Soranoha

卓上語

たくじょうご

田山 花袋、田山 録弥

心の手綱一たび弛めば、竟にはその身を亡ぼすに至る。これは普通誰も言ふことだが、作者の側にもそれを移して来ることが出来る。心に拠るものにして怪奇、荒誕に落ちざるものは稀である、怪奇、荒誕に落ちたるものにして猶まことの心を把持することは難い、心は縁り易くして達し難いものであることを知らなければならない。

心の偏つたのを何によつて牽制すべき? 曰く恋、曰く金、曰く物質、曰く平凡なる日常生活、由来物質と心とは相拠り相生ず、その一を欠くべからず。

心に捉へられたものは、一刻も早くそこから出て来ることを考へなければならない。何故なら、そこは大抵は天才の落ちて行く穽であるからである。

由来天才は浪費し、憧憬し、朶頤し、空想を食物にし、実を失つてその実を失へるを知らず、虚偽に住してその虚偽にあるを知らず、地獄に堕することを喜び、暗黒にあることを好み、戦慄し、分裂し、影なきに影を見、姿なきに姿を見る。竟に身を亡ぼすに至るを知らず、危いかな。

右するを右せしめず、左するを左せしめず、常にあるところに心を駐めしむるは難いかなと古人も言つてゐる。それも自分を守るだけの意味に於てなら出来ないこともあるまいが、それを時代の雰囲気の中に、他の雑々紛々の中に混じて乱れないといふことは容易なことではない。

行春や鳥啼き魚の眼は涙――これは『奥の細道』の初めにある芭蕉の句だが、鳥啼きまでは誰にでも出来るが、魚の目は涙は、とても及ぶところでない。盤台の上にある魚の眼の悲しさが歴々と眼の前に浮かんで来る。

『風流の初めや奥の田植歌』これも本当のことが近頃やつとわかつて来た。白河の関を越して、始めて芭蕉は行旅の辛さと楽しさと悲しさとをひしとその身に感じたのである。

心はそのまゝあらはせるものではない。あらはし得たと手軽に思ふほどのものは必ずひとり合点である。あゝでもない、かうでもない、かうしたら気分があらはせるか、あゝしたら空気が出るか、誰でも皆さういふ風にその表現に苦しむものである。だからそれを味はふものが簡単に味はひ得たと思ふのも、矢張りそれは多くはひとり合点にとゞまる。深い複雑な心の表現になればなるほど、此方からも深い複雑を持つて行つて合せなければ、容易にその扉がひらかれて来るものではない。

年を取ると、心の持方が道話めいて来る。トルストイのやうな大きな心でさへさうであつた。私は何うかしてさうありたくないと思ふ。過ぎて来た恋や、愛や、接吻や、抱擁や、または世間や、功名や、争闘や、さういふものを物の上にあらはされた模様のやうに、または童話の世界にでもあつたもののやうに思ふくらゐのところにとどめて置きたいと思ふ。児童に対してもイリユウジヨンを浮ばせるやうに話してきかせるぐらゐにして置きたいと思ふ。クロイツエル・ソナタは少し難かしい爺過ぎる。

多くの人は生活に当面して、始めて其の本当の価値を暴露し来る。

しかしそれは成功とか不成功とか、または金を儲けたとか儲けないとか、事務的だとか事務的でないとかいふことでは無論ない。不成功でも意味の深い生活であることがあるし、儲けても全く価値のない生活であることがある。或は生活のために其の心圧迫せられ、或は生活の為にその勇気沮喪す。共に真に生活したものとはいふことが出来ない。

底本 / Source edition

底本:「定本 花袋全集 第二十三巻」臨川書店
1995(平成7)年3月10日発行
底本の親本:「花袋随筆」博文館
1928(昭和3)年5月30日
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:津村田悟
2021年12月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

この表示について / About this rendering

記録は下にリンクした署名済みの TEI ファイルです。このページはそれを読むための一つの形です。読みが複数ある箇所は一つだけを本文に示し、もう一方は語の title に残しています。 / The record is the signed TEI file linked below. This page is one way of reading it. Where the text has more than one reading, the page shows one of them and keeps the other on the word itself, in its title text.

リリース / Release
913b24012e1626b47bebf5a14fd31773728229efdb088f1ceb934717c1ac800c
TEI
/works/048911_000214/tei
プレーンテキスト / Plain text
/works/048911_000214/plaintext
書誌 / Bibliography
/works/048911_000214/

田山 花袋、田山 録弥「卓上語」(新字旧仮名)、底本『定本 花袋全集 第二十三巻』臨川書店、1995年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 048911_000214, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

引用のしかた / How to cite