Soranoha

月の隅田川

つきのすみだがわ

大町 桂月

荒川堤へとて、川蒸氣に乘りて、隅田川を溯る。つれは福田瑞村なり。われ此の川蒸氣にて隅田川を上下せしこと幾回なるを知らざるが、今瑞村と共とするにつれて、十年の昔の漫ろに偲ばるるかな。

われに中村香峰といふ友ありき。その香峰は、瑞村と友なり。されど瑞村と余とは香峰を介して人物性行を傳聞せしのみにて、未だ相識らざりしなり。

香峰は好男子にして、多情多恨の才子なり。端艇の選手にて、常に墨陀に遊びけるが、その粹な角帽姿は、墨陀の教坊を動かしぬ。名たゝる美人に思はれて契りかはしけるが、いよ〱卒業の曉に到れば、浮世の風は二人につらし。美人の親は香峰の貧なるを嫌ひ、香峰の親は美人の素性の賤しきを嫌ひて、良縁あはや破れむとす。瑞村は侠骨と金とを以てし、余は貧なるまゝに、たゞ舌を以てして、彼此の間に周旋して、事やうやく〔「纏」の「广」に代えて「厂」〕まりぬ。而して瑞村と余とは、未だ相逢ふの期なかりしなり。

都の殘暑をよそにせる水郷の別世界に、香峰は瑞村と余とを呼ぶ。勞を謝せむとするなり。兼て未見の知己なる端村「端村」はママと余とを相逢はせむとするなり。溶々たる隅田川の流れ、櫻の葉越しに見えて、樓上風いとすゞし。はじめて瑞村と相逢ふ。互に胸襟を開きて、謂はゆる一見舊知の如し。三人とも娯樂は碁に於て相一致す。負けのきにて碁を鬪はす。いつもの間にやら、杯盤既に運ばれて、例の美人しきりに酒を侑む。日暮れて、興ます〱酣なり。仰いで明月を見る。此の如きの良夜は得易からず。舟をうかべて夜と共に語りあかさずやと云へば、二人踴躍して應ず。ひとり美人のみは、舟が嫌ひなりとて應ぜず。東坡の赤壁の遊びにも、美人は無かりしやうなり。酒と月とあれば十分なりと、早くあきらめしが、妹は舟に醉はず、侍らせむといふ。妹化粧して來たる。その美、姊にゆづらず。老いたる舟子一人にて舟を漕ぐ。上流に溯る。月は白く、風は清し。四面蒼茫として、往きかふ舟も無し。櫓の聲、舟の水を切る音、天地の寂寞を破りて、美人の顏のみぞ光る。さしつさゝれつ、ます〱醉へり。

荒川と綾瀬川と相合する處、蘆荻しげれり。舟をその蘆荻の中にとゞめ、舟夫をも呼びて、杯をめぐらす。美人、十七八。下ぶくれの愛くるしき顏なり。月下に酌する手、雪より白し。われには既に妻あり。瑞村には未だ無し。月下の氷人とならむかと云へば、赤らめたる顏を袖にうづむ。青々たる蘆荻は、自然の屏風、四顧たゞ月を見る。凉風醉面を吹いて、快言ふべからず。且つ飮み且つ語り、興酣にして、惜しや一樽の酒既に盡きたり。

香峰の家に歸りて、また飮む。いつの間にか醉倒しけむ。曉にいたりて、漸く醒む。瑞村はと問へば、昨夜歸りたり。明日の午後は、ひまなり、今日の碁の復讐をなさむとす、俗塵を離れたる上野の茶亭に會合したし、傳語してくれよとの事なりといふ。われ碁を好むこと、食色よりも甚し。されば大に鋭氣を養ひおかむとて、また眠る。さむれば、午を過ぎたり。香峰と共に往く。瑞村既に在り。碁を圍みて晩に至る。瑞村、晩食しにゆかずやといふまゝに、諾してゆけば、われを不忍池畔の一酒樓に導きぬ。酒到る。大小妓數名來たる。あゝわれ圖られたり。昨夜舟中の費用は、われこれを辨じけるが、江戸兒氣の瑞村、そのまゝにしては置かれず、言を余の好める圍碁に託して、余を此の酒樓に誘ひ出したるなり。

十年の歳月は、夢の如くに過ぎぬ。瑞村と相逢ふことも稀なりしが、此頃同じく大久保村に住めるを以て、朝夕相往來す。今日この行を共にし、舟中より墨堤を指點して、感いとゞ切なり。當年舟を止めし處、舊に依りて蘆荻はや芽を吐きたり。あゝ山水は移らずして、人事は非なり。われ逝く水に對して、覺えず涙を墮す。悲しいかな、香峰は才子多病の喩へに洩れずして、其の後間もなく病みて逝きぬ。知らず、墨陀の二嬌、今在りや無しや。(明治四十四年)

底本 / Source edition

底本:「桂月全集 第一卷 美文韻文」興文社内桂月全集刊行會
1922(大正11)年5月28日発行
入力:H.YAM
校正:門田裕志、小林繁雄
2009年1月13日作成
2011年3月23日修正
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書誌 / Bibliography
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大町 桂月「月の隅田川」(旧字旧仮名)、底本『桂月全集 第一卷 美文韻文』興文社内桂月全集刊行會、1922年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 048677_000237, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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