高原から下りた処には、両岸から絶壁が迫つて、綺麗な谷川が流れて居た。

朝から晴れたり曇つたりして居た。時には雨も来た。日影を受けながらサツと降つて通る気まぐれな雨、谷川の橋を渡る時には、私は<ruby><rb>蝙蝠</rb><rt>かうもり</rt></ruby>傘をさして居たと記憶して居る。

胸を突くやうな坂、雨と霧とに滑る山路、雑草の中には大きな山百合が<ruby><rb>俛首</rb><rt>うなだ</rt></ruby>れて咲いて居た。霧の間から見えて隠れる木立の幹はあたりを何処となく深山らしく見せた。

若い私の体には元気が充ちて居た。十二三里を歩くのは、さう大したことには思つて居なかつた。草津から伊香保まで。其間を一日に歩くつもりで、今朝早く草津の旅宿を発つて来た。<ruby><rb>暮阪</rb><rt>くれさか</rt></ruby>の峠の上には、瀟洒な茶店があつて、其処では老婆がラムネを冷たい水に浸して客を待つて居た。<ruby><rb>吾妻</rb><rt>あがつま</rt></ruby>川の渓は狭く前に展けて、特立した岩山が面白い形をして其所に聳えて居た。

山は少くとも其谷を面白く見せた。霧が晴れたり懸つたりして、時にはその一端が日に照されて美しく輝きわたつた。峠から下りて行く路は、其の岩山の麓をぐるりと廻つて、<ruby><rb>沢渡</rb><rt>さはたり</rt></ruby>の温泉の方へ出て行くやうになつてゐる。

不思議にも其岩山は今に至るまで、私の頭に<ruby><rb>分明</rb><rt>はつきり</rt></ruby>と印象されて残つて居る。私は其山について、いろ〱な想像を逞うした。その山を題材にして小説を書いたこともあれば、若い空想を駆つて其の麓に若い男女と老いた夫婦とを置いて見たこともある。こんもりと影の濃い緑の深い岩山、それに狭められて二筋にわかれて行く渓流、私は何処に行つてもすぐそれを思ひ出した。

谷の開けて行く岸に沿うて、二階家、欄干、家毎にある温泉宿の古い看板などを持つた狭い村落が其前に開けた。家と家との間からは、<ruby><rb>浴衣</rb><rt>ゆかた</rt></ruby>を着た人達が出て来た。

こゝから一支流を併せて、吾妻川の谷は段々と開けて行つた。<ruby><rb>玉蜀黍</rb><rt>たうもろこし</rt></ruby>の畑が路傍に広く現はれるやうになつて来た。岸の<ruby><rb>淡竹</rb><rt>はちく</rt></ruby>の藪の向ふには、水が青く淵をたゝへて、筏が絵のやうに静かに滑つて行つた。顧みると、草津の方は雲が深く鎖して、其の面白い山が僅かに半面を見せて居るばかりである。

翠微を出てから、暑さは加つて来た。畑の色も暑ければ、茅葺藁葺の家も暑い、<ruby><rb>緩</rb><rt>ゆる</rt></ruby>やかになつた川はもう興味を惹くやうなところもなかつた。<ruby><rb>中条</rb><rt>なかのでう</rt></ruby>の町はこの暑い平凡な空気の中に古びた板葺茅葺の屋根を見せて居た。

五<ruby><rb>町田</rb><rt>ちやうだ</rt></ruby>の<ruby><rb>渡船</rb><rt>わたし</rt></ruby>はそれでも風景に富んで居た。水は余りに長い平凡に堪へないといふやうに、一ところ凄じい勢をなして流れた。渡船小屋は疎らな林の縁にあつて、此方から呼ぶと、<ruby><rb>爺</rb><rt>ぢゞい</rt></ruby>が声に応じて出て来た。舟は渦を衝いて凄じく流れる。それを爺は巧に棹に<ruby><rb>撑</rb><rt>さゝ</rt></ruby>へて、岸へ〱と近寄つて来る。

『伊香保へは二里ぢや』

ぶつきら棒に言つて、額ににじんだ汗を拭いた。

それは草藪から草藪へと続くやうな路であつた。萱や<ruby><rb>薄</rb><rt>すゝき</rt></ruby>が人の肩も見えぬばかりに生ひ茂つて、をり〱見る一軒屋には、<ruby><rb>桔槹</rb><rt>はねつるべ</rt></ruby>が高くかゝつて、<ruby><rb>甜瓜</rb><rt>まくわうり</rt></ruby>が<ruby><rb>黄</rb><rt>きい</rt></ruby>ろく熟してゐた。

鈴虫が頻りに啼いた。

午後四時過の日影は谷に添つて曲つて行く草原路をまともに照した。周囲の山はもう余程趣をかへて居た。草山でなければ、疎らな灌木の林が山を蔽つて居た。谷は暑い日影に全く渇したものゝやうで些やかな水声をさへ立てなかつた。私は涼しい木蔭と水声とにあくがれながら歩いて行つた。

山に凭り渓に架した伊香保の人家が、蜃気楼のやうに向ふに見えた時には、私は思はず<ruby><rb>喜悦</rb><rt>よろこび</rt></ruby>の声を挙げた。