Soranoha

申訳

もうしわけ

永井 荷風

昭和二年の雨ばかり降りつづいている九月の末から十月のはじめにかけて、突然僕の身の上に、種類のちがった難問題が二つ一度に差し迫って来た。

難事の一は改造社という書肆が現代文学全集の第二十二編に僕の旧著若干を採録し、九月の十五六日頃に之を販売した。すると編中には二十年前始て博文館から刊行した「あめりか物語」と題するものが収載せられていたので、之がため僕は九月二十九日の朝、突然博文館から配達証明郵便を以て、改造社全集本の配布禁止の履行と併せて、版権侵害に対する賠償金の支払を要求せられることになった。改造社の主人山本さんが僕と博文館との間に立って、日に幾回となく自動車で往復している最中、或日の正午頃に一人の女がふらふらと僕の家へ上り込んで来て、僕の持っている家産の半分を貰いたいと言出した。これが事件の其二である。

博文館なるものはここに説くまでもなく、貴族院議員大橋新太郎という人を頭に戴いて、書籍雑誌類の出版を営業としているものである。ふらふらと僕の家へやって来た女は一時銀座の或カッフェーに働いていた給仕人である。本屋と女給とは職業が大分ちがっているが、しかし事に乗じて人の銭を奪去ろうと企てている事には変りがない。然り而して、こいつァ困った事になりやしたと、面色さながら土の如くになったのは唯是僕一人である。

僕とは何人ぞや。僕は文士である。政治家と相結んで国家的公共の事業を企画し名を売り利を釣る道を知らず、株式相場の上り下りに千金を一攫する術にも晦くらい。僕は文士である。文士は芸術家の中に加えられるものであるが、然し僕はもう老込ふけこんでいるから、金持の後家をだます体力に乏しく、また工面くめんのよい女優のツバメとやらになる情慾もない。金を獲るには蟻が物を運ぶが如く、又点滴の雫が甃石しきいしに穴を穿つが如く根気よく細字を書くより外に道がない。

二の難事はいかに解決するだろう。解決のしかたによっては、僕は家を売り蔵書を市に鬻ひさいで、路頭に彷徨する身となるかも知れない。僕は仏蘭西人が北狄ほくてきの侵略に遭い国を挙げてマルンの水とウェルダンの山とを固守した時と同じ場合に立った。痩せ細った総身の智略を振絞って防備の陣を張らなくてはならない。防備の陣を張るにも先立つものは矢張金である。金を獲るには僕の身としては書くのが一番の捷径しょうけいであろう。恥も糞もあるものかと思いさだめて、一気呵成に事件の顛末を、まずここまで書いて見たから、一寸一服、筆休めに字数と紙数とをかぞえよう。

そもそも僕が始て都下にカッフェーというもののある事を知ったのは、明治四十三年の暮春洋画家の松山さんが銀座の裏通なる日吉町にカッフェーを創設し、パレット形の招牌を掲げてプランタンという屋号をつけた際であった。僕は開店と言わずして特に創設という語を用いた。如何となれば巴里風のカッフェーが東京市中に開かれたのは実に松山画伯の AU PRINTEMPS を以て嚆矢こうしとなすが故である。当時都下に洋酒と洋食とを鬻ぐ店舗はいくらもあった。又カウンターに倚よりかかって火酒を立飲する亜米利加風の飲食店も浅草公園などには早くから在ったようであるが、然し之を呼ぶにカッフェーの名を以てしたものは一軒もなかった。カッフェーの名の行われる以前、この種類の飲食店は皆ビーヤホールと呼ばれていた。されば松山画伯の飲食店は其の実に於ては或は創設の功を担わしめるには足りないかも知れぬが、其の名に於ては確に流布の功があった。当時都人の中にはカッフェーの義の何たるかを知らず、又これを呼ぼうとしても正確にFの音を発することのできない者も鮮くなかった。然るに二十年後の今日に到っては日本全国ビーヤホールの名を掲げて酒を估うる店は一軒もなく、傖父そうふも滑なめらかに Café の発音をなし得るようになった。

さればカッフェーの創設者たる松山画伯にして、狡智に長たけたること、若しかの博文館が二十年前に出版した書物の版権を、今更云々して賠償金を取立てるがように、カッフェーという名称を用いる都下の店に対して一軒一軒、賠償金を徴発していたら、今頃は松山さんの家は朱頓しゅとんの富を誇っていたに相違はない。

カッフェープランタンの創設せられた当初、僕は一夕生田葵山井上唖々の二友と共に、有楽座の女優と新橋の妓とを伴って其のカッフェーに立寄った。入口に近いテーブルに冒険小説家の春浪さんが数人の男と酒を飲んでいたのを見たが、僕等は女連れであったから、別に挨拶もせずに、そのまま楼上に上った。僕等三人は春浪さんがまだ早稲田に学んでいた頃から知合っていた間柄なので、挨拶もせずに二階へ上ったことを失礼だとは思っていなかった。就中なかんずく僕は西洋から帰ってまだ間まもない頃のことであったから、女連のある場合、男の友達へは挨拶をせぬのが当然だと思っていた。ところが春浪さんは僕等の見知らぬ男を引連れ、ずかずか二階へ上って来て、まず唖々さんに喧嘩を売りはじめた。僕は学校の教師見たような事をしていた頃なので、女優と芸者とに耳打して、さり気げなく帽子を取り、逸早く外へ逃げだした。後になって当夜の事をきいて見ると、春浪さんは僕等三人が芸者をつれて茶亭に引上げたものと思い、それと推測した茶屋に乱入して戸障子を蹴破り女中に手傷を負わせ、遂に三十間堀の警察署に拘引せられたという事であった。これを聞いて、僕は春浪さんとは断乎として交を絶ったのみならず、カッフェープランタンにも再び出入しなかった。尾張町の四辻にカッフェーライオンの開店したのも当時のことであったが、僕はプランタンの遭難以来銀座辺の酒肆には一切足を踏み入れないようにしていた。

光陰の速なることは奔輪の如くである。いつの間にか二十年の歳月が過ぎた。春浪さんも唖々さんも共に斉ひとしく黄泉よみの客となった。二十年の歳月は短きものではない。世の中も変れば従って人情も変った。

大正十五年八月の或夜、僕は晩涼を追いながら、震災後日に日にかわって行く銀座通の景況を見歩いた時、始めて尾張町の四辻に近い唯とあるカッフェーに休んだ。それ以来僕は銀座通を通り過る時には折々この店に休んで茶を飲むことにした。

これにはいろいろの理由わけがあった。僕は十年来一日に一度、昼飯か晩飯かは外で食くらうことにしている。カッフェーの料理は殆ど口には入れられないほど粗悪であるが、然し僕は強いて美食を欲するものでもない。毒にもならずして腹のはるものならば大抵は我慢をして食う。若し自分の口に適したものが是非にもほしいと思う時には、僕は人の手を借らずに自分で料理をつくる癖がある。けれども俗事の輻輳した時にはそうもして居られない。且又炎暑の時節には火をおこして物を煮る気にもなれない。まずいのを忍んで飲食店の料理を食うのが或時には便宜である。これが僕をして遂にカッフェーの客たらしめた理由の一である。

僕は築地の路地裏から現在の家に琴書を移し運んでより此の方、袖の長い日本服を着たことがない。人に招かれる場合にも靴をぬいで畳の上に坐ることは出来得るかぎり避けている。物を食うにも鳥屋の二階を不便となし、カッフェーを便としている。是が理由の第二である。

銀座通にカッフェーの流行し始めてから殆ほとんど二十年の歳月を経たことは既に述べた。二十年の間に時勢は一変した。時勢の変遷につれて、僕自身の趣味も亦またいくらか変化せざるを得ない。いかほど旧習を墨守しようと欲しても到底墨守することの出来ない事がある。おおよそ世の流行は馴るるに従って、其の始め奇異の感を抱かせたものも、姑しばらくにして平凡となるのが常である。況いわんや僕は既にわかくはない。感激も衰え批判の眼も鈍くなっている。箍たがが弛ゆるんでいる。僕は年五十に垂なんなんとした其の年の秋、始めて銀座通のカッフェーに憩い僕の面前に紅茶を持運んで来た女給仕人を見ても、二十年前ライオン開店の当時に於けるが如く嫌悪の情を催さなかった。是が理由の第三である。

僕は啻ただにカッフェーの給仕女のみならず、今日に在っては新しき演劇団の女優に対しても以前の如くに侮蔑の目を以てのみ看てはいない。今の世の中にはあのようなものが芸術家を以て目せられるのも自然の趨勢であると思ったので、面晤めんごする場合には世辞の一ツも言える位にはなっている。活動写真に関係する男女の芸人に対しても今日の僕はさして嫌悪の情を催さず儼然として局外中立の態度を保つことができるようになっている。之を要するに現代の新女優、給仕女、女店員、洋風女髪結のたぐいは、いずれも同じ趣味と同じ性行とを有する同種の新婦人である。

今銀座のカッフェーに憩い、仔細に給仕女の服装化粧を看るに、其の趣味の徹頭徹尾現代的なることは、恰当世流行の婦人雑誌の表紙を見る時の心持と変りはない。一代の趣味も渾然として此処まで堕落してしまって、又如何ともすることの出来ぬものに成り了おわってしまうと、平生世間外に孤立している傍観者には却て一種奇異なる興味と薄い気味悪さとを覚えさせるようになる。

僕は銀座街頭に於て目撃する現代婦女の風俗をたとえて、石版摺の雑誌表紙絵に均しきものとなした。それはまた化学的に製造した色付葡萄酒の味にも似ている。日光の廟門を模擬した博覧会場の建築物にも均しい。菊人形の趣味に一層の俗悪を加えたものである。斯くの如き傾向はいつの時に其の源を発したか。混沌たる明治文明の赴くところは大正年間十五年の星霜を経由して遂にこの風俗を現出するに至ったものと看るより外はない。一たび考察をここに回めぐらせば、世態批判の興味の勃然として湧来るを禁じ得ない。是僕をして新聞記者の中傷を顧みず泰然としてカッフェーの卓子に倚よらしめた理由の第四である。

僕のしばしば出入したカッフェーには給仕の女が三十人あまり、肩揚のある少女が十人あまり。酒場の番をしている男が三四人、帳簿係の女が五六人、料理人が若干人、事務員が二三人。是等の人達の上に立って営業の事務一切を掌る支配人が一人、其助手が一人あった。数え来れば少からぬ人員となる。是の人員が一団をなして業を営む時には、ここに此の一団固有の天地の造り出されるのは自然の勢である。同じ銀座通に軒を連ねて同じ営業をしていても、其店々によって店の風がちがって来ることになる。店の風がちがえば客の種類もちがって来る。ここに於てか世態観察の興味は一層加わるわけである。

凡物にして進化の経程を有せざるはない。市井の風俗を観察する方法にも同じく進化の道がある。江戸時代に在っては山東京伝は吉原妓楼の風俗の家毎に差別のあった事を仔細に観察して数種の蒟蒻本を著した。傾城買四十八手傾城〔金+攜のつくり〕の如きは其の冠たるものであろう。京伝等江戸の戯作者の好んで為した市井風俗の観察は多く支那の艶史より学び来ったものである。されば寛政以降漢文の普及せらるるに及んで、寺門静軒は江戸繁昌記を著し、踵いで成島柳北は柳橋新誌を作った。京伝一派の蒟蒻本は文化年代に夙はやく其跡を絶っていたが、静軒の筆致を学ぶものは明治年間に至るも猶絶えず、服部撫松は柳巷新史を著し、松本万年は新橋雑記をつくり、三木愛花に及んで此の種の艶史は遂に終を告げた。

僕はカッフェーの卓子に憑よって目には当世婦女の風俗を観、心には前代名家の文章を想い起すや、喟然きぜんとしてわが文藻の乏しきを悲しまなければならない。泰西に在っては詩人ミュッセが「ミミイパンソンの晴衣裳」の如き、早くより世人の伝唱して措かざるもの。ウェルレーンの詩集も亦カッフェーの光景を詠じた佳什に乏しくない。

昭和紀元の冬、銀座通に在ったカッフェーにして、殊に給仕女の靚粧せいしょうの人目を牽いたものは、ライオン、タイガー、ギンブラ、バッカス、松月、孔雀の如き名を以て呼ばれた店である。此等のカッフェーの光景と給仕女の評判記に至っては現代の雑誌新聞の紙面を埋むる好資料である。既に「騒人」と称する文学雑誌の如きは、カッフェー特別号なるものを編纂し、文芸諸名士のカッフェーに関する名文を網羅して全冊を埋めていた。されば菲才僕の如きものが、今更カッフェーについて舛駁せんばくなる文をつくるのは、屋下に屋を架する笑いを招くばかりであろう。

僕は平生見聞する事物の中、他日小説の資料になるらしく思われる事があると、手帳にこれを書き留めて置く。一日の天気模様でも、月の夜に虹が出たり、深夜の空に彗星が顕れたりすると、之も同じくその見たままを書き留めて置く。これ等は啻ただに小説執筆の際叙景の資料になるのみならず、古人の書を読む時にも案外やくに立つことがある。僕は曾て木氷というものを見たことがあった。木氷とは樹木の枝に滴る雨の雫が突然の寒気に凍って花の咲いたように見えるのを謂うのである。僕は初木氷の名も知らず、亦これが詩人の喜んで瑞兆となすものであることも知らなかったが、近年に至ってたまたま大窪詩仏の集を読むに及んで始て其等の次第を審にしたのである。

僕が銀座のカッフェーに関して手帳に覚書をして置いたことも尠くはない。左に之を抄録して読者の一噱に供しよう。

「某月某日晩涼ヲ追テ杖ヲ銀座街ニ曳ク。夜市ノ燈火白昼ノ如ク、遊歩ノ男女肩ヲ摩シ踵ヲ接ス。夜熱之ガ為ニ卻テ炎々タリ。避ケテ一酒肆に「酒肆に」はママ入ル。洋風ノ酒肆ニシテ、時人ノ呼ンデカツフヱート称スルモノ即是ナリ。カツフヱーノ語ハモト仏蘭西ヨリ起ル。邦人妄ニ之ヲ借リ来ツテ酒肆ニ名クト雖其ノ名ノ実ニ沿ハザルコト蓋甚シキモノアリ。是亦吾社会百般ノ事物西洋ヲ模倣セント欲シテ到底模倣ダニ善クスルコト能ハザルノ一例ニ他ナラズ。酒茶ノ味ノ如キハ固ヨリ言フ可キ限リニ非ザル也。銀座街ノカツフヱー皆妙齢ノ婢ヲ蓄ヘ粉粧ヲ凝シテ客ノ酔ヲ侑ケシムルコト宛然絃妓ノ酒間ヲ斡旋スルト異ラズ。是ヲ江戸時代ニ就イテ顧レバ水茶屋ノ女ノ如ク麦湯売ノ姐サンノ如ク、又宿屋ノ飯盛ノ如シト言フモ可ナリ。カツフヱーノ婢ハ世人ノ呼デ女ボーイトナシ又女給トナスモノ。其ノ服飾鬟髻ノ如キハ別ニ観察シテ之ヲ記ス可シ。此ノ宵一婢ノ適タマタマ予ガ卓子ノ傍ニ来ツテ語ル所ヲ聞クニ、此酒肆ノ婢総員三十余人アリト云。婢ハ日々其家ヨリ通勤ス。家ハ家賃廉低ノ地ヲ択ブガ故ニ大抵郡部新開ノ巷ニ在リ。別ニ給料ヲ受ケズ、唯酔客ノ投ズル纏頭ヲ俟ツノミ。然レドモ其ノ金額日々拾円ヲ下ラザルコト往々ニシテ有リ。之ヲ以テ或ハ老親ヲ養フモノアリ或ハ病夫ノタメニ薬ヲ買フモノアリ。或ハ弟妹ニ学資ヲ与フルモノアリ。或ハ淫肆放縦ニシテ獲ル所ノモノハ直ニ濫費シテ惜シマザルモノアリ。各其ノ為人ニ従ツテ為ス所ヲ異ニス。婢ノ楼ニ在ツテ客ヲ邀フルヤ各十人ヲ以テ一隊ヲ作リ、一客来レバ隊中当番ノ一婢出デヽ之ニ接ス。女隊ニ三アリ。一ヲ紅隊ト云ヒ、二ヲ緑隊、三ヲ紫隊ト云フ。各隊ノ女子ハ個々七宝焼ノ徽章ヲ胸間ニ懸ケ以テ所属ノ隊ト番号トヲ明示ス。三隊ノ女子日ニ従テ迎客ノ部署ヲ変ズ。紅緑ノ二羣楼上ニ在ルノ日ハ紫隊ノ一羣ハ階下ニ留マルト云フガ如シ。楼上ニハ常ニ二隊ヲ置キ階下ニハ一隊ヲ留ムルヲ例トス。三隊互ニ循環シテ上下ス。サレバ客ノ此楼ニ登ツテ酔ヲ買ハント欲スルモノ、若シ特ニ某隊中ノ阿嬌第何番ノ艶語ヲ聞カンコトヲ冀フヤ、先阿嬌所属ノ一隊ノ部署ヲ窺ヒ而シテ後其ノ席ニ就カザル可カラズ。然ラザレバ徒ニ纏頭ヲ他隊ノ婢ニ投ジテ而モ終宵阿嬌ノ玉顔ヲ拝スルノ機ヲ失スト云。是ニ於テヤ酒楼ノ情況宛然妓院ニ似タルモノアリ。予復問フテ曰ク卿等女給サンノ前身ハ何ゾヤ。聞クナラク浅草公園上野広小路辺ノ洋風酒肆近年皆競ツテ美人ヲ蓄フト。果シテ然ルヤ。婢答ヘテ曰ク閣下ノ言フガ如シ。抑是ノ酒肆ハ浅草雷門外ナル一酒楼ノ分店ニシテ震災ノ後始テ茲ニ青帘ヲ掲ゲタルモノ。然ルガ故ニ婢モ亦開店ノ当初ニ在リテハ浅草ノ本店ヨリ分派セラレシモノ尠シトナサヾリキ。今ヤ日ニ従テ新陳代謝シ四方ヨリ風ヲ臨ンデ集リ来レルモノ多シ。曾テ都下狭斜ノ巷ニ在テ左褄ヲ取リシモノ亦無シトセズト。予之ヲ聞イテ愕然タリ。其ノ故ハ何ゾヤ。疇昔余ノ風流絃歌ノ巷ニ出入セシ時ノコトヲ回顧スルニ、当時都下ノ絃妓ニハ江戸伝来ノ気風ヲ喜ブモノ猶跡ヲ絶タズ。一旦嬌名ヲ都門ニ馳セシムルヤ気ヲ負フテ自ラ快トナシ縦令悲運ノ境ニ沈淪スルコトアルモ自ラ慚ヂテ待合ノ女中牛肉屋ノ姐サントナリ俗客ノ纏頭ニ依ツテ活ヲ窃ムガ如キモノハ殆一人モ有ルコトナカリキ。今ヤ人心ハ上下雅俗ノ別ナク僅ニ十年ニシテ全ク一変セリ。画人ハ背景ヲ描カンガタメニ俳優ノ鼻息ヲ窺ヒ文士ハ書賈ノ前ニ膝ヲ屈シテ恬然タリ。余ヤ性狷介固陋世ニ処スルノ道ヲ知ラザルコト匹婦ヨリモ甚シ。今宵適カツフヱーノ女給仕人ノ中絃妓ノ後身アルヲ聞キ慨然トシテ悟ル所アリ。乃鉛筆ヲ嘗メテ備忘ノ記ヲ作リ以テ自ラ平生ノ非ヲ戒ムト云。」

僕が文壇の諸友と平生会談の場所と定めて置いた或カッフェーにお民という女がいた。僕が書肆博文館から版権侵害の談判を受けて青くなっている最中、ふらりと僕の家にたずねて来て難題を提出したのはこのお民である。

お民が始て僕等の行馴れたカッフェーに給仕女の目見得に来たのは、去年の秋もまだ残暑のすっかりとは去りやらぬ頃であった。古くからいる女が僕等のテーブルにお民をつれてきて、何分宜しくと言って引合せたので、僕等は始めて其名を知ったわけである。始て見た時年は二十四五に見えたが、然しその後いくつだときいた時、お民は別に隠そうともせず二十六だと答えた。他の女給仕人のように白粉もさして濃くはせず、髪も縮らさず、箆へらのような櫛もささず、見馴れた在来のハイカラに結い、鼠地の絣のお召に横縦に縞のある博多の夏帯を締めていた。顔立は面長の色白く、髪の生際襟足ともに鮮に、鼻筋は見事に通って、切れ長の眼尻には一寸剣があるが、案外口元にしまりが無いのは糸切歯の抜けているせいでもあろう。古風な美人立の顔としてはまず申分のない方であるが、当世はやりの表情には乏しいので、或人は能楽の面のようだと評し、又或人は線が堅くて動きのない顔だと言った。身丈せいは高からず低からず、肉付は中の部である。着物の着こなしも、初て目見得の夜に見た時のように、いつも少し衣紋をつくり、帯も心持さがり加減に締めているので、之を他の給仕女がいずれも襟は苦しいほどに堅く引合せ、帯は出来るだけ胸高にしめているのに較べると、お民一人の様子は却て目に立った所から、此のカッフェーに出入するお客からは忽江戸風だとか芸者風だとか言われるようになった。大分心やすくなってから、僕達の問に答えて、お民の語ったところを聞くのに、お民は矢張その様子にたがわず東京の下町に生れた者であった。

「わたし、生れたのは薬研堀ですわ。お父とッつァんはとうに死んじまいました。」

僕は薬研堀と聞いて、あの辺に楊弓場のあったことを知っているかと問うて見たが、お民は知らないと答えた。広小路に福本亭という講釈場のあった事や、浅草橋手前に以呂波という牛肉屋のあった事などもきいて見たが、それもよく覚えていないようであった。日露戦争の頃に生れた娘には、その生れた町のはなしでも僕の言うことは少し時代が古過ぎたのであろう。現在はどこに住んでいるかときくと、

「兄さんや母おっかさんと一緒に東中野にいます。母おっかさんはむかし小石川の雁金屋さんとかいう本屋に奉公していたって云うはなしだワ。」と言った。

雁金屋は江戸時代から明治四十年頃まで小石川安藤坂上に在った名高い書林青山堂のことである。此のはなしは其日僕が恰東仲通の或貸席に開かれた古書売立の市で漢籍を買って、その帰途に立寄った時、お民が古本を見て急に思出したように語ったことである。

お民は父母のことを呼ぶに、当世の娘のように、「おとうさん、おかあさん」とは言わず「おっかさん、おとッつァん」と言う。僕の見る所では、これは東京在来の町言葉で、「おとうさん」と云い、「おかアさん」と云い、或は略して、「とうさん、かアさん」と云うのは田舎言葉から転化して今は一般の通用語となったものである。薗八節の鳥辺山に「ととさんやかかさんのあるはお前も同じこと」という詞がある。されば「とうさん、かアさん」の語は関西地方のものであろうか。近年に至って都下花柳の巷には芸者が茶屋待合の亭主或は客人のことを呼んで「とうさん」となし、茶屋の内儀又は妓家の主婦を「かアさん」というのを耳にする。良家に在っては児輩が厳父を呼んで「のんきなとうさん」と言っている。人倫の廃頽はいたいも亦極れりと謂うべきである。因ちなみにしるす。僕は小石川の家に育てられた頃には「おととさま、おかかさま」と言うように教えられていた。これは僕の家が尾張藩の士分であった故でもあろうか。其の由来を審にしない。

お民は談話が興に乗ってくると、「アノあたいが」と言いかけて、笑いながら「わたしが」と言い直すことがある。お民の言葉使には一体にわざとらしいまでに甘ったれた調子が含まれている。二十六の女とは思われぬ程小娘らしい調子があるが、これは左右の糸切歯が抜けていて、声が漏れるためとも思われるし、又職業柄わざと舌ッたるくしているのだとも思われた。話しながら絶えず身体をゆすぶり、一語ひとこと一語ひとことに手招ぎするような風に手を動す癖がある。見馴れるに従ってカッフェーの女らしいところはいよいよなくなって、待合か日本料理屋の女中のような気がしてくるのであった。

「お民、お前、どこか末広のような所にいたことはないのか。」と僕等の中の一人がきいた事がある。するとお民は赤坂の或待合に女中をしていたことがあると答えたので僕は心窃に推測の違っていなかった事を誇ったような事もあった。

だんだん心やすくなるにつれて、お民の身の上も大分明かになって来た。お民の兄は始め芸者を引かせて内に入れたが、間もなく死別れて、二度目は田舎から正式に妻を迎え一時神田辺で何か小売商店を営んでいたところ、震災後商売も次第に思わしからず、とうとう店を閉じて郡部へ引移り或会社に雇われるような始末に、お民は兄の家の生計を助けるために始てライオンの給仕女となり、一年ばかり働いている中Sさんとかいう或新聞の記者に思いを掛けられ、其人につれられて大阪の方へ行って半年あまり遊び暮していた。別れて東京に帰ってから二三軒あちこちのカッフェーを歩いた後遂に現在のカッフェーへ出ることになったのだと云う。併し始て尾張町のライオンに雇われた其より以前の事については、お民は語ることを好まないらしく成りたけ之を避けているように見えた。それとなく朋輩の給仕女にきいて見ると、十八九の時嫁に行き一年ばかりで離縁になったのだと言うものもあれば、十五六の時分から或華族のお屋敷に上っていたのだ。それも唯の奉公ではないという者もあった。いずれが真実だかわからない。兎に角僕等二三人の客の見る所、お民は相応に世間の裏表も、男の気心もわかっていて、何事にも気のつく利口な女であった。酒は好すきで、酔うと客の前でもタンカを切る様子はまるで芸者のようで。一度男にだまされて、それ以来自棄やけ半分になっているのではないかと思われるところもあったが、然し祝儀の多寡によって手の裏返して世辞をいうような賤しいところは少しもなかったので、カッフェーの給仕女としてはまず品の好い方だと思われた。

以上の観察は僕ばかりではない。いつも僕とテーブルを共にした人々の見た所も大抵同じであった。要するに僕等は初対面の人を看る時先入主をなす僻見に捉えられないように自ら戒めている。殊に世人から売笑婦として卑しめられている斯くの如き職業の女に対しては、たとえ品性上の欠点が目に見えても、それには必由来があるだろうと、僕等は同情を以て之を見ようと力つとめている。同情は芸術制作の基礎たるのみではない。人生社会の真相を透視する道も亦同情の外はない。観察の公平無私ならんことを希うのあまり、強いて冷静の態度を把持することは、却て臆断の過に陥りやすい。僕等は宗教家でもなければ道徳家でもない。人物を看るに当って必しも善悪邪正の判決を求めるものではない。唯人物を能く看ることが出来れば、それでよいのである。斯くの如き境遇の下に斯くの如き生活が在るという其の真相を窺いたいと冀ねがっているに過ぎない。僕等はこれを以て芸術家の本分となしている。僕等は曾て少壮の比ころツルゲネフやフロオベル等の文学観をよろこび迎えたものである。歴史及び伝説中の偉大なる人物に対する敬虔の心を転じて之を匹夫匹婦が陋巷の生活に傾注することを好んだ。印象派の画家が好んで描いた題材を採って之を文章となす事を畢生の事業と信じた。後に僕は其主張のあまりに偏狭なることを悟ったのであるが、然し少壮の時に蒙った感化は今に至っても容易に一掃することができない。銀座通のカッフェー内外の光景が僕をしては巴里に在った当時のことを回想せしめ生田さんをしては伯林のむかしを追憶せしめたのも其等の為であろう。僕等は一時全く忘れていた自然派文学の作例を思出して之を目前の光景に比較し、西洋の過去と日本の現在との異同を論じて、夜のふけるのを忘れたこともたびたびとなった。

斯くの如く僕等がカッフェーに出入することの漸く頻繁となるや、都下の新聞紙と雑誌とは筆を揃えて僕の行動を非難し始めた。僕の記憶する所では、新聞紙には、二六、国民、毎夕、中央、東京日日の諸紙毒筆を振うこと最甚しく、雑誌にはササメキと呼ぶもの、及び文芸春秋と称するもの抔などがあった。是等都下の新聞紙及び雑誌類の僕に対する攻撃の文によって、僕はいい年をしながらカッフェーに出入し給仕女に戯れて得々としているという事にされてしまった。そして相手の給仕女はお民であるという事になった。

生田さんは新聞紙が僕を筆誅する事日を追うに従っていよいよ急なるを見、カッフェーに出入することは当分見合すがよかろうと注意をしてくれた。僕は生田さんの深切を謝しながら之に答えて、

「新聞で攻撃をされたからカッフェーへは行かないという事になると、つまり新聞に降参したのも同じだ。新聞記者に向って頭を下げるのも同じ事だ。僕はいやでもカッフェーに行く。雨が降ろうが鎗が降ろうが出かけなくてはどうも気がすまない。僕は現代の新聞紙なるものが如何に個人を迫害するものかと言うことを、僕一人の身の上について経験して見るのも一興じゃアないか。僕は日本現代の社会のいかに嫌悪すべきものかと云うことを一ツでも多く実例を挙げて証明する事ができれば、結局僕の勝になるんだ。」と言った。

すると友達の一人は、「君の態度はまるで西洋十八世紀の社会に反抗したルッソオのようだと言いたいが、然し柄にないことだからまア止した方がいいよ。君はやっぱり江戸文学の考証でもしている方が君らしくっていいよ。」と冷笑した。

兎角する中議論はさて措き、如何に痩我慢の強い我輩も悠然としてカッフェーのテーブルには坐っていられないようになった。東京の新聞紙が挙って僕のカッフェーに通うのは女給仕人お民のためだという事を報道するや、以前お民をライオンから連出して大阪へ行っていたSさんという人が、一夕突然僕等のテーブルの傍に顕れ来って、「君は僕の女をとったそうだ。ほんとうか。」と血相を変えて叫んだこともあった。すると、やがて僕の身辺をそれとなく護衛していたと号する一青年が顕れて、結局酒手と車代とを請求した。給仕女に名刺を持たせてお話をしたい事があるからと言って寄越す人が多い時には一夜に三四人も出て来るようになった。春陽堂と改造社との両書肆が相競って全集一円本刊行の広告を出す頃になると、そういう一面識もない人で僕と共に盃を挙げようというものがいよいよ増加した。初めに給仕を介したり或は名刺を差付けたりする者はまだしも穏な方であった。遂には突然僕の面前に坐って、突然「オイ君」という調子でコップを僕の鼻先につきつけるものもあるようになった。

此等の人々は見るところ大抵僕よりは年が少わかい。僕は嫌悪の情に加えて好奇の念を禁じ得なかった。何故なれば、僕は文士ではあるが東京に生れたので、自分ではさほど世間に晦くらいとも思っていなかったが、何ぞ図らむ。斯くの如き奇怪なる人物が銀座街上に跋扈ばっこしていようとは、僕年五十になろうとする今日まで全く之を知る機会がなかったからである。

彼等は世に云う無頼の徒であろう。僕も年少の比ころ吉原遊廓の内外では屡しばしば無頼の徒に襲われた経験がある。千束町から土手に到る間の小さな飲食店で飲んでいると、その辺を縄張り中にしている無頼漢は、必折を窺って、はなしをしかける。これが悶着の端緒である。之を避けるには便所へでも行くふりをして烟の如く姿を消してしまうより外はない。当時の無頼漢は一見して、それと知られる風俗をしていた。身幅のせまい唐桟柄の着物に平ぐけをしめ、帽子は戴かず、言葉使は純粋の町言葉であった。三十年を経て今日銀座のカッフェーに出没する無頼漢を見るに洋服にあらざればセルの袴を穿ち、中には自ら文学者と称していつも小脇に数巻の雑誌数葉の新聞紙を抱えているものもある。其の言語を聞くに多くは田舎の訛りがある。

ここに最奇怪の念に堪えなかったのは、其等無頼の徒に対して給仕女が更に恐るる様子のないことであった。殊にお民は寧むしろ心やすい様子で、一人一人に其姓名を挙げ、「誰々さんとはライオン時代からよく知っているのよ。あの人はあれでもほんとの文士なのよ。翻訳家なのよ。やっぱり郊外にいるから電車の中でもちょいちょい逢う事があるのよ。お酒はよくないらしいわね。」などと言って、僕等が其の無礼なことを語った時には、それとなく弁護するような語調を漏らしたことさえあった。お民は此のカッフェーの給仕女の中では文学好ずきだと言われていた。生田さんが或時「今まで読んだものの中で何が一番面白かったか。」ときくと、お民はすぐに「カラマゾフ兄弟だ。」と答えたことがあった。僕はその時お民の語には全く注意していなかった。僕は最初からカッフェーに働いている女をば、その愚昧なことは芸者より甚しいものと独断していたからである。又文学好きだと言われる婦人は、平生文学書類を手にだもしない女に比すれば却て智能に乏しく、其趣味は遥に低いものだと思っていたからである。然し此等の断定の当っていなかった事は、やがて僕等一同が銀座のカッフェーには全く出入しないようになってから、或日突然お民が僕の家へ上り込んで、金銭を強請した時の、其態度と申条とによって証明せられることになった。お民の態度は法律の心得がなくては出来ないと思われるほど抜目がなく、又其の言うところは全然共産党党員の口吻に類するものがあった。

書肆博文館が僕に対して版権侵害の賠償を要求して来た其翌日である。正午すこし前、お民は髪を耳かくしとやらに結い、あらい石だたみのような飛白かすりお召の単衣ひとえも殊更袖の長いのに、宛然さながら田舎源氏の殿様の着ているようなボカシの裾模様のある藤紫の夏羽織を重ね、ダリヤの花の満開とも言いたげな流行の日傘をさして、山の手の静な屋敷町に在る僕の家の門前に現れたのであった。芸者とも女優ともつかぬ此のけばけばしい風俗で良家を訪問することは其家に対しては不穏な言語や兇器よりも、遥に痛烈な脅嚇である。むかしの無頼漢が町家ちょうかの店先に尻をまくって刺青ほりものを見せるのと同しである。僕はお民が何のために突然僕の家へ来たのかを問うより先に、松屋呉服店あたりで販売するとか聞いているシャルムーズの羽織一枚で殆前後を忘れるまでに狼狽した。殊にその日は博文館との掛合で、いつもより人の出入の多そうに思われる折とて、何はさて置きお民の姿を玄関先から隠したいばかりに、僕はお民を一室に通すや否や、すぐにその来意を問うとお民は長い袂をすくい上げるように膝の上に載せ、袋の底から物をたぐり出すように巻煙草入を取出し、

「わたし、御存じでしょうけれど、もう銀座はやめにしました。」

「そうだそうですね。この間友達から聞きました。」と僕はそれとなく女の様子を窺いながら次の言葉を待った。するとお民は一向気まりのわるい風もせず、

「きょうはすこしお願いしたいことがあるんです。」と落ちつき払って切り出した。其様子から物言いまで曾てカッフェーにいた時分、壁や窓に倚りかかって、其の辺に置いてある植木の葉をむしり取って、噛んでは吐はきだしながら冗談を言っていた時とは、まるで別の人になっている。僕はさてこそと、変化へんげの正体を見届けたような心持で、覚えず其顔を見詰めると、お民の方でもじろりと僕の顔を尻目しりめにかけて壁の懸物へと視線をそらせたが、その瞬間僕の目に映じたお民の容貌の冷静なことと、平生から切長の眼尻に剣のあった其の眼の鋭い事とは、この女の生立ちと経歴とを語って余りあるものの如くに思われた。

僕は相手の気勢を挫くじくつもりで、その言出すのを待たず、「お金のはなしじゃないかね。」というと、お民は「ええ。」と顎あごで頷付うなずいて、「おぼし召でいいんです。」と泰然として瞬き一ツせず却て僕の顔を見返した。

「おぼし召じゃ困こまるね。いくらほしいのだ。」

斯ういう掛合に、此方こっちから金額を明言するのは得策でない。先方の口から言出させて、大概の見当をつけ、百円と出れば五拾円と叩き伏せてから、先方の様子を見計らって、五円十円と少しずつせり上げ、結局七八拾円のところで折合うのが、まずむかしから世間一般に襲用された手段である。僕もこのつもりで金高を質問したのである。ところが相手は是まで大分諸処方々無心に歩き廻った事があると見えて、僕よりはずっと馴れているらしい。

「いくらでも結構です。足りなければ又いただきに来ますから。きょうはいくらでも御都合のいいだけで結構です。」

「じゃ、これだけ持っておいでなさい。今日は少し取込んだ用事があるから。」と僕は持合せた拾円紙幣二枚を渡すと、お民はそれを手に取ったまま、暫く黙って僕の顔を見た後、

「後はいつ、いただけるんでしょう。」

「それだけじゃ足りないのかね。」

お民は答えないで、徐に巻煙草をのみはじめた。

「僕はお前さんに金を取られる理由はない筈なんだが、一体どういうわけで、そんな事を言うのだ。」

「わたしカッフェーをやめて、何もしていないから困っているんです。」

「困るなら働きに出ればいいじゃないか。僕はそんな相談をかけられるような弱身はないのだから。そういう事は外に相談をする人があるだろう。お前さんには家まで持たせた旦那があるというはなしじゃないか。」

お民はまた返事をせずに横を向いた。

「兎に角きょうは用があるから。これから出掛けるのだから。おとなしくお帰んなさい。」と僕は立って入口の戸を明けた。

お民は身動きもせず悠然として莨の烟を吹いている。僕は再び「さア。」といって促すと、お民は急に駄々だだをこねるような調子をつくって、

「いいえ。帰りません。」と首を振って見せた。

「帰ってくれというのに帰らないのは穏かでない。それではまるで強請ゆすりも同様だ。お前さんがいくら何と云っても僕の方では金を出すべき義務も理由もないのだから。駄目だよ。」

「それでも、わたしお金がいるんですよ。あなたはお金のある人なんだからいいじゃありませんか。持っている人が持っていない人にやるのは当前でしょう。」

「当前なものか。そんな事は露西亜へでも行ったら知らないこと、日本じゃ通らない。兎に角ここで議論をしても仕様がない。一体、お前、いくらほしいのだ。黙っていては困る。ためしに言って見た方がいい。」

「半分いただきたいつもりです。」

「半分。百円の半分か。」

「いいえ。」

「じゃ、千円の半分か。」

「いいえ。」

「じゃ、一体何の半分だ。」ときくと、お民は事もなげに、「あなたの財産の半分。」と云切って、横を向いてまた煙草の烟を天井の方へ吹きかけた。

僕は覚えず吹き出しそうになったのを、辛くも押えて、「兎に角そんな出来ない相談をしたって、暇つぶしはお互に徳の行くはなしじゃないから。どうだ。両方で折合って、百円で一切いざこざ無しという事にしようじゃないか。」

僕は紙入から折好く持合せていた百円札を出してお民に渡した。別に証文を取るにも及ぶまい。此の事件もこれで落着したものと思っていると、四五日過ぎてお民はまた金をねだりに来た。其の言う語と其の態度とは以前よりも一層不穏になっていたので、僕は自身に応接するよりも人を頼んだ方がよいと思って、知合の弁護士を招いて万事を委託した。

書肆改造社の主人山本さんが自動車で僕を迎いに来て、一緒に博文館へ行ってお辞儀をしてくれと言ったのは、弁護士がお民をつれて僕の家を出て行ってから半時間とは過ぎぬ時分であった。山本さんは僕と一緒に博文館へ行って、ぺこぺこ御辞儀をしたら、或は賠償金を出さずに済むかも知れないから、是非そうして下さいと言うのである。お辞儀一つで事が済むなら訳のないことだと、僕は早速承知して主人と共にその自動車に乗り、道普請で凹凸の甚しい小石川の春日町かすがまちから指ヶ谷町へ出て、薄暗い横町の阪上に立っている博文館へと馳付けた。稍しばらく控所で待たされてから、女給仕に案内せられて廊下のはずれの方へと連れて行かれるので、館主の大橋さんが面会するのかと思うと、そうではなくて、其の使用人の中の重立ったらしい人の詰めている事務室であった。その人はわたくしの一存では賠償金の多寡は即答する事ができないと云うので、結局はなしはまとまらず、山本さんと僕とは空しく退出した。そして三四日の後、山本さんの手から賠償金数千円を支払うことになった。僕が小石川のはずれまでぺこぺこ頭を下げに行ったことも結局何のやくにも立たず、取られるものは矢張取られる事になった。それのみならず金に添えて詫状一札をも取られるという始末である。まだまだその上に博文館では僕を引張り出して飯を食わせたいとの事。然しこれだけは流石の僕も忍びかねて、之を拒絶した。商人から饗応を受けることは昔より廉潔の士の好まざる所である。漂母ひょうぼが一飯の恵と雖一たび之を受ければ恩義を担うことになるからである。

僕は忍ばねばならぬことは之を忍び、避けねばならぬことは之を避けた。僕としては聊考慮を費したつもりである。拙著の版権問題について賠償金の事を山本さんに一任したのは、累禍を他人に及す事を恐れたが故であった。

拙著「あめりか物語」の著作権は博文館が主張するが如く、其の専有に帰しているものではない。同書の原稿は明治四十年の冬、僕が仏蘭西にいた時里昂リヨンの下宿から木曜会に宛てて郵送したもので翌年八月僕のまだ帰朝せざるに先立って、既に刊行せられていた。当時木曜会の文士は多く博文館の編輯局に在って、同館発行の雑誌に筆を執っていた関係から、拙著はおのずから博文館より出版せられる事になったのであろう。されば其の際僕の身は猶海外に在ったから拙著の著作権を博文館に与えたという証書に記名捺印すべき筈もなく、又同書出版の際内務省に呈出すべき出版届書に署名した事もないわけである。官庁及出版商に対する其等の手続は思うに当時博文館内に在った木曜会会員中の誰かが之をなしたのでもあろうか。会員の中押川春浪黒田湖山井上唖々梅沢墨水等の諸氏は既にこの世には居ない。拙著「あめりか物語」の著作権が何人の手に専有せられているかは、今日に至るまで未だ曾て法律上には確定せられていないものと見ねばならない。博文館が強いて拙著の著作権専有を主張したいならば、該書出版後今日に至るまで凡二十余年の間に、一応その相談を僕に向ってなすべき筈である。平生之を怠っていながら、一旦同書が現代文学全集中に転載せらるると見るや、奇貨居くべしとなし、俄に版権侵害の賠償を請求するが如きは貪戻どんれい言語に絶するものである。それにも係らず黙々として僕は一語をも発せず万事を山本さんに一任して事を済ませたのは、万一博文館が訴訟を提起した場合、当初出版の証人として木曜会会員の出廷を余儀なくせしむるに至らむ事を僕は憚った故である。博文館は既に頃日、同館とは殆三十年間交誼のある巌谷小波先生に対してさえ、版権侵害の訴訟を提起した実例がある。僕は斯くの如き貪濁なる商人と事を争う勇気がない。

僕は既に貪濁シャイロックの如き書商に銭を与えた。同時に又、翻訳の露西亜小説カラマゾフ兄弟を愛読するカッフェーの女にも亦銭を恵むことを辞さなかった。彼は資本主義の魔王であって、此れは共産主義の夜叉である。僕は図らずもこの両者に接して、現代の邦家を危くする二つの悪例を目撃し、転うたた時難を憂るの念に堪えざる如き思があった。ここに此の贅言を綴った所以である。トデモ言うより外に仕様がない。年の暮も追々近くなる時節柄お金を取られるのは誰しもいやサ。

昭和二年十月記

底本 / Source edition

底本:「日和下駄 一名 東京散策記」講談社文芸文庫、講談社
1999(平成11)年10月10日第1刷発行
2006(平成18)年1月5日第7刷発行
底本の親本:「荷風全集 第十三巻」岩波書店
1963(昭和38)年2月
「荷風全集 第十六巻」岩波書店
1964(昭和39)年1月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2010年1月18日作成
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TEI
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書誌 / Bibliography
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永井 荷風「申訳」(新字新仮名)、底本『日和下駄 一名 東京散策記』講談社文芸文庫、講談社、1999年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 049666_001341, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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