山仲間から、アメリカで好きな山は何か、と聞かれると、一番<ruby><rb>先</rb><rt>さ</rt></ruby>きに頭に浮ぶのは、シャスタ山である。がそれは必ずしも、好きであるからではない、位置が南に<ruby><rb>偏</rb><rt>かたよ</rt></ruby>り過ぎて、雪が早く融けるし、氷河は<ruby><rb>小</rb><rt>ち</rt></ruby>ッぽけな<ruby><rb>塊</rb><rt>かたまり</rt></ruby>に過ぎないし、富士山のように、新火山岩で、<ruby><rb>砂礫</rb><rt>されき</rt></ruby>や岩石が崩れ<ruby><rb>易</rb><rt>やす</rt></ruby>いので、高山植物は稀薄であるし、「好き」になるところまでは行かないが、それでも、最も多く心を<ruby><rb>惹</rb><rt>ひ</rt></ruby>かれる山である。<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>というに、キャリフォルニアからオレゴン州への、境近い街道に、山が<ruby><rb>聳</rb><rt>そび</rt></ruby>えて、複式二重の成層火山、シャスタとシャスチナと、二人の容姿端麗なる姉妹が、見る角度に<ruby><rb>依</rb><rt>よ</rt></ruby>っては、並んで手を<ruby><rb>繋</rb><rt>つな</rt></ruby>ぎ合ってもいるし、また背中合せに<ruby><rb>丈</rb><rt>たけ</rt></ruby>くらべをしているようでもあり、何となく人<ruby><rb>懐</rb><rt>なつ</rt></ruby>かしい山に見えるからである。その<ruby><rb>麓</rb><rt>ふもと</rt></ruby>を汽車が通っていることは、<ruby><rb>丁度</rb><rt>ちょうど</rt></ruby>富士山の<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>を、<ruby><rb>御殿場</rb><rt>ごてんば</rt></ruby>から佐野（今は「<ruby><rb>裾野</rb><rt>すその</rt></ruby>」駅）、三島、沼津と、<ruby><rb>廻</rb><rt>まわ</rt></ruby>って行くようで、しかも東海道が古くからの宿駅であるように、シャスタ<ruby><rb>山麓</rb><rt>さんろく</rt></ruby>の村落も、街道も、一八四八年以後の、米国西海岸への移民時代には、ある時には、印度人と白人とが必死になって闘ったり、<ruby><rb>殊</rb><rt>こと</rt></ruby>に一八五一年、シャスタ山から、三十五<ruby><rb>哩</rb><rt>マイル</rt></ruby>離れたワイレカというところに、金鉱が発見されてからは、<ruby><rb>成金</rb><rt>なりきん</rt></ruby>を夢見る山師たちが、<ruby><rb>鶴嘴</rb><rt>つるはし</rt></ruby>をかついで、ほうほうたる<ruby><rb>髯面</rb><rt>ひげづら</rt></ruby>を炎熱に<ruby><rb>晒</rb><rt>さら</rt></ruby>して、野鼠の群のように通行したところで、今では<ruby><rb>御伽話</rb><rt>おとぎばなし</rt></ruby>か、<ruby><rb>英雄譚</rb><rt>えいゆうたん</rt></ruby>の古い舞台になっている。かつて<ruby><rb>桑港</rb><rt>サンフランシスコ</rt></ruby>の古本屋で見たその頃の石版画に、シャスタ火山が、<ruby><rb>虚空</rb><rt>こくう</rt></ruby>に<ruby><rb>抛</rb><rt>な</rt></ruby>げられた白炎のように、盛り上っている下を、二頭立ちの箱馬車が、のろくさと<ruby><rb>這</rb><rt>は</rt></ruby>いずって、箱の中には、旅の家族とおぼしい女交りの一連が、窮窟そうにギッシリ詰まっているが、屋根の上にはチョッキ一枚になって、シガアを<ruby><rb>燻</rb><rt>くゆ</rt></ruby>らしている荒くれ男たちが、不行儀に、<ruby><rb>臀</rb><rt>しり</rt></ruby>や<ruby><rb>脛</rb><rt>すね</rt></ruby>をむき出しに、寝そべっているところを描いたのがあったが、<ruby><rb>延</rb><rt>の</rt></ruby>んびりとした大陸性の、高原に引く一筋路を、澄み切った大空の下に、おそらく、ガタピシと石ころに<ruby><rb>蹴</rb><rt>け</rt></ruby>つまずきながら、走って行く一台の馬車は、漂泊の姿そのもののように、<ruby><rb>一抹</rb><rt>いちまつ</rt></ruby>の旅愁を引くのに充分であった。

それは、カウボーイの土地である。未だ草分け時代の空気が、<ruby><rb>澱</rb><rt>よど</rt></ruby>んでいる。石と<ruby><rb>打</rb><rt>ぶ</rt></ruby>つかっても、林に<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>っても、人と自然が肉迫するときのいきりが立っている。そのすべてを超越して、美しいものは、この山の隆々たる肉塊である。新火山のことだから、土の締まりは、しッくりしていない、むしろ危ッかしいほど、<ruby><rb>柔脆</rb><rt>じゅうぜい</rt></ruby>の肉つきではあるが、<ruby><rb>楽焼</rb><rt>らくやき</rt></ruby>の陶器のような、粗朴な<ruby><rb>釉薬</rb><rt>うわぐすり</rt></ruby>を、うッすり<ruby><rb>刷</rb><rt>は</rt></ruby>いた<ruby><rb>赤</rb><rt>あか</rt></ruby>る<ruby><rb>味</rb><rt>み</rt></ruby>と、火力の衰えた<ruby><rb>痕</rb><rt>あと</rt></ruby>のほてりを残して、内へ内へと熱を含むほど、外へ外へと迫って来る力が、<ruby><rb>十方</rb><rt>じっぽう</rt></ruby><ruby><rb>無障碍</rb><rt>むしょうげ</rt></ruby>に放射することを感ずる。絶頂の火口は、今こそ休火山ではあるが、烈々と美を噴く熔炉になっている。その美の泉を結晶したものは、絶頂から胸壁へと、こびりついているところの、氷河である。汽車の窓からも、その中の最大（といっても長さは二<ruby><rb>哩</rb><rt>マイル</rt></ruby>半位しかないが）のホイットニイ氷河が、銀流しに光っているのが見える。そうして鉄路の附近に、氷河湖の跡が<ruby><rb>乾</rb><rt>ひ</rt></ruby>からびて、今は青草の生えた牧場になって、牛が遊んでいる。その辺の農家の石垣は、氷河の<ruby><rb>推</rb><rt>お</rt></ruby>し流した<ruby><rb>堆石</rb><rt>たいせき</rt></ruby>を使ったりしているのが、私たち富士山で、万年雪を物色したり、日本アルプスで、「カアル」の<ruby><rb>痕</rb><rt>あと</rt></ruby>を、氷河時代の遺蹟か<ruby><rb>否</rb><rt>いな</rt></ruby>かと、論じ合ったりしている手合いに、いかに珍しかったろうか。

その氷河で思い出したが、私が<ruby><rb>桑港</rb><rt>サンフランシスコ</rt></ruby>にいるとき、一九二四年九月十八日の夕、新聞の号外売りが、声高く「ラッセン火山大爆裂、シャスタ氷河大融解」と、大の字<ruby><rb>尽</rb><rt>づ</rt></ruby>くしで呼んでいるので、耳寄りに思って買って見ると、いかにもシャスタ山の、氷河融解、大洪水来と、<ruby><rb>拳</rb><rt>こぶし</rt></ruby><ruby><rb>大</rb><rt>だい</rt></ruby>の活字で見出しがついている。それは同日附け、ダンスミールからの電報で、「シャスタの南東頂上が<ruby><rb>欠損</rb><rt>けっそん</rt></ruby>してマック・クラウド谷が吹き飛ばされ、谷の<ruby><rb>痕跡</rb><rt>こんせき</rt></ruby>が、一筋も残らない」などと、誇張した報道であったが、事実は、その前年の冬に雪が少なかったので、氷河は既に五月の始めに、新雪から解放せられ、底部から溶解して、空洞になり、激しい滝水で、氷河のトンネルが出来たのが、支持の力を失って、<ruby><rb>崩落</rb><rt>ほうらく</rt></ruby>を始め、岩石や<ruby><rb>砂礫</rb><rt>されき</rt></ruby>を押し流して、山麓の村々へと、<ruby><rb>冠</rb><rt>かぶ</rt></ruby>せて来たのであったが、その当時、村では、二、三分ごとに、太砲の音のような響きが聞え、氷河を源とするマック・クラウド河は<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>、サクラメント河まで水色が一変して、当分は濁りがつづいたということであった。私は、その夕、電燈<ruby><rb>煌々</rb><rt>こうこう</rt></ruby>として自動車の目まぐるしく飛び<ruby><rb>交</rb><rt>か</rt></ruby>う<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎ</rt></ruby>やかな町中で、一枚の号外を握って、地質時代の出来事であるところの、氷河退却時代が、<ruby><rb>眼</rb><rt>ま</rt></ruby>のあたりに見られるのだと思った。飛び廻る自動車も、忙しそうに歩く行人も、右往左往に<ruby><rb>悲叫</rb><rt>ひきょう</rt></ruby><ruby><rb>遁走</rb><rt>とんそう</rt></ruby>する、あらゆる生物の、混乱の姿ででもあるかのように取られた。

それから私は思う、外国の山を見るには、二つの見方が、経験されはしまいか、<ruby><rb>即</rb><rt>すなわ</rt></ruby>ち自分の国の自然に似ている方面と、似ていない方面との二つである。蕪村であったか誰だったか、「<ruby><rb>花茨</rb><rt>はないばら</rt></ruby>故郷の路に似たるかな」は、似た方からの見方だ。その反対に、似ても似つかぬところに、新しい驚異の心を抱かれることもある。シャスタに就いて言うと、氷河地形などは、我が富士山とは似ない方面だが、その他に於て、多くの似顔は、合せ鏡をしている姉妹でもあるかの如くに感じられる、そう思うとき、我々日本人に取って、シャスタ山は、もう錠前を<ruby><rb>卸</rb><rt>おろ</rt></ruby>した山ではなくなった。

私の観察したシャスタを、漢文者流の口調を借りて、人間本位で言うならば、とかくに不遇の山水である。第一にシャスタ山は、太平洋沿岸に近い山としては、早く発見された方ではない。同じ太平洋岸でも、有名な航海者「ヴァンクウバア」が、フッド火山や、ベエカア火山や、レイニーア火山を発見してから、三十四年も後に、シャスタは、やっと存在を認められた。<ruby><rb>西班牙</rb><rt>スペイン</rt></ruby>の探検者たちが、加州にシエラ・ネヴァダ山脈を見つけたよりも、三世紀も遅れている。メキシコの大火山、ポポカテペトルの第一登山が報告されてから、三百年も後になって、シャスタは地図の上に戸籍が入った。しかし始めて登られたのは、一八五二年のことで、この辺の山としては、遅い方でもなかったが、あとから探検された他州（ワシントン州）の、レイニーア山の方に国立公園を取られてしまい、レイニーア山に関しては、詳細なる地形図、地質図や、一般民衆向きの、要領を得た説明案内などが出版せられて、世の中に紹介されているが、シャスタには、未だそういうものは、何にも出ていない（あたかも富士山が「天地の別れし時ゆ神さびて」とか、古くから言われていながら、今日では、ややともすると、最近発見の日本アルプス上高地あたりに、国立公園を、お先に奪われそうな形勢であるが如くに）。第二にシャスタ山は、初めは海抜一万四千五百尺と測られて、米国最高の山と信ぜられていたのに、その方は、今では、シエラ・ネヴァダのマウント・ホイットニイに、最高の位置を取られてしまい、精密なる実測の結果は、一万四千一百尺に減じて、レイニーアの一万四千四百尺に比してすら、下位に落ちてしまった（あたかも日本最高の富士山が、久しく信ぜられていた三七七八<ruby><rb>米突</rb><rt>メートル</rt></ruby>という高さが、最近実測の結果、たとい二米突ばかりにしてもかえって減少して、いよいよ台湾の<ruby><rb>新高山</rb><rt>にいたかやま</rt></ruby>の下位に落ちたように）。第三にレイニーア山や、その属する所のキャスケード山脈を主として、探検する山岳会には、「マザマ」（ポートランド市）があり、「マウンティニーア」（シアトル市）があり、また南の方シエラ・ネヴァダを研究する山岳会としては、盛大なるシエラ山岳会（桑港）があるにもかかわらず、シャスタはその中間に占居するため、どっちつかずの<ruby><rb>継子</rb><rt>ままこ</rt></ruby>扱いを、両方の山岳会から受けていること（あたかも日本アルプスや、秩父山脈が、登山家の興味の中心になって、離群別居の富士山が、大分閑却される傾向があるように）。第四は、山の不幸は、住人の不幸になって、シャスタ山と、切っても切れぬ歴史中の人を、埋没しようとしている。即ちシャスタ山を、世に紹介するために、全力を尽くした土地草分けのシッソン翁（J\. H\. Sisson）という開拓者のために、シッソンという地名が出来、同名の停車場まであったのが、いつの間にか、土地がシャスタ・シチイと改名せられて、あたらシッソン翁の名は、<ruby><rb>草莽</rb><rt>そうもう</rt></ruby>の<ruby><rb>間</rb><rt>かん</rt></ruby>に埋められようとしている（あたかも富士山の<ruby><rb>役行者</rb><rt>えんのぎょうじゃ</rt></ruby>の名が、今日忘られかけて、日本アルプスの先達、ガウランドだの、ウェストンだのという名が、若い人たちの口の端に上るようになった如くに）。それから第五、第六の「あたかも」が、未だ続いて挙げられるが、もうその点は打ち切って、私たち同行四人が、シャスタ山に登ったのは、大正八年（一九一九年）九月十一日のことで、未だこの山の草分けを記念するための、シッソンの名が残っていた時分であった。その頃、シャスタに登る人は、一と夏を通して、百人か百五十人位と登録せられていたし、殊に日本人の登山としては、私たちが初めてのものであった（前に日本人が登っていたという記録があるならば、<ruby><rb>是非</rb><rt>ぜひ</rt></ruby>知らせていただきたい）。その私たちの登山にしてからが、時間不足のために、絶頂の剣ヶ峰ともいうべき、シャスタ・ピークまでは、達しなかったのだから、一個の予察地形図をスケッチしたぐらいの、軽い気分で読んでいただきたい、何も登山記だからと言って、死に身になってコチコチと緊張しなければならない、というものでもなかろう。

シャスタへ行くには、私たちの居住地、桑港から、オレゴンへと北向する南太平洋鉄道の便を借りるのである。汽車はサクラメントの大河に沿うて走る、川の底には、堅い凝灰岩などが露出しているが、シャスタを<ruby><rb>距</rb><rt>へだた</rt></ruby>ること、五十<ruby><rb>哩</rb><rt>マイル</rt></ruby>位のところから、熔岩が、両岸に<ruby><rb>段丘</rb><rt>テレース</rt></ruby>を作っている。そして段丘の上に、小舎が建てられたり、馬鈴薯や<ruby><rb>唐黍</rb><rt>とうきび</rt></ruby>が植えられたりして、この辺の畑としては、手入れが届いている。その熔岩は、シャスタの南麓から<ruby><rb>迸</rb><rt>ほとばし</rt></ruby>ったのであるが、ちょっと富士山から、桂川に沿うて猿橋まで達しているところの「猿橋熔岩」に似ている。しかし猿橋の方では、熔岩の延長八里ぐらいで、厚さも今日見らるるところでは、四、五<ruby><rb>米突</rb><rt>メートル</rt></ruby>ばかりの薄い皮であるが、サクラメントへ流れるシャスタ熔岩の厚さは、五十<ruby><rb>呎</rb><rt>フイート</rt></ruby>から二、三百呎に達している。川上の方へ「シャスタ」が、白い炎を<ruby><rb>爛々</rb><rt>らんらん</rt></ruby>と光らして、汽車の窓から、大抵は右に見えるが、「左富士」のように、左に見えることもある、それほど川は、Ｓ字の環を<ruby><rb>繋</rb><rt>つな</rt></ruby>ぎ合っている。前に述べたシッソンの停車場へ着くまでには、ダンスミールという、材木を<ruby><rb>伐</rb><rt>き</rt></ruby>り出すので<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎ</rt></ruby>やかな古駅があり、その次には、シャスタ・スプリングといって、シャスタ火山の基盤熔岩なる岸壁の間から、地下の伏流が、富士の白糸の滝のように、<ruby><rb>千筋</rb><rt>ちすじ</rt></ruby>とまでは行かなくとも、繊細な糸を<ruby><rb>捌</rb><rt>さば</rt></ruby>いて、たぎり落ちるところもある、「<ruby><rb>花茨</rb><rt>はないばら</rt></ruby>故郷の路に似たるかな」が、ますます思い出される。

シッソンという寂しい停車場は、富士ならば、御殿場駅に当るところであるが、この方面から見たシャスタは、一座の<ruby><rb>尖</rb><rt>とが</rt></ruby>れる火山にしか見えない、それが、シャスタの主峰であるが、汽車が北へ廻るに随って、いつの間にか、主峰の傍に、また一つの同じような火山が出て来る、それはシャスチナで、高さは日本の富士山と同じく、一万二千三百尺であるが、シャスタ主峰は、それよりも<ruby><rb>更</rb><rt>さら</rt></ruby>に、約二千尺高く、海抜一万四千百六十二尺と註せられている。火口は、シャスタに一つ、シャスチナに一つ、その<ruby><rb>双峰</rb><rt>そうほう</rt></ruby>を<ruby><rb>繋</rb><rt>つな</rt></ruby>ぎ合わせるところの、プラットフォームにも、一つあるという話であるが、私はそれをよく知らない。シャスチナは、多分側火山として噴出したのが、一体の双生児のように、シャスタと<ruby><rb>癒合</rb><rt>ゆごう</rt></ruby>したのだろうと思う。成立の原因は違っても、富士の<ruby><rb>愛鷹山</rb><rt>あしたかやま</rt></ruby>の頂上部が、仮に爆裂飛散せずに原形を保存していたとすれば、シャスチナ位になっているかも知れない。

だが、シッソン、ウイードあたりから、仰ぎ見るシャスタの偉大さは、アルプス式の山々に見ることの出来ない鮮明美がある、孤にして閑である、独にして秀で、単にして<ruby><rb>完</rb><rt>まった</rt></ruby>き姿である。日本アルプスでも、そうであるが、アルプス式の山は、高台の上に乗っかって、群峰になっているから、槍ヶ岳とか「マッタアホルン」とかいう特異の山形を除いたら、遠くからは、どれがどれやら、個々の山名がちょっと解り兼ねる場合もあるが、シャスタはそうでない、富士もそうである如く、一見<ruby><rb>分明</rb><rt>ぶんみょう</rt></ruby>である、<ruby><rb>足許</rb><rt>あしもと</rt></ruby>から山上までの直径の高さは、モン・ブラン以上である（移民時代の一愛山家は、「シャスタに登ってモン・ブランを笑ってやれ」と言った）。その立体構成面の<ruby><rb>威嚇</rb><rt>いかく</rt></ruby>的偉大さを、<ruby><rb>駭</rb><rt>おどろ</rt></ruby>くべき簡単なる曲線で、統整して、しかも委曲に至っては、富士で<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>うところの八百八谷の線から、おのずと発生する凹凸面の、複雑なる入り乱れのために、眼もあやになることを<ruby><rb>如何</rb><rt>いかん</rt></ruby>ともしがたい。

私たち一行四人は、九月九日の夕、シッソンに着いて、駅前のパアク・ホテルというのに泊った、目ぼしい商家といっては、よろず屋風の荒物屋と、<ruby><rb>鍛冶</rb><rt>かじ</rt></ruby>屋があるくらいのもので、私は靴屋に案内してもらい、氷河に<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>らない用心に、裏皮を<ruby><rb>貼</rb><rt>は</rt></ruby>りつけて、<ruby><rb>釘</rb><rt>くぎ</rt></ruby>を打ってもらったが、旧式の<ruby><rb>轆轤</rb><rt>ろくろ</rt></ruby>を使って、靴屋のおやじが、シュッ、シュッと、線香花火式にやってくれた。登山の準備をしたくも、<ruby><rb>碌</rb><rt>ろく</rt></ruby>なものがないところで、この節の日本アルプスの登山口の、設備の方が、よほど行き届いているくらいだから、その貧弱さの、見当がつくであろう。

山麓帯の裾野で、日に焼けて、疲労をひどくしたくないので、定めの行程は短いにもかかわらず、翌十日は朝<ruby><rb>出立</rb><rt>しゅったつ</rt></ruby>した、馬を五頭、一頭は荷物を積んで、案内者の、チャアルス・グーチという男が、裸馬に乗り、アルペン杖を横たえながら、片手で荷馬車を<ruby><rb>曳</rb><rt>ひ</rt></ruby>いて先登に立って行く。私は馬に慣れないので、少なからず閉口したが、同行中の神田憲君は、この仲間では馬術の達人で、ややともすれば遅れがちな私の馬の綱を、時々引いてくれた。

本街道から製材所の横を切れると、もう既に裾野であるが、富士のそれとは違って、<ruby><rb>乾</rb><rt>かわ</rt></ruby>き切った砂漠で、セージと通称する白ッ茶けた草や、マンザニタと呼ばれるところの、<ruby><rb>灌木</rb><rt>かんぼく</rt></ruby>などが茂って、馬蹄の砂が<ruby><rb>濛々</rb><rt>もうもう</rt></ruby>と舞いあがるのには、馬上<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>を伏せて、眼をねぶるばかりであった。

それでも、森林帯に入るとさすがに涼しい、中でもシャスタ<ruby><rb>樅</rb><rt>もみ</rt></ruby>と呼ばれる<ruby><rb>喬木</rb><rt>きょうぼく</rt></ruby>の一種は、この山、特有とまでゆかなくても、この山の産として最も名高いのであるが、富士の<ruby><rb>落葉松</rb><rt>からまつ</rt></ruby>を、富士松と呼ぶたぐいであるかも知れない。なお登ると、俗にホワイト・バーク・パイン（白皮松）と呼ぶ喬木が出てくる、高さは二百尺位に達するのは珍らしくはない。土地の人たちは、この森林帯の立派さを<ruby><rb>艶説</rb><rt>えんぜつ</rt></ruby>しているが、レイニーア火山や、ベエカア火山の、それに競べると、さほどの物ではない。ホールス・キャムプという平地に出で馬を下り、野営の仕度をする、海抜九千尺、水も少しはある。今は（一九二二年の春から）このところに「シャスタ・アルパイン・ロッジ」という、立派な山小舎が建設されたそうで、毎年六月十五日から九月十五日まで「<ruby><rb>小舎開</rb><rt>こやびら</rt></ruby>き」をやって、一年に四、五百人の宿泊者は、欠かさないという話であるが、私たちの登った頃には未だ小舎はなく、シェラ山岳会考案の「睡眠袋」を馬に積ませて来たので、<ruby><rb>蓑虫</rb><rt>みのむし</rt></ruby>のように、その中にすッぽり<ruby><rb>潜</rb><rt>もぐ</rt></ruby>り込んで寝たが、乾き切った小石交りの砂地の上で、日本アルプスのように、柔らかい草原を<ruby><rb>褥</rb><rt>しとね</rt></ruby>にする<ruby><rb>贅沢</rb><rt>ぜいたく</rt></ruby>は、思いも寄らず、睡眠不足が<ruby><rb>祟</rb><rt>たた</rt></ruby>って、<ruby><rb>翌</rb><rt>あ</rt></ruby>くる日の登山には、大分こたえた。

森林帯の尽きるところから、大雪渓が始まるが、この雪渓の長々しい傾斜は、さすがに白馬岳あたりの比ではない。翌くる十一日の朝、一行はこの単調の雪渓を、のたり、のたりと登って、巨大な<ruby><rb>堆石</rb><rt>たいせき</rt></ruby>を戴いた雪の「テーブル」の側へ立って写真を撮ったり、雪の穴ぼこの中へ、<ruby><rb>更紗</rb><rt>さらさ</rt></ruby>の紋でも切り<ruby><rb>篏</rb><rt>は</rt></ruby>めたように、小さい翼を休めているところの、<ruby><rb>可憐</rb><rt>かれん</rt></ruby>なる高山蝶を、いじくったりして、雪渓を、ものの三千五百尺ばかり登ると、富士山の胸突八丁にも<ruby><rb>喩</rb><rt>たと</rt></ruby>えられるところの、火口壁へとぶつかった。これを越えると、絶頂に<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>りつくことになるので、ここでさえ、高さは一万三千尺近い見当である。最後の噴火のあったという「レッド・ブラッフ」の<ruby><rb>赭</rb><rt>あか</rt></ruby>ら岩が、<ruby><rb>眉</rb><rt>まゆ</rt></ruby>を<ruby><rb>焦</rb><rt>こが</rt></ruby>すばかりに、近く<ruby><rb>聳</rb><rt>そび</rt></ruby>えている。<ruby><rb>足許</rb><rt>あしもと</rt></ruby>一面に、熔岩や、焼石が<ruby><rb>狼藉</rb><rt>ろうぜき</rt></ruby>して、歩きにくい。<ruby><rb>生憎</rb><rt>あいにく</rt></ruby>時計を見ると、かれこれ午後二時に近い、空気も稀薄になり始めて、絶頂まで、<ruby><rb>遅々</rb><rt>ちち</rt></ruby>たる足取りでは、今夜中にホテルまで、戻り得られるか否かも、<ruby><rb>覚束</rb><rt>おぼつか</rt></ruby>ないので、ここから下山することにした。

シャスタへの登路は、氷河踏査を主とするならば、私たちの路を取らずに、南のマック・クラウド村から登るか、またはやや北行して、シャスタとシャスチナ間の、<ruby><rb>窪地</rb><rt>くぼち</rt></ruby>を<ruby><rb>目指</rb><rt>めざ</rt></ruby>して登る方が、よかったということを、後から聞かされた。後の路を取れば、九千尺の高度から、ホイットニイ氷河の末端が出現して、「クレッヴァス」や、堆石の状態がよく判明するということであった。

登山記としては、これだけだ。短くして、<ruby><rb>呆気</rb><rt>あっけ</rt></ruby>ないのは、私も知っている、しかしシャスタ山は、我が富士山の如く、登る山であるが、同時に眺望する山だ。この山を中心にして、周囲の展望は変化する、大空へ掛けた額面として、横から見たり、裏返しに見られる山だ。

私は、その後、幾回となく、山麓を通過した、半周した、約四分の三まで<ruby><rb>廻</rb><rt>まわ</rt></ruby>った。かくて<ruby><rb>視</rb><rt>み</rt></ruby>たところを綜合して言えば、山の頸部は、三十五度の傾斜から、次第に緩和して二十度、十五度、十度と、<ruby><rb>延</rb><rt>の</rt></ruby>んびりした線を、大裾野へ引き落し、末端は五度位にちぢんでいるが、富士山の如く、草山三里、木山三里、石山三里という割り当ては、シャスタには応用出来ない。草山は、まあいいとして、木山はシャスタでは、<ruby><rb>谷地帯</rb><rt>やちたい</rt></ruby>になっているし、<ruby><rb>殊</rb><rt>こと</rt></ruby>に石山に該当するところは、万年雪と氷河の喰い込みで、<ruby><rb>岩頸</rb><rt>がんけい</rt></ruby>は、<ruby><rb>篦</rb><rt>へら</rt></ruby>でえぐったように「サアク」の鈴成りが出来ているから、サアク帯と呼ぶ方が適当である、その「サアク」からは、言うまでもなく、氷河が流れていて、九千尺以上に五個あるという話であるが、私の望んだのは、ホイットニイ氷河と、南方のマック・クラウド氷河の二つである。前者は前にも述べた通り、シャスタとシャスチナの間の、<ruby><rb>鞍部</rb><rt>あんぶ</rt></ruby>に<ruby><rb>懸垂</rb><rt>けんすい</rt></ruby>しているが、アルプスのベルニーズ・オーバアラント山地あたりの大氷河に比べると、恐らく<ruby><rb>雛形</rb><rt>ひながた</rt></ruby>ぐらいの小さいものだろうが、それでも<ruby><rb>擬似</rb><rt>ぎじ</rt></ruby>氷河ではない。小さいなりに、完全な真氷河であることは、「クレッヴァス」の<ruby><rb>凹凸</rb><rt>おうとつ</rt></ruby>が、かなりの遠くから肉眼でもハッキリと見えるし、大氷河でなくては、滅多に見られないところの、側堆石までを具備しているのでも伺われる、<ruby><rb>終堆石</rb><rt>しゅうたいせき</rt></ruby>は<ruby><rb>弦</rb><rt>つる</rt></ruby>の切れた半弓を掛けたように、針葉樹帯の上に、鮮明に<ruby><rb>懸</rb><rt>か</rt></ruby>かっているのみならず、そこから流下した堆石は、累々として、<ruby><rb>山麓</rb><rt>さんろく</rt></ruby>に土堤を高く築いている。ただ巨大な堆石が、現在見当らないのは、何分にも、氷河が小さく、谷の削り方も浅くて、「<ruby><rb>剥</rb><rt>は</rt></ruby>ぎ取り」が、深く<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>かないためであろう。もう一つのマック・クラウド氷河の方は、現在では最小の氷河であるが、山麓同名の村に、「マッド・クリーク」という小流があって、その岩壁には、氷河の引ッ<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>いた<ruby><rb>条痕</rb><rt>じょうこん</rt></ruby>が、鮮明に残っているところを見ると、昔は今よりも、大きな氷河であったらしいことを示している。

要するに、シャスタの氷河は、この山の属するキャスケード山脈の最南端だけあって、キャスケードの氷河としては、一番小さいものであることに疑いはないが、仮に、富士山の氷河が成立したとしたら、あるいはまた、日本アルプスの劍岳や立山群峰が、もう五百<ruby><rb>米突</rb><rt>メートル</rt></ruby>も高くて、氷河の小塊が出来るという想像が、<ruby><rb>容</rb><rt>い</rt></ruby>れられるとしたら、まあこんなものだろうと推測せられるだけに、何となく、捨てがたく思われるのである。

ここで、冒頭に戻って同じ言葉を繰りかえす、アメリカで好きな山は何かと聞かれると、一番先きに頭に浮ぶのは、シャスタ山である、それは必ずしも、好きであるからではないが、最も多く心を<ruby><rb>惹</rb><rt>ひ</rt></ruby>かれる山であると。

終りに、この一文を、同行四人の中、馬術の達人であった神田憲君の<ruby><rb>霊前</rb><rt>れいぜん</rt></ruby>に<ruby><rb>献</rb><rt>ささ</rt></ruby>げる。同君は、その後帰朝して、過般の大震災で、鎌倉で<ruby><rb>圧死</rb><rt>あっし</rt></ruby>の不幸に<ruby><rb>遭</rb><rt>あ</rt></ruby>われた、他の二人は、野坂滋明君と国府精一君とである、今は米国と日本に別れていて、共に健在である。