その時丁度午飯のあと片附をすませた妻は、私達の傍を通つて、そのまゝ居間の方へと行つた。私は男の子供達に英語を教へながら、裏庭の深い緑葉を透してさし込んで来る暑い夏の日影を眺めた。庭にはゑぞ菊の毒々しく赤いのが日に照らされてゐるのが見えた。

妻の入つて行つた居間の方にも、表の方に面して樹木の多い庭が凉しく開かれてあるのであつた。そこには娘や幼い子供達が寝そべつたり何かしてゐるのであつたが、不図、誰か見馴れない闖入者でもやつてでも来たやうに、何となくあたり物騒がしい気勢がして、一番小さい女の児は、やがてばたばたと此方へ逃げて来た。

『おや、まア、めづらしい！』

つゞいてかう<ruby><rb>吃驚</rb><rt>びつくり</rt></ruby>するやうな妻の声がきこえた。

滅多にきたことのない客のやつて来たことが、此方にゐる私にもそれとはつきり飲込めた。『まア、何うぞ、あちらに。此処はひどう御座いますから……何うぞ』かう言つて妻が頻りに客を座敷の方に請じやうとしてゐるのがきこえた。しかも客はそれを遠慮してか、それともまた、滅多にはやつて来なくとも、ずかと居間に入つて来ても差支ない親しい身であるのを示さうとしてか、容易に座敷の方へ行かうとしないやうな<ruby><rb>気勢</rb><rt>けはひ</rt></ruby>を私は耳にした。

『誰だらう？』

かう私は思つた。

しかも、妻が頻りに、それでなくては挨拶が出来ないといふやうに、堅く執つて放さなかつたので、客も為方がないといふやうに、『さうですか、それぢや御免を蒙りませうかね』かう言つて、立つて座敷の方へ案内されて行つた。

私にはその客の誰であるかが、まだはつきりわからなかつた。

妻はやがて此方にやつて来た。

『誰？』

『お時さんですよ』

『お時？　それはめづらしいな……一人かえ？』

『九歳位の女の児をつれていらつしやつた――』

『ふむ、それはめづらしい……。何年振だかわからない。何うした風の吹き廻しかな？　今、此処をすますと、すぐ行くから』かう言つて、私は子供達に教へてゐた英語を早く、成るたけ早くすませるやうにした。

妻が茶や、菓子を運んで行つたあとから、私も入つた。

『やア』

『まア、をぢさん！』

互ひに探すやうに、または互ひに互ひの間に過ぎ去つた時をじつと見詰めるやうに、さう言つたきりで、暫しは何をも言はなかつた。私は私の胸に今日まではつきりと印象されて残つてゐる若い姪の代りに、既に老いた、<ruby><rb>白髪</rb><rt>しらが</rt></ruby>のいくらか交つてゐる、小さな庇髪に結つた、色の黒い主婦を発見した。伴れて来た女の児は、メリンスの派手な着物に紋羽二重の扱帯をしめて、可愛い顔をしてゐた。

『よく来たね……。お前が来やうとは思はなかつた……それにしても、もう、何年逢はないだらう？』

『さうですね。もう十年以上お目にかゝりませんね。同じ東京にゐるんだからと、いつも思はないことはないんですけれども、貧乏ひまなしで、それに、子供が大勢をりますからね。ちよつと出るにも、中々出られやしませんからね』

それでも、その額のあたりに、昔のなつかしさがまだ微かに残つてゐるのを私は見出さないわけに行かなかつた。それは丁度美しい画か何かが時を経て、微かになつて行つたかのやうに――

そこにはあらゆる苦労が、あらゆる艱難が、あらゆる不如意がそれとはつきりと印せられてあつた。通つて来た長い間の人生のあとが、眉にも、額にも、髪にも、姿にも<ruby><rb>歴々</rb><rt>あり〱</rt></ruby>とあらはれて見えた。私は悲しい気がした。

『子供は、この児の下がまだあるのかね？』

かう私が訊くと、

『いゝえ……この間まであつたんですけれどもね。亡くしましてね。今はこれが一番末なんです……』

『いつお亡くしになりましたの？』傍に坐つてゐた妻はかう口を<ruby><rb>挿</rb><rt>い</rt></ruby>れた。

『この四月ですの……それに、これとその亡くなつた子の間には、八年、間があつて出来た子なんですから、何だか、手持無沙汰で、忘れられなくつて困つてゐますよ。時々<ruby><rb>襁褓</rb><rt>おむつ</rt></ruby>なんか出して、泣いたり何かしてゐるんですよ』

『何うしても、年を取つてから子に別れるのは、辛いツて申しますね。忘れられなくつて困るツて申しますね』

『本当ですよ』

今でもその子のことが脈々と思ひ出されて来るらしく、その大きな黒い眼に微かに涙が滲み出して来るのを私は見た。

多情多感なかの女！　若い時には、その黒い美しい眼に滲み出して来る涙が何んなに美しかつたであらうか。またその涙の伝つて落ちる頬の色がいかに美しくいかに豊かであつたであらうか。恋にあこがれ、ロオマンスにあこがれ、また人生にあこがれたその女の心は、今も猶さうした亡くなつた子の悲哀に微かに震へてゐるのであつた。

『子供は、肉身の関係だからね。どうも為方がないよ』

こんなことを私は言つて見た。

すぐ言葉をついで、『それにしても、今日はめづらしいね……何処かに<ruby><rb>次手</rb><rt>ついで</rt></ruby>でもあつたのかえ？』

『引越して来たもんですからね、今度近くに――』

『何処に？』

『東大久保に……』

『ほ、それは近い……。元のところはいけないのかえ？』

『いゝえ、いゝんですけれども、何うしても立つて呉れツて言ふもんですから……。今のところだつて好い家ぢやないんですけども……もう一度引越さなければならないんですけども……』ちよつと考へて、『今日は何だか急に、新町のをぢいさんのところに来たくなつたもんだから、それで出かけて来ましたんですけどもね――』

『ぢや、寄つて来たのかえ？　新町へ？』

『え……』

『をぢいさん弱つてゐたらう。もう、今度は駄目かも知れない……』

『さうですね……。なつかしいと思つて、たまに来て見ると、もう、あゝ、なつてゐるんですからね。もう八十四ですつてね？』

『あの伯父が、僕達の家族の周囲では、一番長命なんだ……。いや、僕等の家族ばかりではない、すべてに於て、最後まで残された昔の人だ。あの伯父が死んで了へば、もう昔は、お維新前の空気はすつかり亡くなつて了ふんだ。あの岡田のあとの話をきいたかえ？』

『もう、あそこの旦那もなくなつて了つたんですつてね。あの旦那が亡くなつたことも、屹度、おぢいさんにきいたんでせう。皆な死ぬ時は、ばたばた、一緒に逝くつて言ひますからね』

私は考へるやうにして、

『僕は随分長く岡田家や、伯母や、伯父のことを見て来てゐるけれど、それを考へると、不思議な気がするね。あの伯父と伯母があの角の家に住んでゐた時分のことを考へると、丸で夢のやうな気がするね。お前もよく知つてゐるね？』

『知つてゐますとも……十歳位の時分によくひとりで、あの新町の通りを通つて行つたもんですよ。伯母さん、今日は？　なんて言つて？　本当に好い伯母さんでしたからね。伯母さん、死んでから、もう何年になるでせう？』

『今年が十三年だよ』

『さうなりますかね、もう――』

かう<ruby><rb>屹驚</rb><rt>びつくり</rt></ruby>するやうに言つて、お時は深く考へに沈んだが、やがて、

『岡田の奥さんなんか、気品の高い、好い奥さんでしたね。あんな奥さんは、もう今では見たくも見られませんね』

『本当だ……あゝいふクラシツクな味のする女の人はもうゐなくなつた……。何の彼のと言つてゐる中にも、時は経つて行つてゐるんだね？　かうして話して行つてゐる中にも――』

『本当ですね』

かう姪は染々した調子で言つた。

私には、若い時分のことがいろいろに思ひ出されて来た。

『もう、船越から出て来て何年になるね？』

曾てこの姪を恋の対照にしたことを思ひ出して私はかう訊ねた。

『もう二十年になりますよ』

『さうなるかな』

『私が二十の時にあそこに行つて、宅で東京の海軍省に勤めることになつて出て来たのは、たしか二十四の時だと思ひますから』

『さうかな、そんなになるかな、もう――』かう言つた私は深く考へずにはゐられなかつた。

『まだ、昨日のやうに思ふがなア――』

『早いもんですね、時は？』

『あの水雷庫の傍に、工場があつて、此方に職工の長屋、それから奥に、水雷に勤める官吏の住宅があつて、その前に、綺麗な吹井があつて、それに、夕日が当つてゐた……そこで、あの時、お前は手桶に水の満ちるのをじつと立つて見てゐたぢやないか……あの時分はまだ若かつたな！』

『本当にあの時は嬉しかつた。遠いところに嫁に来て、さびしくつて仕方がなかつた時、ひよつくり伯父さんがやつて来て下すつたんですもの』かう言つて考へて、『何うしてそれほど深かつた伯父さんが、かう疎々しくなつちやつたんでせうね。十年も十五年も逢はないやうになつて了つたんでせうね』

『…………』

『本当に何うしてさうなつたんでせう？』

『何うしてつて、さうきかれると、ちよつと困るけれども……矢張、深く愛してゐたやうなところがあつたからだらう。深く愛してゐればゐるほど、離れる段になると、遠く離れて了はなければならないからね』

『何うしてでせう！』

『さういふもんだよ。愛といふものは――、普通に考へると、愛すれば愛するほど、その人のためを思ふやうになると言ふものもあるかも知れないけれど、何うもそれは理想だよ』

『さうでせうかねえ、何うも、私にはわからない……？』

『だから、お前にしてもさうだらう。これまでに、私に向つて、｟をぢさんはもう少し何うかして呉れてもよささうなもんだ……｠とか、｟あれほど私を愛してゐた癖に――｠とか不平に思ふだらうが、その不平に思ふ心が、物足らなく思つた心がそれが危なかつたんだよ。今だから、はつきり言へるけれど――』

『何うしてでせう？』

それとわかつて居りながら、わざと解らないやうな表情を姪はした。

『まア、好いやね、そんなことは何うでも――』

『…………』

今度は姪の方で黙つて考へ込んで了つた。姪にも、その船越から、流れ日に、船で二人で、二人きりで、凉しい波の上を横須賀へ渡つて行つたことが、はつきりと思ひ出されて来てゐるらしかつた。

その時のさまははつきりと、今でも私の眼に映つて見えた。私達はその船越の家を出て、小さな峠路を登つた。『渡しは今日は難かしいよ』かうあとから私達に言つた姑のさまが再び心に描かれた。峠の上から見た長浦湾は、さながら鼎の沸くやうに白く大きく波立つてゐた。雨はまだ落ちて来なかつたけれども、鼠色の雲は低く垂れて、遠くの崖の方には、それが今にも波の上に蔽ひかゝらうとした。

兎に角、私達は峠を下りて、磯の近くにある渡船場の方へと行つた。姪はその時、銘仙の派手な縞物に、牡丹色の地に何か大きく花の模様の出た帯をしめてゐた。田舎から出て来て、まだいくらも経つてゐないので、その様子には、何処か田舎娘らしい無邪気さがあつた。

渡船小屋には、五十先きの爺さんが唯一人ゐた。

『さアな……』

かう言つて、その爺は、ぢろぢろと私達二人を見ながら、小屋から出て、荒れしたつた海の方を眺めた。

『大したことはなかんべと思ふけどもな……』

『荒れてはゐるんだね』

『荒れてはゐるが、まだ、さうひどいツて言ふ方でもねえな』かう言つて、また海を眺めてゐたが決心したやうに、

『行つてやんべ』

かう言つて、そのまゝ大きな船をかついで先に立つた。

私達もあとから続いた。

普通に川で使用する伝馬とは余程大きくつくられてあつた伝馬であつたけれども、それでも五六間漕ぎ出すと、かなりにひどく海が荒れてゐることがすぐわかつた。船は波につれて高く<ruby><rb>颺</rb><rt>あが</rt></ruby>つたり低く沈んだりした。時には波が<ruby><rb>船舷</rb><rt>ふなばた</rt></ruby>に当つてさゝらのやうに白く砕けた。

『大丈夫かえ？』

『え、大丈夫……』

かう姪は言つたけれども、それでも顔色は次第に不安を帯びて来た。

『水の方を見てゐると好いよ。さうすると酔はないよ』

『えゝ』

次第に船の動揺の強くなるにつれて、姪はしつかりと<ruby><rb>船縁</rb><rt>ふなべり</rt></ruby>を手で押へたり、恐ろしさうに、または何うにもならない危険を避けるやうに、私の方にその身を寄せて来たりした。

姪にはそれは何うであつたか知らないけれども、尠くとも、私に取つては、人並外れて早く性に目ざめた私に取つては、また人並外づれてロマンチツクな小説や、物語に読み耽つた私に取つては、そのシインは一種おもしろいシインとして眺めずには居られなかつた。恐怖の伴つて来るだけ、それだけその心の光景は誇張され、また緊張されて行つた。

私は昨夜、姪と姪の夫と自分と三人して床を並べて寝た時の感じを再びこゝにくり返した。まだ年が若く、あらゆることを本の上や絵の上ばかりで知つてゐるやうな私は、さういふイリユウジヨンに頼つてその事実を実際にして見るより他為方がなかつた。私は<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆふべ</rt></ruby>碌々眠られなかつたことを思ひ出した。また姪も眠られなかつたと見えて、夜中に、何遍も床の上に起き返つたことを思ひ出した。

不健全な頭に、また凄じい性慾の目覚めに、常に<ruby><rb>脅</rb><rt>おびや</rt></ruby>かされてゐた私は、悲しい失恋者として考へて見ることに非常に興味を持つた。自分がもし本当に、この女の所有者であつたなら、何うであつたらう。その時は、とても、その床を並べての一夜に堪へなかつたであらう。また、かうして二人して家を出た以上、再び家に帰るやうなことはなかつたであらう。かう思ふと、さうして荒れわたつた海を二人で渡つて行くといふことも、非常に似つかはしい、自然のことのやうに思はれて来た。

もし、これで、船が顛覆したら――さうしたら、誰か二人が恋人同士でなかつたことを証明することが出来やう。また誰かその覆没の瞬間に、二人の心に本当の恋がもえて来ないことを証明することが出来やう。近い肉身と言ふ意識が、世にある中は、十分に働いてゐるために、さうした深いところには容易に入つて行くことは出来ないけれども、一度死に臨んだ時は、死を決心した時は――？

『酔ひやしないかね？』

『いゝえ』

『水の上を見てお<ruby><rb>出</rb><rt>い</rt></ruby>でよ……。でも、こんなにひどいとは思はなかつた』

『本当ですね。いつもなら、それは、静かな、何でもないやうなところなんですけれども……』

ちよつと向うを見て、

『まだ、半分も来ませんね』

『さうだね』

『あそこいらは、ひどさうね』

かう言つて姪は波の白く渦きあがつたあたりを指さした。

私には今でもその二人を乗せた小さな船が波濤の重なる中に、<ruby><rb>巴渦</rb><rt>ともゑうづ</rt></ruby>のやうに凄じく波の湧き上る中に、浮きつ、沈みつして漂つてゐるさまを絵か何ぞのやうにはつきりと眼の前に浮べることが出来た。それにしても、もし、そこで、その船が顛覆して、二人が海に沈んだならば、二人が恋人のやうにして死んだならば――。否、さうして死ななくつても、二人がさうしてその波濤の中に浮んだといふことだけでも、それだけでも、そのシインは、二人の一生に取つて、色彩の濃い絵巻として残さるべきものではなかつたか。

さうして私達の船が、危く波の畝の上を漂つてゐる時、その時、海軍の水雷庫を出た一隻のランチは、灰白色をした軽捷な、長い船体を勇ましく波濤の中に見せて、一直線に横須賀の方へと馳つて行くのを私達は目にした。

『あゝいふランチなら、この位の波は、何ともないんですがね』

かう私が言ふと、

『本当ですね』

姪はかう言つて、じつとその早く<ruby><rb>馳</rb><rt>はし</rt></ruby>つて行くランチを見詰めた。

あとできくと、そのランチには、姪の夫が乗つてゐたといふことであつた。その日は軍港に行かなければならない用事が出来たので、かれは役所からそのランチに乗つて行つたといふことであつた。従つて二人が船の中にぽつねんとして坐つて、波のまにまに漂つて行つてゐるさまははつきりと手に取るやうに見えたといふことであつた。それをきいた時には私は不思議な気がした。その時、姪の夫は、少くとも、私に対して、ある嫉妬を持ちはしなかつたであらうか。不安を持ちはしなかつたであらうか。私はまた知らない男女の深い心の底のさまが、歴々と私の眼に現はれて見えて来るのを<ruby><rb>禁</rb><rt>とゞ</rt></ruby>めることが出来なかつた。

私達二人は、その時、横須賀の町に行つて、恋人同士のやうな恰好をして写真を撮つた。未だにそれは私の家の写真箱の中に残つてゐる……。

青年の頃の性の目覚めを、自分の近くにある女性に移して楽しんで見るといふことは、私ばかりではあるまいと思ふ。私達のその時分の若い、張り切つた体の要求ではさうでもしなければ、到底、落附いて生きてゐることは出来なかつたのである。

その帰途であつた。私は船越から峠を通して逗子へと出た。それは曇つた日であつたけれど、それでも雨はまだ落ちて来てゐなかつた。晩春の花の重苦しい空気が、私の胸を堪へ難く圧迫した。

物語や、詩や、恋や、死や、さういふもので、私の体は一杯になつた。別れて来たかの女は何うしても肉身の姪とは思はれなかつた。恋人――それも深く、深く契つた恋人としか思はれなかつた。縁側から長く見送つてゐたかの女の眼に涙が見えてゐたことなども、私の感じをそつちの方へと引張つて行くに十分であつた。いつか私は失恋の悲しい物語の中の主人公になつてゐた。

私はいろいろに姪の生活を想像した。殊に夜の床のことが私を堪へ難くした。肉身といふ世間的約束があるがために、いかに互ひに深く思ひ合つたにしても、またいかに互ひに心と心とを合せたにしても………………………………………………私を深い絶望の淵に陥いれた。

逗子の停車場に来た時には、私は全く喪心した青年であつた。

今でも私はキヤラコの黒の羽織を着た、髪の毛を長くのばした、蒼白い顔をした、私の姿を其処に発見することが出来た。改札口を入つたプラツトフオームの大きな時計の下に、ぼんやりと、あたりを見るでもなく、また見ぬでもなくじつと腰を掛けてゐる自分を見ることが出来た。思ふに、その時などは、私の生活の中で、一番心の暗い時であつたらう。まごまごすれば――一歩誤つて方角をそつちの方に運んで行けば、翌日は波の打寄せた岸に屍となつて横はつて居たかも知れなかつたから……。

汽車は来た。

私はぼんやりしたまゝそれに乗つた。暫くして気が附いた時には、私は三等室の暗い一隅に、頭を窓に押しつけたまゝじつとしてゐるのを発見した。鎌倉はいつか通り過ぎた。

その時、大船で事故があつて、汽車は一時間ほど停車した。もう夕暮であつた。曇つた空の西の方は一ところどんよりとした、わる赤い夕日に彩られて、それが、何とも言はれない濁つたわびしい心持を私に誘つた。それは死を私に聯想させると共に、濁つた私の恋と私の体をめぐる血とを聯想させた。そのまゝ頭を窓に打ちつけて死んで了ひたいやうな気がした。

暫くした。と、今度は無闇に悲しくなつて来た。涙があとからあとへと出て来た。ひとり手に両方の頬が濡れるほど出て来た。それにも拘らず、私はそれを拭かうともしなかつた。唯、出るのに任せた。後には私は<ruby><rb>欷歔</rb><rt>すゝりあ</rt></ruby>げた。

私の周囲には何もなかつた。仮令あつたにしても、その涙に<ruby><rb>碍</rb><rt>さゝ</rt></ruby>へられて、何も見えなかつたに相違なかつた。汽車が程ヶ谷近く来ても、まだ涙が流れ流れしてゐた。

それよりも少し前であつたか、それとも後であつたか、私は長い、長い小説を書いた。それは『山のかげ』といふ題であつた。

無論、私はそこに姪を書いた。姪と自分との同居生活を書いた。しかも、それはさびしいさびしい山のかげで――。

私は恋愛でない愛をそこに披瀝しやうとした。つとめて、さういふ問題から避けた恋ならぬ恋を展開させやうとした。その結果、私も孤独になれば、姪も孤独になつた。従つて二つの孤独な心が、そのさびしい山のかげの小さな家に一緒にゐるやうな形にひとり手になつて行つた。

それでも私はその孤独と孤独との間に熱した恋の起つて来ることを書かうとはしなかつた。それほど私は世間の道徳を恐れた。私はあべこべに、姪が私の友達をひそかに恋するやうになつて行くことを書いた。

｟何うして姪とは夫婦になれないのだらう。何うしてわるいのだらう｠こんなことを私は度々考へた。

無論、その長篇は、完結せずに、中途で筆を捨てゝ了つた。

『さうですかね。愛すると、却つて、さういふ風に離れて了ふもんですかね』

今だに私がさうした昔の印象をはつきりと抱いてゐるとは知らない姪は、かう言つてじつと私の方を見詰めた。

『…………』

私は黙つてゐた。

『でも、そんなことを言はずに、昔のやうにして下さい……。私も、これから、ちよいちよいあがるやうにしますから……』

『子供も九分通り育て上げたからね！』

『さういふわけでもないですけれども……』

『近くなつたら、ちよいちよい来る方が好い』

姪は考へるやうにして、『でも昔のやうにやさしいをぢさんにはもうとてもなれさうにも思はれませんね』

『さうかね』

『何うも、さうらしい』

かう言つて姪は笑つた。

『田舎には、もう、あれつきり、行つたことはないかえ？』

暫くしてから私はかう訊いて見た。

『Ｔ町ですか？』

『さうさ』

『行つたことはありませんとも……。さう言へば、もう、随分、昔になりますね。私が物心ついてから、本当にをぢさんといふものを知つたのは、あの町でしたね』

『白河から汽車が出来て、今ぢやもうわけなく行けるね？』

『をぢさん、いらしつて？』

『行かうと思つてゐるがね、まだ行つて見ない。昔の跡を、喜劇のあとを見たいと思つて――』

『Ｙのこと？』

『さうさ……。滑稽だからね、考へると、あそこに養子の見合に、わざわざ出かけて行つたんだからな……。そして、見事に不合格だつたんだからな』

『不合格つていふわけでもなかつたんでせうけども……でも、あんなところに養子になつて行くよりも、かうして独立していらしつた方が、何んなに好かつたか知れませんのね。あそこに行つたら、こんなにをぢさんはなれなかつたかも知れないもの……』

『でも、のんきで好いね、田舎の神主か何かになつた方が――』

『そんなことはないですよ』

かう言つて姪は笑つた。

『軍人上りの男か何かがあの娘の養子になつてね？』

『さうですかしら？　私、ちつとも知らないんです――』

『あの時分は、お前もまだ若かつたからな。娘だつたからな――。何うだね？　あの自分の考と比べて、世の中は何うだつたね？　面白かつたかね？　それとも辛かつたかね？』

『面白くもあり、辛くもありましたね。振返つて考へて見ると、よくも通つて来たと思はれるやうなこともありますね。夢中で此処までやつて来たやうなものですね』

『それはさうだらうな……。しかし、お前なんかまだ好い方なんだ。楽な方なんだ。何故ツて、あゝした夫に保護されて物質では不足なことがあつても、心では何の不足もなしに、かうして大勢子供を生んで、育てゝ来たんだから……』

『さうですかしら？』

『さうとも……大に、さうした夫に感謝しなくつてはならないよ。男女の苦しみなんて言ふものにぶつつかつたことがないんだから……。地道にやつて来ることが出来たんだから』

『何うしてでせう？』

『何うしてツて……。別に意味はないけどもね。辛いことはあるからね。世の中には――。我々の心の中には――』

『さうですかね』

姪は再び意味ありさうに、私の顔を見詰めた。

私には私の通つて来た恋の絵が、一つ一つはつきりと私の眼の前に浮び上つてきたやうな気がした。｟矢張この姪もその絵巻の一つだつたのだ｠かう私は心の中に独語した。私はじつと姪の顔を見た。