## 一　二葉亭が存命だったら

二葉亭が存命だったら今頃ドウしているだろう？　という問題が或る時二葉亭を知る同士が<ruby><rb>寄合</rb><rt>よりあ</rt></ruby>った席上の話題となった。二葉亭はとても革命が<ruby><rb>勃発</rb><rt>ぼっぱつ</rt></ruby>した頃まで露都に辛抱していなかったろうと思うが、仮に当時に居合わしたとしたら、ロマーノフ朝に味方したろう<ruby><rb>乎</rb><rt>か</rt></ruby>、革命党に同感したろう乎、ドッチの肩を持ったろう？　多恨の詩人肌から亡朝の末路に<ruby><rb>薤露</rb><rt>かいろ</rt></ruby>の悲歌を<ruby><rb>手向</rb><rt>たむ</rt></ruby>けたろうが、ツァールの悲惨な運命を<ruby><rb>哀哭</rb><rt>あいこく</rt></ruby>するには余りに深くロマーノフの罪悪史を知り過ぎていた。が、同時に入露以前から二、三の露国革命党員とも交際して<ruby><rb>渠</rb><rt>かれ</rt></ruby>らの苦辛や心事に相応の理解を持っていても、<ruby><rb>双手</rb><rt>もろて</rt></ruby>を挙げて渠らの革命の成功を祝するにはまた余りに多く渠らの陰謀史や虐殺史を知り過ぎていた。

二葉亭の頭は根が治国平天下の治者思想で<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>き上げられ、一度は軍人をも志願した位だから、ヒューマニチーの福音を説きつつもなお権力の信仰を把持して、<span data-tei-rend="yokogumi horizontal" style="writing-mode: horizontal-tb">“Might is right”</span>の信条を忘れなかった。貴族や富豪に虐げられる下層階級者に同情していても権力階級の存在は社会組織上止むを得ざるものと<ruby><rb>見做</rb><rt>みな</rt></ruby>し、渠らに味方しないまでも<ruby><rb>呪咀</rb><rt>じゅそ</rt></ruby>するほどに憎まなかった。

二葉亭はヘルチェンやバクーニンを初め近世社会主義の思想史にほぼ通じていた。<ruby><rb>就中</rb><rt>なかんずく</rt></ruby>ヘルチェンは晩年までも座辺から全集を離さなかったほど反覆した。マルクスの思想をも一と通りは<ruby><rb>弁</rb><rt>わきま</rt></ruby>えていた。が、<ruby><rb>畢竟</rb><rt>ひっきょう</rt></ruby>は談理を好む論理遊戯から愛読したので、理解者であったが共鳴者でなかった。書斎の空想として興味を持っても実現出来るものともまた是非実現したいとも思っていなかった。かえってこういう空想を直ちに実現しようと猛進する革命党や無政府党の無謀無考慮無<ruby><rb>経綸</rb><rt>けいりん</rt></ruby>を馬鹿にし切っていた。露都へ行く前から露国の内政や社会の状勢については絶えず相応に研究して露国の暗流に良く通じていたが、露西亜の官民の断えざる衝突に対して当該政治家の手腕器度を称揚する事はあっても革命党に対してはトンと同感が<ruby><rb>稀</rb><rt>うす</rt></ruby>く、渠らは空想にばかり<ruby><rb>俘</rb><rt>とら</rt></ruby>われて夢遊病的に行動する駄々ッ子のようなものだから、時々は<ruby><rb>灸</rb><rt>きゅう</rt></ruby>を<ruby><rb>据</rb><rt>す</rt></ruby>えてやらんと取締りにならぬとまで、官憲の非違横暴を認めつつもとかくに官憲の肩を持つ<ruby><rb>看方</rb><rt>みかた</rt></ruby>をした。

「露西亜は行詰っているが、革命党は空想ばかりで実行に掛けたらカラ成っていない。いくらヤキモキ騒いだって<ruby><rb>海千山千</rb><rt>うみせんやません</rt></ruby>の老巧手だれの官僚には歯が立たない、」と二葉亭は常に革命党の無力を<ruby><rb>見縊</rb><rt>みくび</rt></ruby>り切っていた。欧洲戦という意外の事件が突発したためという条、コンナに早く革命が開幕されて筋書通りに、トいうよりはむしろ筋書も何にもなくて無準備無計画で初めたのが勢いに引摺られてトントン拍子にバタバタ片附いてしまおうとは誰だって夢にだも想像しなかったのだから、二葉亭だってやはり、もし<ruby><rb>存生</rb><rt>ぞんじょう</rt></ruby>だったら地震に<ruby><rb>遭逢</rb><rt>でっくわ</rt></ruby>したと同様、<ruby><rb>暗黒</rb><rt>くらやみ</rt></ruby>でイキナリ頭をドヤシ付けられたように感じたろう。

が、二葉亭は革命党の無力を見縊っていても、その無思慮な軽率なヤリ口に感服しなくてもまるきり革命が起るのを洞観しないじゃなかった。「露西亜は今噴火坑上に踊ってる。幸い革命党に人物がないから太平を<ruby><rb>粧</rb><rt>よそお</rt></ruby>っていられるが、何年か後には必ず意外の機会から全露を大混乱に陥れる時がある」とはしばしば<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>い云いした。「その時が日本の<ruby><rb>驥足</rb><rt>きそく</rt></ruby>を伸ぶべき時、自分が一世一代の飛躍を試むべき時だ」と<ruby><rb>畑水練</rb><rt>はたけすいれん</rt></ruby>の<ruby><rb>気焔</rb><rt>きえん</rt></ruby>を良く挙げたもんだ。

果然革命は欧洲戦を導火線として突然爆発した。が、誰も多少予想していないじゃないが余り迅雷疾風的だったから誰も<ruby><rb>面喰</rb><rt>めんくら</rt></ruby>ってしまった。その上、東京の地震の火事と同様、予想以上に大きくなったのでいよいよ面喰ってしまった。日本は二葉亭の注文通りにこの機会に乗じて驥足を伸べるどころか、火の子を恐れて縮こまって手も足も出ないでいる。<ruby><rb>偶々</rb><rt>たまたま</rt></ruby>チョッカイを出しても<ruby><rb>火傷</rb><rt>やけど</rt></ruby>をするだけで、<ruby><rb>動</rb><rt>や</rt></ruby>やともすると<ruby><rb>野次馬</rb><rt>やじうま</rt></ruby>扱いされて突飛ばされたりドヤされたりしている。これでは二葉亭が一世一代の芝居を打とうとしても出る幕がないだろう。

だが、実をいうと二葉亭は舞台監督が出来ても舞台で踊る<ruby><rb>柄</rb><rt>がら</rt></ruby>ではなかった。<ruby><rb>縦令</rb><rt>たとい</rt></ruby>舞台へ出る役割を振られてもいよいよとなったら二の足を踏むだろうし、踊って見ても板へは附くまい。が、<ruby><rb>寝言</rb><rt>ねごと</rt></ruby>にまでもこの一大事の場合を歌っていたのだから、<ruby><rb>失敗</rb><rt>やりそこな</rt></ruby>うまでもこの有史以来の大動揺の舞台に立たして見たかった。

ヨッフェが来た時、二葉亭が一枚会合に加わっていたらドウだったろう。あの会合は本尊が私設外務大臣で、双方が探り合いのダンマリのようなもんだったから、結局が<ruby><rb>百日鬘</rb><rt>ひゃくにちかずら</rt></ruby>と<ruby><rb>青隈</rb><rt>あおぐま</rt></ruby>の<ruby><rb>公卿悪</rb><rt>くげあく</rt></ruby>の目を<ruby><rb>剥</rb><rt>む</rt></ruby>く<ruby><rb>睨合</rb><rt>にらみあ</rt></ruby>いの<ruby><rb>見得</rb><rt>みえ</rt></ruby>で幕となったので、見物人はイイ気持に<ruby><rb>看惚</rb><rt>みと</rt></ruby>れただけでよほどな<ruby><rb>看功者</rb><rt>みごうしゃ</rt></ruby>でなければドッチが上手か下手か解らなかった。あアいう型に<ruby><rb>陥</rb><rt>はま</rt></ruby>った<ruby><rb>大歌舞伎</rb><rt>おおかぶき</rt></ruby>では型の心得のない<ruby><rb>素人</rb><rt>しろうと</rt></ruby>役者では見得を切って<ruby><rb>大向</rb><rt>おおむこ</rt></ruby>うをウナらせる事は出来ないから、まるきり型や<ruby><rb>振事</rb><rt>ふりごと</rt></ruby>の心得のない二葉亭では舞台に飛出しても根ッから<ruby><rb>栄</rb><rt>は</rt></ruby>えなかったろうが、<ruby><rb>沈惟敬</rb><rt>しんいけい</rt></ruby>もどきの何とかいう男がクロンボを勤めてるよりも舞台を引緊めたであろう。

とは思うものの、二葉亭は舞台の役を振られて果して躍り出すだろう乎。空想はかなり大きく、談論は極めて鋭どかったが、<ruby><rb>率</rb><rt>い</rt></ruby>ざ問題にブツかろうとするとカラキシ舞台度胸がなくて、存外<ruby><rb>￼咀</rb><rt>しそ</rt></ruby><ruby><rb>逡巡</rb><rt>しゅんじゅん</rt></ruby>して容易に決行出来なかった。実行家となるには二葉亭は余りに思慮が細か過ぎた。右から左から縦から横から八方から<ruby><rb>只見</rb><rt>とみ</rt></ruby>うこう見て<ruby><rb>卯</rb><rt>う</rt></ruby>の毛で突いたほどの隙もないまでに考え詰めてからでないと何でも実行出来なかった。実行家の第一資格たる向う見ずに<ruby><rb>猪突</rb><rt>ちょとつ</rt></ruby>する大胆を欠いていた。勢い躍り出すツモリでいても出遅れてしまう。機会は<ruby><rb>何度</rb><rt>なんたび</rt></ruby>来ても出足が遅いのでイツモ機会を取逃がしてしまう。存命していても二葉亭はやはりとつおいつ千思万考しつつ出遅れて、<ruby><rb>可惜</rb><rt>あったら</rt></ruby>多年一剣を磨した<ruby><rb>千載</rb><rt>せんざい</rt></ruby>の好機を逸してしまうが<ruby><rb>落</rb><rt>おち</rt></ruby>であるかも解らん。

が、それでも<ruby><rb>活</rb><rt>い</rt></ruby>かして置きたかった。アレカラ先き当分露国に滞留して革命にも遭逢し、労農政府の明暗両方面をも<ruby><rb>目睹</rb><rt>もくと</rt></ruby>したなら、その露国観は必ず一転回して<ruby><rb>刮目</rb><rt>かつもく</rt></ruby>すべきものがあったであろう。舞台の正面を切る役者になるならぬは問題でなくして、<ruby><rb>左</rb><rt>と</rt></ruby>に<ruby><rb>右</rb><rt>か</rt></ruby>く二葉亭をしてこの余りに大き過ぎて何人にも予想出来なかった露西亜の大変動に直面せしめたかった。

## 二　二葉亭は実は旧人

二葉亭は露国文化の注入者としては先駆者であった。プーシキンやゴンチャローフやドストエフスキーや露西亜の近代の巨星の<ruby><rb>名什</rb><rt>めいじゅう</rt></ruby>を<ruby><rb>耽読</rb><rt>たんどく</rt></ruby>したのが四十年前で、ツルゲーネフの断章を初めて日本に翻訳紹介したのが三十六年前であった。その頃は日本ばかりでなくて<ruby><rb>欧羅巴</rb><rt>ヨーロッパ</rt></ruby>ですらが露西亜を北欧の半開民族視していたから、露西亜の文化なぞは問題とならなかった。露西亜の文学がポツポツ欧羅巴の大陸語に翻訳され出したのはやはり同じ頃からで、何一つ欧羅巴に遅れを取らないものはない日本の文化事業の中でただ一つ露西亜の文学の紹介に率先（<ruby><rb>縦令</rb><rt>たとい</rt></ruby>その後を続けるものが暫らくなかったにしろ）したというは二葉亭あったがためであった。

が、新らしい露西亜の文芸の研究者、精通者、紹介者としては二葉亭は実に輝いた先駆者であったが、元来露西亜の思想なるものは極めてオーソドックスな官僚的階級差別心と頗る放縦なユートピヤ的空想とあるのみで、近代自由思想の糧とすべきものに乏しかったから、二葉亭は芸術的に露西亜の<ruby><rb>勝</rb><rt>すぐ</rt></ruby>れた世界的大作に負う処があっても思想的に露西亜から学ぶべき何物をも与えられなかった。<ruby><rb>随</rb><rt>したが</rt></ruby>って少年時代から魏叔子や陸宣公で<ruby><rb>培</rb><rt>つちか</rt></ruby>われた頭は露西亜の文学の近代的気分に触れてもその中に盛られた自由思想を容れるには余りに偏固になり過ぎていた。

二葉亭が小説家型よりは国士型であるというは生前面識があった人は皆認める。この国士型というは維新前後から明治初期へ掛けての青年の通有であって、二葉亭に限らず同年配のものは皆国士を理想とした。本党の<ruby><rb>床次</rb><rt>とこなみ</rt></ruby>、現閣の浜口、皆学校時代から国士を任じていた。当時の青年が政治に志ざしたのは皆国士を標的としたからで、坪内博士の如く初めから劇や小説を生涯の仕事とする決心で<ruby><rb>起</rb><rt>た</rt></ruby>ったものは異数であった。<ruby><rb>徳冨蘆花</rb><rt>とくとみろか</rt></ruby>が『ほととぎす』に名を成した後の或る時「我は小説家たるを恥とせず」とポーロ<ruby><rb>擬</rb><rt>もど</rt></ruby>きに宣言したのはやはり文人としての国士的表現であった。町人宗の開山<ruby><rb>福沢</rb><rt>ふくざわ</rt></ruby>翁が富の福音を伝道しつつも士魂商才を叫んだ如く、当時の青年はコンパスや計算尺を持つ技師となっても、<ruby><rb>前垂掛</rb><rt>まえだれが</rt></ruby>けで<ruby><rb>算盤</rb><rt>そろばん</rt></ruby>を持っても、文芸に陶酔してペンを持っても、国士という<ruby><rb>桎梏</rb><rt>しっこく</rt></ruby>から全く解放されたものは先ずなかった。身、欧羅巴の土を踏んで香水気分に浸ったものでも頭の中では<ruby><rb>上下</rb><rt>かみしも</rt></ruby>を着て大小を<ruby><rb>佩</rb><rt>さ</rt></ruby>していた。

二葉亭もやはり、<ruby><rb>夙</rb><rt>はや</rt></ruby>くから露西亜の新らしい文芸の洗礼を受けていても頭の中では上下を着て大小を佩していた。聡明の人だから近代思想にも十分な理解を持っていたが、若い自由な思想に活きるよりはヨリ以上に国士的壮図の夢を見ていた。文学的天才に恵まれていながら文学に気乗りがせず、トルストイやドストエフスキーの偉大を認めつつも<ruby><rb>較</rb><rt>や</rt></ruby>やもすれば軽侮する口気を<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>らし、文学の尊重を認めるという口の下から男子<ruby><rb>畢世</rb><rt>ひっせい</rt></ruby>の業とするに足るや否やを疑うという如きは皆国士の悪夢の<ruby><rb>囈語</rb><rt>うわごと</rt></ruby>であった。

二葉亭は<ruby><rb>児供</rb><rt>こども</rt></ruby>の時は陸軍大将を理想として士官学校を志願までした。不幸にして不合格となったので、軍人を断念して外交方面へ方向を転じたが、学校が思うようにならず、その上に一家の事情が<ruby><rb>纏綿</rb><rt>てんめん</rt></ruby>して、三方四方が塞がったから仕方がなしに文学に<ruby><rb>趨</rb><rt>はし</rt></ruby>ったので、<ruby><rb>初一念</rb><rt>しょいちねん</rt></ruby>の国士の大望は決して衰えたのでも鈍ったのでもなかった。語学校に教授を執った時もタダの語学教師たるよりは露西亜を対照としての天下国家の<ruby><rb>経綸</rb><rt>けいりん</rt></ruby>を鼓吹したので、松下村塾の吉田松陰を任じていた。それ故に同じ<ruby><rb>操觚</rb><rt>そうこ</rt></ruby>でも天下の<ruby><rb>木鐸</rb><rt>ぼくたく</rt></ruby>としての新聞記者を希望して、官報局を<ruby><rb>罹</rb><rt>や</rt></ruby>めた時既に新聞記者たらんとして多少の運動をもした位だから、朝日の通信員として露西亜へ上途した時は半世の<ruby><rb>夙志</rb><rt>しゅくし</rt></ruby>が初めて達せられる心地がして意気満盛、恐らくその心事に立入って見たら新聞通信員を<ruby><rb>踏台</rb><rt>ふみだい</rt></ruby>として私設大使を任ずる心持であったろう。が、二葉亭の頭は活きた舞台に立つには余りに繊細<ruby><rb>煩瑣</rb><rt>はんさ</rt></ruby>に過ぎていた。<ruby><rb>北京</rb><rt>ペキン</rt></ruby>に放浪して親友川島浪速の片腕となって<ruby><rb>亜細亜</rb><rt>アジア</rt></ruby>の経綸を策した時代は恐らく一生の中の得意の絶頂であったろうが、余りに潔癖過ぎ詩人過ぎて、さしたる衝突もないのに僚友の引留むるを振払って帰朝してしまった。川島は満洲朝の滅亡と共に雄図<ruby><rb>蹉跎</rb><rt>さた</rt></ruby>し、近くは直隷軍の惨敗の結果が宣統帝の尊号<ruby><rb>褫奪</rb><rt>ちだつ</rt></ruby>宮城明渡しとなって、時事日に非なりの感に堪えないで腕を<ruby><rb>扼</rb><rt>やく</rt></ruby>しているだろうが、依然信州の山河に<ruby><rb>盤踞</rb><rt>ばんきょ</rt></ruby>して<ruby><rb>嵎</rb><rt>ぐう</rt></ruby>を負うの虎の如くに恐れられておる。渠は実に当世に珍らしい三国志的人物であるが、渠と義を結んで漢の天下を復する計を立つるには二葉亭は余りに近代的思想を持ち過ぎていた。シカモ近代人となるにはまた余りに古風な国士的風懐があり過ぎていた。この鳥にも獣にもドッチにもなり切る事が出来ない性格の矛盾が何をするにも二葉亭のキャリヤの<ruby><rb>障碍</rb><rt>しょうがい</rt></ruby>となった。

二葉亭と交際した二十年間、或る時は<ruby><rb>殆</rb><rt>ほと</rt></ruby>んど毎日往来した。終日あるいは夜を徹して語り明かした事もあった。が、お互いの打明けた談合の外は話題はイツデモ政治談や対外策、人生問題や社会問題に限られて滅多に文学に触れなかった。偶々文学談をしてもゴーゴリやツルゲーネフでなければ芭蕉や<ruby><rb>西行</rb><rt>さいぎょう</rt></ruby>、京伝や三馬らの古人の批評で、時文や文壇の<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>には余り興味を持たなかった。どうかすると紅葉や露伴や文壇人の噂をする事も<ruby><rb>時偶</rb><rt>ときたま</rt></ruby>はあったが、舞台の役者を<ruby><rb>土間</rb><rt>どま</rt></ruby>や<ruby><rb>桟敷</rb><rt>さじき</rt></ruby>から見物するような心持でいた。

『浮雲』以後は暫らく<ruby><rb>韜晦</rb><rt>とうかい</rt></ruby>して文壇との交渉を絶ち、文壇へ乗出す初めに提携した坪内博士とすら遠ざかっていた。が、再びポツポツ翻訳を初めてから新聞雑誌記者や文壇人が<ruby><rb>頻繁</rb><rt>ひんぱん</rt></ruby>に出入し初めた。二葉亭が二度の文人生活を初めたのは全く<ruby><rb>糊口</rb><rt>ここう</rt></ruby>のためで文壇的野心が再燃したわけでなく、ドコまでもシロウトの内職の心持であった。本職の文壇人として、舞台あるいは幕裏のあるいは<ruby><rb>楽屋</rb><rt>がくや</rt></ruby>の人間として扱われるのを<ruby><rb>痛</rb><rt>ひど</rt></ruby>くイヤがっていた。「文壇の名士が来てはツルゲーネフのトルストイのと持掛けられるにはクサクサする」と苦り切っていた。

『浮雲』を書いた時は真に血みどろの真剣勝負であった。『あいびき』や『めぐりあい』を訳した時は一刀三礼の心持で筆を執っていた。それにもかかわらず、後には<ruby><rb>若気</rb><rt>わかげ</rt></ruby>の<ruby><rb>過失</rb><rt>あやまち</rt></ruby>で後悔しているといった。自分には文学的天分がないと<ruby><rb>謙下</rb><rt>へりくだ</rt></ruby>りながらもとかくに大天才と自分自身が認める文豪をさえ茶かすような語気があった。<ruby><rb>万更</rb><rt>まんざら</rt></ruby>文学の尊重を認めないどころか、現代文化における文芸の位置を十分知り抜いているくせに、頭の隅のドコかで文学を遊戯視して男子畢世の業とするに足るか否かを疑っていた。二葉亭の理智の認める処を正直にいわせれば世界における文学芸術の位置なぞは問題ではないのだが、儒教や武家の教養から文芸を<ruby><rb>雕虫</rb><rt>ちょうちゅう</rt></ruby>末技視して軽侮する思想が頭の隅のドコかに<ruby><rb>粘</rb><rt>へば</rt></ruby>り着いていて一生文人として終るを何となく物足らなく思わした。ゴーゴリやツルゲーネフの洗礼を受けても魏叔子や陸宣公で<ruby><rb>鍜</rb><rt>きた</rt></ruby>え上げた思想がイツマデも抜け切らないで、二葉亭の行くべき新らしい世界に眼を閉ざさした。二葉亭は近代思想の聡明な理解者であったが、心の底から近代人になれない旧人であったのだ。

## 三　二葉亭は長生きしても終生煩悶の人

それなら二葉亭は旧人として小説を書くに<ruby><rb>方</rb><rt>あた</rt></ruby>っても天下国家を<ruby><rb>揮廻</rb><rt>ふりまわ</rt></ruby>しそうなもんだが、芸術となるとそうでない。二葉亭の対露問題は多年の深い研究とした<ruby><rb>夙昔</rb><rt>しゅくせき</rt></ruby>の抱負であったし、<ruby><rb>西伯利</rb><rt>シベリア</rt></ruby>から満洲を放浪し、北京では中心舞台に<ruby><rb>較</rb><rt>や</rt></ruby>や乗出していたし、実行家としてこそさしたる手腕を示しもせず、また手腕がなかったかも知れぬが、頭の中の経綸は決して空疎でなかった。もし小説に仮托するなら矢野龍渓や東海散士の向うを張って<ruby><rb>中里介山</rb><rt>なかざとかいざん</rt></ruby>と人気を争うぐらいは何でもなかったろう。二葉亭の頭と技術とを以て思う存分に筆を揮ったなら日本のデュマやユーゴーとなるのは決して困難でなかったろう。が、芸術となると二葉亭はこの国士的性格を離れ<ruby><rb>燕趙</rb><rt>えんちょう</rt></ruby>悲歌的傾向を忘れて、天下国家的構想には少しも興味を持たないでやはり市井情事のデリケートな心理の<ruby><rb>葛藤</rb><rt>かっとう</rt></ruby>を題目としている。何十年来シベリヤの空を<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>んで<ruby><rb>悶々</rb><rt>もんもん</rt></ruby><ruby><rb>鬱勃</rb><rt>うつぼつ</rt></ruby>した<ruby><rb>磊塊</rb><rt>らいかい</rt></ruby>を小説に托して洩らそうとはしないで、家常茶飯的の平凡な人情の紛糾に人生の<ruby><rb>一臠</rb><rt>いちれん</rt></ruby>を探して描き出そうとしている。二葉亭の作だけを読んで人間を知らないものは恐らく世間並の小説家以上には思わないだろうし、また人間だけを知ってその作を読まないものは、二葉亭を小説家であると聞いて必ず馬琴の作のようなものを聯想せずにはいられないだろう。

こうした根本の性格矛盾が始終二葉亭の足蹟に累を成していた。<ruby><rb>最</rb><rt>も</rt></ruby>一つ二葉亭は洞察が余り鋭ど過ぎた、というよりも<ruby><rb>総</rb><rt>すべ</rt></ruby>てのものを<ruby><rb>畸形的</rb><rt>きけいてき</rt></ruby>立体式に、あるいは彎曲的<ruby><rb>螺旋式</rb><rt>らせんしき</rt></ruby>に見なければ気が済まない詩人哲学者通有の<ruby><rb>痼癖</rb><rt>こへき</rt></ruby>があった。尤もこういう痼癖がしばしば大きな詩や哲学を作り出すのであるが、二葉亭もまたこの通有癖に<ruby><rb>累</rb><rt>わずら</rt></ruby>いされ、直線に屈曲を見出し平面に凹凸を捜し出して<ruby><rb>苦</rb><rt>くるし</rt></ruby>んだり悶いたりした。<ruby><rb>坦々</rb><rt>たんたん</rt></ruby><ruby><rb>砥</rb><rt>と</rt></ruby>の如き何<ruby><rb>間</rb><rt>げん</rt></ruby><ruby><rb>幅</rb><rt>はば</rt></ruby>の大通路を行く時も二葉亭は木の根<ruby><rb>岩角</rb><rt>いわかど</rt></ruby>の<ruby><rb>凸凹</rb><rt>でこぼこ</rt></ruby>した<ruby><rb>羊腸折</rb><rt>つづらおり</rt></ruby>や、<ruby><rb>刃</rb><rt>やいば</rt></ruby>を仰向けたような山の背を縦走する危険を聯想せずにはいられなかった。日常家庭生活においても二葉亭の家庭は実の親子夫婦の<ruby><rb>水不入</rb><rt>みずいらず</rt></ruby>で、シカモ皆好人物<ruby><rb>揃</rb><rt>ぞろ</rt></ruby>いであったから面倒臭いイザコザが起るはずはなかったが、二葉亭を中心としての一家の<ruby><rb>小競合</rb><rt>こぜりあ</rt></ruby>いは<ruby><rb>絶間</rb><rt>たえま</rt></ruby>がなくてバンコと苦情を聴かされた。二葉亭の<ruby><rb>言分</rb><rt>いいぶん</rt></ruby>を聞けば一々モットモで、大抵の場合は小競合いの敵手の方に非分があったが、実は何でもない日常の<ruby><rb>些事</rb><rt>さじ</rt></ruby>をも一々解剖分析して前後表裏から考えて見なければ気が済まない二葉亭の性格が原因していた。一と口にいえば二葉亭は家庭の主人公としては人情もあり<ruby><rb>思遣</rb><rt>おもいやり</rt></ruby>も深かったが、同時に<ruby><rb>我儘</rb><rt>わがまま</rt></ruby>な<ruby><rb>気難</rb><rt>きむず</rt></ruby>かし屋であった。が、二葉亭のこの我儘な気難かし屋は世間普通の手前勝手や<ruby><rb>肝癪</rb><rt>かんしゃく</rt></ruby>から来るのではなくて、反覆熟慮して考え抜いた結果の我儘であり気難かし屋であったのだ。

二葉亭は一時哲学に<ruby><rb>耽</rb><rt>ふけ</rt></ruby>った事があったが、その哲学の根柢は懐疑で、疑いがあるから哲学がある、疑いがなくて仮定の名の下に或る前提を定めて掛るなら最うドグマであって哲学でないといっていた。が、一切の前提を破壊してしまったならドコまで行っても思索は極まりなく、結局は出口のない<ruby><rb>八幡</rb><rt>やわた</rt></ruby><ruby><rb>知</rb><rt>し</rt></ruby>らずへ踏込んだと同じく、一つ処をドウドウ<ruby><rb>廻</rb><rt>めぐ</rt></ruby>りするより外はなくなる。それでは<ruby><rb>阿波</rb><rt>あわ</rt></ruby>の<ruby><rb>鳴門</rb><rt>なると</rt></ruby>の<ruby><rb>渦</rb><rt>うず</rt></ruby>に巻込まれて底へ底へと沈むようなもんで、頭の疲れや苦痛に堪え切れなくなったので、最後に<ruby><rb>盲亀</rb><rt>もうき</rt></ruby>の<ruby><rb>浮木</rb><rt>ふぼく</rt></ruby>のように<ruby><rb>取捉</rb><rt>とりつか</rt></ruby>まえたのが即ちヒューマニチーであった。が、根柢に<ruby><rb>構</rb><rt>よこた</rt></ruby>わってるのが懐疑だから、<ruby><rb>動</rb><rt>や</rt></ruby>やともするとヒューマニチーはグラグラして、命の綱と頼むには<ruby><rb>手頼甲斐</rb><rt>たよりがい</rt></ruby>がなかった。けれども<ruby><rb>大船</rb><rt>おおふね</rt></ruby>に救い上げられたからッて安心する二葉亭ではないので、<ruby><rb>板子</rb><rt>いたご</rt></ruby>一枚でも何千<ruby><rb>噸</rb><rt>トン</rt></ruby>何万噸の<ruby><rb>浮城</rb><rt>フローチング・キャッスル</rt></ruby>でも、浪と風との前には五十歩百歩であるように思えて終に一生を浪のうねうねに浮きつ沈みつしていた。

政治や外交や二葉亭がいわゆる男子畢世の業とするに足ると自ら信じた仕事でも結局がやはり安住していられなくなるのは北京の<ruby><rb>前轍</rb><rt>ぜんてつ</rt></ruby>に徴しても<ruby><rb>明</rb><rt>あきら</rt></ruby>かである。最後のペテルスブルグ生活は到着早々<ruby><rb>病臥</rb><rt>びょうが</rt></ruby>して碌々見物もしなかったらしいが、仮に健康でユルユル観光もし名士との往来交歓もしたとしても二葉亭は果して満足して得意であったろう<ruby><rb>乎</rb><rt>か</rt></ruby>。二葉亭は以前から露西亜を礼讃していたのではなかった。来て見れば予期以上にいよいよ幻滅を感じて、案外<ruby><rb>与</rb><rt>くみ</rt></ruby>しやすい<ruby><rb>独活</rb><rt>うど</rt></ruby>の大木だとも思い、あるいは<ruby><rb>箍</rb><rt>たが</rt></ruby>の<ruby><rb>弛</rb><rt>ゆる</rt></ruby>んだ<ruby><rb>桶</rb><rt>おけ</rt></ruby>、穴の<ruby><rb>明</rb><rt>あ</rt></ruby>いた風船玉のような民族だと愛想を尽かしてしまうかも解らない。当座の<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>こそ訪問や見物に忙がしく、夙昔の志望たる日露の問題に気焔を吐きもしようし努力もするだろうが、暫らくしたら多年の抱懐や計画や野心や宿望が<ruby><rb>総</rb><rt>すべ</rt></ruby>て<ruby><rb>石鹸玉</rb><rt>シャボンだま</rt></ruby>の泡のように消えてしまって索然とするだろう。欧洲戦が初まる前までどころか、恐らく二、三年も露都に過ごしたらクサクサしてとても辛抱出来なくなるだろう。

<ruby><rb>所詮</rb><rt>しょせん</rt></ruby>二葉亭は常に現状に満足出来ない人であった。絶間なく跡から跡からと煩悶を製造しては手玉に取ってオモチャにする人であった。二葉亭がかつて疑いがあるから哲学で、疑いがなくなったら哲学でなくなるといった通りに、悶えるのが二葉亭の存在であって、悶えがなくなったら二葉亭でなくなる。命のあらん限り悶えから悶えへと一生悶えを追って悶え抜くのが二葉亭である。『浮雲』の文三が二葉亭の性格の一部のパーソニフィケーションであるのは二葉亭自身から聴いていた。煩悶の内容こそ違え、二葉亭はあの文三と同じように疑いから疑いへ、<ruby><rb>苦</rb><rt>くるし</rt></ruby>みから苦みへ、悶えから悶えへと絶間なく<ruby><rb>藻掻</rb><rt>もが</rt></ruby>き通していた。これが即ち二葉亭の存在であって、長生きしたからって二葉亭の生涯には恐らく「満足」や「安心」や「解決」や「落着」は決して見出されなかったろう。

## 四　二葉亭は失敗の英雄

二葉亭は失敗の英雄であった。小説家としては未成の巨人であった。事業家としてドレほどの手腕があったかは疑問であるが、事を<ruby><rb>侶</rb><rt>とも</rt></ruby>にした人の<ruby><rb>憶出</rb><rt>おもいで</rt></ruby>を綜合して見ると相当の策もあり腕もあったらしく、<ruby><rb>万更</rb><rt>まんざら</rt></ruby>な講釈屋ばかりでもなかったようだ。実をいうと実務というものは台所の<ruby><rb>権助</rb><rt>ごんすけ</rt></ruby>仕事で、馴れれば誰にも出来る。実務家が自から任ずるほどな難かしいものではない。ところが日本では昔から法科万能で、実務上には学者を<ruby><rb>疎</rb><rt>うと</rt></ruby>んじ読書人を軽侮し、議論をしたり文章を書いたり読書に<ruby><rb>親</rb><rt>したし</rt></ruby>んだりするとさも働きのない低能者であるかのように<ruby><rb>軽蔑</rb><rt>けいべつ</rt></ruby>されあるいは敬遠される。二葉亭ばかりが志を得られなかったのではない。パデレフスキーも日本に生れたら大統領は<ruby><rb>魯</rb><rt>おろ</rt></ruby>か文部の長官にだって選ばれそうもない。ダンヌンチオも日本だったら義兵を募る事も軍資を作る事も決して出来なかったろう。西洋では詩人や小説家の国務大臣や商売人は一向珍らしくないが、日本では詩人や小説家では頭から<ruby><rb>対手</rb><rt>あいて</rt></ruby>にされないで、国務大臣は魯か代議士にだって選出される事は<ruby><rb>覚束</rb><rt>おぼつか</rt></ruby>ない。こういう国に二葉亭の生れたのは不運だった。

小説家としても『浮雲』は時勢に先んじ過ぎていた。相当に売れもし評判にもなったが半ばは合著の名を仮した<ruby><rb>春廼舎</rb><rt>はるのや</rt></ruby>の声望に<ruby><rb>由</rb><rt>よ</rt></ruby>るので、二葉亭としては余りありがたくもなかった。数ある批評のどれもが感服しないのはなかったが、ドレもこれも窮所を<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>れて自分の思う坪に陥ったのが一つもなかったのは褒められても淋しかった。『其面影』や『平凡』は苦辛したといっても二葉亭としては米銭の方便であって真剣でなかった。褒められても<ruby><rb>貶</rb><rt>けな</rt></ruby>されても余り深く関心しなかったろうし、自ら任ずるほどの作とも思っていなかった。

正直にいったら『浮雲』も『其面影』も『平凡』も皆未完成の<ruby><rb>出来損</rb><rt>できそこ</rt></ruby>ないである。あの三作で文人としての名を残すのは<ruby><rb>仮令</rb><rt>たとい</rt></ruby>文人たるを<ruby><rb>屑</rb><rt>いさぎよ</rt></ruby>しとしなくてもまた遺憾であったろう。

結局二葉亭は日本には余り早く生れ過ぎた。もし欧羅巴だったら小説家としても相応に優遇され、二葉亭もまた文人たるを甘んずる事が出来たであろう。

（大正十四年一月『女性』一部登載）