Soranoha

利尻山とその植物

りしりざんとそのしょくぶつ

牧野 富太郎

余が北見の国利尻島の利尻山に登ったのは、三十六年の八月である、農学士川上滝弥君が、数年前に数十日の間この山に立籠って、採集せられた結果を『植物学雑誌』に発表せられたのを、読んでから、折があったら自分も一度はこの山に採集に出かけたいと思っていたが、何分にも好機会がないので、思いながら久しく目的を達することが出来なかった、然しかるに山岳会の会員中で高山植物の採集と培養に熱心な加藤泰秋子爵が、この山の採集を思い立たるるとの話を聞いたので、もし同行が出来れば自分は大変に利益を得られるであろうと信じた所が、子爵もその当時は高山植物に充分の経験を持っておられなかった点もあるので、誰か同行をしてくれる人があればと捜しておられる所であったので、自分の希望は直ただちに子爵の厚意に依て満足せしめられることが出来たのである、しかしその約束の条件として、自分はこの採集の紀行を書くことを引受けたことを第一に白状せねばならぬ、ところが俗にいう、鹿を逐おう猟師は山を見ずで、植物の採集に夢中になっていると、山の形やら、途中の有様やら、どうも後から考えて見れば、筆を採って紀行文を作るということが、甚はなはだ困難である、そこでいずれその内にと思いながら次第に年月は経過するし、益々記憶がぼんやりするし、今日となっては紀行を書くということは、絶対に出来悪にくいこととなってしまった、ところがこの事に当初から関係しておられる諸君は、頻しきりにこのことを余に責められるので、今更何とも致方いたしかたがない、それで幸いに山岳会の雑誌に大略のことを載せてもろうて、自分の責を塞ふさぎ、かつは加藤子爵及びその他の諸君にもこの顛末てんまつを告げて謝したいと思う。

加藤子爵は北海道に開墾地を持ておられるので、其方に先さきに出発せられて、余が東京を出発したのは七月二十六日であった、勿論東京からは同行者もないので、青森に着いて、一、二の人を訪問して、二十八日に同所を出発して、二十九日に室蘭に上陸した、この間は別に話すべきこともないが、同日の午後四時に紋別モンベツを過ぎて虻田アブタの村に到着した、その翌三十日には、加藤子爵の開墾地で同じ虻田村の中の幌萠ホロモイという所に着いて、加藤子爵に会合することが出来た、その日その翌日などは、その附近の植物を採集して、種々の獲物があったが、これも今度の話の主でないから、ズット略することにしよう。

八月三日に加藤子爵の一行と札幌に到着して、山形屋に宿を取った、ところがどういう加減であったか、自分が病気を発したので、一時は折角の思い立ちも、此所ここまで来て断念しなければならぬかと心配をしたけれども、思った程でもなく、翌日は殆んど全快をしてしまった、それから三日ほど過ぎて、六日の日であるが、札幌農学校の宮部博士と、加藤子爵とそれから子爵の随行の吉川真水という人と、幌向ホロムイの泥炭でいたん地に採収を試みた、この日は山草家の木下友三郎君も同行せられることになった、ちょっと話が前に立戻るが木下君は、東京にある時から、此度の利尻登山に同行せられるかも知れないという予約があって、同君も他の用を兼ねて北海道に来らるる都合であったから、一同が途中で待合せつつ幾干いくばくか日数を費すような訳になったのである。

翌七日にはいよいよ利尻島に向って進行するために札幌を出発して、加藤子爵主従に木下法学士と余と都合四人外に井口正道という人が小樽に着して、色内町の越中屋に一先ひとまず足を休めたが、井口氏は病気を発したので、到頭小樽に残ることになった、余ら四人は即日小樽を出発して日高丸に乗込んだ、元来利尻に行くのには、小樽から北見の稚内ワッカナイへの定期航海船に便乗するので、一週間に一回ということであるからして、その船が帰りに利尻に寄港する時、またそれに乗込んで帰るのが普通の順序であるそうだ、海上は至って穏かであった、午後六時頃「増毛」という所に着して、十時頃また同所を出発して、翌八日の午前六時頃、焼尻島に碇を下した、という程もなく、直に同所を出発してまた七時に天売テウリに一時進行を止めて、また北に向って出発した、午前十一時頃であったろうと思う、利尻島の内で、鬼脇おにわきという港に着いた、この港は利尻の内で第一の都会といっても宜よろしいのである、それから午後一時二十分というに、いよいよ一行が上陸すべき鴛泊おしどまりの港に投錨した、直に上陸して熊谷という旅店に一行は陣取ることになった。

この日は朝からして雲が多く、思うように山の形を見ることも出来なかったのでもあるし、幸いにして海上の波は穏かであったけれども、格別面白いこともなくして十時頃になったのであるが、幸いにも次第に晴天となったので、鬼脇に着する前からして、遥かに利尻山の尖とがりたる峰を眺むることが出来た、早上陸する前から一同は山ばかりを見て、あの辺がどうであろうとか、そうではあるまいとかの評定ばかりで、随分傍から見たら可笑おかしい位であったろうと思う、一行の泊った熊谷という宿屋は、この土地ではかなりの旅店で、殊ことに最初思ったよりは、この島が開けているので、格別不自由を感ずるほどのこともなかった。

この日は何のなすこともなく、日を暮らすのも勿体ないという相談から、一同打連れて近傍の植物採集に出かけたのが、殆んど四時頃であったろうと思う、大泊村の海岸へ行おもむいた、鴛泊から西の方に当って、おおよそ五、六丁位の所である、人家は格別沢山もないが、所々に漁業をなすものの家が幾軒ずつか散在している位である、その海岸に小さな岡があるので、その岡の上に登って見渡したところが、一帯に島の中央に向って高原的の地勢をなしている、海岸の所はあるいは岩壁もあるし、あるいは浜となっているところもある、また海岸は雑木の生えているところもあれば、草原となっているところもあるが、とにかく森林をなしているほどのところは海岸から少し隔っている、その森林の樹木は、エゾマツとトドマツといっても宜しいのである、今申した海岸の小さな岡の辺で採集した植物は先ずこんなものである、ヨモギ、アキノキリンソウ、カワラナデシコ、シロワレモコウ、ハギ、ウシノケグサ、オタカラコウ、アキカラマツ、キタミアザミ、マイヅルソウ、ツルウメモドキ、ツタウルシ、ハナウド、ススキ、スゲ、サマニヨモギ、エゾノヨモギギク、ヤマハハコ、ハマシャシン(ツリガネニンジンの一品)、カワラマツバ、オオヤマフスマ、イワガリヤス、ナワシロイチゴ、コウゾリナ、クサフジ、などである、その内で、エゾノヨモギギクは日本での珍品といって宜しい植物である、それからこの岡の下で、チシマフウロを採集した、岡の北面の絶壁を海の方に向いて、下った所、岩壁の腰のあたりには、ポレヤナギが沢山に自生しているのを見た、それから、エゾイヌナズナは、丁度イワレンゲのように沢山生えておった、エゾノヒナノウスツボ、エゾハマハタザオ、ウシノケグサ、エゾオオバコ、ツメクサ、ノコギリソウ、イワレンゲなども、この辺に沢山あるし、中にも眼に付いたのは、シロヨモギの色が殆んど霜のように白かったのである、こんな草の生えているその下は、直ぐに波に打たれているのである、岩の上部には、オタカラコウ、ツタウルシ、シロワレモコウ、エゾオトギリなどが多く生えていて、ガンコウランもこの辺に生じているのを見た。

先ずこの日はこの位の採集で一同宿に帰って、晩食後は自分はこの採集品の整理に忙がしかったので、他の諸君のことはよく覚えていないが、多分利尻山登山の準備に就て心配せられたであろうと思う、しかしこの島の人に尋ねても、利尻山は信心にて詣る人が日帰りに登るだけのことで、道ももとより悪いし、山上に泊るべき小屋などのある訳もないとのことで、何分にも宿屋では山の上の詳しい模様は知ることが出来なかった。

九日はなお前日に続いて登山の用意をすることになった、一体はこの日早朝から山に向って踏み出すべきはずであったが、天気模様が悪いので、今一日滞在して充分に用意をしたら宜よかろうということで、結局雨のために一日滞在することになった、午後になって雨は漸ようやく止やんで五時頃から晴天となったので、未だ暮れるには間があるからといって、一同は燈台のある岡の近辺に採集を試みた、この岡は昨日採集した方面とは全く反対であるが、自生している植物の種類は、センダイハギ、ハチジョウナ、イヌゴマ、ハマニンニク、エゾノヒナノウスツボ、ハマエンドウ、アキカラマツ、ノゲシ、ハマハコベ、イチゴツナギ、ホソバノハマアカザ、ナミキソウ、オオバコ、オトギリソウ、ヤマハハコ、アキタブキ、ハマベンケイ、カセンソウ、イヌタデ、イブキジャコウソウ、エゾオオバコ、オチツボスミレ、シオツメクサ、エゾイヌナズナなどであったが、その外にノボロギクがこの辺にも輸入されているのを見た。

十日、いよいよ利尻山に登山するために、鴛泊の宿を払暁に出発した、同行は例の四人の外に人足がたしか七人か八人かであろう、つまり一人に就て人足二人位の割合であったように思うている、とにかく弁当やら、草の入れ物やら、あるいは余が使用する押紙などを、沢山に持たしたのであるから、普通の人の登山に較べたら、人足の数もよほど多かったであろうと思う、鴛泊の町を宿屋から南東に向って、五、六町も行ってから、右の方に折れたように思う、一体は宿を出でて間もなく、右に曲りて登るのが利尻山への本道であるらしいが、余らの一行は、途中で、ミズゴケを採る必要があるので、ミズゴケの沢山にあるという池の方へ廻ることになったために、こんな道筋を進んだのである、町はずれから右に折れて、幾町か爪先上りに進んで行けば、高原に出るが、草が深くて道は小さいので、やっと捜して行く位である、次第に進むに従って雑木やら、ネマガリダケ、ミヤコザサなどが段々生い繁って、人の丈よりも高い位であるからして、道は殆んど見ることが出来ないようなというよりも、道は全くないと言った方が宜いのである、そんなところを数町の間押分けながら進んで、漸く池のある所に出たが、無論この池の名はないのである、ミズゴケが沢山この辺にあるので、一同は充分に先ずこれを採集した、池の辺は、トドマツと、エゾマツが一番多くこの辺はすべて喬木林をなしている、その林中にある植物は、重おもなるものを数えて見ると、ミヤマシケシダ、シロバナニガナ、ツボスミレ、ホザキナナカマド、メシダ、オオメシダ、ジュウモンジシダ、ミヤママタタビ、サルナシ、バッコヤナギ、オオバノヨツバムグラ、テンナンショウ、ヒトリシズカ、ミツバベンケイソウ、ヒメジャゴケ、ウド、ザゼンソウ、ナンバンハコベ、ミヤマタニタデ、イワガネゼンマイなどである、この池から先きは、多少の斜面となっているので、その斜面を伝うて登れば先ず笹原である、笹原の次が雑木である、雑木の次がエゾマツとトドマツの密生している森林で、道は全く形もないのに傾斜はますます急である、一行はこの森林の中を非常な困難をして登ったのであるが、間もなく斜面が漸く緩になると同時に、森林が変じて笹原となって、終には谷に出ることが出来た。

この谷には水もあるので、十二時に間もないから先ずこの辺で食事をしようということになったが、何分にも未だ利尻山の頂上も見ることが出来ないという有様であるから、一行も殆んど何の愉快を感ずることが出来なかったのである、加藤子爵が今では大事の盆栽としておられる、エゾマツの数本寄せ植の小さな鉢物は、この食事をした場所で岩の上に実生みしょうのかたまりがあったのを、木下君がいたずら半分に採られたのであったと思う、その当時はあんなに美事みごとの盆栽になろうとは思わなかったが、人の丹精というものは誠に怖しいものであると思う程の盆栽となったのである。

食事をした場所から先きは、水のある谷を伝うて遡さかのぼって行くのであって、別段道という道は更にない、谷の両岸はいずれも雑木やら笹原やらで、谷の中にある石は重に丸味勝の石であったように覚えている、進むに従って谷は漸く窮まって、水も次第に少なくなる、その辺からして谷を捨てて、右の方へ横に這入はいったが、傾斜がますます急で殊に笹が密生して登るのには非常に困難を感じた、この辺でザゼンソウを採集したと思う、笹原の急な傾斜も終には尽きて、低いエゾノタケカンバあるいはその他の樹の、ハイマツに混じて生えているところに出たが、いずれも高くないだけに、ある時には跨またぐことも出来るが、またある時には腰を屈めて潜らなければならぬという有様で、随分登る時には楽でない道筋であった、この辺一体のハイマツは、山火に焼けたのであるか、枝が枯れて白く曝さらされたようになって、それも山上に登ってから眺めるというと、殆んど雪でも積っているかと思うほどに白く見えるところが、随分と広いのである、困難に困難を重ねて、一行は殆んど弱り切ってしまった頃に、漸く道路らしいものに出ることが出来たが、これが鴛泊の町から、利尻山に登る本道であるとのことである、道路といってももとより山道であるからして、至って小さい上にまた勾配も急である。

この辺には、イワツツジが沢山に生えていた、勿論花は既に稀であったが、このイワツツジの果実は赤い色のもので、食うことも出来るしまた芳わしい香があるのである、それから花はないが、この辺には既にキバナノシャクナゲも沢山自生していた、その外にはエゾフスマなどが生じておったと思う、この辺から先きは殆んど峰伝いに頂上に向って進むという有様である、此処ここが恐らく薬師山と称せられる峰であるだろうと思う、もしそうであるとすれば、標高四千尺位の所に一同は既に達しているのである、それから数町の間は峰伝いとは言いながら、たるみがあるので、この辺から前面を望めば頂上も格別遠くなく仰ぐことが出来るけれども、この日はミズゴケ採集のため迂廻うかいして少なからぬ時間を費したので、頂上まで登って充分の採集をして、鴛泊まで帰着するということは、よほど困難に思われて来たけれども、この辺からして思い思いに採集しつつ進むので、あるいは遅れた者もあるし、あるいはズット先に駈抜けているものもあるし、中々相談をして下山のことを何いずれにか決定するということが出来ないのである、段々たるみのところを進んで行く内に、風は次第に強くなるし、時刻も段々移って来たので、何とか話を極きめねばなるまいと思っている時、子爵は率先してよほど登られたようであったが、この時とうとう引返して来られたし、木下氏も丁度あまり遠からぬ所におられたので、一同相談を始めた、その相談の結果は、子爵だけは老体のことでもあるし、勿論露営の準備等もないのである上に第一食物の用意がないので、終に人足の大部分を率いて下山せらるることになった、山に残るものは、人足が二人それに木下君と自分と都合四人である、ところがこの四人も勿論食事の用意は更にないのであるからして、下山した人足の内で、直に食物と露営の防寒具等を携えて、再び登り来るように命じて殆んど日没に間近きころ、余らは加藤子爵の一行と袂たもとを分つことになった。

前にも言った通り山上に一泊の予定でなかったから、何らの用意もないので、どうして一夜を明したら宜しいかと一同殆ど当惑したが、第一に水を得なければ困るのであるから、その辺を捜して見たところが、左の方に草を分けて一町ほど下れば、其所そこに水もある、また水の辺に小さな小屋があったらしい跡がある、これが今から考えて見ると、川上君などがこの山に籠った処であろうと思う、それから先ず木下君と余は共に夏服であるからして、たださえ夜になれば冷気を感ずる位であるから、この高山の上ではますます寒気が強く堪えられないのは勿論である、従って充分に火を焚たいて暖を取ることが肝要であるから、人足に命じてかなり多くの燃料を集めさせた、またその次には小屋という小屋は無論ないから、何とかして自分ら二人の身体を入れるだけのものを拵こしらえたいと思ったが、それも思うようには出来ないので、止やむを得ないから、この辺の雑木はつまり、エゾノタケカンバとミヤマハンノキと中に少しずつ、ハイマツも混じっているが、高サが三、四尺位しかないのであるから、それを二人の身体が半分位ずつ入れられるほど結び合せて、その下に木下君と共に腰から上だけを入れるように拵え上げたのである。

この晩は幸にして晴天で、雨の心配はなかったが、風は中々強いので、寒気は膚を徹するというほどであった、実はこの山上から鴛泊の町まで格別の遠サでもないと思ったから、加藤子爵と共に下山した人足が、直ぐに食物と防寒具を持って登ったならば、遅くも九時か十時頃までには来てくれるだろうと思っておった、ところが、十時が十一時になっても誰も登って来るものがない、食物さえも殆ど用意がないので、加藤子爵その他の人の残したのを僅に食した位で、ますます寒気を感ずることが強いので、止を得ずただ無暗と樹の枝を焚いて身体を暖めることになった、後に鴛泊に降って聞けば、我々の焚火が町からもよく見えたので、知らぬ人は不思議に思っていたとのことであった。

充分に眠ることも出来なかったが、先ず無事十一日の朝となった所が、夜が明けても人足は一向に登って来ない、そこで差当り困るのは最早食物は少しもないのである、詮方なく遠くにも行かれず、ただこの附近の植物の採集を始めた、この朝採ったものは、ジンヨウスイバ、キクバクワガタ、イワレンゲソウ、リシリトリカブト、ゴヨウイチゴ、イワオトギリ、シシウドなどが重なるものであった、とかくする内に午前十時頃となって、漸く町に下った人足らが登って来て、朝の食事をすることが出来た、人足らは宿に着いて直に踏出したそうであるが、何分にも深夜になって登ることが出来ないので、遂に途中に一泊したとのことであった、加藤子爵も昨夜下山の途に就かれたが、途中ネマガリダケやらミヤコザサやら道に横わっていて、ますます足場が悪くなり、非常に疲労せられたので、鴛泊に帰着されたのは、十二時過る頃であったとのことである、それを考えて見ると、山上に露営した方が、あるいは楽であったかも知れない、十一日の日には木下君は、充分の採集をしたからといって、終に人足と共に下山せられるとの事であるが、余は何分にもまだこの山を捨てて去ることが出来ないので、終に一人踏止まって、なお一夜を明かすことに決心した。

峰に向って進んで行けば、砂礫の地に達するのであるが、この辺には樹は殆んどないといっても宜しい、もっとも夥おびただしく生えているのが、チシマヒナゲシである、その株のもっとも大なのは直径が五寸ほどもあるかと思う、しかしこの辺には、他の草はあまり多くない方であって、チシマヒナゲシもまたこの土地を除いて外の部分には、殆んど見当らなかったのである、ヤマハナソウ、シコタンソウ、シコタンハコベ、エゾコザクラ、リシリリンドウ、チシマリンドウなども、この辺から絶頂に達する間に自生していた。

絶頂に達すると、木造の小さな祠ほこらがあるが、確か不動尊を祀まつってあるという話しであった、絶頂は別段平地がある訳でもなく、またこの辺には樹は生えていなくて皆草ばかりである、草は少ない方ではないといって宜しかろう、この辺に、タカネオウギの自生しているのを見た、絶頂から少し向うへ下る所まで、木下君と同行したが、此所ここでとうとう同君と分れて、自分は一人となった、その辺にリシリオウギ、ヒメハナワラビ、ミヤマハナワラビなどが生えている。

この絶頂に立って眺むるというと、東北の方に当っては、宗谷湾が明かに見ることが出来て、白雲がその辺から南の方に棚引いて、広き線を引いておって、幽かに天塩テシオの国の山々を見ることが出来た、西の方は礼文島レブンとうを鮮あざやかに見ることが出来て、その外にはいわゆる日本海で何にも眼に遮さえぎるものはなく、ただ時々雲の動くのを見るばかりである、それから今は日本の領地となったのであるが、樺太の方は、この時朦朧もうろうとして、何れが山であるか雲であるかを見分ることも出来ない有様であった、最も愉快であったのは、夕陽が西に廻るに従って、利尻山の影が東の海上にありありと映って、富士山でよく人の見るという、影富士と同様のものを、この北海の波上に見ることが出来たのである、なおそれよりも愉快であったのは、午後四時頃であったと思う、この利尻山の絶頂に於て、いわゆる御来光ごらいごうを見ることが出来た、即ち自分の姿が判然と自分の前を顕われるのを見ることが出来たのである。

絶頂よりなお前面を見れば第二の峰が聳そびえているのであるが、時間がなくなったのでこの日は第二の峰に行かずして、前夜の露営地まで戻ることになった、今日は随分採集をしたのであるからして、その始末をするに、多くの時間を費して、終に徹夜をするような有様になった、しかしながら、前夜に比すれば、防寒具なども人足らが携え来ったのであるから、大いに寒気を凌しのぐことが出来た。

十二日の日も幸いにして晴天であった、午前三時頃露営の小屋を出でて仰ぎ見れば孤月高く天半に懸って、利尻山の絶頂は突兀とっこつとして月下に聳えている、この間の風物は何んとも言いようのない有様である、三時頃からして東の方が漸く明るくなって、四時半には太陽が地平線上に出た、この時西北の方を仰ぎ見ると、昨日は多少雲もあったが、今日は更に一点の浮雲もないので、礼文の方はますます鮮かに見ることが出来た上に、宗谷の方も東に無論見ゆるし、東北の方に一ツの小さな島を見ることが出来た、この島は無論樺太に属するものである、朝の食事を終ってから再び絶頂に進んで、それからなお第二の峰に向って足を進めたが、その間は僅に三、四町に過ぎないといっても宜しいであろう、勿論足場はよくないけれども、無論第一の峰ほどの困難はないのである、第二の峰にはあまり石などはないのであるが、自生している草は、チシマラッキョウ、エゾヨツバシオガマ、ホソバオンタデ、リシリソウなどで、殊にキバナノシャクナゲが甚だ夥おびただしく自生していた、第二峰の先きに第三の峰があるが、この峰に行くのは甚だ困難で、中間に絶壁の殆んど足場の得難いものがあるので、残念ながら全く断念することの止を得ないのを認めた、第二峰から西の斜面に降ったところに、蝋燭ろうそく岩という大きな岩がある、岩の上にはタカネツメクサやらコイワレンゲなどが生じていて、またその岩の下には、チシマイワブキやら、エゾコザクラの花のあるのなどが生じておった、この辺は雪が消えて間もないような模様であったが、しかし残雪は認めなかった。

既に第三峰に行くのを断念したから、この峰から後戻りをして、第一峰に帰り、それから少し下って右の斜面に這入はいって見たら、この辺は一面に草があって、その中にはアラシグサが沢山生えておった、なおそれから少し下ると雪が沢山に残っている、その大サは幅が十間ばかりもあったであろうか、長く下の方まで連っているのでその長サがどの位あるか殆んど窮めが附かない、この雪の両側にはキンバイソウが黄金色の花を開いて夥しく生じておった、その萼弁がくべんが十枚以上あって、あるいは一の新種ではなかろうかと思われるほどである、リシリキンバイソウもこの辺に生じていたし、エゾコザクラも丁度花盛りであった、無論この残雪のあるあたりは、幾分谷のような形をなしていて、その谷の両側は殆んど一面にハイマツが土を掩おおうている、そのハイマツを越えて、雪の左の方に向って進んで行けば、露営地の下の谷のところへ出られるのである、漸くこの辺に達した時分に天気が変って来て、終に雨が降り出した。

あまり所々を採集して時間が遅くなったから人足が毛布を振って頻しきりに余を呼んでいる、モウ随分満足することが出来るほど採集したから、それより立ち戻って露営地に着した時は、日も漸く西の波間に没せんとする頃であった、いよいよ仕度を整えて、下山の途に就たのは七時に近い頃であって、余とこの時まで山上に止まっていたのは人足が二人である、少し下ったかと思うと、日は全く暮れてしまって、下るに中々困難で、加藤子爵の一昨夜のこともますます察せられた、殊に人足らは重い荷物を背負っているから大変に後おくれるのであるからして、余は提灯を点つけてズンズン先きに進み、ハイマツの焼けて白くなっている所まで行って、人足らの下って来るのを待っておったが、段々夜は更ふけるし、殊ことに何だか大きな鳥が時々飛んで来て、何やら気味が悪いような心持もするし、今から考えて見ると、大方北海に名高い鷲であろうかと思うが、その時は何の鳥という考もなく、時々棒を振って打とうとするが、中々それが届くほど低くは飛んで来ないのである。

人足も来たので、また打連れて下った、終に笹原の中に這入はいって幾度かつまずいたり、転んだりして、終に一ツの渓流のあるところまで下った、その時は十一時頃であった、こうなってはとても鴛泊まで行かれそうもないから、いっその事此処ここで露営した方がと思うた、それはツマリこの石のゴロゴロした谷を伝うて下るのであるから、とても今までのようなことではないという話であったから、止やむを得ずそのことに決した、此所ここに落付くことになったが、何分にも下は湿っているし、寒くはあるし、中々眠ることは出来ない、その上に雨は本式に降り出したので、何んともいえない困難をした。

十三日の朝になって、漸く宿に着した時には、もとより笠もないのであるからして、まるで濡鼠のようになって、衣服は全く水漬になってしまったのである、そんな有様であるから、雨の降るのを幸いに十三日一日は宿に閉籠って休憩きゅうけいをして、その次の十四日には雨も霽はれたから、加藤木下両氏と共に多少の散歩をした位で、十五日になってから、やっと小樽行の船が鴛泊に着したのでこれに乗込んだ、勿論往きに乗った日高丸が帰って来るはずであるが、どういう都合かその船の代りに駿河丸が来たので、それに乗って十六日の夜の十二時頃小樽の越中屋に帰着した、それから先はあるいは札幌の方に足を止とめられた人もあるし、あるいは東京に急いで帰られた人もあるから、思い思いに分れてしまったが、とにかく利尻山の採集はここに全くその局を結んだのである。

余の記憶に残っているのはこんなことであって、誠に紀行とも言えないし、採集記とも勿論言えない位であるから、もし詳しいことを知りたいという方は『植物学雑誌』に出ている、川上君の「利尻島に於ける植物分布の状態」という論文を御覧になれば、山の模様から植物の分布の有様も一層明かになるであろうと思う、しかしとにかく前にも言った通り、登山の紀行を書かなければならぬという事になっているのであるから、申訳ながらせめて御話だけでもして、自分の責を塞ふさぐ積りである、どうかそのお積りで読んで頂きたい。

底本 / Source edition

底本:「山の旅 明治・大正篇」岩波文庫、岩波書店
2003(平成15)年9月17日第1刷発行
2004(平成16)年2月14日第3刷発行
底本の親本:「山岳 一の二」
1906(明治39)年6月
初出:「山岳 一の二」
1906(明治39)年6月
入力:川山隆
校正:門田裕志
2010年2月4日作成
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プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
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牧野 富太郎「利尻山とその植物」(新字新仮名)、底本『山の旅 明治・大正篇』岩波文庫、岩波書店、2003年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 049587_001266, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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