## 一

冒頭から自分のことを云ひだして恐縮であるが、拙作のなかで先づ〱そこばくの評判を克ち得たものは「寄席」と「円朝」とだらうが、近世話術文化の花であり、最高峰だつた三遊亭円朝は、落語家のなかでの温泉好きで、その著作中、温泉に取材したものには「<ruby><rb>熱海土産温泉利書</rb><rt>あたみみやげいでゆのききがき</rt></ruby>」と「<ruby><rb>敵討霞初島</rb><rt>かたきうちかすみのはつしま</rt></ruby>」とが熱海であり、「<ruby><rb>霧陰伊香保湯煙</rb><rt>きりがくれいかほのゆけむり</rt></ruby>」と「<ruby><rb>後開榛名梅ヶ香</rb><rt>おくれざきはるなのうめがか</rt></ruby>」「<ruby><rb>安中草三郎</rb><rt>あんなかさうざぶらう</rt></ruby>」が伊香保、モーパッサンの「父殺し」を翻案した「名人<ruby><rb>長二</rb><rt>ちやうじ</rt></ruby>」が湯河原であるが、例の「塩原多助」をかくときにはその出産地たる上州<ruby><rb>沼田</rb><rt>ぬまた</rt></ruby>へ実地踏査に赴き、奥日光から沼田へでる途中の、小川と云ふ温泉の、川原の野天風呂に浴したら、さも快よささうに蛇が一しよに温泉につかつてゐたので吃驚して湯から飛上がつたと云ふエピソードさへあり、

穴に<ruby><rb>入</rb><rt>い</rt></ruby>る<ruby><rb>仕度</rb><rt>したく</rt></ruby>か蛇の<ruby><rb>這廻</rb><rt>はひまは</rt></ruby>り

<ruby><rb>此</rb><rt>これ</rt></ruby>が、そのときの円朝の即興である。

明治九年八月末のことだからいまはその温泉の辺り、絶好なアベックのハイキングコースともなつてゐよう。

温泉と云へばかの明治の才人、<ruby><rb>成島柳北</rb><rt>なるしまりうほく</rt></ruby>も、この円朝門人三代目円生を<ruby><rb>伴</rb><rt>とも</rt></ruby>なつて、伊香保に遊んでゐる。

温泉で芸者をあげて遊ばうとして、円生が、

「年下の芸者はいくつ位だ」

と宿の女中に訊くと、

「四十ぐらゐです」

と云はれて愕くところが面白い。

年下が四十くらゐなら、年上は六、七十かと円生大いに愕くのであるが、なんの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">年下</span>ではなく、此は伊香保の方言で「年した」即ち年をした、年を<ruby><rb>老</rb><rt>と</rt></ruby>つたの意味だつたのである。

わかい<ruby><rb>妓</rb><rt>こ</rt></ruby>を二人招んで騒いでゐると、やがて対岸で<ruby><rb>竹法螺</rb><rt>たけぼら</rt></ruby>が鳴りだし、<ruby><rb>箱丁</rb><rt>はこや</rt></ruby>が芸者のお直しを交渉に来るのが道中往復に困難なため、いつも竹法螺を吹いて間に合はすのだと云ふ。百姓一揆ぢやあるまいし。いよ〱おもしろい。

同じく明治の文人で、根岸派の老匠<ruby><rb>竹廼家</rb><rt>たけのや</rt></ruby>主人（<ruby><rb>饗庭篁村</rb><rt>あいばくわうそん</rt></ruby>）にも、この円生の次の円生、やはり名人と云はれた四代目円生とどこかの温泉へでかけたユーモラスな紀行があるが、戦災で「篁村集」を焼いてしまつたため、こゝに御紹介できないのが残念である。

話術、漸く円熟の域に入つた当代の六代目、円生君も、しば〱往年の麗人<ruby><rb>常磐津式多津</rb><rt>ときはづしきたつ</rt></ruby>（いまの俗曲西川たつ子）君と小庵へ芸談にやつて来るが、縁なくして私は未だ円生君とどこの温泉へも行を共にしたことがなく、そのせゐか<ruby><rb>未</rb><rt>いま</rt></ruby>だに私は柳北や篁村の靴の紐を結ぶにも至つてゐない。（<ruby><rb>希</rb><rt>ねがは</rt></ruby>くは、雑誌「温泉」編集部諸大人、早々に円生君と私の対談会でも、どこかの温泉でおん催しあらんことを。呵々）

## 二

私のつたない小説「寄席」の中に主人公の<ruby><rb>今松</rb><rt>いままつ</rt></ruby>と云ふわかい落語家が、旅で御難をして熱海に温泉宿をしてゐるひゐき先をたよつて飛込む一節がある。

ところが訪ねて行くとこの土地では落語はダメだから講談をやれと云はれる。

本人も当惑したが、苦し紛れ、でたらめに人情ばなしを講談らしく仕立て直してお茶を濁さうと、とりあへず温泉へ汗をながしに行くと、四、五人のお客がゐてみなパリ〱の江戸つ子。

しかも、此がなか〱の講談通で、当代講談界の名人上手を月旦して、一々、その芸評がまた<ruby><rb>肯綮</rb><rt>こうけい</rt></ruby>に当つてゐる。

すつかりビックリしてしまつた今松は、今夜、自分を聴くお客の中にこんな大講談ファンがゐてはとてもいけないと恐る〱まかりでて正体を現し、落語家が誤魔化してやる講談ゆゑ「定めしお聴きにくからうが、あなた方にアクビなんかされた日にはそれこそお<ruby><rb>飯</rb><rt>まんま</rt></ruby>の喰上げですから、どうか人助けとおもつて耳をふさいで聴いてて下さい」

と折入つてたのみ込んだ。

義に強いは江戸つ子の常、万事、心得たとこの旦那たち、胸を叩いて引受けて呉れた上、

「今夜は何を演るつもりだね師匠」

と訊ねた。

で、

「<ruby><rb>文七元結</rb><rt>ぶんしちもつとひ</rt></ruby>を<ruby><rb>演</rb><rt>や</rt></ruby>るつもりで」

とオド〱今松が答へて引下がり、その晩、その温泉旅館の仮設の高座へ上がると、一ばん前にそのお客たちがゐて大喝采を浴びせて呉れたのち、

「先生、文七元結をたのむよ」

わざとひとりがかう云ふと、

「ウムこの先生の文七は<ruby><rb>巧</rb><rt>うめ</rt></ruby>えぜ」

また別のひとりが<ruby><rb>和</rb><rt>わ</rt></ruby>した。

落語家にとつて、かう客に先入観を与へて呉れるほど、喋りいいことはない。

今松、大いに感謝しながら長講熱演、するとまたその客が、

「オイ先生、じつによかつた、此は御祝儀だぜ」

とそのころは誰もがザラに懐中してゐた日本紙にお<ruby><rb>捻</rb><rt>ひね</rt></ruby>りを包んで、一ばん先にポーンと高座へ投げて呉れた。

云ふまでもなく、チップ。此に釣込まれて、甲も投げる。乙も投げる、丙も、丁も。かくて今松は、その晩、予想以上の多大の収入にありつけた。

此も偏に、あの講談通のお客の<ruby><rb>賜</rb><rt>たまもの</rt></ruby>といよ〱心から感泣して、そのお客の祝儀だけは開けても見ずに神棚へ、他の祝儀だけ計算すると廿余円もあつた。寄席の入場料が四銭だつた明治中世の、廿余円である。

嬉し欣んで最後に、神棚へ上げておいた紙包を下ろしてソーッと開けて見たら、なんと中には一銭も入つてゐずたゞ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">紙包みだけ</span>だつたと云ふ。

心憎いまで、およそ意気なお客のこのやり方、昔の東京人士で温泉の一つへもつからうと云ふ手合は、みなかうしたリファインされた市井文化人だつたのだ。

この話、私の創作ではなく正しく実話で、このあと、ほんたうの講談師がまん前の温泉旅館へ出演、つひに相方が一堂に会して<ruby><rb>競演</rb><rt>コンクール</rt></ruby>と云ふことになり、両方が魂を抜いて逃出してしまひ、また偶然、この二人が大磯の寄席で出会ふなどと云ふ、いよ〱愉快な結果となるのであるが、いまだから白状するが、此は私の師父で名人と呼ばれた先代三遊亭円馬が青春旅日記の一節なのだ。

時、明治三十三年八月十一日、前述した巨匠円朝逝いて、東海道を巡業中の円遊、むらく、<ruby><rb>橘之助</rb><rt>きつのすけ</rt></ruby>ら、<ruby><rb>花形</rb><rt>スター</rt></ruby>はみな興行を中止して帰京してしまつたため、あとへのこされた先代円馬（当時若手で立花家<ruby><rb>橘松</rb><rt>きつまつ</rt></ruby>）が旅中すつかり難渋してのこの奇喜劇ではあつたのである。

当代の古今亭志ん生君は、戦時中、独演会で小著「寄席」のこの一節を演じ、

「御難をして熱海の贔屓を頼つていく一節など如何にも実感があつて志ん生の自叙伝を聴く思ひがあつた」

と当時安藤鶴夫君から東京新聞紙上で激賞され、今夏、大岡龍男君と三人、座談会の砌りにも安藤君は未だこの出来栄をおぼえてゐられて、

「放送演芸会で志ん生に『<ruby><rb>唐茄子</rb><rt>たうなす</rt></ruby>屋』なんか卅分も演らせないで、なぜ『寄席』を演らせないんでせうねえ」

としみ〲云はれた。

## 三

訛りはあつたが、節廻しに些か哀調のあつた音曲師の<ruby><rb>文廼家</rb><rt>ふみのや</rt></ruby>かしくが北海道<ruby><rb>登別</rb><rt>のぼりべつ</rt></ruby>温泉の結構雄大に瞠目して、

「じつにすばらしい温泉ですね、此だけのお湯を涌かすのには、余つ程<ruby><rb>焚物</rb><rt>たきもの</rt></ruby>が<ruby><rb>要</rb><rt>い</rt></ruby>るでせうなあ」

と云つて笑はれたのは、落語界でも有名な一つばなし。

人気はなかつたが、江戸前の滑稽で、「のざらし」は柳好、柳枝より上位だつた柳亭燕路は、北国の某温泉へ巡業したとき、土地の芸者に見染められ、深更、酔払つてその芸者が宿の彼を呼出しに来たら、応待にでた一座のマネージャーが、

「かへれ〱、この一座には、貴様たち田舎芸者に買はれるやうなケチな芸人はひとりだつてゐないんだぞ」

と追返してしまつた。

翌朝、此を本人の燕路が知つて、いや、残念がるまいことか、胸中<ruby><rb>寔</rb><rt>こと</rt></ruby>に察するに余りあるが、その燕路は今夏<ruby><rb>不遇裡</rb><rt>ふぐうり</rt></ruby>に、かの歌笑と相前後して没し、かしくは郷里の<ruby><rb>野州</rb><rt>やしう</rt></ruby>へかへつて以来、消息を聞かず、おもひでは共に寂しい。

## 四

「<ruby><rb>藪原検校</rb><rt>やぶはらけんぎよう</rt></ruby>」「<ruby><rb>安政三組盃</rb><rt>あんせいみくみさかづき</rt></ruby>」「<ruby><rb>新蔵</rb><rt>しんざう</rt></ruby>兄弟」「鼠小僧」に抜群の冴えを見せた世話講談の妙手小金井<ruby><rb>芦洲</rb><rt>ろしう</rt></ruby>は、音に聞く大酒とづぼらで、いま落語界で名実共に第一人者たる桂文楽君が若手のじぶん、伊豆の温泉各地を興行するに際し、一座に加つて行つたが、芦洲先生、泊り〱の温泉宿で、毎晩、大いに飲ませては呉れるが、お給金を一銭も呉れない。

じつにどうも癪に障るが、その晩の芦洲の口演を、ヂッと楽屋で聴いてゐると、その描写の巧さ、義賊も侠客も<ruby><rb>御家人</rb><rt>ごけにん</rt></ruby>も<ruby><rb>美妓</rb><rt>びぎ</rt></ruby>もみな<ruby><rb>宛</rb><rt>さなが</rt></ruby>らの浮彫りで、つい給金を呉れない不平など忘れてしまふ。一座に中国人の手品師がゐたが、しまひにこの中国生れの手品師までが同じく感嘆此を久しうして、

「ジツニウマイ。ワタシ、コノヒト、給金イリマセン。温泉、オ酒、ソレデ沢山」

と絶讃したと云ふ。

## 五

私が未熟な落語家時代、一と夏、湯河原温泉へ興行にでかけた。

一座は、いまの円太郎、小せん、小半次と云つた名題の愚連隊揃ひ、川柳点に所謂「片棒をかつぐゆうべの<ruby><rb>鰒</rb><rt>ふぐ</rt></ruby>仲間」だから耐らない。宿へ着く、すぐ一杯やる。いい心持ちで散歩にでると、いまもあるだらうか、公園のそばの朱塗りの不動堂。一条の滝があつて、その茶店でまた<ruby><rb>麦酒</rb><rt>ビイル</rt></ruby>をひつかけてゐると、<ruby><rb>止</rb><rt>よ</rt></ruby>せばいいのに小せんが、でて来た大きな<ruby><rb>蟇蛙</rb><rt>がまがへる</rt></ruby>へ石をぶつけた。

その上、円太郎がシャー〱滝壺へ、酔余の放尿をした。

ところがやゝ経つて、ヒョイと不動の滝を見るとおどろいた、いまゝで清洌、玉のやうだつた滝の水が、忽ち無気味に赤ちやけた濁水と化してゐる。

何しろ不動祠畔の蟇へ石を投付けたその上に、そこの滝壺へ小便をしたと云ふのだから、神罰、<ruby><rb>忽所</rb><rt>たちどころ</rt></ruby>に至つて滝の水のいろが変つたとても仕方がない。

一同、麦酒の酔も醒果てゝ、やゝ暫くは呆々然としてゐたが、そのうち<ruby><rb>怖</rb><rt>こ</rt></ruby>は<ruby><rb>怖</rb><rt>ご</rt></ruby>は小半次が、

「ねえさん……あの……この滝の水……どうして……こんなに色が変つて……」

と茶屋の娘に訊ねたら、とたんに娘の答がいい。

「この滝、いま上の方で工事をしてるもンで、とき〲赤土がながれて来て色が変るんです」

長田幹彦出世作たる「旅役者」は、作者も亦旅役者の群れへ入つての体験と云ふが、私もこの湯河原の興行では、借りて来た馬車で太鼓を叩き〱町廻り、私自身、車上からビラを撒いた。

こんなことが後年、芸人物をかくのに、いか許りいい勉強となつたか、おもへばいまや廿年の昔。