Soranoha

大切な雰囲気

たいせつなふんいき

石井 柏亭

鬼才小出楢重が逝いてから早くも五年になろうとする。そうして今ここに彼の随筆集『大切な雰囲気』が刊行されることになった。これには『めでたき風景』に漏れた、昭和二年から四年へかけての二三篇「国産玩具の自動車」「挿絵の雑談」「二科会随想」等も含まれはするが、其大部分は其最も晩年なる五年中に書かれたものである。

体質の弱い彼は一年の間に画作に適する時季を極めて僅かしか持たなかったと毎々言って居たが、随筆には時季を選ばなかったのであろうか。五年には相当の分量を書いて居る。

小出の随筆にはユーモアと警句とが頻出する。例えば大久保作次郎君の印象を書いた短文のなかに、「君子は危きに近よらずとか申しますが、危きに内心ひそかに近よりたがる君子で、危い所には何があるかもよく御存じの君子の様な気もします。とに角ものわかりのよい、親切、丁寧、女性に対してものやさしきいい君子かも知れません」と云う如きは、随分大久保君の痛い所を突いて居るにも拘わらず、其言葉のもつユーモアの為めに人を怒らしめぬ徳がある。素人のする漫談を痛罵して「結び目なき話の尻は走ったままの電車であり、幕の閉まりそこねた芝居でもある」と云い、日本の近代洋画を談じては「どうやら手数を省いて急激に人の眼と神経をなぐりつけようとする傾向の画風と手法が発達しつつあり」と云い、立秋奈良風景を描いては猿沢池から春日へ爪先あがりのかんかん照りの坂道を「丁度張物板を西日に向って立てかけてあるのと同じ角度に於て太陽に向って居る」と云い、又尖端的な世界にあっては清潔第一、垢が禁物であることを論じては「それは手術室の如く埃と黴菌を絶滅し、エナメルを塗り立てて、渋味、雅味、垢、古色、仙骨をアルコオルで洗い清め、常に鋭く光沢を保たしめねばならない。断髪の女性にして二三日風邪で寝込むとその襟足の毛が二三分延びてくる。すると尼さんの持つ不吉なる雅味を生じてくる」と述ぶるが如き、みな彼独特のユーモアと警句とでないものはない。

渡欧に際し猿股のことばかり考えて居て絵具箱を携帯する事を忘れて了ったと、私は神戸の埠頭に於て彼から直接聴いたのであるがそれは彼として決して不自然ではないらしい。「猿股の紐通し機械を売る婆さんは、猿股へ紐を通しては引出し、また通しては引出している。私は時に猿股の紐がぬけた時、あれを買っとけばよかったと思うことがある。さてその前へ立った時、どうも買う勇気は出ない」(阪神夜店歩き)と云うその告白が猿股についての彼が関心を如実にあらわして居る。

彼の画がそうであるように、其随筆も亦彼の鋭い神経と敏い感受性とをよく示して居る。随分突飛なことを言って居るようでありながら、それが常識を逸して居らず、妥当性を失って居ないのは、彼の特異な体質と感性とに基づいての観察を飾りなしに極めて自然に表白して居るためであろう。彼の随筆には古いもの伝統的なものに憧れる都会人と機械美を好む尖端人との交錯が窺われる。そうして古いものの完き姿が現代に求められなくなり、磨きのかかって居なければならぬ尖端ものに彼の所謂埃や垢が附いて居ることは、絶えず彼の神経を刺激し、彼をして顔を顰めさせたようである。

石井柏亭

底本 / Source edition

底本:「大切な雰囲気」昭森社
1936(昭和11)年1月6日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
入力:小林繁雄
校正:米田進
2008年12月10日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

この表示について / About this rendering

記録は下にリンクした署名済みの TEI ファイルです。このページはそれを読むための一つの形です。読みが複数ある箇所は一つだけを本文に示し、もう一方は語の title に残しています。 / The record is the signed TEI file linked below. This page is one way of reading it. Where the text has more than one reading, the page shows one of them and keeps the other on the word itself, in its title text.

リリース / Release
913b24012e1626b47bebf5a14fd31773728229efdb088f1ceb934717c1ac800c
TEI
/works/049638_001381/tei
プレーンテキスト / Plain text
/works/049638_001381/plaintext
書誌 / Bibliography
/works/049638_001381/

石井 柏亭「大切な雰囲気──02 序」(新字新仮名)、底本『大切な雰囲気』昭森社、1936年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 049638_001381, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

引用のしかた / How to cite