もう再び起き上あがらなかった。

上では其そんなこととも知らないのであろう。大勢が声を揃えて市郎の名を呼んでいた。其中そのなかには塚田巡査の錆さびた声も、七兵衛老翁じじいの破鐘声われがねごえも混まじって聞えた。

この人々は今や漸ようやくここへ辿り着いたのであった。市郎が単身登山の途とに就いた後のち、七兵衛は慌てて家内かないの人々を呼び起おこしたが、疲れ切っている連中は容易に床とこを離れ得なかったので、彼等が朝飯を済まして、家を出たのは午前七時を過ぎていた。塚田巡査も町の若者も之これに加わって、一隊十四五名の人数にんずが草鞋穿わらじばきの扮装いでたち甲斐甲斐かいがいしく、まだ乾きもあえぬ朝霜を履ふんで虎ヶ窟を探りに出た。人々は用心の為に、思い思いの武器を携えていた。

巡査は窟の案内を心得ている筈であったが、何どうしたものか路みちを踏み違えて、あらぬ方かたへと迷い入った。それが為に意外の時間を費して、今や初めて窟の入口へ辿り着いた時には、一隊の多くは既に疲れ果てて、そこらに有合ありあう岩角に腰を卸おろして先まずほッと息を吐つく者もあった。寒気かんきを凌しのぐ為に落葉を焚く者もあった。

けれども、巡査は流石さすがに屈しなかった。七兵衛も頑丈であった。二人が先まず窟の奥へ潜くぐり入って、第二の石門せきもんまで仔細に検査したが、内には暗い冷つめたい空気が漲みなぎっているのみで、安行の姿も見えなかった。市郎の影も見えなかった。

「どうしたのだろう。」

二人は愈いよいよ不安を感じて、そこらを頻しきりに見廻す中うちに、彼等も例の岩穴を見付けた。念の為に用意の松明たいまつをあげて、真暗まっくらな底を窺うかがっていると、下から救いを呼ぶ声が遠く聞えた。安行は知らず、兎とにかく市郎だけは穴の底にいることが確たしかめられた。

七兵衛は引返ひっかえして斯かくと報告すると、他たの人々もどやどや入込いりこんで来た。

「兎とも角かくも降りて見よう。」

巡査は斯こう決心して、再び四辺あたりに鋭い眼を配ると、岩角に結び付けられたる彼かの長い毛綱けづなを見出した。これを手繰たぐったら、市郎の身体は無事に引揚ひきあげられたかも知れぬが、其その綱の端が彼の胴に縛くくられてあると云うことを誰も知らなかった。が、何人なんぴとの考えも同じことで、巡査も先まず此この毛綱けづなに縋すがって、行かれる所まで行って試みようと思い付いた。

片手は綱に縋すがり、片手は松明たいまつを把とって、塚田巡査は左右の足を働かせながら、足がかりとなるべき大小の岩を探りつつ、漸次だんだんに暗い底へ降りて行った。他たの人々は息を嚥のんで其その行動に注目していた。

(四十)

塚田巡査が穴を降くだるに就ついては、市郎ほどの危険と困難とを感じなかった。上に立つ大勢の人々は綱を操あやつって彼の行動を助け、且かつ幾多の松明たいまつを振翳ふりかざして、能あたう限りの光明あかりを彼の行手に与えて居た。

巡査も亦また大胆であった。一条の綱を力として猶予なくするすると降りて行くと、彼は中腹の稍やや扁平ひらたい岩石の上に立って、先まず彼かの安行の死骸を発見した。驚いて其その手足を検あらためると、既に数時間の前に縡切こときれたらしい、老人の肉も血も全く冷えていた。

父が此かくの如き有様であるとすれば、其その子の安否も甚だ心許ないものである。巡査は念の為に市郎の名を呼んだ。が、声は四方の岩に反響するばかりで、底には何の返答こたえもなかった。十分前までは頻しきりに救助すくいを呼んでいた市郎が、俄にわかに黙って了しまったのは不可思議である。これも若もしや何等かの禍害わざわいを蒙こうむったのではあるまいかと、巡査は胸を騒がした。

此この上は一刻も早く底の底まで探らねばならぬ。巡査は安行の死骸を見捨てて、更に底深く降りて行くと、途中には所々に突出とっしゅつした大小の岩が聳そびえて、天然か人工か知らず、其その岩の上には横に低い穴が開かれている。けれども、先を急ぐ巡査は其その穴の奥を一々検査する暇は無かった。彼は唯ただ真直まっすぐに降りて行った。

やがて底近く来たと思う頃に、滔々とうとうたる水の音が凄まじく聞えた。松明を振照ふりてらして視みたが水らしいものは見えぬ、恐おそらく地の底を流れるのであろう、岩に激するような音が宛さながら雷らいのように響いた。更に二間けんばかり降りると、自分の縋すがっている綱の端はしには何物か縛くくられているのを発見した。巡査は息も吐つかずに急いで降りると、それは人であった、彼かの市郎であった。

巡査は今や幾十尺の底に達したのである。先まず其その綱を解といて市郎を抱え起おこすと、彼も所々しょしょに負傷して、脈は既に止とまっていた。が、これは確たしかに血温けつおんが有る。巡査は少しく安堵の眉を開いて、取敢とりあえず彼かの綱を強く曳ひくと、上では直すぐにおうと答えた。

この時、巡査の足下あしもとを距さる一間けんばかりの所で、怪しい唸声うなりごえが聞えた。傷きずついた野獣が喘あえぐようである。松明をそなたへ向けて窺うと、岩を枕に唸っているのは、半面血塗ちまぶれの怪しい者であった。人か猿か判らぬ。「これが所謂いわゆる山𤢖だな。」と、巡査も悟った。で、猶なお能よく其その正体を見届ける為に、其その傍かたわらへ一歩進み寄ろうとする時、頭の上から大きな石が突然転げ墜おちて来た。巡査は慌てて飛退とびのくと、石は傍かたえの岩角に中あたって、更に跳ね返って彼かの𤢖の上に落ちた。𤢖の傷きずつける顔は更に微塵みじんに砕けて、怪しい唸声うなりごえは止んだ。

併しかし彼かの大石は自然に落ちて来たのか、或あるいは故意に投げ落したのか、巡査には早速さそくの判断が附かなかった。若もし故意であるとすれば、四辺あたりには𤢖の同類が猶なお潜ひそんでいるに相違ない。巡査は再度の襲撃を避ける為に、慌てて我が松明を踏み消した。

穴の底は再び旧もとの闇に復かえった。遠い地の下を行く水の音が聞えるばかりで、霎時しばしは太古の如くに静しずかであった。

下の松明が俄にわかに消えたので、上の人々は又もや不安に襲われた。七兵衛を始め、一同が声を揃えて、おういと呼んだ。が、巡査は容易に答えなかった。迂濶うかつに叫ぶと、其その声を便宜しるべに何処どこからか岩石を投落なげおとされる危険を懼おそれたからである。

そうとは知らぬ人々は愈いよいよ不安の念に駆られて、手に手に松明を振翳ふりかざしつつ穴の底を窺ったが、底の底までは到底とても達とどかぬ。この上は更に第二の探検隊を降くだすより他は無かった。

「可よし、俺おらが降りて見る。」

六十に近い七兵衛老爺じじいが手に唾つばきして奮然と起たつを見ては、若い者共も黙っては居いられぬ。皆口々に、「老爺じいさんは危ねえ、私等わしらが行く。」と、遮さえぎり止とどめた。が、此この毛綱けづなを伝って降りると云うことは余り安全の方法でない。

「何か可いい物はあるまいか。」

飛騨の山人やまびとは打寄うちよって、この国特有の畚ふごを作ることを案じ出した。

(四十一)

飛騨の畚渡ふごわたしは、昔から絵にも描かかれ、舞台にも上のぼされて甚だ有名である。河中かわなかに岩石突兀とっこつとして橋を架ける便宜よすがが無いのと、水勢が極めて急激で橋台きょうだいを突き崩して了しまうのとで、少しく広い山河やまがわには一種の籠かごを懸けて、旅人は其その両岸に通ずる大綱おおづなを手繰たぐりながら、畚に吊られて宙を渡って行く。勿論もちろん、今日こんにちでは其その仕掛に多少の改良は加えられたが、天然の地形は未いまだ畚渡しの全廃を許さぬ。飛騨の奥ふかく迷い入る人は、大切な生命せいめいを一個の畚に託して、眼も眩くらむばかりの急流の上を覚束なくも越えねばならぬのである。

されば今この人々は早くも畚を思い付いた。七兵衛が指揮の下もとに、大勢は窟の外へ一旦引返ひっかえして、四辺あたりに立ったる杉や樅もみの大枝を折った。或者は山蔦やまづたの蔓つるを折った。斯かくて約二十分の後のちには、大きい枝を組み合わせ、長い蔓を巻き付けて、人を容いるるに足るほどの畚を作り上げた。

「これがあれば大丈夫だ。」

彼等は再び窟に入いって、畚を卸おろす準備に取懸とりかかった。畚を吊るには彼かの毛綱けづなが必要である。大勢が手を揃えて其その綱を繰上くりあげると、綱の端はしには尠すくなからず重量めかたを感じたので、不審ながら兎とも角かくも中途まで引揚ひきあげると、松明たいまつの火は漸ようやく達とどいた。洋服姿の市郎は胴を縛くくられたままで、さながら縁日で売る亀の子のように、宙に吊られつつ揚あがって来たのである。人々も驚いて声を揚げた。

「や、小旦那こだんなだ……。角川の小旦那だ……。早く引揚ひきあげろ。」

市郎は恙つつがなく引揚げられた。が、彼は正体も無く其処そこに倒れて横よこたわったので、騒ぎは愈いよいよ大きくなった。一隊の中うちでも足の達者な一人いちにんは、麓ふもとまで医師を迎えに走った。斯こうなると、巡査の身の上も益々不安である。権次ごんじという若者を乗せた畚ふごは直ただちに卸おろされた。

畚が中途まで下さがって来た時、暗い岩穴の奥から一個ひとりの怪しい者が現われた。彼は刃物を振翳ふりかざして、綱を切って落そうと試みたが、綱は案外に強いので、容易に刃が立たたなかった。而しかも権次が無闇に振廻ふりまわす松明の火に恐れて、彼は忽たちまち逃げ去った。畚は滞りなく底に着いた。

塚田巡査は先刻せんこくから待侘まちわびていたらしい、暗い中から慌しく進み寄って、先まず其その無事を祝した。権次は畚から降り立って、合図の綱を強く曳ひくと、上ではおうと答えて、畚をするすると繰上くりあげた。

「用心しないと不可いけない。何処どこからか石を投げる奴があるぞ。」と、巡査は注意した。権次は首を縮すくめて岩のかげに隠れた。

つづいて第二第三の畚が卸おろされて、穴の底にも大勢の味方が殖ふえた。もう斯こうなっては、隠れたる敵も恐怖おそれを作なしたのであろう、何等危害を加えようとも為しなかった。人々は持ったる松明を揚げて四辺あたりを窺うと、そこには鬼の如きお杉婆ばばあの死顔と、猿の如き山𤢖やまわろの亡骸なきがらとを発見した。

此この上の手続てつづきは委くわしく記すまでもあるまい。権次が一旦上まで引返ひっかえして、一同に其その始末を報告した上で、三個みつの亡骸は畚に乗せて順々に引揚ひきあげられた。第一は安行、第二は𤢖であった。最後に乗せられたお杉の亡骸は、既に頂上まで達とどいたと思う頃、何どうした機会はずみか其その畚は斜めに傾いて、亡骸は再び遠い底へ真逆様まっさかさまに転げ落ちた。更に畚に乗せて再び吊上つりあげると、今度も亦また中途から転げ落ちた。お杉の霊魂たましいは此この窟を去るのを嫌うのであろう。が、何どうしても其儘そのままには捨置すておかれぬので、最後には畚に緊しかと縛くくり付けて、遂に彼女かれを上まで運び出した。

これで先まず屍体の収容は済んだ。三個みつの亡骸を窟の外へ舁かき出して明るい所で検視を行うと、安行の屍体には何等負傷の痕も無く、其その顔は依然として安らかに眠っていた。が、お杉の瞋いかれる顔は宛然さながらの鬼女であった。加之しかも高い所から再三転げ落ちて、剣つるぎの如き岩石に撃うたれ劈つんざかれたので、古い鳥籠を毀こわしたように、身体中の骨は滅裂ばらばらになっていた。

更に人を駭おどろかしたのは、彼かの山𤢖の最期であった。幾百年の昔から、口でこそ山𤢖と云うけれども、誰も明白あきらかに其形そのかたちを認め得た者は無かった。然しかるに今や白昼に其その怪しき形骸を晒さらしたのである。白昼に幽霊が出たように、人々は驚異の眼を瞠みはって、何いずれも其その周囲まわりに集あつまり来きたった。

(四十二)

此ここに怜悧りこうな観世物師みせものしがあったら、直ただちに前代未聞と吹聴すべき山𤢖やまわろなるものの正体は抑そも何どんなであったか。勿論もちろん、彼等にも牝めす牡おすはあろうが、今ここに屍体となって現われたのは、確たしかに女性であった。脊丈せいは先まず四尺ぐらいで、腰に兎の皮を纏まとっている他は、全身赤裸々あかはだかである。鮫さめのように硬い皮膚の色は一体に赭土色あかつちいろで、薄い毛に覆われていた。頭は小さく、眼も小さく、額の著いちじるしく窪んでいるのが人の注意を惹いた。彼等の或ある者は非常に長い髪を垂れていると伝えられるが、これは殆ど禿頭はげあたまと云っても可いい位で、脳天に僅少わずかばかりの灰色の毛がちょぼちょぼと生えているのみであった。

鼻は猿のように低かった。耳は狐のように立っていた。口も比較的に小さい方で、黄きいろい口唇くちびるから不規則に露出むきだしている幾本の長い牙は、山犬よりも鋭く見えた。足の割には手が長く、指は矢やはり五本であるが、爪は鉄よりも硬く且かつ尖とがっていた。手掌てのひらの皮が非常に厚く硬いのを見ると、或ある場合には足の働きもして、四つ這いに歩くらしい。

これが満足で居いても既に此かくの如き異体いていの怪物である。況まして市郎の為に、最初はじめは靴で額を蹴破られ、次に石を以て真向まっこうを打割うちわられ、最後には味方の石に因よって顔一面を砕かれたのであるから、肉は砕け、骨は露あらわれて、其その醜しゅう、其その怪かい、実に形容も能できぬ光景ありさまであった。人々も之これに対しては何とも云うべき詞ことばを知らなかった。

「一体、これは何だろう。猿か知ら、人間か知ら……。」

猿か人間か到底とても判らぬ、究竟つまりは一種の山𤢖と云うものであると答えるより他は無かった。塚田巡査も此この解釈には苦くるしんだ。

「若もし之これが生きていたらなあ。」と、呟く者もあった。実際、之これが生きていたら、人か猿かの区別が付くかも知れぬ。万一、彼が人間の詞ことばを幾許いくらか解するとすれば、訊問の結果、どんな有益な発見が無いとも限らぬ。

「そうだ。此この機会に乗じて奴等を生捕いけどって与やろう。」

塚田巡査は野心に富んでいた。又、仮たとい野心が無いにしても、人間に対して屡々しばしば危害を加える山𤢖の如きものを、唯ただ見逃して置くという法は無い。殊に昨夜さくやの身元知れざる惨殺屍体と云い、今日きょうの安行殺害事件と云い、何いずれも𤢖に関係があるらしく思われるのであるから、警官の職分として、唯ただ見逃しては置かれぬ。巡査は再び窟に入って、穴居けっきょの𤢖を捕獲すべく決心したのも無理ではなかった。

巡査の決心と勇気とに励まされ、これに又幾分の好奇心も交まじって、数名の若者は其後そのあとに続いた。七兵衛等は後あとに残って、生死しょうし不分明ふぶんみょうの市郎と三個みつの屍体とを厳重に守っていた。

松明たいまつを把とったる巡査と他ほか数名の勇者は、頼光らいこうの四天王してんのうが大江山おおえやまへ入いったような態度で、再び窟へ引返ひっかえした。巡査が先まず畚ふごに乗って降りた。他たの者も順々に降りた。

穴の中は依然として暗かった。松明の光を便宜たよりにして、ここぞと思うあたりの岩穴を一々検査すると、岩壁を穿うがったる横穴は数すヶ所に拓ひらかれていた。が、穴の天井は極めて低いので、到底とても真直まっすぐに立っては歩かれぬ。人々は𤢖のように四つ這いになって進んだ。

第一の穴は行止ゆきどまりになっていて、別に何者をも発見しなかった。第二の穴も空虚からであった。

「𤢖め、もう逃げたかな。」

更に降って第三の穴を窺った。ここは比較的に大きい岩が突出とっしゅつしていて、苔こけに包まれたる岩の面おもては卓子テーブルのように扁平たいらであった。巡査は松明を片手に這い寄ると、穴の奥から不意に一個ひとつの石が飛んで来た。石は松明に中あたって、火の粉は乱れ飛んだ。素破すわやと一同色めいて、何いずれも持ったる武器を把直とりなおした。

若者の一人いちにんは猟銃を携えていた。或ある者は棒を持っていた。或ある者は竹槍を掻込かいこんでいた。巡査は剣けんの柄つかを握って立った。

敵より投げたる一個ひとつの石は宣戦の布告である。人間と𤢖とは此ここに戦闘たたかいを開かねばならぬ。

(四十三)

𤢖わろはこの奥に棲んでいると見当は付いた。が、敵の方にも何どんな準備があるか測り知られぬので、巡査等も容易には進み兼ねた。敵の方でも最初の石を投げた後のちは、鎮しずまり返って音も為しない。

併しかし此このままに何時いつまでも睨み合っていては、際限はてしが付かぬ。塚田巡査は此ここに一策を案じ出した。

「松明たいまつを消せ。燈火あかりを消せ。」

敵は最も火を嫌うのである。此方こっちが火を消したならば、恐おそらく勢いを得て突出とっしゅつして来るであろう。そこを待受まちうけて囲み撃つという計略であった。守ること固きものは誘いざのうて之これを撃つ、我が塚田巡査は孫子そんしの兵法へいほうを心得ていた。

𤢖は果はたして人間よりも愚おろかであった。松明の火が消されると共に、俄にわかに石を投げ初めた。巡査等は身を屈かがめて其的そのまとに立つのを避けた。敵は愈いよいよ増長して、穴の奥から二匹三匹這い出して来た。彼等は我が術中に陥ったのである。

「占めたッ。」

巡査は心に喜んで、闇を探りながら衝つと寄って、其その一匹の襟首えりくびを掴んだ。が、敵も中々素捷すばやかった。忽たちまち其その手を払い退のけて、口に啣くわえたる刃物を把直とりなおした。其切先そのきっさきは危あやうくも巡査の喉を掠かすめて、背後うしろの岩に戞然がちりと中あたると、溌ぱっと立つ火花に敵は眼が眩くらんだらしい。其隙そのすきを見て巡査は再び組んだ。背せいの低い敵は巡査の足を取った。而しかも此方こっちは柔道を心得ているので、倒れながらに、敵の腕を引担ひっかついで投げた。が、生憎あいにくに穴の入口へ向って投げたので、彼は奇怪な叫声さけびごえを揚げながら、再び奥へ逃げ込んで了しまった。

𤢖は一匹でなかったが、他たは入口に立って格闘の模様を窺っていたらしい。で、今や真先まっさきの一匹が斯かかる始末となったので、少しく怯おくれが出たのかも知れぬ。何いずれも奥へ引退ひきさがって、再び石を投げ初めた。何分にも暗いので始末が悪い。巡査は危険を冒おかして、穴の奥へ潜もぐり込んだ。他たの者共も勇を鼓こして後あとに続いた。

敵は屈せずに石を投げたが、幸いに石が小さいのと、距離が余りに接近しているのとで、我われには差したる損害を与えなかった。それでも二三人は顔や手に微傷かすりきずを負った。もう斯こうなれば騎虎きこの勢いで、今更後あとへは引返ひっかえされぬ。巡査も頬に打撲傷を受けながら、猶なおも二三間げん進んで行くと、天井は少しく高くなって、初めて真直まっすぐに立つことが能できた。

敵は幾人居いるか判らぬが、兎とにかく石を投げ尽したらしい。今度は木のような物や、骨のような物を投げ初めた。骨は尖とがっているので、巡査は又もや左手さしゅを傷きずつけた。

もう仕方がないので、巡査は剣を抜き閃かした。或ある者は猟銃を撃った。散弾が轟然として四辺あたりに迸ほとばしると、頑強の敵も流石さすがに胆きもを挫ひしがれたらしい、踵くびすを旋かえしてばらばらと逃げ出した。巡査等は勝かつに乗って追い詰めると、穴は漸ようやく広くなった。ここが恐おそらく行止ゆきどまりで、彼等は今や袋の鼠になったろうと思いの外ほか、何処どこを何どう潜くぐったか知らず、漸次しだいに跫音あしおとも消えて了しまって、後は寂寞せきばくたる闇となった。

「奴等は何処どこへ隠れたろう。」

松明たいまつは再び点とぼされたが、広い穴の中に何者の影も見えなかった。幾ら𤢖でも隠形おんぎょうの術じゅつを心得ている筈はない。恐おそらく何処どこにか隠れ家があろうと、四辺あたりを隈くまなく照てらし視みると、穴の奥には更に小さい間道ぬけみちが有った。彼等は此処ここから這い込んだに相違あるまい。巡査等は続いて其その穴を潜くぐった。

穴は極めて低く狭いので、普通の人間には通行甚だ困難であったが、人々は宛さながら蝦蟇ひきのようになって僅わずかに這い抜けた。行くに随したがって水の音が漸々だんだんに近く聞えた。水の音ばかりで無い、日の光も薄く洩もれて来た。

路みちは漸次しだいに明るくなった。暗い湿っぽい岩穴は全く尽きて、人々は大いなる谷川の畔ほとりに出た。岩を噛む乱流は大小の滝布たきを作なして、滔々とうとうと漲みなぎり落ちている。川に沿うて熊笹の藪やぶが生い茂っていた。左右は嶮けわしい岩山である。𤢖は此この間道ぬけみちから山深く逃げ入いったのであろう。

(四十四)

「到頭とうとう逃にがして了しまった。」

塚田巡査は歯噛はがみをした。微傷かすりきずではあるが、其その手首からは血が流れていた。他たの二三人も顔や手の傷を眺めながら、失望と疲労との為に霎時しばらくは茫然ぼんやりと立っていた。

この時、頭の上で人声がわやわや聞えた。仰げば高き絶壁の上に、大勢の人の行き違う姿が見えた。初めて知る、ここは恰あたかも虎ヶ窟の前に横よこたわれる谷底で、頭の上に立騒たちさわいでいる人々は、彼かの七兵衛や権次の群であった。

斯かくと知るや、下からはおういおういと呼んだ。上からも答えた。中にも権次は岩の出鼻ではなに縋すがりつつ、谷に向って大きな声で叫んだ。

「𤢖わろは何どうした、捕つかまったか。」

「駄目だ、駄目だ。間道ぬけみちから逃げて了しまった。」と、下でも叫んだ。

「惜おしいことを為したな。今お医師いしゃが来て、角川の小旦那は蘇生いきかえったぞ。」

「蘇生いきかえったか。」

「大丈夫だとお医師いしゃが受合うけあった。何しろ、早く上あがって来い。」

「おお。」

上と下とて遥かに呼び合っていたが、何を云うにも屏風びょうぶのような峭立きったての懸崖けんがい幾丈いくじょう、下では徒爾いたずらに瞰上みあげるばかりで、攀登よじのぼるべき足代あししろも無いには困った。其中そのうちに、上では気が注ついたらしい。

「待て、待て。畚ふごを持って来るぞ。」

斯こう云って権次は立去たちさった。下の人々は唯とある大岩に腰を卸おろして、先まずほッと一息吐ついた。其間そのあいだも巡査は油断が無い、川に沿うて往ゆきつ戻りつ、ここらの地形を案じていた。

この川は人跡絶えたる山奥から湧いて来るのであろう、凄じい勢いで滔々とうとうと流れ落ちている。其その支流は虎ヶ窟の下を潜くぐっているらしい。窟の底で絶えず轟々たる響ひびきを聞くのは之これが為ためであろう。近く聞けば水の響ひびきは、実に耳を聾ろうするばかりであった。

其その水音に消されて、今までは誰も聞付ききつけなかったが、何処どこやらで微かすかな唸声うなりごえが聞えるようである。巡査は忽たちまちに耳を欹そばだてた。そこか此処ここかと声する方かたを辿って行くと、彌いやが上にも生い茂れる熊笹や歯朶しだの奥に於て、確たしかに人の呻うめくを聞いた。そこらの枝や葉は散々さんざんに踏躪ふみにじられて、紅い山椿の蕾つぼみが二三輪落ちていた。

巡査は進んで熊笹を掻分かきわけると、年の頃は五十ばかりの坑夫体ていの男が、喉を突かれて倒れていた。巡査も驚いた。他たの人々も駈集かけあつまった。昨日きのうから今日きょうにかけて、種々いろいろの出来事が何どうして斯こう続発するのであろう。一同も聊いささか呆れた形であった。

「一体、これは何者だろう。」

「これも𤢖に殺されたのか知ら。」

兎とに角かくも引起ひきおこして介抱すると、男には未まだ息が通かよっていた。巡査は谷川の水を掬すくって飲ませると、彼は僅わずかに眼を睜みひらいたが、警官の姿を視みるや俄にわかに恐怖と狼狽の色を現わして、頻しきりに手足を悶もがいていたが、何分身動きも自由ならぬ重傷である、彼は呻うなりながら又倒れた。

崖の上ではおういおういと呼んだ。畚は今や卸おろされたのである。人々は順々に乗って、瀕死の男も同じく乗せられた。塚田巡査は最後に上のぼった。

市郎は医師の手当てあてに因よって、幸いに蘇生したので、既すぐに麓ふもとへ舁かき去られていたが、安行とお杉と𤢖との三個みつの屍体は、まだ其儘そのままに枕を駢ならべていた。そこへ又、此この怪しい男が朱あけに染そみたる身を横よこたえたのである。昔から魔所と伝えられた虎ヶ窟の前に、斯かかる浅ましい姿の者が四個よつまでも列ならんだのを見た人々は、抑そも如何いかに感じたであろう。白昼まひるではあるが山風は寒かった。人々は顔を見合わして物を云わなかった。

この驚くべき報告が麓へ拡まると、町からも村からも大勢の加勢が駈着かけつけた。安行の屍体は自宅へ、お杉と𤢖の亡骸なきがらは役場へ、其それ其ぞれに引渡ひきわたしの手続てつづきを了おえた。まだ息の通かよっている怪しの男は一先ひとまず駐在所へ運び入れて、医師の手当を受けさせた。

塚田巡査は疲労をも厭わず、直ただちに事件の取調べに着手した。お杉と山𤢖との死は市郎の申立もうしたてに因よって事情判明したが、安行は如何いかにして殺されたか能よく判らぬ。次に此この瀕死の男は何者の手に掛かかったのか、それも判らぬ。彼はお杉や𤢖に関係があるか、或あるいは別種の出来事か、それも判らぬ。猶なお其他このほかにも「其他このほかにも」はママ昨夜さくやの惨殺屍体と云うものが有る。それと之これと因縁の糸が連絡しているか何どうか、それも亦また疑問である。巡査も此この解釈に就ついては大いに頭を悩なやました。

(四十五)

「どうも判らぬ。」と、塚田巡査も頻しきりに考えた。市郎に就ついては此この上に取調べようも無い。𤢖わろは逃げて了しまった、重太郎は行方不明であった。唯ただここに残っているのは、重傷に苦くるしめる彼かの坑夫体ていの男一人いちにんである。これに就ついて厳重に詮議するより他はないが、何分にも生命せいめい危篤きとくという重体であるから、手の着様つけようが無い。

昨夜さくや村境むらざかいで発見した惨殺死体は、面つらの皮を剥はがれているので何者か判らぬ。この男も言語不通であるから何者か未まだ判らぬ。仮たとい被害者は誰にもあれ、其その加害者は何いずれも𤢖であると断定して了しまえば、無造作に解釈は着くのであるが、𤢖以外にも何等かの因縁があるらしく感じられた。而しかして又、彼かの惨殺死体と此この負傷者との間には、何か眼に見えぬ糸が繋がっている様ようにも感じられた。が、それは単に「感じられる」と云うに過ぎないので、巡査にも其その理屈は到底説明し得られなかった。

負傷者は容易に死なず、医師の説に依れば幾分か持直もちなおした気味だと云う。巡査は拠よんどころなく手を束つかねて、其その快癒に向うのを待つ中うちに、四五日は徒爾いたずらに過ぎた。

虎ヶ窟を中心として起おこれる此この奇怪なる殺傷事件は、忽たちまち飛騨一国に噂が拡まって、更に隣国となりぐにをも驚かした。明治の世の中に𤢖が出現したと云うすらも既に新聞種だねであるに、況まして其それが人を殺したと云い、巡査と格闘したと云う。𤢖の牝が大石で頭を砕かれたと云う。これと同時に幾多の殺人事件が降ふって湧いたと云う。鬼婆おにばばあが殺されたと云う。聞く事毎に人を騒がす事ばかりなので、或ある者は嘘だろうと云い消した。けれども、事実は争われぬ。地方の各新聞は筆を揃えて、其その顛末を記載した。𤢖の屍体の写真まで掲げられた。市郎の遭難実話が載せられた。塚田巡査の探偵談が記された。噂は更に尾鰭おひれを生じて、殆ど前代未聞の大椿事だいちんじとまで伝えられた。

無論、斯こうなっては塚田巡査一人の手に負える問題ではない。高山たかやまからも警官が大勢出張した、岐阜の警察からも昼夜兼行ちゅうやけんこうで応援に来た。狭い駅中しゅくじゅうは沸返わきかえるような混雑である。

「どうも大変な事が起おこったね。」

大学の制帽を被かぶって、旅行用の大革包おおかばんを提ひっさげた若い男が、四辺あたりの光景ありさまを幾度いくたびか見返りながら、急ぎ足で角川家の門を潜くぐった。門口かどぐちには七兵衛老爺じじいが突ッ立っていた。

「やあ、吉岡の小旦那こだんな……。どうも苛えれえ騒動さわぎが出来ましてね。」

「そうだッてね。驚いたよ。」と、若い大学生は首肯うなずいて、「併しかし市朗君は大した事もないのか。」

「はあ、お庇様かげさまで大分だいぶ快いい方ほうで……。何、大丈夫だとお医者も云って居ますが……。何しろ、一時は胆きもを潰しましたよ。」

「そうだろう。まあ、早く行って逢おうよ。𤢖に殺され損なうなんて、馬鹿な話だ。言語同断だよ。」

大学生は七兵衛に誘われつつ、威勢よく奥へ駈込かけこんだ。彼は吉岡家の長男忠一である。妹いもとの冬子が市郎と結婚するに就ついて、十一月初旬には帰郷する心構えをしていた所が、更に市郎から年末休暇まで延期しろと云って来た。と思うと、やがて又冬子から電報が来て、大変が出来たから直すぐに帰れと云う。何が何だか少しく煙けむに巻かれたが、兎とも角かくも大変とあっては聞捨ききずてにならぬ。忠一は早々に旅装を整えて帰郷の途に就いた。

富山へ来ると、例の噂が既もう一面に拡ひろがっていて、各新聞にも精細の記事が掲げられていた。読んで見ると成なるほど大変である。が、彼は其その大変に驚くと同時に、此この事件に就ついて一種の興味を湧わかした。彼は此この機会に乗じて、所謂いわゆる山𤢖なるものを十分に研究したいと思った。冬の夜の明けぬ中うちに富山を発たって、午後四時過すぐる頃にここへ着いたのである。

安行の葬儀は市郎全快の上で営む事に決したので、一旦は火葬に附し、其その遺骨は広い座敷の正面に祭られてあった。親戚や近所の人々も大勢控えていた。忠一の母お政も来ていた。それ等に対する挨拶は後にして、忠一は先まず市郎の病室に入った。

市郎は書斎の八畳に寝ていた。其傍そのそばには冬子が看護していた。

「あら、兄さん。」

「どうしたい。飛とんだ騒動が持上もちあがったもんだね。」と、忠一は其その枕元に坐り込んだ。室内には既もう洋燈らんぷが点とぼっていた。

(四十六)

「冬子さんから電報を打ったと云う談はなしは聞いたが、よく早く帰って来られたね。」

市郎は痛む手を抱えながら起きようとするのを、忠一は慌しく制した。

「まあ、無理をしずに寝て居たまえ。阿父おとっさんは何どうも飛んだ事だったね。そこで、君の痛所いたみしょは何どうだ。もう快いいのか。」

「いや、まだ悉皆すっかり快いいという訳には行かないよ。何でも三週間ぐらいは懸かかるだろうと思うが……。併しかしまあ、生命いのちに別条の無いのが幸福しあわせさ。」

市郎は苦笑いした。顔の色はまだ蒼ざめていたが、元気は左さのみ衰えたようにも見えないので、忠一も先まず安心した。

「生命に別条があって堪たまるものか。対手あいては多寡たかが𤢖わろじゃアないか。はははは。」

「でも、一時は真実ほんとうに喫驚びっくりしましたわ。」と、冬子は眼を丸まろくして云った。

「そりゃア誰でも喫驚びっくりするさ。僕だって、一旦は驚いたよ。吉岡忠一の友人が、そんな馬鹿馬鹿しい目に逢ったかと思うと、実に唖然とせざるを得なかったよ。全体、𤢖なんて云う者に苦くるしめられると云うのが、文明人の恥辱だからね。と云うと、君ばかりでなく、死んだ阿父おとっさんまで侮辱するようだが、実際詰つまらない災難に逢ったものだよ。」

「恥辱でも仕方が無いわ。先方むこうから不意に襲って来るんですもの。」と、冬子は少しく不平そうに兄を顧みかえった。

「いや、不意に襲われると云うことが已すでに不覚だよ。」と、忠一は笑って、「𤢖の如き者は一挙して全滅して了しまうか、左さもなくば之これを教化きょうかして真人間まにんげんにするか、二つに一つの方法を択えらぶより他ほかはないよ。唯ただ漫然と打捨うっちゃって置くから、往々にして種々いろいろの禍害わざわいを醸かもすのだ。勿論もちろん、打捨うっちゃって置いても、自然に亡ほろびつつあるには相違ないが、それには未まだ尠すくなからぬ年月を要するだろう。」

「真人間にするッて……。𤢖は矢張やっぱり人間でしょうか。」と、冬子は眉を顰ひそめた。

「人間だよ、確たしかに人間だよ。ねえ、市郎君、この夏も君と𤢖に就ついて種々いろいろと研究した事があったじゃないか。」

「むむ。僕も委くわしく研究したいと思って、参考の為に親父にも種々いろいろ訊いている中うちに、今度の騒動さわぎさ。親父はあんな気象にも似合わず、因襲的に𤢖を恐れていたらしかったが、到頭とうとうこんな事になって了しまった。そこで、君はいよいよ𤢖を人間と見極めたのか。」

「𤢖や山男のたぐいは皆人間だよ。僕も従来は之これに就ついて多くの注意を払っていなかったが、此この夏君と話し合ってから、俄にわかに𤢖研究を思い立って、東京へ帰ると直すぐに人類学の書物を種々いろいろ猟あさって見た。諸先輩の説も聴いた。何分研究の日が猶なお浅いのだから、僕も余り詳細の説明は能できないが、兎とにかく我々と同一の人類であると云うことだけは明白に云えるよ。尠すくなくも僕は然そう信じているよ。」

「我々と同じ人間が何どうして𤢖なんぞになったのでしょう。」と、冬子の疑惑うたがいは解けそうも無かった。

「委くわしく云えば長いことだが、まあ簡短かんたんに説明すると、こんな理屈になるんだ。」

冬子が注ついで出す茶を一杯飲んで、忠一は鉄縁てつぶちの眼鏡を掛け直しながら、今や本論に入いろうとする時、彼かの七兵衛が襖ふすまから顔を出した。

「あの、駐在所から塚田さんが見えましたが……。」

「むむ、此方こっちへ通して呉くれ。」と、市郎が首肯うなずいて見せると、七兵衛は心得て去った。

「塚田巡査、相変らず勤勉だね。」と、忠一は微笑した。

「実際、勤勉だよ。殊に今度の事件に関しては、殆ど寝食を忘れて奔走しているんだ。今日来たのも、何か犯人捜索上に就ついて僕に聞合ききあわせにでも来たんだろう。」

「あの巡査は𤢖と格闘したと云うじゃアないか。職務とは云え、流石さすがに偉いよ。」

こんなことを云っている中うちに、噂の主ぬしは帯剣たいけんを戞からめかしながら入って来た。近所の人であるから、忠一とも予かねて相識あいしっているのである。双方の挨拶は式かたの如くに終った。

「何かお急ぎの御用ですか。」と、市郎が問うた。

「いや、急ぎと云うでも無いですが、今日は虎ヶ窟を検査に行くと、不思議なものを発見したのです。」

「ははあ、何どんなものを……。」

「岩穴の壁に沢山の字が書いてあるのです。恐おそらく字だろうと思うのですが、我々には到底とても読めないので……。」

「字が書いてありましたか。」と、忠一は思わず乗出のりだした。

(四十七)

虎ヶ窟の壁に文字もんじの跡が有るというのは、頗すこぶる興味を惹く問題であった。一座悉ことごとく耳を傾けると、塚田巡査は首を拈ひねりながら、

「今も申す通り、我々には字だか絵だか符号だか実際判然しないのですけれども、何どうも文字もじらしく思われるのです。勿論もちろん、刃物の尖さきで彫付ほりつけたもので、何十行という長いものです。あれが悉皆すっかり判れば余よほど面白かろうと思うのですが、何どうでしょう、あなたには……。読んで下さることは能できますまいか。」

「さあ、読めるか何どうか判らんですが、兎とにかく何どんなものだか、是非一度見たいもんですな。」と、忠一も非常の乗気のりきであった。

「今日は既もう遅いですから。明日みょうにち御案内を為しましょう。」

「どうか願います。若もし果はたして其それが文字もんじであるとすれば、𤢖わろに対する僕の意見が愈いよいよ確実になる訳ですから……。」

「何か𤢖に就ついて御意見があるですか。」

「忠一君には大いに意見があるんだそうで、今これから大演説を始めようと云う処へ、あなたが見えたんです。」と、市郎は笑いながら喙くちを挟んだ。

「それは好いい所へ来ました。わたくしも参考の為に是非伺いたいものです。」と、巡査も熱心に膝を進めた。

「兄さん、お話しなさいよ。」と、冬子も強請せがむように迫り問うた。

聴者ききてが熱心であるだけに、弁者べんしゃにも大いに挑発はずみが付いて、忠一も更に形を改めた。

「いや、大いに意見があると云う程でも無いんですが、近頃僕が取調べた所では、概略先まずこんな訳なんです。日本ばかりでなく、支那にも昔から山鬼さんき又は野婆やばなどと云う怪物の名が伝えられています。山鬼は日本で云う山男或は山𤢖のたぐいで、野婆は即ち山姥やまうばでしょう。尤もっとも地方に因よって其その名を異ことにするようで、日本でも奥羽地方では山人やまびとと云い、関東地方では山男と云い、九州地方では山𤢖やまわろと云い、ここらでも主に𤢖と呼ぶ様ようです。そこで其その𤢖なるものは元来何であるかと云うと、大和民族の我々よりも早く既に此この本土に棲んでいた人種で、其中そのうちにはアイヌもありましょう、所謂いわゆる土蜘蛛という穴居けっきょ人種もありましょう、又は九州の熊襲くまその徒やからもありましょう。斯こういう野蛮人種が我々大和民族と闘って、或ある者は亡ほろぼされた、或ある者は山奥へ逃げ込んだ。其その逃げ込んだ奴等が深山幽谷しんざんゆうこくの間あいだに隠れて、世間普通の人間とは一切の交通を断たって、何千年か何百年かの長い間、親から子、子から孫と其その血統を伝えて来たもので、兎とに角かく人間には相違ないんです。現に誰も知っている一例を挙げれば、肥後ひごの山奥にある五個ごかの庄しょうです。壇の浦で亡ほろびた平家の残党は彼かの山奥に身を隠して、其後そのご何百年の間、世間には知られずに別天地を作っていました。」

「成程なるほど……。」と、巡査は酷く感心して聴いていたが、市郎は少しく頭かしらを傾けた。

「君の説も一応は道理もっともの様ように聞えるが、五個の庄の住民は矢やはり普通の人間で、決して𤢖や山男の類たぐいでは無いと云うじゃアないか。」

「無論さ。」と、忠一は首肯うなずいて、「五個の庄の住民は何いずれも平家に由縁ゆかりの者で、彼等は久しく都の空気を呼吸していた。平家の公達きんだちや殿原とのばらは其その当時に於おける最高等の文明人種であったのだ。随したがって彼等が如何いかなる山村僻地に流落りゅうらくしても、或ある程度までは自己の有する文明を維持して行く力を有もっていたから、子孫相伝えて兎とも角かくも今日こんにちに至ったのだ。之これに反して、彼かのアイヌや土蜘蛛の種族は元来の野蛮人種で、最初はじめから自己の文明というものを所有していないから、彼等が山に隠れ、谷に潜ひそんで何十代を送る間あいだには、野蛮の程度が愈いよいよ加わるのみで、寧むしろ漸々だんだんに退化して、人間か獣か区別が付かぬ様ようになって了しまったのだ。昔から山𤢖や山男と云うのは即ち是これだ。彼かの頼光らいこうが足柄山あしがらやまから山姥の児こを連れて来たと云うのが実説ならば、其その金太郎と云うのは即ち山𤢖の一人いちにんで、文明の教育を受けた結果、後に坂田金時さかたのきんときという立派な勇士になったのだろう。」

「成程なるほど……。」と、巡査は又首肯うなずいたが、市郎と冬子は未まだ腑に落ちぬらしく、霎時しばしは黙って考えていた。広間の方には坊さんでも来たのか、鉦かねを叩く音が低く聞えた。

(四十八)

「先まず然そう云う理屈であるから、我々の先祖は勝利者で、𤢖わろの先祖は敗北者で、我々が𤢖を恐るる筈は無いのだ。けれども、先祖の歴史を委くわしく知らぬ我々が、何百年の後のち、不意に山奥で異形いぎょうの者に出逢うと、何か一種の魔者まものであるかの様ように考えられて、跡をも見ずして逃帰にげかえるという事になる。又、彼等は先祖代々深山幽谷しんざんゆうこくに棲んでいるから、山坂を駆歩かけあるくことは普通の人間よりも素捷すばやいであろうし、腕力も亦また強いかも知れない。随したがって種々いろいろの臆説が甲それから乙それへと附会ふかいされて、何だか神秘的の色彩を帯びた怪談が伝えられる様ようになって了しまったのだ、要するに𤢖は、人間が漸次しだいに退化して所謂いわゆる猿人えんじんに近くなったものだと思えば可いい。」

忠一が息も吐つかずに弁じるのを、市郎は徐しずかに遮さえぎった。

「まあ、待ち給え。君の議論も一通りは解わかったよ。けれども、長い年月の中うちには、何どうか云う機会で𤢖を生捕いけどる事もありそうなものだ。若もし生捕って調べたらば、総ての疑問は疾とうに解決されている筈だ。日本にも昔から種々いろいろの冒険者もあれば、勇士もある。誰か其その𤢖を生捕るとか退治するとか云う人もありそうなものだったが……。」

「そんなことも無いでは無かったが、惜おしむらくは之これを研究するほどの熱心家ねっしんかも無し、学者も無かったらしい。現に今から百余年前ぜん、天明年間に日向国ひゅうがのくにの山中やまなかで、猟人かりゅうどが獣を捕る為に張って置いた菟道弓うじゆみというものに、人か獣か判らぬような怪物が懸かかった。全身が女の形で色が白く、赤裸まっぱだかで黒い髪を長く垂れていた。猟人等は驚いて、之これは恐おそらく山の神であろうと、後のちの祟たたりを恐れて捨てて置いたら、自然に腐って骨に化なって了しまったと、橘南谿たちばななんけいの西遊記せいゆうきに書いてある。これなども山𤢖の女性であったに相違ないが、徒爾いたずらに腐らして了しまったのは惜おしい事であった。同じく西遊記に山𤢖の事も記してあったと記憶している。昔から諸国に其そんな例も沢山あったのだろうが、唯ただ其その一地方の夜話よばなしに残るだけで、識者しきしゃが研究の材料には上のぼらなかったのだ。いや、然そういう例に就ついて、もっと面白い話が有る。これは日本の出来事じゃアないが、現に英国で其その𤢖を取押とりおさえた人の実話だ。まあ、聞き給え。」

忠一の研究談は尽つくる所を知らなかった。人々も耳を澄すましていた。

「何でも西暦千七百二十年頃の事だ。プットバリーの講師にレヴェレンド・シメオン・ピジョンと云う人があった。この人の邸やしきで屡々しばしば家禽かきんを何者にか盗まれる。土地の者は之これをピキシーと云う怪物の仕業だと昔から唱えていたが、講師は之これを信じなかった。で、暗い晩に鶏小舎とりごやの蔭に隠れて待っていると、例の如く午前一時頃に何者か忍んで来た。何でも小児こどものような奴であった。講師は不意に飛び出して取押とりおさえようとすると、賊は刃物を振廻ふりまわして激しく抵抗した。何しろ、其奴そいつの正体を見届けようと思って、講師は先まず燐寸まっちを擦付すりつけると、対手あいては俄にわかに刃物を投ほうり出して、両手で顔を隠して了しまった。」

「むむ。」と、市郎も思わず蒲団から乗出のりだした。彼も𤢖に対して、ピジョン氏と同じような経験を有もっているからであった。

「そこで難なく取押とりおさえて、貴様は何者だと問うたが、賊は何とも返事を為しない。兎とも角かくも家うちの中まで引擦ひきずって行こうとしたが、燐寸の火が消えると共に、対手あいては再び強くなって、講師を突き退のけて何処どこへか逃げて行って了しまった。が、其その一刹那せつなに講師が認めた彼の姿は、極めて背せいの低い、殆ど赤裸あかはだかで、皮膚の色は赭土色あかつちいろで……。」

云う事毎ことごとに符合しているので、市郎も巡査も同時に叫んだ。

「むむ、それから……。」

「それから講師が現場げんじょうを調べて見ると、そこには賊の刃物が落ちていた。能よく能よく研究すると、これは古代の羅馬人ローマじんが持っていた短い剣けんの類たぐいであった。而巳のみならず、其その附近にはローマンケーヴと昔から呼ばれている岩穴が有る。それや是これやを綜合して考えると、賊はピキシーと云う怪物ばけものでも何でも無い、恐おそらく古代の羅馬人であろうと鑑定した。が、土地の者は容易に之これを信じないで、矢やはりピキシーの仕業だと云っていたので、講師は更に斯こう云う説明を加えた。」

(四十九)

𤢖わろの正体も漸々だんだんに判りかかって来た。忠一は咳しわぶきして又語り続けた。

「ピジョン講師の説明に拠よると、其その昔羅馬人ローマじんが英国へ侵入して来た時に、其その一部が戦闘たたかいに敗まけて此この地方へ逃げ込んで来た。が、固もとより敵地であるから、到る処で追詰おいつめ追巻おいまくられた結果、山の奥深く逃げ籠こもって了しまった。其その子孫が相伝えて今日こんにちに至ったのである。と云ったら、男ばかり集あつまっていて、何どうして子孫が絶えぬかと云う疑問が起おこるに相違ないが、彼等は夜に乗じて麓ふもとの里へ降くだって、見当り次第に小児こどもを攫さらって行く。で、女の児こは生長するのを待って結婚する、男の児こは自分達の眷族けんぞくにして了しまう。勿論もちろん、同族結婚などを頓着とんちゃくしているのでは無い。然そういう風であるから、肉体も精神も漸次しだいに退化して、殆ど猿のような野蛮人になって了しまったが、兎とにかくに今日まで其その血統を維つないでいられたのである。併しかし彼等が漸々だんだんに亡ほろびて行くことは争われぬ道理で、昔に比べると其人数そのにんずも非常に減って来たに相違ない。軈やがては自然と亡ほろび尽つくすであろう。で、彼等は平生へいぜい日光ひのめを見ない穴の中に隠れ棲んでいて、暗い夜になると窃ひそかに出て歩く。その習慣が幾代も続いて来たので、眼の働きが甚だ弱いものになって了しまって、火のような強い光線に出逢うと、眼を明あいては居られない様ようになったのである。又、彼等の皮膚が赭土色あかつちいろに化なって了しまったのは、生れてから死ぬまで岩石や赭土の中に棲んでいる為である。其その体躯からだが小児こどものように小さいのは、同族結婚や野蛮生活に因よって身体の発育が衰えた為である。と、先まず斯こう云うのだ。」

「いや、解りました。よく解りました。」と、塚田巡査が先まず第一に降伏した。

「成程なるほど、然そうかも知れませんねえ。」と、冬子も再び兄に反抗する勇気は無かった。

「実際、そうだろう。君も些ちっとの間まに大分研究したね。」と、市郎も笑った。

三人を目前に説破せっぱした忠一は、自おのずから得意の肩を聳そびやかす様ようになった。

「であるから、この虎ヶ窟に棲む山𤢖なる者の正体は、大抵想像するに難かたからずで、矢やはり前に云ったような種類に相違ないんです。それにしても、文字もんじが彫ってあると云うのは頗すこぶる面白い問題で、若もし其その文字もんじの解釈が能できたら、𤢖の正体は愈いよいよ確実に判りましょう。」

「然そうです、然うです。明日みょうにちは是非御案内を為しましょう。今日は丁度ちょうど好いい処へ来合きあわせまして、種々いろいろ有益なお話を伺いました。岐阜や高山から出張している同僚の者にも、参考の為に能よく云い聞かせましょう。」

塚田巡査が喜んで帰った後あとは又寂寞しずかになった。

「馬鹿馬鹿しいの、詰つまらないのと云うものの、君の阿父おとっさんが斯こんなことになろうとは、実に夢にも思わなかったよ。」と、忠一は今更のように嘆息して、「一体其その𤢖なる奴が、何故然そう執念深く君の一家に祟るのだろう。新聞に拠よると、お杉婆ばばあが種々いろいろの原因を作なしている様ようだが実際然そうなのか。」

「さあ、それは僕にも判然はっきりとは解らないが、何どうも然そう解釈するより他は無いのさ、僕の祖父じじいも𤢖に殺されたそうだが、親父も亦また今度のような事になった。究竟つまり一種の因縁とでも云うのだろうよ。」と、市郎も嘆息した。

「むむ、それから……。」と、忠一は思い出したように、「あの柳屋の女ね、確かお葉と云った女だ。新聞の記事に拠よると、彼奴あいつも何か今度の一件に就ついて、関係があるらしいじゃないか。妙な事があるもんだね。」

「いや、関係があると云う訳でも無いらしいが……。」と、市郎は冬子を顧みかえって、「兎とにかく親父が攫さらわれた日に、お杉婆ばばあに誘さそわれて山へ行ったことは真実ほんとうさ。何故行ったか判らないが、少し狂気染きちがいじみた女だから、何だか夢のようにふらふら出掛けたらしいよ。で、明あくる日茫然ぼんやり帰って来たんだ。警察の方でも無論之これに目を注つけて、再三取調べたけれども更に要領を得ない。実際、親父の死に就ついては何にも知らないらしいんだ。」

「それで何どうした。」

「何どうも仕方が無いさ。相変らず柳屋へ帰って、唄なんぞ謳うたっているそうだ。」

「暢気のんきな奴だな。併しかし彼あの女の事だから、然そうだろうよ。」と、忠一も笑い出した。

(五十)

忠一は其その夜、安行の霊前に通夜した。明あくる日は陰くもって寒かった。が、そんなことに余り頓着とんちゃくする男では無いので、草鞋穿わらじばきの扮装いでたち甲斐甲斐かいがいしく、早朝から登山の準備に取とりかかっていると、約束を違たがえずに塚田巡査が来た。活発なる若い学生と勤勉なる若い巡査とは、相携あいたずさえて角川家を出発した。

「兄さん、気を注つけてお出いでなさいよ。」と、冬子は門かどまで送って出た。

「心配するなよ。𤢖わろを五六匹お土産みやげに持って来るから、𤢖汁わろじるでも拵こしらえる支度をして置くが可いいさ。」と、冗談を云いながら兄は去った。

巡査は彼かの事件以来、日々にちにち通い馴れているので、険阻けんその山路やまみちも踏み迷わずに、森を過ぎ、岩を越えて、難なく虎ヶ窟の前に辿り着いた。足の達者な忠一は巡査に些ちっとも後おくれなかった。

窟の入口には落葉を焚いて、一人の警部と二人の巡査が張番はりばんしていた。重太郎や𤢖が何時なんどき旧巣ふるすへ帰って来るかも知れぬので、過日来かじつらい昼夜交代で網を張っているのである。塚田巡査は挨拶した。

「どうです、奴等は姿を見せませんか。」

「影も形も見せないよ。多分山奥へ逃籠にげこもって了しまったのかも知れないが、これだけの所を山狩やまがりするのも大変だからなあ。」と、警部も少しく倦うんだ形であった。

塚田巡査の紹介に因よって、忠一は直ただちに穴へ入ることを許された。巡査の案内に従って、松明たいまつを片手に奥深く進み入ると、此この頃は昇降の便利を計る為に、横木よこぎを架わたした縄梯子なわばしごが卸おろしてあるので、幾十尺の穴を降くだるに格別の困難を感じなかった。二人は中途に突出とっしゅつしたる岩に立って、霎時しばらく四辺あたりを照てらし視みた。

「この岩の上です。角川の阿父おとっさんの屍体が横よこたわっていたのは……。」と、巡査が指さして教えた。忠一は粛然として首肯うなずいた。

「まあ、順々に御案内しますが、𤢖の棲んでいたのは此この下の穴です。」

巡査が松明を振翳ふりかざす途端に、遠い足下あしもとの岩蔭に何かは知らず、金色こんじきの光を放つ物が晃乎きらりと見えた。が、松明の火の揺うごくに随したがって、又忽たちまちに消えた。

「おやッ。」と、忠一も共に火を翳かざしたが、岩に遮さえぎられて何にも見えなかった。

「何でしょう、今光ったのは……。」

「さあ。」と、巡査は考えて、「何だか知らんが時々に光るのです。けれども、光線の工合で見える時もあり、見えない時もあるのです。私も過日このあいだから不思議に思っているのですが……。」

斯こう云いながら、巡査は無闇に松明を振廻ふりまわすと、火の光は偶中まぐれあたりに岩蔭へ落ちて、燦さんたる金色こんじきの星の如きものが暗やみに浮うかんだ。が、あれと云う間に又朦朧もうろうと消えて了しまった。

「何だろう。」

「兎とも角かくも行って見ましょうか。」

好奇心に駆られた二人は、松明を振廻ふりまわしながら更に降った。

「ここらでしたね。」と、巡査は的あても無しに又もや松明を振廻ふりまわすと、忠一も四方を照てらして視みた。が、ここぞと思う辺あたりには何物をも見出さなかったので、二人は失望の顔を見合せて立った。

「不思議ですね。」

「何どうも不思議ですね。」

鸚鵡おうむ返しの声が終らぬ中うちに、忠一の持った松明の火先ひさきが左へ揺れると、一間けん許ばかり下の大岩の間あいだに又もや金色こんじきが閃いた。

「あ、彼処あすこだ。」と、二人は跳おどって飛び降りた。岩は宛さながら獅子が口を明いたような形で、其その喉のどとも云うべき奥の処から、怪しき金色こんじきの光を発するのであった。二人は松明を差付さしつけて窺うと、これは意外、幾百年を経たりとも見ゆる金の兜かぶとであった。

山𤢖の棲家に金の兜を発見するとは、豚小屋から真珠を掘出ほりだしたようなもので、何人なんぴとも想像の及ばぬ所であろう。歴史の智識に富んでいる大学生は、早くも之これを鎌倉時代の物と見た。五枚錣じころの大兜おおかぶと、これが火の光に映じて輝いたのであった。それにしても、こんな貴重な物が何どうして此処ここに隠してあったのか。𤢖が何処どこからか盗み出して来たのか、但ただしは𤢖以前にも此処ここに棲んだ者があるのか。忠一も即座に判断は付かなかった。

兜は岩の上に据えられた。げにも由緒ありげな宝物ほうもつである。忠一も霎時しばしは飽かず眺めていたが、やがて手に取って打返うちかえして見ると、兜の吹返ふきがえしの裏には、「飛騨判官藤原朝高ひだのほうがんふじわらのともたか」と彫ってあった。

(五十一)

「飛騨判官というのは何者でしょうな。」と塚田巡査は首を傾かしげた。

「飛騨判官朝高という人は、曾かつて此この飛騨国ひだのくにの地頭職じとうしょくを勤めたことが有る様ように記憶しています。左様さよう、何でも鎌倉時代の中葉、北條時宗ほうじょうときむね頃の人でしたろう。蒙古もうこ退治の注進状ちゅうしんじょうの中に、確か此人このひとの連名れんみょうもあったかと思いますが……。いや、それは調べれば直すぐに判ります。何しろ、面白いものを掘出ほりだしましたよ。」

忠一は此この歴史的遺物発見に就ついて、尠すくなからぬ興味を覚えたらしく、大事そうに金の兜かぶとを捧げて起たった。

「それから例の不思議な文字もじというのは、何処どこにあるんですか。」

「あの岩穴の中です。」

巡査は先に立って少しく登った。ここは曩さきの日に、巡査等が𤢖わろと戦闘せんとうを開いた古蹟こせきである。低い穴を横に潜くぐって奥深く進んで行くと、天井は漸ようやくに高くなった。ここを行き過ぎると、更に広い場所へ出た。行止ゆきどまりのように見えて、実は狭い間道ぬけみちのある所であった。

「𤢖は彼あの穴から逃げたのです。」と、巡査は残念そうに云った。

「ああ、そうですか。」と云いながら、忠一は何心なにごころなく四辺あたりを見廻したが、忽たちまちあッと叫んだ。

ここにも彼を驚かすものが有った。それは累々るいるいたる人間の骸骨で、規則正しく順々に積み上げてあった。年を経て全く枯れたる骨は、松明たいまつの火に映じて白く光っていた。更に仔細に検査すると、下の方に敷かれた骨は普通の人よりも稍やや大きい位であるが、上の方へ行くに随したがって骨格が漸々だんだんに縮まって、終局しまいには殆ど小児こどものように小さくなった。之これを見ても彼等が漸次しだいに退化したことが證明しょうめいされる。忠一は自己の想像の謬あやまらざりしことを心窃ひそかに誇った。

「これです。御覧下さい。」

巡査の翳かざす松明は傍かたえの石壁せきへきを鮮明あざやかに照てらした。壁は元来が比較的に平ひらたい所を、更に人間の手に因よって滑なめらかに磨かれたらしい。其その面おもてには何さま数十行の文字もんじらしいものが彫付ほりつけてあった。忠一は眼鏡を拭って熱心に見詰めていた。

「どうも文字もじのようですな。」と、巡査が顧みかえると、忠一は黙って首肯うなずいたが、軈やがて衣兜かくしから手帳を把出とりだして、一々これを写し始めた。石の面おもてには所々ところどころ缺かけた所があるので、全く写し了おわるまでには尠すくなからぬ困難と時間とを要した。巡査も根こん好よく待っていた。

「これは確たしかに蒙古もうこの字です。僕には全部は判りませんが、所々は朧おぼろげに其その意味が推察されます。」と、忠一は手帳を収しまいながら、「これに因よって考えると、彼かの𤢖なるものは元げんの蒙古の子孫らしい。彼等が隠していた飛騨判官の兜と対照して研究したら、頗すこぶる面白い歴史上の事実を発見するかも知れません。唯ただ、蒙古の人間が何どうして斯こんな山中に隠れ棲んでいたかと云うことが甚だ疑問ですが、東京へ帰って蒙古語専攻の学者に此この文章を読んで貰い、又一方に飛騨判官の伝記を調べて見たら、秘密は自然に解決されるでしょう。何しろ、お庇様かげさまで種々いろいろの興味ある発見を為しました。」

二人は再び縄梯子を伝って、穴の入口へ登った。窟の前に屯たむろしていた警部等も、金の兜には驚いた。

「何処どこに有ったのです、そんなものが……。」と、皆口々に問い寄るので、忠一は先まず其その概略を説明した上で、これは何人なんぴとも私わたくしすべきもので無い、事件が落着するまでは何分宜よろしく保管を頼むと云えば、警部等も快く承諾した。で、兜は警官の手に渡して、二人は早々そうそう下山の途に就いた。

やがて麓ふもとに近ちかづいた頃、忠一は唯とある樹根きのねに腰をかけて草鞋わらじの緒おを結び直した。巡査は之これを待つ間あいだに不図ふと何を見出したか、忽たちまち疾風しっぷうの如くに駈け出して、あなたの岩蔭へ飛び込んだ。忠一は呆気あっけに取られて見送っていると、霎時しばらくして巡査は悄々すごすご引返ひっかえして来た。

「何どうしたんですか。」

「今あの岩の蔭に重太郎の隠れているのを見付けましたから、直すぐに追掛おっかけて行ったのですが、彼奴あいつ中々足が捷はやいので、忽たちまち見えなくなって了しまいました。残念なことを為したです。」

巡査は酷く口惜くやしそうであった。

(五十二)

それから又二三日過ぎた。忠一は実家と角川家との間あいだを往来しながら、熱心に飛騨の古い歴史を研究して、飛騨判官の伝記及び彼と蒙古との関係を明白あきらかにすべく努めていた。

一時は口も利きかれぬ程の重態であった坑夫体ていの負傷者も、医師の手当てあてに因よって昨今少しく快方に向ったので、警官は直ただちに取調とりしらべを始めた。彼は中々の横着者おうちゃくもので、最初はじめは兎角とかくに自分の素性来歴を包もうと企てたが、要するに其それは彼の不利益に終おわった。彼が不得要領ふとくようりょうの申立もうしたてをすれば為するほど、疑惑うたがいの眼はいよいよ彼の上に注そそがれて、係官は厳重に取調とりしらべを続行した。

で、或ある時係官がお杉と重太郎との身上みのうえに就ついて彼に語り聞かせて、お前を傷きずつけた当の相手は恐おそらく行方不明の重太郎であろうと告げるや、彼は俄にわかに色を変えて、「然そう云えば過日このあいだ、虎ヶ窟で見付けた婆ばばあの死骸は何どうもお杉に肖にていると思いましたよ。悪いことは能できねえもんだ。私は実の倅せがれに斬られたんです。」と、此ここに初めて自分の暗い秘密を打明うちあけた。

彼は重太郎の父の重蔵であった。今から殆ど三十年以前に、彼は角川家を出奔して、お杉と共に諸国を流浪るろうして歩いた。が、頼むべき親戚みよりもなく、手に覚えた職もないので、彼は到る処で種々しゅしゅの労働に従事した。其間そのあいだにも酒や博奕ばくちや女狂いや、悪い道楽は何でも為尽しつくした。斯こうなると、二人が仲にも温かい春の続こう筈はない。年上で嫉妬深いお杉は、明暮あけくれに夫の不実を責めて、或ある時はお前を殺して自分も死ぬとまで狂い哮たけった。重蔵は愈いよいよお杉に飽いた。が、蛇の申子もうしごと噂された程のお杉の執念は、飽あくまでも夫に附纏つきまとうて離れなかった。彼は幾度いくたびかお杉を置去おきざりにして逃げようと企てたが、何日いつも不思議に其その隠れ家を見付みつけ出された。

「妾あたしを捨てて逃げるような料見だから、お前さんは一生涯碌ろくなことは無い。終局しまいには必然きっと酷むごい死様しにようをするよ。」と、お杉は鬼のような顔をして、常に夫を呪った。重蔵は愈いよいよお杉に飽いた。飽いたと云うよりも寧むしろ恐れたのであった。そんな状態ありさまで幾年かを無意味に送る間あいだに、お杉は懐胎して重太郎を生んだが、産後の肥立ひだちが不良よくないので久しく床に就いた。其隙そのすきを窺って重蔵は逃げて了しまった。

今度は既もう諦めたのか、但ただしは病中の為か、流石さすがのお杉も執念深く追っては来なかったので、これを幸いに重蔵は又もや漂泊さすらいの旅路に上のぼった。或時あるときは土方どかたとなり、或時あるときは坑夫となって、甲それから乙それへと際限はてしもなく迷い歩く中うちに、二十年の月日は夢と過ぎた。彼の頭には白髪しらがが殖ふえた。先頃までは加賀のあたりに徘徊していたが、近来飛騨に銀山が拓ひらかれて、坑夫を募集しているという噂を聞込ききこんだので、彼は同じ仲間の熊吉くまきちと云う老坑夫を誘さそって、殆ど三十年振ぶりで故郷ふるさとの土を踏んだのである。

変遷の著いちじるしからざる山間さんかんの古い駅しゅくではあるが、昔に比ぶれば家も変った、人も変った、自分も老いた。誰に逢っても昔の身上みのうえを知られる気配きづかいもあるまいと多寡たかを括くくって、彼は平気で町中まちなかを歩いた。旧主人きゅうしゅじんの角川家の前も通った。駅しゅくを抜けて村境むらざかいまで出ると、日が暮れかかって来て、加之おまけに寒い雨が降って来た。目ざす銀山まではまだ三里もあるので、二人は其処そこらで野宿をすることに決めた。

ここらの案内は重蔵が善よく心得ているので、彼は熊吉を導いて樅林もみばやしの奥へ入った。木立の深い処には、人を容いるるに足るほどの天然の土穴つちあなが所々ところどころに明いているので、二人はここへ潜もぐり込んで、雨を避けながら落葉を焚いた。此このままに眠って了しまえば、彼等は平和に夢を結ばれたのであろうが、斯かかる徒やからの癖として重蔵は懐中ふところから小さな賽さいを取出とりだした。二人は焚火の傍そばで賽の目の勝負を争った。

斯かかる賭博に喧嘩の伴うのは珍しくない。二人は勝負の争いから忽たちまちに喧嘩を始めて、熊吉は燃未了もえさしの枝を把とるより早く、重蔵の横面よこつらを一つ撲なぐった。熱いのと痛いのとで眼が眩くらんだ重蔵は、衣兜かくしから把出とりだした洋刃ないふを閃かして、矢庭やにわに敵の咽喉のどを一抉ひとえぐりにした。が、腹立紛はらたちまぎれに人を殺したものの、わが眼前めのまえに横よこたわれる熊吉の屍体を見ては、彼も俄にわかに怖しくなった。

「どうしたら可よかろう。」と、彼は犯跡はんせき湮滅いんめつに就ついて考えた。

(五十三)

重蔵は不図ふと彼かの𤢖わろを思い出した。この殺人事件をして𤢖の所為しょいであるかのように粧よそおって、他ひとの目を晦くらまそうと考えた。彼は熊吉の屍体を抱き上げて、咬殺かみころした如くに其その疵口きずぐちを咬んだ。が、猶なお不安に思われるので、更に洋刃ないふを以て其その顔の皮を剥はぎ取った。衣服きものも剥いで赤裸あかはだかにして了しまった。斯こうして置けば手懸てがかりも付くまいと、今度は其その死骸を引抱ひっかかえて行って、一町ちょうばかり先の小川の畔ほとりへ捨てて来た。

この時、村の方から松明たいまつの火が近ちかづいて、大勢の人声や跫音あしおとが乱れて聞えたので、脛すねに疵きず持つ彼は狼狽うろたえて逃げた。而しかも人里の方へ逃げるのは危険だと悟ったので、彼は案内知ったる山の方へ逃げ込んだ。雨はますます降って来たので、彼は唯とある大きな岩蔭に隠れて、眠るとも無しに一夜を明かした。夜が明けると、雨は止んだ。けれども、麓ふもとでは昨夜さくやの殺人事件の詮議が厳しかろうと推察されるので、彼は直ただちに山を降くだるほどの勇気は無かった。今日きょう一日は山中に潜伏して、日の暮るるを待って里へ出る方が安全であろうと、飢ひもじい腹を抱えて当途あてども無しに彷徨さまよう中うちに、彼は大おおいなる谷川の畔ほとりに出た。

瞰上みあぐれば我が頭の上には、高さ幾丈の絶壁が峭立きったっていて、そこは彼かの虎ヶ窟なることを思い当あたった。若い男と女とが社会の煩うるさい圧迫を脱のがれて、自由なる恋を楽たのしんだ故蹟こせきである。

「俺もあの時は若かったな。」

重蔵も漫そぞろに三十年前ぜんの夢を辿って、谷川の流ながれに映る自己おのれの白髪頭を撫でた。それに付けてもお杉は何どうしたろう。生きては俺を恨んでいるだろう、死んでは俺を呪っているだろう。

「俺も悪いことを為した。」と、彼は今更の様ように悔恨の情に打たれた。が、其そのお杉は二十年前ぜんから此この旧巣ふるすへ戻って、加之しかも今や其その老おいたる屍かばねを窟の底に横よこたえていようとは夢にも思い及ばなかった。何はあれ、ここは屈竟くっきょうの隠れ家である。万一、𤢖が昔のままに棲んでいるならば、之これに乞うて何等なんらかの食物を得て、一時の空腹を凌しのごうとも思った。其その昔、𤢖を友としていた重蔵は、他ほかの人のように𤢖を恐しい者とも思わなかった。寧むしろ旧ふるい友達を尋ねて、当分の隠れ場所を借りようか位ぐらいに思っていたのである。

彼は窟に暫く棲んでいたので、岩穴から此この川辺へ抜け出る間通かんどうを心得ていた。彼は直ただちに其その穴を見出して、蛇のように潜もぐり込むと、暗い中で恰あたかも彼かの市郎に出逢ったのであった。市郎は彼が家出の後のちに生れた児こであるから、相互たがいに顔を見識みしろう筈はなかったが、其詞そのことばの端はしに因よって、重蔵は早くも彼が角川家の倅せがれであることを悟った。で、一旦は其奇遇そのきぐうに驚いたが、今は其そんなことを詮議する場合でない。彼は頼まるるままに角川家へ使つかいする意つもりで、兎とも角かくも窟の外へ走り出た。

外へ出ると、又もや重太郎に逢った。が、これも相互たがいに顔を見識みしらなかったので、二十年振ぶりで初めて邂逅めぐりあった現在の父と子が、此ここに忽たちまち敵となった。二人は引組ひっくんだままで崖から転げ落ちると、下には幸いに熊笹が茂っていたので、身体には別に怪我けがもなかった。けれども、格闘たたかいは此このままに止やまなかった。二人は此ここで又もや組討くみうちを始めたが、若い重太郎は遂に老おいたる父を捻伏ねじふせた。彼は母の仇かたきと叫びつつ、持ったる洋刃ないふを重蔵の喉のどへ差付さしつけたのである。

急所を刺された父は殆ど気を失って倒れた。重太郎は恐おそらく何処いずこへか立去たちさったのであろう。それから塚田巡査に発見されるまでは、重蔵も夢心地で何にも知らなかった。

老おいたる浮浪者の懺悔ざんげは之これで了おわった。

「私も女房や子を捨てて逃げました。友達を殺して逃げました。それだけの罪でも碌ろくなことの無いのは当然あたりまえです。二十年振ぶりで現在の子に邂逅めぐりあいながら、其その手に掛かかって殺されると云うのも自然の因縁でしょう。斯こう何も彼かも白状して了しまえば、私は人殺しの犯人ですから何どうせ無事には済みますまい。寧いっそ此このまま死んで了しまって、地獄にいるお杉に謝った方が可ようございます。」

彼の眼には悔恨の涙が見えた。警官も医師も其その自殺を懼おそれて昼夜警戒していたが、彼は一旦快方に赴おもむいたにも拘かかわらず、爾来じらい再び模様が悪くなって、囈言うわことのように斯こんなことを叫び続けた。

「お杉……堪忍して呉くれ。俺が悪かった。お杉……お杉……重太郎……。熊吉、赦ゆるして呉くれ。熱い、熱い、地獄の火が……。」

斯かくして、三日の後のちに重蔵は死んだ。人間の運命は不思議なもので、彼は故郷こきょうの土と化なるべく、偶然にここへ帰って来たのであった。

(五十四)

十一月も中旬なかばになった。

飛騨の冬は愈いよいよ迫って来て、霜は軈やがて雪となるらしい、鯨の群のような黒い雲が山から里へ掩おおって来た。この三日ばかりは日も見えなかった、風も吹かなかった。唯ただ天地暗澹あんたんの中うちに、寒い日が静しずかに暮れて、寒い夜が静しずかに明けた。この沈黙は恐るべき大雪を齎もたらす前兆である。里の人家では何いずれも冬籠ふゆごもりの準備に掛かかった。

午後三時、一人の青年わかものが村境むらざかいの小高い丘に立って、薄暗い町の方かたを遠く瞰下みおろしていた。彼は重太郎である。大方の冬木立は赤裸あかはだかになった今日此頃このごろでも、樅もみの林のみは常磐ときわの緑を誇って、一丈に余る高い梢は灰色の空を凌しのいで矗々すくすくと聳そびえていた。この深林しんりんを背景に、重太郎は無言の俳優やくしゃとして舞台に立っていた。

彼は恋しいお葉と泣いて別れた。更に父と知らずして父を傷きずつけた。お葉が形見の山椿の枝を抱えて、一旦は其その場から姿を隠したが、流石さすがに遠くは立去たちさらなかった。彼は木間このまや岩蔭に潜んで、絶えず其後そのごの模様を窺っていると、安行も死んだ、お杉も死んだ、𤢖わろの一人いちにんも死んだ。其その屍体は何いずれも里へ運び去られたのである。

安行や𤢖の死に就ついては、彼は何にも考えなかったが、お杉の死は彼の胸を深く抉えぐった。二十年来この窟に隠れ棲んで、殆ど人間との交際を断たっていた此この母子おやこ二人は、さながら車の両輪の如き関係であった。今や其その母を亡うしなって、彼は殆ど片輪かたわになって了しまった。曩さきの夜よ、母から十日の内には死ぬと云い聞かされた時には、彼は心窃ひそかにお葉というものを頼みにしていた。が、それも希望のぞみの綱が切れた。彼は枝を離れた木葉このはのように、風のまにまに飛んで行くより他は無かった。

ここばかりが自分の天地でないことは、重太郎も流石さすがに知らぬでは無かった。母に別れ、お葉に離れて、必ずしも此この山奥に棲んでいる必要は無いと思った。けれども、窟の底には母に教えられた大切の宝が有る。之これを持出もちだして他ひとに売れば、自分は大金満家おおがねもちになれるのである。乞食を為しないでも済むのである。ここを立去たちさる前に、先まず彼かの宝を持出もちださねばならぬと、彼は昼夜この辺あたりを徘徊して、窃ひそかに好いい機会を窺っていたが、彼かの事件以来、窟には多数の警官が絶えず見張っているので、彼も迂濶うかつに踏込ふみこむ隙を見出し得なかった。

と云って、此このままに立去たちさるほどの断念あきらめは付かぬ。断念の付かぬのも無理はない。重太郎は宝に心を惹ひかされて、徒爾いたずらに幾日かを煩悶の中うちに送った。勿論もちろん、普通の人とは違って、山に馴れたる彼は寝床や食物には困らなかった。岩を枕にして眠った、木実このみを拾って食った。斯かくして日を暮くらす間あいだに、塚田巡査に一度見付けられたが、幸いに逃れた。

「あの宝は俺おれの物だ。俺が持って行くのに不思議があるものか。」

重太郎は斯こうも考えた。けれども、自分の姿を見れば直ただちに追跡する警官等が、其その理屈を肯きいて呉くれるや否やを危あやぶんだ。警官等は自分の敵であると彼は一図いちずに信じていた。寧いっそ腕力付うでづくで奪い取ろうかとも考えたが、剣を佩おびたる多数の警官と闘うことは、彼も流石さすがに憚はばかった。この場合、味方と頼むのは多年同棲したる𤢖であるが、彼等も其その以来何処どこへ隠れたか姿を見せぬ。母と友とに離れたる孤独の重太郎は、ここらあたりを出没して空しく夜と昼とを送っているのであった。

其間そのあいだも彼は山椿の枝を放さなかった。紅い蕾つぼみは疾とくに砕けて了しまったが、恋しき女の魂魄たましいが宿れるもののように、彼は其その枯枝を大事に抱えていた。

今日も漸ようやく暮れかかって来た。灰色の低い雲は町の空一杯に拡がっていた。

「雪が来るな。」と、重太郎も思った。

更に山の方を振返ふりかえって見ると、三方崩さんぽうくずれの彼方あなたから不思議な形の黒雲くろくもが勃々むくむくと湧き出して来た。例えば大入道のような怪物が黒い衣服きものの裳すそを長く拖ひいて、太い片腕を長く突き出したような形で、徐しずかに北の空から歩んで来た。重太郎は眼も放さずに怪物の近ちかづくのを仰ぎ視みた。

普通の人は之これを不思議の雲と見るであろうが、重太郎は更に之これを不思議の物と見た。彼は之これを一種の悪魔であると思った。あの雲が出る時には必ず人間に禍わざわいがあると、小児こどもの時から母に教えられたのであった。

現在の重太郎に取っては、里の人間は総て我が敵であると云っても可よい。其その里に向って、悪魔は天を翔かけり行くのである。彼は云い知れぬ一種の愉快を感じて、猶なおも雲の行方を睨んでいると、黒い悪魔の手は漸次しだいに拡がって、今や重太郎の頭の上を過ぎた。

彼は思わず跪ひざまずいて、天を拝した。

(五十五)

日は全く暮れた。悪魔のような黒雲くろくもは町から村へと大きな手を拡げて了しまった。ここに有るほどの家も人も、総て悪魔の黒い袖の下に包まれたのであった。

今までは凍り着いたように静寂しずかであった町も村も、俄にわかに何となく閙さわがしくなった。鴉や雀は何物にか驚いたように啼き出した。犬も頻しきりに吠え出した。山の方では猿が悲しそうに叫び出した。重太郎も一種の不安を感じて、何の意きも無しに丘を駈け降りた。

鳥の声は又止んだ、犬や猿も啼き止んだ。天地は再び旧もとの寂寞せきばくに復かえったかと思うと、灰のような細こまかい雪が音もせずに降って来た。斯こういう前触まえぶれの気配を以て降って来た雪は、一丈に達せざれば止まぬのである。重太郎も骨に沁むような寒気さむさを覚えた。

「山へ帰って焚火でも為しようか。」

懐中ふところを探ると、燐寸まっちの箱は既もう空虚からであった。彼は舌打したうちして明箱あきばこを投ほうり出した。此上このうえは何とかして燐寸を求め得ねばならぬ。重太郎は思案して町の方かたへ歩み去った。燐寸の尽きたる時、これを人家より盗み去るのは彼が年来の習ならいであった。

今も此この目的で彼は町の方かたへ忍び出た。細こまかい雪は益々烈しく降って来た。

駅しゅくへ入ると、大方の家は既に戸を閉じていた。雨風を恐れぬ重太郎も、此この雪には流石さすがに面おもてを向けられぬので、成なるべく人家の軒下を伝って歩くと、暗い町の中で唯ただ一軒、燈火あかりの外へ洩もれる家を見た。門かどには枯柳が骸骨のように立っていた。

「ああ、柳屋か。」

重太郎の血は俄にわかに沸いた。眼に見えぬ糸に曳ひかるる様ように、彼はふらふらと其その門口かどぐちに窺い寄ると、奥には春めいた空気が漲みなぎって、男や女の笑い声が聞えた。やがて三味線の音が冴えて聞えた。

美濃みのの柳と、近江おうみの柳。

風のまにまに縺もつれて解とけて、

国は違えど、恋はする。

唄の声は正まさしくお葉であった。重太郎は枯柳に犇ひしと取付とりついて、酔えるように耳を澄すましていた。雪はいよいよ降頻ふりしきって、重太郎も柳も真白まっしろになった。

糸の音ねが止むと、又もや話声はなしごえや笑い声が聞えた。其中そのなかにお葉の声も聞えるかと、重太郎は猶なおも耳を傾けていた。

客は矢やはり鉱山に関係の人らしい、酔よいを帯びた調子は高かった。

「何どうだい、到頭とうとう降って来たらしいぜ。過日このあいだから催していたんだから、滅多めったに止むまいよ。困ったもんだ。」

「可いいじゃありませんか。何どうせ寒い中うちは休みでしょうから、当分はここの家うちに冬籠ふゆごもりを為なさいよ。」と、若い女の声。これはお葉ではなかった。

「だが、雪が降って食物くいものが無くなると、𤢖わろが山から里へ出て来ると云うじゃアないか。迂濶うっかり酔倒よいたおれている処を、攫さらって行かれちゃア大変だからね。ははははは。」

「大丈夫、𤢖は既もう何処どっかへ行って了しまってよ。」と、今度はお葉の声であった。

「ほんとうに過日このあいだの騒動さわぎは大変だったわねえ。」と、若い女が相槌あいづちを打った。

「妾あたしあの騒動さわぎじゃア酷ひどい目に逢って了しまった。」と、お葉が口惜くやしそうに云った。

「お前も𤢖に攫さらわれたんだと云うじゃアないか。」と、客は笑った。

「嘘よ。妾あたしはお杉婆ばばあの魔法遣まほうつかいに電気を掛けられて、夢中でふらふら行ったんですわ。だから、何にも知りゃア為しないのに、警察では種々いろいろな詮議をして……。ほんとうに忌いやになって了しまった。角川の大旦那が殺されたと云うことも、家うちへ帰ってから初めて聞いた位ですもの……。」

「でも、若旦那は運が好よかったのね。」と、若い女の声が聞えた。

「そうさ。危あやうくお杉婆ばばあに殺される所を、若旦那が早く気が注ついたんで、お杉の方が反対あべこべに穴の底へ墜落おっこちて死んだんですとさ。何でも人の話で聞くと、お杉婆の身体は粉微塵こなみじんになって居ましたとさ。」

この説明はお葉の口から出た。これと聞くや重太郎は俄にわかに顔色を変えた。彼は懐中ふところから秘蔵の洋刃ないふを把出とりだして、例の「千客万来」の行燈あんどうの火で屹きっと視みた。

雪には少しく風が交まじって来た。

(五十六)

燐寸まっちを盗む為に里に出た重太郎は、今や柳屋の門かどに立って、思いも寄らぬ秘密を聴き出したのであった。彼は理由を能よくも糺たださずに、彼かの怪しき坑夫体ていの男を母の仇かたきと一図いちずに思い定めて、其その場を去らずに彼を刺止さしとめた。これで復讐の役目は果はたしたものと信じていた処が、今この人々の話を聞くと、それは自分の思い違いで、当の仇は角川市郎であった。自分に取っては恋の仇とも云うべき角川市郎であった。重太郎は驚き且かつ怒いかって、思わず拳を握った。

母の仇は必ず討つと、彼は曩さきの日お杉に誓ったのである。其その仇の名は今やお葉の口から洩もれた。気の短い重太郎は既もう一刻も猶予はならぬ、仇の血を衂ぬるべき洋刃ないふを把出とりだして、彼は俄にわかに身繕みづくろいした。奥では又もやお葉の笑い声が聞えた。が、恋しい人の媚なまめかしい声も、熱したる彼の耳には既もう入らなかった。復讐の一念に前後を顧かえりみぬ重太郎は雪を蹴立てて手負猪ておいじしのように駈け出した。

角川の家では未まだ眠らなかった。市郎の傷も漸ようやく癒いえて、此頃このごろは床の上に起き直られる様ようになったので、看病の冬子は一旦わが家へ帰った。今日は忠一が昼から遊びに来ていたが、此この雪の為に今夜は泊る事となって、市郎の枕辺まくらもとで相変らず𤢖わろの研究談に耽っていた。

「雪が降ると世間が静しずかだね。」

「殊にここらは山奥だもの。」と、市郎は笑って、「まあ、これから来年の春までは、蛇や熊のように穴籠あなごもりをして居るんだよ。」

「穴籠りと云えば、𤢖の奴等は此この雪に何どうしているだろう。」と、忠一は自ら問い、自ら答えて、「あんな奴等だから、雪の融とけるまで何処どこかの穴にでも潜もぐっているだろうね。」

「そうだろう。併しかしあの以来、𤢖の噂も消えた様ようだよ。まあ、好いい塩梅あんばいだ。何しろ、金の兜かぶとは掘出物だったよ。」

「あれが真実ほんとうの掘出物と云うのだろう。僕も県史や飛騨誌などを調査した結果、飛騨判官朝高という人物の伝記も大抵判った。𤢖は愈いよいよ元げんの蒙古に疑い無しだ。」

「そうかねえ。」

この時、庭の竹藪でがさりと云う音が聞えた。忠一は話を止やめて耳を立てた。

「何、竹が折れたんだろう。」

「いや。」と、忠一は考えて、「竹の折れる程は未まだ積つもるまい。𤢖じゃアないか。」と、笑いながら猶なおも耳を澄すましていた。

音もせぬ雪は一時間の中うちに余よほど積つもったらしい。庭には雪を踏む跫音あしおとががさがさと聞えて、雨戸の外へ何者か窺い寄るような気息けはいを感じた。二人は顔を見合わした。

「いよいよ𤢖かな。」

「真逆まさか……。」と、市郎は笑った。

何者か雨戸に触れた。南天なんてんに積つもっている雪がばらばらと落ちた。忠一は衝つと起たって縁側の障子を明けると、外の物音は止んだ。忠一は続いて雨戸を明けた。一面に降頻ふりしきる粉雪こゆきは、戸を明けるのを待って居た様ように、庭の方から忽たちまち颯さっと吹き込んで来た。

「や、酷ひどく降るな。」と、忠一は袖で顔を払った。それから更に庭を見渡したが、白い木立、白い竹藪、その他ほかには何にも見えなかった。

「じゃア、風か知ら。」

云う中うちに、彼は雪に印いんせる人の足跡を見付けた。確たしかに人の足である。加之しかも入口の方ほうから庭伝いに縁先へ来て消えている。何者か忍び込んだに相違ない。忠一は愈いよいよ眼を輝かして四辺あたりを見渡したが、雪明ゆきあかりでは何どうも判然はっきりと解らぬ。

「鳥渡ちょいと、燈火あかりを貸し給え。」

彼は洋燈らんぷを持出もちだして庭を照てらすと、足跡は確たしかに残っているが、人の形は見えぬ。猶なおも燈火あかりを彼地此地あちこちへ向けている中うちに、雪は渦巻いて降込ふりこんで来た。袖で掩おおう間ひまも無しに、洋燈らんぷの火は雪風ゆきかぜに吹き消されて、室へやの内は俄にわかに闇となった。

忠一は引返ひっかえして燐寸まっちを擦ろうとする時、一個ひとりの小さい人間が闇に紛れてひらりと飛び込んで来た。重太郎は縁の下に潜んで内の様子を窺っていたのである。暗い中でも眼の鋭い彼は、洋刃ないふを逆手さかてに振翳ふりかざして直驀地まっしぐらに市郎の寝床へ跳おどり蒐かかった。

(五十七)

何者か知らぬが、不意に庭から飛び込んで来たので、忠一は早くも其その背後うしろから組付くみついた。重太郎は焦いらって振放ふりはなそうと試みたが、此方こなたも多少は柔道の心得があった。

「こん畜生、温順おとなしく降参しろ。一体、貴様は何だ、何者だ。」

重太郎は物をも云わなかった。羽翅締はがいじめの身を悶もがきながら、洋刃ないふを逆にして背後うしろを払うと、切先きっさきは忠一が右の臂ひじを擦かすった。これで思わず手を弛ゆるめる隙を見て、彼は一足踏込ふみこんで当の仇かたきの市郎に突いて蒐かかると、対手あいては早くも跳はね起きて、有合ありあう衾よぎを投げ掛けたので、小さい重太郎は頭から大きい衾を被かぶって倒れた。

「占めたッ。」

忠一は衾の上から乗のりかかって押えた。が、何しろ暗いので始末が悪い。

「早く燈火あかりを持って来い。燈火を……燈火を……。」と、市郎が呼んだ。

雪は降っても未まだ宵である。入口の爐ろを囲んでいた人々は、この声を聞いてばらばらと起たって来た。或ある者は手に洋燈らんぷを持った。

「何です、何どうしたんです。」と、皆口々に問うた。

「賊だ、賊だ。賊を取押とりおさえたんだ。」と、忠一は叫んだ。

「何、賊だ。」と、人々は眼を皿にして衾の周囲まわりにどやどやと集あつまった。重太郎は土龍もぐらもちのように衾の下で蠢うごめくのであった。が、彼も流石さすがに考えた。斯かかる始末となって多勢たぜいに取巻とりまかれては、到底とても本意ほんいを遂げることは覚束おぼつかない。一旦はここを逃げ去って、二度の復讐を計る方が無事である。と、斯こう考えたので、彼は故意ことさらに小さくなって、宛さながら死せるように鎮しずまっていた。対手あいてが温順おとなしいので、忠一も少しく油断した。

「燈火あかりを此方こっちへ出し給え。兎とにかく何どんな奴だか面つらを見て与やるから……。」

云いつつ徐しずかに衾を剥めくると、待構まちかまえたる重太郎は全身の力を籠こめて曳えいやと跳はね返したので、不意を食くらった忠一は衾を掴んだまま仰向けに倒れた。重太郎は洋刃ないふを閃かして矗然すっくと起たった。と思うと、忽たちまちに人の袖を潜くぐって、縁先から庭へひらりと飛び降りた。

「あ、逃げた。」

人々は続いて追った。忠一も歯噛はがみをして追った。重太郎は狐のように雪を飛んで、早くも門外まで逃げ去った。

けれども、飽あくまで不運なる彼は此ここで又もや強敵に逢った。巡回中の塚田巡査が恰あたかもここへ来合きあわせて、角燈かくとうの火を其その鼻の先へ突付つきつけたのである。重太郎も之これには少しく怯ひるんだ。

背後うしろからは忠一を先に、角川家の人々が追って来た。前には巡査が立っている。敵に前後を挟まれた重太郎は、先まず当面の邪魔を攘はらうに如しかずと思ったのであろう、刃物を揮ふるって巡査に突いて蒐かかった。巡査は体たいを替かわして其利腕そのききうでを掴んだが、降積ふりつむ雪に靴を滑らせて、二人は折重おりかさなって倒れた。

忠一は駈け寄って其襟髪そのえりがみを取ろうとしたが、此この場合、身体の小さいと云うことが重太郎に取っては非常の利益であった。彼は早くも忠一の足の下を潜くぐって這い抜けた。加之しかも二間けんばかりは四つ這いになって走って、又ひらりと起たち上あがった。犬だか人だか判らぬ。

「賊だ、賊だ。」と、人々は口々に叫びながら追った。

この騒ぎを聞付ききつけて、町の家々でも雨戸を明けた。「賊だ、賊だ。」と叫ぶ声が甲それから乙それへと伝えられた。重太郎は哀れや逃場にげばを失った。それでも彼は猶なお一方の血路けつろを求めて、唯とある人家の屋根へ攀登よじのぼった。茅葺かやぶき、板葺こけら、瓦葺かわらぶきの嫌いなく、隣から隣へと屋根を伝って、彼は駅尽頭しゅくはずれの方へ逃げて行った。

追手おっては漸次しだいに人数にんずを増して、前から後うしろから雪を丸めて投げた。此この雪礫ゆきつぶてを防ぐ手段として、重太郎も屋根から石を投げた。雪国の習ならいとして、板屋根には沢山の石が載せてあるので、彼は手当てあたり次第に取って投げた。石の礫つぶてと雪の礫とが上下うえしたから乱れて飛んだ。

而しかも敵は益々殖ふえるばかりである。何処いずこも同じ彌次馬やじうまが四方から集あつまって来て、警官や忠一等に声援を与えた。其中そのうちに長い梯子はしごを持出もちだして来る者もあった。塚田巡査は靴を脱いで屋根に登った。二三人の消防夫も続いて登った。斯こう肉薄して来られては堪たまらぬ。重太郎も流石さすがに根負こんまけがして、遂に屋根から飛び降りた。但ただし往来の方へ出るのを避けて、彼は裏手の方かたへ飛んだ。

(五十八)

重太郎の飛び降りたのは、美濃屋みのやという雑穀屋ざっこくやの裏口であった。追手おっての一組ひとくみは早くも駅尽頭しゅくはずれの出口を扼やくして、他たの一組は直ただちに美濃屋に向った。ここらの町家まちやは裏手に庭や空地あきちを有もっているのが習ならいであるから、巡査等は同家どうけに踏込ふみこんで先まず裏庭を穿索せんさくした。が、縁の下にも庭の隅にも重太郎の姿は見えなかった。

見えないのも道理で、重太郎はここへ飛び降りると、直すぐに垣根を乗越のりこえて、隣から隣へと四五軒も逃げた。折から烈しく降る雪は、彼の小さい足跡を直ただちに埋うずめ消して、人には鳥渡ちょっと判らぬのであった。

「この雪の降るのに何を騒いでいるんだろうねえ。」

お葉は独語ひとりごとを云いながら裏庭の雨戸を明けた。柳屋の客も女も、この騒ぎを聞附ききつけて、何いずれも表へ見物に出たが、お葉は「何の、詰つまらない。」と云う風で、先刻さっきから一人残っていたのである。彼女かれは大分酔っていた。

雪風ゆきかぜに熱い頬を吹かせながら、お葉は快いい心地こころもちに庭前にわさきを眺めていると、松の樹の下に何だか白い物の蹲踞しゃがんでいるのを不図ふと見付けた。どうやら人のようである。

「誰だい。そこにいるのは……。」と、お葉は試みに声をかけた。

声の主ぬしを早くも其それと知ったのであろう、白い物は勃々むくむくと起き上あがって、縁の前さきへ忍んで来た。障子を洩もるる燈火ともしびの光に透すかして視みると、それは雪だらけの重太郎であった。先刻さっきからの格闘たたかいで疲れたと見えて、流石さすがの彼も切なそうに肩で息をしていた。

「まあ、重じゅうさん。」

お葉も少しく意外に驚いて、霎時しばらく其その顔を眺めていた。雪は小歇おやみなく降っていた。

「燐寸まっちを呉くれないか。」と、重太郎は低い声で云った。

「燐寸が欲ほしいの。そんなものは幾許いくらでも上げるけれども、一体どうして今頃こんな所へ来たのさ。」

「仇かたきを討ちに行ったんだ。」

「何処どこへ……。」

「角川の家うちへ……。」

お葉は愈いよいよ驚いて、縁から半身はんしん乗出のりだした。

「それで何どうしたの。仇を討ったの。」

重太郎は口惜くやしそうに頭かしらを掉ふった。

「角川の息子を殺して与やろうと思って行ったんだけれども、見付かったんで無効だめだった。それから大勢に追掛おっかけられて、やッと此処ここまで逃げて来たんだ。」

「じゃア、今の騒さわぎはお前さんだね。だが、角川の若旦那を何故殺そうとしたの。」

「阿母おっかさんの仇だ。」

「どうして……。」

「先刻さっき、お前が然そう云ったのを聞いていた。俺おらが表に立っていると、お前が人に話していたんだ。」

お葉は又驚いた。自分の口から斯こんな騒ぎが出来しゅったいしたとは、今の今まで些ちっとも知らなかったのである。

「そりゃア間違いだよ。お前さんの鑑違かんちがいだよ。成なるほど、妾あたしは然そう云ったけれども、若旦那が手を下おろしてお前の阿母おっかさんを殺したんじゃアない。お前の阿母さんが背後うしろから不意に突こうとするのを、若旦那が気が注ついて急に避よけたもんだから、阿母さんは自分で踉蹌よろけて墜落おっこちたんだよ。究竟つまり、お前の阿母さんの方が悪いんだよ。ね、考えて御覧ごらん。」

考えて見ろと云われて、重太郎は素直に考えていた。

「一体を云えば、お前さん達の方が仇なんだよ。角川の大旦那を殺したのは誰だえ。お前の阿母おっかさんや𤢖わろだろう。それだから、若旦那の方こそお前さん達を怨うらんでも可いいのに、お前さんの方で反対あべこべに若旦那を怨むなんて、早く云えば外道げどうの逆恨さかうらみで、理屈が全然まるで間違っているんだよ。ね、然そうだろう。能よく考えて御覧。」

再び考えろと云われて、重太郎は又考えた。いかに野育のそだちの彼でも多少の理屈は呑込のみこめるのである。加之しかも是これはお葉の説教である。復讐に凝固こりかたまった彼の頭脳あたまの氷も、愛の温味あたたかみで少しく融とけ初そめて来たらしい。

「そうかなあ。」と、彼は嘆息ためいきを吐ついた。

「そうさ。解ったろう。」

重太郎は黙って又考えていた。表でも裏でも大勢のわやわや云う声が聞えた。

(五十九)

曩さきの日、椿の枝を折って別れてから、お葉は重太郎を憎んで居なかった。怨うらむまじき人を怨んだのは、彼の料見違りょうけんちがいには相違ないが、人並ならぬ彼に対むかって深く之これを責むるのは無理である。兎とにかく市郎の身に恙つつがなかったのは何よりの幸福さいわいであったと、お葉は安堵の胸を撫下なでおろすと同時に、我が眼前めのまえに雪を浴びて、狗児いぬころのように跼うずくまっている重太郎を哀れに思った。

「何しろ、此方こっちへお出いでよ。」

お葉は重太郎の手を取って、縁えんに腰を掛けさせた。

「可いいよ。追手おっての人が来たら隠して上げるから、安心してお在いで。お前さん、寒かアないかい。」

お葉は座敷へ復かえって、徳利とくりと洋盃こっぷとを持って来た。

「お燗かんが熱過つきすぎているかも知れないが、一杯お飲みよ。温暖あったかになるから……。」

「こりゃア何だ。」

「お酒だよ。飲んで御覧ごらん。妾あたしのお酌しゃくですよ。」

重太郎はお葉の酌で、満々なみなみと注つがれたる洋盃を取った。が、生れてから今日こんにちまで酒と云うものの味を知らぬ彼は、熱い酒を飲むに堪たえなかった。彼は一口飲んで忽たちまち噎むせ返った。

「熱いの。」と、お葉は微笑ほほえんだ。重太郎は顔を皺しかめて首肯うなずいた。

お葉は更に起たって縁先えんさきに出た。左の手には懐紙ふところがみを拡げて、右の腕かいなも露出あらわに松の下枝したえだを払うと、枝も撓たわわに積つもった雪の塊は、綿を丸めたようにほろほろと落ちて砕けた。其その白い一片ひとかけを紙に受けて、「さあ、これで温うめて上げるよ。」

冷つめたい雪はお葉の白い手から洋盃に移された。重太郎は無言で雪と酒とを一所いっしょに飲んだ。が、口に馴れぬ酒は矢やはり苦にがいと見えて、彼は二口ふたくちばかり飲んで洋盃を置いた。

「旨うまくないの。これを飲むと温暖あったかになるんだけれども……。」と、お葉は笑った、「じゃア、妾あたしが助すけて上げますよ。」

お葉は其その洋盃を取って、一息に喁ぐっと飲み干した。重太郎は眼を丸くして眺めていたが、やがて懐中ふところから椿の折枝おりえだを把出とりだして見せた。いかに大切にしていても、過日このあいだから水も与やらずに我肌わがはだに着けていたのであるから、蕾つぼみは已すでに落ち尽つくした、葉も已に枯れ尽して、枝も已に折れていた。恋しい人の形見と思えばこそ、花も葉もない斯こんな枯枝を、彼は幾多の不便を忍んで今まで身に添えていたのであろう。

「お前さんも可愛い人ねえ。」

お葉の眼には涙が見えたが、衝つと起たって再び座敷へ復かえった。床とこの花瓶はないけには彼かの椿が生けてあって、手入ていれの好いい所為せいでもあろう、紅い花は已に二輪ほど大きく綻ほころびていた。彼女かれは其その枝を持って出た。

「これ、御覧ごらん。お前さんに貰った花は、妾あたしの方でも大事にして、此この通りに花を咲かしてあるよ。」

重太郎は手に取って、紅い花をつくづく眺めた。彼は自分の魂魄たましいが此この花に宿って、お葉の温かき情なさけを受けているようにも思った。

「どうだい、よく咲いたろう。」

「むむ。」と、重太郎も笑えましげに答えて、猶なおも飽かずに其その花を眺めていたが、「ねえ、此この花を一つ呉くれないか。」

「ああ、欲ほしければ上げますよ。丁度ちょうど二輪咲いてるから、お前さんと妾あたしとで一個ひとつずつ分けようじゃアないか。」

二輪の花を折って縁側に列ならべると、重太郎は其その一個ひとつを取った。

「紙に包んで上げよう。」

お葉は白い紙に紅い花を軽く包んで渡すと、重太郎は菓子を貰った小児こどものように、莞爾にこにこしながら懐中ふところに収めた。

「お前さん、これから何どうするの。」

「宝物を持出もちだして何処どこかへ行くんだ。」

「宝物ッて、金の兜かぶとじゃア無いの。」

「むむ、何でも其そんなものだ。」

「そりゃア既もう駄目。警察の方で引揚ひきあげて了しまったと云うことよ。」

「そうかい。」

重太郎も驚いて声を揚げた。其その声が度外どはずれに高いので、お葉は慌てて四辺あたりを顧みかえった。

(六十)

母に別れ、棲家すみかを失った今の重太郎に取って、唯一の依頼たのみというのは彼かの尊とうとき宝であった。それを手に入れたいばかりで、彼は厳重なる警官の眼を潜くぐりつつ、今日きょうまで此この辺あたりを漂泊さまよっていたのである。而しかも其その希望のぞみの光は今や消えた。

「俺おらア矢やッ張ぱり乞食をするより他ほかは無いんだなあ。」と、彼は泣かぬばかりに嘆息した。実際、彼は泣くにも泣かれぬ絶望の淵に沈んだのである。

「ほんとうに可哀そうだねえ。」と、お葉も共に嘆息した。親戚みよりも無し、職業しょうばいも無し、金も無い此この人が、これから他国を彷徨うろついて、末は何どうなることであろう。何時いつまでも乞食をしているより他ほかはあるまい。いや、其その乞食すらも満足に能できるか何どうだか解ったものでは無い。斯こうなると、人間よりも犬の方が寧いっそ優ましである。お葉は犬にも劣った重太郎の不幸に泣いた。

が、二人は何時いつまでも泣いている場合でなかった。追手おっては美濃屋の庭を探し尽つくして、更に両隣を猟あさり始めた。人の声が漸次しだいに近ちかづいた。警官の角燈かくとうが雪に映じて閃いた。

「あ、此方こっちへ来たよ。」

お葉が眼を拭ふいて起たち上あがると、重太郎も無言で起たった。雪を踏む大勢の跫音あしおとが隣に近ちかづいて来た。

危険が漸ようやく迫ると知って、重太郎の眼は俄にわかに嶮けわしくなった。彼は例の野性を再び発揮したのであろう、洋刃ないふを逆手さかてに持って庭の真中まんなかに進み出た。

「其方そっちへ行っちゃア危ない。此方こっちから窃そっと出る方が可いい。」

お葉は素足で雪を踏んで、庭口の裏木戸を音おとせぬように明けると、重太郎は何にも云わずに走って出た。何を思い出したか、お葉は急に「あ、鳥渡ちょいと……。」と呼び止めたが、重太郎は見返りもせずに駈けて行った。

たとい乞食をするにしても、土方どかたをするにしても、之これから他ほか土地へ行こうと云うには、多少の路銀ろぎんが無くてはならぬ。咄嗟とっさの間あいだにお葉は之これを思い出したのであった。

彼女かれは慌てて又もや座敷へ引返ひっかえして、先まず有合ありあう燐寸まっちを我袂わがたもとに入れた。更に見廻すと、床とこの間まの傍わきには客の紙入かみいれが遺してあって、人はまだ誰も帰って来なかった。お葉は其その紙入から札と銀貨を好加減いいかげんに掴み出して、数えもせずに紙に包くるんだ。之これを懐中ふところに押込おしこんで、彼女かれも裏木戸から駈け出した。

この時、塚田巡査を先に四五人の追手おってが裏口へ廻って来た。素足で雪の中を駈けて行くお葉の姿を不思議と見たのであろう、巡査は角燈かくとうを翳かざして呼び止めたが、お葉は聞かぬ振ふりをして駈抜かけぬけて了しまった。

「変な奴ですな。」と、忠一が云った。

「あれは此この家うちのお葉という女ですが……。」と、云いながら巡査も考えた。不徳要領ふとくようりょうの為に一旦は釈放したものの、お葉は𤢖わろ一件に就ついて何等かの関係ありげにも見ゆる女である。それが今この場合に雪中を跣足はだしで駈歩かけあるくのは、何か仔細があるらしくも思われるので、巡査も職掌柄、直すぐに其その跡を追って行った。

夜の雪はますます烈しくなって来た。風も亦また吹き募つのって来た。天から降る雪と地に敷く雪とが一つになって、真白まっしろな大浪おおなみ小波こなみが到る処に渦を巻いて狂った。其その凄じい吹雪ふぶきの中を、お葉は傘も挿ささずに夢中で駈けた。

「重じゅうさん……。重太郎さん……。」

声は吹雪に隔へだてられて聞えないので、重太郎の小さい姿は十間けんばかりの先に見えつ隠れつしながらも、お葉は容易に追い止めることが能できなかった。加之しかも風の吹き廻しで、声は却って後あとの方へ響くので、巡査は彼女かれが重太郎を呼ぶ声を聞いた。忠一の耳にもお葉の声が聞えた。重太郎の名を聞いては愈いよいよ捨置すておかれぬ、巡査も人々も続いて其その跡を追った。が、何分にも眼口めくちを撲うつ雪が烈しいので、人々は火事場の烟けむりに噎むせたように、殆ど東西の方角が付かなくなって来た。

この中でも、お葉は例の本性を発揮して、飽あくまでも強情に吹雪を衝ついて進んだ。駅しゅくを出ると風も雪も愈いよいよ強くなって来た。山国の冬に馴れたる彼女かれは、泳ぐように雪を掻いて歩んだ。が、心は矢竹やたけに遄はやっても彼女かれは矢やはり女である。村境むらざかいまで来る中うちに、遂に重太郎の姿を見失ったのみか、我も大浪おおなみのような雪風ゆきかぜに吹き遣やられて、唯とある茅葺かやぶき屋根の軒下に蹉つまずき倒れた。雪は彼女かれの上に容赦なく降積ふりつんで、さながら越路こしじの昔話に聞く雪女郎ゆきじょろうのような体ていになった。

この茅葺かやぶきは隣に遠い一軒家であった。加之しかも空屋あきやと見えて、内は真の闇、鎮しずまり返って物の音おとも聞えなかった。

(六十一)

お葉は雪を払いつつ又起き上あがった。酒の酔よいも全く醒めて了しまった。

彼女かれも流石さすがに狂人きちがいではない。此この吹雪ふぶきの中を的途あてども無しに駈け歩いたとて、重太郎の行方は知れそうも無いのに、何時いつまで彷徨うろついているのも馬鹿馬鹿しいと思った。

「もう諦めて帰ろうか。」

それにしても生憎あやにくに雪が酷い。兎とも角かくも一時を凌しのぐ為に、彼女かれは此この空屋あきやの戸を明けようとすると、半なかば朽くちたる雨戸は折柄おりからの風に煽られて礑はたと倒れた。お葉は転げるように内へ入った。

「おお、寒い。」と、彼女かれは肩を縮すくめつつ四辺あたりを見廻すと、暗い家いえの中には何物も無かった。更に雪明ゆきあかりで透すかして視みると、土間の隅には二三枚の荒莚あらむしろが積み重ねてあったので、お葉は之これを持出もちだして先まず框かまちの上に敷いた。腰を卸おろして扨さてほッと息を吐つくと、彼女かれは今更のように骨に沁しむ寒気さむさを感じた。

何か焚火でもする材料は無いかと、お葉は急に我が袂たもとを探ると、重太郎に与やろうと思って折角せっかく持って来た燐寸まっちは、何時いつの間にか振落ふりおとして了しまった。仕方がないと舌打したうちしながら、倒れた戸の間あいだから表を覗いて見ると、風も雪もますます暴あれて来た。こんな所に何時いつまでも躊躇ぐずぐずしていたら、凍こごえて死んで了しまうかも知れぬ。夜の更けぬ間まに些ちっとも早く帰った方が怜悧りこうだと、お葉は鬢びんの雪を払いつつ、弛ゆるんだ帯を締直しめなおして起たった。

この時、がさがさと雪を踏む跫音あしおとが聞えて、何者か此この門口かどぐちへ走り寄ったらしい。若もしや重太郎か、但ただしは追手おっての者かと、お葉は眼を据えて透すかし視みる間ひまに、人か猿か判らぬような者が雪を蹴ってちょこちょこと飛び込んで来た。加之しかも其それは二人ふたりであった。と思うと、後あとから又一人入って来た。後の一人は色の白い女を抱えているらしい。

「おや、何だろう。」

お葉も不思議に思った。暗い隅の方へ身を退ひいて、霎時しばらく其その様子を窺っていると、新しく入って来た三人は一種奇怪な声を出してキキと笑った。其その声は確たしかに記憶おぼえがある。曩さきの日彼かの虎ヶ窟で聞いた山𤢖やまわろの叫び声であった。𤢖は此この雪の夜に、何処どこからか若い女を攫さらって来たのであろう。お葉は愈いよいよ驚き怪あやしんで、猶なおも窃ひそかに其その成行なりゆきを窺っていた。

家の中は何分なにぶんにも暗いので、お葉は女の顔を能よく見ることが能できなかったが、若もし其その顔を知ったらば彼女かれは更に驚いたに相違ない。今や𤢖に攫さらわれて来た若い女は、彼かの吉岡の冬子であった。𤢖は何故なにゆえに冬子を奪い出して来たのであろう。彼等の料見は到底普通の人間の想像し得うべき限かぎりでないが、兎とにかく或ある罪悪を犯すべき犠牲いけにえとして、若い処女しょじょを担ぎ出して来たものと察せられた。冬子は口に桃色の手巾はんかちーふを捻込ねじこまれているので、泣くにも叫ぶにも声を立てられなかった。

我が恋の仇かたきとも云うべき冬子が斯かかる危難に陥っていると知ったら、お葉は此際このさい何どんな処置を取ったであろう。が、表より洩もるる朧おぼろの雪明ゆきあかりでは、お葉に其それと判然はっきり解らなかった。彼女かれは単に𤢖の餌食えじきとなるべき若い女の不幸を憫あわれんで、何とかして之これを拯すくって与やりたいと思ったのである。而しかも対手あいては𤢖三人で、此方こっちは女一人、迂濶うっかり加勢に飛び出したら自分も何どんな酷い目に遭うかも知れぬ。お葉は息を殺して猶なおも窺っていると、彼等は頻しきりにキキと笑いながら冬子を彼かの荒莚あらむしろの上に投げ出した。

冬子も一生懸命である。裳もすそを乱して一旦は倒れたが又忽たちまち跳はね起きて、脱兎だっとの如くに表へ逃げ出そうとするのを、𤢖は飛び蒐かかって又引据ひきすえた。お葉も既もう見ては居いられぬ。さりとて何等の武器をも持たぬ彼女かれは、咄嗟とっさの間あいだに思案を定めて、頭に挿さしている銀の簪かんざしを抜き取った。

目前の獲物に気を奪われていた𤢖共は、暗い中から突然跳おどり出たお葉の姿に驚く間ひまもなく、彼女かれが逆手さかてに持ったる簪の尖端とがりは、冬子に最も近き一人いちにんの左の眼に突き立った。不意と云い、急所と云い、彼は猿のような悲鳴を揚げて倒れた。

「𤢖の畜生ちきしょうめ。何を為しやアがるんだ。早く何処どっかへ行って了しまえ。」と、お葉は勝誇かちほこって叫んだ。思いも寄らぬ救援すくいの手を得た冬子は、鞠まりのように転がってお葉の背後うしろに隠れた。

けれども、敵はまだ二人ににんを剰あましている。加之しかも一人いちにんの味方を傷きずつけられた彼等は、瞋いかって哮たけってお葉に突進して来た。洋刃ないふと小刀こがたなは彼女かれの眼前めさきに閃いた。冬子も恩人の危険を見ては居いられぬ、這いながら一人いちにんの足に絡み付くと、𤢖は鉄のような爪先で強く蹴放けはなしたので、彼女かれは脾腹ひはらを傷いためたのであろう、一旦は気を失って倒れた。𤢖は左右からお葉に迫った。

「畜生ちきしょう……畜生……。」と、お葉は罵ののしりながら逃げ廻った。

(六十二)

追手おっての人々も同おなじく村境むらざかいまで走って来たが、折柄おりからの烈しい吹雪ふぶきに隔へだてられて、互たがいに離れ離れになって了しまった。其中そのなかでも忠一は勇気を鼓こして直驀地まっしぐらに駈けた。が、咫尺しせきも弁ぜざる冥濛めいもうの雪には彼も少しく辟易へきえきして、逃にぐるとも無しに彼かの空屋あきやの軒前のきさきへ転げ込んだ。

雪明ゆきあかりと一口に云うものの、白い雪も斯こう一面に烈しく降って来ては雨と変らぬまでに天地は暗いのである。況まして鎖とざされたる家いえの内は殆ど真の闇であったが、彼は危あやうくも吹き倒されんとする雪風ゆきかぜを凌しのぐ為に、兎とも角かくも一歩踏み込もうとする途端に、内には怪しい唸声うなりごえが断続きれぎれに聞えた。

彼は俄にわかに立止たちどまって声する方かたを透すかし視みたが、生憎あやにくに暗いので正体は判らぬ。更に耳を澄すまして窺うと、声は一人ひとりでない、尠すくなくも二人ふたり以上の人が倒れて苦くるしんでいるらしい。扨さてはここにも何か椿事ちんじが起おこっているに相違ないと、忠一も驚いて身構えしたが、燐寸まっちを持たぬ彼は暗やみを照てらすべき便宜よすがもないので、抜足ぬきあししながら徐々そろそろと探り寄ると、彼は忽たちまち或物あるものに蹉つまずいた。跪ひざまずいて探って見ると、之これは女らしい、長い髪を乱して土に曳ひいて、其その頬から喉のどの辺あたりには生温なまあたたかい血が流れていた。

忠一も一旦は悸然ぎょっとしたが、猶なお其その様子を見届ける為に、倒れたる女を抱え起おこして、比較的薄明るい門口かどぐちへ連れ出して見ると、正まさしく女には相違ないが、もう息は絶えていた。

「これは一体何者だろう。」

彼は猶なお能よく其その顔を見届けようと、朧おぼろの雪明ゆきあかりを便宜たよりに凝じっと見詰めている時、忽たちまち我が背後うしろに方あたって物の気息けはいを聴いたので、忠一は驚いて屹きっと顧みかえると、物の音おとは又止やんだ。雪風ゆきかぜはいよいよ吹き募つのって、此この一軒家は大地震おおじしんのようにめりめりと揺ゆらいだ。

内には此この女の他ほかにも未まだ何者か倒れて居る筈であるから、忠一は再び探りながら入った。が、不意に何どんな敵が襲って来ぬとも限らぬので、彼は大いに用心して、土間に身を伏して這いながら進んだ。微かすかな唸声うなりごえが左の隅に聞えたので、彼は其方そのほうへ探って行くと、一枚の荒莚あらむしろが手に触れた。莚を跳退はねのけて進もうとすると、何者か其その莚の端はしを固く掴んでいるらしい。更に探って見ると、果はたして此処ここにも人らしい者が拳を握って倒れていた。

と思う途端に、又もや背後うしろに物音が聞えた。暗い中から猿のような者が刃物を閃かして来て、忠一の頸くびを刺そうとするのであった。はッと驚くと同時に、彼は幸いに這っていたので、矢庭やにわに敵の片足を取って引いて、倒れる所を乗掛のりかかって先まず其その胸の上に片膝突いた。

「貴様は何者だッ。」

敵は何とも答えずに、力の限り跳返はねかえそうと悶もがいたが、柔道を心得たる忠一は急所を押えて放さぬので、敵は倒れながらに刃物を打振うちふって、下から忠一の喉のどを突こうと企てた。が、右の腕も緊しかと掴まれたので自由が利きかぬ。敵は獣のような奇怪な声を絞って、頻しきりに唸うなった。

「さあ、どうだ、降参しろ。」

忠一は左に敵の腕を押えて、右の手で敵の喉輪のどわを責めた。敵は苦しそうに唸って悶もがいていたが、もう叶かなわぬと覚悟したのであろう、一生懸命に跳返はねかえすと同時に、右の手に握ったる刃物を左に持換もちかえて、我と我が胸を力任せに抉えぐると、鮮血なまちは颯さっと迸ほとばしって、上なる忠一の半面はんめんを朱あけに染めた。腥なまぐさい血汐に眼鼻めはなを撲うたれて、思わず押えた手を弛ゆるめると、敵の亡骸むくろはがっくりと倒れた。

目前の敵を殪たおし得た忠一は、先まずほッと一息吐つくと共に、俄にわかに渇かわきを覚えたので、顔に浴びたる血の飛沫しぶきを拭ぬぐいもあえず、軒の外へひらりと駈け出して、吹溜ふきだまりの雪を手一杯に掬すくって飲んだ。風は相変らず轟々ごうごうと吼ほえて、灰とも烟けむりとも譬たとえようの無い粉雪こゆきが、あなたの山の方から縦横上下じゅうおうじょうげに乱れて吹き寄せた。

その雪烟ゆきけむりの中に迷うが如き火の光が一点ひとつ、見えつ隠れつ近寄って来たので、忠一は思わず声をあげて呼んだ。

「おうい、おうい。」

火の光は漸次しだいに近ちかづいた。それは全身に雪を浴びたる塚田巡査の角燈かくとうであった。

「やあ。」

「やあ。」

双方が顔を見合みあわせて叫んだ。

「あなたはお早い。既もうここへ来ていたのですか。」と、巡査は雪を払いながら軒下に立った。

「まあ、早く燈火あかりを見せて下さい。ここに大勢の人間が倒れているらしいんです。」

巡査は角燈を翳かざして内へ入った。

(六十三)

今や角燈かくとうの火に照てらし出いだされたる、此この暗い空屋あきやの内の光景は惨憺さんたん、実に眼も当てられぬものであった。先まず入口に黒髪を振乱ふりみだして横よこたわっているのは彼かのお葉で、彼女かれは胸や肩や喉のどに数すヶ所の重傷を負っていた。続いて眼に触れたのは醜怪なる𤢖わろ三人の屍体で、一人いちにんは眼を貫つらぬかれた上に更に胸を貫かれ、一人は脳天を深く刺さされて、荒莚あらむしろの片端を握つかんだまま仰反のけぞっていた。最後の一人は左の手に小刀こがたなを持って、我と我が胸に突き立てていた。

以上四人の浅ましさ屍体の他ほかに、朱あけに染そみたる重太郎も亦また倒れていたのは意外であった。其その傍かたわらには、彼の運命を象徴するような紅い椿の花が、地に落ちて砕けていた。

「もう是これだけかな。」

巡査は更に四辺あたりを見廻すと、鮮血なまちの臭においの漲みなぎる家の隅に、猶なお一人いちにんの若い女が倒れていた。これが最も忠一を驚かしたのであったが、冬子は単に気を失った丈だけのことで、身には別に負傷の痕も無かったので、手当てあての後のちに息を吹返ふきかえした。

飛騨の山国の風雪ふうせつの夕ゆうべ、この一軒家に於て稀有けうの悲劇を演じたる俳優やくしゃの中うちで、僅わずかに生残いきのこっているのは幸運の冬子一人いちにんに過ぎぬ。随したがって委くわしい事情は何人なんぴとも知るに由よしない。単に冬子の口供こうきょうを基礎どだいとして、其余そのよは好加減いいかげんの想像を附加つけくわえるだけの事である。

で、諸人しょにんの説は先まず斯こういうことに一致した。虎ヶ窟に棲める𤢖の眷族けんぞくは、其数そのかず果はたして幾人であるか判らぬが、曩さきの日彼かの市郎の為に其その女性の一人いちにんを亡うしなったのは事実である。其後そのご彼等は警官に逐おわれて山深く逃げ籠こもったが、食物は兎ともあれ、女性の缺乏けつぼうということが彼等の間あいだに一種の不足を感じたらしい。そこで彼等三人は此この大雪に乗じて里に降くだり、何処どこからか女を攫さらって行こうと試みた。之これに魅みこまれたのが彼かの冬子で、彼等は吉岡家へ忍び寄って窺う中うちに、便所へ通かよった冬子は手を洗うべく雨戸を明けたので、彼等は矢庭やにわに飛び蒐かかって彼女かれを捉えた。猶なお其袂そのたもとから手巾はんかちーふを取出とりだして、声立てさせじと口に喰はませた。斯かくして冬子は、彼かの空屋あきやまで手取てどり足取あしどりに担ぎ去られたのであった。

空屋には偶然にも彼かのお葉が居合いあわせて、彼女かれは冬子を拯すくわんとして𤢖と闘った。そこまでの事は冬子も知っているが、気を失って倒れた後のちの出来事は些ちっとも判らぬ。又何どうして此処ここへ重太郎が引返ひっかえして来たか判らぬ。恐おそらくは烈しい吹雪に途みちを失って、再びここまで迷って来ると、恰あたかもお葉が𤢖に殺されんとする所に会ったので、彼は又お葉を拯すくわんとして闘った。其その結果、お葉も討たれ、重太郎も討たれた。𤢖二人ににんも枕を駢ならべて死んだ。究竟つまり双方が相撃あいうちとなった処へ、忠一が後あとから又来合きあわせて、残る一人いちにんの𤢖も自殺を遂げるような事になったのであろう。

但ただし是これは一種の想像に過ぎぬ。この以外にも彼等の間あいだに何どんな秘密の糸が繋つながれているかも知れぬ。普通の世間の出来事にも、人間の浅い智慧ちえでは想像や判断の付かぬことは幾許いくらも有る。況まして𤢖やお杉や重太郎等の関係に至っては、尋常一様じんじょういちようの理屈を以て推断することは能できまい。

これで何百年来この山国を閙さわがした𤢖の眷族けんぞくも、果はたして全滅したであろうか。或あるいは猶なお其余類そのよるいが山奥に潜ひそんでいるであろうか。それは何人なんぴとも返答こたえに苦くるしむ所であるが、兎とにかく此この物語はお葉と重太郎の最期を一段落として、読者と別離わかれを告げねばならぬ。

大雪は其後そのご幾日も降続ふりつづいて、町も村も皆埋うずめられた。悲劇の舞台たりし彼かの一軒家は、三日目の夕暮に遂に潰されて了しまった。

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市郎と冬子の結婚は、安行死去の為に来年まで延期されたので、忠一は一先ひとまず東京へ帰った。それから半月ほど経って後のち、彼は市郎の許もとへ長い手紙を遣よこした。𤢖に対する調査の報告書である。地方の各新聞は市郎に懇願して、何いずれも其その記事を紙上に連載した。

原文は頗すこぶる長いものであるが、大略先まず斯こういう事であった。

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今から六百余年前ぜんの弘安年中こうあんねんじゅうに、元げんの蒙古もうこの大軍だいぐんが我が九州に襲って来た。北條時宗邀むかえ撃って大いに之これを敗やぶったことは、凡およそ歴史を知るほどの人は所謂いわゆる「元寇げんこうの役えき」として、誰たれも諳そらんじている所である。

この大戦たいせんに参加したのは九州の諸大名ばかりでない。鎌倉からも出征した、東海東山とうさん中国からも出征した。其その当時、飛騨国ひだのくにの地頭職じとうしょくは藤原姓を冒おかす飛騨判官朝高ひだのほうがんともたかという武将で、彼も蒙古退治の注進状ちゅうしんじょうに署名したる一人いちにんであった。

(六十四)

朝高は異国の敵を撃破うちやぶって帰った。彼は凱陣がいじんの家土産いえづととして百人の捕虜を牽ひいて来た。飛騨の国人くにびとは驚異の眼を以て、風俗言語の全く異ことなれる蒙古の兵者つわものを迎えた。

彼が捕虜を牽ひいて来たのは、単に其功名そのこうみょうを誇るが為では無かった。九州の戦闘たたかいに於て、最後の大勝利は幸いに我に帰きしたけれども、初度しょどの戦闘たたかいは屡々しばしば我に不利益であった。敵の礮いしびやと我の弓矢とは、其その威力に於て著いちじるしい相違があった。朝高は早くも之これを看取かんしゅして、我も彼と等しき巨砲を作ろうと思い立ったのである。が、其その製法を知る者は日本に無いので、彼は居城高山たかやまを距さる一里いちりの処へ新あらたに捕虜収容所を設けて、ここに百人の蒙古兵を養い、彼等に命じて異国の礮を作らせようと企てた。

斯この時代に於て斯この着眼は頗すこぶる聡明であると云わねばならぬ。が、彼の企画くわだては不幸にも失敗に終った。主将の意思は必ずしも然そうでは無かったのであろうが、敵を愛することを知らぬ部下の者共は、此この異国の捕虜に対して甚はなはだしき侮辱と虐待を加えたので、彼等は甘あまんじて仕事に着かなかった。監督の武士と捕虜との間に日々にちにち衝突が絶えなかった。朝高も終局しまいには疳癪かんしゃくを起おこして、彼等を悉ことごとく斬れと命じた。

これが捕虜の間あいだにも洩もれたと見えて、百人の蒙古兵は風雨の夜に乗じて逃走を企てた。番兵が追掛おっかけて其その幾人を捕え、其その幾人を殺したが、余よの七八十人は山を越えて何処いずこへか姿を隠して了しまった。飛騨は名に負う山国であるから、山又山の奥深く逃げ籠こもった以上は、容易に狩出かりだすことも能できないので、余儀よぎなく其儘そのままに捨置すておいた。

斯かくて一年ばかりも過ぎると、或夜あるよ何者か城内へ忍び入って、朝高が家重代いえじゅうだいの宝物ほうもつたる金の兜かぶとを盗み去ったのである。無論、其その詮議は極めて厳重なものであったが、其その犯人は遂に見当らなかった。或あるいは曩さきに逃走したる蒙古兵が、一種の復讐手段として斯かかる悪事を働いたのではあるまいかと云う噂もあったが、確たしかな証拠も無くて終った。兜の行方は遂に不明であった。

朝高の家は三代で亡ほろびた。其後そのご幾多の変遷を経て、豊臣氏時代から徳川氏初年までは金森かなもり氏ここを領していたが、金森氏が罪を獲えてから更に徳川幕府の直轄ちょっかつとなって、所謂いわゆる代官支配地として明治まで引続ひきつづいて来たのである。で、此この土地の人が𤢖わろの名を唱え初めたのは、何時いつの頃からか判然せぬが、古い昔には其そんな噂も聞かず、そんな記録も残っていないのを見ると、恐おそらく前に記した蒙古一件以後の事ではあるまいか。他たに新しい発見がない限りは、先まず彼かの𤢖を以て蒙古人の子孫と見るのが正当の解釈であろう。

彼等は収容所を逃れ出いでて深山の奥に隠れた。で、彼かのピジョン講師の説明した如く、人の目を避けて穴の中に世を送っていたのであろう。最初はじめは遠い山奥に棲んでいたので、他たの人間社会と接触する機会も尠すくなかったが、生活上の都合で漸次しだいに山奥から降くだって来て、比較的に里へ近い虎ヶ窟に移り棲むようになったのではあるまいか。里人が此この窟に対して、日本に無い虎という獣の名を冠かぶせたのも、何やら蒙古に関係があるらしくも思われる。里へ近ちかづくに随したがって、彼等は折々に人間に出逢うことが有る。又必要に迫られて、人家の食物を奪い、婦女小児しょうにを奪うことが有る。人が𤢖の名を口にするに至ったのは多分此この以後の事であろう。元来野蛮の蒙古人が山奥に棲むこと多年たねん、其そのますます蛮化したのは怪あやしむに足らぬ。

彼等の種族が漸次しだいに減って行くのも亦また当然の結果である。而しかも猶なお連綿として六百余年の𤢖生活を継続し来きたったのは、彼等が折々に里を荒して、婦女を奪い小児しょうにを攫さらって行くが為に、辛くも子孫断絶を免まぬかれ得たものと察せられる。唯ただ、いかに彼等が蛮化したとは云え、僅わずかに五六百年の深山生活に因よって、猿か人か判らぬまでに甚はなはだしく退化するや否やと云うことは、少しく疑問に属するのであるが、先まず右の如くに解釈するより他ほかはあるまい。

窟の内に彫ってあった文字もんじは正まさしく蒙古の字で、自分等は元げんの民たみであるが捕われて此この国に来きたった。日本の大将が残酷に取扱とりあつかうので、同盟して此この山中に隠れたと云う意味を記し、最後に数十人の姓名が連署してあった。金の兜も果はたして彼等が盗み出したのであった。

之これに因よれば、蒙古人が此この窟に棲んでいたと云うことは已すでに疑いもなき事実である。が、蒙古人即ち𤢖わろであるか。蒙古人は疾とくに死絶しにたえて、更に他たの𤢖なる者が代かわって棲むようになったのか。そこには未まだ幾分の疑いが無いでもない。併しかし岩穴の中で発見された多数の骨が、最初はじめは普通人以上の骨格を有し、其それが漸次しだいに退化して小児こどものようになっているのを見ると、蒙古人が五六百年の間あいだに著いちじるしく退化して、遂に𤢖となったとも云い得うべき相当の根拠が有る。

是等これらの理由に因よって、吉岡忠一は𤢖を以て蒙古人の子孫と認めた。此この以上の考證は、他たの識者を待つのである。

底本 / Source edition

底本:「飛騨の怪談 新編 綺堂怪奇名作選」メディアファクトリー
2008(平成20)年3月5日初版第1刷発行
2008(平成20)年3月5日初版第1刷発行
初出:「やまと新聞」
1912(大正元)年11月13日~1913(大正2)年1月21日
※「市郎君」と「市朗君」の混在は、底本通りです。
入力:川山隆
校正:江村秀之
2013年8月11日作成
2013年9月18日修正
青空文庫作成ファイル:
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書誌 / Bibliography
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岡本 綺堂「飛騨の怪談」(新字新仮名)、底本『飛騨の怪談 新編 綺堂怪奇名作選』メディアファクトリー、2008年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 049682_000082, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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