## 一　飯田町の中坂――馬琴と「まどき」と思案外史

震災で破壊された東京の史蹟のその中で最も<ruby><rb>惜</rb><rt>おし</rt></ruby>まれる一つは<ruby><rb>馬琴</rb><rt>ばきん</rt></ruby>の<ruby><rb>硯</rb><rt>すずり</rt></ruby>の水の井戸である。馬琴の<ruby><rb>旧棲</rb><rt>きゅうせい</rt></ruby>は何度も修繕されて<ruby><rb>殆</rb><rt>ほと</rt></ruby>んど旧観を<ruby><rb>喪</rb><rt>うしな</rt></ruby>ってるから、崩壊しても惜くないが、<ruby><rb>台所口</rb><rt>だいどころぐち</rt></ruby>の井戸は馬琴の在世時のままだそうだから、埋められたと聞くと惜まれる。が、井戸だから<ruby><rb>瓦</rb><rt>かわら</rt></ruby>や土砂で埋められても旧容を<ruby><rb>恢復</rb><rt>かいふく</rt></ruby>するのは容易である。

この馬琴の硯の水の井戸は飯田町の<ruby><rb>中坂</rb><rt>なかざか</rt></ruby>の中途、<ruby><rb>世継稲荷</rb><rt>よつぎいなり</rt></ruby>の筋向いの<ruby><rb>路次</rb><rt>ろじ</rt></ruby>の奥にある。中坂といっても<ruby><rb>界隈</rb><rt>かいわい</rt></ruby>の人を除いては余り知る者もあるまいが、<ruby><rb>九段</rb><rt>くだん</rt></ruby>の次の険しい坂である。東京のジオグラフィーを書くものは徳川三百年間随一の大文豪たる滝沢馬琴の故居の名蹟としてのこの中坂を特記する事を忘れてはならない。

馬琴は二十七、八歳、<ruby><rb>通油町</rb><rt>とおりあぶらまち</rt></ruby>の<ruby><rb>地本</rb><rt>じほん</rt></ruby>問屋<ruby><rb>蔦屋</rb><rt>つたや</rt></ruby>重三郎の帳面附けをしていた頃或人の世話で中坂の下駄屋で家主なる寡婦の入夫となった。<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く高名となってからは下駄屋を<ruby><rb>罷</rb><rt>や</rt></ruby>めて<ruby><rb>手習</rb><rt>てならい</rt></ruby>師匠となり、晩年には飯田町の家は娘に婿を取って家主の株を継がせ、自分は<ruby><rb>忰</rb><rt>せがれ</rt></ruby><ruby><rb>宗伯</rb><rt>そうはく</rt></ruby>のために買った<ruby><rb>明神下</rb><rt>みょうじんした</rt></ruby>の家に移って同居したが、一生の殆んど大部分は飯田町に暮したのだ。

九段の<ruby><rb>長谷川</rb><rt>はせがわ</rt></ruby>写真館の<ruby><rb>真向</rb><rt>まむか</rt></ruby>いを東へ下りる坂の下り口の北側が今では<ruby><rb>空地</rb><rt>あきち</rt></ruby>となってるが、この空地を<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>れて二、三軒目にツイ二十年前まであった小さな瀬戸物屋が馬琴の娘の婿の家で、今でも子孫が<ruby><rb>無商売</rb><rt>しもたや</rt></ruby>でこの裏に住んでるそうだ。この路次裏の井戸が即ち馬琴の硯の水で、文芸の理解のない官憲も馬琴の名だけは知っていたと見えて、数年前から東京史蹟の高札が建てられた。王侯将相よりも文豪の尊敬される<ruby><rb>欧羅巴</rb><rt>ヨーロッパ</rt></ruby>なら<ruby><rb>疾</rb><rt>とっ</rt></ruby>くに日本の名蹟とし東京の名誉とし<ruby><rb>将</rb><rt>は</rt></ruby>た飯田町の誇りとして手厚く保管し、金石に<ruby><rb>勒</rb><rt>ろく</rt></ruby>して永久に記念されべきはずであるが、戦場で拾って来た砲弾の記念碑を建てる事を知っていても学者や文人の墓石は平気で破壊するを少しも怪まない日本では、<ruby><rb>縦令</rb><rt>たとい</rt></ruby>高札を建てても<ruby><rb>何時</rb><rt>なんどき</rt></ruby>この貴い古井戸を埋めてしまわないとは限らない。が、この古井戸がどうなろうとも、この中坂はグレート馬琴が半生を暮した故居の地として永久に記念されべき史蹟である。

不思議にもこの中坂は文豪馬琴の史蹟であると共にまた、明治の文学史に一エポックを作った<ruby><rb>硯友社</rb><rt>けんゆうしゃ</rt></ruby>の発祥地でもある。

中坂上の南側に秀光舎という印刷所がある。この秀光舎の前身は同益出版社といって、今から四十年前に小説復刻の元祖たる南<ruby><rb>伝馬町</rb><rt>てんまちょう</rt></ruby>の<ruby><rb>稗史</rb><rt>はいし</rt></ruby>出版社に続いて馬琴の『<ruby><rb>俊寛僧都</rb><rt>しゅんかんそうず</rt></ruby>島物語』や<ruby><rb>風来</rb><rt>ふうらい</rt></ruby>の『六々部集』を覆刻したので読書界に知られた印刷所であった。この工場と<ruby><rb>相対</rb><rt>むかいあ</rt></ruby>ってる北側に、今は地震で<ruby><rb>崩</rb><rt>くず</rt></ruby>されて旧観を<ruby><rb>更</rb><rt>あらた</rt></ruby>めてしまったが、附属の倉庫の白壁の土蔵があった。硯友社という小さな標札がこの土蔵の戸口に掛ったのがタシカ明治二十一年夏の初めであった。<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>も『<ruby><rb>我楽多</rb><rt>がらくた</rt></ruby>文庫』はそれより二タ月前頃から公刊されていたが、飯田町の国学院大学の横町の尾崎の家を編輯所兼発行所としていた頃には誰にも余り知られなかった。人通りの多い中坂上に看板を掛けてから初めて行人の目を<ruby><rb>牽</rb><rt>ひ</rt></ruby>いた。

馬琴の<ruby><rb>後裔</rb><rt>あと</rt></ruby>だという瀬戸物屋は<ruby><rb>爰</rb><rt>ここ</rt></ruby>から僅か十二、三軒目であった。馬琴が江戸一の作者として盛んに鳴らした頃は手習師匠であったし、家主であったし、殊にあれだけの学問見識があったのだから、馬琴の清右衛門は必ず町内の学者でもあり<ruby><rb>口利</rb><rt>くちき</rt></ruby>きでもあったに相違なく、硯友社の札を掛けたあたりは<ruby><rb>大方</rb><rt>おおかた</rt></ruby>清右衛門の世話になっていたろうと思う。少くも硯友社は馬琴の下駄の<ruby><rb>迹</rb><rt>あと</rt></ruby>を印し馬琴の声を聞いた地に育ったので、幽明相隔つるといえ、馬琴と硯友社とはいわば<ruby><rb>大家</rb><rt>おおや</rt></ruby>と<ruby><rb>店子</rb><rt>たなこ</rt></ruby>との関係であった。

更にこの中坂について<ruby><rb>最</rb><rt>も</rt></ruby>う一つ記憶すべき事がある。その頃の『読売新聞』の投書欄は当時の唯一の文芸場であって、<ruby><rb>前島和橋</rb><rt>まえじまわきょう</rt></ruby>、<ruby><rb>南新二</rb><rt>みなみしんじ</rt></ruby>、<ruby><rb>琴通舎康楽</rb><rt>きんつうしゃやすら</rt></ruby>、<ruby><rb>高畠藍泉</rb><rt>たかばたけらんせん</rt></ruby>というような当時の名流が盛んに寄書して紙面を<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎ</rt></ruby>わしていた。<ruby><rb>就中</rb><rt>なかんずく</rt></ruby>、最も軽い<ruby><rb>諷喩</rb><rt>ふうゆ</rt></ruby>と円転自在の名文で聞えたのが中坂まどきであって、「まどき」の名は当時の『読売新聞』の読者の間に喧伝された。この「まどき」というは<ruby><rb>偕行社</rb><rt>かいこうしゃ</rt></ruby>の<ruby><rb>真裏</rb><rt>まうら</rt></ruby>に当るの<ruby><rb>世継稲荷</rb><rt>よつぎいなり</rt></ruby>の奥の代用小学校の持主で本名を中川真節といった。「まどき」は最う三十年も前に死んでしまったが、当時の『読売新聞』投書欄の愛読者は今でも「まどき」の名を記憶しているだろう。

「まどき」が盛んに『読売』の投書欄を賑わして殆んど<ruby><rb>独擅場</rb><rt>どくせんじょう</rt></ruby>の観があった頃、中坂思案外史の名がポツポツ投書欄に見え出した。時としては飯台思案外史とも称していた。「まどき」の老熟には及ばなかったが、折々心憎い事をいうので読者の注意を牽いた。同じ中坂だから「まどき」の<ruby><rb>弟分</rb><rt>おととぶん</rt></ruby>か<ruby><rb>弟子</rb><rt>でし</rt></ruby>じゃなかろうかという<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>もあって、「まどき」の名が盛んなるに<ruby><rb>伴</rb><rt>つ</rt></ruby>れて思案外史の名もまた段々と聞えて来た。

<ruby><rb>然</rb><rt>しか</rt></ruby>るに二十一年の五月の末『我楽多文庫』の第一号が創刊されたのを早速買って見ると、その巻頭の辞を書いたのが誰あろう思案外史であった。その頃中坂下に住んでいて朝夕この界隈を散歩した私は馬琴の瀬戸物屋の前を通って文豪を<ruby><rb>偲</rb><rt>しの</rt></ruby>ぶと共に中坂という名に興味を持ち、この中坂を冠する思案外史は中坂の<ruby><rb>何辺</rb><rt>どこ</rt></ruby>らあたりに住んでる人だろうと<ruby><rb>揣摩</rb><rt>しま</rt></ruby>し、この思案外史の巻頭の辞を載せた『我楽多文庫』をもやはり中坂に縁があるように思っていた。

すると文庫が創刊されてから二、三カ月目、ふと或る夕方中坂上を<ruby><rb>徜徉</rb><rt>ぶらつ</rt></ruby>いていると、偶然見附けたのが硯友社の標札であった。硯友社が如何なる人の団体だとも、思案外史が如何なる人であろうとも考えないで、ただ何かなしに<ruby><rb>行衛</rb><rt>ゆくえ</rt></ruby>を知らなかった未見の友の<ruby><rb>有処</rb><rt>ありか</rt></ruby>を突留めたような気がして会心の微笑を禁じ得なかった。

これより先き数年、今は電車通りの裏となってる<ruby><rb>神保町</rb><rt>じんぼうちょう</rt></ruby>筋の<ruby><rb>今川小路</rb><rt>いまがわこうじ</rt></ruby>に武蔵屋という絵双紙屋があった。その頃は専門の雑誌屋がなくて絵双紙屋で雑誌を売っていた。いたって貧乏なケチな店だったが、『<ruby><rb>金毘羅利生記</rb><rt>こんぴらりしょうき</rt></ruby>』を出版してマンマと失敗した<ruby><rb>面胞</rb><rt>にきび</rt></ruby>だらけの<ruby><rb>息子</rb><rt>むすこ</rt></ruby>が少しばかり<ruby><rb>貸本屋</rb><rt>かしほんや</rt></ruby>学問をして<ruby><rb>都々逸</rb><rt>どどいつ</rt></ruby>や<ruby><rb>川柳</rb><rt>せんりゅう</rt></ruby>の咄ぐらいは出来た。この店先きで折々<ruby><rb>邂逅</rb><rt>であ</rt></ruby>う五分刈の大きな頭の近眼鏡をギラギラ光らした青年があった。いつでもドッカと腰を落付けては<ruby><rb>頻</rb><rt>しき</rt></ruby>りに都々逸や川柳の気焔を揚げていた。<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>の人か知らぬが、雑誌や新刊書を何でも<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>れなく読む人だと感心して、いつでもその気焔咄を謹聴していた。

一度会ったら忘れる事の出来ない特徴のある人だから、その後往来で<ruby><rb>摺違</rb><rt>すれちが</rt></ruby>う<ruby><rb>度</rb><rt>たび</rt></ruby>にアノ人だなと思った。が、こっちは<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>く覚えていても、<ruby><rb>先方</rb><rt>むこう</rt></ruby>の眼中には背の低い<ruby><rb>児供</rb><rt>こども</rt></ruby>々々した私が残ってるはずがないから、何度摺れ違ってもツイぞ一度顔で会釈した事さいなかった。勿論、口を利いた事はなお更なかった。

ところがその後、予備門（今の高等学校）の生徒控室でゆくりなくもこの五分刈の巨頭君に<ruby><rb>邂</rb><rt>で</rt></ruby><ruby><rb>逅</rb><rt>あ</rt></ruby>って、<ruby><rb>喫驚</rb><rt>びっくり</rt></ruby>して<ruby><rb>窃</rb><rt>ひそか</rt></ruby>に傍人に<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いて、初めてこれが石橋助三郎という人であると教えられた。が、これが音に聞く中坂思案外史だとはマダその時は知らなかった。

一体私は<ruby><rb>頗</rb><rt>すこぶ</rt></ruby>る臆病な青年であって、人から話し掛けられれば知らず、自分から進んで口を開く事は決してなかった。それ故、その後何度も顔を見ても、気焔咄を恐る恐る傍聞しているだけで、<ruby><rb>益々</rb><rt>ますます</rt></ruby>都々逸や川柳に<ruby><rb>精</rb><rt>くわ</rt></ruby>しいのを感服したが、『読売』の投書欄でお<ruby><rb>馴染</rb><rt>なじみ</rt></ruby>の中坂<ruby><rb>乃至</rb><rt>ないし</rt></ruby>飯台思案外史をこの五分刈の巨頭君に結びつけて考える事は出来なかった。その頃は何かなしに新聞に投書でもする人は世故にも<ruby><rb>長</rb><rt>た</rt></ruby>け文章にも長じた中老人だとばかり思っていたから、中坂思案外史も<ruby><rb>伯父</rb><rt>おじ</rt></ruby>さん分に当る年配の人だとばかり信じ切っていた。

『我楽多文庫』が公刊された時、早速買って来て第一に眼に留ったのが思案外史の巻頭の辞であったが、硯友社が私とほぼ同齢の青年の団体だとも、思案外史が二、三年来度々<ruby><rb>邂逅</rb><rt>であ</rt></ruby>う巨頭の青年だとも少しも知らなかった。これを知ったのはそれより二、三年後であって、アレが思案外史かと知った時は<ruby><rb>唖然</rb><rt>あぜん</rt></ruby>として、道理こそ都々逸に精しい人であると思った。

思案外史はその頃中坂から一丁半ばかり、<ruby><rb>富士見町</rb><rt>ふじみちょう</rt></ruby>の裁判所の横手の、今は<ruby><rb>暁星</rb><rt>ぎょうせい</rt></ruby>中学校の構内に<ruby><rb>囲込</rb><rt>かこいこ</rt></ruby>まれた処に住んでいたから、中坂というは少し無理だが、馬琴がしばしば飯台<ruby><rb>蓑笠漁隠</rb><rt>さりゅうぎょいん</rt></ruby>と称した如くに飯台を<ruby><rb>戴</rb><rt>いただ</rt></ruby>く因縁は持っていたのだ。

## 二　『我楽多文庫』

思案外史の巻頭の辞を<ruby><rb>首途</rb><rt>かどで</rt></ruby>の祝言として<ruby><rb>鹿島立</rb><rt>かしまだち</rt></ruby>した『我楽多文庫』は四六倍判十六頁の表紙なしの<ruby><rb>畳放</rb><rt>たたみぱな</rt></ruby>しで、今は<ruby><rb>廃</rb><rt>すた</rt></ruby>れてるがその頃<ruby><rb>流行</rb><rt>はや</rt></ruby>った<ruby><rb>清朝</rb><rt>せいちょう</rt></ruby>活字の四号刷であった。無装飾のスッキリした、少しも体裁を飾らない、<ruby><rb>微塵</rb><rt>みじん</rt></ruby>も<ruby><rb>忌味</rb><rt>いやみ</rt></ruby>ッ気がない江戸前の雑誌であって、正札附金三銅が貧乏書生に取っては<ruby><rb>殊</rb><rt>こと</rt></ruby>に<ruby><rb>嬉</rb><rt>うれ</rt></ruby>しかった。

一日絵双紙屋の店を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>かないと気持が悪るかった私は、文庫が店頭に<ruby><rb>列</rb><rt>なら</rt></ruby>んだ当日早速買って来た。全部に若々しい生気が<ruby><rb>滔</rb><rt>あふ</rt></ruby>れていたのは何となく共鳴を感じたが、世間を一向知らない私は前にもいう通りこういうものを書く人は皆世の中の<ruby><rb>酸</rb><rt>す</rt></ruby>いも甘いも<ruby><rb>噛分</rb><rt>かみわ</rt></ruby>けた中年以上の通人だとばかり<ruby><rb>漠然</rb><rt>ばくぜん</rt></ruby>と思って、我々同年配の青年の団体とは少しも想像しなかった。だが、巻頭の辞から広告社告の末まで一字も余さず読んで行く中に、硯友社の社則がその頃の青年の集会の会規と<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>かに共通点があるのを発見して、<ruby><rb>朧</rb><rt>おぼ</rt></ruby>ろ<ruby><rb>気</rb><rt>げ</rt></ruby>ながらも割合に若い人たちの集団であると気が付いて、どうしてこんな巧い事をいえるだろうと<ruby><rb>益々</rb><rt>ますます</rt></ruby>感服した。

硯友社の異宗門たる私は『我楽多文庫』の前世紀の歴史については何も知らないが、第一号の思案の巻頭の辞に<ruby><rb>由</rb><rt>よ</rt></ruby>ると、五カ年以前狂文の<ruby><rb>羽檄</rb><rt>うげき</rt></ruby>を四方に飛ばして同好の勇士を狩集めとあるから、私が初めて絵双紙屋の店先きで巨頭の青年思案外史の博覧に驚かされた頃には<ruby><rb>最早</rb><rt>もはや</rt></ruby>成立していたのだ。「字は<ruby><rb>大篆</rb><rt>だいてん</rt></ruby>の読みにくく絵は<ruby><rb>丹緑</rb><rt>たんろく</rt></ruby>のあどけない」回覧雑誌として第一号を発表したのが明治十八年の五月二日で、九号から謄写版と改めて十七号を重ねたというから、いよいよ街頭に立つまでの陣容を整えるにはかなりの長い準備を要したので、<ruby><rb>一</rb><rt>ひ</rt></ruby>と<ruby><rb>度</rb><rt>たび</rt></ruby><ruby><rb>起</rb><rt>た</rt></ruby>つや<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち疾風枯葉を巻くが如くに文壇を<ruby><rb>切捲</rb><rt>きりまく</rt></ruby>ったのも当然である。

文庫の連名中、思案と共に世間に知られていたのは美妙斎であった。美妙の名は思案のように早くから売れていなかったが、その「武蔵野」は天才の出現のように迎えられた。紅葉もまた『読売新聞』の寄書家の一人であったが、才幹はマダ認められなかったので、三人の社幹の中では美妙斎の名が世間的には最も重きをなした。

が、紅葉の才気は第一号以来の「風流京人形」に早くも現われて、<ruby><rb>水際立</rb><rt>みずぎわだ</rt></ruby>った文章の<ruby><rb>冴</rb><rt>さ</rt></ruby>えが一段引立って見えた。かつ隅から隅まで<ruby><rb>万遍</rb><rt>まんべん</rt></ruby>なく行渡った編輯上の努力の跡が<ruby><rb>歴々</rb><rt>ありあり</rt></ruby>として、一座の総帥たる貫録が自ずから現われていた。

が、一日早く売出していた美妙斎の「情詩人」はやはり一番評判となった。殊に当時の女学生間にはこの<ruby><rb>為永</rb><rt>ためなが</rt></ruby>を<ruby><rb>今様</rb><rt>いまよう</rt></ruby>としたような<ruby><rb>生温</rb><rt>なまぬる</rt></ruby>い恋物語が喜ばれて、「わたしの心はこの<ruby><rb>胡椒</rb><rt>こしょう</rt></ruby>……<ruby><rb>噛</rb><rt>か</rt></ruby>みくだいて粉にしてかおりを見て下さるなら……」というようなキザな文句が若い女に喜ばれて<ruby><rb>暗誦</rb><rt>あんしょう</rt></ruby>されたもんだ。が、紅葉の努力は<ruby><rb>全幅</rb><rt>ぜんぷく</rt></ruby>に<ruby><rb>滔</rb><rt>あふ</rt></ruby>れていたが、美妙斎の色彩は小説以外には<ruby><rb>頗</rb><rt>すこぶ</rt></ruby>る<ruby><rb>稀薄</rb><rt>きはく</rt></ruby>であった。美妙斎が冷淡であった<ruby><rb>乎</rb><rt>か</rt></ruby>、紅葉が一人で<ruby><rb>掻廻</rb><rt>かきまわ</rt></ruby>していた乎、どっちか知らぬがどの道『我楽多文庫』には美妙斎の気分が少しも現れていなかったから、自然文庫の読者には紅葉の印象が次第に濃くなった。その中に美妙斎はリューマチスと称して第六号からは小説を休載し、その後九号と十一号とにちょっと顔を出したぎりで<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>となく分離してしまったから、美妙斎と硯友社との関係はあった乎なかった乎忽ち世間から忘れられてしまった。

が、美妙斎と思案と紅葉とがそもそもの創立者であったのは第一号に載ってる百名近くの社員の面々が各々紹介者があるに反して、三人に限って紹介者がないのでも明らかである。ツマリこの三人が硯友社の創立発起人でありかつ無限責任者であったが、如何なる理由があった乎して美妙斎は創刊<ruby><rb>匆々</rb><rt>そうそう</rt></ruby>無限責任を忘れて忽ち分離してしまった。

<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>も両雄並び立たずで、紅葉は<ruby><rb>本</rb><rt>もと</rt></ruby>より美妙の指揮を仰ぐを欲しなかったろうし、美妙は一歩を先んじて乗出した一日の長を頼んでいたに相違なく、ドチラにも同感すべき事情があったと思うが、<ruby><rb>左</rb><rt>と</rt></ruby>に<ruby><rb>右</rb><rt>か</rt></ruby>く紅葉の政治的才幹が硯友社を結束し、美妙が忽ち<ruby><rb>背</rb><rt>そむ</rt></ruby>いて孤立したのが二者の成功を著るしく懸隔さした一つの原因であった。

文庫創刊当時の硯友社員は<ruby><rb>殆</rb><rt>ほと</rt></ruby>んど百名近くを算した。その中には一時大阪で盛んに人気を<ruby><rb>湧</rb><rt>わ</rt></ruby>かして<ruby><rb>弦斎</rb><rt>げんさい</rt></ruby>以後の全盛を極めた<ruby><rb>渡辺霞亭</rb><rt>わたなべかてい</rt></ruby>の旧名朝霞や、不幸にして早世して今では殆んど忘れられた慶応出身の小説家<ruby><rb>井上笠園</rb><rt>いのうえりゅうえん</rt></ruby>や、<ruby><rb>達摩</rb><rt>だるま</rt></ruby>の<ruby><rb>蒐集家</rb><rt>しゅうしゅうか</rt></ruby>として奇名隠れなかった理学士西芳菲山人の名が見える。が、紙面に載ってるのは<ruby><rb>尽</rb><rt>ことごと</rt></ruby>く匿名だから、誰が誰であるか今では模索しがたい。が、<ruby><rb>万更</rb><rt>まんざら</rt></ruby><ruby><rb>楠</rb><rt>くすのき</rt></ruby>の藁人形らしくもなかったので、今なら大方後援者とか維持会員とかいうような連中であったろう。ツマリこういう多数の応援隊を作ってフレエフレエと盛んに旗を振らしたのは紅葉の才幹であって、硯友社がメキメキ文壇に勢力を伸して行ったのはこれらの多数の応援隊の社会的潜勢力に負う処が少なくなかったのである。

が、実際に文庫の編輯に<ruby><rb>与</rb><rt>あず</rt></ruby>かっていたのは<ruby><rb>楽屋</rb><rt>がくや</rt></ruby>小説の「<ruby><rb>紅子戯語</rb><rt>こうしけご</rt></ruby>」に現れる<ruby><rb>眉山</rb><rt>びざん</rt></ruby>、<ruby><rb>漣</rb><rt>さざなみ</rt></ruby>、思案、紅葉、<ruby><rb>月</rb><rt>つき</rt></ruby>の<ruby><rb>舎</rb><rt>や</rt></ruby><ruby><rb>円</rb><rt>まどか</rt></ruby>、<ruby><rb>香夢楼緑</rb><rt>かむろみどり</rt></ruby>、及び<ruby><rb>春亭九華</rb><rt>しゅんていきゅうか</rt></ruby>の八名であった。漣は紅葉美妙と並んで第一号から小説を載せ、硯友社の<ruby><rb>麒麟児</rb><rt>きりんじ</rt></ruby>たる<ruby><rb>才鋒</rb><rt>さいほう</rt></ruby>を早くから現わしていた。

が、この八名中、美妙は社幹という条、初めから関係が薄かった。円と緑は余り振わないで殆んど存在を認められなかった。九華は初めの中こそ新体詩を<ruby><rb>捻</rb><rt>ひね</rt></ruby>くって、<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>く<ruby><rb>妖怪</rb><rt>ばけもの</rt></ruby>を持出すので新体詩壇の<ruby><rb>李長吉</rb><rt>りちょうきつ</rt></ruby>と同人間に称されていたが、高商卒業後は<ruby><rb>算盤</rb><rt>そろばん</rt></ruby>が忙がしくなって、<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>にか<ruby><rb>操觚</rb><rt>そうこ</rt></ruby>を遠ざかってしまった。それ故実際に硯友社の基礎を固めた元勲ともいうべきは紅葉、思案、漣、眉山の四人であって、<ruby><rb>水蔭</rb><rt>すいいん</rt></ruby>や<ruby><rb>乙羽</rb><rt>おとわ</rt></ruby>や<ruby><rb>柳浪</rb><rt>りゅうろう</rt></ruby>やその他の面々は硯友社の<ruby><rb>旗幟</rb><rt>きし</rt></ruby>が振ってから後に加盟したので、各々一、二年乃至数年遅れていた。

『我楽多文庫』は第十号から<ruby><rb>京伝</rb><rt>きょうでん</rt></ruby>馬琴<ruby><rb>種彦</rb><rt>たねひこ</rt></ruby>らの作者の印譜散らしの立派な表紙が付き、体裁も整った代りに幾分か市気を帯びて来た。が、<ruby><rb>尚</rb><rt>ま</rt></ruby>だ放縦な駄々ッ子的気分が<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>かに残っていたが、第十七号以後ただの『文庫』と改題してからは世間並のただの雑誌となってしまった。我楽多を標榜した頃には我楽多の分子が混っていた代りに生気に<ruby><rb>充</rb><rt>み</rt></ruby>ちていたが、我楽多を取ってしまってからはキチンと締った代りに市気を帯びて若々しい活気が段々稀薄になった。この『文庫』も一年かそこらで廃刊となり、それから<ruby><rb>暫</rb><rt>しば</rt></ruby>らくしてから『<ruby><rb>千紫万紅</rb><rt>せんしばんこう</rt></ruby>』という新らしい名で更に発行されたが、この『千紫万紅』は硯友社よりもむしろ紅葉一個の機関であって、編輯から印刷から体裁から全部に渡って紅葉好みの<ruby><rb>贅沢</rb><rt>ぜいたく</rt></ruby>な元禄趣味が現われ、内容も一と<ruby><rb>粒選</rb><rt>つぶえり</rt></ruby>で少しも<ruby><rb>算盤気</rb><rt>そろばんけ</rt></ruby>がなく、頗る<ruby><rb>垢抜</rb><rt>あかぬ</rt></ruby>けがして気持が<ruby><rb>宜</rb><rt>よ</rt></ruby>かったが、余り算盤気がなさ過ぎて、初めから永続しそうもなかった。果して三、四号で永遠の休刊となった。

この外に文庫の<ruby><rb>出店</rb><rt>でみせ</rt></ruby>というような雑誌があった。柳浪が主宰した『小文学』と『江戸紫』と、水蔭が編輯した『<ruby><rb>小桜縅</rb><rt>こざくらおどし</rt></ruby>』であって、いずれも明治二十五、六年頃の発行であった。この『小桜縅』から<ruby><rb>田山花袋</rb><rt>たやまかたい</rt></ruby>が出身したは<ruby><rb>鶯</rb><rt>うぐいす</rt></ruby>の巣から<ruby><rb>杜鵑</rb><rt>ほととぎす</rt></ruby>が<ruby><rb>巣立</rb><rt>すだち</rt></ruby>したようなものだ。

今から顧みるとまるで夢のようだ。若い花々しい火花が出るような元気の紅葉は三十七の壮齢で<ruby><rb>脆</rb><rt>もろ</rt></ruby>くも消え、光源氏のように美くしかった紅顔の眉山は<ruby><rb>思掛</rb><rt>おもいが</rt></ruby>けない悲惨の最後を遂げ、水蔭は芝居と<ruby><rb>相撲</rb><rt>すもう</rt></ruby>に隠れ、柳浪は息子さんが<ruby><rb>豪</rb><rt>えら</rt></ruby>くなって楽隠居してしまった。漣は早くから小説の筆を絶ち、<ruby><rb>小波</rb><rt>さざなみ</rt></ruby>伯父さんとなって<ruby><rb>揮毫</rb><rt>きごう</rt></ruby>とお<ruby><rb>伽講話</rb><rt>とぎばなし</rt></ruby>に益々活動しているが、今では文壇よりはむしろ通俗教育の人である。巻頭の辞を書いた思案外史は早くから表面の活動よりは縁の下の力持の役廻りをして、乙羽なき後の硯友社の総務として『<ruby><rb>文芸倶楽部</rb><rt>ぶんげいくらぶ</rt></ruby>』の一角に巨頭を振っていたが、数年前から<ruby><rb>宿痾</rb><rt>しゅくあ</rt></ruby>のために全く文壇を隠退してしまった。

## 三　硯友社の当時の生活――「紅子戯語」

当時の硯友社の生活を知るには『我楽多文庫』の十号から十三号へ掛けて連載された紅葉の「<ruby><rb>紅子戯語</rb><rt>こうしけご</rt></ruby>」を見るに<ruby><rb>如</rb><rt>し</rt></ruby>くはない。硯友社員も文学を本職とするようになってからはやはり塩酢に追われて、中には随分辛い浮世の塩を<ruby><rb>嘗</rb><rt>な</rt></ruby>めさせられた人もあったが、その看板を掲げたそもそもの初めは皆学生籍の若旦那株であって、<ruby><rb>真面目</rb><rt>まじめ</rt></ruby>臭って文学というものの実は道楽であったのだ。第一号の広告面に或る人々の連名で、「拙らへ文芸上に関し御用の諸粋兄は<ruby><rb>爾来</rb><rt>じらい</rt></ruby>硯友社へ御文通あられましょうッ、オホン」という広告が載っておる。第三号には、硯友社員ではないらしいが露の屋尾花という人の改名披露が載っておる。「今般去る貴婦人の<ruby><rb>需</rb><rt>もとめ</rt></ruby>に応じグット<ruby><rb>艶</rb><rt>つや</rt></ruby>ッぽく露の家尾花と改号」云々という文である。先ず万事がこういった<ruby><rb>素豆腐</rb><rt>すどうふ</rt></ruby>式若旦那調子で、雅号を見ても素晴らしいのになると「<ruby><rb>唖連美也散生</rb><rt>あれみやさんせ</rt></ruby>」というような歯の浮くようなのがある。<ruby><rb>頭株</rb><rt>あたまかぶ</rt></ruby>の数人を除いたら手もなく「<ruby><rb>親釜集</rb><rt>おやかましゅう</rt></ruby>」連で、今なら葉書集の投書家程度であった。尤もこれらは硯友社員という条、フレーフレーと応援する<ruby><rb>旗振連中</rb><rt>はたふりれんちゅう</rt></ruby>であった。

が、硯友社を知るにはその頃の文壇の調子を考えなければならない。当時は一切の旧文化が維新の革命で破壊され、京伝や馬琴の流を汲んだ戯作者の残党が<ruby><rb>幇間</rb><rt>ほうかん</rt></ruby>芸人と伍して僅かに<ruby><rb>余喘</rb><rt>よぜん</rt></ruby>を保っていたのだから、<ruby><rb>偶々</rb><rt>たまたま</rt></ruby>文学<ruby><rb>勃興</rb><rt>ぼっこう</rt></ruby>の機運が熟しても<ruby><rb>渠</rb><rt>かれ</rt></ruby>らはその運動に与かる力がなくて、<ruby><rb>勃萃</rb><rt>ぼっすい</rt></ruby>無味なる政治小説や半熟未成の翻訳小説の<ruby><rb>跋扈</rb><rt>ばっこ</rt></ruby>するままに<ruby><rb>委</rb><rt>まか</rt></ruby>していた。いわば当時の文壇は何にも知らないシロウトが<ruby><rb>白粉</rb><rt>おしろい</rt></ruby>を塗って舞台に踊り出し、巡査が人民を<ruby><rb>諭</rb><rt>さと</rt></ruby>すような<ruby><rb>口調</rb><rt>くちょう</rt></ruby>で女の<ruby><rb>声色</rb><rt>こわいろ</rt></ruby>を<ruby><rb>遣</rb><rt>つか</rt></ruby>ったり政談演説をしたりするようなものばかりで、多少でも文芸の造詣あるものはこの<ruby><rb>滑稽</rb><rt>こっけい</rt></ruby>な<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>講談を馬鹿々々しくて聞いてられなかった。硯友社はこういう時代に起ったので、当時の政治家どもが未熟な政治的空想を<ruby><rb>捏</rb><rt>でっ</rt></ruby>ちて小説家顔するを<ruby><rb>片腹</rb><rt>かたはら</rt></ruby>痛く思って、これに反抗して化政度の新らしいレネイサンスの運動を起そうとしたのだ。紅葉が元禄復興を唱えたのは<ruby><rb>研鑽</rb><rt>けんさん</rt></ruby>の歩を進めた数年後であって勃興当初はやはり化政度の復現であったのだ。

硯友社の調子が初めから如何にも軽くて浮わついて見えたのは、一つは当時文壇に重きをなしたユーゴーやジスレリーの翻訳小説に<ruby><rb>馴</rb><rt>な</rt></ruby>れた眼で<ruby><rb>見較</rb><rt>みくら</rt></ruby>べられたからであるが、一つは硯友社の芸術至上が京伝<ruby><rb>三馬</rb><rt>さんば</rt></ruby>系統の化政度戯作者<ruby><rb>気質</rb><rt>かたぎ</rt></ruby>に即して、とかく世間を茶にして<ruby><rb>浮世</rb><rt>うきよ</rt></ruby>三<ruby><rb>分</rb><rt>ぶん</rt></ruby>五厘と<ruby><rb>脂下</rb><rt>やにさが</rt></ruby>るテンと面白<ruby><rb>笑止</rb><rt>おか</rt></ruby>しき道楽<ruby><rb>三昧</rb><rt>ざんまい</rt></ruby>に堕したからである。渠らの把持した芸術至上は必ずしも誤まっていなかったが、新らしい文芸を叫びつつも時代遅れの化政度の戯作者生活をお手本にしたのが誤りであった。尤もその頃は英国文学ですら殆んど理解されていなかった。日本の小説戯曲でさえ京伝馬琴以前は余り読まれていなかった。この時代の硯友社の作風や態度を<ruby><rb>仏蘭西</rb><rt>フランス</rt></ruby>や<ruby><rb>露西亜</rb><rt>ロシア</rt></ruby>の近代作家に対するような心持で批評するのは時代を無視する色盲である。

元来都会生活には今も昔も通有のデカダン気分がある。殊に徳川末季の江戸生活には三百年の太平に<ruby><rb>弛緩</rb><rt>しかん</rt></ruby>した<ruby><rb>廃頽</rb><rt>はいたい</rt></ruby>気分が著るしく濃厚であって、快楽主義の京伝や三馬の生活が遊戯的であったは勿論、道学の<ruby><rb>凝</rb><rt>かた</rt></ruby>まり仁義忠孝の<ruby><rb>化物</rb><rt>ばけもの</rt></ruby>のような馬琴すらも『<ruby><rb>仇討義理与犢鼻褌</rb><rt>かたきうちぎりとふんどし</rt></ruby>』というような、<ruby><rb>外題</rb><rt>げだい</rt></ruby>を見ても内容が察しられる意外の遊戯的な作を何篇も作っておる。この浮世三分五厘と脂下って世間を茶にする江戸作者の<ruby><rb>洒落</rb><rt>しゃらく</rt></ruby>な風は江戸の文化に親しむものの大部分が浸染していたので、<ruby><rb>強</rb><rt>あなが</rt></ruby>ち硯友社のみに限らなかった。一と頃根岸党と歌われた<ruby><rb>饗庭篁村</rb><rt>あえばこうそん</rt></ruby>一派の連中には硯友社に一倍輪を掛けた昔の<ruby><rb>戯作者</rb><rt>げさくしゃ</rt></ruby>気質があった。今でこそ謹厳方直な道学先生となって門下に煙がられている<ruby><rb>坪内</rb><rt>つぼうち</rt></ruby>博士も、<ruby><rb>春廼舎朧</rb><rt>はるのやおぼろ</rt></ruby>時代にはやはりこの気分が濃厚であったのは雅号でも<ruby><rb>推量</rb><rt>おしはか</rt></ruby>られよう。その頃から露西亜の深酷な<ruby><rb>苦鹹</rb><rt>くかん</rt></ruby>の文学を味得して、風采人品からいっても<ruby><rb>微塵</rb><rt>みじん</rt></ruby>も<ruby><rb>戯作者気</rb><rt>げさくしゃけ</rt></ruby>のなかった二葉亭でさえも半面にはまたこの気分をかなり多量に持っていた。<ruby><rb>看方</rb><rt>みかた</rt></ruby>に<ruby><rb>由</rb><rt>よっ</rt></ruby>てはこの遊戯気分が都会文芸の一要素となってるので、<ruby><rb>永井荷風</rb><rt>ながいかふう</rt></ruby>や<ruby><rb>小山内薫</rb><rt>おさないかおる</rt></ruby>や夏目漱石の<ruby><rb>提撕</rb><rt>ていせい</rt></ruby>を受けた三田派や人生派の芸術も著るしくこの戯作者的気分を持っている。強ち硯友社ばかりが戯作者風ではなかったのだが、硯友社は思う存分に傍若無人にこの気分を発揮したので、硯友社が<ruby><rb>単独</rb><rt>ひとり</rt></ruby>で戯作者の<ruby><rb>毀</rb><rt>そしり</rt></ruby>を<ruby><rb>背負</rb><rt>せお</rt></ruby>ってしまった。が、この何者にも<ruby><rb>制肘</rb><rt>せいちゅう</rt></ruby>されない放縦な駄々ッ子的気分が当時の文学好きの青年の共鳴を<ruby><rb>惹</rb><rt>ひ</rt></ruby>くに十分力があった。

「紅子戯語」には当時の硯友社の生活が<ruby><rb>活</rb><rt>い</rt></ruby>けるが如くに描かれ、幹部の八人の<ruby><rb>風丰</rb><rt>ふうぼう</rt></ruby>動作が紙上に<ruby><rb>躍</rb><rt>おど</rt></ruby>り出している。若き紅葉の技倆を見るべき傑作の一つであるが、それ以外にこの作はこの理由で後世文学史家の資料とすべき意味深いものである。が、<ruby><rb>爰</rb><rt>ここ</rt></ruby>にはこの中の一、二節を引いて記述する<ruby><rb>間緩</rb><rt>まだる</rt></ruby>こい<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>をするよりは<ruby><rb>手取早</rb><rt>てっとりばや</rt></ruby>く渠らの生活の十分現れてる<ruby><rb>松岡緑芽</rb><rt>まつおかりょくが</rt></ruby>の挿画を示すが<ruby><rb>早手廻</rb><rt>はやてまわ</rt></ruby>しである。緑芽もまた硯友社員で当時は仏法科の学生であった。卒業後間もなく、千葉の裁判所に在任中早世して余り現れなかったが、画才があってキャリケーチュアに長じていた。八人の風丰が活き活きとして、若い花やかな世間を茶にする気分が全幅に漂うておる。



硯友社の楽屋（劇雅堂緑芽画）

が、その頃の渠らは皆学生籍にあった。この放縦な生活が如何に学校当局者の眼に映じたかは第四号の広告に歴然と現われておる。思案は「この度某学校を退学し以来は専ら文庫の編輯に従事す」と披露し、前記の劇雅堂緑芽と紅葉とは「当号限り退社す」と広告して、編輯人尾崎徳太郎の名を除いた。が、尾崎徳太郎は退社しても紅葉山人は依然社幹の名を列ねて小説を続載していたので、裏面の消息はこの広告の中に明かに読まれた。

## 四　文士劇の先駆、黄鶴楼の芝居

<ruby><rb>判然</rb><rt>はっきり</rt></ruby>とは覚えないが、たしか二十三年の春であった。<ruby><rb>小石川水道端</rb><rt>こいしかわすいどうばた</rt></ruby>の<ruby><rb>黄鶴楼</rb><rt>こうかくろう</rt></ruby>で硯友社の芝居があった。黄鶴楼というはその頃区長をした小石川の素封家佐藤氏の邸で、氏の子息が硯友社員であった関係から借りたのである。無論、劇についての特別の抱負があったわけでなく、いわば<ruby><rb>夷子講</rb><rt>えびすこう</rt></ruby>の茶番のようなものであったが、<ruby><rb>左</rb><rt>と</rt></ruby>に<ruby><rb>右</rb><rt>か</rt></ruby>く文士劇の<ruby><rb>先駈</rb><rt>せんく</rt></ruby>をしたので、何事にも新らしい試みに率先した当時の硯友社の意気を<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>う事が出来る。

今なら舞台監督兼作者となったのが水蔭で、一番目の『<ruby><rb>積</rb><rt>つも</rt></ruby>る<ruby><rb>怨切子燈籠</rb><rt>うらみきりこどうろう</rt></ruby>』という半世話物の<ruby><rb>仇討劇</rb><rt>あだうちげき</rt></ruby>も二番目の何とか太平記といった<ruby><rb>大塔宮</rb><rt>だいとうのみや</rt></ruby>の<ruby><rb>吉野落</rb><rt>よしのおち</rt></ruby>を材とした一幕物も皆水蔭の<ruby><rb>書卸</rb><rt>かきおろ</rt></ruby>しであった。水蔭は舞台監督と作者とを兼ねた上に<ruby><rb>尾上</rb><rt>おのえ</rt></ruby>江見蔵と名乗って舞台にも登場した。水蔭は今では専門劇作者となってるが、この時分からの劇道熱心家であった。

黄鶴楼の庭前に作った<ruby><rb>仮舞台</rb><rt>かりぶたい</rt></ruby>と面して見物席に<ruby><rb>充</rb><rt>あ</rt></ruby>てたのは二タ<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby><ruby><rb>続</rb><rt>つづ</rt></ruby>きの大広間であって、二、三百人のお客がギッシリ<ruby><rb>詰</rb><rt>つま</rt></ruby>った。<ruby><rb>森槐南</rb><rt>もりかいなん</rt></ruby>、<ruby><rb>依田学海</rb><rt>よだがっかい</rt></ruby>というような顔振れも見えたが、大部分は若い女で、紅葉さん漣さんという<ruby><rb>媚</rb><rt>なまめ</rt></ruby>かしい<ruby><rb>囁嚅</rb><rt>ささやき</rt></ruby>が<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>にも<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>にも<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>れて、硯友社この夜の人気は当時の花形たる<ruby><rb>家橘</rb><rt>かきつ</rt></ruby>や<ruby><rb>染五郎</rb><rt>そめごろう</rt></ruby>を圧していた。

その晩の<ruby><rb>切</rb><rt>きり</rt></ruby>が『<ruby><rb>花競八才子</rb><rt>はなくらべはっさいし</rt></ruby>』という題で、硯友社の幹部の面々が<ruby><rb>町奴</rb><rt>まちやっこ</rt></ruby>の<ruby><rb>伊達姿</rb><rt>だてすがた</rt></ruby>で舞台に列んで自作の「つらね」を<ruby><rb>掛合</rb><rt>かけあい</rt></ruby>に渡すという趣向であった。<ruby><rb>花道</rb><rt>はなみち</rt></ruby>から八才子が<ruby><rb>六方</rb><rt>ろっぽう</rt></ruby>を踏んで現れるという花々しい<ruby><rb>出</rb><rt>で</rt></ruby>に、どうしたものだかお約束の<ruby><rb>素足</rb><rt>すあし</rt></ruby>の下駄<ruby><rb>穿</rb><rt>ば</rt></ruby>きを紅葉だけが紺足袋を脱ぐのを忘れていた。見物席のそこらここらから笑い<ruby><rb>私語</rb><rt>ささめ</rt></ruby>く声が聞えたが、<ruby><rb>有繋</rb><rt>さすが</rt></ruby>は紅葉である、少しも<ruby><rb>周章</rb><rt>とっちら</rt></ruby>ないで舞台へ来ると、グルリと後ろ向きになって<ruby><rb>悠然</rb><rt>ゆうぜん</rt></ruby>として紺足袋を脱いだ。「これだからシロウトは面白いよ、」と学海先生は<ruby><rb>大</rb><rt>おおい</rt></ruby>に悦に入っていた。

無論<ruby><rb>内輪</rb><rt>うちわ</rt></ruby>の催しであったが、学海翁が『読売』で劇評を発表したのでパッと評判となって、この次には是非切符を<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>いたいというものが多勢あった。が、それから後は社内の余興的の催しは一、二度あったそうだが、半公開的に<ruby><rb>大袈裟</rb><rt>おおげさ</rt></ruby>に催したのはただ一回ぎりであった。

黄鶴楼劇は前にもいった通り格別抱負があったわけではなかった。が、当時の作者兼俳優兼舞台監督たる水蔭は本より紅葉もまた早くから劇の興味を持っていたので、今に脚本を書く書くと常に<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>い云いした。紅葉が今少し長生きしたら小説よりは脚本にヨリ以上成功したろう。最後の落付き場はあるいは劇作家であったかも知れない。

## 五　『新著百種』――薄倖の作家北村三唖と天才露伴の『風流仏』

硯友社の世間に乗出したのは『我楽多文庫』であったが、その芸術を認められて文壇の位置を確立したのは『新著百種』であった。

『新著百種』を語る前に先ず発行者たる吉岡哲太郎を紹介しなけりゃならない。吉岡は水産局の技師として十五、六年前に物故したが、東大出身の化学専攻の理学士であった。科学者に似合わぬ経紀の才があって、大学を出ると直ぐ出版業を経営した。吉岡の業績について特記すべきは<span data-tei-rend="yokogumi horizontal" style="writing-mode: horizontal-tb">“The Student”</span>の発行である。英語書生<ruby><rb>対手</rb><rt>あいて</rt></ruby>の<ruby><rb>啓蒙</rb><rt>けいもう</rt></ruby>的な語学雑誌であったが、やはり当時の欧化熱が産出したもので、日本人の手に成った外国語雑誌の開山である。一時はかなりな部数が出て、和田垣博士の<ruby><rb>赤壁賦</rb><rt>せきへきのふ</rt></ruby>や忠臣蔵の英訳が青年読者の評判となった。佐藤<ruby><rb>顕理</rb><rt>ヘンリー</rt></ruby>といっても今は余り知る人もなかろうが、一時は英文家として鳴らした佐藤顕理が世間から認められたのもこの雑誌の寄稿で、<ruby><rb>安鶴伝</rb><rt>あんつるでん</rt></ruby>というのが取材が面白いので評判された。今では国民競技となってる野球や庭球の方式を当時の高等学校の教師たる英人ストレンジの筆で初めて教えられたのもまたこの雑誌であって、当時の英語書生は皆この雑誌を愛読したもんだ。

吉岡は出版業の<ruby><rb>傍</rb><rt>かたわ</rt></ruby>ら私立学校の教師をしていた。学校で英文の講義や輪講をしながら生徒に向って、「ただ講義や輪講をしたって詰らんから毎日済んだ処を諸君が代る代る飜訳して見ちゃどうだ。出版すりゃ牛肉ぐらい喰えるぜ、」などといったもんだ。レムゼンの化学を自分で飜訳して自分で出版し、自分の学校の生徒の参考書として売付けたりした。

こういう商売人<ruby><rb>肌</rb><rt>はだ</rt></ruby>の男だったから早くも紅葉初め硯友社の奇才に目をつけて『新著百種』を思い立った。尤も初めは政治、宗教、哲学、科学、工芸、美術、何くれとなく多方面に<ruby><rb>渉</rb><rt>わた</rt></ruby>った<ruby><rb>叢書</rb><rt>そうしょ</rt></ruby>を作るツモリで、小説一方と限ったわけではなかったのだ。仮に小説を中心とするにしても各方面の作家を<ruby><rb>網羅</rb><rt>もうら</rt></ruby>する計画で、硯友社叢書とするツモリはなかったのだ。が、尾崎の派手な創作が予期以上の人気を博したために自然と尾崎の意見が重きをなして、<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>にか硯友社の機関のようになってしまった。

『新著百種』の第一篇たる『<ruby><rb>色懺悔</rb><rt>いろざんげ</rt></ruby>』は紅葉の出世作であった。『色懺悔』以前、紅葉の奇才は既に認められていたが、世間の人気を一時に沸騰さしたのは『色懺悔』であった。欧化主義の反動が文学上にも及ぼして安価なシャボン臭い政治小説や人情小説が飽かれて来た時だったので、『色懺悔』というような濃艶な元禄情味を<ruby><rb>滴</rb><rt>した</rt></ruby>たらした書名が第一に人気に投じて、内容はさして<ruby><rb>勝</rb><rt>すぐ</rt></ruby>れたものではなかったが、<ruby><rb>味淋</rb><rt>みりん</rt></ruby>と<ruby><rb>鰹節</rb><rt>かつおぶし</rt></ruby>のコッテリした元禄<ruby><rb>張</rb><rt>ばり</rt></ruby>の文章味が読書界を沸騰さした。さしもに飛ぶ鳥を落す勢いの美妙斎の人気も一時にガタ落ちがして、紅葉<ruby><rb>露伴</rb><rt>ろはん</rt></ruby>が取ってこれに代ったのは、<ruby><rb>畢竟</rb><rt>ひっきょう</rt></ruby>欧化主義と国粋主義との勢力消長に原因しているので、<ruby><rb>強</rb><rt>あなが</rt></ruby>ち紅葉と美妙斎との芸術的優勝劣敗ではないのである。

先陣の紅葉が先ず花々しい<ruby><rb>勝名乗</rb><rt>かちなのり</rt></ruby>を挙げたので、『新著百種』は一足飛びに出版界の一枚看板となり、紅葉胸中の<ruby><rb>成竹</rb><rt>せいちく</rt></ruby>は<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く熟してこの機を<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>さず硯友社の勢力展開の歩を進めた。第二篇の饗庭篁村の『掘出し物』は丁度<ruby><rb>新店</rb><rt>しんみせ</rt></ruby>の<ruby><rb>見世開</rb><rt>みせびら</rt></ruby>きに<ruby><rb>隣家</rb><rt>となり</rt></ruby>の<ruby><rb>老舗</rb><rt>しにせ</rt></ruby>の番頭を<ruby><rb>傭</rb><rt>やと</rt></ruby>って来たようなものであるが、続いて思案の『<ruby><rb>乙女心</rb><rt>おとめごころ</rt></ruby>』、漣の『<ruby><rb>妹背貝</rb><rt>いもせがい</rt></ruby>』と、予定の如くに第三陣第四陣と順々に<ruby><rb>繰出</rb><rt>くりだ</rt></ruby>して、盛んに軍容を整えて威武を張った。三国志流にいえば<ruby><rb>旌旗</rb><rt>せいき</rt></ruby>林の如く風に飜って<ruby><rb>喊声</rb><rt>かんせい</rt></ruby>天地に震うというような<ruby><rb>凄</rb><rt>すさ</rt></ruby>まじい勢いだった。ツマリ『我楽多文庫』は硯友社の<ruby><rb>名題</rb><rt>なだい</rt></ruby>披露の初舞台で、その艶っぽい花やかな元禄張の芸風を示した顔見世狂言は『新著百種』であった。硯友社の基礎はこの『新著百種』で固められた。

『新著百種』について<ruby><rb>憶出</rb><rt>おもいだ</rt></ruby>されるは<ruby><rb>薄倖</rb><rt>はっこう</rt></ruby>の作家<ruby><rb>北村三唖</rb><rt>きたむらさんあ</rt></ruby>である。三唖は土佐の生れで、現内閣のバリバリで時めいてる<ruby><rb>仙石貢</rb><rt>せんごくみつぐ</rt></ruby>の<ruby><rb>親戚</rb><rt>しんせき</rt></ruby>である。<ruby><rb>随</rb><rt>したが</rt></ruby>って土佐出身の名士には<ruby><rb>親昵</rb><rt>ちかづき</rt></ruby>があったが、文人特有の<ruby><rb>狷介</rb><rt>けんかい</rt></ruby>と<ruby><rb>懶惰</rb><rt>らんだ</rt></ruby>とズボラが累をなして同郷の先輩に近づかず、硯友社に投じて紅葉の<ruby><rb>庇護</rb><rt>ひご</rt></ruby>の下に『新著百種』の一冊として『石倉新五左衛門』を発表した。

甘ッたるい恋物語で食もたれしている処へ三唖の人を茶にする三馬式の軽い滑稽は餅菓子のあとへ<ruby><rb>塩煎餅</rb><rt>しおせんべい</rt></ruby>を出したようなもので、三唖の処女作はかなりに受けた。この<ruby><rb>初陣</rb><rt>ういじん</rt></ruby>の功名に乗じて続いて硯友社の諸豪と<ruby><rb>轡</rb><rt>くつわ</rt></ruby>を<ruby><rb>駢</rb><rt>なら</rt></ruby>べて二作三作と発表したなら三唖もまた必ず相当の名を成して<ruby><rb>操觚</rb><rt>そうこ</rt></ruby>の位置を固めたであろうが、性来の狷介と懶惰とズボラとが文壇にも累をなし、その上に硯友社からは<ruby><rb>新参者</rb><rt>しんざんもの</rt></ruby>として<ruby><rb>外様</rb><rt>とざま</rt></ruby>扱いされ、紅葉にも余り気に入らないで引立てられなかった。最後が岡山の山陽新報社に口があったを幸いに落延びて、馬骨と改名して田舎新聞に隠れたが、一時馬骨の名が岡山に振ったほど地方新聞小説家としてはかなりに幅を<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>かした。が、持って生れた狷介と懶惰とズボラとは<ruby><rb>爰</rb><rt>ここ</rt></ruby>でも<ruby><rb>永続</rb><rt>ながつづ</rt></ruby>きがしないで、折角数年の辛抱で築き上げた地方新聞社の位置をも<ruby><rb>些細</rb><rt>ささい</rt></ruby>な失敗で<ruby><rb>棄</rb><rt>す</rt></ruby>てるべく余儀なくされた。それから後は阪神附近をアチコチと流離していたが、ドコにも<ruby><rb>容</rb><rt>い</rt></ruby>れられないでとうとう九州に渡って別府に<ruby><rb>逼息</rb><rt>ひっそく</rt></ruby>し、生活に<ruby><rb>労</rb><rt>つか</rt></ruby>れた<ruby><rb>病躯</rb><rt>びょうく</rt></ruby>を<ruby><rb>抱</rb><rt>かか</rt></ruby>えて淋しく暮した。再び上京したらと元気を附けてやった事もあったが、盛返す勇気もなくて<ruby><rb>悶々</rb><rt>もんもん</rt></ruby>数年の後、<ruby><rb>終</rb><rt>つい</rt></ruby>に大正四年の初冬に別府の同情深い友の家で淋しい敗残者の生涯を終った。三唖は『石倉新五左衛門』一冊の外には中央文壇に何の足跡をも残さないで今では殆んど忘られているが、また明治の数奇伝中の薄倖なる奇才であった。

『新著百種』は薄命なる才人三唖を暗黒なる生涯に送り出すと同時に天才露伴の『<ruby><rb>風流仏</rb><rt>ふうりゅうぶつ</rt></ruby>』を開眼して<ruby><rb>赫灼</rb><rt>かくしゃく</rt></ruby>たる前途を<ruby><rb>耀</rb><rt>かがや</rt></ruby>かした。露伴の初めて世間に発表した作は『都之花』の「<ruby><rb>露団々</rb><rt>つゆだんだん</rt></ruby>」であって、奇思<ruby><rb>坌湧</rb><rt>ふんよう</rt></ruby>する意表外の脚色が世間を驚かしたが、雄大なる詩想の群を<ruby><rb>挺</rb><rt>ぬき</rt></ruby>んずるを認められたのは『風流仏』であった。紅葉の『色懺悔』は<ruby><rb>万朶</rb><rt>ばんだ</rt></ruby>の花が一時に咲匂うて<ruby><rb>馥郁</rb><rt>ふくいく</rt></ruby>たる花の香に息の<ruby><rb>塞</rb><rt>つま</rt></ruby>るような感があったが、露伴の『風流仏』は千里<ruby><rb>漠々</rb><rt>ばくばく</rt></ruby>たる広野に彷徨して<ruby><rb>黄昏</rb><rt>たそが</rt></ruby>れる時、<ruby><rb>忽然</rb><rt>こつぜん</rt></ruby><ruby><rb>薄靄</rb><rt>うすもや</rt></ruby>を排して一大銀輪のヌッと<ruby><rb>出</rb><rt>い</rt></ruby>ずるを望むが如く、また千山万岳の重畳たる中に光明赫灼たる<ruby><rb>弥陀</rb><rt>みだ</rt></ruby>の山越を迎うる如き感を抱かしめた。硯友社員に<ruby><rb>非</rb><rt>あら</rt></ruby>ざる露伴の『風流仏』を紹介したのは『新著百種』の最も大なる貢献であった。

## 六　漣山人

<ruby><rb>巌谷</rb><rt>いわや</rt></ruby>の伯父さんといったらドンナ山の中の<ruby><rb>児供</rb><rt>こども</rt></ruby>でも知ってるが、<ruby><rb>漣山人</rb><rt>さざなみさんじん</rt></ruby>では都会の中学生にも今では通用しない。<ruby><rb>独逸</rb><rt>ドイツ</rt></ruby>から帰って来てからの漣は出山の<ruby><rb>釈迦</rb><rt>しゃか</rt></ruby>が成覚したように小説家たる過去を忘れてお<ruby><rb>伽噺</rb><rt>とぎばなし</rt></ruby>の<ruby><rb>小波</rb><rt>さざなみ</rt></ruby>となってしまった。が、巌谷の伯父さんの出世作は『我楽多文庫』の創刊号から巻頭を飾った「<ruby><rb>五月鯉</rb><rt>さつきごい</rt></ruby>」であった。この「五月鯉」は後に『<ruby><rb>初紅葉</rb><rt>はつもみじ</rt></ruby>』という題で単行本として出版されたが、『文章世界』に載せた小波の告白を待つまでもなく、<ruby><rb>甕江</rb><rt>おうこう</rt></ruby>川田博士の令嬢に対する小波の幼き恋を描いたものであるのはその頃から誰も知っていた。

が、この同じ物語を延長した後談が紅葉の『<ruby><rb>金色夜叉</rb><rt>こんじきやしゃ</rt></ruby>』の<ruby><rb>藍本</rb><rt>らんぽん</rt></ruby>であるという説は知らないものがないほど広がってるが実は<ruby><rb>誣妄</rb><rt>ふぼう</rt></ruby>である。『金色夜叉』については小波もしばしば弁明しているし、私も度々紅葉から聞いているが、<ruby><rb>唯</rb><rt>ほん</rt></ruby>の発端をこの事実から思付いたという位に過ぎんので、小波をモデルとしたというのは全然虚伝である。が、小波のこの恋物語は硯友社外の私の耳にすらも早くから聞えていたほどかなりに評判されていた。小波の恋が破れて後、その令嬢が縁付いた婚家の近くに住っていた私は時折<ruby><rb>美貌</rb><rt>びぼう</rt></ruby>を<ruby><rb>垣間見</rb><rt>かいまみ</rt></ruby>、淑徳を聞くにつけて小波のために<ruby><rb>頗</rb><rt>すこぶ</rt></ruby>る同情に堪えなかった。小波は<ruby><rb>小皺</rb><rt>こじわ</rt></ruby>の寄った今日でも秀麗閑雅を<ruby><rb>偲</rb><rt>しの</rt></ruby>ばせる美男だから、少年時代はさこそと<ruby><rb>推量</rb><rt>おしはか</rt></ruby>られるので、「五月鯉」の第一回に<ruby><rb>梅若丸</rb><rt>うめわかまる</rt></ruby>然とした美少年が荒くれ男に組敷かれる処があるのも大方小波の<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>か<ruby><rb>稚児</rb><rt>ちご</rt></ruby>時代の自叙伝の一節だろうと想像する。「五月鯉」は傑作というほどのものではないが<ruby><rb>無垢</rb><rt>むく</rt></ruby>なる少年の無邪気な恋を描いたものとしてかなりに評判された。

尤も小波の作はこの処女作に限らず<ruby><rb>総</rb><rt>すべ</rt></ruby>て<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>かに<ruby><rb>無邪気</rb><rt>あどけな</rt></ruby>い処があった。そのくせ風俗壊乱に問われた事が一度や二度でなかったが、根が貴族的に<ruby><rb>生立</rb><rt>おいた</rt></ruby>った人だから、材料がいつでも<ruby><rb>素直</rb><rt>すなお</rt></ruby>な<ruby><rb>温和</rb><rt>おとな</rt></ruby>しい上品なウブな恋であって、深酷な悲痛や<ruby><rb>捻</rb><rt>ね</rt></ruby>じくれたイキサツや皮肉な<ruby><rb>譏刺</rb><rt>きし</rt></ruby>が少しも見られなかった。あくまでも無邪気なお姫様式、若様式のお伽恋物語ばかりだった。

小波がお伽噺に筆を染めたのは随分古い事で、二十一年十二月発行の『我楽多文庫』第十三号から「鬼車」というメールヘンの飜訳を連載したのがそもそもの初めであった。小波の無邪気な筆が恋物語よりはかえってお伽噺に適していたはその頃から見えていた。

が、小波はお伽噺を一生の仕事とするツモリは少しもなかったのだ。それから数年を経、博文館に入ってから『新桃太郎』や『<ruby><rb>猿蟹</rb><rt>さるかに</rt></ruby>後日合戦』を書き、『少年文学』の第一巻として『<ruby><rb>黄金丸</rb><rt>こがねまる</rt></ruby>』を発表した頃、「漣もお伽噺ばかり書いてるようでは<ruby><rb>最</rb><rt>も</rt></ruby>うお<ruby><rb>終</rb><rt>しま</rt></ruby>いです、その内には必ず本統の小説を書きます」と、或時私に語った事があった。ところがその頃は筆休めに過ぎなかったお伽噺が予期以上に歓迎され、教育界から<ruby><rb>頻</rb><rt>しき</rt></ruby>りに<ruby><rb>頌徳表</rb><rt>しょうとくひょう</rt></ruby>を<ruby><rb>上</rb><rt>たてま</rt></ruby>つられ、四囲の事情もまた風俗壊乱に問われがちな小説を作るを許さなくなったらしく、次第に小説よりはお伽噺に傾いて、独逸から帰朝して以来は終に全くお伽噺に没頭し、著述以外に講演をも初めて通俗教育の<ruby><rb>旗幟</rb><rt>きし</rt></ruby>を建て、博文館を引退してからは文壇よりもむしろ教育界に近い人となってしまった。

漣山人の名は中坂思案外史と共に早くから『読売新聞』の投書欄に見えていた。私が偶然読んで記憶していた手習の説というは漣が最初の投書であって、その時十四歳であったそうな。十四歳初めて新聞に寄書し、十九歳小説を著わし、二十一歳既に一家を成した漣は<ruby><rb>稀</rb><rt>まれ</rt></ruby>に見る<ruby><rb>寧馨児</rb><rt>ねいけいじ</rt></ruby>であった。前にもいった通り、その頃の『読売新聞』の投書欄は当時の名士の論戦場であって、昨年の春<ruby><rb>易簀</rb><rt>えきさく</rt></ruby>した杉浦天台道士もまた寄書家の一人であったが、或時何かの問題で天台道士と漣と論戦した事があった。その後漣が先生の称好塾に入門してから後、偶然この事が解った時、君が漣山人かと天台道士も意外の感に打たれたそうだ。漣はこういう早熟の奇才子であった。

私が漣に初めて会ったのは二十二年の夏の初めであった。或朝、紅葉を飯田町の三畳の書斎に訪うて話していると、<ruby><rb>飄然</rb><rt>ひょうぜん</rt></ruby>やって来たのは<ruby><rb>飛白</rb><rt>かすり</rt></ruby>の<ruby><rb>単衣</rb><rt>ひとえ</rt></ruby>の<ruby><rb>瀟洒</rb><rt>しょうしゃ</rt></ruby>たる美少年であって、これが漣であると紹介された時は、<ruby><rb>予</rb><rt>かね</rt></ruby>て若い人だとは聞いていたが、余り若過ぎるので<ruby><rb>喫驚</rb><rt>びっくり</rt></ruby>してしまった。美妙斎に会った時も意外に若いので喫驚したが、漣の若いには更にヨリ以上驚かされた。漣はその時<ruby><rb>二十歳</rb><rt>はたち</rt></ruby>であったが、<ruby><rb>精々</rb><rt>せいぜい</rt></ruby>十八、九ぐらいにしか見えなかった。しかもこの十八、九ぐらいにしか見えない青年が既に一家をなしていたのだから驚かされてしまった。

漣はその時あたかも『新著百種』中の『妹背貝』を書終って、丁度発行所の吉岡書店から原稿料を<ruby><rb>請取</rb><rt>うけと</rt></ruby>って来た処だというので、紅葉はソンナラ<ruby><rb>午餐</rb><rt>ひるめし</rt></ruby>を<ruby><rb>奢</rb><rt>おご</rt></ruby>れといい、自分は初対面であったが、三人して上野の精養軒へ行った。電車のない夏の炎天を<ruby><rb>壱岐殿</rb><rt>いきどの</rt></ruby>坂下まで歩いて紅葉はヨボヨボ<ruby><rb>爺</rb><rt>じい</rt></ruby>さんの二人乗を見付け、<ruby><rb>値切</rb><rt>ねぎり</rt></ruby>倒して私と二人で<ruby><rb>合乗</rb><rt>あいのり</rt></ruby>して行くと、漣は跡から気の<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>いた威勢の<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い一人乗を飛ばして来て<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち抜いてしまった。「<ruby><rb>此奴</rb><rt>こいつ</rt></ruby>、<ruby><rb>乗打</rb><rt>のりう</rt></ruby>ちをしたナ、覚えてろ！」と紅葉は手を振上げて打つ<ruby><rb>擬</rb><rt>まね</rt></ruby>をするとヨタヨタ<ruby><rb>俥</rb><rt>ぐるま</rt></ruby>がいよいよヨタヨタした。やがて精養軒の玄関へお<ruby><rb>抱</rb><rt>かか</rt></ruby>え然たる一人乗を横付けした漣が貴公子然と取澄まして俥を下りる跡からヨタヨタ俥を下りて<ruby><rb>朴々乎</rb><rt>ぼくぼくこ</rt></ruby>と<ruby><rb>従</rb><rt>つ</rt></ruby>いて行く紅葉と私の二人の<ruby><rb>恰好</rb><rt>かっこう</rt></ruby>は余り<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い図ではなかった。が、江戸ッ子のチャキチャキたる紅葉は泰然と澄ました顔をして、三人して食堂の卓を囲んだ。隣の卓では若い<ruby><rb>岡倉天心</rb><rt>おかくらてんしん</rt></ruby>が外国人と<ruby><rb>相対</rb><rt>さしむか</rt></ruby>いに<ruby><rb>肉刺</rb><rt>フォーク</rt></ruby>を動かしつつ巧みな英語を<ruby><rb>滑</rb><rt>なめ</rt></ruby>らかに<ruby><rb>操</rb><rt>あや</rt></ruby>つッていた。

漣は根が<ruby><rb>洒落</rb><rt>しゃらく</rt></ruby>である上に<ruby><rb>寛闊</rb><rt>かんかつ</rt></ruby>に育ち、スッキリと<ruby><rb>捌</rb><rt>さば</rt></ruby>けた中に<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>となく気品があった。殊に応酬に巧みで機智に富み、誰とでも隔てなく交際し誰にでも<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>く<ruby><rb>親</rb><rt>したし</rt></ruby>まれた。その上に世を<ruby><rb>推移</rb><rt>おしうつ</rt></ruby>る世才に<ruby><rb>長</rb><rt>た</rt></ruby>けているから、硯友社という小さい天地にばかり<ruby><rb>跼蹐</rb><rt>きょくせき</rt></ruby>しないで、早くから広い世間に飛出して<ruby><rb>翺翔</rb><rt>こうしょう</rt></ruby>していた。一味郎党を堅く結束して鎖国する紅葉は漣のこの世間的態度を内心快からず思ってるように<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>されていたが、漣が硯友社の<ruby><rb>凋落</rb><rt>ちょうらく</rt></ruby>した後までも依然として一方の雄を称しておるは<ruby><rb>畢竟</rb><rt>ひっきょう</rt></ruby>早くから硯友社<ruby><rb>埒外</rb><rt>らちがい</rt></ruby>の地歩を開拓するに努めていたからだ。漣は<ruby><rb>啻</rb><rt>ただ</rt></ruby>に硯友社のみならず全文壇を通じての第一の才人である。

## 七　川上眉山

硯友社は<ruby><rb>御大</rb><rt>おんたい</rt></ruby>紅葉を初めとし美妙といい漣といい美男のお<ruby><rb>揃</rb><rt>そろ</rt></ruby>いであったが、美貌をいったら<ruby><rb>川上眉山</rb><rt>かわかみびざん</rt></ruby>は第一位であったろう。眉山の美貌は硯友社に限らず、文壇に限らず、美男の畑なる役者の中を尋ねても決して数多くの<ruby><rb>匹儔</rb><rt>ひっちゅう</rt></ruby>を見出しがたいだろう。尤も美男を定める標準にも色々あろうし、人に<ruby><rb>由</rb><rt>よっ</rt></ruby>ての好き不好きもあろうが、如何なる点の<ruby><rb>辛</rb><rt>から</rt></ruby>い人でも眉山の美貌には百点近くを決して<ruby><rb>惜</rb><rt>おし</rt></ruby>まないだろう。

眉山の色の白さは<ruby><rb>透徹</rb><rt>すきとお</rt></ruby>るようで、支那人が<ruby><rb>玉人</rb><rt>ぎょくじん</rt></ruby>と形容するはこういう人だろうと思うほどに美くしく、<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>でも薄化粧しているように見えた。いわゆる女にしても見ま欲しいという<ruby><rb>目眩</rb><rt>まぶ</rt></ruby>しいような美貌で、まるで<ruby><rb>国貞</rb><rt>くにさだ</rt></ruby>の<ruby><rb>田舎源氏</rb><rt>いなかげんじ</rt></ruby>の画が抜け出したようであった。難をいったら余り美くし過ぎて、<ruby><rb>丹次郎</rb><rt>たんじろう</rt></ruby>というニヤケた<ruby><rb>気味合</rb><rt>きみあい</rt></ruby>があった。<ruby><rb>最</rb><rt>も</rt></ruby>う少し色が浅黒いとか口が大き過ぎるとかいう欠点があったらかえって<ruby><rb>宜</rb><rt>よ</rt></ruby>かったろうと思う。

眉山が予備門（今の高等学校）へ通う時分、その頃は制服がなかったので思い思いであったが、眉山は<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>でも黄八丈の<ruby><rb>袂</rb><rt>ふり</rt></ruby>の長い羽織を着ていた。この<ruby><rb>媚</rb><rt>なまめ</rt></ruby>かしい羽織が女のような眉山の顔と<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>く<ruby><rb>釣合</rb><rt>つりあ</rt></ruby>って、影では<ruby><rb>蔭間</rb><rt>かげま</rt></ruby>のようだと<ruby><rb>悪語</rb><rt>わるくち</rt></ruby>をいうものもあったが、男の眼にも<ruby><rb>恍惚</rb><rt>うっとり</rt></ruby>とするほど美くしかった。通学の道筋に当る町の若い女は眉山の<ruby><rb>往帰</rb><rt>いきかえ</rt></ruby>りを<ruby><rb>楽</rb><rt>たのし</rt></ruby>みにして、<ruby><rb>目牽</rb><rt>めひ</rt></ruby>き袖引き<ruby><rb>目送</rb><rt>みおく</rt></ruby>って人知れず<ruby><rb>焦</rb><rt>こが</rt></ruby>れていたものも少なくなかったという評判だった。

殊に眉山の<ruby><rb>艶容媚態</rb><rt>えんようびたい</rt></ruby>――というと女の形容になるが、その頃の眉山を彷彿するには女の形容を用ゆるが適していた――を著るしく引立たしたのは<ruby><rb>春亭九華</rb><rt>しゅんていきゅうか</rt></ruby>であった。春亭九華などというと如何にも<ruby><rb>柔</rb><rt>やさ</rt></ruby>しげだが、九華は縦も横も<ruby><rb>大々</rb><rt>だいだい</rt></ruby>した巨漢であった。この九華がクラスの中でも殊に眉山と大の<ruby><rb>仲善</rb><rt>なかよ</rt></ruby>しであって、学校の往復は本より<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>にでも二人は一緒に<ruby><rb>連立</rb><rt>つれだ</rt></ruby>っていた。筋骨<ruby><rb>逞</rb><rt>たく</rt></ruby>ましい<ruby><rb>大兵</rb><rt>だいひょう</rt></ruby>肥満の<ruby><rb>黒々</rb><rt>くろぐろ</rt></ruby>した巨漢と<ruby><rb>振袖然</rb><rt>ふりそでぜん</rt></ruby>たる長い羽織を着た薄化粧したような美少年と連れ立って行くさまは弁慶と牛若といおう<ruby><rb>乎</rb><rt>か</rt></ruby>、<ruby><rb>髯奴</rb><rt>ひげやっこ</rt></ruby>と<ruby><rb>色若衆</rb><rt>いろわかしゅう</rt></ruby>といおう乎。小説でなければ決して見られない図であった。今でも<ruby><rb>憶起</rb><rt>おもいおこ</rt></ruby>すと<ruby><rb>師宣</rb><rt>もろのぶ</rt></ruby>の絵にありそうな二人の姿を眼前に彷彿する。九華もまた堂々たる風采であったが、眉山が余り美くし過ぎていた。

この平家の<ruby><rb>公達</rb><rt>きんだち</rt></ruby>のような美少年は早くから知っていたが、この人が眉山人であるとは少しも知らなかった。その後紅葉の家で計らず落合った時、この女のような顔の持主が<ruby><rb>也有</rb><rt>やゆう</rt></ruby>の再来かと疑われる名文章の作者だと聞いて喫驚してしまった。かつ顔に似合わない思切った皮肉や<ruby><rb>毒口</rb><rt>どくぐち</rt></ruby>を連発するには<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れてしまった。眉山は遠くから<ruby><rb>瞻</rb><rt>なが</rt></ruby>めてると女のように媚かしいただの色若衆であったが、会って見ると<ruby><rb>岩本院</rb><rt>いわもといん</rt></ruby>の稚児上りといいそうな江戸ッ子風の<ruby><rb>伝法肌</rb><rt>でんぽうはだ</rt></ruby>であった。

眉山の家は<ruby><rb>本郷</rb><rt>ほんごう</rt></ruby>の<ruby><rb>春木町</rb><rt>はるきちょう</rt></ruby>の下宿屋であった。学校から帰ると、<ruby><rb>素裸</rb><rt>すっぱだか</rt></ruby>になって井戸の水を<ruby><rb>汲込</rb><rt>くみこ</rt></ruby>みつつ大きな声で女中を<ruby><rb>揶揄</rb><rt>からか</rt></ruby>っていた。真白な肉附きの好い肌が役者のように美くしかったので、近所の若い女が目引き袖引き垣根から<ruby><rb>隙見</rb><rt>すきみ</rt></ruby>したそうだ。あの下宿屋の<ruby><rb>若旦那</rb><rt>わかだんな</rt></ruby>は役者よりも美くしいと<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>ら<ruby><rb>中</rb><rt>じゅう</rt></ruby>の若い女が<ruby><rb>岡惚</rb><rt>おかぼ</rt></ruby>れしたという評判であった。

が、眉山の家庭には気の毒な面倒臭い<ruby><rb>葛藤</rb><rt>かっとう</rt></ruby>が<ruby><rb>絶間</rb><rt>たえま</rt></ruby>なかったそうで、<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>でも晴れやかな顔をして<ruby><rb>駄洒落</rb><rt>だじゃれ</rt></ruby>をいってる内面には人の知らない苦労が絶えなかったそうだ。<ruby><rb>親父</rb><rt>おやじ</rt></ruby>が死んでから春木町を去って小石川の<ruby><rb>富坂</rb><rt>とみざか</rt></ruby>へ別居した。この富坂上の家というは<ruby><rb>満天星</rb><rt>どうだん</rt></ruby>の<ruby><rb>生垣</rb><rt>いけがき</rt></ruby>を<ruby><rb>繞</rb><rt>めぐ</rt></ruby>らした<ruby><rb>頗</rb><rt>すこぶ</rt></ruby>る風雅な構えで、<ruby><rb>手狭</rb><rt>てぜま</rt></ruby>であったが<ruby><rb>木口</rb><rt>きぐち</rt></ruby>を選んだ凝った<ruby><rb>普請</rb><rt>ふしん</rt></ruby>であった。<ruby><rb>為永</rb><rt>ためなが</rt></ruby>の<ruby><rb>中本</rb><rt>ちゅうほん</rt></ruby>にある<ruby><rb>寮</rb><rt>りょう</rt></ruby>というような<ruby><rb>塩梅</rb><rt>あんばい</rt></ruby>で、美男であり風雅である眉山の<ruby><rb>住居</rb><rt>すまい</rt></ruby>には持って来いであった。が、その頃から眉山は段々と陰気臭く詩人臭くなった。

硯友社員中、眉山は一番詩人らしかった。初めはやはり陽気に騒ぐ<ruby><rb>質</rb><rt>たち</rt></ruby>であったが、次第に段々<ruby><rb>沈欝</rb><rt>ちんうつ</rt></ruby>となって、ややともすると考え込むようになった。家庭の事情が面白くなかった処へ自分の力ではとても背負い切れない亡父の債務が<ruby><rb>俄</rb><rt>にわか</rt></ruby>に双肩に落ちたからであった。

その頃眉山と私とは家が近かったので、少くも月に一度や二度は互に往来した。が、文学よりは債権債務の法律問題に熱心であって、こういう負債は弁債の義務があるだろう<ruby><rb>乎</rb><rt>か</rt></ruby>とか、<ruby><rb>乃至</rb><rt>ないし</rt></ruby>はこういう督促はどういう風に切抜けたもんだろう乎とかいうような<ruby><rb>咄</rb><rt>はなし</rt></ruby>が多かった。今ではその事情は大抵忘れてしまったが、道徳上には何の責任も義務もない夢にも知らない債務を俄に背負わされて、眉山はその弁債方法に<ruby><rb>苦</rb><rt>くるし</rt></ruby>んでいた。

こういう家庭に<ruby><rb>関聯</rb><rt>かんれん</rt></ruby>した道徳上及び物質上の難関に<ruby><rb>苦</rb><rt>くるし</rt></ruby>みつつある一方には硯友社よりはむしろ『文学界』同人と<ruby><rb>親</rb><rt>したし</rt></ruby>んで生に<ruby><rb>悶</rb><rt>もだ</rt></ruby>ゆる詩人の<ruby><rb>艱</rb><rt>なや</rt></ruby>みに共鳴し、一方にはまた、今は全く<ruby><rb>韜晦</rb><rt>とうかい</rt></ruby>して消息を絶ってしまったが、<ruby><rb>黒川文淵</rb><rt>くろかわぶんえん</rt></ruby>という一種異色ある思想家が同居していて朝夕互に偏哲学を戦わしていた。眉山は最早のんきに<ruby><rb>鼻唄</rb><rt>はなうた</rt></ruby>を歌う春木町時代の眉山ではなかった。

眉山が<ruby><rb>一葉</rb><rt>いちよう</rt></ruby>女史との<ruby><rb>浮名</rb><rt>うきな</rt></ruby>を歌われたのもその頃であった。この消息については余り<ruby><rb>精</rb><rt>くわ</rt></ruby>しくは知らぬが、眉山がしばしば一葉の家に出入したのは事実であって、ツマリ<ruby><rb>頻繁</rb><rt>ひんぱん</rt></ruby>な交際と女に好かれそうな眉山の<ruby><rb>男振</rb><rt>おとこぶり</rt></ruby>から附会した風説であったろう。が、眉山の美貌はその頃は生活の苦労に傷つけられて幾分か険しくなって来た。

富坂に住んだのはたッた一年かそこらで、眉山は終に債務のために世帯を畳むべく余儀なくされ、<ruby><rb>僅</rb><rt>わず</rt></ruby>かばかりの身の廻りのものを友の家に預けて飄然として放浪の旅に上った。その時の道の記が『ふところ日記』となって後に発表されたのだが、当時の眉山の旅は『ふところ日記』に現れてるような<ruby><rb>暢気</rb><rt>のんき</rt></ruby>なものではなかったのだ。

三、四カ月<ruby><rb>経</rb><rt>た</rt></ruby>ってから眉山が帰って来たと或人から伝言された後、丁度初夏のフラネル時候であった。その頃江戸川<ruby><rb>畔</rb><rt>べり</rt></ruby>に住んでいた私は偶然<ruby><rb>川畔</rb><rt>かわべり</rt></ruby>を<ruby><rb>散策</rb><rt>ぶらつ</rt></ruby>いていると、流れを<ruby><rb>下</rb><rt>お</rt></ruby>りて来る川舟に<ruby><rb>犢鼻褌</rb><rt>ふんどし</rt></ruby>一つで元気に<ruby><rb>棹</rb><rt>さお</rt></ruby>をさしてるのが眉山で、<ruby><rb>吉原</rb><rt>よしわら</rt></ruby>通いの<ruby><rb>山谷堀</rb><rt>さんやぼり</rt></ruby>でも<ruby><rb>下</rb><rt>くだ</rt></ruby>る<ruby><rb>了簡</rb><rt>りょうけん</rt></ruby>で、<ruby><rb>胡座</rb><rt>あぐら</rt></ruby>をかきつつ<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い気持になってるのが<ruby><rb>中村花痩</rb><rt>なかむらかそう</rt></ruby>であった。

眉山は三月越しの旅で顔の色が<ruby><rb>煤</rb><rt>すす</rt></ruby>けて日に焼けていたが、真白な長身は汗ばんで赤味を帯び、棹は<ruby><rb>上手</rb><rt>じょうず</rt></ruby>か<ruby><rb>下手</rb><rt>へた</rt></ruby>か知らぬが流れに従って下りるんだから楽々として如何にも威勢が<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>く、とても旅路に放浪して今帰ったばかりの家なき人とは思われなかった。その<ruby><rb>艶気</rb><rt>つやけ</rt></ruby>のある<ruby><rb>勇肌</rb><rt>いさみはだ</rt></ruby>がトンと国貞あたりの<ruby><rb>錦絵</rb><rt>にしきえ</rt></ruby>にありそうであった。眉山の容貌、風采、及び生活は洋画は勿論院派の日本画にもならないので、<ruby><rb>五渡亭</rb><rt>ごとてい</rt></ruby>国貞あたりの錦絵から抜け出したようだった。

「や、乗らないか、」と眉山は私を見るなり声を掛けた。

「僕ン<ruby><rb>許</rb><rt>とこ</rt></ruby>へ来い、<ruby><rb>美味</rb><rt>うま</rt></ruby>いものを喰わせるぞ。」

「今行くよ、直ぐ行くよ、」といいながら元気に舟を流して行った。

私の家は<ruby><rb>川畔</rb><rt>かわべり</rt></ruby>の直ぐ近所だったから、帰って待つ<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>もなく、眉山と花痩とは威勢よくやって来た。眉山はその時<ruby><rb>新小川町</rb><rt>しんおがわちょう</rt></ruby>の花痩の家に泊っていたのだ。

中村花痩もまた硯友社の一人だった。最も遅れて加盟したが、伯父さんが俳諧の宗匠だったので俳句には相当に苦労し、俳人としては社中の<ruby><rb>指折</rb><rt>ゆびおり</rt></ruby>であった。これも御多分に<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>れないズボラであって、一度は金のために奇禍を買ったので、その後を<ruby><rb>潔</rb><rt>きよ</rt></ruby>くする意味で雪後と改称したが、一生借金の苦労に追われて終に名を成す<ruby><rb>遑</rb><rt>いとま</rt></ruby>がない中に、夫妻相続いて急性の肺患に犯され、一と月経たぬ間に夫婦とも<ruby><rb>鬼籍</rb><rt>きせき</rt></ruby>に入った極めて不幸な作者であった。根が三馬<ruby><rb>鯉丈</rb><rt>りじょう</rt></ruby>系統の戯作者<ruby><rb>肌</rb><rt>はだ</rt></ruby>に出来上った男だから、いつも月夜に米の飯で暢気に暮し、貧乏にも借金にも少しも<ruby><rb>怯</rb><rt>め</rt></ruby>げずに、執達吏の応接などは手に入ったもんだった。眉山が債権者と折衝するに<ruby><rb>方</rb><rt>あた</rt></ruby>って相談<ruby><rb>対手</rb><rt>あいて</rt></ruby>としたのは<ruby><rb>専</rb><rt>もっぱ</rt></ruby>らこの男で、世帯を畳んだ時に身の廻りのものを預けたのもこの男の家なら、放浪から帰ると直ぐ<ruby><rb>頼</rb><rt>たよ</rt></ruby>ったのもこの男の家であった。（紅葉が『金色夜叉』を書く時、高利貸の知識や<ruby><rb>粉本</rb><rt>ふんぽん</rt></ruby>を借りたのもまた花痩からであった。）

この時は<ruby><rb>小</rb><rt>こ</rt></ruby>一時間も話した。駄洒落で執達吏を<ruby><rb>煙</rb><rt>けむ</rt></ruby>に巻く花痩が同席していたから、眉山も元気に<ruby><rb>噪</rb><rt>はしゃ</rt></ruby>いで少しもシンミリしなかった。

間もなく二度目に家を持ったのが<ruby><rb>牛込</rb><rt>うしごめ</rt></ruby>の<ruby><rb>北山伏町</rb><rt>きたやまぶしちょう</rt></ruby>で、債務の段落が一時着いたというもののやはり旧債に<ruby><rb>祟</rb><rt>たた</rt></ruby>られていた。或時尋ねると、「<ruby><rb>昨日</rb><rt>きのう</rt></ruby>は突然差押えを喰って<ruby><rb>茶呑茶碗</rb><rt>ちゃのみぢゃわん</rt></ruby>まで押えられてしまった、」と眉山は一生忠実に仕えた<ruby><rb>老婢</rb><rt>ろうひ</rt></ruby>に向って、「オイ<ruby><rb>阿婆</rb><rt>ばあや</rt></ruby>、<ruby><rb>何処</rb><rt>どっ</rt></ruby>かで<ruby><rb>急須</rb><rt>きゅうす</rt></ruby>と茶碗を借りて<ruby><rb>来</rb><rt>き</rt></ruby>な、」と平気なもんだった。

その頃は<ruby><rb>最</rb><rt>も</rt></ruby>う眉山も執達吏に<ruby><rb>馴</rb><rt>な</rt></ruby>れ切っていた。「<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>に附いてるものは押える事が出来ないッてから、今度はピカピカ光る<ruby><rb>指環</rb><rt>ゆびわ</rt></ruby>を三つも四つも<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>めて見せびらかしてやろう、」なぞと平気な顔をして笑っていた。が、眉山はかなり長い間債務の交渉に忙がしかったが、ついぞ<ruby><rb>服装</rb><rt>なり</rt></ruby>を<ruby><rb>崩</rb><rt>くず</rt></ruby>さずにリュウとしていた。<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>でも座敷を奇麗に片附け、床の間には幅を掛け花を<ruby><rb>活</rb><rt>い</rt></ruby>け、庭には植木棚を作って盆栽の二、三十鉢も<ruby><rb>列</rb><rt>なら</rt></ruby>べて置くという風で、儀式張った席へ臨む時は、質屋で<ruby><rb>着更</rb><rt>きか</rt></ruby>えて行くと本人はいっていたが、<ruby><rb>左</rb><rt>と</rt></ruby>に<ruby><rb>右</rb><rt>か</rt></ruby>く黒紋付の<ruby><rb>対</rb><rt>つい</rt></ruby>に<ruby><rb>仙台平</rb><rt>せんだいひら</rt></ruby>という<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えだったから、<ruby><rb>岡目</rb><rt>おかめ</rt></ruby>には借金に<ruby><rb>苦</rb><rt>くるし</rt></ruby>められてるとは少しも見えなかった。借金取にも最う慣れ切っていて、貧乏<ruby><rb>咄</rb><rt>ばなし</rt></ruby>をするにも極めて余裕があって、それほど窮迫しているとは誰も思わなかった。

眉山は酒の上が余り評判が好くなかった。始終眼が充血していて、頭の具合が悪いと口癖にいっていたのもやはり酒のためらしかった。が、この酒は元来好きでもあったろうが一つは生活の不愉快を忘れたさに<ruby><rb>益々</rb><rt>ますます</rt></ruby>酒癖を<ruby><rb>昂</rb><rt>こう</rt></ruby>じさせたのであろう。春木町時代に極めて陽気であったのが富坂時代には沈鬱となり、北山伏町時代には<ruby><rb>徐々</rb><rt>そろそろ</rt></ruby><ruby><rb>荒</rb><rt>すさ</rt></ruby>んで多少<ruby><rb>自棄</rb><rt>やけ</rt></ruby>気味となり、酒のために警察の<ruby><rb>厄介</rb><rt>やっかい</rt></ruby>になり、警察で演説をして新聞種になった事もあった。

それから後、<ruby><rb>南榎町</rb><rt>みなみえのきちょう</rt></ruby>に転じてから今の未亡人を迎えて<ruby><rb>沈着</rb><rt>おちつ</rt></ruby>いて来た。生活も段々順調となって名声もまた次第に高く、これから新らしい運命を展開しようという処で意外な魔の手は<ruby><rb>忽然</rb><rt>こつぜん</rt></ruby><ruby><rb>隕石</rb><rt>いんせき</rt></ruby>の如く落下してこの秀麗なる玉人を撃砕した。

あたかもその時私は京都に旅していた。<ruby><rb>蒲団</rb><rt>ふとん</rt></ruby>着て寝たる姿の東山を旅館の窓から<ruby><rb>瞻</rb><rt>なが</rt></ruby>めつつ、眠ったような平和な自然美をあくまで<ruby><rb>貪</rb><rt>むさ</rt></ruby>ぼっていた<ruby><rb>長閑</rb><rt>のどか</rt></ruby>な夢を破ったのは眉山の<ruby><rb>訃</rb><rt>ふ</rt></ruby>であった。その頃は眉山と私との往来はやや疎縁になって、眉山の近状について余り知らなかったが、が、こういう悲惨な最後を耳にしようとはかつて夢にだも想像しなかった。

眉山が沈鬱となって偏哲学に<ruby><rb>耽</rb><rt>ふけ</rt></ruby>った富坂時代には時々死を考えた事があったそうだ。死の瞬間は歓喜の美しい飽満であろうと話した事もあった。或時<ruby><rb>暗黒</rb><rt>くらやみ</rt></ruby>の中で<ruby><rb>瞑想</rb><rt>めいそう</rt></ruby>している<ruby><rb>刹那</rb><rt>せつな</rt></ruby>、忽然座辺のものが<ruby><rb>歴然</rb><rt>ありあり</rt></ruby>と見えて、庭前の松の葉が一本々々数えられたとソムナンビュリストの夢のような事をいったりした。が、夫人を迎えて家庭の<ruby><rb>団欒</rb><rt>だんらん</rt></ruby>の悦びに浸るようになってからは詩人の夢から<ruby><rb>覚</rb><rt>さ</rt></ruby>めて<ruby><rb>頗</rb><rt>すこぶ</rt></ruby>る平穏堅実となったとのみ聞いていた。

眉山の死の原因について新聞紙は種々の憶測を下して多くは生活難のためといった。が、眉山の生活は豊かでなかったにしろ、自殺するほど<ruby><rb>逼</rb><rt>さしせま</rt></ruby>っていたとも思われなかった。富坂時代から貧乏線は度々<ruby><rb>踰</rb><rt>こ</rt></ruby>えて借金学も一と通り卒業して来たから、如何に家族を抱えていても死ぬほど窮苦に堪えられなかったとは想像されない。眉山の死の原因を単なる生活難に帰するは決して<ruby><rb>穿</rb><rt>うが</rt></ruby>ち得たものではない。が、原因は何にてもあれ、あれほど豊かな天分才能を持っていながら一生は実に数奇を極めていた。美人薄命というが、<ruby><rb>強</rb><rt>あなが</rt></ruby>ち女にのみ限らず、<ruby><rb>玲瓏</rb><rt>れいろう</rt></ruby><ruby><rb>玉</rb><rt>たま</rt></ruby>の如き美男の眉山もまた頗る薄命であった。

## 八　硯友社の全盛時代

硯友社の勢力は団体的の結束の力であって各自の個々の力ではなかった。紅葉の芸術的天分はエポックを画するだけの十分な力を持っていたが、それよりもなお一層<ruby><rb>勝</rb><rt>すぐ</rt></ruby>れていたのは<ruby><rb>傘下</rb><rt>さんか</rt></ruby>の英才を統率して芸術的地盤を固めた政治的手腕であった。紅葉にもし芸術的天分がなくて政治か実業方面に働かせたなら、社会的にはヨリ以上成功したろう。

紅葉<ruby><rb>勃興</rb><rt>ぼっこう</rt></ruby>当時の文壇は各々私交はあっても団体的に行動する事はなかった。<ruby><rb>春廼舎</rb><rt>はるのや</rt></ruby>の<ruby><rb>起</rb><rt>た</rt></ruby>つや<ruby><rb>半峰居士</rb><rt>はんぽうこじ</rt></ruby>は<ruby><rb>伯牙</rb><rt>はくが</rt></ruby>における<ruby><rb>鍾子期</rb><rt>しょうしき</rt></ruby>の如くに共鳴したが、<ruby><rb>早稲田</rb><rt>わせだ</rt></ruby>は決して春廼舎を声援しなかった。二葉亭と<ruby><rb>嵯峨</rb><rt>さが</rt></ruby>の<ruby><rb>屋</rb><rt>や</rt></ruby>とは春廼舎傘下の寒山拾得であったが、その運動は離れ離れであった。美妙は硯友社の一人であったが、<ruby><rb>抜駈</rb><rt>ぬけがけ</rt></ruby>の功名に<ruby><rb>逸</rb><rt>はや</rt></ruby>って終に孤立してしまった。が、紅葉は早くも孤立の力なきを知って、初めから百名以上の応援隊を率いて起ち、固く結束して団体的に文壇を開拓し、進退<ruby><rb>行蔵</rb><rt>こうぞう</rt></ruby>を<ruby><rb>総</rb><rt>すべ</rt></ruby>て<ruby><rb>侶</rb><rt>とも</rt></ruby>にして自家の勢力を扶植した。

当時文壇は全く旧作家に飽いて新作家を迎うるに鋭意していたから、<ruby><rb>多士済々</rb><rt>たしせいせい</rt></ruby>たる硯友社は忽ち<ruby><rb>章魚</rb><rt>たこ</rt></ruby>の足のように八方に勢力を伸ばし、新聞社に雑誌社に出版人にそれぞれ多少の関係を附けざるはなかった。その上に固く結束して互に相援引し、応援するにも敵対するにも一斉に<ruby><rb>起</rb><rt>た</rt></ruby>って進退緩急の行動を<ruby><rb>侶</rb><rt>とも</rt></ruby>にした。歩武の整然として訓練の<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>く行届いたは<ruby><rb>有繋</rb><rt>さすが</rt></ruby>に紅葉の統率の才の尋常でなかった事が解る。硯友社はこの全体の力で常に文壇に<ruby><rb>衝</rb><rt>あた</rt></ruby>ったから、一時硯友社はあたかも政友会が政界に<ruby><rb>跋扈</rb><rt>ばっこ</rt></ruby>したように文壇を<ruby><rb>壟断</rb><rt>ろうだん</rt></ruby>して、<ruby><rb>操觚者</rb><rt>そうこしゃ</rt></ruby>も出版者も新聞雑誌社も硯友社に<ruby><rb>拠</rb><rt>よ</rt></ruby>らざれば文壇の仕事は何一つ出来ないような形勢となった。当時の硯友社は実に政友会であって紅葉の手腕は<ruby><rb>原敬</rb><rt>はらたかし</rt></ruby>以上であった。

当時硯友社と<ruby><rb>相対峙</rb><rt>あいたいじ</rt></ruby>した団体は<ruby><rb>思軒</rb><rt>しけん</rt></ruby>、<ruby><rb>篁村</rb><rt>こうそん</rt></ruby>、三昧、得知ら一派のいわゆる根岸党であった。が、本来根岸党の名は根岸を中心とする文人の一群を<ruby><rb>指</rb><rt>さ</rt></ruby>して他から与えた名称であって、<ruby><rb>渠</rb><rt>かれ</rt></ruby>らは折に触れて相集っていわゆる詩酒徴逐の風流に遊んだが、酒を以て集まる無形の交友倶楽部であって、硯友社のような文壇的運動を目的とする団結ではなかった。かつこの根岸党の中心となっているものは大抵旧作家の系統に属し、硯友社に比べては清新の思想と敏活の元気を欠き、文壇の選手権を争うには余りに老成し過ぎていた。

根岸党を外にしては鴎外の『しがらみ草紙』派があったが、この『しがらみ草紙』派は実は鴎外一人であって、その他は興味あれば集まり興味去れば散ずる去就常ならざる遊離分子であった。派という条、実は鴎外が<ruby><rb>単独</rb><rt>ひとり</rt></ruby>で八人芸をしていたので、弟の<ruby><rb>三木竹二</rb><rt>みきたけじ</rt></ruby>の外には鴎外の片腕の指一本の力となるものすらもなかった。<ruby><rb>随</rb><rt>したが</rt></ruby>って個人としての鴎外の権威は認められていても文壇的の実際の運動には全く無力であった。

硯友社の最全盛期は明治二十六、七年頃から三十二、三年頃までだったろう。『読売新聞』を<ruby><rb>牙城</rb><rt>がじょう</rt></ruby>とした紅葉は<ruby><rb>堀紫山</rb><rt>ほりしざん</rt></ruby>を幕僚と頼んで三面及び文芸欄は思うままに主宰した。春陽堂には<ruby><rb>前田曙山</rb><rt>まえだしょざん</rt></ruby>が座し、博文館には<ruby><rb>大橋乙羽</rb><rt>おおはしおとわ</rt></ruby>が控え、『新小説』も『文芸倶楽部』も硯友社の統轄に帰した。あまつさえ<ruby><rb>後藤宙外</rb><rt>ごとうちゅうがい</rt></ruby>は早稲田を出ると紅葉<ruby><rb>幕下</rb><rt>ばっか</rt></ruby>に参じ、硯友社の客将として主宰する『新著月刊』を硯友社の<ruby><rb>新版図</rb><rt>しんはんと</rt></ruby>に献じた。当時の紅葉は四方の<ruby><rb>書肆</rb><rt>しょし</rt></ruby>文人来貢すという勢いであった。随って傘下の硯友社員は各々その拠る処を得て勢力を張った。

が、この勢力は他の文人が各々孤立していたと反して団体的に築き上げたのだから、これと<ruby><rb>拮抗</rb><rt>きっこう</rt></ruby>する他の団体が生ずれば自然に気勢を<ruby><rb>削</rb><rt>そ</rt></ruby>がれるのは当然であった。果然、<ruby><rb>万年上田</rb><rt>かずとしうえだ</rt></ruby>博士が帰朝して赤門派が<ruby><rb>崛起</rb><rt>くっき</rt></ruby>すると硯友社の勢威が幾分か薄くなった。続いて早稲田派が新<ruby><rb>旗幟</rb><rt>きし</rt></ruby>を建つるに<ruby><rb>到</rb><rt>いた</rt></ruby>って、硯友社は<ruby><rb>復</rb><rt>ま</rt></ruby>た更に幾分か勢力を削がれた。幸いこの二派は硯友社の秀才に取って代るだけの創作家を出さなかったから当分はなお創作壇の選手権を握っていたが、紅葉門下の<ruby><rb>風葉</rb><rt>ふうよう</rt></ruby><ruby><rb>鏡花</rb><rt>きょうか</rt></ruby>が<ruby><rb>徐々</rb><rt>そろそろ</rt></ruby><ruby><rb>流行児</rb><rt>はやりっこ</rt></ruby>となり掛けた頃には硯友社の勢力は最早峠の絶頂を越していた。それからいくばくもなく紅葉が多年の牙城たる『読売』を<ruby><rb>棄</rb><rt>す</rt></ruby>てて『<ruby><rb>二六</rb><rt>にろく</rt></ruby>』に移った時は、一葉落ちて天下の秋を知るで、硯友社の<ruby><rb>覇権</rb><rt>はけん</rt></ruby>がそろそろ<ruby><rb>徐々</rb><rt>もろもろ</rt></ruby>傾き出した。三十六年の冬、紅葉が物故して以来硯友社の団結はまた旧の如くならず、あまつさえ自然主義が勃興して創作の権威が他の集団に移ったので、硯友社は漸次に<ruby><rb>凋零</rb><rt>ちょうれい</rt></ruby>して今では全く過去の夢物語となった。

## 九　紅葉の性格の半面

紅葉と私とは二十七、八年頃まではかなり親しくしていた。元来思想上相容れなかったので思想上の<ruby><rb>扞格</rb><rt>かんかく</rt></ruby>が感情上の乖離となって、一時は交際が殆んど<ruby><rb>途絶</rb><rt>とだ</rt></ruby>えていた。が、紅葉と私とは都会育ちの共通の趣味や性格があったので、思想上では相容れなくても紅葉に対しては丁度郷友に対するような親しみを持っていた。それ故論壇では紅葉の態度や硯友社の作風に<ruby><rb>慊</rb><rt>あきた</rt></ruby>らないで<ruby><rb>忌憚</rb><rt>きたん</rt></ruby>のない批評をしても、私交上には何の隔心も持たなかった。が、紅葉の方ではとかくに疎隔して会えば<ruby><rb>打釈</rb><rt>うちと</rt></ruby>けていても内心は敵意を<ruby><rb>挟</rb><rt>はさ</rt></ruby>んでいた。

丁度その頃であった。今は殆んど忘れられてしまったが、一時はユーゴーの紹介者として相当に鳴らした<ruby><rb>原抱一庵</rb><rt>はらほういつあん</rt></ruby>が度々遊びに来た。抱一は好き嫌いの<ruby><rb>劇</rb><rt>はげ</rt></ruby>しい感情家であったが、紅葉が大嫌いで、談紅葉に及ぶごとに口を極めて<ruby><rb>痛罵</rb><rt>つうば</rt></ruby>するので、その<ruby><rb>度毎</rb><rt>たんび</rt></ruby>に、「君は喰わず嫌いだよ。会って見もしないで悪くいう<ruby><rb>奴</rb><rt>やつ</rt></ruby>があるもんか。一度会って見ろ、決して<ruby><rb>不快</rb><rt>わる</rt></ruby>い気持はしない、<ruby><rb>極</rb><rt>ごく</rt></ruby><ruby><rb>捌</rb><rt>さば</rt></ruby>けた男だよ、」といった。が、何と理解しても抱一は「あんな戯作者輩に会う必要はない、」とばかりいって、尋ねようともしなかった。

すると或時、朝っぱらから飛んで来て、「会ったよ、会ったよ、紅葉に会って来たよ。徳太郎なかなか話せる。<ruby><rb>頗</rb><rt>すこぶ</rt></ruby>る快男子だ。<ruby><rb>昨宵</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>は<ruby><rb>徹宵</rb><rt>よっぴて</rt></ruby>話して、二時まで<ruby><rb>大気焔</rb><rt>だいきえん</rt></ruby>を挙げて来た。紅葉は君、実に<ruby><rb>豪</rb><rt>えら</rt></ruby>い。立派な男だ！」

と、今度は<ruby><rb>褒</rb><rt>ほ</rt></ruby>めるとも、褒めるとも。余り褒めすぎるので、私が何とかいって<ruby><rb>蔑</rb><rt>くさ</rt></ruby>すと、今までと打って変って<ruby><rb>反対</rb><rt>あべこべ</rt></ruby>に、「それは君、君は誤解している。紅葉は<ruby><rb>开</rb><rt>そ</rt></ruby>んな男じゃない。君、今度は十分肝胆を<ruby><rb>披瀝</rb><rt>ひれき</rt></ruby>して話して見給え、」と<ruby><rb>俄</rb><rt>にわか</rt></ruby>に紅葉の弁護を<ruby><rb>做初</rb><rt>しだ</rt></ruby>した。

紅葉はこういう男で、誰に会っても旧知の友のように<ruby><rb>胸襟</rb><rt>きょうきん</rt></ruby>を開いて歯切れの好い江戸ッ子弁でサックリと竹を割ったように話すから、誰でも快く感じて一見百年の友に接するような心持がした。抱一は放縦と<ruby><rb>無検束</rb><rt>ずぼら</rt></ruby>で人に誤まられたが、根が多感多恨の単純な好人物であったから一見コロリと紅葉に<ruby><rb>惚</rb><rt>ほ</rt></ruby>れ抜いてしまった。

嫌いとなると根こそぎ嫌いだが、好きとなると直ぐ<ruby><rb>逆</rb><rt>のぼ</rt></ruby>せ上る抱一は<ruby><rb>矢継早</rb><rt>やつぎばや</rt></ruby>に三、四回も続けて紅葉を尋ねた後、十日ほども<ruby><rb>経</rb><rt>た</rt></ruby>ってから私の<ruby><rb>許</rb><rt>とこ</rt></ruby>へ頗る厄介な提議を持込んで来た。当時抱一は<ruby><rb>万朝報</rb><rt>よろずちょうほう</rt></ruby>社に在籍して<ruby><rb>黒岩</rb><rt>くろいわ</rt></ruby>の秘書のような関係であったが、読売新聞社から紅葉を朝報社へ引抜こうという献策をして、黒岩の内意を<ruby><rb>承</rb><rt>う</rt></ruby>けてその<ruby><rb>斡旋方</rb><rt>あっせんかた</rt></ruby>を私に持込んだ。

当時紅葉は私を忌避してイツ尋ねても居留守を遣い、途中で会っても<ruby><rb>碌</rb><rt>ろく</rt></ruby>すっぽ口を利かないという場合であったから、事情を話して私の仲介ではとても駄目だと断わった。が、抱一は何といっても<ruby><rb>肯</rb><rt>き</rt></ruby>かないで、「自分の口からは言い兼ねるし、自分が言出したのではとても承知しそうもないが君なら必ず紅葉を口説き落せる、」と<ruby><rb>頻</rb><rt>しき</rt></ruby>りに迫って承知しないので、紅葉が読売の待遇に不平である内情も聞込んでいたので、そんなら黒岩と直接談合してからと、抱一と同道して黒岩を訪問し、精しく<ruby><rb>招聘</rb><rt>しょうへい</rt></ruby>の条件を相談してから改めて紅葉に会見を申込んだ。

当時紅葉は私に対して<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>でも不在と称して面会を避けていた。<ruby><rb>蛇蝎</rb><rt>だかつ</rt></ruby>の如くでないまでも<ruby><rb>蚰蜒</rb><rt>げじげじ</rt></ruby>ぐらいには嫌っていた。その時の返事も突然の会見申込をお辞儀をして原稿の周旋でも頼む用事と<ruby><rb>早呑込</rb><rt>はやのみこ</rt></ruby>みしたものと見えて、その頃私が産業界に首を突込み掛けていたので、<ruby><rb>夙</rb><rt>つと</rt></ruby>に実業に雄飛せんとする君がこの<ruby><rb>陋巷</rb><rt>ろうこう</rt></ruby>の貧乏文人に何の求むる事があるかというような頗るイヤ味タップリなものだった。が、会って見れば少しも隔意がなく打解けていた。私は本より論壇の上にこそ紅葉と対敵したが、先方はどうあろうと私交上ではやはり親友のツモリでいたから、胸襟を開いて黒岩の<ruby><rb>意嚮</rb><rt>いこう</rt></ruby>を話し、紅葉一身の利害のために黒岩との提携を勧説した。紅葉もまた打解けて少しも<ruby><rb>蟠</rb><rt>わだかま</rt></ruby>りがなく用件以外の<ruby><rb>四方山</rb><rt>よもやま</rt></ruby>の<ruby><rb>世間咄</rb><rt>せけんばなし</rt></ruby>をしてその夜を<ruby><rb>更</rb><rt>ふ</rt></ruby>かした。続いて同じ用件で数回の会見を重ね、或時は家では<ruby><rb>沈着</rb><rt>おちつ</rt></ruby>いて相談が出来ないからと、半日余りも<ruby><rb>旗亭</rb><rt>きてい</rt></ruby>で談合した事もあった。その頃読売新聞の社内の空気が面白くなくて紅葉は不平満々だったから、その頃としてはレコード破りの有利な黒岩の招聘条件に紅葉も一時はグラグラ動揺し、いよいよ日を定めて黒岩と会見する<ruby><rb>段取</rb><rt>だんどり</rt></ruby>にまでなったが、順序上先ず読売の最高顧問たる<ruby><rb>高田早苗</rb><rt>たかださなえ</rt></ruby>に内々打明けた処が、「団十郎はやはり歌舞伎でなければ納まらんので、イクラ給金が良くても公園の舞台で踊っては名が<ruby><rb>廃</rb><rt>すた</rt></ruby>れる」と理解され、九分通りまでグラグラしたが、結局名を<ruby><rb>惜</rb><rt>おし</rt></ruby>んで思い<ruby><rb>留</rb><rt>とどま</rt></ruby>る事となって一と先ずこの相談を打切った。が、紅葉の心はその時既に読売新聞社を離れていたので、その時は高田の斡旋で引留条件の花を持たせられて一時中止したが、<ruby><rb>終</rb><rt>つい</rt></ruby>に読売を去るようとなった。

紅葉はこうした男であった。日頃は<ruby><rb>罵詈讒謗</rb><rt>ばりざんぼう</rt></ruby>してやまなかった抱一庵をも一見コロリと感服させ、犬と猿のように<ruby><rb>仲違</rb><rt>なかたが</rt></ruby>いしているものにでも会えば奥底なく打解けて、自分の身上などを<ruby><rb>細々</rb><rt>こまごま</rt></ruby>打明けて話すほど<ruby><rb>捌</rb><rt>さば</rt></ruby>けていた。が、心から捌けて<ruby><rb>洒落</rb><rt>しゃらく</rt></ruby>であったかというと実は余り洒落でなかった。<ruby><rb>些細</rb><rt>ささい</rt></ruby>な事を<ruby><rb>執念</rb><rt>しゅうね</rt></ruby>く気に掛けて<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>までも根に葉に持つ神経質であった。が、<ruby><rb>表面</rb><rt>うわべ</rt></ruby>はガラガラして江戸ッ子とアングロサクソンを<ruby><rb>搗交</rb><rt>つきま</rt></ruby>ぜた紳士形気を理想としていた。

紅葉は親分肌で、門下や友人の面倒を<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>く見た。が、厚意をありがたがって感謝しないと不機嫌だった。殊に門下生に対しては、七尺去って師の影を踏まずというような厳格な奴隷的道徳を強圧した。『<ruby><rb>青葡萄</rb><rt>あおぶどう</rt></ruby>』という作に、自分は<ruby><rb>鞭</rb><rt>むち</rt></ruby>と<ruby><rb>縄</rb><rt>なわ</rt></ruby>とで弟子を薫陶するというような事をいってるが、門下の中には往来で<ruby><rb>摺違</rb><rt>すれちが</rt></ruby>った時、ツイ<ruby><rb>迂闊</rb><rt>うかつ</rt></ruby>して<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>しなかったというので群集の中で呼留められて、新兵が古兵にトッチメられるように<ruby><rb>威丈高</rb><rt>いたけだか</rt></ruby>に<ruby><rb>叱</rb><rt>しか</rt></ruby>られたり、正月の年始が遅れたとか近火の見舞をいわなかったとかいうので勘気を<ruby><rb>蒙</rb><rt>こう</rt></ruby>むったりしたものもあった。

門下生ばかりでなく、友人関係の同人に対しても草創時代の同輩は別として、後進生に対しては世話もする代りに先輩の権威で臨んだものだ。北村<ruby><rb>三唖</rb><rt>さんあ</rt></ruby>が紅葉に<ruby><rb>疎</rb><rt>うと</rt></ruby>んぜられたのも、初めは何かの用事で暫らく<ruby><rb>無沙汰</rb><rt>ぶさた</rt></ruby>をした時、「<ruby><rb>少</rb><rt>ちっ</rt></ruby>とも顔を見せんじゃないか、<ruby><rb>他</rb><rt>ほか</rt></ruby>の家へは行っても<ruby><rb>俺</rb><rt>おれ</rt></ruby>の家へは来る<ruby><rb>閑</rb><rt>ひま</rt></ruby>はないのか、」と妙な見当違いを<ruby><rb>諷</rb><rt>あ</rt></ruby>てこすられた。三唖も<ruby><rb>旋毛</rb><rt>つむじ</rt></ruby>の少々曲った<ruby><rb>変梃</rb><rt>へんてこ</rt></ruby>な男だから<ruby><rb>嫌気</rb><rt>いやき</rt></ruby>がさして<ruby><rb>復</rb><rt>ま</rt></ruby>た暫らく足を遠のくと、今度は他の家へはマメに出掛けるくせに社のものの方へはまるきり<ruby><rb>鼬</rb><rt>いたち</rt></ruby>の道てのは<ruby><rb>余</rb><rt>あん</rt></ruby>まり義理を知らなさ過ぎるぜと、一々不義理を数え立てられてネチネチと油を<ruby><rb>搾</rb><rt>しぼ</rt></ruby>られた。三唖は紅葉に引立てられたのだから、腹の中では済まないと思ったろうが、<ruby><rb>口不調法</rb><rt>くちぶちょうほう</rt></ruby>の男だから<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もぞくさ</span>して弁解もしなかった、<ruby><rb>詫</rb><rt>あやま</rt></ruby>りもしなかった。これが<ruby><rb>益々</rb><rt>ますます</rt></ruby>紅葉の気に入らなかった。その上に三唖が<ruby><rb>頻繁</rb><rt>ひんぱん</rt></ruby>に出入したのが社外の異宗門だったので、終には<ruby><rb>謀叛人</rb><rt>むほんにん</rt></ruby>扱いされて棄てられてしまった。三唖は紅葉の世話になったという条、『石倉新五左衛門』を認められて『新著百種』に推薦されたというだけであったが、この一篇の原稿の斡旋を永久に徳として弟子の礼を執らなかったのが忘恩者として紅葉の勘気に触れた<ruby><rb>所以</rb><rt>わけ</rt></ruby>で、三唖はこれがために紅葉の勢力圏の新聞社や雑誌社からボイコットされてしまった。

<ruby><rb>乙羽</rb><rt>おとわ</rt></ruby>もまた紅葉の世話になった男である。が、乙羽もまた硯友社外の誰とでも交際したのが紅葉の気に入らないで折々<ruby><rb>忌味</rb><rt>いやみ</rt></ruby>をいわれた。が、乙羽は三唖と違って如才ない利口者だったから、三唖のように紅葉の機嫌を損じるような事は<ruby><rb>做</rb><rt>し</rt></ruby>なかったし、背後に資本家の博文館を背負っていたから紅葉の方でも遠慮していた。それでも博文館に入ってから一年ほど経った或時、近頃は忙がしくて紅葉さんの<ruby><rb>許</rb><rt>とこ</rt></ruby>ばかりへ行ってられないで諸方へ顔を出すので、紅葉さんの御機嫌が悪くて困ると<ruby><rb>愚痴</rb><rt>ぐち</rt></ruby>を<ruby><rb>覆</rb><rt>こぼ</rt></ruby>した事があった。

こんな<ruby><rb>塩梅</rb><rt>あんばい</rt></ruby>に人の世話もしたが十分感謝して自分を立てないと満足しない親分肌通有の欠点をも持っていた。それでも後進生や門下生が帰服していたのは紅葉が文壇に勢力があったばかりでなく、<ruby><rb>尋常</rb><rt>なみなみ</rt></ruby>ならぬ熱情と親切とを持っていたからであった。紅葉は人に<ruby><rb>叱言</rb><rt>こごと</rt></ruby>をいう時は涙をボロボロ覆して、これほど俺のいうのが解らないかと泣く事が珍らしくなかったそうだ。この熱情とこの親切とがあってあれだけの門下を養成し、多数の硯友社員を一身同体の如くに率いて活動する事が出来たのであろう。紅葉は<ruby><rb>確</rb><rt>たしか</rt></ruby>に人に<ruby><rb>長</rb><rt>たけ</rt></ruby>たる親分的性格を<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>っていた。

## 十　紅葉と外国文学

紅葉は常に門下の諸生に対して外国小説研究の不必要を説き、創作家に必要なるは実世間の観察であって外国小説なんぞを読んだって役に立たないといっていた。紅葉門下が<ruby><rb>秋声</rb><rt>しゅうせい</rt></ruby>一人を除くの外は皆外国語に<ruby><rb>疎</rb><rt>おろ</rt></ruby>そかであったは師家の厳しい教訓のためであった。

が、紅葉自身は常に外国小説を読んで頭を肥やしていた、<ruby><rb>就中</rb><rt>なかんずく</rt></ruby>ゾラの作を愛読して『ムール和上の破戒』の如きは再三反読してその妙を<ruby><rb>嘖々</rb><rt>さくさく</rt></ruby>していた。『<ruby><rb>渠</rb><rt>かれ</rt></ruby>の傑作』を読んだ時はあたかも地方に暮していた私の<ruby><rb>許</rb><rt>もと</rt></ruby>へわざわざ手紙を<ruby><rb>遣</rb><rt>よこ</rt></ruby>して盛んにゾラの作意を激賞して来た。『むき玉子』はゾラのこの作から思付いたのである。その外にも外国小説からヒントを得、あるいはそのままに換骨奪胎したものは少くなかった。紅葉は決して外国小説が嫌いではなかった。

私が初めてドストエフスキーの名を聞いたのは紅葉からである。或時飯田町の三畳の書斎を訪ずれると、<ruby><rb>昨宵</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>は<ruby><rb>嵯峨</rb><rt>さが</rt></ruby>の<ruby><rb>屋</rb><rt>や</rt></ruby>が来て『罪と罰』という<ruby><rb>露西亜</rb><rt>ロシア</rt></ruby>の小説の話をしたが、嵯峨の屋がモグモグしながら妙な手附きをして<ruby><rb>咄</rb><rt>はな</rt></ruby>すのが実に面白かったといった。かつ、この小説は露西亜の近代の最大傑作で、何でもこの頃<ruby><rb>丸善</rb><rt>まるぜん</rt></ruby>へ英訳が来ているそうだといった。その翌日、私は早速丸善へ行って、果して一冊あったのを直ぐ買取った。明治二十二年の春で、後に聞くと三冊来たのを、一冊は坪内博士、一冊は森田思軒、残る一冊を私が買ったのであるそうだ。

が、紅葉は芸術本位であった故、<ruby><rb>仏蘭西</rb><rt>フランス</rt></ruby>の写実派には興味を持っても、人生本位の露西亜の小説はジメジメして陰気だと<ruby><rb>蔑</rb><rt>くさ</rt></ruby>し、その頃からツルゲネフやトルストイを推奨した私を<ruby><rb>外道</rb><rt>げどう</rt></ruby>と呼び、私等の主張した人生のための文学説を<ruby><rb>涅覔</rb><rt>ねちみゃく</rt></ruby>哲学と<ruby><rb>嘲</rb><rt>あざけ</rt></ruby>っていた。何かというと能く「君らの外道文学では……」などといったもんだ。

私が初めてドストエフスキーの『侮辱』を読んだ時、これなら脚色の山もあるし、常識的な恋物語もあるから、紅葉も必ず感服しそうなものと思って、度々物語の筋や<ruby><rb>目貫</rb><rt>めぬき</rt></ruby>の個処を話した後に是非読んで見ろといって英訳本を貸した。一と月ほど経ってから読んだかと<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>くと、何だか<ruby><rb>質</rb><rt>しち</rt></ruby>くどくて面倒臭いもんだといって<ruby><rb>碌</rb><rt>ろく</rt></ruby>すっぽ読んでいなかった。<ruby><rb>三月</rb><rt>みつき</rt></ruby>ほどしてから会った時もやはり読んでいなかった。それから四、五カ月も経ってから或時、<ruby><rb>漸</rb><rt>やっ</rt></ruby>と百頁ばかり読んだそうで、女主人公のネルリが朝早く起きてストーヴの前を掃除している姿が眼前にチラチラするような気がしたと言っていた。が、それぎりでとうとう<ruby><rb>十月</rb><rt>とつき</rt></ruby>ほどして返して来た時、余り<ruby><rb>拗過</rb><rt>くどす</rt></ruby>ぎて我慢にも<ruby><rb>読通</rb><rt>よみとお</rt></ruby>す気になれない、やはり外道の喜ぶもので江戸ッ子の読むもんじゃアないといった。紅葉は<ruby><rb>万更</rb><rt>まんざら</rt></ruby>外国文学が嫌いじゃなかったが近代文学には<ruby><rb>殆</rb><rt>ほと</rt></ruby>んど同感を持たなかった。

## 十一　紅葉の筆蹟及び人気

<ruby><rb>三越</rb><rt>みつこし</rt></ruby>で紅葉の真蹟展覧会が<ruby><rb>小波</rb><rt>さざなみ</rt></ruby>その他の主催で開かれてからモウ十年になる。それから以来紅葉の真蹟は<ruby><rb>益々</rb><rt>ますます</rt></ruby>持てはやされて今では短冊一枚が三十円以上を値いしてるそうだ。明治の文人の筆蹟では<ruby><rb>正岡子規</rb><rt>まさおかしき</rt></ruby>のと夏目漱石のと紅葉のが一番高く売買される。明治の大儒として名声中外に著聞する中村<ruby><rb>敬宇</rb><rt>けいう</rt></ruby>先生のよりも、天子の師範として近代の書聖と仰がれる<ruby><rb>長三洲</rb><rt>ちょうさんしゅう</rt></ruby>先生のよりも、近世の大徳として上下の帰依<ruby><rb>篤</rb><rt>あつ</rt></ruby>き<ruby><rb>行誡</rb><rt>ぎょうかい</rt></ruby>上人のよりも、敷島の三十一文字をもて栄爵を<ruby><rb>忝</rb><rt>かたじけの</rt></ruby>うした<ruby><rb>高崎</rb><rt>たかさき</rt></ruby>の<ruby><rb>正風大人</rb><rt>まさかぜうし</rt></ruby>のよりも何らの官位勲爵のない野の一文人紅葉の短冊の方が<ruby><rb>遥</rb><rt>はるか</rt></ruby>に珍重されてヨリ高価を以て市場に売買されておる。

数年前、或る書画商の店に書画<ruby><rb>帖</rb><rt>ちょう</rt></ruby>の売物があった。その中には漢学者では<ruby><rb>息軒</rb><rt>そっけん</rt></ruby>、<ruby><rb>鶴梁</rb><rt>かくりょう</rt></ruby>、<ruby><rb>宕陰</rb><rt>とういん</rt></ruby>、詩人では五山、星巌、枕山、湖山、画家では老山、柳圃、晴湖等その他各方面の一流の近代名家の<ruby><rb>揮毫</rb><rt>きごう</rt></ruby>があって、一枚々々随意のものを<ruby><rb>剥</rb><rt>は</rt></ruby>がして売っていた。ところが誰のよりも数倍高価である紅葉の色紙が誰のよりも一番早く売れてしまったそうだ。

紅葉は死ぬ前に盛んに短冊を書いて、「俺の字は死ぬと値が出るぞ」といって人に与えたそうだが、果して自信の通りであった。<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>も紅葉は書が巧みであったし、人気が盛んであったから早くから筆蹟が珍重された。今から三十年も前、或る懇意な田舎の素封家に所望されて名士の手紙を十数通与えたところが、一年ほど経って偶然その家を訪問した或る男から、私に<ruby><rb>宛</rb><rt>あ</rt></ruby>てた紅葉の手紙が<ruby><rb>錦襴</rb><rt>きんらん</rt></ruby>表装の軸となって床の間に掛けてあったと知らせて来た。間もなくその素封家から「紅葉先生と露伴先生のだけは早速表装しました、お<ruby><rb>庇</rb><rt>かげ</rt></ruby>で自慢の家宝が二幅<ruby><rb>出来</rb><rt>でけ</rt></ruby>えました、」と、<ruby><rb>慇懃</rb><rt>いんぎん</rt></ruby>な礼手紙が来た。これほど熱心な崇拝家があろうとは思掛けなかったので、早速紅葉にその話をすると、その頃の紅葉はまだ若かったから<ruby><rb>嬉</rb><rt>うれ</rt></ruby>しそうな顔をして、「ありがたいネ、お礼に<ruby><rb>藤村</rb><rt>ふじむら</rt></ruby>の<ruby><rb>羊羹</rb><rt>ようかん</rt></ruby>でも贈ろうか、」といって笑った。が、今では紅葉の手蹟を立派に表装して伝家のお宝物のように秘襲するものは決して少なくないだろう。

これも数年前の<ruby><rb>咄</rb><rt>はなし</rt></ruby>、日本橋の或る<ruby><rb>骨董屋</rb><rt>こっとうや</rt></ruby>に紅葉の手紙を表装した額面が出ていた。宛名はツイその近傍の著名な<ruby><rb>書肆</rb><rt>しょし</rt></ruby>で、「<ruby><rb>先達</rb><rt>せんだっ</rt></ruby>ての○は何々へ届けてくれ、本人が義務を怠たったら自分が返債する」という罪な文面だ。何々というはズボラで通ってる門生で、原稿引当ての前借を紅葉が<ruby><rb>口入</rb><rt>くちいれ</rt></ruby>したものらしい。こういう書面を、当の書中の本人がマダ健在であるのに、<ruby><rb>苟</rb><rt>かりそめ</rt></ruby>にも書肆たるものが<ruby><rb>他事</rb><rt>ひとで</rt></ruby>に渡すというは<ruby><rb>怪</rb><rt>け</rt></ruby>しからん話で、あまつさえ額面に表装するというは言語道断である。が、それは<ruby><rb>左</rb><rt>と</rt></ruby>も<ruby><rb>右</rb><rt>か</rt></ruby>くもとしてこの額面の正札が、驚く<ruby><rb>勿</rb><rt>なか</rt></ruby>れ、金六十八円<ruby><rb>也</rb><rt>なり</rt></ruby>とある。イクラの前借を申込んだか知らぬが、多分この正札の額よりも少なかったろう。ツイこの頃の大阪の柳屋の目録にも紅葉の不養生訓という自筆の原稿が載っておる。どんなものか知らぬが弐百五拾円という<ruby><rb>突飛</rb><rt>とっぴ</rt></ruby>な価には驚かされる。紅葉の人気の高いのはこれを以ても証される。

明治の文人の全集中、漱石全集の予約高は近頃群を抜いてるそうだが、紅葉全集の既刊部数も恐らくこれに劣らないだろう。全集ではないが、『金色夜叉』の如きは何度重版しても足りないで、毎年の出版部数が今だに相当な高率を維持しているそうだ。実をいうと『金色夜叉』は最初の構想が中途で何度も変って<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>まりが附かなかった未成品であるが、真珠の<ruby><rb>頸飾</rb><rt>くびかざり</rt></ruby>の<ruby><rb>断</rb><rt>ちぎ</rt></ruby>れたのを<ruby><rb>南京玉</rb><rt>ナンキンだま</rt></ruby>で補ったような続篇が二つも三つも出来て、芝居は勿論、活動写真ともなれば<ruby><rb>流行唄</rb><rt>はやりうた</rt></ruby>ともなり、中学校の国文教科書にも載れば絵葉書にも発行され、今ではどんな田舎の片山里でも『金色夜叉』の名を知らないものはない。お<ruby><rb>伽噺</rb><rt>とぎばなし</rt></ruby>の外には何にも読まない小学校の<ruby><rb>児供</rb><rt>こども</rt></ruby>ですらが『金色夜叉』の名だけは知っておる。<ruby><rb>芥川龍之介</rb><rt>あくたがわりゅうのすけ</rt></ruby>や<ruby><rb>谷崎潤一郎</rb><rt>たにざきじゅんいちろう</rt></ruby>や<ruby><rb>菊池寛</rb><rt>きくちかん</rt></ruby>や<ruby><rb>倉田百三</rb><rt>くらたひゃくぞう</rt></ruby>や<ruby><rb>賀川豊彦</rb><rt>かがわとよひこ</rt></ruby>の新らしい作を<ruby><rb>読耽</rb><rt>よみふけ</rt></ruby>るものもやはり『金色夜叉』を反覆愛読しておる。

<ruby><rb>今村清之助</rb><rt>いまむらせいのすけ</rt></ruby>は常に紅葉の作を愛読していたが、感服の余りに一夜<ruby><rb>旗亭</rb><rt>きてい</rt></ruby>に紅葉を招いて半夜の清興を<ruby><rb>侶</rb><rt>とも</rt></ruby>にしたそうだ。<ruby><rb>西園寺</rb><rt>さいおんじ</rt></ruby>公も誰のよりも紅葉の作を一番多く読んでおられるようだ。今では政治家や実業家の中にもかなりな文芸の理解者があるらしいが、紅葉の小説はその頃からして奥さんやお嬢さんばかりでなく、紳士にも学生にも宗教家にも教育家にも有識者にも無知文盲の俗人にも読まれた。<ruby><rb>弦斎</rb><rt>げんさい</rt></ruby>や<ruby><rb>春葉</rb><rt>しゅんよう</rt></ruby>の作は広く読まれたにしても、その範囲は低級者に限られて高級知識階級に及ばなかった。紅葉のはこれに反して高級者にも低級者にも学者にも無学者にも男にも女にも愛読された。新らしい文芸家の中には最高文学は低級者には理解されないものと独断して、読者の少数階級に限られるを高しとするものもあるが、最大なる文学は高級者にも低級者にも等しく同感される普遍の興味を持ってる。トルストイやドストエフスキーは決して高級の知識階級者にのみ読まれるのでなくしてかえって文盲な農民間にヨリ多く愛読されてる。換言すれば人気ある作家を直ちに目して最大作家とする事は出来ないが、最大なる作家は多くの場合大抵人気がある。紅葉がトルストイやドストエフスキーのような最大作家であったか否かは別問題であるが、普遍の興味を持つ点では<ruby><rb>遥</rb><rt>はるか</rt></ruby>に今日の新らしい作家に<ruby><rb>勝</rb><rt>まさ</rt></ruby>っておる。

## 十二　紅葉と最後の会見――世間に伝わらざる逸事

紅葉の病気が重態であると新聞紙に伝えられてから間もなく、或日の午後、私があたかも丸善の事務室に居合わした時、紅葉さんがお見えになりましたと一店員が知らして来た。重態の病人が自身に来るはずはないから、紅葉の使いのものか、さなくば尾崎違いであろうと<ruby><rb>訝</rb><rt>いぶ</rt></ruby>かりながら店へ出て見ると、<ruby><rb>痩</rb><rt>や</rt></ruby>せ衰えた紅葉が<ruby><rb>書棚</rb><rt>しょだな</rt></ruby>の前で書籍を<ruby><rb>漁</rb><rt>あさ</rt></ruby>っていた。

余り意外だったので、<ruby><rb>狐</rb><rt>きつね</rt></ruby>に<ruby><rb>魅</rb><rt>つま</rt></ruby>まれたような心地がして<ruby><rb>暫</rb><rt>しば</rt></ruby>らく離れて立って見ていると、紅葉は<ruby><rb>偶</rb><rt>ふ</rt></ruby>っと<ruby><rb>顧盻</rb><rt>ふりむ</rt></ruby>いて気が付いたと見えてニッと微笑した。

「どうしたい！」と私は<ruby><rb>束々</rb><rt>つかつか</rt></ruby>と進んで、「<ruby><rb>先</rb><rt>ま</rt></ruby>アこっちへ来給え、」と応接へ案内し、卓を<ruby><rb>央</rb><rt>なか</rt></ruby>に<ruby><rb>相対</rb><rt>さしむか</rt></ruby>いとなるや、「大変悪いように聞いたが、能く出て来られたネ！」

「本統に悪いんだよ、」と紅葉はニッと笑いながら、血の<ruby><rb>気</rb><rt>け</rt></ruby>の<ruby><rb>失</rb><rt>う</rt></ruby>せた<ruby><rb>削</rb><rt>そ</rt></ruby>ぎ落したような<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>を<ruby><rb>掌</rb><rt>てのひら</rt></ruby>で<ruby><rb>扱下</rb><rt>こきおろ</rt></ruby>しつつ、「寿命は<ruby><rb>最</rb><rt>も</rt></ruby>う<ruby><rb>定</rb><rt>きま</rt></ruby>ったんだが、元気はマダこの通りだ。」

「何しろ結構だ。<ruby><rb>爰</rb><rt>ここ</rt></ruby>まで出て来る元気がありゃア、医者は何といっても大丈夫取返しは附くよ」と元気づけつつ顔を見ながら、「思ったほどに痩せないナ。」

「顔だけ見ているとそうでもないが、<ruby><rb>裸体</rb><rt>はだか</rt></ruby>になると<ruby><rb>骸骨</rb><rt>がいこつ</rt></ruby>だ。<ruby><rb>股</rb><rt>もも</rt></ruby>なんか<ruby><rb>天秤棒</rb><rt>てんびんぼう</rt></ruby>ぐらいしかない。能く立ってられると思う、」と大学で<ruby><rb>癌</rb><rt>がん</rt></ruby>と鑑定された<ruby><rb>顛末</rb><rt>てんまつ</rt></ruby>を他人の<ruby><rb>咄</rb><rt>はなし</rt></ruby>のように静かに<ruby><rb>沈着</rb><rt>おちつ</rt></ruby>いて話して、「人間も地獄のお迎えが<ruby><rb>門口</rb><rt>かどぐち</rt></ruby>に待ってるようになっちゃ最う<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おあいだ</span>だ。<ruby><rb>所詮</rb><rt>どうせ</rt></ruby>死ぬなら羊羹でも、<ruby><rb>天麩羅</rb><rt>てんぷら</rt></ruby>でも、思うさま食ってやれと<ruby><rb>棄鉢</rb><rt>すてばち</rt></ruby>になっても、流動物ほか通らんのだから、<ruby><rb>喰意地</rb><rt>くいいじ</rt></ruby>が張るばかりでカラキシ<ruby><rb>意気地</rb><rt>いくじ</rt></ruby>はない。<ruby><rb>先</rb><rt>ま</rt></ruby>ア餓鬼だナア！」

と、淋しい微笑を浮べた。<ruby><rb>壮健</rb><rt>じょうぶ</rt></ruby>な時と同様にガラガラしていたが、<ruby><rb>底力</rb><rt>そこぢから</rt></ruby>が抜けていて、一緒に声を合わして笑う事が出来なかった。

やがて<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>を<ruby><rb>措</rb><rt>お</rt></ruby>いて、「何を買いに来た！」と<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>くと、「『ブリタニカ』を予約に来たんだが、品物がないッていうから『センチュリー』にした」といった。（『ブリタニカ』と『センチュリー』とを同時に提供していた時で、丁度『ブリタニカ』が品切れになっていた時であった。）

「『センチュリー』を買ってどうする？」と<ruby><rb>瀕死</rb><rt>ひんし</rt></ruby>の病人が高価な辞書を買ってどうする気かと不思議でならんので、「それどころじゃあるまい、」というと、

「そういえばそうだが、評判は<ruby><rb>予</rb><rt>かね</rt></ruby>て聞いてるから、どんなものだか<ruby><rb>冥土</rb><rt>めいど</rt></ruby>の<ruby><rb>土産</rb><rt>みやげ</rt></ruby>に見て置きたいと思ってネ。まだ一と月や二タ月は大丈夫生きてるから、ユックリ見て行かれる。」

「そんなら『ブリタニカ』にしたらどうだ。最う二タ月も経てば荷が着くから、今予約して置かんでも着いた時に知らせよう……」と、実は私の内心では、余り豊かでもなかろうに、見す見す余命いくばくもないのが解っていながら<ruby><rb>开</rb><rt>そ</rt></ruby>んな高価な辞書を買うでもあるまいと、それといわずに無益の<ruby><rb>費</rb><rt>つい</rt></ruby>えをさせたくないと思っていうと、

「そうさナア、」と暫らく考えていたが、「二タ月ぐらいは大丈夫と思うが、いつ<ruby><rb>何時</rb><rt>なんどき</rt></ruby>どうなるか解らん。二タ月先きに本が着いた時、幸い息が<ruby><rb>通</rb><rt>かよ</rt></ruby>っていたにしてもヒクヒクして最う眼が見えないでは何にもならない。」

「大丈夫、大丈夫。その元気ならマタ一年や二年は大丈夫。字引はどうでも<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いが、病気の方は大丈夫だよ。今から开んな<ruby><rb>弱音</rb><rt>よわね</rt></ruby>を吹くのは愚だ。きっと<ruby><rb>癒</rb><rt>なお</rt></ruby>ると思わにゃ駄目だ。」

「愚でも駄目でも仕方がない。医者が<ruby><rb>三月</rb><rt>みつき</rt></ruby>と宣告したんだから、<ruby><rb>力</rb><rt>りき</rt></ruby>んでも<ruby><rb>踏反</rb><rt>ふんぞ</rt></ruby>り返っても三月経てばゴロゴロッと<ruby><rb>痰</rb><rt>たん</rt></ruby>が<ruby><rb>咽喉</rb><rt>のど</rt></ruby>へ<ruby><rb>引</rb><rt>ひっ</rt></ruby>からんでのお<ruby><rb>陀仏様</rb><rt>だぶつさま</rt></ruby>――とこう覚悟して置かにゃ<ruby><rb>虚偽</rb><rt>うそ</rt></ruby>だよ、」と<ruby><rb>片頬</rb><rt>かたほ</rt></ruby>に<ruby><rb>笑</rb><rt>えみ</rt></ruby>を含みつつ力の抜けた<ruby><rb>空元気</rb><rt>からげんき</rt></ruby>で、「そこは大悟徹底している。生延びようとは決して思わんが、欲しいと思うものは頭のハッキリしている<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>に自分の物として、一日でも長く見て置かないと執念が残る。字引に執念が残ってお化けに出るなんぞは男が<ruby><rb>廃</rb><rt>すた</rt></ruby>らアナ！」と力のない声で<ruby><rb>呵々</rb><rt>からから</rt></ruby>と笑いながら、「『センチュリー』なら直ぐ届けられるだろう。」

「むむ、『センチュリー』なら直ぐ届ける、」というと、<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く安心したような顔をして、「これで<ruby><rb>先</rb><rt>ま</rt></ruby>ア冥土へ好い土産が出来た、」と笑いながら丁度店員が応接室の外を通ったのを呼留めて申込書と共に百何円の現金を切れるような<ruby><rb>紙幣</rb><rt>さつ</rt></ruby>で奇麗に支払った。

それからかれこれ<ruby><rb>小</rb><rt>こ</rt></ruby>一時間も<ruby><rb>悠然</rb><rt>ゆうぜん</rt></ruby>と腰を落付けて久しぶりで<ruby><rb>四方山</rb><rt>よもやま</rt></ruby>の話をした。紅葉と私とは妙なイキサツから<ruby><rb>気拙</rb><rt>きまず</rt></ruby>くなっていたが、こうして<ruby><rb>胸襟</rb><rt>きょうきん</rt></ruby>を開いて語ればお互に何の<ruby><rb>蟠</rb><rt>わだかま</rt></ruby>りもなく打解ける事が出来た。が、最早余命の<ruby><rb>定</rb><rt>きま</rt></ruby>った<ruby><rb>渠</rb><rt>かれ</rt></ruby>、再び快く語る機会は恐らく最う与えられまいと思うと何となく名残が惜まれ、最後の会食を一緒にしたいような気がしたが、病気が病気だからそれもならず、<ruby><rb>壮健</rb><rt>じょうぶ</rt></ruby>の時と同じように平気な顔をして談笑していても<ruby><rb>自</rb><rt>おの</rt></ruby>ずと憂愁に閉ざされて話を途切らしがちだった。

「あア、あア、」とやがて<ruby><rb>平手</rb><rt>ひらて</rt></ruby>で左の肩を<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>きながら、「何しろ流動物ばかりだから、腹に<ruby><rb>堪</rb><rt>こた</rt></ruby>えがなくて<ruby><rb>直</rb><rt>じ</rt></ruby>き<ruby><rb>労</rb><rt>つか</rt></ruby>れる。カラキシ意気地がなくなッちゃった。」

といいつつ<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>を<ruby><rb>起</rb><rt>た</rt></ruby>ったので、一緒に席を離れて淋しい<ruby><rb>後影</rb><rt>うしろかげ</rt></ruby>を店先まで送り出した。

「じゃア君、頼むよ、一時間でも早く届くように。」と待たして置いた<ruby><rb>俥</rb><rt>くるま</rt></ruby>に乗移って、「<ruby><rb>片脚</rb><rt>かたあし</rt></ruby><ruby><rb>棺桶</rb><rt>かんおけ</rt></ruby>に掛ってるんだから気が短かくなった。」

と、病み衰えた顔に淋しい微笑を浮べ、<ruby><rb>梶棒</rb><rt>かじぼう</rt></ruby>の上ると共に互に黙礼を<ruby><rb>換</rb><rt>かわ</rt></ruby>して<ruby><rb>訣</rb><rt>わか</rt></ruby>れた。暫らくは涙ぐましく俥の跡を<ruby><rb>目送</rb><rt>みおく</rt></ruby>ったが、これが紅葉と私との最後の<ruby><rb>憶出</rb><rt>おもいで</rt></ruby>の深い会見であった。

それから二タ月ほど経って、いよいよ重態となったと聞いて<ruby><rb>門口</rb><rt>かどぐち</rt></ruby>まで見舞に行ったが、その時は最うドッと<ruby><rb>枕</rb><rt>まくら</rt></ruby>に<ruby><rb>就</rb><rt>つ</rt></ruby>いて普通の見舞人には面会を謝絶していた。

間もなく紅葉の<ruby><rb>訃</rb><rt>ふ</rt></ruby>は伝わって、世を<ruby><rb>挙</rb><rt>こぞ</rt></ruby>ってこの<ruby><rb>比</rb><rt>たぐ</rt></ruby>い少ない天才の<ruby><rb>逝</rb><rt>ゆ</rt></ruby>くを痛惜したが、訃を聞くと直ぐ、私は弔問して亡友の遺骸に<ruby><rb>訣別</rb><rt>わかれ</rt></ruby>を告げた。晩年暫らく<ruby><rb>相乖離</rb><rt>あいかいり</rt></ruby>していたのを衷心遺憾に思いながらも、最後の会見に釈然として何も<ruby><rb>彼</rb><rt>か</rt></ruby>も忘れ、笑って快く一時間余りも隔てなく話したのは<ruby><rb>切</rb><rt>せ</rt></ruby>めてもの<ruby><rb>心遣</rb><rt>こころやり</rt></ruby>であった。が、暫らく交際が途絶えていたので、硯友社同人や門下の人々は私の<ruby><rb>許</rb><rt>もと</rt></ruby>には死亡の通知さえ<ruby><rb>遣</rb><rt>よこ</rt></ruby>さなかったが、永眠する前<ruby><rb>三月</rb><rt>みつき</rt></ruby>に紅葉と笑って最後の訣別を叙した私は、<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>に疎隔していても紅葉を親友の一人と見ていた。

だが、自分の死期の迫ってるのを十分知りながら余り豊かでない<ruby><rb>財嚢</rb><rt>ざいのう</rt></ruby>から高価の辞典を買うを少しも惜まなかった紅葉の最後の逸事は、死の瞬間までも知識の欲求を決して忘れなかった紅葉の器の大なるを証する事が出来る。この紅葉の最後の<ruby><rb>頁</rb><rt>ページ</rt></ruby>を飾るに足る美くしい逸事は誰も知らぬと見えて誰の口からも世間に伝わらなかった。

紅葉は決して豊かでなかった。先年或る雑誌に、紅葉は生前三円五十銭の画だか骨董だかを買えなかったほど窮していたという逸話が見えた。紅葉は<ruby><rb>豈夫</rb><rt>まさか</rt></ruby>に三円五十銭やそこらのものを買えないほど窮していなかったが、こういう馬鹿々々しい誤聞が伝わるのも<ruby><rb>万更</rb><rt>まんざら</rt></ruby>でないほど切詰めた生活であった。<ruby><rb>然</rb><rt>しか</rt></ruby>るに不起の病に<ruby><rb>罹</rb><rt>かか</rt></ruby>って、最早余命いくばくもないのを知りつつも少しも<ruby><rb>紊</rb><rt>みだ</rt></ruby>れないで、余り余裕のない<ruby><rb>懐</rb><rt>ふとこ</rt></ruby>ろから百何十円を支払って大辞典を買うというは知識に渇する心持の尋常でなかった事が想像される。あるいは最後の床の上で、『ノートル・ダーム』の翻訳を<ruby><rb>推敲</rb><rt>すいこう</rt></ruby>していたからであったかも知れないが、それならばなお更、死の<ruby><rb>淵</rb><rt>ふち</rt></ruby>に<ruby><rb>瀕</rb><rt>ひん</rt></ruby>してすらも決して<ruby><rb>苟且</rb><rt>かりそめ</rt></ruby>にしなかった製作的良心の盛んであったを知るべきである。

普通ならば医者から三月しか寿命のないのを<ruby><rb>申渡</rb><rt>もうしわた</rt></ruby>されて死後を覚悟すべき時である。<ruby><rb>聊</rb><rt>いささ</rt></ruby>かでも余財があれば家族のために残して置く<ruby><rb>乎</rb><rt>か</rt></ruby>、さらずば自分のための養生喰いをする乎、病気のために食慾の満足が得られないなら慰みになるものでも買うのが普通である。病気のためにも病床の慰みにも<ruby><rb>将</rb><rt>は</rt></ruby>た<ruby><rb>又</rb><rt>また</rt></ruby>死後の<ruby><rb>計</rb><rt>はかりごと</rt></ruby>の足しにもならないこういう高価の大辞典を瀕死の<ruby><rb>間際</rb><rt>まぎわ</rt></ruby>に買うというは世間に余り聞かない<ruby><rb>咄</rb><rt>はなし</rt></ruby>で、著述家としての尊い心持を最後の息を引取る瞬間までも忘れなかった紅葉の最後の逸事として後世に伝うるを値いしておる。

<ruby><rb>有体</rb><rt>ありてい</rt></ruby>にいうと、私は紅葉の著作には世間が騒ぐほどに感服していなかった。その生活や態度や人物にも<ruby><rb>慊</rb><rt>あきた</rt></ruby>らなく思う事が多かった。私が文学のためというよりは実は紅葉のために常に苦言を反覆したのは<ruby><rb>畢竟</rb><rt>ひっきょう</rt></ruby>紅葉の才の凡ならざるを惜んで玉成したかったためであるが、これがために紅葉から含まれて心にもなく<ruby><rb>仲違</rb><rt>なかたが</rt></ruby>いするようになった。が、瀕死の瀬戸際に臨んでも少しも<ruby><rb>挫</rb><rt>くじ</rt></ruby>けなかった知識の向上慾の盛んなるには推服せざるを得なかった。紅葉は真に文豪の器であって決してただの才人ではなかった。

（大正十四年三月補訂再記）