Soranoha

役者の顔

やくしゃのかお

木村 荘八

羽左衛門を失ったことを転機として――戦争を転機としてと云えば早いが、それではニベも無い――俳優の「顔」も変ったと思います。「俳優」もここには主として歌舞伎(旧劇)畑を云いますが、「顔」を材料にとって述べれば、自然歌舞伎俳優が主となるのは定法でもありましょう。

羽左衛門は、思えば寂しい中で亡くなりました。羽左衛門の死については、文壇で云えば藤村がそうだったように、当時、戦雲の濃い中だったに拘らず、新聞の報道などに、さすがに大見出しで取扱われたものでした。――しかしこの名優の死は(日本の歌舞伎の歴史から云って)何と云っても慌だしかった戦雲の中で考えられるには過ぎた問題でした。例えばその「顔」だけの問題についても、われわれは再考三考すべき多くの材題をそこに持っているようです。

簡言すれば、戦争騒ぎのどさくさ最中に梨園のこの人を失ったことに依って、日本はその最後の前代遺産であった「俳優の顔」を、無くしたものではなかったでしょうか。――云う迄もなく梨園にはなお菊五郎、吉右衛門もいますし、幸四郎の長老も矍鑠としています。いわゆる「平馬へいま返り」ではないにしても、年八十を越えたこの老優が実盛物語の瀬尾で落入りにトンボを切る(でんぐる返しを打つ)のは、悲壮です。その他、近頃になって頓に、「宗十郎歌舞伎」などという存在の事々しく評家に取り上げられるのも、「顔」で云えばその宗十郎式マスクが少なくなったので、俄かにこと惜しまれる現象と考えられないことはない。偶々梅玉が東へ来ると、その玉手御前の﨟たけて色めいた「顔」は、それを人が初めて見たように、絶讃を浴びせました。

と云うのが、これを逆に云えば、羽左衛門、梅幸、松助、中車、源之助……達の揃っていた頃には、今月見なければ、来月狂言で珍しくもなく見られたわけで、ことさら珍重もしなかった、われわれの歌舞伎マスクが、順に一つ減り、二つ減りして、私の記憶で云えば、最後に橘屋が六段目の勘平を一幕出すという噂がありました。戦争のいつ頃でしたろうか。あの頃には、これは見ておかないとやがて「後悔する」と私など相当はっきりとそう考えたものです。

この旧梨園の引出物は噂だけで、当時事実とならずにしまい、剰さえ、橘屋その人が、やがて「橘屋」に似気ない山の中の温泉場で、亡くなって了ったのでした。

あの頃はしかし日本中メチャメチャの時でしたから、よしや重宝の橘屋の顔、橘屋の足が、視界から消滅しようとも、人はリュック・サック一つ落した程にも思わなかったかもしれません。四等国のあわれは、早くあの時既に兆していたわけでしょう。

その後、幸にして(?)国情平穏となり、殊に近頃では「大」東京に満足の小屋は二軒しか無いというに拘らず、カブキは旧に優る繁栄で続々と新人の台頭を迎えながら、二月(二三年)の若手競演カブキなどもなかなか熱と見栄えのあるものでしたし、三月新友右衛門の名びろめに出した扇屋熊谷の一役なども清新なものでした。

しかし――これは必ずしもカブキそのものがその自力で復興したとは云えず、幕内の興行政策に依るあやで、そうカブキが躍らされているところは多分にある。これを見逃しては「論」にはならないでしょうけれど――何にせよ「復興」して見ると? そこには歌舞伎マスクの足りないことは、却って目に余るものがあります。

今更のように見巧者が老残の人に走って、宗十郎カブキを伝承するのも、故あることとなります。

俳優の「顔」には「地顔」と云われたものがあって、今云う素顔ですが、昔の女形は、小屋へ入っても舞台へ立つ迄は相手の立役と顔を合せないようにしたものだと云います。色気が醒めては舞台の情合いがうつらないから、「楽屋」つまり地顔は、見せないようにしたと云う。名優柏筵の言葉として伝えられるものにも「地顔は悪ければ見せず、舞台にて日本全国人に見すべし」というのがあります。これは見識もさることながら、昔はこの「地顔」と「舞台顔」を分けること、それが却って「役者渡世」の定法だったものでしょう。

云うことをすぐ手前事の仕事へ引いて来るのはいけないかもしれませんが、絵の方で、仕事に習作・制作の区別を立てます。習作が先ず概して云う自然写生のもの、制作がそれから離れた画室仕事のわけで「習作は悪ければ見せず、制作にて日本全国人に見すべし」、云わばこの柏筵の信条とも見まがう言葉は、フランスのドラクロアの日記などに同じ意味を再三散見します。習作は決して手離してはいけない、手離すには、制作に代えてからでなければいけない、と云うなど。

更にこれも絵の方で云いなぞらえると、明治・大正からかけてこっちは、展覧会などに、習作つまり仕事の「地顔」をそのまま出陳する風が不思議でなくなって、「制作」の方は、特別のよそ行きのような感じになった傾向が、少なくないかもしれません。

絵の方は、それでも立ったかも知れませんが、俳優の地顔・舞台顔の混合にいたって、これには、どこ迄も確然と区別ありたきものです。地顔の、高がいわゆる「イイオトコ」位のことで、そのまま舞台に立たれた日には、劇は持ちません。映画の人がこれでよく「実演」というものを見せますが、実演という言葉からしていけない。劇は実は「実演」であってはいけないでしょう。ウソを演じて実以上に美化するものでなければ「芸」でないことは、申すまでもない。

「羽左衛門」を転機としてそれ以後の俳優の顔は、菊五郎・吉右衛門と雖も、その地顔と舞台顔とのひらきを短縮したものになって来ている。それが「近代」というものだと思います。――殊に現在のカブキ復興に際会してたてものとなっている若い俳優達の「顔」に至っては、例えば松緑の顔は、いわゆるメーキアップが何か不足?とも見えて、その地顔の佗びしい顴骨がいつも舞台で「美化」されていずに、狐忠信も、安宅関の富樫も、同じようなサラリーマン式の風貌に見えるし、梅幸の累は、与右衛門が塔婆を折ってから異相に変っても、その眼の上のあざが、顔に乗って見えません。

あざにしても、黒子にしても、云うまでもなく顔一杯の隈取りに至るまで、旧劇のメーキアップは、この乗るか外るかが「舞台顔」には、身性のわけで、最近知盛が二つ出ましたが、演ることは大体そつが無いとしても、染五郎の碇知盛は矢張りその「顔」に隈取りがしっくり嵌っていない為に、悲壮なる可き筈の英雄の最後が、疲れ果てた老人の断末魔のように、妙に「実感的」に見えたことを否めません。さすがに菊五郎の知盛の大隈取りは、その顔のわくにぴったりと嵌って、白装束や薙刀も生きた、舞台一杯のものでした。

「顔」も無論平素のその人の生活から陶冶されてその骨相の出て来るものと思います。これも柏筵の言葉に「役者は人間の見せものなれば成るたけ身綺麗にするがよし」夏は絽の頭巾を放さないのが良い、と云ったとあります。「絽の頭巾」までのことは当代、無いとしても、一頃それがはやったような、成るたけ役者も平素の起居動作を書生流にするなどということは、どうかと思われます。

しかも今では、平素の起居動作を書生流にすることが、却って近代俳優の定めになっているものではないでしょうか。――「人」の一般としては役者世界に余り役者が傾くより書生流が当世かもしれないにしても、六代目さえ、その「顔」を五代目のイキから全然変えて「当世紳士」のつまり地顔仕立てに訓練陶冶したものは、鉄砲撃ちをしたり、当時一家の彦三郎は、時計に日常生活を打込んでその向きから表彰されたことなどありました。果してそれが俳優生活としてのどこ迄の得分だったでしょう。

そういう「近代」が、――生活の生地が――名人六代目菊五郎をさえ齲むしばんでいないとは云えないと思います。俳優は「近代」ならざるが良い、当世向きでない方が良いという意味ではないにしても、吉右衛門はその近代的神経性に駆られてあたら「顔」を小ずませたものが無いとは云えない。その前時代の吉右衛門型であった「中車」の顔は、同じくその骨相は気骨稜々としたものだったにしても、地顔の神経っぽさは無く、舞台顔へすっと抜けていたものです。

六代目の姉輪平次は、その五彩豊かな隈取りの顔の中で、しかも、一人々々の扇の折子をつかまえて乳房を調べる件り、「ウム、女だ、女だ」のところで、その顔の表情に満々と「助平」を現して見せますが、カブキの顔の隈取りの中でこれだけ表情の表現を企てる行き方は、この辺に菊五郎カブキと云われるものの一端があるのではないかと思いました。

表情を表現することは或いは地顔並みの俳優にも行くことかもしれませんが、元来隈取りのしっくりとは乗らない未開墾未訓練の「顔」を以ってして、そのカブキ隈の中で、云い代えればカブキ芸の中で、六代目的近代カブキの表現を直ぐ様行おうとすれば、そこに無理を伴うこと、少なくないでしょう。染五郎の知盛の悲痛が理に落ちて末路惨憺となり過ぎたのも、そういう為ではなかったかと思う。

これは素人眼の云い方ですから、間違っていれば取り消しとしますが、染五郎の碇知盛の隈は、脳天の青黛からかけて、眉毛の黒が薄過ぎたように思います。殊に今の舞台の照明度は相当明るいから、随分思い切った色目の隈取りでないと、飛ぶものではないでしょうか。

しかしその強い色度の隈取りを顔にしっくりと乗せようが為には、そこで地顔を舞台顔へと判然区別しなければならぬ、あきらかに一つの芸――「芸」の発端がここから初まると思われます。地顔のイイオトコ位の材料を後生大切にして舞台へ出発した日には、聞違いが起るだろう。

昔の団十郎と云ったような人の顔立ちを見ると、その眼と云い、口と云い、断えざる陶冶訓練の為に、地顔は殆ど「奇形」と云わんばかり、世の常ならぬ相貌となっています。これは半ば天性もあるのでしょうが、「奇形」変貌の大半は、後天的操作に依るところと思います。

古い俳優――古名優――では、私は親しくは源之助と羽左衛門とに、何回か互の間三尺とは隔てずに対座した経験を持っていますが、源之助の切れの長い眼の美しさなどは妙な云い方ながらそのまま「絵」のようなものでしたし、羽左衛門の顔の「皮膚」総体の美しさは! 或る時は或る小座敷に新派の河合と羽左衛門と並んだ場合に見て、訓練はこれ程のものかと驚いたこともあります。新派切っての立女形の河合も、橘屋と並ぶと、素人と玄人程に離れて見えました。――昔の俳優の生活日常では、それ程、舞台顔がむしろ地顔へと燻染していたものと見えます。

広太郎改め友右衛門の戻り籠の禿は、――この人は地顔の眼の小ささがそのまま舞台顔へ乗って、冴えません――切角の廓話しの禿が、何所か多分鬘の操作がわるい為でしょう、後頭部の生えぎわからかけて横向きの頭部に「女」になっていない、地あたまの、男の苅り上げが覗きました。

カブキは古くあれと云う意味で云っているのではありません。舞台の顔は平素の顔とは別であれということを云っているので、この「芸」の条件は、古今変らぬと思います。そして訓練に訓練を重ねられた昔の俳優の「顔」には、さすがに世の常ならぬ、そこに「歌舞伎国」の面相を現したものが多かったと、この意味では、今人よりも古人を偲ぶこととなります。団蔵と云ったような人の顔は、その舞台顔だけへ精魂の籠った、そのままの「芸術品」と呼ぶべきものでしたろう。太十の夕顔棚のくだり「現れ出でたる」などは、あの蟹のようだった武智光秀の面相が、笹を押しわけて、そこへ湧き出したように大きく、すごかったことをおぼえて居ります。

三月の扇屋熊谷で、幸四郎の熊谷が編笠深々と出で立つのを見ると、さすがにこの舞台姿は、そのいなりのままで既に獲易からざる眼福なることを思います。とどこの熊谷は、姉輪に迫られて,堂々たる名乗りと共に、舞台正面を切って、その深編笠をとります。

私は前にもこの扇屋熊谷をこの人で見たことがあります。

久しぶりの今年の四の党の旗頭は、なんと、年経ったことでしょう。――幸四郎あたりは、云うまでもなく、その「舞台顔」の成り立った人でしたが、さりながら、老いたと思いました。その老いて全く別人のように変った「顔」を熊谷の次郎が編笠を取って見せた時に、カブキ世界の時代は、はっきり代った――代らざるを得ない――と私はひしと思いました。

底本 / Source edition

底本:「日本の名随筆40 顔」作品社
1986(昭和61)年2月25日第1刷発行
1997(平成9)年5月20日第12刷発行
底本の親本:「木村荘八全集 第六巻」講談社
1982(昭和57)年7月
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2008年12月12日作成
青空文庫作成ファイル:
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木村 荘八「役者の顔」(新字新仮名)、底本『日本の名随筆40 顔』作品社、1986年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 049300_001312, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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