<ruby><rb>亜米利加</rb><rt>アメリカ</rt></ruby>の排日案通過が反動団体のヤッキ運動となって、その<ruby><rb>傍杖</rb><rt>そばづえ</rt></ruby>が帝国ホテルのダンス場の剣舞隊闖入となった。ダンスに夢中になってる善男善女が<ruby><rb>刃引</rb><rt>はびき</rt></ruby>の<ruby><rb>鈍刀</rb><rt>なまくら</rt></ruby>に<ruby><rb>脅</rb><rt>おど</rt></ruby>かされて、ホテルのダンス場は一時暫らく閉鎖された。今では<ruby><rb>余熱</rb><rt>ほとぼり</rt></ruby>が冷めてホテルのダンス場も何カ<ruby><rb>月</rb><rt>つき</rt></ruby>ぶりかで再び開かれたが、さしもに流行したダンス熱は一時ほどでなくなった。一時は猫も杓子も有頂天になって、場末のカフェでさえが蓄音機のフォックストロットで夏の夕べを踊り抜き、ダンスの<ruby><rb>心得</rb><rt>こころえ</rt></ruby>のないものは文化人らしくなかった。

が、四十年前のいわゆる鹿鳴館時代のダンス熱はこれどころじゃなかった。<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>も今ほど一般的ではなかったが、<ruby><rb>上台閣</rb><rt>かみだいかく</rt></ruby>の諸公から先きへ立って浮れたのだから上流社会は<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち風靡された。当時の欧化熱の急先鋒たる公伊藤、侯井上はその頃マダ壮齢の男盛りだったから、<ruby><rb>啻</rb><rt>た</rt></ruby>だ国家のための政策ばかりでもなくて、男女の因襲の垣を撤した欧俗社交がテンと面白くて堪らなかったのだろう。<ruby><rb>搗</rb><rt>か</rt></ruby>てて加えて<ruby><rb>渠</rb><rt>かれ</rt></ruby>らは貴族という条、マダ出来立ての成上りであった。一千年来の氏族政治を廃して、藤氏の長者に取って代って陪臣内閣を樹立したのは、無爵の原敬が野人内閣を組織したよりもヨリ以上世間の眼を<ruby><rb>睜</rb><rt>みは</rt></ruby>らしたもんで、この新鋭の元気で一足飛びに欧米の新文明を極東日本の蓬莱仙洲に出現しようと計画したその第一着手に、先ず欧化劇の本舞台として建設したのが即ち鹿鳴館である。今でこそ<ruby><rb>樟脳</rb><rt>しょうのう</rt></ruby><ruby><rb>臭</rb><rt>くさ</rt></ruby>いお<ruby><rb>殿様</rb><rt>とのさま</rt></ruby>の<ruby><rb>溜</rb><rt>たまり</rt></ruby>の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>たる華族会館に<ruby><rb>相応</rb><rt>ふさ</rt></ruby>わしい古風な建造物であるが、当時は鹿鳴館といえば<ruby><rb>倫敦</rb><rt>ロンドン</rt></ruby><ruby><rb>巴黎</rb><rt>パリ</rt></ruby>の燦爛たる新文明の栄華を複現した玉の<ruby><rb>台</rb><rt>うてな</rt></ruby>であって、鹿鳴館の名は西欧文化の<ruby><rb>象徴</rb><rt>シンボル</rt></ruby>として歌われたもんだ。

当時の欧化熱の中心地は永田町で、このあたりは右も左も洋風の家屋や庭園を連接し、<ruby><rb>瀟洒</rb><rt>しょうしゃ</rt></ruby>な洋装をした貴婦人の二人や三人に必ず<ruby><rb>邂逅</rb><rt>であ</rt></ruby>ったもんだ。ダアクの<ruby><rb>操</rb><rt>あやつ</rt></ruby>り<ruby><rb>人形然</rb><rt>にんぎょうぜん</rt></ruby>と妙な<ruby><rb>内鰐</rb><rt>うちわに</rt></ruby>の足どりでシャナリシャナリと蓮歩を運ぶものもあったが、中には今よりもハイカラな風をして、その頃<ruby><rb>流行</rb><rt>はや</rt></ruby>った横乗りで夫婦<ruby><rb>轡</rb><rt>くつわ</rt></ruby>を<ruby><rb>駢</rb><rt>なら</rt></ruby>べて行くものもあった。このエキゾチックな貴族臭い雰囲気に浸りながら<ruby><rb>霞</rb><rt>かすみ</rt></ruby>ガ<ruby><rb>関</rb><rt>せき</rt></ruby>を下りると、その頃練兵場であった日比谷の原を隔てて鹿鳴館の白い壁からオーケストラの美くしい旋律が行人を<ruby><rb>誘</rb><rt>そそ</rt></ruby>って文明の微醺を与えた。今なら文部省に睨まれ教育界から<ruby><rb>顰蹙</rb><rt>ひんしゅく</rt></ruby>される<ruby><rb>頗</rb><rt>すこぶ</rt></ruby>る放胆な自由恋愛説が官学の中から鼓吹され、当の文部大臣の家庭に三角恋愛の破綻を生じた如き、当時の欧化熱は今どころじゃなかった。

先年侯井上が<ruby><rb>薨去</rb><rt>こうきょ</rt></ruby>した時、侯の憶い出<ruby><rb>咄</rb><rt>ばなし</rt></ruby>として新聞紙面を賑わしたのはこの鹿鳴館の舞踏会であった。<ruby><rb>殊</rb><rt>こと</rt></ruby>に大臣大将が役者のように白粉を塗り鬘を着けて踊った前代未聞の仮装会は当時を驚かしたばかりじゃない。今聴いてさえも余り<ruby><rb>突拍子</rb><rt>とっぴょうし</rt></ruby>もなくて、初めて聞くものには作り咄としか思われないだろう。

何しろ当夜の賓客は日本の運命を双肩に荷う国家の重臣や朝廷の貴紳ばかりであった。主人側の伊井公侯が先ず<ruby><rb>俊輔聞多</rb><rt>しゅんすけもんた</rt></ruby>の昔しに若返って異様の扮装に賓客をドッと笑わした。謹厳方直容易に笑顔を見せた事がないという含雪将軍が<ruby><rb>緋縅</rb><rt>ひおどし</rt></ruby>の鎧に<ruby><rb>大身</rb><rt>おおみ</rt></ruby>の槍を横たえて<ruby><rb>天晴</rb><rt>あっぱれ</rt></ruby>な武者ぶりを示せば、重厚沈毅な大山将軍ですらが<ruby><rb>丁髷</rb><rt>ちょんまげ</rt></ruby>の鬘に<ruby><rb>裃</rb><rt>かみしも</rt></ruby>を着けて踊り出すという騒ぎだ。ましてやその他の月卿雲客、上臈貴嬪らは<ruby><rb>肥満</rb><rt>ふとっちょ</rt></ruby>の<ruby><rb>松風村雨</rb><rt>まつかぜむらさめ</rt></ruby>や、<ruby><rb>痩身</rb><rt>やせっぽち</rt></ruby>の<ruby><rb>夷大黒</rb><rt>えびすだいこく</rt></ruby>や、<ruby><rb>渋紙面</rb><rt>しぶかみづら</rt></ruby>のベニスの商人や、顔を赤く<ruby><rb>彩</rb><rt>えど</rt></ruby>ったドミノの道化役者や、七福神や六歌仙や、神主や坊主や赤ゲットや、思い思いの異装に趣向を凝らして開闢以来の<ruby><rb>大有頂天</rb><rt>だいうちょうてん</rt></ruby>を極めた。

この一夜の歓楽が満都を羨殺し笑殺し苦殺した数日の後、この夜、某の大臣が名状すべからざる侮辱を某の貴夫人に加えたという奇怪な風説が忽ち帝都を騒がした。続いて新聞の三面子は<ruby><rb>仔細</rb><rt>しさい</rt></ruby>ありげな報道を伝えた。この夜、猿芝居が終って賓客が散じた頃、鹿鳴館の方角から若い美くしい洋装の貴夫人が帽子も被らず靴も穿かず、髪をオドロと<ruby><rb>振乱</rb><rt>ふりみだ</rt></ruby>した半狂乱の<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>でバタバタと駈けて来て、折から日比谷の原の<ruby><rb>端</rb><rt>はず</rt></ruby>れに客待ちしていた<ruby><rb>俥</rb><rt>くるま</rt></ruby>を呼留め、飛乗りざまに幌を深く卸させて神田へと急がし、<ruby><rb>只</rb><rt>と</rt></ruby>ある伯爵家の裏門の前で俥を停めさせて、<ruby><rb>若干</rb><rt>そこばく</rt></ruby>の代を取らすや否や<ruby><rb>周章</rb><rt>あわ</rt></ruby>てて<ruby><rb>潜門</rb><rt>くぐり</rt></ruby>の奥深く消えたという新聞は<ruby><rb>尋常事</rb><rt>ただごと</rt></ruby>ならず思われて、噂は忽ち八方に広がった。歓楽湧くが如き仮装の大舞踏会の幕が終ると、荒涼たる日比谷原頭悪鬼に追われる如く逃げる貴夫人の悲劇、今なら新派が人気を呼ぶフィルムのクライマックスの場面であった。

風説は風説を生じ、弁明は弁明を産み、数日間の新聞はこの噂の筆を絶たなかったが、いくばくもなく風説の女主人公たる貴夫人の夫君が一足飛びの栄職に就いたのが<ruby><rb>復</rb><rt>ま</rt></ruby>たもや疑問の種子となって、喧々囂々の批評が更に新らしく繰返された。

が、風説は雲を攫むように漠然として取留めがなく、真相は終に永久に葬むられてしまったが、歓楽極まって哀傷生ず、この風説が欧化主義に対する危惧と反感とを長じて終に伊井内閣を危うするの蟻穴となった。二相はあたかも福原の栄華に驕る平家の如くに<ruby><rb>咀</rb><rt>のろ</rt></ruby>われた。

伊井公侯を補佐して革命的に日本の文明を改造しようとしたは当時の内閣の智嚢といわれた文相森有礼であった。森は早くから外国に留学した薩人で、長の青木周蔵と<ruby><rb>列</rb><rt>なら</rt></ruby>んで渾身に外国文化の<ruby><rb>浸潤</rb><rt>しみわた</rt></ruby>った明治の初期の大ハイカラであった。殊に森は留学時代に日本語廃止論を提唱したほど青木よりも一層徹底して、剛毅果断の気象に富んでいた。

青木は外国婦人を娶ったが、森は明治の初め海外留学の先駈をした日本婦人と結婚した。式を挙げるに福沢先生を証人に立てて外国風に契約を<ruby><rb>交換</rb><rt>とりかわ</rt></ruby>す結婚の新例を開き、明治五、六年頃に一夫一婦論を説いて婦人の権利を主張したほどのフェミニストであったから、身文教の首班に座するや先ず根本的に改造を企てたのは女子教育であった。

優美よりは快活、柔順よりは才発、家事よりは社交、手芸よりは学術というが女に対する<ruby><rb>渠</rb><rt>かれ</rt></ruby>の註文であった。この方針から在来の女大学的主義を排して高等学術を授け、外国語を重要課目として<ruby><rb>旁</rb><rt>かたわ</rt></ruby>ら洋楽及び舞踏を教え、直轄女学校の学生には洋装せしめ、高等女学校には欧風寄宿舎を設け、英国婦人の監督の下に欧風生活を実習させて、日本の女をして一足飛びに西洋の女たらしめようと教育した。

文相既にかくの如くだから、女学校の先生たちは盛んに男女交際を鼓舞し、結婚の自由を主張し、男女の学生が自由に往来するを少しも干渉しないのみならず、教師自身が率先して種々の名目の下に青年男女を会同し、自由に野方図に<ruby><rb>狎戯</rb><rt>ふざ</rt></ruby>け散らすのを<ruby><rb>寛大</rb><rt>おおめ</rt></ruby>に見た。随って当時の女学校の寄宿舎の応接室に青年学生の姿を見ない日はなかった。通学生の待合室にすらも若い学生がしばしば出入した。学生の<ruby><rb>倶楽部</rb><rt>クラブ</rt></ruby>や青年の会合には必ず女学生が出席して、才色あるものが<ruby><rb>女王</rb><rt>クイン</rt></ruby>の位置を占めていた。が、子女の父兄は教師も学校も許す以上はこれを制裁する術がなく、呆然として学校の為すままに任して、これが即ち文明であると思っていた。

自然女学校は高砂社をも副業とした。教師が媒酌人となるは<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>、教師自から生徒を<ruby><rb>娶</rb><rt>めと</rt></ruby>る事すら不思議がられず、理想の細君の選択に女学校の教師となるものもあった。或る女学校では女生の婚約の夫が定まると、女生は未来の良人を朋友の集まりに紹介するを例とし、それから後は公々然と音信し往来するを許された。女流の英文学者として一時盛名を馳せたＩ夫人は在学中二度も三度も婚約の紹介を繰返したので評判であった。

突飛なるは婦人乗馬講習所が出来て、若い女の入門者がかなりに輻湊した。瀟洒な洋装で肥馬に横乗りするものを<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>ら中で見掛けた。更に突飛なのは、六十のお<ruby><rb>婆</rb><rt>ばア</rt></ruby>さんまでが牛に牽かれて善光寺詣りで娘と一緒にダンスの稽古に出掛け、お<ruby><rb>爨</rb><rt>さん</rt></ruby>どんまでが<ruby><rb>夜業</rb><rt>よなべ</rt></ruby>の<ruby><rb>雑巾刺</rb><rt>ぞうきんさし</rt></ruby>を<ruby><rb>止</rb><rt>や</rt></ruby>めにして坊ちゃんやお嬢さんを先生に「イット、イズ、エ、ドッグ」を初めた。

いよいよ出でて益々突飛なるは新学の林大学頭たるＫ博士の人種改良論であった。日本の文化を根本的に革新するには先ず人種を改造するが先決問題であるというが博士の論旨で、人種改良の速成法として欧米人との雑婚を盛んに高調した。Ｋ博士の卓説の<ruby><rb>御利生</rb><rt>ごりやく</rt></ruby>でもあるまいが、<ruby><rb>某</rb><rt>なにがし</rt></ruby>の大臣の夫人が紅毛碧眼の子を産んだという浮説さえ生じた。

何の事はない、一時は世を挙げて欧化の魔術にヒプノタイズされてしまった。が、暫らくして踊り<ruby><rb>草臥</rb><rt>くたび</rt></ruby>れて漸く目が覚めると、苦々しくもなり馬鹿々々しくもなった。かつこの猿芝居は畢竟するに条約改正のための外人に対する機嫌取であるのが誰にも看取されたので、かくの如きは国家を辱かしめ国威を傷つける自卑自屈であるという猛烈なる保守的反動を生じた。折から閣員の一人隈山子爵が海外から帰朝してこの猿芝居的欧化政策に同感すると思いの外慨然として靖献遺言的の建白をし、維新以来二十年間沈黙した海舟伯までが恭謹なる<ruby><rb>候文</rb><rt>そうろうぶん</rt></ruby>の意見書を提出したので、国論忽ち一時に沸騰して日本の危機を絶叫し、舞踏会の才子佳人はあたかも阪東武者に襲われた平家の公達上﨟のように影を潜めて屏息した。さすがに剛情我慢の井上雷侯も国論には敵しがたくて、終に欧化政策の張本人としての責を引いて挂冠したが、潮の如くに押寄せると民論は益々政府に肉迫し、易水剣を按ずる壮士は慷慨激越して物情<ruby><rb>洶々</rb><rt>きょうきょう</rt></ruby>、帝都は今にも革命の<ruby><rb>巷</rb><rt>ちまた</rt></ruby>とならんとする如き混乱に陥った。

機一発、伊公の著名なる保安条例が青天霹靂の如く発布された。危険と<ruby><rb>目指</rb><rt>もくさ</rt></ruby>れた数十名の志士論客は三日の間に帝都を去るべく厳命された。明治の酷吏伝の第一頁を飾るべき時の警視総監三島<ruby><rb>通庸</rb><rt>みちつね</rt></ruby>は遺憾なく鉄腕を発揮して蟻の這う<ruby><rb>隙間</rb><rt>すきま</rt></ruby>もないまでに厳戒し、帝都の志士論客を小犬を追払うように一掃した。その時最も痛快なる芝居を打って大向うを唸らしたのは学堂尾崎行雄であった。尾崎は重なる逐客の一人として、伯爵後藤の馬車を駆りて先輩知友に暇乞いしに廻ったが、尾行の警吏が<ruby><rb>俥</rb><rt>くるま</rt></ruby>を飛ばして追尾し来るを<ruby><rb>尻目</rb><rt>しりめ</rt></ruby>に掛けつつ「我は既に大臣となれり」と傲語したのは最も痛快なる幕切れとして当時の青年に歓呼された。尾崎はその時学堂を愕堂と改め、三日目に帝都を去るや直ちに横浜埠頭より乗船して渡欧の途に上った。その花々しい神速なる行動は真に政治小説中の快心の一節で、当時の学堂居士の人気は伊公の悪辣なるクーデター劇の花形役者として満都の若い血を沸かさしたもんだ。

先年侯井上が薨去した時、当年の弾劾者たる学堂法相の著書『経世偉勲』が再刊されたのは皮肉であった。『経世偉勲』の発行されたのはあたかも侯井上の欧化政策時代であって、その頃学堂はジスレリーに私淑しているという評判だった。が、政治家としての尾崎は相応に見識があったろうが、ジスレリーを私淑するには学堂の文藻は余りに貧しかった。<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>も日本の政治家に漢詩以外の文学の造詣あるものは殆んどなかったが、その頃政治家が<ruby><rb>頻</rb><rt>しき</rt></ruby>りと小説を作る流行があって、学堂もまた『新日本』という小説染みたものを著わした。余り評判にもならなかったが、那翁三世が幕府の遣使栗本に兵力を貸そうと提議した顛末を<ruby><rb>夢物語風</rb><rt>ゆめものがたりふう</rt></ruby>に書いたもので、文章は<ruby><rb>乾枯</rb><rt>ひから</rt></ruby>びていたが月並な翻訳伝記の『経世偉勲』よりも面白く読まれた。『経世偉勲』は実は再び世間に顔を出すほどの著述ではないが、ジスレリーの夢が漸く実現された時、その実余人の抄略したものを尾崎行雄<span data-tei-rend="bouten 丸傍点 right" style="text-emphasis-style: filled circle; text-emphasis-position: over right">自著</span>と頗る<ruby><rb>御念</rb><rt>ごねん</rt></ruby>の<ruby><rb>入</rb><rt>い</rt></ruby>った銘を打って、さも新らしい著述であるかのように再刊されたのは、腕白時代の<ruby><rb>書初</rb><rt>かきぞ</rt></ruby>めが麗々しく表装されて床の間に掛けられるようなもんだ。学堂居士に取っては得意でもあろうが<ruby><rb>擽</rb><rt>くす</rt></ruby>ぐったくもあろう。

今の学堂夫人テオドラが初めて日本の父の家に帰って来たのも丁度『経世偉勲』が発行されて若い学堂の溌溂たる意気が青年の思慕の中心となった頃であった。が、日本へ帰ったばかりのテオドラ嬢は日本の民間党の領袖に母国の大政治家ジスレリーを私淑する花形役者があるのを少しも知らなかったろうし、またこの和製ジスレリーが未来の良人となる事を少しも予期しなかったろう。噂だから虚実は解らぬが、当時のテオドラ嬢は日本の父の家庭が本国で想像したとは案に相違したのを満足出来なかったそうだ。英人のホームを見馴れた眼には一家の夫人ともあろうものが酒飯の給仕をしたり、普通の侍婢と見えない婦人が正夫人と同住している日本の家庭が不思議でもありまた不愉快で堪らなかったそうだ。<ruby><rb>殊</rb><rt>こと</rt></ruby>にテオドラ嬢の父は元老院議官であったが、英国のセネートアの堂々たる生活ぶりから期待したとは打って変った<ruby><rb>見窶</rb><rt>みすぼ</rt></ruby>らしい生活が意に満たないで、不満のある度に一々英国公使に訴え、公使がまた一々取次いで外相井侯に苦情を持込むので、テオドラ嬢の父は事毎に外相からの内諭で娘の意を<ruby><rb>嚮</rb><rt>むか</rt></ruby>えるに汲々として弱り抜いていたが、欧化心酔の伊井公侯もこれには頗る困らされたそうだ。

当時の欧化は木下藤吉郎が<ruby><rb>清洲</rb><rt>きよす</rt></ruby>の城を三日に築いたと同様、外見だけは如何にも文物燦然と輝いていたが、内容は破綻だらけだった。仮装会は<ruby><rb>啻</rb><rt>た</rt></ruby>だ鹿鳴館の一夕だけでなくて、この欧化時代を通ずる全部が仮装会であった。結局失態百出よりは滑稽百出の喜劇に終った。が、糞泥汚物を押流す大汎濫は減水する時に必ず他日の養分になる泥沙を残留するようにこの馬鹿々々しい滑稽欧化の大洪水もまた新らしい文化を萌芽するの養分を残した。少なくも今日の文芸美術の勃興は欧洲文化を尊重する当時の気分に発途した。

井侯が陛下の行幸を鳥居坂の私邸に仰いで団十郎一座の劇を御覧に供したのは劇を賤視する従来の陋見を破って千万言の論文よりも芸術の位置を高める数倍の効果があった。井侯の薨去当時、井侯の逸聞が伝えられるに方って、文壇の或る新人は井侯が団十郎を愛して常にお<ruby><rb>伴</rb><rt>とも</rt></ruby>につれて歩いたというを<ruby><rb>慊</rb><rt>あきた</rt></ruby>らず思い、団十郎が井侯をお<ruby><rb>伴</rb><rt>とも</rt></ruby>にしないまでも<ruby><rb>切</rb><rt>せ</rt></ruby>めては対等に交際して侯伯のお<ruby><rb>伴</rb><rt>とも</rt></ruby>を栄としない見識があって欲しかったといった。今日の文人の見識としてはさもあろうが、今から四十年前――あるいは今日でもなお――俳優が大臣のお<ruby><rb>伴</rb><rt>とも</rt></ruby>をするは社会の実情上決して屈辱ではなかった。かつ、井侯は団十郎をお伴につれていても芸術に対する理解があったは、それまで匹夫匹婦の娯楽であって士太夫の見るまじきものと<ruby><rb>侮蔑</rb><rt>さげす</rt></ruby>んだ河原者の芸術を陛下の御覧に供したのでも明かである。今から見れば何でもないように思うが、四十年前俳優がマダ<ruby><rb>小屋者</rb><rt>こやもの</rt></ruby>と称されて乞食非人と同列に賤民視された頃に渠らの技芸を陛下の御眼に触れるというは重大事件で、宮内省その他の反対が<ruby><rb>尋常</rb><rt>ひととおり</rt></ruby>でなかったのは想像するに余りがある。その紛々たる群議を排して所信を貫ぬいたのは井侯の果敢と権威とがなければ出来ない事であって、これもまた芸術を尊重する欧米文明の感化であったろう。

劇を文化の重要件として演劇改良が初めて提言されたのもまた当時であった。陛下の天覧が機会となって伊井公侯の<ruby><rb>提撕</rb><rt>ていせい</rt></ruby>に生じたのだから、社会的には今日の新劇運動よりも一層大仕掛けであって、有力なる<ruby><rb>縉紳</rb><rt>しんしん</rt></ruby>貴女を初め道学先生や教育家までが<ruby><rb>尽</rb><rt>ことごと</rt></ruby>く参加した。当時の大官貴紳は今の政友会や憲政会の大臣よりも<ruby><rb>遥</rb><rt>はるか</rt></ruby>に芸術的理解に富んでいた。

野の政治家もまた今よりは芸術的好尚を持っていた。かつ在官者よりも自由であって、大抵<ruby><rb>操觚</rb><rt>そうこ</rt></ruby>に長じていたから、矢野龍渓の『経国美談』、末広鉄腸の『雪中梅』、東海散士の『佳人之奇遇』を先駈として文芸の著述を競争し、一時は小説を著わさないものは文明政治家でないような観があった。一つは憲法発布が約束されて政治が休息期に入ったからだが、一つは当時の欧化熱が文芸を尊重する欧米の空気を注入して、政治家もまた靖献遺言的志士<ruby><rb>形気</rb><rt>かたぎ</rt></ruby>を脱してジスレリーやグラッドストーン、リットンやユーゴーらの操觚者と政治家とを一身に兼ぬる文明的典型を学ぶようになったからだ。政治家肌がこういう傾向になったのもまた間接に伊井公侯の文明尊重に負うているので、当時の政界の領袖は朝野を通じて皆文芸的理解に富んでいた。庄屋様上りの百姓政治家は帝都の中央では<ruby><rb>対手</rb><rt>あいて</rt></ruby>にされなかった。

由来革命の鍵はイツデモ門外漢の手に握られておる。政治上の革命がしばしば草沢の無名の英雄に成し遂げられるように、文芸上の革命もまた往々シロウトに烽火を挙げられる。京伝馬琴以後落寞として<ruby><rb>膏</rb><rt>あぶら</rt></ruby>の<ruby><rb>燼</rb><rt>つ</rt></ruby>きた<ruby><rb>燈火</rb><rt>ともしび</rt></ruby>のように明滅していた当時の小説界も龍渓鉄腸らのシロウトに新らしい油を注ぎ込まれたが、生残った戯作者の遺物どもは法燈再び赫灼として輝くを見ても古い戯作の頭ではどう<ruby><rb>做</rb><rt>し</rt></ruby>ようもなく、空しく伝統の圏内に彷徨して指を<ruby><rb>啣</rb><rt>くわ</rt></ruby>えて眼を<ruby><rb>白黒</rb><rt>しろくろ</rt></ruby>する外はなかった。中には戯文や駄洒落の才を頼んで京伝三馬の旧套を追う、あたかも今の歌舞伎役者が<ruby><rb>万更</rb><rt>まんざら</rt></ruby>時代の推移を知らないでもないが、手の出しようもなくて歌舞伎年代記を繰返していると同じであった。が、大勢は終に滔々として渠らを置去りにした。

かかる折から卒然<ruby><rb>崛起</rb><rt>くっき</rt></ruby>して新文学の<ruby><rb>大旆</rb><rt>たいはい</rt></ruby>を建てたは文学士<ruby><rb>春廼舎朧</rb><rt>はるのやおぼろ</rt></ruby>であった。世間は既に政治小説に目覚めて、欧米文学の絢爛荘重なるを教えられて<ruby><rb>憧憬</rb><rt>あこが</rt></ruby>れていた時であったから、彼岸の風を満帆に姙ませつつこの新らしい潮流に進水した春廼舎の『書生気質』はあたかも鬼ガ島の宝物を満載して帰る桃太郎の舟のように歓迎された。これ実に新興文芸の第一声であって、天下の青年は<ruby><rb>翕然</rb><rt>きゅうぜん</rt></ruby>として文学の冒険に志ざした。

当時の記憶は綿々として憶浮べるままを尽くいおうとすれば限りがない。その頃一と度は政治家たらんと欲し、転じて建築に志ざし、再転して今度は実業界に入ろうとした一青年たる自分が文学に興味を持つようになったのもまた、直接には龍渓鉄腸らの小説、間接にはこれらの新傾向を胚胎した英国の政治家的文人の典型であった。幸か不幸か知らぬが終に半生を文壇の寄客となって過ごしたのは当時の青春の憧憬に発途しておる。

井侯の欧化政策は最早夢物語となった。当時の<ruby><rb>記念</rb><rt>かたみ</rt></ruby>としては鹿鳴館が華族会館となって幸い地震の火事にも無事に免かれて残ってるだけだが、これも今は<ruby><rb>人手</rb><rt>ひとで</rt></ruby>に渡ってやがて<ruby><rb>取毀</rb><rt>とりこぼ</rt></ruby>たれようとしている。井侯薨去当時、<ruby><rb>故侯</rb><rt>ここう</rt></ruby>の欧化政策は滑稽の<ruby><rb>思出草</rb><rt>おもいでぐさ</rt></ruby>となったが、あらゆる旧物を破壊して根底から新文明を創造しようとした井侯の徹底的政策の小気味よさは事毎に八方へ<ruby><rb>気兼</rb><rt>きがね</rt></ruby>して<ruby><rb>￼咀逡巡</rb><rt>しそしゅんじゅん</rt></ruby>する今の政治家には見られない。例えば先祖から持ち伝えた山を拓いて新らしい果樹園を造ろうとしたようなもので、その策は必ずしも無謀浅慮ではなかったが、ただ短兵急に功を急いで一時に根こそぎ老木を伐採したために不測の洪水を汎濫し、八方からの非難攻撃に包囲されて<ruby><rb>竟</rb><rt>つい</rt></ruby>にアタラ九仭の功を一簣に欠くの失敗に終った。が、汎濫した欧化の洪水が文化的に不毛の瘠土に注いで肥饒の美田となり、新たに植樹した文明の苗木が成長して美果を結んだのは争えない。少くも今日の新らしい文芸美術の勃興は当時の欧化熱に負う処があった。

井侯以後、<ruby><rb>羹</rb><rt>あつもの</rt></ruby>に<ruby><rb>懲</rb><rt>こ</rt></ruby>りて<ruby><rb>膾</rb><rt>なます</rt></ruby>を吹く国粋主義は代る代るに武士道や報徳講や祖先崇拝や神社崇敬を復興鼓吹した。が、半分化石し掛った思想は<ruby><rb>耆婆扁鵲</rb><rt>ぎばへんじゃく</rt></ruby>が如何に<ruby><rb>蘇生</rb><rt>よみがえ</rt></ruby>らせようと骨を折っても再び息を吹き返すはずがない。結局は甲冑の如く床の間に飾られ、弓術の如く食後の腹ごなしに<ruby><rb>翫</rb><rt>もてあそ</rt></ruby>ばれ、<ruby><rb>烏帽子</rb><rt>えぼし</rt></ruby><ruby><rb>直垂</rb><rt>ひたたれ</rt></ruby>の如く<ruby><rb>虫干</rb><rt>むしぼし</rt></ruby>に昔しを<ruby><rb>偲</rb><rt>しの</rt></ruby>ぶ種子となる外はない。津浪の如くに押寄せる外来思想は如何なる高い防波堤をも越して日一日も休みなく古い日本の因襲の寸を削り尺を崩して新らしい文明を作りつつある。この世界化は世界の進歩の当然の道程であって、民族の廃頽でもなければ国家の危険でもないのである。

イツの時代にも保守と急進とは相対立して互に相反撥し相牽掣する。が、官僚はイツでも保守的であって、放縦危激な民論を<ruby><rb>控制</rb><rt>こうせい</rt></ruby>し調節するが常である。官僚が先へ立って突飛な急進の空気を醸成して民間から反対されたというは滅多に聞かない話であって、伊井公侯の欧化政策は平和的ボリシェウィズムであった。それから比べると今日はあんまり平凡過ぎる。官僚も民間も皆老衰してしまった。政治界でも実業界でも爺さんでなければ夜も日も明けない老人万能で、眼前の安楽や一日の<ruby><rb>苟安</rb><rt>こうあん</rt></ruby>を貪る<ruby><rb>事無</rb><rt>ことな</rt></ruby>かれ主義に腰を叩いて<ruby><rb>死慾</rb><rt>しによく</rt></ruby>ばかり<ruby><rb>渇</rb><rt>かわ</rt></ruby>いている。女学校を出たてのお嬢さんが結婚よりも女の独立を主張し、五十六十のお婆さんまでが洋服を着て若い女と一緒に参政権を絶叫し、台所のお<ruby><rb>爨</rb><rt>さん</rt></ruby>どんまで時間制を高唱して労働運動に参加しようとする今日の思潮は世間の大勢で如何ともする事が出来ないのを、官僚も民間も切支丹破天連の如く<ruby><rb>呪咀</rb><rt>じゅそ</rt></ruby>して、<ruby><rb>惴々</rb><rt>ずいずい</rt></ruby>焉としてその侵入を<ruby><rb>防遏</rb><rt>ぼうあつ</rt></ruby>しようとしておる。当年の若い伊井公侯なら恐らくこれを危険視する事は<ruby><rb>豈夫</rb><rt>よも</rt></ruby>あるまい。伊井公侯の欧化策は文明の皮殻の模倣であったが、人心を新たにし元気を横溢せしめて新らしい文明のエポックを作った。頓挫しても新らしい文化の種子を播いたのは争えない。当時の公侯の文化主義は終に曾我の家式滑稽として終ったが、シカモこの喜劇は極めて尊い滑稽であった。

（大正十四年三月再記）