## 一

<ruby><rb>島田沼南</rb><rt>しまだしょうなん</rt></ruby>は大政治家として葬られた。清廉潔白百年<ruby><rb>稀</rb><rt>まれ</rt></ruby>に見る君子人として世を挙げて哀悼された。棺を<ruby><rb>蓋</rb><rt>おお</rt></ruby>うて定まる批評は<ruby><rb>燦爛</rb><rt>さんらん</rt></ruby>たる勲章よりもヨリ以上に沼南の一生の政治的功績を顕揚するに足るものがあった。

沼南には最近十四、五年間会った事がない。それ以前とて会えば<ruby><rb>寒暄</rb><rt>かんけん</rt></ruby>を叙する位の面識で、私邸を訪問したのも二、三度しかなかった。シカモその二、三度も、待たされるのがイツモ三十分以上で、<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く対座して十分かソコラで用談を済ますと<ruby><rb>直</rb><rt>す</rt></ruby>ぐ<ruby><rb>定</rb><rt>きま</rt></ruby>って、「ドウゾ<ruby><rb>復</rb><rt>ま</rt></ruby>たお<ruby><rb>閑</rb><rt>ひま</rt></ruby>の時御ユックリとお遊びにいらしって下さい」と後日の再訪を求めて打切られるから、勢い即時に<ruby><rb>暇乞</rb><rt>いとまご</rt></ruby>いせざるを得なくなった。<ruby><rb>随</rb><rt>したが</rt></ruby>って会えば<ruby><rb>万更</rb><rt>まんざら</rt></ruby>路人のように扱われもしなかったが、親しく口を<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>いた正味の時間は前後合して二、三十分ぐらいなもんだったろう。

が、沼南の「復たドウゾ御ユックリ」で巧みに撃退されたのは我々通り一遍の面識者ばかりじゃなかった。沼南と仕事を<ruby><rb>侶</rb><rt>とも</rt></ruby>にした提携者や門下生的関係ある<ruby><rb>昵近</rb><rt>じっきん</rt></ruby>者さえが「復たユックリ来給え」で<ruby><rb>碌々</rb><rt>ろくろく</rt></ruby>用談も済まない<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>に撃退されてブツクサいうのは珍らしくなかった。

<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>も沼南は極めて多忙で、地方の有志者などが<ruby><rb>頻繁</rb><rt>ひんぱん</rt></ruby>に出入していたから、我々<ruby><rb>閑人</rb><rt>ひまじん</rt></ruby>にユックリ<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>り込まれるのは迷惑だったに違いない。かつ天下国家の大問題で充満する頭の中には我々閑人のノンキな空談を<ruby><rb>容</rb><rt>い</rt></ruby>れる余地はなかったろうが、応酬に巧みな政客の常で誰にでも共鳴するかのように調子を合わせるから、イイ気になって知己を得たツモリで愚談を聴いてもらおうとすると、<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち巧みに受流されて「復たおヒマの時に御ユックリ」で撃退されてしまう。

由来我々筆舌の徒ほど始末の悪いものはない。談ずる処は多くは実務に縁の遠い無用の空想であって、シカモ発言したら<ruby><rb>娓々</rb><rt>びび</rt></ruby>として尽きないから<ruby><rb>対手</rb><rt>あいて</rt></ruby>になっていたら際限がない。沼南のような多忙な政治家が日に<ruby><rb>接踵</rb><rt>せっしょう</rt></ruby>する地方の有志家を撃退すると同じコツで我々閑人を遇するは決して無理はない。ブツクサいうものが誤っておる。

が、沼南の応対は普通の社交家の<ruby><rb>上</rb><rt>うわ</rt></ruby>ッ<ruby><rb>滑</rb><rt>すべ</rt></ruby>りのした如才なさと違って<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>にも真率に打解けて対手を育服さした。いつもニコニコ<ruby><rb>笑顔</rb><rt>えがお</rt></ruby>を作って<ruby><rb>僅</rb><rt>わず</rt></ruby>か二、三回の面識者をさえ百年の友であるかのように遇するから大抵なものはコロリと参って知遇を得たかのように感激する。政治家や実業家には得てこういう人を<ruby><rb>外</rb><rt>そ</rt></ruby>らさない共通の如才なさがあるものだが、世事に<ruby><rb>馴</rb><rt>な</rt></ruby>れない青年や先輩の恩顧に渇する不遇者は感激して忽ち腹心の門下や昵近の知友となったツモリに<ruby><rb>独</rb><rt>ひと</rt></ruby>りで<ruby><rb>定</rb><rt>き</rt></ruby>めてしまって同情や好意や<ruby><rb>推輓</rb><rt>すいばん</rt></ruby>や<ruby><rb>斡旋</rb><rt>あっせん</rt></ruby>を求めに行くと案外<ruby><rb>素気</rb><rt>そっけ</rt></ruby>なく<ruby><rb>待遇</rb><rt>あしら</rt></ruby>われ、合力無心を乞う苦学生の如くに撃退されるので、昨の感激が消滅して幻滅を感じ、敵意を持たないまでも不満を抱き反感を持つようになる。沼南ばかりじゃない。

## 二

沼南は終始一貫清廉を<ruby><rb>立通</rb><rt>たてとお</rt></ruby>した。少くも利権割取を政治家の余得として一進一退を<ruby><rb>総</rb><rt>すべ</rt></ruby>て金に換えて<ruby><rb>怪</rb><rt>あやし</rt></ruby>まない今の政界にあっては沼南は実に<ruby><rb>鶏群</rb><rt>けいぐん</rt></ruby>の<ruby><rb>一鶴</rb><rt>いっかく</rt></ruby>であった。

が、清廉を看板にし売物にする結果が貧乏をミエにする奇妙な虚飾があった。無論、沼南は金持ではなかった。が、その社会的位置に相応する堂々たる生活をしていたので、濁富でないまでも清貧を任ずるには余りブールジョア過ぎていた。それにもかかわらず、何かというと必要もないのに貧乏を<ruby><rb>揮廻</rb><rt>ふりまわ</rt></ruby>していた。

沼南が今の邸宅を新築した頃、偶然訪問して「大層立派な御普請が出来ました、」と<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>すると、沼南は苦笑いして、「この家も建築中から抵当に入ってるんです」といった。何の必要もないのにそういう世帯の<ruby><rb>繰廻</rb><rt>くりまわ</rt></ruby>しを誰にでも<ruby><rb>吹聴</rb><rt>ふいちょう</rt></ruby>するのが沼南の一癖であった。その後沼南昵近のものに<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>くと、なるほど、抵当に入ってるのはホントウだが、これを抵当に取った債権者というは<ruby><rb>岳父</rb><rt>がくふ</rt></ruby>であったそうだ。

これも或る時、ドウいう<ruby><rb>咄</rb><rt>はなし</rt></ruby>の連続であったか忘れたが、例の通り清貧咄をして「黒くとも米の飯を食し、綿布でも綿の入った着物を着ていれば僕はそれで満足している」と<ruby><rb>得々</rb><rt>とくとく</rt></ruby>としていった。沼南が平生綿服を着ているかドウかは知らぬが、その時の沼南はリュウとしたお召か何かでゾロッとしていたのだから挨拶に窮した。

その後、沼南昵近の或る男に会った時、その話をして、「何だってアンナに貧乏ぶるんだろう、」というと、

「アレは沼南の癖だよ、」といった。「ツイこの頃も社（毎日新聞社）で沼南が、何かの話のついでに僕はマダ<ruby><rb>抱</rb><rt>かか</rt></ruby>え<ruby><rb>俥</rb><rt>ぐるま</rt></ruby>を置いた事がない、イツデモ辻俥で用を足すというンのだ。沼南の金紋<ruby><rb>護謨輪</rb><rt>ゴムわ</rt></ruby>の抱え俥が社の前にチャンと待ってるんだからイイじゃないか。社の者が沼南の俥を知らないとはマサカに思ってもいまいが、他の者が貧乏咄をすると自分も釣られて負けない気になってウッカリいってしまうんだネ。お目出たい咄サ。こんな処はマア低能だネ。」

沼南の清貧咄は<ruby><rb>強</rb><rt>あなが</rt></ruby>ち貧乏を<ruby><rb>衒</rb><rt>てら</rt></ruby>うためでもまた借金を申込まれる<ruby><rb>防禦</rb><rt>ぼうぎょ</rt></ruby>線を張るためでもなかったが、場合に<ruby><rb>由</rb><rt>よ</rt></ruby>ると<ruby><rb>聴者</rb><rt>ききて</rt></ruby>に悪感を抱かせた。その頃毎日新聞社に籍を置いたＧ・Ｙという男が或る時、来て話した。「僕は社の会計から煙草銭ぐらい融通する事はあるが、個人としての沼南には一銭だって借りた覚えがない。ところがこの頃<ruby><rb>退引</rb><rt>のっぴき</rt></ruby>ならない事情があって沼南に相談すると、君の事情には同情するが金があればいいがネ、と<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>から<ruby><rb>蟇口</rb><rt>がまぐち</rt></ruby>を出して<ruby><rb>逆</rb><rt>さか</rt></ruby>さに振って見せて、「ない、同情するには同情するが<ruby><rb>生憎</rb><rt>あいにく</rt></ruby>僕にも金がない」という、こういう挨拶だ。貸す気がないなら貸さんでもいい、無理に借りようとはいわない。何も同情呼ばわりして逆さに蟇口を振って見せなくても<ruby><rb>宜</rb><rt>よ</rt></ruby>かろう、」と、プンプン<ruby><rb>怒</rb><rt>おこ</rt></ruby>って沼南を<ruby><rb>罵倒</rb><rt>ばとう</rt></ruby>した事があった。

その頃の新聞社はドコも貧乏していた。とりわけ毎日新聞社は最も<ruby><rb>逼迫</rb><rt>ひっぱく</rt></ruby>して社員の給料が極めて少かった。妻子を抱えているものは<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>だが、独身者すらも<ruby><rb>糊口</rb><rt>ここう</rt></ruby>がし兼ねて社長の沼南に増給を哀願すると、「僕だって社からは十五円しか<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>わないよ」というのが<ruby><rb>定</rb><rt>きま</rt></ruby>った挨拶であった。増給は<ruby><rb>魯</rb><rt>おろ</rt></ruby>か、ドンナ苦しい事情を打明けられても逆さに蟇口を振って見せるだけだ。「十五円であの生活が出来るかい。十五円はウソじゃアあるまいが、沼南の収入は社の月給ばかりじゃなかろう。コッチは社から貰う外にドコからも金の入る道はないンだぜ、」と、沼南に逆さに蟇口を振って見せられた連中は沼南の口先きだけの同情をブツクサいっていた。

## 三

それでも当時の毎日新聞社にはマダ<ruby><rb>嚶鳴社</rb><rt>おうめいしゃ</rt></ruby>以来の<ruby><rb>沼間</rb><rt>ぬま</rt></ruby>の気風が残っていたから、当時の国士的記者<ruby><rb>気質</rb><rt>かたぎ</rt></ruby>から月給なぞは問題としないで天下の<ruby><rb>木鐸</rb><rt>ぼくたく</rt></ruby>の天職を<ruby><rb>楽</rb><rt>たのし</rt></ruby>んでいた。が、新たに入社するものはこの伝統の社風に同感するものでも、また必ずしも沼南の人物に推服するものばかりでもなかったから、暫らくすると沼南の節度に<ruby><rb>慊</rb><rt>あきた</rt></ruby>らないで社員は絶えず代謝して、解体前の数年間はシッキリなしにガタビシしていた。

<ruby><rb>就中</rb><rt>なかんずく</rt></ruby>、社員が度々不平を鳴らし、かつ実際に困らせられたのは沼南の編輯方針が常にグラグラして朝令暮改少しも一定しない事だった。例えば甲の社員の提言を容れて直ぐ実行してくれと命じたものを乙の社員の意見でクルリと飜えして<ruby><rb>肝腎</rb><rt>かんじん</rt></ruby>の提言者に通告もしないでやめてしまう。そんな事とは知らないから前に命ぜられた社員は着々進行して<ruby><rb>率</rb><rt>い</rt></ruby>ざ実現しようとなると、「アレはやめにした、」とケロリと<ruby><rb>冷</rb><rt>す</rt></ruby>ました顔をしている。自分ばかりが<ruby><rb>呆気</rb><rt>あっけ</rt></ruby>に取られるだけなら我慢もなるが、社外の人に手数を掛けたり多少の<ruby><rb>骨折</rb><rt>ほねおり</rt></ruby>をさせたりした事をお<ruby><rb>関</rb><rt>かま</rt></ruby>いなしに<ruby><rb>破毀</rb><rt>はき</rt></ruby>されてしまっては、中間に立つ社員は<ruby><rb>板挟</rb><rt>いたばさ</rt></ruby>みになって窮してしまう。あるいはまた、同じ仕事を甲にも乙にも丙にも一人々々に「君が適任だから骨を折ってくれ」と命ずる。自分だけが命ぜられたツモリで<ruby><rb>各々</rb><rt>めいめい</rt></ruby>一生懸命になって骨を折ってると、イツカ互に<ruby><rb>同士討</rb><rt>どうしうち</rt></ruby>している事が解るから誰も皆<ruby><rb>厭気</rb><rt>いやき</rt></ruby>がさして手を引いてしまう。手を引くばかりでなく反感を持つようになる。沼南統率下の毎日新聞社の末期が惰気満々として一人も本気に働くものがなかったのはこれがためであった。

松隈内閣だか隈板内閣だかの組閣に<ruby><rb>方</rb><rt>あた</rt></ruby>って沼南が入閣するという風説が立った時、毎日新聞社にかつて在籍して猫の目のようにクルクル変る沼南の朝令暮改に<ruby><rb>散三</rb><rt>さんざ</rt></ruby>ッ<ruby><rb>原</rb><rt>ぱら</rt></ruby>苦しまされた或る男は<ruby><rb>曰</rb><rt>いわ</rt></ruby>く、「沼南の大臣になるなら<ruby><rb>俺</rb><rt>おれ</rt></ruby>が第一番に反対運動する、国家の政治が沼南のお天気模様で毎日グラグラ変られて<ruby><rb>堪</rb><rt>たま</rt></ruby>るもんか、」と。

毎日新聞社が他へ譲り渡された時、世間では十日も前から<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>があったが、社員は<ruby><rb>燈台下暗</rb><rt>とうだいもとくら</rt></ruby>しで、沼南の腹心はあるいは知っていたかも知らぬが、<ruby><rb>平</rb><rt>ひら</rt></ruby>の社員は受渡しの済んだ当日になっても知らなかった。中には<ruby><rb>薄々</rb><rt>うすうす</rt></ruby>感づいて沼南の<ruby><rb>口占</rb><rt>くちうら</rt></ruby>を引いて見たものもあったが、その日になっても何とも<ruby><rb>沙汰</rb><rt>さた</rt></ruby>がないので、一日社務に服して家へ帰ると、留守宅に社は解散したから明日から出社に及ばないという葉書が届いているんだから<ruby><rb>呆気</rb><rt>あっけ</rt></ruby>に取られてしまった。

いやしくも沼南は<ruby><rb>信誼</rb><rt>しんぎ</rt></ruby>を重んずる天下の士である。毎日新聞社は南風<ruby><rb>競</rb><rt>きそ</rt></ruby>わずして城を明渡さなくてはならなくなっても安い月給を甘んじて悪銭苦闘を続けて来た社員に一言の挨拶もなく解散するというは嚶鳴社以来の伝統の遺風からいっても許しがたい事だし、自分の物だからといって多年辛苦を<ruby><rb>侶</rb><rt>とも</rt></ruby>にした社員をスッポかして、タダの奉公人でも追出すような<ruby><rb>了簡</rb><rt>りょうけん</rt></ruby>で葉書一枚で解職を通知したぎりで<ruby><rb>冷</rb><rt>す</rt></ruby>ましているというは天下の国士を任ずる沼南にあるまじき不信であるというので、葉書一枚で<ruby><rb>馘首</rb><rt>かくしゅ</rt></ruby>された社員は皆カンカンになって結束して沼南に迫った。その結果が沼南のイツモ逆さに振って見せる蟇口から社を売った<ruby><rb>身代金</rb><rt>みのしろきん</rt></ruby>の幾分を<ruby><rb>吐出</rb><rt>はきだ</rt></ruby>して目出たく無事に落着したそうだ。そうかと思うと一方には、代がわりした『毎日新聞』の翌々日に載る沼南署名の<ruby><rb>訣別</rb><rt>けつべつ</rt></ruby>の辞のゲラ<ruby><rb>刷</rb><rt>ずり</rt></ruby>を封入した自筆の手紙を友人に配っている。何人に配ったか知らぬが、<ruby><rb>僅</rb><rt>わずか</rt></ruby>に数回の面識しかない浅い交際の私の<ruby><rb>許</rb><rt>もと</rt></ruby>へまで<ruby><rb>遣</rb><rt>よこ</rt></ruby>したのを見るとかなり多数の知人に配ったらしいが、新聞社を他へ<ruby><rb>譲渡</rb><rt>ゆずりわた</rt></ruby>すの止むを得ない事情を<ruby><rb>縷々</rb><rt>るる</rt></ruby>と訴えたかなり長い手紙を印刷もせず代筆でもなく一々自筆で<ruby><rb>認</rb><rt>したた</rt></ruby>めて何十通（あるいはそれ以上）も配ったのは大抵じゃなかったろう。平生の知己に対して進退<ruby><rb>行蔵</rb><rt>こうぞう</rt></ruby>を公明にする態度は<ruby><rb>間然</rb><rt>かんぜん</rt></ruby>する処なく、我々後進は余り<ruby><rb>鄭重</rb><rt>ていちょう</rt></ruby>過ぎる通告に痛み入ったが、近い社員の解職は一片の葉書の通告で済まし、遠いタダの知人には<ruby><rb>頗</rb><rt>すこぶ</rt></ruby>る<ruby><rb>慇懃</rb><rt>いんぎん</rt></ruby>な自筆の<ruby><rb>長手紙</rb><rt>ながてがみ</rt></ruby>を配るという処に沼南の政治家的面目が<ruby><rb>仄見</rb><rt>ほのみ</rt></ruby>える心地がする。

沼南の五十年の政治家生活が<ruby><rb>終</rb><rt>つい</rt></ruby>に台閣の椅子を<ruby><rb>酬</rb><rt>むく</rt></ruby>いられなかったのは沼南の志が世俗の権勢でなかったからばかりではない。アレだけの長い閲歴と、相当の識見を擁しながら次第に政友と離れて孤立し、頼みになる腹心も門下生もなく、末路<ruby><rb>寂寞</rb><rt>せきばく</rt></ruby>として<ruby><rb>僅</rb><rt>わずか</rt></ruby>に<ruby><rb>廓清</rb><rt>かくせい</rt></ruby>会長として最後の幕を閉じたのは<ruby><rb>啻</rb><rt>ただ</rt></ruby>に清廉や<ruby><rb>狷介</rb><rt>けんかい</rt></ruby>が<ruby><rb>累</rb><rt>わざわ</rt></ruby>いしたばかりでもなかったろう。

## 四

沼南は<ruby><rb>廃娼</rb><rt>はいしょう</rt></ruby>を最後の使命として<ruby><rb>闘</rb><rt>たたか</rt></ruby>った。が、若い時には相応に<ruby><rb>折花攀柳</rb><rt>せっかはんりゅう</rt></ruby>の風流に遊んだものだ。その時代の沼南の消息は<ruby><rb>易簀</rb><rt>えきさく</rt></ruby>当時多くの新聞に伝えられた。十年前だった、<ruby><rb>塚原靖</rb><rt>つかはらしずむ</rt></ruby>島田三郎合訳と署した代数学だか幾何学だかを偶然或る古本屋で見附けた。余り<ruby><rb>畑違</rb><rt>はたけちが</rt></ruby>いの著述であるのを不思議に思って、それから間もなく塚原老人に会った時に<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>くと、「大変なものを見附けられた。アレはネ……」と<ruby><rb>渋柿園</rb><rt>じゅうしえん</rt></ruby>老人は例の<ruby><rb>磊落</rb><rt>らいらく</rt></ruby>な調子で、「島田の奴が馬を<ruby><rb>引張</rb><rt>ひっぱ</rt></ruby>って来たので、仕方がないから<ruby><rb>有合</rb><rt>ありあ</rt></ruby>いのものを典じて始末をつけたが、その<ruby><rb>穴埋</rb><rt>あなうめ</rt></ruby>をしなけりゃならん。そこで島田が或る本屋を<ruby><rb>口説</rb><rt>くど</rt></ruby>いたところが、数学の本を書いてくれるなら金を出そうというので、それから島田がドコからか原書を借出して来て、二人して一週間ばかりで書上げたのがアノ本サ。早速金に換えて<ruby><rb>懐</rb><rt>ふとこ</rt></ruby>ろが<ruby><rb>温</rb><rt>あった</rt></ruby>まったので、サア繰出せと二人して大豪遊を極めたところが、島田の奴はイツマデもブン流して帰ろうといわんもんだから、とうとう遣い果して復た馬を<ruby><rb>伴</rb><rt>つ</rt></ruby>れて戻るというわけサ。その時分の島田はソリャアでれでれして<ruby><rb>尻</rb><rt>しり</rt></ruby>が腐ってしまうンだからカラ始末に行かなかった」と昔を<ruby><rb>憶出</rb><rt>おもいだ</rt></ruby>して塚原老人はカラカラと笑った。この頃の或る新聞に、沼南が流連して<ruby><rb>馴染</rb><rt>なじみ</rt></ruby>の女が病気で<ruby><rb>臥</rb><rt>ね</rt></ruby>ている<ruby><rb>枕頭</rb><rt>ちんとう</rt></ruby>にイツマデも附添って手厚く看護したという逸事が載っているが、沼南は<ruby><rb>心中</rb><rt>しんじゅう</rt></ruby>の<ruby><rb>仕損</rb><rt>しそこな</rt></ruby>いまでした<ruby><rb>遊蕩児</rb><rt>ゆうとうじ</rt></ruby>であった。が、それほど情が<ruby><rb>濃</rb><rt>こま</rt></ruby>やかだったので、同じ遊蕩児でも東家西家と花を摘んで転々する浮薄漢ではなかったようだ。

沼南は本姓鈴木で、島田家の養子であった。先夫人は養家の<ruby><rb>家附</rb><rt>いえつき</rt></ruby>娘だともいうし養女だともいうが、ドチラにしても若い沼南が島田家に寄食していた時、<ruby><rb>懐</rb><rt>おも</rt></ruby>われて縁組した恋婿であったそうだ。沼南が<ruby><rb>大隈</rb><rt>おおくま</rt></ruby>参議と進退を<ruby><rb>侶</rb><rt>とも</rt></ruby>にし、今の次官よりも重く見られた文部<ruby><rb>権</rb><rt>ごん</rt></ruby>大書記官の栄位を弊履の如く<ruby><rb>一蹴</rb><rt>いっしゅう</rt></ruby>して野に下り、<ruby><rb>矢野文雄</rb><rt>やのふみお</rt></ruby>や<ruby><rb>小野梓</rb><rt>おのあずさ</rt></ruby>と並んで改進党の三<ruby><rb>領袖</rb><rt>りょうしゅう</rt></ruby>として声望隆々とした頃の先夫人は<ruby><rb>才貌</rb><rt>さいぼう</rt></ruby>双絶の<ruby><rb>艶名</rb><rt>えんめい</rt></ruby>を鳴らしたもんだった。

その頃私は番町の島田邸近く<ruby><rb>住</rb><rt>すま</rt></ruby>っていたので、度々島田夫人と途中で<ruby><rb>行逢</rb><rt>ゆきあ</rt></ruby>った。今なら女優というような<ruby><rb>眩</rb><rt>まぶ</rt></ruby>しい<ruby><rb>粉黛</rb><rt>ふんたい</rt></ruby>を凝らした島田夫人の美装は行人の眼を集中し、番町女王としての艶名は隠れなかった。<ruby><rb>良人</rb><rt>おっと</rt></ruby>沼南と同伴でない時はイツデモ<ruby><rb>小間使</rb><rt>こまづかい</rt></ruby>をお<ruby><rb>伴</rb><rt>とも</rt></ruby>につれていたが、その頃流行した<ruby><rb>前髪</rb><rt>まえがみ</rt></ruby>を切って<ruby><rb>前額</rb><rt>ひたい</rt></ruby>に<ruby><rb>垂</rb><rt>た</rt></ruby>らした<ruby><rb>束髪</rb><rt>そくはつ</rt></ruby>で、<ruby><rb>嬌態</rb><rt>しな</rt></ruby>を作って桃色の小さいハンケチを<ruby><rb>揮</rb><rt>ふ</rt></ruby>り揮り香水の<ruby><rb>香</rb><rt>にお</rt></ruby>いを<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>に<ruby><rb>薫</rb><rt>くん</rt></ruby>じていた。知らないものは芸者でもなし、娘さんでもなし、官員さんの奥様らしくもなしと眼を<ruby><rb>睜</rb><rt>みは</rt></ruby>って美貌と美装に<ruby><rb>看惚</rb><rt>みと</rt></ruby>れたもんだ。その時分はマダ今ほど夫婦連れ立って歩く習慣が<ruby><rb>流行</rb><rt>はや</rt></ruby>らなかったが、沼南はこの艶色<ruby><rb>滴</rb><rt>した</rt></ruby>たる夫人を出来るだけ極彩色させて、近所の<ruby><rb>寄席</rb><rt>よせ</rt></ruby>へ連れてったり縁日を冷かしたりした。<ruby><rb>孔雀</rb><rt>くじゃく</rt></ruby>のような夫人のこの盛粧はドコへ行っても目に着くので沼南の顔も自然に知られ、沼南夫人と解って<ruby><rb>益々</rb><rt>ますます</rt></ruby>夫人の艶名が騒がれた。

<ruby><rb>九段</rb><rt>くだん</rt></ruby>の坂下の<ruby><rb>近角常観</rb><rt>ちかずみじょうかん</rt></ruby>の説教所は<ruby><rb>本</rb><rt>も</rt></ruby>とは藤本というこの辺での落語席であった。或る晩、誰だかの落語を聴きに行くと、<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>で割れるような笑い声がした。ドコの百姓が下らぬ低級の落語に見っともない大声を出して笑うのかと、<ruby><rb>顧盻</rb><rt>ふりかえ</rt></ruby>って見ると諸方の演説会で見覚えの島田沼南であった。例の通りに<ruby><rb>白壁</rb><rt>しらかべ</rt></ruby>のように塗り立てた夫人とクッつき合って、傍若無人に大きな口を開いてノベツに笑っていたが、その間夫人は沼南の肩を<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>いたり<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>を<ruby><rb>揺</rb><rt>ゆす</rt></ruby>ったりして不行儀を極めているので、衆人の視線は自然と沼南夫妻に集中して<ruby><rb>高座</rb><rt>こうざ</rt></ruby>よりは沼南夫妻のイチャツキの方に気を取られた。沼南の傍若無人の高笑いや夫人のヒッヒッと<ruby><rb>擽</rb><rt>くす</rt></ruby>ぐられるような笑いが余り<ruby><rb>耳触</rb><rt>みみざわ</rt></ruby>りになるので、「百姓、静かにしろ」と<ruby><rb>罵声</rb><rt>ばせい</rt></ruby>を浴びせ掛けられた。

数年前<ruby><rb>物故</rb><rt>ぶっこ</rt></ruby>した細川風谷の親父の統計院幹事の細川広世が死んだ時、九段の坂上で偶然その葬列に<ruby><rb>邂逅</rb><rt>でっく</rt></ruby>わした。その頃はマダ<ruby><rb>合乗俥</rb><rt>あいのりぐるま</rt></ruby>というものがあったが、沼南は夫人と共に一つ俥に同乗して葬列に加わっていた。一体合乗俥というはその頃の川柳や<ruby><rb>都々逸</rb><rt>どどいつ</rt></ruby>の無二の材料となったもので、狭い俥に両性がピッタリ<ruby><rb>粘着</rb><rt>くっつ</rt></ruby>き合って一つ膝掛に<ruby><rb>纏</rb><rt>くる</rt></ruby>まった容子は余り見っともイイものではなかった。<ruby><rb>搗</rb><rt>か</rt></ruby>てて加えて沼南夫人の極彩色にお化粧した顔はお葬い向きでなかった。その上に間断なくニタニタ笑いながら沼南と<ruby><rb>喃々</rb><rt>なんなん</rt></ruby>私語して行く<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>たらくは<ruby><rb>柩</rb><rt>ひつぎ</rt></ruby>を見送るものを<ruby><rb>顰蹙</rb><rt>ひんしゅく</rt></ruby>せしめずには<ruby><rb>措</rb><rt>お</rt></ruby>かなかった。政界の名士沼南とも知らない行人の中には目に余って、あるいは<ruby><rb>岡焼</rb><rt>おかやき</rt></ruby>半分に無礼な罵声を浴びせ掛けるものもあった。

その頃は既に<ruby><rb>鹿鳴館</rb><rt>ろくめいかん</rt></ruby>の欧化時代を過ぎていたが、欧化の余波は当時の新らしい女の運動を<ruby><rb>惹起</rb><rt>じゃっき</rt></ruby>した。沼南は当時の政界の新人の<ruby><rb>領袖</rb><rt>りょうしゅう</rt></ruby>として名声<ruby><rb>藉甚</rb><rt>せきじん</rt></ruby>し、キリスト教界の名士としてもまた<ruby><rb>儕輩</rb><rt>せいはい</rt></ruby>に<ruby><rb>推</rb><rt>お</rt></ruby>されていたゆえ、主としてキリスト教側から起された<ruby><rb>目覚</rb><rt>めざ</rt></ruby>めた女の運動には沼南夫人も加わって、夫君を背景としての勢力はオサオサ婦人界を圧していた。

丁度<ruby><rb>巌本善治</rb><rt>いわもとよしはる</rt></ruby>の明治女学校が創立された時代で、教会の奥に隠れたキリスト教婦人が街頭に出でて活動し初めた。九十の老齢で今なお病を養いつつ女の頭領として仰がれる<ruby><rb>矢島楫子刀自</rb><rt>やじまかじことじ</rt></ruby>を初め今は<ruby><rb>疾</rb><rt>とっ</rt></ruby>くに鬼籍に入った木村<ruby><rb>鐙子</rb><rt>とうこ</rt></ruby>夫人や<ruby><rb>中島湘烟</rb><rt>なかじましょうえん</rt></ruby>夫人は皆当時に<ruby><rb>崛起</rb><rt>くっき</rt></ruby>した。<ruby><rb>国木田独歩</rb><rt>くにきだどっぽ</rt></ruby>を恋に泣かせ、<ruby><rb>有島武郎</rb><rt>ありしまたけお</rt></ruby>の小説に描かれた佐々木のぶ子の母の<ruby><rb>豊寿</rb><rt>とよじゅ</rt></ruby>夫人はその頃のチャキチャキであった。沼南夫人はまた実にその頃の若い新らしい側を代表する花形であった。

今日の女の運動は社交の一つであって、貴婦人階級は勿論だが、中産以下、プロ階級の女の集まりでもとかくに着物やおつくりの競争場になりがちであるが、その頃のキリスト教婦人は今の普通の婦人は勿論、教会婦人と比べても数段ピューリタニックであって、若い婦人の集りでも喪に包まれたようで色彩に乏しかった。その中で沼南夫人は<ruby><rb>百舌</rb><rt>もず</rt></ruby>や<ruby><rb>鴉</rb><rt>からす</rt></ruby>の中のインコのように美しく飾り立てて脂粉と色彩の空気を漂わしていた。

この五色で満身を飾り立ったインコ夫人が後に沼南の外遊不在中、沼南の名誉に泥を塗ったのは当時の新聞の三面種ともなったので誰も知ってる。今日これを繰返しても決して沼南の徳を累する事はあるまい。徳を累するどころか、この家庭の<ruby><rb>破綻</rb><rt>はたん</rt></ruby>を処理した沼南の善後策は恐らく沼南の一生を通ずる美徳の最高発現であったろう。

## 五

沼南のインコ夫人の極彩色は番町界隈や<ruby><rb>基督</rb><rt>キリスト</rt></ruby>教界で誰知らぬものはなかった。<ruby><rb>羽子板</rb><rt>はごいた</rt></ruby>の押絵が抜け出したようで余り目に立ち過ぎたので、<ruby><rb>鈍色</rb><rt>にぶいろ</rt></ruby>を女徳の看板とする教徒の間には顰蹙するものもあった。欧化気分がマダ残っていたとはいえ、沼南がこの極彩色の夫人と衆人環視の中でさえも<ruby><rb>綢繆</rb><rt>ちゅうびゅう</rt></ruby><ruby><rb>纏綿</rb><rt>てんめん</rt></ruby>するのを苦笑して<ruby><rb>窃</rb><rt>ひそ</rt></ruby>かに沼南の名誉のため<ruby><rb>危</rb><rt>あやぶ</rt></ruby>むものもあった。果然、沼南が外遊の途に上ってマダ半年と経たない中に余り面白くない噂がポツポツ聞えて来た。アアいう<ruby><rb>人目</rb><rt>ひとめ</rt></ruby>に着く<ruby><rb>粧</rb><rt>よそお</rt></ruby>いの婦人に対してはとかくにあらぬ評判をしたがるもんだから、我々は沼南夫人に顰蹙しながらも余りに耳を傾けなかった。が、沼南の帰朝が近くなるに従って次第に風評が露骨になって、二、三の新聞の三面に臭わされるようになった。

その頃沼南の玄関にＹという書生がいた。文学志望で<ruby><rb>夙</rb><rt>はや</rt></ruby>くから私の家に出入していた。沼南が外遊してからは書生の雑用が<ruby><rb>閑</rb><rt>ひま</rt></ruby>になったからといって、殊にシゲシゲと遊びに来た。写字をしたり口授を筆記したりして私の仕事の手伝いをしていた。<ruby><rb>面胞</rb><rt>にきび</rt></ruby>だらけの<ruby><rb>小汚</rb><rt>こぎた</rt></ruby>ない<ruby><rb>醜男</rb><rt>ぶおとこ</rt></ruby>で、口は重く気は利かず、文学志望だけに能書というほどではないが筆札だけは<ruby><rb>上手</rb><rt>じょうず</rt></ruby>であったが、その外には才も働きもない<ruby><rb>朴念人</rb><rt>ぼくねんじん</rt></ruby>であった。

沼南が帰朝してから間もなくだった。Ｙは私の仕事の手伝いをしに大抵毎日、朝から来ては晩まで<ruby><rb>殆</rb><rt>ほと</rt></ruby>んど一日を私の家で過ごしたが、或る時、「ちょっと<ruby><rb>故郷</rb><rt>くに</rt></ruby>へ帰りますから今日ぎり暫らくお暇を<ruby><rb>戴</rb><rt>いただ</rt></ruby>きたい」といった。

余り突然だったので、<ruby><rb>故郷</rb><rt>くに</rt></ruby>に急な用事でも出来たかと<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>くと、<ruby><rb>脚気</rb><rt>かっけ</rt></ruby>だといった。ソンナ<ruby><rb>気振</rb><rt>けぶり</rt></ruby>はそれまでなかったのだから<ruby><rb>嘘</rb><rt>うそ</rt></ruby>とは思ったが、その日ぎりで来なくなってしまった。

それから二、三日過ぎて、偶然沼南夫妻の在籍する教会の牧師のＵ氏を尋ねると、Ｕ氏はちょっとした<ruby><rb>咄</rb><rt>はなし</rt></ruby>の途切れに、「Ｙはこの頃君のとこへ行くかい？」といった。

「二、三日前に来て近々<ruby><rb>故郷</rb><rt>くに</rt></ruby>へ帰るといってました。」

「その<ruby><rb>他</rb><rt>ほか</rt></ruby>に一身上の咄は何もしなかったかい？」

「イイヤ、何にも。」

「困ったよ、」Ｕ氏は首を<ruby><rb>掉</rb><rt>ふ</rt></ruby>って<ruby><rb>一</rb><rt>ひ</rt></ruby>と<ruby><rb>言</rb><rt>こと</rt></ruby>いったぎり顔を<ruby><rb>顰</rb><rt>しか</rt></ruby>めて固く<ruby><rb>唇</rb><rt>くちびる</rt></ruby>を結んでしまった。

「Ｙがドウかしましたか？」

「困ったよ、」と、Ｕ氏は両手で頭を<ruby><rb>抱</rb><rt>かか</rt></ruby>えて首を掉り掉り苦しそうに髪の毛を掻き<ruby><rb>揉</rb><rt>むし</rt></ruby>った。「君はＹから何も聞かなかったかい？」

「何にも聞きません。」

「こんな弱った事はない、」と、Ｕ氏は<ruby><rb>復</rb><rt>ま</rt></ruby>た暫らく黙してしまった。やがて、「君は島田のワイフの咄を<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>かで聞いたろう？」

「どんな話をです？」と、氏の<ruby><rb>問</rb><rt>とい</rt></ruby>が<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>く<ruby><rb>呑込</rb><rt>のみこ</rt></ruby>めないので訊き返したが、その時<ruby><rb>偶</rb><rt>ふ</rt></ruby>っと胸に浮んだのは沼南外遊中からの夫人の<ruby><rb>芳</rb><rt>かん</rt></ruby>ばしからぬ噂であった。ツイその数日前の或る新聞にも、「開国始末」で<ruby><rb>冤</rb><rt>えん</rt></ruby>を<ruby><rb>雪</rb><rt>そそ</rt></ruby>がれた<ruby><rb>井伊直弼</rb><rt>いいなおすけ</rt></ruby>の亡霊がお礼心に沼南夫人の<ruby><rb>孤閨</rb><rt>こけい</rt></ruby>の<ruby><rb>無聊</rb><rt>ぶりょう</rt></ruby>を慰めに夜な夜な通うというような<ruby><rb>擽</rb><rt>くす</rt></ruby>ぐったい記事が載っていた。今なら女優を<ruby><rb>想</rb><rt>おも</rt></ruby>わしめるジャラクラした沼南夫人が長い留守中の孤独に堪えられなかったというは、さもありそうな気もするが、マサカに世間で評判するようなソンナ<ruby><rb>不品行</rb><rt>ふしだら</rt></ruby>もあるまいと、Ｕ氏の島田のワイフの咄というのが何とも計りかねてＵ氏の口の開くのを待ってると、

「君も薄々知ってるだろうが、島田のワイフが飛んでもない不品行をやってネ……」

私はハッとした。予期した事が実現されたようでもあるし、自分の疑心で迎えてＵ氏の言葉を聞違えたようにも思って、「ホントウですか、」と反問すると、

「ホントウとも、ホントウとも、」とＵ氏は早口に<ruby><rb>点頭</rb><rt>うなず</rt></ruby>いて、「ホントウだから困ってしまった。」

Ｕ氏が最初からの<ruby><rb>口吻</rb><rt>くちぶり</rt></ruby>ではＹがこの事件に関係があるらしいので、Ｙが夫人の道に<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>れた恋の取持ちでもした<ruby><rb>乎</rb><rt>か</rt></ruby>、あるいは<ruby><rb>逢曳</rb><rt>あいびき</rt></ruby>の使いか手紙の取次でもしたかと<ruby><rb>早合点</rb><rt>はやがてん</rt></ruby>して、

「それじゃアＹが夫人の逢曳のお使いでもしたんですか？」というと、

「そんな<ruby><rb>幇助罪</rb><rt>ほうじょざい</rt></ruby>ならマダ軽いが、不品行の<ruby><rb>対手</rb><rt>あいて</rt></ruby>の本人なんだ。」

「えッ？」と私はまるで狐に<ruby><rb>魅</rb><rt>つま</rt></ruby>まれたような気がした。

沼南夫人のジャラクラした<ruby><rb>姿態</rb><rt>なりふり</rt></ruby>や極彩色の化粧を一度でも見た人は貞操が<ruby><rb>足駄</rb><rt>あしだ</rt></ruby>を<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>いて<ruby><rb>玉乗</rb><rt>たまのり</rt></ruby>をするよりも<ruby><rb>危</rb><rt>あぶ</rt></ruby>なッかしいのを誰でも感ずるだろう。が、世界の美人を一人で<ruby><rb>背負</rb><rt>せお</rt></ruby>って立ったツモリの美貌自慢の夫人が<ruby><rb>択</rb><rt>よ</rt></ruby>りに択って<ruby><rb>面胞</rb><rt>にきび</rt></ruby>だらけの<ruby><rb>不男</rb><rt>ぶおとこ</rt></ruby>のＹを対手に恋の綱渡りをしようとは誰が想像しよう。<ruby><rb>孔雀</rb><rt>くじゃく</rt></ruby>が豚を道連れにするエソップにでもありそうな図が<ruby><rb>憶出</rb><rt>おもいだ</rt></ruby>された。

「あの奥さんがＹと？」と私は何度も何度も一つ事を繰返して「そうだよ、ホントウだよ」とＵ氏に何度もいわれても自分の耳を疑わずにはいられなかった。

## 六

<ruby><rb>駿馬</rb><rt>しゅんめ</rt></ruby>痴漢を乗せて走るというが、それにしてもアノ美貌を誇る孔雀夫人が択りに択って<ruby><rb>面胞面</rb><rt>にきびづら</rt></ruby>の不男を対手にするとは余り物好き過ぎる。尤も一と頃<ruby><rb>倫敦</rb><rt>ロンドン</rt></ruby>の社交夫人間にカメレオンを<ruby><rb>鍾愛</rb><rt>しょうあい</rt></ruby>する流行があったというが、カメレオンの<ruby><rb>名代</rb><rt>みょうだい</rt></ruby>ならＹにも勤まる。

そういえばＹの<ruby><rb>衣服</rb><rt>みなり</rt></ruby>が近来著るしく<ruby><rb>贅沢</rb><rt>ぜいたく</rt></ruby>になって来た。<ruby><rb>新裁下</rb><rt>したておろ</rt></ruby>しのセルの<ruby><rb>単衣</rb><rt>ひとえ</rt></ruby>に<ruby><rb>大巾縮緬</rb><rt>おおはばちりめん</rt></ruby>の<ruby><rb>兵児帯</rb><rt>へこおび</rt></ruby>をグルグル巻きつけたこの頃のＹの服装は玄関番の書生としては分に過ぎていた。奥さんから<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>ったと自慢そうに見せた<ruby><rb>繍</rb><rt>ぬ</rt></ruby>いつぶしの<ruby><rb>紙入</rb><rt>かみいれ</rt></ruby>も書生にくれる品じゃない。疑えば疑われる事もまるきりないじゃなかったが、あのモズモズした無愛想な男、シカモ女に縁のなさそうな<ruby><rb>薄汚</rb><rt>うすぎた</rt></ruby>ない<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>をした男が沼南夫人の若い<ruby><rb>燕</rb><rt>つばめ</rt></ruby>になろうとは夢にも思わなかったから、夫人の芳ばしくない噂を薄々<ruby><rb>小耳</rb><rt>こみみ</rt></ruby>に入れてもＹなぞはテンから問題としなかった。

「女が悪いんだ。女の方から<ruby><rb>持掛</rb><rt>もちか</rt></ruby>けたんだ、」とＵ氏は<ruby><rb>渋面</rb><rt>じゅうめん</rt></ruby>を作って<ruby><rb>苦々</rb><rt>にがにが</rt></ruby>しい微笑を<ruby><rb>唇辺</rb><rt>くちもと</rt></ruby>に寄せつつ、「あの女は先天的に堕落の要素を持ってる。僕は裁判をしてこっちが<ruby><rb>羞恥</rb><rt>しゅうち</rt></ruby>を感じて赤面したが、女はシャアシャアしたもんで、平気でベラベラ白状した。職業的堕落婦人よりは一層厚顔だ。口の先では済まない事をした、申訳がありませんといったが、腹の底では何を思ってるか知れたもんじゃない。良心がまるで曇ってる。」

「Ｙも平気でしたか？」

「イヤ、Ｙは小さくなって<ruby><rb>悄</rb><rt>しお</rt></ruby>れ返っていた。アレは誘惑されたんだ、オモチャにされたんだ。」

と、Ｕ氏はＹの<ruby><rb>悔悛</rb><rt>かいしゅん</rt></ruby>に多少の同情を寄せていたが、それには違いなくても主人なり恩師なりの眼を<ruby><rb>掠</rb><rt>かす</rt></ruby>めてその最愛の夫人の道ならぬ遊戯のオモチャになったＹの破廉恥を私は憤らずにはいられなかった。Ｙは私の門生でも何でもなかった。が、<ruby><rb>日夕</rb><rt>にっせき</rt></ruby>親しく出入していただけに私までが馬鹿にされたような不快を感じた。

「Ｙはマダ人間が出来ておらんから<ruby><rb>直</rb><rt>す</rt></ruby>ぐ誘惑される。チンコロのようにオモチャにされたんで罪を犯す<ruby><rb>了簡</rb><rt>りょうけん</rt></ruby>があったんじゃない。島田の許へ連れてって<ruby><rb>詫</rb><rt>あや</rt></ruby>まらせたが、オイオイ声を揚げて泣き出した。」

Ｕ氏がコンナ事でＹを<ruby><rb>免</rb><rt>ゆる</rt></ruby>すような<ruby><rb>口吻</rb><rt>くちぶり</rt></ruby>があるのが私には<ruby><rb>歯痒</rb><rt>はがゆ</rt></ruby>かった。Ｙは果してＵ氏の思うように腹の底から<ruby><rb>悔悛</rb><rt>くいあらた</rt></ruby>めたであろう乎。この騒ぎが<ruby><rb>持上</rb><rt>もちあが</rt></ruby>ってる最中でもＹは平気な顔をして私の家へ来て仕事の手伝いをしていた。沼南と私とは親しい知り合いでなかったにしろ、沼南夫妻の属するＵ氏の教会と私とは何の交渉がなかったにしろ、良心が働いたなら神の名を以てする罪の裁きを受ける日にノメノメ恥を包んで私の前へは出て来られないはずであるのを、サモ天地に恥じない公明正大の人であるかのような平気な顔をして私の前に現れた。これが神を<ruby><rb>畏</rb><rt>おそ</rt></ruby>れ罪を恥じて悔悛めた人であろう乎。

Ｕ氏もＹの罪を免しつつもその態度にはマダ<ruby><rb>慊</rb><rt>あきた</rt></ruby>らないものがあったのであろう。「君には何にも話さなかったかい？　変った<ruby><rb>素振</rb><rt>そぶり</rt></ruby>は見えなかったかい？」といった。

「そんな不名誉な話は無論する気遣いはありませんが、シカシ妙だと思いましたよ、二、三日前に来た時急に国へ帰るってましたから。」

「それは君、島田が帰らせるんだよ。島田には実に感服したよ。Ｙがオイオイ声を出して泣いて詫まった時にダネ。人間てものは誰でも誤って邪路に<ruby><rb>踏迷</rb><rt>ふみまよ</rt></ruby>う事があるが、心から悔悛めれば罪は奇麗に<ruby><rb>拭</rb><rt>ぬぐ</rt></ruby>い去られると懇々説諭して、<ruby><rb>俺</rb><rt>おれ</rt></ruby>はお前に顔へ泥を塗られたからって一端の過失のために前途にドンナ光明が待ってるかも解らないお前の一生を葬ってしまいたくない。なお更これから先きも手許に置いて面倒を見てやりたいが、それでは世間が承知しない。俺は決してお前を憎むのではないが暫らく<ruby><rb>余焔</rb><rt>ほとぼり</rt></ruby>の<ruby><rb>冷</rb><rt>さ</rt></ruby>めるまで<ruby><rb>故郷</rb><rt>くに</rt></ruby>へ帰って謹慎していてもらいたいといって、旅費その他の<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>まった手当をくれた。その外に、修養のための書籍を二、三十冊わざわざ自分で買って来てＹの<ruby><rb>退先</rb><rt>のきさ</rt></ruby>きへ届けてくれたそうだ。普通の常識では<ruby><rb>豪</rb><rt>えら</rt></ruby>いか馬鹿かちょっと判断が出来ないが、<ruby><rb>左</rb><rt>と</rt></ruby>に<ruby><rb>右</rb><rt>か</rt></ruby>く島田は普通の人間の出来ない事をするよ――」

「それにはＹも心から感謝して、その話を僕にした時ポロポロ涙を<ruby><rb>澪</rb><rt>こぼ</rt></ruby>して島田の恩を一生忘れないと泣いていた、」とＵ氏は暫らくしてから再び言葉を続け、「が、Ｙはマダ人間が出来ておらんから、恩に感ずる事も早いが恩を忘れる事も早い。君ももしＹに会ったら<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>く<ruby><rb>訓誡</rb><rt>くんかい</rt></ruby>してやってくれ給え。二度と再び島田に裏切るような不品行をしたなら、<ruby><rb>最</rb><rt>も</rt></ruby>う世の中へ出て来られない。一生の<ruby><rb>廃</rb><rt>すた</rt></ruby>れ者になってしまう。」

## 七

その頃私はマダ沼南と交際がなかった。沼南の味も<ruby><rb>率気</rb><rt>そっけ</rt></ruby>もない<ruby><rb>実</rb><rt>み</rt></ruby>なし<ruby><rb>汁</rb><rt>じる</rt></ruby>のような政治論には余り感服しなかった上に、<ruby><rb>其処此処</rb><rt>そこここ</rt></ruby>で見掛けた夫人の顰蹙すべき娼婦的<ruby><rb>媚態</rb><rt>びたい</rt></ruby>が妨げをして、沼南に対してもまた余りイイ感じを持たないで、敬意を払う気になれなかった。

が、この不しだらな夫人のために泥を塗られても少しも平時の沈着を<ruby><rb>喪</rb><rt>うしな</rt></ruby>わないで<ruby><rb>穏便</rb><rt>おんびん</rt></ruby>に済まし、恩を<ruby><rb>仇</rb><rt>あだ</rt></ruby>で報ゆるに等しいＹの<ruby><rb>不埒</rb><rt>ふらち</rt></ruby>をさえも寛容して、<ruby><rb>諄々</rb><rt>じゅんじゅん</rt></ruby>と訓誡した上に帰国の旅費まで恵み、あまつさえ自分に罪を犯した不義者を心から<ruby><rb>悔悛</rb><rt>くいあらた</rt></ruby>めさせるための修養書を買って与えたという沼南の大雅量は普通人には<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>ても出来ない<ruby><rb>襟度</rb><rt>きんど</rt></ruby>だと心から嘆服した。

「全く君子だ。古聖賢に恥じない徳人だ、」とそれまで沼南に対して抱いた誤解を一掃して、世間尋常政治家には容易に<ruby><rb>匹</rb><rt>ひつ</rt></ruby>を求めがたい沼南の人格を深く感嘆した。

それにしてもＹを心から悔悛めさせて、<ruby><rb>切</rb><rt>せ</rt></ruby>めては<ruby><rb>世間並</rb><rt>せけんなみ</rt></ruby>の<ruby><rb>真人間</rb><rt>まにんげん</rt></ruby>にしなければ沼南の<ruby><rb>高誼</rb><rt>こうぎ</rt></ruby>に対して済まぬから、年長者の義務としても門生でも何でもなくても日頃親しく出入する<ruby><rb>由縁</rb><rt>ゆかり</rt></ruby>から十分訓誡して目を覚まさしてやろうと思い、一つはＹを四角四面の謹厳一方の青年と信じ切らないまでも恩人の顔に泥を塗る不義な人間とも思わなかったのが裏切られたイマイマしさから思うさま油を<ruby><rb>搾</rb><rt>しぼ</rt></ruby>ってやろうとＹの来るのを<ruby><rb>待構</rb><rt>まちかま</rt></ruby>えていた。が、二、三日経っても何の沙汰もないので、葉書を出して呼寄せたが、返事も来なければ<ruby><rb>終</rb><rt>つい</rt></ruby>に顔も見せなかった。

二タ月ほどして国元から手紙を<ruby><rb>遣</rb><rt>よこ</rt></ruby>したが、紋切形の無沙汰見舞であった。半歳ほどして上京したが、その時もいずれ参上するという手紙を遣しただけでやはり顔を見せなかった。Ｕ氏から後に聞くと、Ｕ氏が私にＹの話をした<ruby><rb>翌</rb><rt>あく</rt></ruby>る日に、帰国の前にモ一度私の許へ行けといったそうで、ＹはＵ氏が私に秘密を話したのを悟って、キマリが悪くて来られなかったらしい。

Ｙはその後も度々故郷へ行ったり上京したりしたが、傷持つ足の<ruby><rb>自</rb><rt>おの</rt></ruby>ずと<ruby><rb>閾</rb><rt>しきい</rt></ruby>が高くなって、いつも手紙をよこすだけでそれぎり私の家へは寄り附かなくなった。が、手紙で知らして来た容子に<ruby><rb>由</rb><rt>よ</rt></ruby>ると、その後も続いて沼南の世話になっていたらしく、中国辺の新聞記者となったのも沼南の<ruby><rb>口入</rb><rt>くちいれ</rt></ruby>なら、最後に脚気か何かの病気でドコかの病院に入院して終に死んでしまった病院費用から死後の始末まで万端皆沼南が世話をしてやったのだそうだ。

私が沼南と<ruby><rb>心易</rb><rt>こころやす</rt></ruby>くなったはその後であった。Ｙが私の家へ<ruby><rb>出入</rb><rt>でいり</rt></ruby>していたのを沼南は<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>く知っていたが、私も沼南もＹの名は一度でも<ruby><rb>噯</rb><rt>おくび</rt></ruby>にも出さなかった。

沼南の先夫人の不しだらは当時二、三の新聞の三面を<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎ</rt></ruby>わしたから誰も知っている。が、不義の<ruby><rb>対手</rb><rt>あいて</rt></ruby>の忘恩者を<ruby><rb>赦</rb><rt>ゆる</rt></ruby>した沼南の大雅量は直接事件に交渉したものの外は余り知らない。使用人同様の玄関番の書生の身分で主人なり恩師なりの眼を<ruby><rb>窃</rb><rt>ぬす</rt></ruby>んでその名誉に泥を塗るいおうようない忘恩の非行者を当の被害者として<ruby><rb>啻</rb><rt>ただ</rt></ruby>に寛容するばかりでなく、<ruby><rb>若気</rb><rt>わかげ</rt></ruby>の一端の過失のために終生を埋もらせたくないと訓誡もし、生活の道まで心配して死ぬまで面倒を見てやったというは世間に余り例を聞かない何という美談であろう。中には沼南が顔に泥を塗られた見にくさを<ruby><rb>箔</rb><rt>はく</rt></ruby>でゴマカそうとするためのお化粧的偽善だというものもあるが、偽善でも何でも忘恩の非行者に対してこういう寛容な襟度を示したものは滅多にない。

沼南にはその後段々近接し、沼南門下のものからも度々噂を聞いて、Ｙに対する沼南の情誼に感奮した最初の推服を次第に減じたが、沼南の百の欠点を知っても自分の顔へ泥を塗った門生の罪過を憎む代りに<ruby><rb>憐</rb><rt>あわれ</rt></ruby>んで生涯面倒を見てやった沼南の美徳に対する感嘆は<ruby><rb>毫</rb><rt>ごう</rt></ruby>も減ずるものではない。が、<ruby><rb>有体</rb><rt>ありてい</rt></ruby>にいうと沼南は度量海の如き大人格でも、清濁<ruby><rb>併</rb><rt>あわ</rt></ruby>せ<ruby><rb>呑</rb><rt>の</rt></ruby>む大腹中でもなかった。それよりはむしろ小悪微罪に触れるさえ忍び得られないで独りを<ruby><rb>潔</rb><rt>いさぎよ</rt></ruby>うする潔癖家であった。濁流の<ruby><rb>渦巻</rb><rt>うずま</rt></ruby>く政界から次第に孤立して終にピューリタニックの使命に<ruby><rb>潜</rb><rt>かく</rt></ruby>れるようになったは<ruby><rb>畢竟</rb><rt>ひっきょう</rt></ruby>この潔癖のためであった。が、ドウしてＹに対してのみ寛大であったろう。Ｕ氏は「沼南は不可解だ、神<ruby><rb>乎</rb><rt>か</rt></ruby>愚人乎」とその後しばしば私に話したが、私にも実はマダ<ruby><rb>謎</rb><rt>なぞ</rt></ruby>である。

沼南が議政壇に最後の<ruby><rb>光焔</rb><rt>こうえん</rt></ruby>を放ったのはシーメンス事件を<ruby><rb>弾劾</rb><rt>だんがい</rt></ruby>した大演説であった。沼南の<ruby><rb>直截</rb><rt>ちょくせつ</rt></ruby>痛烈な長広舌はこの種の弾劾演説に掛けては近代政治界の第一人者であった。不義を憎む事<ruby><rb>蛇蝎</rb><rt>だかつ</rt></ruby>よりも<ruby><rb>甚</rb><rt>はなは</rt></ruby>だしく、悪政暴吏に対しては挺身<ruby><rb>搏闘</rb><rt>はくとう</rt></ruby>して滅ぼさざれば止まなかった沼南は孤高清節を全うした一代の潔士でもありまた闘士でもあった。が、沼南の清節は<ruby><rb>縕袍弊袴</rb><rt>うんぽうへいこ</rt></ruby>で怒号した<ruby><rb>田中正造</rb><rt>たなかしょうぞう</rt></ruby>の操守と違ってかなり有福な贅沢な清貧であった。沼南社長時代の毎日新聞社員は貧乏が通り相場である新聞記者中でも殊に<ruby><rb>抽</rb><rt>ぬき</rt></ruby>んでて貧乏であった。毎月の月給が<ruby><rb>晦日</rb><rt>みそか</rt></ruby>の晩になっても集金人が金を持って帰るまでは支払えなくて、九時過ぎまでも社員が待たされた事が珍らしくなかった。<ruby><rb>随</rb><rt>したが</rt></ruby>って社員は月末の米屋酒屋の勘定どころか煙草銭にもしばしば<ruby><rb>差支</rb><rt>さしつか</rt></ruby>えた。が、社長沼南は位置相当の門戸を構える必要があったとはいえ、堂々たる生活をしながら社員が急を訴えても<ruby><rb>空々</rb><rt>そらぞら</rt></ruby>しい貧乏咄をしてテンから相談対手にならなかった。

沼南はまた晩年を風紀の<ruby><rb>廓清</rb><rt>かくせい</rt></ruby>に<ruby><rb>捧</rb><rt>ささ</rt></ruby>げて東奔西走廃娼禁酒を<ruby><rb>侃々</rb><rt>かんかん</rt></ruby>するに<ruby><rb>寧日</rb><rt>ねいじつ</rt></ruby>なかった。が、壮年の沼南は廃娼よりはむしろ拝娼で艶名隠れもなかった。が、その頃は<ruby><rb>偎紅倚翠</rb><rt>わいこういすい</rt></ruby>を風流として道徳上の問題としなかった。忠孝の結晶として神に<ruby><rb>祀</rb><rt>まつ</rt></ruby>られる<ruby><rb>乃木</rb><rt>のぎ</rt></ruby>将軍さえ若い頃には盛んに柳暗花明の<ruby><rb>巷</rb><rt>ちまた</rt></ruby>に馬を<ruby><rb>繋</rb><rt>つな</rt></ruby>いだ事があるので、若い沼南が流連荒亡した半面の消息を<ruby><rb>剔抉</rb><rt>てっけつ</rt></ruby>しても毫も沼南の徳を傷つける事はないだろう。沼南はウソが嫌いであった。「私はウソをいった事がない」と沼南自身の口ずから聞いたのは数回に<ruby><rb>留</rb><rt>とど</rt></ruby>まらない。<ruby><rb>瑜瑕</rb><rt>ゆか</rt></ruby>並び<ruby><rb>覆</rb><rt>おお</rt></ruby>わざる赤裸々の沼南のありのままを正直に語るのは、沼南を<ruby><rb>唐偏木</rb><rt>とうへんぼく</rt></ruby>のピューリタンとして偶像扱いするよりも苔下の沼南は微笑を含んでかえって満足するであろう。