<ruby><rb>中洲</rb><rt>なかず</rt></ruby>の<ruby><rb>河岸</rb><rt>かし</rt></ruby>にわたくしの旧友が病院を開いていたことは、既にその頃の『中央公論』に連載した雑筆中にこれを記述した。病院はその<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>箱崎川にかかっている<ruby><rb>土洲橋</rb><rt>どしゅうばし</rt></ruby>のほとりに引移ったが、中洲を去ること遠くはないので、わたくしは今もって折々診察を受けに行った帰道には、いつものように<ruby><rb>清洲橋</rb><rt>きよすばし</rt></ruby>をわたって<ruby><rb>深川</rb><rt>ふかがわ</rt></ruby>の町々を歩み、或時は日の暮れかかるのに驚き、いそいで電車に乗ることもある。多年坂ばかりの山の手に<ruby><rb>家</rb><rt>いえ</rt></ruby>する身には、時たま浅草川の流を見ると、何ということなく川を渡って見たくなるのである。雨の降りそうな日には川筋の眺めのかすみわたる面白さに、散策の興はかえって<ruby><rb>盛</rb><rt>さかん</rt></ruby>になる。

清洲橋という鉄橋が中洲から深川<ruby><rb>清住町</rb><rt>きよずみちょう</rt></ruby>の岸へとかけられたのは、たしか昭和三年の春であろう。この橋には今だに<ruby><rb>乗合</rb><rt>のりあい</rt></ruby>自動車の外、電車も通らず、人通りもまたさして激しくはない。それのみならず河の流れが丁度この橋のかかっているあたりを中心にして、ゆるやかに西南の<ruby><rb>方</rb><rt>かた</rt></ruby>へと曲っているところから、橋の中ほどに<ruby><rb>佇立</rb><rt>たたず</rt></ruby>むと、南の<ruby><rb>方</rb><rt>かた</rt></ruby>には<ruby><rb>永代橋</rb><rt>えいたいばし</rt></ruby>、北の方には<ruby><rb>新大橋</rb><rt>しんおおはし</rt></ruby>の<ruby><rb>横</rb><rt>よこた</rt></ruby>わっている川筋の眺望が、一目に見渡される。西の方、中洲の岸を顧みれば、箱崎川の入口が見え、東の方、深川の岸を望むと、遥か川しもには<ruby><rb>油堀</rb><rt>あぶらぼり</rt></ruby>の口にかかった<ruby><rb>下</rb><rt>しも</rt></ruby>の<ruby><rb>橋</rb><rt>はし</rt></ruby>と、近く仙台堀にかかった<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>の<ruby><rb>橋</rb><rt>はし</rt></ruby>が見え、また上手には<ruby><rb>万年橋</rb><rt>まんねんばし</rt></ruby>が<ruby><rb>小名木川</rb><rt>おなぎがわ</rt></ruby>の川口にかかっている。これら両岸の運河にはさまざまな運送船が<ruby><rb>輻輳</rb><rt>ふくそう</rt></ruby>しているので、市中川筋の眺望の中では、最も活気を帯び、また最も変化に富んだものであろう。

或日わたくしはいつもの如く中洲の岸から清洲橋を渡りかけた時、向に見える万年橋のほとりには、かつて芭蕉庵の<ruby><rb>古址</rb><rt>こし</rt></ruby>と、<ruby><rb>柾木稲荷</rb><rt>まっさきいなり</rt></ruby>の<ruby><rb>社</rb><rt>やしろ</rt></ruby>とが残っていたが、震災後はどうなったであろうと、ふと思出すがまま、これを尋ねて見たことがあった。

清洲橋をわたった南側には、浅野セメントの製造場が依然として震災の後もむかしに変らず、かの恐しい建物と煙突とを<ruby><rb>聳</rb><rt>そびや</rt></ruby>かしているが、これとは反対の方向に歩みを運ぶと、窓のない<ruby><rb>平</rb><rt>ひらた</rt></ruby>い倉庫の立ちつづく間に、<ruby><rb>一条</rb><rt>ひとすじ</rt></ruby>の小道が曲り込んでいて、洋服に<ruby><rb>草履</rb><rt>ぞうり</rt></ruby>をはいた番人が巻煙草を吸いながら歩いている外には殆ど人通りがなく、屋根にあつまる鳩の声が<ruby><rb>俄</rb><rt>にわか</rt></ruby>に耳につく。

この静な道を行くこと一、二<ruby><rb>町</rb><rt>ちょう</rt></ruby>、すぐさま万年橋をわたると、<ruby><rb>河岸</rb><rt>かし</rt></ruby>の北側には大川へ突き出たところまで、同じような平たい倉庫と、貧しげな人家が立ちならび、川の眺望を遮断しているので、狭苦しい道はいよいよせまくなったように思われてくる。わたくしはこの<ruby><rb>湫路</rb><rt>しゅうろ</rt></ruby>の<ruby><rb>傍</rb><rt>かたわら</rt></ruby>に芭蕉庵の<ruby><rb>址</rb><rt>あと</rt></ruby>は神社となって保存せられ、柾木稲荷の<ruby><rb>祠</rb><rt>ほこら</rt></ruby>はその筋向いに新しい石の<ruby><rb>華表</rb><rt>とりい</rt></ruby>をそびやかしているのを見て、東京の生活はいかにいそがしくなっても、まだまだ伝統的な<ruby><rb>好事家</rb><rt>こうずか</rt></ruby>の跡を絶つまでには至らないのかと、むしろ意外な思いをなした。

華表の前の小道を迂回して大川の岸に沿い、乗合汽船発着処のあるあたりから、また道の行くがままに歩いて行くと、<ruby><rb>六間堀</rb><rt>ろっけんぼり</rt></ruby>にかかった<ruby><rb>猿子橋</rb><rt>さるこばし</rt></ruby>という木造の汚い橋に出る。この橋の上に杖を<ruby><rb>停</rb><rt>とど</rt></ruby>めて見ると、<ruby><rb>亜鉛葺</rb><rt>トタンぶき</rt></ruby>の汚い二階建の人家が、両岸から濁水をさしばさみ、その窓々から<ruby><rb>襤褸</rb><rt>ぼろ</rt></ruby>きれを<ruby><rb>翻</rb><rt>ひるがえ</rt></ruby>しながら幾町となく立ちつづいている。その間に<ruby><rb>勾配</rb><rt>こうばい</rt></ruby>の急な木造の小橋がいくつとなくかかっている光景は、昭和の今日に至っても、明治のむかしとさして変りがない。かくの如き昔ながらの汚い光景は、わたくしをして、二十年前亡友Ａ氏と共にしばしばこのあたりの<ruby><rb>古寺</rb><rt>ふるでら</rt></ruby>を訪うた頃の事やら、それよりまた更に十年のむかし<ruby><rb>噺家</rb><rt>はなしか</rt></ruby>の弟子となって、このあたりの<ruby><rb>寄席</rb><rt>よせ</rt></ruby>、<ruby><rb>常盤亭</rb><rt>ときわてい</rt></ruby>の<ruby><rb>高座</rb><rt>こうざ</rt></ruby>に上った時の事などを、歴々として思い起させるのである。

六間堀と呼ばれた溝渠は、万年橋のほとりから真直に北の方<ruby><rb>本所竪川</rb><rt>ほんじょたてかわ</rt></ruby>に通じている。その途中から支流は東の方に向い、<ruby><rb>弥勒寺</rb><rt>みろくじ</rt></ruby>の塀外を流れ、<ruby><rb>富川町</rb><rt>とみかわちょう</rt></ruby>や<ruby><rb>東元町</rb><rt>ひがしもとまち</rt></ruby>の<ruby><rb>陋巷</rb><rt>ろうこう</rt></ruby>を横ぎって、再び小名木川の本流に合している。<ruby><rb>下谷</rb><rt>したや</rt></ruby>の三味線堀が埋立てられた後、市内の堀割の中でこの六間堀ほど暗惨にして不潔な川はあるまい。わが亡友Ａ氏は明治四十二年頃から三、四年の間、この六間堀に沿うた<ruby><rb>東森下町</rb><rt>ひがしもりしたちょう</rt></ruby>の裏長屋に住んでいたことがあった。

東森下町には今でも長慶寺という<ruby><rb>禅寺</rb><rt>ぜんでら</rt></ruby>がある。震災<ruby><rb>前</rb><rt>ぜん</rt></ruby>、境内には芭蕉翁の句碑と、<ruby><rb>巨賊</rb><rt>きょぞく</rt></ruby><ruby><rb>日本左衛門</rb><rt>にっぽんざえもん</rt></ruby>の墓があったので人に知られていた。その頃には電車通からも横町の突当りに立っていた楼門が見えた。この寺の墓地と六間堀の裏河岸との間に、<ruby><rb>平家建</rb><rt>ひらやだて</rt></ruby>の長屋が秩序なく建てられていて、でこぼこした歩きにくい路地が<ruby><rb>縦横</rb><rt>たてよこ</rt></ruby>に通じていた。長屋の人たちはこの処を<ruby><rb>大久保</rb><rt>おおくぼ</rt></ruby>長屋、また<ruby><rb>湯灌場</rb><rt>ゆかんば</rt></ruby>大久保と呼び、路地の中のやや広い道を、<ruby><rb>馬</rb><rt>うま</rt></ruby>の<ruby><rb>背新道</rb><rt>せしんみち</rt></ruby>と呼んでいた。道の中央が高く、家に接した両側が低くなっていた事から、馬の背に<ruby><rb>譬</rb><rt>たと</rt></ruby>えたので。歩き馴れぬものはきまって<ruby><rb>足駄</rb><rt>あしだ</rt></ruby>の<ruby><rb>横鼻緒</rb><rt>よこはなお</rt></ruby>を切ってしまった。維新前は五千石を領した旗本大久保<ruby><rb>豊後守</rb><rt>ぶんごのかみ</rt></ruby>の屋敷があった処で、六間堀に面した東裏には明治の末頃にも崩れかかった武家長屋がそのまま残っていた。またその辺から<ruby><rb>堀向</rb><rt>ほりむこう</rt></ruby>の林町三丁目の方へ架っていた小橋を大久保橋と<ruby><rb>称</rb><rt>とな</rt></ruby>えていた。

これらの事はその頃Ａ氏の語ったところであるが、その後わたくしは<ruby><rb>武鑑</rb><rt>ぶかん</rt></ruby>を調べて、嘉永三年頃に大久保豊後守<ruby><rb>忠恕</rb><rt>ただよし</rt></ruby>という人が幕府の大目附になっていた事を知った。明治八、九年頃までの東京地図には、江戸時代の地図と変りなく、この処に大久保氏の屋敷のあった事がしるされている。

かつてわたくしが<ruby><rb>籾山庭後</rb><rt>もみやまていご</rt></ruby>君と共に月刊雑誌『文明』なるものを編輯していた時、Ａ氏は深川夜烏という別号を署して、大久保長屋の事をかいた文を寄せられた。今その一節を見るに、

湯灌場大久保の屋敷跡。何故湯灌場大久保と言うのか。それは長慶寺の湯灌場と大久保の屋敷と鄰接している所から起った名である。<ruby><rb>露地</rb><rt>ろじ</rt></ruby>を入って右側の五軒長屋の二軒目、そこが<ruby><rb>阿久</rb><rt>おひさ</rt></ruby>の家で、即ち私の寄寓する家である。阿久はもと<ruby><rb>下谷</rb><rt>したや</rt></ruby>の芸者で、<ruby><rb>廃</rb><rt>や</rt></ruby>めてから私の世話になって二年の後、<ruby><rb>型</rb><rt>かた</rt></ruby>ばかりの式を行って内縁の妻となったのである。右隣りが電話のボタンを<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>える職人、左隣がブリキ職。ブリキ職の女房は亭主の稼ぎが薄いので、煙突掃除だの、エンヤラコに出たりする。それで五人の子持である。お腹がふくれると、口が<ruby><rb>殖</rb><rt>ふ</rt></ruby>える将来を案じて、出来ることなら<ruby><rb>流産</rb><rt>ながれ</rt></ruby>てしまえば<ruby><rb>可</rb><rt>よ</rt></ruby>いがと不養生のありたけをして、板の間にじかに坐ったり、<ruby><rb>出水</rb><rt>でみず</rt></ruby>の時、股のあたりまである泥水の中を歩き廻ったりしたにもかかわらず、くりくりと太った丈夫な男の児が生れた。

私の家は二畳に四畳半の二間きりである。四畳半には<ruby><rb>長火鉢</rb><rt>ながひばち</rt></ruby>、<ruby><rb>箪笥</rb><rt>たんす</rt></ruby>が<ruby><rb>二棹</rb><rt>ふたさお</rt></ruby>と机とが置いてある。それで、阿久と、お袋と、阿久の姉と四人住んでいるのである。その家へある日私の友達を十人ばかり招いて酒宴を催したのである。

先ず<ruby><rb>縁側</rb><rt>えんがわ</rt></ruby>に<ruby><rb>呉座</rb><rt>ござ</rt></ruby>を敷いた。四畳半へは毛布を敷いた。そして真中に食卓を<ruby><rb>据</rb><rt>す</rt></ruby>えた。長火鉢は台所へ運んで、お袋と姉とは台所へ退却した。そして境界に<ruby><rb>葭戸</rb><rt>よしど</rt></ruby>を立てた。二畳に阿久がいて、お<ruby><rb>銚子</rb><rt>ちょうし</rt></ruby>だの煮物だのを運んだ。（略）さて当日の模様をざっと書いて見ると、酒の良いのを二升、そら豆の<ruby><rb>塩茹</rb><rt>しおゆで</rt></ruby>に<ruby><rb>胡瓜</rb><rt>きゅうり</rt></ruby>の<ruby><rb>香物</rb><rt>こうのもの</rt></ruby>を酒の<ruby><rb>肴</rb><rt>さかな</rt></ruby>に、<ruby><rb>干瓢</rb><rt>かんぴょう</rt></ruby>の代りに<ruby><rb>山葵</rb><rt>わさび</rt></ruby>を入れた<ruby><rb>海苔巻</rb><rt>のりまき</rt></ruby>を出した。菓子折を注文して、それを長屋の軒別に配った。兄弟分が御世話になりますからとの口上を述べに何某が<ruby><rb>鹿爪</rb><rt>しかつめ</rt></ruby>らしい顔で長屋を廻ったりした。すると長屋一同から返礼に、大皿に寿司を<ruby><rb>遣</rb><rt>よこ</rt></ruby>した。<ruby><rb>唐紙</rb><rt>とうし</rt></ruby>を買って来て寄せ書きをやる。阿久の三味線で何某が<ruby><rb>落人</rb><rt>おちうど</rt></ruby>を語り、阿久は<ruby><rb>清心</rb><rt>せいしん</rt></ruby>を語った。銘々の<ruby><rb>隠芸</rb><rt>かくしげい</rt></ruby>も出て十一時まで大騒ぎに騒いだ。時は明治四十三年六月九日。

この時代には電車の中で職人が新聞をよむような事もなかったので、社会主義の宣伝はまだ深川の裏長屋には達していなかった。<ruby><rb>竹格子</rb><rt>たけごうし</rt></ruby>の窓には朝顔の鉢が置いてあったり、<ruby><rb>風鈴</rb><rt>ふうりん</rt></ruby>の吊されたところもあったほどで、<ruby><rb>向三軒両鄰</rb><rt>むこうさんげんりょうどな</rt></ruby>り、長屋の人たちはいずれも東京の場末に生れ育って、昔ながらの迷信と宿習との世界に安じていたものばかり。洋服をきて髯など<ruby><rb>生</rb><rt>はや</rt></ruby>したものはお廻りさんでなければ、救世軍のような、全く階級を異にし、また言語風俗をも異にした人たちだと思込んでいた。

わたくしは夜烏子がこの湯灌場大久保の裏長屋に<ruby><rb>潜</rb><rt>ひそ</rt></ruby>みかくれて、交りを文壇にもまた世間にも求めず、超然として独りその好む所の俳諧の道に遊んでいたのを見て、江戸固有の俳人<ruby><rb>気質</rb><rt>かたぎ</rt></ruby>を伝承した真の俳人として心から尊敬していたのである。子は初め漢文を修め、そのまさに帝国大学に入ろうとした年、病を得て学業を廃したが、数年の後、明治三十五、六年頃から学生の受験案内や講義録などを出版する書店に<ruby><rb>雇</rb><rt>やと</rt></ruby>われ、二十円足らずの給料を得て、十年一日の如く出版物の校正をしていたのである。俳句のみならず文章にも巧みであったが、人に勧められても一たびも文を<ruby><rb>售</rb><rt>う</rt></ruby>ろうとした事がなかった。同じ店に雇われていたものの中で、初め夜烏子について俳句のつくり方を学び、数年にして<ruby><rb>忽</rb><rt>たちまち</rt></ruby>門戸を張り、俳句雑誌を刊行するようになった人があったが、夜烏子はこれを見て唯一笑するばかりで、その人から句を<ruby><rb>請</rb><rt>こ</rt></ruby>われる時は快くこれを与えながら、更に報酬を受けなかった。

夜烏子は山の手の町に居住している人たちが、意義なき体面に<ruby><rb>累</rb><rt>わずら</rt></ruby>わされ、虚名のために<ruby><rb>齷齪</rb><rt>あくせく</rt></ruby>しているのに比して、裏長屋に棲息している貧民の生活が遥に<ruby><rb>廉潔</rb><rt>れんけつ</rt></ruby>で、また自由である事をよろこび、病余失意の一生をここに隠してしまったのである。或日一家を携えて、場末の<ruby><rb>小芝居</rb><rt>こしばい</rt></ruby>を<ruby><rb>看</rb><rt>み</rt></ruby>に行く日記の一節を見ると、夜烏子の人生観とまた併せてその時代の風俗とを窺うことができる。

明治四十四年二月五日。今日は深川座へ芝居を見に行くので、店から早帰りをする。製本屋のお<ruby><rb>神</rb><rt>かみ</rt></ruby>さんと<ruby><rb>阿久</rb><rt>おひさ</rt></ruby>とを先に出懸けさせて、私は三十分ばかりして後から先になるように電車に乗った。すると<ruby><rb>霊岸町</rb><rt>れいがんちょう</rt></ruby>の手前で、田舎丸出しの十八、九の色の<ruby><rb>蒼</rb><rt>あお</rt></ruby>い娘が、突然<ruby><rb>小間物店</rb><rt>こまものみせ</rt></ruby>を<ruby><rb>拡</rb><rt>ひろ</rt></ruby>げて、避ける間もなく、私の外出着の<ruby><rb>一張羅</rb><rt>いっちょうら</rt></ruby>へ<ruby><rb>真正面</rb><rt>まとも</rt></ruby>に浴せ懸けた。私は<ruby><rb>詮</rb><rt>せん</rt></ruby>すべを失った。娘の兄らしい兵隊は無言で、親爺らしい百姓が<ruby><rb>頻</rb><rt>しきり</rt></ruby>に詫びた。娘は俯向いてこそこそと降りた。<ruby><rb>癪</rb><rt>しゃく</rt></ruby>に<ruby><rb>障</rb><rt>さわ</rt></ruby>って<ruby><rb>忌々</rb><rt>いまいま</rt></ruby>しいが叱り飛す張合もない。災難だと諦めた。乗り合わした他の連中は頻に私に同情して、娘とその<ruby><rb>伴</rb><rt>つれ</rt></ruby>の図々しい間抜な態度を<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>った。<ruby><rb>飛沫</rb><rt>とばっちり</rt></ruby>を受けたので、眉を<ruby><rb>顰</rb><rt>ひそ</rt></ruby>めながら膝を拭いている婆さんや、<ruby><rb>足袋</rb><rt>たび</rt></ruby>の先を汚された職人もいたが、一番迷惑したのは私であった。<ruby><rb>黒江</rb><rt>くろえ</rt></ruby>町で電車を下りると、二人に逢った。今これこれだと阿久に話すと、人に歩かせて、自分は楽をしたものだから、その罰だと笑いながらも、汚れた<ruby><rb>羽織</rb><rt>はおり</rt></ruby>の仕末には困った顔をした。幸いとお神さんの亭主の妹の家が<ruby><rb>八幡様</rb><rt>はちまんさま</rt></ruby>の前だというので、そこへ行って羽織だけ<ruby><rb>摘</rb><rt>つま</rt></ruby>み洗いをしてもらうことにして、その間寒さを堪えて公園の中で待っていた。芝居へ入って前の方の<ruby><rb>平土間</rb><rt>ひらどま</rt></ruby>へ陣取る。<ruby><rb>出方</rb><rt>でかた</rt></ruby>は新次郎と言って、阿久の懇意な男であった。一番目は「酒井の太鼓」で、栄升の左衛門、雷蔵の善三郎と家康、蝶昇の茶坊主と馬場、高麗三郎の鳥居、芝三松の梅ヶ枝などが<ruby><rb>重立</rb><rt>おもだ</rt></ruby>ったものであった。道具の汚いのと、役者の絶句と、演芸中に舞台裏で大道具の釘を打つ音が<ruby><rb>台辞</rb><rt>せりふ</rt></ruby>を邪魔することなぞは、他では余り見受けない景物である。寒い芝居小屋だ。それに土間で小児の泣く声と、立ち歩くのを叱る出方の<ruby><rb>尖</rb><rt>とが</rt></ruby>り声とが耳障りになる。中幕の河庄では、芝三松の小春、雷蔵の治兵衛、高麗三郎の孫右衛門、栄升の太兵衛に蝶昇の善六。二番目は「河内山」で蝶昇が勤めた。雷蔵の松江侯と三千歳、高麗三郎の<ruby><rb>直侍</rb><rt>なおざむらい</rt></ruby>などで、<ruby><rb>清元</rb><rt>きよもと</rt></ruby>の出語りは若い女で、これは馬鹿に<ruby><rb>拙</rb><rt>まず</rt></ruby>い。延久代という<ruby><rb>名取名</rb><rt>なとりな</rt></ruby>を貰っている阿久は一々節廻しを<ruby><rb>貶</rb><rt>けな</rt></ruby>した。捕物の場で打出し。お神さんの持って来た幸寿司で何も取らず、会計は祝儀を合せて二円二十三銭也。芝居の前でお神さんに別れて帰りに阿久と二人で<ruby><rb>蕎麦屋</rb><rt>そばや</rt></ruby>へ入った。歩いて東森下町の家まで帰った時が<ruby><rb>恰度</rb><rt>ちょうど</rt></ruby>夜の十二時。

かつて深川座のあった処は、震災後道路が一変しているので、今は活動館のあるあたりか、あるいは公設市場のあるあたりであるのか、たまたま散歩するわたくしには判然しない。

むかしの<ruby><rb>黒江橋</rb><rt>くろえばし</rt></ruby>は今の<ruby><rb>黒亀橋</rb><rt>くろかめばし</rt></ruby>のあるあたりであろう。即ちむかし<ruby><rb>閻魔堂橋</rb><rt>えんまどうばし</rt></ruby>のあったあたりである。しかし今は寺院の堂宇も皆新しくなったのと、交通のあまりに繁激となったため、このあたりの町には、さして政策の興をひくべきものもなく、また人をして追憶に耽らせる余裕をも与えない。かつて明治座の役者たちと共に、電車通の<ruby><rb>心行寺</rb><rt>しんぎょうじ</rt></ruby>に<ruby><rb>鶴屋南北</rb><rt>つるやなんぼく</rt></ruby>の墓を<ruby><rb>掃</rb><rt>はら</rt></ruby>ったことや、そこから程遠からぬ油堀の下流に、三角屋敷の<ruby><rb>址</rb><rt>あと</rt></ruby>を尋ね歩いたことも、思えば十余年のむかしとなった。（三角屋敷は邸宅の址ではない。堀割の水に囲まれた町の一部が三角形をなしているので、その名を得たのである。）

今日の深川は西は大川の岸から、東は<ruby><rb>砂町</rb><rt>すなまち</rt></ruby>の境に至るまで、一木一草もない。焼跡の空地に生えた雑草を除けば、目に映ずる青いものは一ツもない。震災後に開かれた一直線の広い道路と、むかしから流れている幾筋の運河とが、際限なき焦土の上に建てられた臨時の建築物と仮小屋とのごみごみした間を縦横に貫き走っている処が、即ち深川だといえば、それで事は尽きてしまうのである。

災後、新に開かれたセメント<ruby><rb>敷</rb><rt>じき</rt></ruby>の<ruby><rb>大道</rb><rt>だいどう</rt></ruby>は、黒亀橋から<ruby><rb>冬木町</rb><rt>ふゆきちょう</rt></ruby>を貫き、仙台堀に沿うて走る<ruby><rb>福砂通</rb><rt>ふくさどおり</rt></ruby>と称するもの。また清洲橋から東に向い、小名木川と並行して中川を渡る<ruby><rb>清砂通</rb><rt>きよさどおり</rt></ruby>と称するもの。この二条の新道が深川の町を西から東へと走っている。また南北に通ずる新道にして電車の通らないものが三筋ある。これらの新道はそのいずれを歩いても、道幅が広く、両側の人家は低く小さく、処々に広漠たる<ruby><rb>空地</rb><rt>あきち</rt></ruby>があるので、青空ばかりが限りなく望まれるが、目に入るものは浮雲の外には、遠くに架っている釣橋の鉄骨と<ruby><rb>瓦斯</rb><rt>ガス</rt></ruby>タンクばかりで、<ruby><rb>鳶</rb><rt>とんび</rt></ruby>や烏の飛ぶ影さえもなく、遠い工場の響が鈍く、風の音のように聞える。<ruby><rb>昼中</rb><rt>ひるなか</rt></ruby>でも道行く人は途絶えがちで、たまたま走り過る乗合自動車には女車掌が眠そうな顔をして腰をかけている。わたくしは夕焼の雲を見たり、明月を賞したり、あるいはまた黙想に沈みながら漫歩するには、これほど<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>い道は他にない事を知った。それ以来下町へ用足しに出た帰りには、きまって深川の町はずれから砂町の新道路を歩くのである。

歩きながら或日ふと思出したのは、ギヨーム・アポリネールの『坐せる女』と題する小説である。この小説の中に、かつてシャンパンユの平和なる田園に生れて<ruby><rb>巴里</rb><rt>パリー</rt></ruby>の美術家となった一青年が、爆裂弾のために全村<ruby><rb>尽</rb><rt>ことごと</rt></ruby>く破滅したその故郷に遊び、むかしの静な村落が戦後一変して物質的文明の利器を集めた一新市街になっているのを目撃し、悲愁の情と共にまた<ruby><rb>一縷</rb><rt>いちる</rt></ruby>の希望を感じ、時勢につれて審美の観念の変動し行くことを述べた深刻な一章がある。

災後、東京の都市は忽ち復興して、その外観は一変した。セメントの新道路を逍遥して新しき時代の深川を見る時、おくれ<ruby><rb>走</rb><rt>ば</rt></ruby>せながら、わたくしもまた旧時代の審美観から<ruby><rb>蝉脱</rb><rt>せんだつ</rt></ruby>すべき時の<ruby><rb>来</rb><rt>きた</rt></ruby>った事を悟らなければならないような心持もするのである。

<ruby><rb>木場</rb><rt>きば</rt></ruby>の町にはむかしのままの堀割が残っているが、西洋文字の符号をつけた<ruby><rb>亜米利加</rb><rt>アメリカ</rt></ruby>松の<ruby><rb>山積</rb><rt>さんせき</rt></ruby>せられたのを見ては、今日誰かこの処を、「伏見に似たり桃の花」というものがあろう。モーターボートの響を耳にしては、「橋台に菜の花さけり」といわれた<ruby><rb>渡場</rb><rt>わたしば</rt></ruby>を思い出す人はない。かつて八幡宮の裏手から<ruby><rb>和倉町</rb><rt>わくらまち</rt></ruby>に臨む油堀のながれには渡場の残っていた事を、わたくしは唯夢のように思返すばかりである。

冬木町の弁天社は新道路の<ruby><rb>傍</rb><rt>かたわら</rt></ruby>に辛くもその址を留めている。しかし<ruby><rb>知十翁</rb><rt>ちじゅうおう</rt></ruby>が、「名月や銭金いはぬ世が恋ひし。」の句碑あることを知っているものが今は幾人あるであろう。（<ruby><rb>因</rb><rt>ちなみ</rt></ruby>にいう。冬木町の名も一時廃せられようとしたが、居住者のこれを惜しんだ事と、考証家島田筑波氏が旧記を調査した小冊子を公刊した事とによって、<ruby><rb>纔</rb><rt>わずか</rt></ruby>に改称の<ruby><rb>禍</rb><rt>わざわい</rt></ruby>を免れた。）

冬木弁天の前を通り過ぎて、広漠たる<ruby><rb>福砂通</rb><rt>ふくさどおり</rt></ruby>を歩いて行くと、やがて真直に仙台堀に沿うて、<ruby><rb>大横川</rb><rt>おおよこがわ</rt></ruby>の岸に出る。仙台堀と大横川との二流が<ruby><rb>交叉</rb><rt>こうさ</rt></ruby>するあたりには、更にこれらの運河から水を引入れた貯材池がそこ<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>にひろがっていて、セメントづくりの新しい橋は大小幾筋となく錯雑している。このあたりまで来ると、運河の水もいくらか澄んでいて、<ruby><rb>荷船</rb><rt>にぶね</rt></ruby>の往来もはげしからず、橋の上を走り過るトラックも少く、水陸いずこを見ても目に入るものは材木と鉄管ばかり。材木の匂を帯びた川風の清凉なことが著しく感じられる。深川もむかし六万坪と称えられたこのあたりまで来ると、案外空気の好い事が感じられるのである。

<ruby><rb>崎川橋</rb><rt>さきかわばし</rt></ruby>という新しいセメント造りの橋をわたった時、わたくしは向うに見える同じような橋を背景にして、炭のように黒くなった<ruby><rb>枯樹</rb><rt>かれき</rt></ruby>が二本、少しばかり<ruby><rb>蘆</rb><rt>あし</rt></ruby>のはえた水際から天を突くばかり聳え立っているのを見た。震災に焼かれた<ruby><rb>銀杏</rb><rt>いちょう</rt></ruby>か松の古木であろう。わたくしはこの巨大なる枯樹のあるがために、単調なる運河の眺望が忽ち活気を帯び、<ruby><rb>彼方</rb><rt>かなた</rt></ruby>の空にかすむ工場の建物を背景にして、ここに暗欝なる新しい時代の画図をつくり成している事を感じた。セメントの橋の上を材木置場の番人かと思われる貧し気な洋服姿の男が、<ruby><rb>赤児</rb><rt>あかご</rt></ruby>を背負った若い女と寄添いながら歩いて行く。その<ruby><rb>跫音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>がその姿と共に、橋の影を浮べた水の<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>をかすかに渡って来るかと思うと忽ち遠くの工場から一斉に夕方の汽笛が鳴り出す……。わたくしは何となくシャルパンチエーの好んで作曲するオペラでもきくような心持になることができた。

セメントの大通は大横川を越えた後、更に東の方に走って十間川を横切り<ruby><rb>砂町</rb><rt>すなまち</rt></ruby>の空地に突き入っている。砂町は深川のはずれのさびしい町と同じく、わたくしが好んで<ruby><rb>蒹葭</rb><rt>けんか</rt></ruby>の間に寂寞を求めに行くところである。折があったら砂町の記をつくりたいと思っている。

<ruby><rb>甲戌</rb><rt>こうじゅつ</rt></ruby>十一月記