Soranoha

芭蕉

ばしょう

島崎 藤村

佛蘭西の旅に行く時、私は鞄の中に芭蕉全集を納いれて持つて行つた。異郷の客舍にある間もよく取出して讀んで見た。『冬の日』、『春の日』から、『曠野』、『猿簑』を經て『炭俵』にまで到達した芭蕉の詩の境地を想像するのも樂しいことに思つた。

昔の人の書いたもので、それを讀んだ時はひどく感心したやうなものでも、歳月を經る間には自然と忘れてしまふものが多い。その中で、折にふれては思出し、何時いつ取出して讀んで見ても飽きないのは芭蕉の書いたものだ。

『朝を思ひ、また夕を思ふべし。』

含蓄の多い芭蕉の詩や散文が折にふれては自分の胸に浮んで來るのは、あの『朝を思ひ、また夕を思ふべし』といふやうな心持から生れて來て居るからだとは思ふが、まだその他に自分の心をひく原因がある。近頃私は少年期から青年期へ移る頃にかけて受けた感動が深い影響を人の一生に及ぼすといふことに、よく思ひ當る。丁度さうした心の柔い、感じ易い年頃に、私は芭蕉の書いたものを愛讀した。その時に受けた感化が今だに私に續いて居る。どうかすると私は、少年時代に芭蕉を愛讀したと少しも變りのないやうな、それほど固定した印象を今日の自分に見つけることもある。

今から二十五六年ばかりも前に、私は近江から大和路の方へかけて旅したことがある。私はまだ極く若いさかりの年頃であつた。私は熱田から船で四日市へ渡り、龜山といふところに一晩泊つて、伊賀と近江の國境を歩いて越した。あれから琵琶湖の畔ほとりへ出、大津、瀬多、膳所なぞの町々を通つて西京から奈良へと通り、吉野路を旅した。私はもう一度琵琶湖の畔へ引返して石山の茶丈の一室に旅の足を休め、そこに一夏を送つたこともあつた。私は自分の郷里の木曾路の變遷を考へて見ても、何程若い時の自分の眼に映つた寂しい伊賀の山中や、吉野路の日あたりや、それから琵琶湖の畔が、その昔蕉門の詩人等の歩いた場所と違つた感じのものであるやを言ふことは出來ない。しかしあの旅も私に取つては芭蕉に對する感銘を深くさせた。

少年時代から私の胸に描いて居た芭蕉は、一口に言へば尊い『老年』であつた。私はつい近頃まで芭蕉といふ人のことを想像する度に、非常に年とつた人のやうに思つて居た。その晩年は、人として到達し得る最後の尊い境地の一つだといふ風に考へて居た。

こゝにも先入主となつた印象が今だに私の上に働いて居ることを感ずる。私があの湖十の編纂した芭蕉の『一葉集』を手にしたのは、まだ白金の明治學院に通つて居たほどの學生時代であつた。私が年少であればあるだけ、あの老成な紀行文なぞを書いた芭蕉が非常に年とつた人であるといふ想像を浮べずには居られなかつた。けれども是は自分が若かつた年頃に芭蕉を知つたといふばかりではなくかうした先入主となつた印象を強めるかず〲のものが、他にもあつたと思ふ。實際三十一歳で既に髮を薙いでしまつて自ら風羅坊と稱したほどの人から、貧士竹齋に似て居ると言つて自ら狂句まで作つたほどの人から、大抵のものの受ける感じはあの笠翁といふ人の描いた芭蕉の肖像に見るやうな、隱者らしい着物に頭巾を冠つた年寄くさい人物であらねばならない。『翁』といふ言葉の持つ意味が一番よく宛嵌あてはめられるのも芭蕉であるやうな氣がする。

芭蕉は五十一歳で死んだ。それに就いて近頃私の心を驚かしたことがある。友人の馬場君はその昔白金の學窓を一緒に卒業した仲間であるが、私よりは三つほど年嵩にあたる同君が、來年はもう五十一歳だ。馬場君のことを孤蝶翁と呼んで見たところで、誰も承知するものは有るまいと思はれるほど同君はまだ若々しいが、來年の馬場君の歳に芭蕉は死んで居る。

これには私は驚かされた。老人だ、老人だ、と少年時代から思ひ込んで居た芭蕉に對する自分の考へ方を變へなければ成らなくなつて來た。思ひの外、芭蕉といふ人は若くて死んだのだと考へるやうになつて來た。成程元祿の昔と大正の今日とでは、社會の空氣からして違ふだらう。あの元祿時代の芭蕉翁に自分の友達仲間でも格別氣象の若々しい馬場君を比較することは、ちと無理かも知れない。それにしても私は芭蕉といふ人が大阪の花屋の座敷で此の世を去つたといふ時でも、實際に於いてそれほどの老年ではなかつたといふことを考へる。つい此頃も馬場君が見えた時に、私はこのことを同君に話して、それからあの芭蕉の藝術の底に籠る香氣の高い情熱に就いて語り合つたこともあつた。

『四十ぐらいの時に、芭蕉はもう翁といふ氣分で居たんだね。』

と、馬場君も言つて居た。もつとあの人が長く生きて居たらどんな詩の境地が展けて行つたらう、といふやうな話も私達の間に出た。

兎に角、私の心の驚きは今日まで自分の胸に描いて來た芭蕉の心像を十年も二十年も若くした。さう思つてもう一度芭蕉の全集をあけて見ると、『冬の日』の出來たのは芭蕉が四十歳になつたばかりの頃だとあるし、『曠野』の出來たのが四十五歳の頃だとある。『猿簑』の選ばれた頃ですら、芭蕉は四十八九歳の人だ。芭蕉の藝術はそれほど年老いた人の手に成つたものではなくて、實は中年の人から生れて來た抑へに抑へた藝術であると言はねばならない。

芭蕉が『閉關の説』に曰く、

『色は君子の惡にくむところにして、佛も五戒のはじめに置くといへども、流石に捨てがたき情のあやにくに哀なるかた〲も多かるべし。人しれぬくらぶの山の梅の下ぶしに思ひの外の匂ひにしみて、忍ぶの岡の人目の關ももる人なくばいかなる過ちをか仕出でてん。あまの子の浪の枕に袖しほれて、家を賣り、身を失ふためしも多かれど、老の身の行末をむさぶり米錢の中に魂を苦しめて物の情をわきまへざるには遙かにまして罪ゆるしぬべし。人生七十を稀なりとして、身の盛なることは僅かに二十餘年なり。初めの老の來れること一夜の夢のごとし、五十年六十年のよはひ傾くよりあさましうくづをれて、宵寢がちに朝起したる寢覺の分別、何事をか貪る。おろかなるものは思ふ事多し。煩悶増長して一藝のすぐるゝものは是非の勝るものなり。是をもて世の營みに宛て、貪欲の魔界に心を怒らし、溝洫に溺れて生かすこと能はずと南華老仙の唯利害を破却し、老若を忘れて閑にならんこそ老の樂みとは言ふべけれ、人來れば無用の辭あり、出でては他の家業をさまたぐるもうし。尊敬が戸を閉ぢて、杜五郎が門を鎖さんには、友なきを友とし、貧しきを富めりとして、五十年の頑夫自ら書き、自ら禁戒となす。』

これを讀むと、中年の人の心持がさすがに隱されずにある。この文章の中には襲ひ來る『老』も書いてある。技藝の是非といふことも書いてある。沈默といふことも書いてある。貧しさの中に見つけた心の富といふことも書いてある。戀愛に對する孤獨な人の心も書きつけてある。

『あさがほや晝は鎖おろす門の垣』

この孤獨と、沈默と修道者のやうな苦しみとは、何を芭蕉の生涯に齎したらう。其角が『猿簑』の序文に書いたやうな俳諧にたましひを入れるといふ幻術は、あるひはそこから生れて來たのかも知れない。芭蕉の藝術が、印象派風な蕪村の藝術とは違つて、soul の藝術とも呼んで見たいのは矢張そこから來て居るのかも知れない。しかし芭蕉が五十一歳ぐらゐで此の世を去つたといふことと、この『閉關の説』にも出て居るやうな獨身獨居で形骸を苦しめたといふことと、その間には深い關係のないものだらうか。

『數らぬ身とな思ひそ玉祭』

私はあの句の心をあはれむ。

芭蕉の散文には何とも言つて見やうのない美しいリズムが流れて居る。曾て私は長谷川二葉亭氏が文品の最も高いものとして芭蕉の散文を擧げたのをある雜誌で讀んだ時に、うれしく思つたことを覺えてゐる。

全く思ひがけなかつたのは、私が巴里に居る頃、ヹルレエヌに芭蕉を比較した一節をカミイユ・モウクレエルの著述の中に見つけたことであつた。それを見つけた時に一部の佛蘭西人の中には芭蕉の名が傳へられて居ることを知つた、尤もあのカミイユ・モウクレエルといふやうな人が、どうして芭蕉を知つたかといふことは、一寸私には想像がつかない。

『笈の小文』、『奧の細道』などの旅行記が何度繰返して讀んでも飽きないことは今更こゝに言ふまでもないが、芭蕉が去來の落柿舍で書いたといふ『嵯峨日記』に私は特別の興味を覺える。芭蕉の日常生活の消息があの簡淨な日記の中によく窺はれるやうな氣がする。

あの中に、『獨り住むほど面白きはなし』などと言ひながら、羽紅夫婦をとめて五人で一張の蚊屋に寢るほど人懷こい芭蕉が居る。一つの蚊屋に五人では眠られなくて、皆夜半過から起きて、菓子を食ひながら曉近くまで話したといふことなぞが書いてある。その前の年に芭蕉が凡兆の家で泊つた時は、二疊の蚊屋に四ヶ國の人が寢て、思ふことが四つで、夢もまた四種と書いたと言出して、皆を笑はせたといふことなぞも出て居る。それからまたあの日記の中には百日程行脚を共にした杜國の死を夢に言出して、啜泣きして眼が覺めたといふ Passionate な芭蕉の性質もあらはれてゐる。

『五月雨や色紙へぎたる壁の跡』

かういふ句となつて形をとるまでには、芭蕉の情熱を何程抑へに抑へたものであるやも知れぬ。

芭蕉には全く宗教に行かうとした時もあつたらしい。

『かく言へばとて、ひたぶるに閑寂を好み、山野に跡をかくさんとにはあらず。やゝ病身人に倦みて世をいとひし人に似たり。つら〱年月のうつりこし拙き身の科をおもふに、ある時は仕官懸命の地を羨み、一たびは佛籬祖室の扉に入らんとせしも、たよりなき風雲に身をせめ、花鳥に情を勞して暫く生涯のはかりごととさへなれば、終には無能無才にして此一筋につながる。樂天は五臟の神を破り老杜は痩せたり。賢愚文質のひとしからざるも、いづれか幻のすみかならずや、とおもひ捨てゝ臥しぬ。』

こゝに引いたのは『猿簑』の卷の六にある『幻住庵の記』の終の部分だ。其角が『この道のおもて起すべき時なれや』と言つた『猿簑』句集のエピロオグとも言ふべきものの一節だ。

幻住庵は菅沼曲水の伯父にあたる幻住老人といふ僧の住んだ草庵で、そこに芭蕉はしばらく住んだといふことが、あの記文の中に書いてある。さういふ歴史は兎に角、私はあの幻住庵を芭蕉の生活の奧の方に光つて見える一つの象徴として想像したい。あの草庵を芭蕉の『生命の宮殿』とも想像したい。無常迅速の境地に身を置きながら永遠といふものに對して居るやうな詩人をあの草庵の中に置いて想像したい。

『先づたのむ椎の木もあり夏木立』

あの幻住庵の跡は石山から、一里ばかりも奧にあると聞いた。芭蕉の筆はあの草庵が形勝の好い位置にあつたことを示して居る。

『さすがに春の名殘も遠からず、つゝじ咲殘り、山藤松にかゝりて、時鳥しばしば過ぐるほど宿かし鳥の便りさへあるを、木つゝきのつゝくともいとはじなど、そぞろに興じて、魂は呉楚東南にはしり、身は瀟湘洞庭に立つ。山はひつじ申にそばだち、人家よきほどに隔り、南薫峰よりおろし、北風海を浸して凉し。日枝の山、比良の高根より、辛崎の松は霞こめて、城あり、橋あり、釣たるゝ舟あり、笠とりに通ふ木樵の聲、麓の小田に早苗とる歌、螢とびかふ夕闇の空に水鷄くひなのたゝく音、美景ものとして足らずといふことなし。』

こんな風に敍して行つた記文の一番終りの處へもつて行つて、自己の感想が可成明かに語つてある。『いづれか幻のすみかならずや。』芭蕉はあの一句を書くために、一篇の『幻住庵の記』を作つたと言つてもいゝやうな氣がする。かうした幻想が見たところ寫實的な芭蕉の藝術の奧にあるもので印象派風な蕪村や、現實的でそしてプリミテイブな味の籠つた一茶の藝術などに感じられないものだと思ふ。

北村透谷君にも松島へ行つて芭蕉を追想した文章があつた。俳諧の宗匠たる身で句を成さずに松島から引返したといふことは恐らく芭蕉の當時にあつて非常に不名譽であると思はねば成らないが、無言のまゝであの自然に對して來た芭蕉の姿が反かへつてなつかしいといふのが、松島に遊んだ時の北村君の話であつた。北村君は芭蕉に寄せて、silence といふことに就いて書いたが、あれは特色の深い文章であつた。

多くの人の生涯を見るに、その人の出發したところと歸着したところとは餘程違つて見える場合が多い。宗房と言つた時代もある芭蕉が涙の多い五十年の生涯を送つて、『炭俵』の詩の境地まで屈せず撓まず歩きつゞけて行つたといふことは、餘程の精神力に富んだ人と思はざるを得ない。

芭蕉の弟子達によつて書かれた『花屋の日記』は芭蕉が臨終の記録として、吾國の文學の中でも稀に見るほどパセチツクなものだ。私は『枯尾花』にある其角の追悼の文章よりも、はるかに『花屋の日記』を愛する。あの日記の中には、弟子達の性格が躍動して居るばかりでなく、それらの人達に圍繞とりまかれながら嚴肅な死を死んで行つた芭蕉の姿が眼に見えるやうによくあらはれて居る。あの中には簡素な生活に甘んじて來た芭蕉が、弟子達のこゝろざしとあつて、皆の造つてすゝめた、『やはらかもの』の袖に手を通すところがある。あの中にはまた、病んだ芭蕉が弟子達に助けられて、日あたりの好い縁側にすべり出て、障子に飛びかふ蠅を眺めるさびしい光景が書いてある。

いづれにしても私は今まであまりに芭蕉といふ人を年寄扱ひにし過ぎて居たやうな氣がする。あまりに仙人扱ひにし過ぎて居たやうな氣もする。もつと血の氣の通かよつた人を見つけねばならない。そこからあの抑制した藝術を味ひ直して見ねば成らない。

この考へ方から行くと、私は芭蕉翁桃青といふ人の肖像をそんな枯淡なものでなくて、もつと別のものに描かれたのを見たい。假令道服に似たやうなものを着け、隱者のやうな頭巾を冠つて居ても、その人の頬は若々しく、その人の眼には青年のやうな輝きのある肖像として見たい。

『あら物ぐさの翁や。日頃は人の問ひくるもうるさく、人にもまみえじ、人をも招かじと、あまたたび心にちかふなれど、月の夜雪のあしたのみ友の慕はるゝもわりなしや。物をも言はず、獨り酒飮みて、心に問ひ心に語る。庵の戸押あけて雪をながめ、又は盃をとりて筆を染め筆を捨つ。あら物くるほしの翁や。』

『酒のめばいとゞ寢られぬ夜の雪』

と、芭蕉は自白して居る。

底本 / Source edition

底本:「飯倉だより」岩波文庫、岩波書店
1943(昭和18)年5月5日第1刷発行
1954(昭和29)年9月20日第5刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:小川幸子
校正:小林繁雄
2008年10月21日作成
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書誌 / Bibliography
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島崎 藤村「芭蕉」(旧字旧仮名)、底本『飯倉だより』岩波文庫、岩波書店、1943年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 049482_000158, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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