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        <title type="main" xml:lang="ja">作者の言葉</title>
        <title type="reading" xml:lang="ja-Hira">さくしゃのことば</title>
        <author><persName xml:lang="ja"><surname>田山</surname><forename>花袋</forename><idno type="aozora-person-id">000214</idno></persName><persName xml:lang="ja-Hira"><surname>たやま</surname><forename>かたい</forename></persName><persName xml:lang="ja-Latn"><surname>Tayama</surname><forename>Katai</forename></persName></author>
        <author><persName xml:lang="ja"><surname>田山</surname><forename>録弥</forename><idno type="aozora-person-id">001416</idno></persName><persName xml:lang="ja-Hira"><surname>たやま</surname><forename>ろくや</forename></persName><persName xml:lang="ja-Latn"><surname>Tayama</surname><forename>Rokuya</forename></persName></author>
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        <bibl><title>定本　花袋全集　第二十四巻</title><publisher>臨川書店</publisher><date>1995（平成7）年4月10日</date><note type="input-edition">1995（平成7）年4月10日</note><note type="proof-edition">1995（平成7）年4月10日</note></bibl>
        <bibl type="first-publication">「読売新聞　第一六九二六号、第一六九二七号、第一六九二九号」1924（大正13）年5月3日、4日、6日</bibl>
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      <refsDecl xml:id="source-spans"><p>A note of type source-span has an xml:id of the form source-START-END, giving the extent in UTF-8 bytes of the decoded primary text identified in sourceDesc. <ptr target="https://w3id.org/soranoha/ns/tei"/></p></refsDecl>
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      <p>『矢張、自分で面白いと思ふやうなものでなくつては駄目だね。いくら書いたツて、またいくら世の中に本を出したツて、それが自分でつまらないやうなものでは？』それはさういふ心持は、筆を執るものの誰でも持つてゐるものであらうと思ふが、しかもそれがいろいろな欲望と言つたやうなもののために蔽はれて、いつかその心持の失はれて行くのをすら何うすることも出来ないやうなことを私は度々経験した。そしてさうした場合ほど作者に取つて暗い暗い心持を味はせられる時はなかつた。私はいつも深い溜息をついた。</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-972-1320">――何うかして本当のものを書きたい――かういふ言葉は、私が最初に筆を執り出した頃から常に頭に往来してゐるものであるが、今になつても、その願望の少しも変らないのを私は不思議にした。今だに私はその本当のものをつかむことが出来ずに、常に</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-1320-1344"><rb>懊悩</rb><rt>おうのう</rt></ruby>してゐるもののひとりであつた。所謂経験などをいくら重ねても、それは少しも役に立たずに相変らず暗中模索をやつてゐるもののひとりであつた。否、今度こそ本当につかんだと思つたものすらも、忽ち指の間からつるりと滑り落ちて行つて、再び五里霧中に彷徨してゐるもののひとりではなかつたか。『難かしいね？　書くといふことは？』かう私は言はずにはゐられなかつた。</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-1862-1935">心を起せ――私はその度毎にかう自分に言つた。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-1935-2187">トルストイの心の煩悶といふやうなものをロマン・ロオランは書いてゐるが、ああした心の消長は、筆を取るものの誰にでもあるものではあるまいか。高く揚つたりまた低く沈んだり、</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-2187-2211"><rb>振蕩</rb><rt>しんたう</rt></ruby><seg source="#source-2211-2346">するやうな時があつたり、萎縮して了ふやうな時が来たりして、もはや火もなくなつた、もはや全く</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-2346-2370"><rb>灰燼</rb><rt>かいじん</rt></ruby><seg source="#source-2370-2587">になつた、さう思つてゐた心の場所から、忽ち山風にあほり立てられるやうに、すさまじく燃え出して来る火の鮮かさを私は何とも言はれない心持で眺めた。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-2587-3716">写実といふ火も燃えるだらう。印象といふ焔も揚がるだらう。色彩や、塗抹や、象徴や、立体や、表現や、さういふさまざまの火もいろいろな特色をもつて燃え上るであらう。しかしさうしたものは、一度は燃えても長くは続かないだらう。ぢきに燃え草がなくなつて了ふだらう。生命の油が尽きて了うだらう。燃えないものを燃えさせやうとする空な努力を繰返すだらう。そして空虚と虚無とが心の場所を占領するだらう。そして多くの作者はそこで根気も力も何も彼も失つて了ふだらう。唯、トルストイのやうなああした真面目な本当な作者だけが、その最後の鮮かな火を燃やすことが出来るだらう。唯、芭蕉のやうなああした本当な心持だけが、林の中の火のやうなさびしい火を燃やすことが出来るであらう。又唯あの西鶴のやうな皮肉なさびしい心持だけが、男と女の胸に燃え上る本当の火を燃やすことが出来るであらう。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-3716-3931">作は常にお話風であることを恐れる。世間並であることを恐れる。抽象された形になることを恐れる。いつも溌溂とした生気を持してゐなければならない。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-3931-4139">従つてすぐれた作は疲れた体や心からは生れて来ない。疲れたら私達は休まなければならない。倦んだら、私達は一先づ筆を擱かなければならない。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-4139-4326">創造といふことは、燃焼することである。従つて、創造し終つたものには、私達は思ひを残す必要がない。振返つて見る必要がない。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-4326-4679">外国の作品――それにはいいものもあらうけれども、第二義的作品の多いことを私は今にして思ふ。外国にも矢張通俗小説が多い。小説として拵へたものが多い。本当なものは割合に少い。今まで読んだものの十に八九は、半ば通俗であつたやうに思はれる。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-4679-5172">スケイルの大きいことなどは私は決して羨ましいとは思はない。また、思想がその中に巧に含ませられてあるといふことなども及び難いとは思はない。社会に触れるといふことも、本当に触れてゐるのなら好いが、触れなければならないからと言つて、抽象的に触れて行つたやうなのは私は取らない。イブセンなどもさうした意味で、半分以上私は共鳴しない。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">ドストイエフスキイのものなどでも、『カラマゾフ兄弟』よりも『死人の家の記録』などの方が私には好い。</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-5324-6304">人生に深く浸つて、経験を沢山積めば、大きなもの、すぐれたものが出来るやうに誰も言ふけれども、私にはさうは思はれない。また私の実際の状態から言つてもさうではなかつた。人生に深く浸るといふことは、経験を沢山に積むといふことは――更に言ひ換へて、人生を知識的に知るといふことは、それは決して創造的、燃焼的でないばかりでなく、むしろその反対に、その作者の心境を抽象的にして了ふといふことであつた。作者に取つては、知るといふことよりも感ずるといふことが最も大切な基礎になるのである。何だかわからないが、ちよつと触つて見たといふほどのところ、そこに言ふに言はれない機微はあるのである。妙境があるのである。芸術の三昧境があるのである。第一義的の躍動があるのである。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-6304-6478">従つて作者が老いて硬化するのは、その知識やその理解やその経験の堆積のためだといふことが出来る。また、さうした人生の</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-6478-6493"><rb>滓</rb><rt>かす</rt></ruby><seg source="#source-6493-6812">が体と心とに一杯につまつてゐるがために、其書くものがいつも生々躍動の趣を失つて、常に抽象的になつて行くのであるといふことが出来る。作者はむしろさうした無駄な人生の滓を常に体外に排出しなければならないのであつた。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-6812-7567">張り詰めた心を持してゐなければ、兎角妥協的になつて行く恐れがある。妥協的になつて行くといふことは、その心なり体なりが社会に蔽はれて行く形である。自己が社会の中に埋られて行つて了ふ形である。それでは社会に対して批判の斧を振ふことが出来ないばかりでなく、また社会に対して本当に共鳴を感じて行くことが出来ないばかりでなく、その生活してゐる社会の善い悪るいに対してすら全く盲目になつて了はなければならなくなる。さういふ萎縮した心持では、とても社会にまたは自己に徹した作品を孕むことは出来ないと私は思つてゐる。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-7567-9119">無論、社会と自己とでは、一にして二ならずといふやうな融合方式で深く細かに雑り合つてゐるものである。自分と他人とが別々でゐて、そして何処かで雑り合つてゐるやうに、または何処までが社会で何処までが自分だか容易に区別がつかないといふやうに。だから、いくらすぐれた作者でも、社会が完全にそれを認めて呉れない中は、その持つてゐるものを十分に出すことが出来ないやうなところがある。現に私などを例に取つても、世間に多少でも認められてから、張り合が出て来て、更に一生懸命になつたといふ形があつた。これに由つても、社会といふものが個人に対して有機的に、微妙に雑り合つてゐるといふことは素より言ふを俟たないことであるのがわかる。唯、私は作者として、その中に埋却されずに、幾分なりともその上に立つてゐたいと思つてゐるのである。社会といふものの時には硬化し時には軟化するのをじつと見てゐたいと思つてゐるのである。否、場所に由つては、熱情的にぴたりとそれに触れて行きたいと思つてゐるのである。見やうに由つては、芭蕉のやうなああした心持の中にも、元禄の社会がはつきりとあらはれて来てゐるのであるから。其角以上に、西鶴以上にあらはれて来てゐるのであるから――。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-9119-10673">私のやうなものでも、明治大正の社会に常に細かい接触を保つて来てゐるつもりである。政治などを時には馬鹿にして来たやうなこともないではなかつたけれども、しかも、その馬鹿にして来たといふことが、反感を持つて来たといふことが、実はその細かい接触を語つてゐることになつてゐるのである。社会に触れるといふ形に於て日本の作者や作品が微温的であるといふことは、それは或は言はれ得るかも知れないけれども、しかも決して没交渉に眼を塞いで来てゐるとは私は思つてゐない。私のやうなものでも、絶えずその社会に影響されつつ動いて来てゐる。また絶えず世間といふものを批判しつつ進んで来てゐる。物質に脅かされるばかりでなく、社会にも世間にも脅かされたりあまやかされたりしてやつて来てゐる。一刻だつて、社会と世間が私の体の中に流れてゐないことはない。唯、社会と世間とに全く蔽はれていつか世間並になつて了ふことを恐れるのである。卑屈なあきらめと低級な同化作用とに伴なはれて無間地獄に墜ちて了ふことを恐れるのである。何故と言ふのに、私のやうなものでも、時には社会乃至世間を好くするための戦士として進んで陣頭に立つほどの情熱をも常に胸底に蔵してゐたいと思つてゐるからである。</seg></p>
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        <note type="source-attribution" source="#source-10681-11032"><seg type="source-line">底本：「定本　花袋全集　第二十四巻」臨川書店</seg><lb/><seg type="source-line" style="padding-inline-start: 3em">1995（平成7）年4月10日発行</seg><lb/><seg type="source-line">底本の親本：「夜坐」金星堂</seg><lb/><seg type="source-line" style="padding-inline-start: 3em">1925（大正14）年6月20日</seg><lb/><seg type="source-line">初出：「読売新聞　第一六九二六号、第一六九二七号、第一六九二九号」</seg><lb/><seg type="source-line" style="padding-inline-start: 3em">1924（大正13）年5月3日、4日、6日</seg></note>
        <note type="transcriber-note" source="#source-11032-11375"><seg type="source-line">入力：特定非営利活動法人はるかぜ</seg><lb/><seg type="source-line">校正：hitsuji</seg><lb/><seg type="source-line">2021年7月27日作成</seg><lb/><seg type="source-line">青空文庫作成ファイル：</seg><lb/><seg type="source-line">このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫（https://www.aozora.gr.jp/）で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。</seg></note>
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